「楽しみにしているよ」
書類に目を落としたままこう言うこの人は一見無愛想に見えるが、
それとは不釣り合いに口角がやや上がっている。
何の面白みもない書類なんかを見ていてそうなっているのではない事くらい、最早私でなくても分かるのではないか。
「……ふふっ」
その差異が可笑しくて、つられて笑いを零しながらも、私は後ろ手に扉の把手を捻る。
今日も提督からこの科白とその内の透け透けな感情を補給し、私は厨房へ出撃する。
それにしても、今までは鎮守府近海を巡回警備する時と同じような心持ちだったこの習慣が、
今はどこか新しい海域へと足を踏み入れるような心持ちになっているのは何故か。
把手を握った時に、昨日まではなかった硬い輪の感触が薬指にあるからに違いない。
……………………
…………
……
食堂の暖簾を潜る。
遠征に駆り出す艦、鎮守府海域の警備に駆り出す艦、夜戦だけに備えて寝ている艦等、
留守の艦が多いお昼前の食堂は空席が目立つ。
逆に、正午を過ぎてから席が埋まるので僚艦と窓際の席を取り談笑に花を咲かす艦もいる。
料理の仕込み時間をそうやって潰す艦を尻目に、私は厨房に入った。
奥で別の料理を仕込む間宮さんに一声かけてから割烹着に身を包み、まず米飯を作る作業から取り掛かる。
朝のうちに空になった大釜を軽く洗い、米を数えながら釜に放り込んでゆくと、がたがたと何やら騒がしい音が。
「あ、やっぱり大井さんだったっぽい!」
声の方に振り向く。
するとそこには、カウンターから乗り上げるように夕立ちゃんが紅い目を輝かせて私を見つめていた。
椅子の上にでも立っているのだろう。
海戦時では
駆逐艦にあるまじき火力を発揮するこの狂犬と思しき彼女も、
こういった場では見た目相応に可愛らしい仕草を見せてくれるので微笑ましい。
唯、これでは椅子ごと後ろに倒れたりしないかが心配だけど。
「あれー? 指に付けてるのなぁに?」
"指に付けてるの"……。
これしかないわよね。中々目敏い。
一応見せて確認してみたが、当たりだった。
少し気恥ずかしいのを抑えようと、私は止めていた作業を再開し、大釜に米を移しながら説明する。
「これはね、結婚指輪っていうの」
「ケッコン? 提督さんに貰ったの?」
「っ……、そうよ」
「ふ~ん……」
沈黙が訪れ、私が釜に米を移す音だけが響く。
自分から聞いておいて反応はそれだけ?
さっきの旺盛な好奇心はどうしたのか。
夕立ちゃんに目を向けていないので、夕立ちゃんがどんな顔をしているか分からない。
しかし、そんな状態は数秒で終わりを告げる。
「ケッコンしたってことは大井さん、コドモできるっぽい~?」
「こっ……、子供!?」
――この子はいきなり何を言っているの!?――
突然の事に対応できず暫し言葉が詰まる。
飛躍しているとしか思えないその話について行けず夕立ちゃんを見やったが、
夕立ちゃんはあくまでも"今言った事の何がおかしいのか"という顔で不思議そうにしている。
見た目相応……なのかしら。
もう少し知っていてもおかしくはない筈。
この子の中では子供は例えばコウノトリが運んでくるという事にでもなっているのだろうか。
いやそれよりも。
私と、提督の、子供……子供……子作り……。
……っ!!
「あっ、あの提督と、こ、子供だなんてそんな……、それに艦娘なんだから子供なんてできる訳……」
一杯一杯だった。
ひたすらに釜に米を放り込む作業に没頭する事で、せり上がる顔の熱を忘れ去ろうとするしかない。
その結果……。
「あ、あの、大井さん? お米、少し入れ過ぎでは……」
「えっ?」
いつの間にか背後に寄っていた間宮さんの指摘によって、熱を忘れる事は出来た。
しかし、私は大事な事まで一緒に忘れてしまっていたのだ。
――お米、何合入れたんだっけ――
……………………
…………
……
「……今日のご飯は柔らかいな」
提督は、カレーとご飯を共に掬ったスプーンを一回口に運んだだけでそう呟いた。
分かっている。
杓文字で掬った時の感触で不安が溢れんばかりに滲み出てきたのだ。
食べなくても分かる。
そこまで分かっていてもその評論から反射的に自衛するように、
私はこの人と同じように自分の皿にも盛った物を睨みながら言い訳を零す。
「夕立ちゃんが悪いのよ……」
「夕立がどうした?」
「あっいえ! なんでもありません、うふふ」
こうやって自分の失敗を認めたがらないところは私の短所だと思う。
理性の蓋が少しだけ開いて自然と口をついた言い訳は、今回は完全には聞かれなかったらしい。
私は口角を上げて取り繕った。
すると提督は、首を少しだけ傾げてからまたスプーンを口に運び、顔を綻ばせる。
「カレーはいつも通りよく出来ているな」
「どうも」
――食べなくてもいいのに食べるのね――
この人は、柔らかいと評したくせにそれを口に運ぶ。
罪悪感が湧くも、それ以上に優しいんだか甘いんだか分からない提督の態度に、心の奥底で私は救われていた。
私も目前の失敗作を処理するべく口に運ぶ。
……やっぱり水が少し多かった。
これはあまり他の艦には出したくないが、捨てるのも勿体無い。
「あれっ、提督さん、指輪は~? これじゃ子供、できないっぽい~?」
「は? 子供?」
私が調理の後片付けやら提督を呼んでいる間に食事を済ませたらしい夕立ちゃんが、
子犬のように無邪気に声をかけてくる。
しかし提督もまた、犬の言う事は分からない――悪意がある訳ではなく――とでも言うような反応だ。
「ごめんね? 提督も大井さんも。ほらっ夕立行くよ」
姉妹艦の時雨ちゃんが、えーだの待ってよーだの不満を零す夕立ちゃんを引っ張っていった。
あの二人には食事が済んだら出撃の準備をするよう指示が出ている。
私達も早めに食事を済ませてその準備にかからなくてはいけないのだけど、
肝心の提督はどう反応したらいいかで悩んでいるようでスプーンを置いてしまっていた。
「……あはは……、夕立は大分子供だなあ」
そう苦笑いして提督は肩を竦み、左手をやれやれと言った具合に上げる。
しかし、私は夕立ちゃんや時雨ちゃんの事なんかとっくに頭から抜け、提督の左手を凝視していた。
――確かに付いていない――
「さあ、自分らもさっさと食べ――」
「提督はどうして指輪を付けていないんですか?」
夕立ちゃんが指摘して、そこに初めて気付いたのだ。
自分の事ばかり考えていて浮かれていたのが原因か。そんな事にも気づかなかったなんて。
夕立ちゃんが指摘した顔のように、提督もまたきょとんとした顔で私を凝視している。
「ああ……、その指輪は上が艦娘用に作った物でな。提督用なんてのは用意されていないんだよ」
なるほど。
上層部としては艦娘の性能上昇が目的である筈だから、コストを増やして提督用の物まで作る理由はないのだろう。
しかしそれが理由になると思ったら大間違いだ。
私ばっかり浮かれていて提督がこれでは、私が一体誰と結婚したのか、別に忘れはしないが証は必要だ。
「明日、提督の分も一緒に買いに行きましょう?」
「は、いや、そんな時間は……」
時間はない?
無理矢理割いてしまえばいい。
書類なんかその後で幾らでも書ける。
少し語気を強めて再度説得にかかる。
「……行きましょうね?」
「……分かったよ」
まだ何もしていないのにもう疲れた表情をしながらも、提督はやはりその中に笑みを隠していた。
隠れてないけど。
こんな私にここまで付き合うこの提督は中々に物好くだなあ、と自分で思う。
「……あ、そういえば艦娘って、子供作れるんですか?」
「私が知ってる訳ないだろ」
まあそうか。
そんな事を知ったところで普通は何も成さないのだから。
艦娘は人間ではない。
それでも、軽い気持ちで少しの希望を持つのもまた、悪い事じゃないし。
「それなら……」
仮に、もし仮にそれが可能だとしたら。
色々と大変な事も付いて回るかもしれないけど、
それでも、それ以上にこの幸福の更なる彩りになるかもしれなくて。
希望を捨てられる程私は捻くれていなくて。
皿に盛られたカレーライスを半分程食してくれたこの人の面白い反応を見たくて。
言うだけなら自由でしょう?
「私達で新しい艦、作ってみます?」
これが気に入ったら……\(`・ω・´)ゞビシッ!! と/
最終更新:2014年10月08日 18:25