811 :クズ ◆MUB36kYJUE:2014/07/06(日) 21:07:25 ID:WPQREMKw
一章
1
煌びやかなオレンジの眼光が、舐めるように空を仰ぐ。その先、雲の白壁の向こうからサイレンの如き音が鳴る。
察知は同時。深海棲艦隊は、まるで息を合わせたかのように、一斉に駆動を開始した。
空母ヲ級を、残り五隻の船が取り囲むように移動する。足早な重巡が転回しヲ級の後方に張り付いて、ル級戦艦は正面に立つ。その
機敏な陣展開は、まさに熟練の妙技と呼ぶに相応しい。
カレー洋東方主力艦隊。数多ある深海棲艦隊の中、古参にして最強の一角。その旗艦を努めるヲ級の航行は、まるで茶会にでも赴く
かのような優雅さを纏う。戦闘準備下のその余裕は、見た者悉くに畏怖を覚えさせるものであった。
数多の艦娘を屠りさったその矜持。この海域の覇者として君臨し続けたという気位こそが、この艦隊の牢固たる強さの源泉だった。
今、金城鉄壁たるを更に強化せんと、哀れにも羽虫が灯に迫る。
しかし、手を抜くつもりはない。愚行なれど勇敢なその意気は、それだけで充分に賞賛足り得るものであった。故に、例え相手がい
かに弱卒であっても常に全力で相手になる。それがこの艦隊の数少ない流儀であるのだった。
各艦各砲塔がまるで独立した生き物かのように動き出し、一様に雲間の向こうへと照準を向ける。速度を維持し間隔を維持し、しか
し意識は徐々に増大するプロペラの風切り音に集中していた。
輪形陣の中心で、ヲ級は青白い口角を吊り上げた。戦闘の愉悦が、久方ぶりの興奮を連れて空高くから舞い戻ってきたのだ。黒金色
の格納庫から白煙が昇り、その狭間から艦載機が出撃する。立ち上る煙を裂いてそれらは空高くに舞い上がり、数多の赤い光芒を空中
に刻み付けていた。
やがて雲をエアインテークに巻き込みながら、無数の艦爆艦攻、戦闘機が頭上に姿を現した。ヲ級艦載機を見つけるや、敵方の零戦
は急激に降下を開始。脅威の全てを撃ち落さんと、軍団に向かい突進する。それを正面に見据え、ヲ級艦載機も戦闘機動を開始した。
腹の底に響くような機銃の音が十重二十重と折り連なって、空一帯を多い尽くしたようだった。
フリントホイールの回されたジッポーのように、突如火の粉を噴出して墜落してゆく戦闘機。尾を伸ばす黒煙が無数の筋となり、群
青と白の彩を穢していく。その間を器用に縫いながら、彼の飛行機たちは翼を翻して踊り続ける。
空での戦いが勃発した頃、海面でも今まさに、砲火の交わりが始まらんとしていた。
視認された六隻の艦。うち旗艦の空母は始めて見る形のものであった。小柄な体躯に見たこともない武装を施し、悠然と艦隊の先頭
を航行する。その双眸、愛らしい童顔がもったいないと思えるほど、険しくこちらを睨みつけていた。
十一時半の方向、速度を維持し彼の艦隊は直進してくる。恐らくは、反航戦を仕掛ける算段であるらしい。
当然、深海棲艦隊とて速度、航路共に変えず。猛る闘争心に身を任せ、正面から迎え撃つ体勢をとった。
単縦陣。その意気やよし。
対空火器はそのままに、主砲副砲を正面へと向けた。射程に彼女らが入ってもしかしすぐには発砲せず、より命中するように、より
被害を与えられるように、目を眇め限界まで近づいてゆく。興奮や恐怖、トリッガーに掛かる指の衝動や緊張。それらから耐えに耐え
忍びに忍び、訪れる筈の時を待つ。
無限とも思える時間の果て、しかし彼我の距離は着実に詰まる。両者の交錯する視線は、敵味方の区別なく同じ色を湛えていた。
即ち、それは焦燥。逸る思いは頂に登り詰め、とうとう好機が到来した。
ヲ級は異形の白い腕を、ゆったりと高く持ち上げた。弾着観測後の修正時間を鑑み、ここがまさしく限界点。今まさに手を振り下ろ
し、一斉射の号令を下さんとした矢先、だがここで敵方に意外な動きがあった。
812 :クズ ◆MUB36kYJUE:2014/07/06(日) 21:08:14 ID:WPQREMKw
あろう事に、敵旗艦の新型空母はおよそ百六十度急速回頭。艦隊全体の動きを止めたのだった。
恐れを為したか、最悪手としか思えない行動を見、ヲ級は憫笑を漏らさずにはいられなかった。こうも情けない姿を見せられると、
骨がありそうだと意気込んだことに羞恥の沸く思いである。
抱いた失意の憂さ晴らしをすべく投げやりに斉射命令を出そうとして、だが突如彼女の脳内には一つの懸念が浮かび上がった。もし
かしたらと思わずにはいられないその脅威は、状況を客観視するととますます現実味を帯びてくる。
ヲ級の下した判断は、一見すると用心に過ぎるかもしれないものであった。だが、果たしてそれは賢明でもあったのだ。
東郷ターン。その名を知らぬほど軍事に疎いヲ級ではない。敵は日露戦争、日本海海戦におけるあの奇策を、今この場で再現しよう
としたのである。
一見無謀なこの回頭は、しかしその実こちらを誘い込む周到な罠である。旗艦に砲火を集中している間に、状況は丁字不利へと変遷
する。肉を切らせて骨を断つ、その真髄を見せんとする幻惑の戦術だ。
ヲ級が察知できたのは、敵新型空母の特徴的な艤装からであった。彼奴の左舷、艦載機マグの格納庫を兼ねた飛行甲板は通常のそれ
とは違っていた。その厚み、なにより特徴的なハリケーンバウ。兼ねてより噂の流れていた装甲空母に相違ない。
この策は旗艦の防御力にその成否が掛かっている。陣の先頭を切るに、まさしく彼女が相応しかった。
策を看破したヲ級は、素早く自身の隊の陣形を組み直した。輪形陣から単縦陣へ。二時の方向へ回頭しながらの滑らかな展開である。
敵の戦術が看破された今、丁字になる恐れは完全に消え去った。なれば来たるるべきは同航戦。より早く戦闘準備を整えた方が、こ
の海戦に勝利するのだ。
懸命の陣再展開に、しかし一片の焦りもありはしなかった。舞踏の名手は、どれだけ性急な拍子においても決して動きを崩したりは
しない。それと同じ事である。
狂いの無い一直線の陣が完成すると、ヲ級の橙の瞳はすかさずに敵方に向けられた。果たして戦の女神は、尚天秤を揺るがさない。
彼の空母との視線の交錯が、心拍を跳ね上げさせた。その眼から察するに、胸中の意図は自身のそれとまったく同じ。そして号令が下
されるも、まったく同時であった。砲打撃戦、その火砲の交わりが今この時より始まった。
次々と繰り出される砲弾が、互いの袂に殺到した。無数の水柱が湧き上がり、空間一帯には突如として霧の幕が現出する。それが視
界を阻もうと、攻撃の手は緩めない。観測、そして誤差修正。砲弾は徐々に着実に、目標にひたひたと近づいてゆく。
火炎の残滓が空間の霧を真っ赤に染め上げた。花が咲いては散る。そんな優美ささえ感じられる朱の明滅である。響く轟音に空気は
痺れ、衝撃波が海面を真白く泡立たせた。
互いの砲撃により、互いが消耗してゆく。じわじわと膾にされるかのような砲戦であった。活路は見えず、ただただ無闇に損傷が増
えてゆく。だが、飛び散る破片の中、ヲ級の口元には悦楽の笑みがあった。
今までに無い、拮抗した実力を持つ敵艦。まさに彼女らは、好敵手と呼ぶべき存在であった。恐怖と歓喜との交錯によって、最高の
緊張が練り上げられる。火炎がその身を舐めるとヲ級は痛みより先、絶頂の恍惚に体を震わせた。
後方、重巡リ級がとうとう機関を爆発させた。前方、敵戦艦が左舷艤装を吹き飛ばされた。そんな様子に視線を廻らし、抱くのは更
なる戦果への渇望であった。目の前の敵は、必ず、潰す。憎悪と呼ぶには清らかで、歎称するには妬ましい。そんな激情がどろどろと
腹の底へ溜まっていった。
それからどれほど経ったか。転機は不意に訪れた。
遥か頭上ジュラルミンの屑と化した艦載機が、敵艦隊の進行方向に墜落した。予期せぬ突然の衝撃に、旗艦の空母はたまらず停止す
る。極一瞬生じた隙を、果たして逃す事はしない。
ル級戦艦の砲弾が、一斉に敵新型空母に襲い掛かった。あわや、ステップを踏むように彼女はその弾幕を掻い潜り、しかしそれで終
わりではなかった。
813 :クズ ◆MUB36kYJUE:2014/07/06(日) 21:09:38 ID:WPQREMKw
避けられた砲弾は海面に着弾すると、大きな水飛沫を巻き上げた。そのどれもが明確な攻撃性を持ったように、空母の頭上に降りか
かる。
覆われた視界。巡った好機にヲ級はすかさず追撃する。幾つかの艦載機が彼女の意を汲み取ると、一斉に急降下を開始した。目標は、
今まさに体勢の乱れた敵空母。その頭上めがけ、腹に抱えた爆弾を一斉投下する。
大規模な水柱、いや柱と言うに、その形は余りに巨大で歪。塊と呼ぶ他ない、そんな飛沫が彼の空母を原点に盛大に立ち上った。
必殺の一撃に手応えはあった。着弾の寸前、垣間見た彼女の体勢は余りにバランスを欠いていた。片足を海面から離し、充分な速度も
出ていなかった彼女が、この攻撃を避けられたとは思えない。
飛沫が収まる。そこにあるは残骸か、いや形さえ残らなかったのか。ヲ級は目を見開いて、その波の随に漂うはずの何かを捜し始め
た。
窮まった進退。だが突然に、それは起こった。
水霧のカーテンの狭間、一つの白銀が瞬き煌く。その光は瞬間膨張し、ヲ級の視界を目一杯に覆った。混乱の中、しかし電源が落と
されたかのようにその思考は瞬く間に消失する。
ヲ級は光の正体に気が付く暇なく、果てはあの空母の様相を確認することもなく、気が付けば、あっさりと絶命していた。
ル級戦艦は艦隊の旗艦が轟沈するを、視界の隅で捕らえていた。彼女の頭部を焼いたその爆風。しかし元凶は、それが何であるのか、
どこにあるのかさえ分からない。
ル級は見る。目を見開き、その正体を確認しようとする。沈んだはずの、木っ端微塵に破裂したはずの、あの空母を認めんとした。
だが、そんな彼女を嘲笑うかのように、正体不明の煌きが再び艦隊に牙を剥いた。旗艦喪失の混乱の中、一隻また一隻と沈められて
ゆく仲間達。そしてル級は絶望と恐怖の渦中において、遂にその姿を垣間見た。
あの空母は健在だった。右手に持ったクロスボウが火花を咲かせ、双眸は冷酷に的を睨む。左舷の装甲甲板が焦げ付いている以外、
まったく外傷は見当たらない。
半ば恐慌状態で、ル級は全火砲を彼女に向けて発射した。弾は我武者羅に繰り出され、発砲音は止め処なく空気を振るわせ続けてい
る。飛沫が再び彼女を覆い隠し、尚その水壁は増大し続けた。
だが恐怖に凝ったル級の視線には、その姿が映っていたのかもしれなかった。死神の似姿、その佇立した影を、何万リットルもの海
水の向こうに捕らえていたのか。
突如、水壁に穴が開く。飛沫の尾を引きながら、彼女は旋転して舞い上がった。クロスボウの照準、その先が自身の頭部のすぐ横だ
と察すと、途端謎は解きほぐれた。
彼女が行ったのは、艦爆の直接照準爆撃。本来ならば、敵に向かって艦載機を発進させるのは愚行の極み、恥ずべき真似である。そ
れは照準を付け、構え、発射された時点でその艦載機の向かう先は敵に容易に予測されるからだった。七面鳥を撃つより、哀れな親に
操舵された艦爆を打ち落とす事のほうが遥かに容易なのである。
だが、あの新型空母は飛沫の霧の中にいた。ましてや誰もが轟沈したと思った中、奇襲のように艦爆を繰り出していたのである。当然
察知は遅れ、果てはその航空機の姿さえ見つけられなかったのだ。耳のすぐ横を風切り音が過ぎ去ると、後に待つのは避け様のない死
だけである。
艦載機操縦者の、最早狂気とさえ形容できる絶対の信頼。そして圧倒的錬度。ル級は長大化した意識の中、他人事のようにその音を
聞いていた。耳元を颯爽と過ぎ去る、風の音。
諦観の境地、武人として求め続けた明鏡止水。皮肉なことに、それを会得したのは事切れる寸前の事であった。
僅か数瞬の間、勝敗は呆気なく決した。
呆然と見守る仲間達の視線に、大鳳は遅れて気が付いた。あの爆弾投下を自慢の装甲で往なした後、気が付けば全てを撃滅せんと、
身体が勝手に動いていた。意識の外、まるで右手のクロスボウが勝手に戦闘したかのようでもある。自身の危機のその先に、果たして
絶技が成ったらしかった。
814 :クズ ◆MUB36kYJUE:2014/07/06(日) 21:11:23 ID:WPQREMKw
「だい、じょうぶ?」
すぐ隣、祥鳳が呟くようにそう聞いた。目を見開き、何が起こったか理解が追いついていないのか未だ弓は引き絞ったままであった。
「ええ。大丈夫、だった、みたいだわ」
大鳳自身混乱はあったが、それでも微笑み、何とかそれだけ返すことができた。
勝利の認識には間があった。時の止まってしまったような一息の後、気まずい空気を打ち壊す、姦しい歓声が木霊する。先ほどまで
の張り詰めた緊張が、途端たち消えになってしまった。
艦娘達は大鳳の周りに殺到すると、それぞれがそれぞれに勝手に褒め湛え始めた。喝采を惜しみなく浴びせると、大鳳は照れくさそ
うに謙遜し、それが更なる賞賛を呼び起こすのだった。すっかりこの艦隊にも馴染んだ彼女の、大規模海戦の勝利である。その声は何
時までも、鳴り止むことはなかった。
鎮守府に電信を送った後、この戦果を報告せんと彼女達は嬉々として帰路についた。何時もより気持ち駆け足で、日に赤く染まる海
を行進する。凱旋しているかのような、そんな誇らしさが大鳳の胸には芽生えていた。
昼間の茹だる様な暑さは、何時の間にやら和らいでいた。海風は夏特有の湿った空気を含み、それが皮膚を舐めるように通り過ぎる
と途端背筋が鳥肌立った。焼けた鉄板の如く熱を発していた艦装も、既にひんやりと冷たくなっている。
やがて地平線の向こうに薄ら鎮守府の影が現れた頃、祥鳳が不意に声を掛けてきた。
「ねぇ。最近、提督は元気にしている?」
逸らされている瞳は俄かに揺らぎ、その表情には悲しみと官能が織り交ぜられている。伝播した純真に何やら、意味も無く恥ずかし
くなってしまう。そんな視線を向けられた。
自身が秘書になる前は彼女がその任を負っていた事を大鳳は頭の隅に思い出した。言葉の裏、微かに匂う色恋の暗香。それを感じた
気になって、だが彼女はすぐに否定した。唯の一言で余りに不謹慎で突拍子もない思考であると、そう思ったのだ。
「ええ。何時も通り」
「……そう。なら、良かった」
「私が改造できたなら、またあなたが秘書艦になるのかしら」
何の裏も無くただ口から漏れ出した言葉に、祥鳳は分かりやすく反応する。頬を染め、しかし瞳の悲哀は変わらない。
「……だと、いいけれど」
吐息のように、それは空気に交じり合った。
彼女の様子を眺めながら、大鳳の胸中には模糊な焦燥感が湧き出していた。無意識の内に航行速度は速くなってゆき、祥鳳の怪訝そ
うな視線を感じてようやくそれを自覚する。
慌てて減速しながら、しかし煮え上がったままの頭は痛痒を抱え込んでいる。鼓動が高鳴り、胸が締め付けられたように苦しくなる。
腹の底から沸いてくる悪寒、苛立ち、不安感。それらに囚われ、尚その誘因は分からなかった。
徐々に鎮守府がはっきりと、視界に映りこんでくる。反対の雲間、空は桔梗色に染まっていた。
815 :クズ ◆MUB36kYJUE:2014/07/06(日) 21:15:55 ID:WPQREMKw
2
「大鳳、出頭しました」
先の戦闘で錬度は充分高められたらしく、入渠ついでに改造まで済ました大鳳はその足で執務室に訪れた。扉越しに声を掛けるとす
ぐさま中から返事があり、彼女は目の前の木戸を躊躇い無く開いた。
「お疲れ様。黒も似合うね」
傾注していた書類仕事から一旦目を離し、提督は彼女の姿を見、そう言った。黒と緑を基調とした改装後の服装は、よく引き締まっ
た体躯を気韻に彩っている。玲瓏たる色白の肌がその服の隙間から覗く様は、例えようも無いほど妖美だった。
「解語乃花とはこのことか」
「もう、褒めたって何もでないんだから」
おどけて言って見せると、大鳳は恥ずかしそうにはにかんで胸元の辺りを腕で隠した。余りに純真に過ぎる仕草だった。提督はわぁ
っと湧き出した羞恥に、何が何やら落ち着かず、居た堪れない思いに焦がされる。乙女らしい姿と気障な自身の台詞が、部屋の空気を
甘ったるく淀ませたようだった。
誰に弁解する必要も無いのに一人で勝手に高ぶってしまい、自身の姿がおかしくないか、疑心暗鬼になるほどだった。大鳳の視線に訝
しみが無いか伺いつつ、深呼吸して平静を装う。
彼はさっさと話を進めてしまうことにした。机の下に手を伸ばし、硬質の一升瓶を掴み取つつ、余っている手で彼女を手招きする。小
首を傾げながら距離を縮めた彼女に、見せびらかすようにして机の上に置いた。
「……これは、何かしら?」
「地酒だよ。昨日取り寄せたんだ。今日の戦闘のMVP記念と、改造が終わったお祝い。……すまない。本当は盛大に祝ってやりたい
んだがな。この情勢下でパーティーを開くと、上にばれた時が恐ろしいんだ」
大鳳は目を丸く見開いて、深緑の瓶を手に取った。冷え、結露で濡れたその表面から、中の液体が透き通って見える。
「ささやかだけど、まぁ酒さえあるなら酒宴は酒宴だ。誰か呼びたい奴はいる?」
「え?……あ、いえ。提督と二人がいいわ」
まじまじと充分すぎるほどに見つめた後、彼女は悪戯っぽい微笑を湛え提督に向き直った。
「あなたがお酌をしてくれるの?」
「君さえよければね」
「ふふ……嬉しい」
ハスキーな彼女の声が、執務室の空気に溶けていった。
机の上を片付け、奥の物置から椅子を引っ張り出す。嬉々としてそれに座る彼女の様子を眺めると、罪悪感も薄れるようであった。
この程度しかできなかったという鬱屈した思いが、嫣然とした笑顔に癒される。
816 :クズ ◆MUB36kYJUE:2014/07/06(日) 21:20:53 ID:WPQREMKw
悪い癖だとは知りつつ、どうにも祥鳳の一件以来、自嘲癖が染み付いてしまった提督である。人に喜ばれるということが、今何より
の幸福だと感じられていた。彼女が喜ぶというのならきっと素っ裸で海にも飛び込めるなと、そう妄想を脳内に再生すると、余りの馬
鹿馬鹿しさに噴出しそうになった。
棚から適当に見繕ったグラスとつまみ、氷やらを机に置きつつ、席に座る。小さな宴は朗らかな空気の中、誰に知られることも無く
始まった。
話題は、先の戦闘の事に終始した。敵の今までに無い強さ、戦局の動き、そして自身の活躍ぶりを彼女は肩を弾ませ、欣喜と語って
いる。
時折酒の入ったカップを呷りながら、身振り手振りを交え話し続ける。瓶内の液体はあっという間に半分まで減っていて、そのほと
んどは彼女の胃の中に下っていた。
酌の度軽くなってゆく瓶の重量に、提督は冷や汗をかき始めていた。たった一口飲んだだけでも、臓腑が焼き爛れたかと思えるほど
の焦熱感である。彼女が嚥下に喉を震わす度、提督は生唾を飲み込んだ。
このような飲みの席では、何時もは下戸な提督が彼女に介抱されるが、今日ばかり立場の逆転が起こりそうなことは誰の目にも明ら
かである。提督は否応なく、腹をくくらざるを得なくなって、既に胃の痛む心地であった。
赤い顔を弛緩させて、大鳳はグラスを差し出した。もう何度目かも分からない酌の催促である。
提督は瓶を手に取って、しかしその段になって躊躇いが生じた。これ以上彼女にとって悪い酒になったなら、結局煩わしい思いをす
るのは自分である。今ならまだ間に合うという楽観があった。
酒を抱えたまま動かなくなった彼を見、彼女は桜色の頬を膨らませると大きく喉を震わせた。
「提督! ください!」
「……飲みすぎ」
「そんなこと無いわ! まだまだ全然、酔ってなんかいないんだから! ほら、早く。ください!」
「酔ってないってのは酔っている奴の台詞なんだよ。もうやめておきなさい」
「酔ってません! 何処をどう見たら酔っているって、思うの? 信じられないわ。酔ってないから、ください! 早く!」
応酬はしばらく止まることなく、最初渡すものかと意気込んだ提督も、しばらく後には心の天秤をぐらつかせる様になっていた。机
がびりびりと震えるほど彼女は声を張り上げて、宥め続けても声量は微塵も変わらない。背中から湧き出している威圧感たるや、普段
の大人しい印象とのギャップの為に、とても耐えられるものではなかった。彼女の目はどんどんと細められてゆき、その険しさは背筋
をさぁっと凍えさせた。
817 :クズ ◆MUB36kYJUE:2014/07/06(日) 21:21:24 ID:WPQREMKw
もう既に出来上がっていた。燻っていた火種へガソリンをぶちまけてしまったという事へのどうしようもない悔悟に、提督は頭を抱
えたくなった。
「もう。もう、もう! 信じられないわ! 私が頑張ったから今日の海戦も勝てたんですよ? その事きちんと分かってるの!?」
「ああ、分かってるよ」
「なら少しくらい我が儘聞いてくれてもいいじゃない! ほら!」
「だめだ。頼むから……」
そうして飽きるほど繰り返されたやり取りに、ついに転機が訪れたのは、ようやく五分ほど経った頃であるか。
大鳳はがなりの狭間に、ただ一回だけ大きく吃逆を上げた。顎をくいと引き肩を大仰に震わせて、その後は急にむっつりと押し黙る。
おやと思うより先、ふらっと体躯が揺れ動くと、そのまま机に引き寄せられるようにして上体が倒れた。
中毒で倒れたのかとぎょっとした提督ではあったが、背中が寝息で上下しているのを認め、ほうと胸を撫で下ろした。彼女の表情は
腕枕の敷枯れたその上で、憑き物が落ちたかのようにさっぱりとしていた。
静けさの中、耳がキンキンと鳴り続き、それが先ほどまでの喧騒を意識させた。途端訪れた部屋の静寂は、空調の音までもがはっき
りと聞こえてしまうほどである。胸に迫る厭に大きな寂寞が、何とも居心地を悪くさせた。
ようやく潰れてくれたかと安堵のため息を漏らした提督は、手にしていた酒瓶を恐る恐る机に置いた。くびれを握った掌をしばらく
開かなかったのは、一つの懸念が払拭し切れなかったからである。つまり、大鳳が突然飛び起き強引に奪い去るかもしれないと、そう
穿ったのだった。
提督は焦れったい速度で、徐々に腕を引っ込めていった。机の中心で無防備に鎮座する酒は、だがしばらくしても何も脅かされはし
ない。心配は杞憂に終わったようであった。
何となく、時計を見る。何故か物事の区切りには、意味もなく時刻を気にしてしまうものである。時の進みは思ったより遅く、眠気
がないのも納得であった。
そういえば、祥鳳に別れを告げられた時にも、時計を確認したのであった。ただ一人呆然と立ち尽くし、手持ち無沙汰と思う余裕も
なかったはずなのに、二三三○と刻まれた盤面を見た場面は今でもはっきりと思い出せる。嫌な記憶のリフレインに胸は歯痒い疼痛を抱
え込み、蕭索とした部屋の空気と相まってやたらに気が沈むのだった。
ふと目を向けると、大鳳のうなじが後ろ髪の狭間から覗いていた。よく目を凝らせば、服の膨らみの隙間からは流麗な背中も見て取
れる。色白の肌の、滑らかで何より艶かしい質感が、くっきり浮き出したかのよう視界に入ってきた。
邪な考えを持ってしまったのは、果たして生理的に仕方の無かったことなのか。以前の恋人、しかもまだ未練があると言ってもいい
ほど引き摺っている彼女の事を思った直後に、あまりに不謹慎な想像をしてしまったことを、提督は独り恥じたのだった。首をぶんぶんと
振って、頭に沸いてしまった、口に出すのも憚られるような妄想をなんとか打ち消す。とにかく落ち着けと、胸中で自身に向かって繰
り返し言って、昂ぶった気持ちを鎮めたのだった。
818 :クズ ◆MUB36kYJUE:2014/07/06(日) 21:22:26 ID:WPQREMKw
提督はゆっくりと椅子に腰掛けた。力が抜け幾らか冷静になり、彼は再三のため息をつく。何はともあれ宴は終わったと、そう心弛
んだ矢先、しかし気を抜くには余りに早すぎた。
提督は、突如耳に入ってきた水音に過敏な反応を寄こした。予想だにしなかった、だが何よりトラウマを刺激するその音を果たして
聞き間違う事があるだろうか。蕎麦をたぐったかのような音は、間違いなく鼻を啜った時のそれであった。
狼狽し、思わず席を立ってしまう。音はくぐもり不明瞭なものではあったが、視線の先、彼女の肩の震えが目に入ると、もう状態を推
し量るには充分だった。
恐る恐る名を呼びかけてみる。するとすかさずに、予想通りな涙声の返事。確証が得られると心拍は途端跳ね上がり、ばつの悪さは
彼の瞳をあちこちへ揺らがせた。
「おい、大鳳? なんで泣いているんだ。お前別に、泣くことはないじゃないか」
「提督が、お酒くれないから……。私、嫌われたんだわ。提督は、もう改造の済んだ私の事なんて、どうでもいいと思っているんで
しょう」
「そんなわけ無いだろ」
「嫌われたわ。私明日から生きていけない。嫌われた! 嗚呼、もう駄目。死んでやるんだから……」
「なぁ、頼む泣かないでくれ。酒は好きなだけやるから。ほら酌するぞ」
目の前で女性に泣かれるというのは男性なら誰しも苦手とする所であろうが、提督のそれは何より格別なものであった。今再びあの
時のことが脳裏にまざまざと蘇り、息苦しさを感じるほど胸が締め付けらているのである。泣きたいのはこっちだと、そう叫びたい衝動
に駆られながら、彼の指は独りでに震え始めていた。
そんな様子には構うことなく、大鳳は酌という言葉にだけ迅速な反応を寄越した。
がばっと顔を持ち上げて、カップを勢い良く差し出す。彼女の瞼は赤く腫れ上がり、目じりからは大粒の涙が零れ落ちていたが、そ
れでも屈託無い笑顔を爛漫と振りまいていた。
諦観や呆れの交じり合った感情が、彼の口から吐息となって溢れ出す。とくとくと注がれる液体の波紋を、大鳳はニコニコと見つめ
ていた。
「ふふ……大好き」
「素面になったら覚えていろよ、お前」
発せられた言葉の意味さえ最早理解できないのか、彼女は何度も首を縦に振り、カップの中身を飲み干した。
結局その後も酒は大鳳一人が消費し続け、ようやく本当に宴が終わったのはもう深夜と呼ぶことのできる時間であった。
今度こそ潰れ机に伸びた彼女を他所に、提督は空になった瓶とカップを片付けた。グラスのぶつかる音は、意図しないでも大きなも
のであったのだが、それでも大鳳はこの不快な音を気にすることもなく、ずっと安眠し続けていた。
一通り片付けが済んでしまうと、提督は歯を磨き、遂には寝巻き浴衣にまで着替えてしまった。気持ち良さそうな彼女の寝顔を見て
しまうと、どうしても肩を揺する気にはなれないのである。
同室に女性がいるのに服を脱ぐというのは何とも背徳感の沸く行為であった。ただ脳内には早く寝たいという欲求が渦巻いていたし、
多少は彼も酔っ払っていたから、気も大きくなっていたのである。焼けるような胸のむかつきは体をひたすら重くさせ、しかし不快か
と言われればそんなことはない。彼女の耳や背中の線、椅子背もたれの付け根に押し付けられた尻の膨らみ、そういった所にちらちら
と目が行こうとするのを何とか自制しながらの着替えであった。
819 :クズ ◆MUB36kYJUE:2014/07/06(日) 21:23:18 ID:WPQREMKw
そもそもこの執務室のすぐ横には提督の寝室があったのだ。何もここで脱ぎ着することはなかったはずなのだが、そういった思考に
行き着く前までに習慣が体を支配してしまっていた。気が付いたのは、丁度帯を締めた直後である。
何もする事がなくなってしまうと、とうとう役目を果たさなくてはならなくなった。彼は大鳳の元へ行き、不承不承にその小さな肩
を揺すった。
耳元で名を連呼すると、彼女はこの世全ての倦怠を一手に引き受けたかのような緩慢さで体を起こそうとした。腕の力だけで上体を
持ち上げたのか、ちょうど背のラインが地面と垂直の線を過ぎると、途端椅子の背もたれにしな垂れかかる。
「立てるか?」
聞くと、首を横に振る。まだ目元のあたりは赤く、しかし反対に頬や口の周りは血が抜けたかのように青白かった。小さな顔に背反
する色を持って、見るからに病的である。
水の入ったコップを目の前に差し出すと、彼女はおずおずと、しかし顔つきはだけは必死な様子でそれを受け取った。どうにも、意
思と体の連携が上手くいっていないらしい。手を小刻みに震わせながら焦れったい速度で口にまで運び、だが一旦コップの端が唇に触
れると、夏場の運動後のように中身を飲み干していく。
「もう一杯いるか?」
机に置かれたコップを見、そう問いかける。大鳳は首を横に振った後、呻くように
「せ、洗面台に……」
と言った。
皆まで言わずとも、提督には彼女の意が分かっていた。すぐ側にまで近づいて、脇に腕を挿し込む。体重を支えながら半ば引き摺る
ようにして、執務室奥の自室へとその体躯を誘導していった。
本来、艦娘は進入を禁止されている場所である。着任してからというもの、今までこの部屋の中へ招き入れたことがあるのは祥鳳、
唯一人だけであった。救護処置なのだから仕方ないと心の中で弁解しながら、彼は部屋を突っ切って水回りへの扉を開けた。
大鳳は混濁した意識の中で、彼の香りを嗅いでいた。唯でさえ今までに無いほどに近づいて、しかもあたりは提督だけの生活の場な
のである。空気が肺に満ちるとどこか幸福に包まれて、身体が浮いているかのような心地である。
こんな状態なのに異性の匂いに意識を向けるとは少々色欲過ぎるのではないかと、洗面台の前に立つと彼女はそう思い至った。それ
からようやく提督の前で無様を晒そうとしていることに意識が向いたのだが、どこかに行ってと言うより先に、逆流してきたものが喉
を占拠した。
吐瀉物が陶器を汚し、胃酸の匂いがあたりに散らばる。彼女はえずきに任せるまま二、三回続けて嘔吐した。
つまみをそんなに食べなかった為か出てきたものはさらさらで、思いのほか苦しいということは無かった。ただ食道に焼け付いた残
滓の感触は不愉快極まり、それが気持ち悪さと似たようなものだから迂闊に動く事ができない。
胃の縮こまる疲労感が、むしろ感情を高ぶらせたらしい。大鳳は荒くなった息の合間、搾り出すように
「ごめんなさい」
と言った。それを皮切りに不甲斐なさや羞恥の念が勢いよく湧き出し、それは意識せずとも涙となってぼろぼろと零れてくる。抑え
きれない嗚咽が、夜中の静かな空気の中で震えた。
820 :クズ ◆MUB36kYJUE:2014/07/06(日) 21:26:54 ID:WPQREMKw
「別に気にしてないよ。だから泣くのは止めなさい」
彼女の背を摩りながら、提督はそう口にした。慰めではなく、本心からの言葉だった。
ただただ居心地が悪いから、どうやったら彼女が落ち着いてくれるかと考える。感じている体温を見通そうとしているかのように、
彼は摩る自身の掌をひたすら見つめていた。
しばらくの場の沈黙と自身の思考の果て、ふと脳裏によぎる事があった。自制もせず半ば自棄になったかのように酒を呑み、そして
いざ峠が過ぎると反省と悔恨に涙を流す。普段では絶対にあり得ない大鳳の行動に、提督はずっと得心いってなかったのである。
何が彼女をここまで乱れさせたのか。ずっと頭に居座っていた雪礫が、今音を立てて溶け出したようだった。そしてそれは余りに都
合の良い状況を現出させ、果たして逆らう事ができるほど、提督も強固な意思を持ち合わせてはいない。
「なぁ、大鳳。もし良かったら、この後も秘書艦も続けてくれないか」
思わず滑り出すように吐き出された言葉は、自身の鼓膜を震わせ骨を震わせ、脳内に伝道した途端に後悔の念を噴き出させた。目の前
にしている問題から目を逸らして、ただ逃避をしているのだ。無意識に吐き出された言葉であった。より一層、自身が矮小に思えた。
本来なら彼女の体調の事を考えて、今この場で言うべきではないことだったのかもしれない。しかし、それに意識が向かないくらい
に、今の提督は逸る感情に駆られていた。急く必要は欠片もありはしないのに、何か処理のしきれない焦りがわだかまるのである。
どうか断ってくれと、そう何度も心の中で唱えながら、彼はそっと大鳳の反応を見る。だが心理の機微に、今の彼女が気づくわけも
無く、止んだ嗚咽がまさに回答そのものだった。
「もちろんお前がまだ秘書艦をやりたいって言うなら、だがな」
提督はあわててそう付け足した。自分の願望の発露ではないのだと、そう言い訳したい気持ちが独りでに口を開かせたのだ。
幾らか色の戻った顔を上げ、大鳳はゆっくりと視線を向けた。
「いいの?」
「悪いことがあるかよ。どうだ、お前は秘書艦を続けたいか」
「……嬉しい。私、本当に嬉しいわ。……ありがとう」
そっと伸ばされた手が、控えめに提督の上着の裾を摘んだ。はにかんだ表情を見、彼の心持は暗澹たるものである。
821 :クズ ◆MUB36kYJUE:2014/07/06(日) 21:27:33 ID:WPQREMKw
3
驚くほど自然な目覚めであった。寝起き特有の、あの蒲団に身体が沈みこむような気だるさが一切まったく無いのである。頭部を絶
妙な堅さに支える枕や下半身を柔らかく包むタオルケットの感触が、むしろ心地良いものとは思えず、自身が横になっているという事
自体、違和感を感じてしまうような、せせこまった感覚が体を支配していたのだった。
視界に映る天井が驚くほど近くに感じられ、そしてそれは決して心象による錯覚などではないという事に大鳳は遅れて気が付いた。下
に引かれたものが蒲団ではなくベッドであること、着ている服が寝巻きでないこと。そういった差異が徐々にだんだんと知覚されてい
って、混乱は頭のクロック数を猛然と加速させていった。
そこが提督の部屋だと気が付いたのは、たっぷり一分は経った後である。彼女は昨日の記憶を掘り起こし、しかしどうしても就寝に
至るまでのプロセスを思い出せないでいたが、今体を包んでいる心を痒がらせる匂いは間違えなく彼のものであるから、ここがどこなの
か疑問を挟む余地はないのである。
タオルケットを跳ね除けながら、彼女は体を起こした。提督を探し辺りを見渡してみても、だが姿は見当たらない。部屋の調度品が
じっとこちらを見つめているようで、どうにも居心地が悪かった。まるで、お前の昨日の醜態を私たちはずっと見ていたぞと、或いは
お前の欠落した記憶の場面を私たちは覚えているぞと、そう言い詰め寄られている気になるのである。
いち早くここから逃げ出したくなって慌ててベッドから降りる。小走りに扉にまで近づき、焦燥に駆られるままドアノブを回した。
背中に感じる視線のようなものが、酷く恐ろしいものに思えていた。罪悪感が足を急かし手を震わし、きりきりと胸を締め付けている。
今の彼女の様子は、さながらホラー映画を見た後にトイレへの廊下を歩く怖がりそのものであった。
扉が開くと、恐怖はさっと霧散した。溢れてくる光量は随分多く思えて、それは先ほどまでいた寝室はカーテンが全て閉じられてい
た為であった。その事に気が付くと、ただ薄暗いというだけでここまで狼狽した自分が恥ずかしく思えて、大鳳は独り勝手に胸の奥を
熱くしていた。
勢い良く開いた扉は相応に音を出して、執務机に座っていた提督の背は思わずびくんと跳ね飛んだ。その拍子に机の上の書類がぐら
ついたが、崩れるほど傾きはしない。ほうとため息一つ、彼はほんの少しの倦怠を滲ませながら、ぐるり大鳳の方へ振り向いた。
「おはよう。吃驚した」
「ごめんなさい! そんなつもりはなかったの」
「いいよ。どうしたの、慌てて」
訝しげに細められた目にさっきまでの不恰好を看破されたかのようで、彼女の心中は途端波風立った。泳いだ視線の先に、ふと壁掛
け時計が映り、それが逃げ道を作ってくれた。裏返りかけた声で少々露骨に、彼女は話の方向を逸らす。
「も、もうお仕事しているの? 随分早いんですね。まだ五時なのに」
「いや“もう”というか、むしろ“まだ”なんだよな」
「え?」
「えっと、昨日の夜の事はどれだけ覚えてる?」
突然の問い掛けに、彼女は心臓をきゅっと縮こまらせた。頬がじっとりと、果実が熟れゆくように染まっていった。
822 :クズ ◆MUB36kYJUE:2014/07/06(日) 21:28:56 ID:WPQREMKw
自身の痴態について、一度はベッドの上で平然と思い出していたはずなのである。だがその罪深さは本人を目の前にして、ようやく
悪意の針を覗かせる類の物らしい。音を立てて湧き出した羞恥がぼっと体を茹らせて、背筋のむず痒さにもんどりを打ちたくなってし
まう。顔が赤くなったことには自覚があったから、焦り両手で頬を覆った。眼前にしているこの人にあのような無様を晒したのだとい
う、そういった自意識が平静を装うとする心中を容赦なく攻撃してくるのだった。彼に見られているということが、今この上ないほど
勘弁ならない。
提督は意地の悪い笑みを浮かべながら、そんな彼女の様子を眇めた眼で見つめていた。別段、特別な意図でもってこの問いを投げか
けたのではない。だが煽られる嗜虐心、その高揚たるや話の本題がすっかり頭の隅に追いやられるほどだった。
「別に夜這いをかけた覚えはないぞ」
もののためしといった心緒で、そう口にしてみた。言葉での追い討ちをかけてみて、彼女の反応を見たかったのだ。
果たして、満足の行くリアクションである。大鳳は赤い頬を尚一層朱に染めて、
「馬鹿!」
と一喝、提督を睨んだ。凄んで見せた所で、そんな愛嬌のある頬の色をして恐れおののく者があるだろうか。むしろ彼は恍惚の中、た
だただ慈しみの念を覚えていた。今すぐにでも側に駆け寄り慰撫してやりたいと思うほどに、愛らしさは胸をじくじくと疼かせる。
自身の変態性に危機感を持って、彼は衝動を我慢することにした。怒らせたいわけじゃなく、ただ可憐に恥ずかしがる様を見たいだ
けなのだ。これ以上調子に乗ることは、矜持が許しはしないのだった。
「お前が寝た後、妙に目が覚めちゃったからずっと仕事をやってたんだよ」
視線を机に戻しながら、提督は気だるさを装い言う。先ほどまでの錯乱は急になりを潜め、彼女は目を大きく見開いた。
例え直接見ていなくとも、愛らしくころころと表情が変わっているその様子は充分に察知ができて、思わず口元には笑みが浮かんだ。
「昨日からずっと?」
「時々休憩は挟んでたけどね。……お前、もうはやく自分の部屋に帰ったほうがいいんじゃない?」
「どうして?」
「別に私は困らないがね」
言われ、彼女の頭には失念していた問題がわっと花開いたようだった。艦娘の起床時刻は六時。ここに泊まったということを誰にも
気づかれてはならないし、その為には様々に身繕いも必要だった。
「失礼します!」
ぱたぱたと足音を響かせながら彼女は廊下に飛び出していった。顔色は、今度はさぁっと青白くなり、頬も無意識に引き攣っていた。
部屋を出ると、遅れて聞こえた提督の笑い声。それが耳に入った途端、地団駄の踏みたい思いを抱いた。誤解される事が恐くないの
かと、耳を引っ張りがなり立ててやりたかった。生憎今は湧き出す焦燥感に命じられるまま、足を動かすことに精一杯だ。
踏みしめられた木の板の歪む音は、ポジティブにリズムが良く、まるでフラメンゴの演奏のようでもあった。心情とは裏腹な、その
愉快な音が神経を逆撫でして、どうにも気分は宜しくない。執務室を出てからというもの苛々は正の一次関数グラフのように、止め処
なく募っている。階段を降り、尚足は速めたまま、大鳳は鎮守府本棟の出口へ向かった。
渡り廊下の屋根の向こう、青の抜けすぎて紺になった空色がじっとりと彼女を見下ろした。昂った感情が冷えたのは、棟を移り艦娘
宿舎に足を踏み入れた時である。
途端に音を立て始めた心臓の脈動は、きゅうと息を詰まらせた。それは何も走り疲れた為ではない。この宿舎内、今誰かが気まぐれ
にふらっと外へ出てきたなら、誤解の種は見事芽を出し決して収まりはつかなくなるだろう。その恐怖が、緊張の糸をきりきりと張っ
ていたのだった。
823 :クズ ◆MUB36kYJUE:2014/07/06(日) 21:29:21 ID:WPQREMKw
つくづく普段着である事が恨めしかった。まだ五時である。着替えたと言うには余りに早い。脳裏には執務室に戻るという選択肢も
浮かびはしたが、どちらにせよ部屋に帰還しなくてはならない以上、意味の無い事だった。
忍ばした足音の板張りの床を滑る音に、一歩一歩精神が削り取られてゆく。部屋の戸が延々連なる光景。誰かの部屋の戸を横切る、
その数十センチ間隔数秒おきの緊張が、過敏な神経の表面をごしごしと容赦なく摩るのである。
珠の汗が頬を伝い、幾つかが床に滴り落ちる。決して暑いと感じているわけではない、はずであった。彼女には最早自身の体温さえ、
判別ができていなかった。
時間の感覚の希薄になりだした頃合、目的の場所にたどり着くと、大鳳は涙が出そうなほどの歓喜に打ち震えた。緩んだ心が触れた
ドアノブへ流れ出すようで、足腰に力が入らなくなる。何とか自身の部屋の中に転がり込んで、閉まった扉に背を預けた。しゃがみこ
み、達成感と徒労感の混ざった空虚にじっとりと浸る。何をするのでもなくただただ背を扉に預け、部屋の天井にある染みを意味もな
く見つめ続けた。
結局は、起床のベルの鳴るまでずっとそのままの体勢であった。ただ有りのままの沈黙、その範囲は脳内にまで及び、ふとすると喧し
い目覚ましの鐘音さえ意の外に追いやられかけていた。何せ俄か廊下に眠気眼の喧騒が響き始めてようやく、彼女は動こうという意思
を取り戻したのだ。茫然自失のその境地は、先の戦闘時、一気に敵艦隊を撃滅に追いやったあのときの状態とどこか似ている気がした。
立ち上がるときには尾てい骨から背骨に沿って鈍痛が顕れ、しかし致し方無いことだろう。痛みの範囲は筋肉から体の奥へ侵食する
ように広がった。我慢して無理やり腰を回してみると溶けだす風に痛みは引いて、その段になると、まだ自身が身繕いを整えていない
ことに気が付いたのだった。
替えの服はぱりぱりと、折り目に一切乱れは無い。だがいざ着込んでみると、途端柔らかく体躯を包み込んでくれるのだった。支給
されたばかりの、新品の、新型改装服である。着心地に不満はあるはずもない。
替えは今着たこの一着のみで、脱いだものと合わせ二着でのローテーションである。着替える必要があるか判断の難しい所ではあっ
たが、一応酒盛りをしてしまった手前どうしても不安は残ってしまう。大鳳は脱いだ服にネームタグをつけると、洗濯用ネットに入れ
て出口の方へ放っておいた。食堂に向かいがてら、後で共用洗濯機まで運ぶ算段である。
その他身の回りを整えて、彼女は再び廊下に出た。艦娘達がぞろぞろと食堂へ向かう中、動揺を胸に秘めながら顔を伏せて歩く。
片端から、今朝は早起きしていないよねと聞いて回りたい気分であった。こういった確証の得られない状況というものを、果たして
好む者がいるだろうか。大鳳とて、例外ではない。
つい一時間ちょっと前に通った渡り廊下を、今度は反対方向に行く。食堂は本棟一階の西、艦娘宿舎から見ると右手の廊下の最果てにあ
る。ガラス戸二枚に隔てられその間も大分長いから、最早棟として独立しているような造りであった。
大鳳が本棟に入ってちょうど右折しようとした時、階段からはぽつねんと提督が降りて来るのが見えた。彼女はその姿を視界の隅に
捉えるや、反射的に顔を逸らして、逃げるように廊下を突き進んだ。幸い辺りは艦娘によってごった返していたために、小柄な彼女の
姿はすぐ雑踏に消え溶けた。或いは、気を使って見逃してくれたのか。恐る恐る後ろを振り向くと、彼は第六駆逐隊の面々に囲われな
がら愉快そうに口を動かしている。
気をつかう、というフレーズが頭にどこか残り続けた。平静に戻った上で彼を見ると、思い出された場面があった。
曰く、提督は眠れないからずっと仕事をしていたというのだった。しかし普通に考えれば、ベッドを自身が占領してしまったために、
むしろ夜を明かすためにやる事というのが仕事しかなかった、というほうが自然である。起床時は半ばパニックの中にあったから、こ
んなことにさえ気が付けていなかったのだ。
後でお礼を言おうと考え、しかし胸がむず痒くなる。それは申し訳なさによるものか、はたまた羞恥によるものか。
彼の顔を見ることに抵抗を覚えてしまっていること。しかもそれは決して不愉快からくるような代物ではなくて寧ろもっと甘い、じくりと滲む胸奥の痛みからきているということ。
果たして、大鳳の頬は朱色だった。
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最終更新:2015年03月18日 18:30