両切りの煙草には、ちょっとしたコツが必要なのだ。
フィルターがないため、吸うときに気をつけなければ煙草の葉が口の中に入ってしまう。
その点、木冬かがみは手馴れていた。缶の開け方、そして紫煙のくゆらし方まで。
「平和……か」
かがみは開封したばかりの缶を気だるげに眺めながら、ゆっくりと煙を吐き出す。
そういえば、最後に会話らしい会話をしたのはいつのことだっただろう。
「お弁当は温めますか」
「お箸はお付けしますか」
「温かいものと袋はおわけしますか」
こんな会話ではなく、木冬かがみらしい、木冬かがみにしかできない会話を……。
今となっては、それすらも思い出せない。いや、思い出したくもない。
現在のかがみは、世界にとって存在しないも同じなのだ。
確かに、コンビニへ行けば客として認識されるだろう。しかしそれは一般名詞としての「客」の意味を出ることはない。
だが、このこともかがみにとってはどうでもいいことだった。
誰にも知られずひっそりと生活を送る。今はこれこそが、かがみにとって最も望むことになっている。
かがみはアルミ製の安い灰皿の上で軽く煙草を叩くと、届いたばかりの封筒にペーパーナイフを入れた。
茶色の事務封筒は薄く、開けるまでもなく中身の想像はつく。
今回も不採用通知だ。
事実、数枚の紙を取り出してみると、「今回は残念ながら」と無機質にタイプされたA4の用紙が確認できた。
しかしかがみの心は躍っていた。
机の引き出しを開け、すでに開封されている十数枚の封筒の上に新しく重ねると、台所に置いてあるだるまをグラスに注いだ。
これがかがみの祝杯。社会性を否定された、まだ社会に出なくてもいい喜びの。
都内にある大学へ通うのには不便だからと一人暮らしを始めたのは、2年生の頃からだ。
思えば、あの頃のかがみはまだ明るかった。
高校生の頃からの親友もいたし、大学へ入ってからの友人も、大勢とはいかないまでも、心を許せる人がいたのだ。
しかし、全てはあの引越しが波紋となった。
道路には木蓮が咲くあの3月も下旬が……。
2年前の3月。
かがみは一人暮らしを始めた。
引越しの手伝いには大学の友人も駆けつけてくれたし、記念パーティーも開いてくれた、もっとも内実は単なる内輪の飲み会であったが。
それでもこうして過ごす時間は楽しかったことには違いない。
そしてある4月の午後。ドアフォンが鳴った
女の子の一人暮らしは何かと物騒だからと、両親がアイフォンをつけてくれたのだ。
それで外の様子を確認すると、こなたであった。
「おっす、こなたじゃん。久しぶり」
かがみはまさに胸襟を開くかのごとくに扉を開き、親しい友人を招き入れた。
「やっ、かがみん久しぶりだね」
と、こなたもそれに応え、あの頃とかわらない笑顔を向ける。
「はい、これ引越し祝いだよ」
こなたは玄関先で、ラッピングされた包みを手渡す。
「おっ、わざわざ悪いね。サンキュー。まあ上がってよ」
しかしこなたは、すぐにでもその中身をかがみに見て欲しいらしく、
「いいから開けてみてよ」
とかがみを急かす。
かがみは懐かしさと僅かな不安を覚えながら包みを開いた。
「……うわっ……」
「超監督腕章! かがみんに似合うと思って」
「……相変わらずだな、おまえ……」
「本当は引越しの前に渡したかったんだけど、私も忙しくってさ」
「ほー、さながら私は鬼監督ですか」
「こわっ! 引越しのときに来なくてよかったよ」
こなたには悪びれる様子もない。そしてかがみもそんなかわらぬ友人の姿に嬉しさを覚えていた。
それからも、こなたは度々かがみのもとを訪れた。
もっとも、高校を卒業してからも時々実家には遊びに来ていたのだから何の違和感もない。
こなたは来るたびにアニメイトやゲーマーズの袋を大量に抱え、「いやぁ、かがみんちはアキバに行くのに便利なんだよね」
などと言っていたが、かがみの家は新宿なので秋葉原とは別方向だ。
それに対してかがみも、口と表情には迷惑そうなものを浮かべはするものの、内心は吝かではなかった。
そんなある日、
「今度の夏休み、かがみんちに集まらない? あたしももうすぐ就職活動をしなきゃいけないからさ、つかさやみゆきさんも思い出作りをしようよ」
と、こなたには違和感のある言葉を含む提案をしてきた。
「はっ? 今あんた何て言った?」
普段のこなたからは想像もできない「就職活動」などという言葉が発せられたのだから、かがみの驚きは相当なものである。
「む……。今かがみん何か失礼なこと考えたでしょう? あたしだってちゃんと考えてるよ、自分の将来のこと」
同じ「ちゃんと考えてるよ」という台詞なのに、あの夏休みの宿題の頃とは全く違った響きを持ち、
専門学校へと進んだこなたはもうすぐ社会に出ようとしている時の流れに、かがみはふっとした寂しさを感じずにはいられなかった。
私たちも、いつまでもあの頃のままではいられないのだ、かがみはそう思いながらも、
「よし、パーッとやりますか」
と明るく承諾した。
こなたはこなたで、「かがみんもあの頃とは変わったねぇ」と言って、あの文化祭前のバスの中での会話を思い出したのか、
「え……? いいの?」
と背中に天使の翼をはやしながら、かがみをからかった。
8月17日。こなたの提案の日である。
こなたは例年のごとくコミケに参加するらしくまだ来ていないが、つかさとみゆきはすでにそろっていた。
本当はかがみ達も買出し要員として誘われたのだが、断ったのだ。
「こなたさん、遅いですね」
みゆきが壊れた目覚まし時計を見ながらつぶやく。
「そうだね、こなちゃん遅いね」
つかさも九時をさす時計を見ながらそう言った。
「ったく、こなたのやつ、相変わらず時間にルーズなんだから」
かがみは携帯電話を手にし、こなたに電話をかける。
しかし、いくら呼び出してみても携帯に出ない。
「全く、何してるのよ」
かがみは苛立ちながらも、もう一度携帯を鳴らした。
「……もしもし……」
「あっ、やっとつながった」
だが、どうやら様子がおかしい。こなたの携帯にかけてくいるはずなのに「……もしもし……」と言う声は、どう聞いても男性のものなのだ。
「かがみちゃんか……?」
聞き覚えのある声だ。かがみは頭に浮かんだ不吉な想像をかき消すように首を振ると、
「はい、木冬です……」
と、その声の主に伝えた。
「……実は……こなたが……」
……かがみはその電話が切れた後も、携帯を握り締めたまま呆然と立ち尽くすしかなかった。
「……どうしたの? お姉ちゃん?」
「かがみさん……?」
二人の呼びかけが頭の中でこだました。
気がついたら、かがみは見知らぬ病院の廊下に立っていた。
そうじろうからの電話で、こなたが交通事故に遭い、意識不明の重態で病院に搬送されたことを知った。
三人は急いでタクシーをつかまえ病院にかけつけたが、ついた頃にはこなたはこと切れていた。
かがみは今までに見たこともないほど取り乱し、
「ねぇ、みゆき、あんた医者になるんでしょう!? だったらこなたを助けてよ! ねぇ、お願いだから……!」
と、叫びながらみゆきに縋りついたかと思えば。執刀した医師に、
「あんたちゃんとこなたを見たの!? こなたが死ぬわけないじゃない! こなたぁ……!」
と、殴りかかった。
「もういいんだ、もういいんだ……。ありがと、かがみちゃん、ありがとう……。こなたはいい友達を持った。本当にありがとう……」
そう一番つらいはずのそうじろうにたしなめられたが、かがみはそれでもまだ泣き止まなかった……。
それからと言うもの、かがみは一切の感情をおもてに出さなくなった。
こなたの葬儀でも、つかさやみゆきは涙を見せたが、かがみはまるで能面でも 張り付けたような無表情。
大学の友人も、最初のうちは親友をなくしてつらいのだろうと心配していたが、何を話しかけてもまともな返答をしないかがみから、しだいに離れていった。
もちろん、つかさやみゆきはそんなかがみの様子を心配していたが、あのことを思い出したくないからと言って、一切連絡を取ることもなくなっていた。
こうしてかがみは一人になった。
こなたはどうして死んだのだろう……。
かがみはそればかり考えていた。
こなたは何も悪いことはしなかった。せいぜい十八歳未満なのにアダルトゲームをやっていたことぐらいだ。
しかしそれならもっともっと悪人はいる。なのにどうして奴らは生きていて、こなたは死んだのだろうか。
もしあの時一緒にコミケに行っていれば。もしあの時こなたの誘いを断っていれば。
そんな思いが浮かんでは消え、浮かんでは消え……。
次第にかがみは目標でもあった、司法試験のことなどどうでもよくなっていた。
司法試験だけではない、世間の人々が大事だと思うような出来事はかがみにとってどうでもいいことだった。
ひたすらに周囲を、そして何より過去の自分を恨んだ。悔やんだ。嘆いた。責め立てた。
街を歩けば、恋人は肩を寄せ合い、女子高生は文化祭の話をしている。
どうしてこいつらは、こなたが死んだというのに楽しげなのだろうか。悲しくないのだろうか。
もちろんかがみにも、これが自分勝手な思いだとわかっている。
かがみだって、知らない誰かが死んだからといって悲しみを覚えたりはしなかったのだ。
それでもかがみは世間を呪った。自分自身を呪った。
社会は不条理で、冷たい。
この思いだけがかがみの心の奥底に沈殿し、ますます世間とは隔絶していった。
大学も4年の夏を迎え、机の引き出しからもいい加減不採用通知があふれ出した頃。
かがみは条例違反だと知りながらも、ピースを口にくわえ近くのコンビニに買い物へ出かけた。
残り少なくなった缶入りの煙草を思い出しながら、財布の中身を確認した。
いや、財布の中身など見るまでもなく、いくら入っているのかは事前に確認してから家を出たのだ。
ただ、前からにぎやかな高校生の一団が歩いて来るのが見えたので目を伏せたかっただけだ。今のかがみにとって、彼女らは眩しすぎる。
「ほら、キョ……、私の言ったとおりになったでしょう! み……ちゃんも古……くんも撮影時間は短いんだからさっさと用意しなさい!」
その一団を率いる少女はよく通る声で、まるで世界は自分を中心に回っているかのような自信すらも思わせるようにそう言うのがかがみにも聞こえた。
かがみは憂鬱になり、彼女らとすれ違う時にも、できるだけ見ないようにうつむきながら歩いた。
「あっ……!」
かがみが一瞬ふっと顔を上げた瞬間、少女の腕に見覚えのある腕章が下げられていたのが見えた。
今は引き出しの奥で、封筒の下敷きになっているあの腕章が。
「鬼監督……か」
かがみはそうつぶやくと、あの春のことを思い出し笑った。
ああ、最後に笑ったのはいつだっただろう。
かがみはそう言うとくわえていた煙草を口からはなし、青く澄み渡った空を仰いだ。
季節はずれの白い木蓮が、まるでかがみの頬を優しくなでるようにその花弁を落とす。
「やっぱりかがみんはこうでなくっちゃ」
と、耳慣れた声が聞こえた気がした。
「さて、六法でも買いに行きますか!」
かがみの足取りは軽くなっていた。
【完】
最終更新:2008年11月08日 20:28