472 名前:クズ ◆MUB36kYJUE[] 投稿日:2014/12/23(火) 21:40:25 ID:sZrbLobQ [1/18]
326からあきつ丸と加賀の修羅場を書いていた者です。後半を書き終えたので投下します。
の要素を含むので苦手な方は注意をお願いします。
1
初めてキスをした時のことは、今でも記憶にはっきりしているのであります。まったく自分といえば酷い有様でありまして、涙も止
まらず、鼻もグズグズ。それなのに提督殿との睦みにも意識を向けねばならないのでありますから、もう苦しくて仕様がないのであり
ました。心の片隅に望んでいたものが、突然降ってくるようにして手に入った。当時の罪の意識であるとか緊張なんてものは一切吹っ
飛んでいってしまって、まず何より幸福が享楽されたのであります。
心にわだかまる欲望にだけ意識を向けた、卑しいことこの上ない精神だったと自嘲もできましょう。しかし彼が、彼の方からキスを
くださったという一つの事実が、自分の胸底をどうしようもないほどに熱くさせるのでありました。このまま死んでしまってもいいと、
恥ずかしながら本気に思ったほど。不貞のキスがあれほど、甘美に思考を蕩けさせる作用をするとは、まったく意想外でありました。
夜虫の声が煩い、晩夏のことであります。彼の吐息の狭間から、その音の耳朶にできた事は、何か奇妙な感覚でありました。夏の巡
ってくるたびに、夜具の中でジィー、ジィーという音を聞きますと、脳裏にはあの時の光景がぱっと燦爛するのであります。
不思議なのは、キスの終わった後のことをまったく記憶していないという事でありました。提督殿とどのように別れどのように部屋
に戻ったのか、一切思い出されない。モンタージュされたように、蒲団の中で肩を抱き安堵と興奮に胸をかき混ぜられていた。そういう
情景へ、直ぐ繋がってしまうのであります。その夜は眠ることもできず、今後どうすればいいのか真剣ぶって考えるばかりでありまし
た。今にして思えば、滑稽であります。頭の中に感傷的な悲劇の虚像を再生し続ける。己が主人公なのでありますから、まったく痛々
しいことこの上ない。例えば加賀殿を刺して憲兵に捕まり、最終的には雷撃処分される展開だとか、或いは提督殿を刺してまた処分さ
れるだとか。無論、どのようなストーリーの中途にも、彼と夜を共にするシーンは必須でありました。提督殿の口説き文句を想像して
は、その悲痛さに胸を痛め枕を濡らしていたのであります。まったく救いようのない、愚かしい空想癖。墓場まで黙しておくべき痴態
であります。
事実、現実は劇的ではありませんでした。以来しばらく、提督殿と自分との間には、口をきくような機会さえないのであります。鎮
守府本棟の破壊されたお陰で、艦隊運用には幾ばくか制限が出てきたのでありました。とても夏の大規模作戦を継続できる力は無く、
遠征や近海の戦闘任務に注力せざるを得ない。自分はカ号の点検や大発の譲渡等をして過ごしておりましたから、必然的に彼と接するこ
ともないのであります。
提督殿と加賀殿の仲は、あの夜伽をもって修復されたようでありました。秘書の任を委ねられ、また女房役を徹するのに昏いところ
もない様子。流石にもう覗き見などという愚行を繰り返しはしませんでしたが、夜半部屋にて耳を澄ませていれば、大方そういった習
慣を察することは可能なのでありました。加賀殿一人の足音しか聞こえない日は、情交のなかった日。二足分の足音の過ぎた後、一足
分だけ帰ってゆく日は、つまりそういう日なのであります。毎夜部屋にて耳をそばだて、人の同衾について思いを廻らす。罪悪感がな
かったかと言えば当然否でありますが、しかし一度そのことに気が付いて以来、あのぎぃぎぃという足音を耳朶にしないことには寝付
けなくなってしまったのでありました。そして二足の音が聞こえた日には、何か自分の心根が切なくなってならなかったのであります。
当時のその感情の根源は、寂しさではないような気がします。ただ普段通りになっただけなのでありますから、なんということもな
いはず。自分には背徳の悦を享楽しにゆく勇気など、からっきし無かったのであります。だからこそ直接提督殿に真意を聞くこともし
ませんで、聞こえてくる足音だけで満足できたのでありました。
ふとしたら、あの夜のキスは夢であったのだと、そう思われるほどでありました。日の過ぎて行くほどに、感触の残滓は薄らいでゆ
きます。体温も思い出せない。味も、慰撫された快楽も、水の蒸発して行くように段々と消え果ててゆくのであります。
口惜しさと同じくらいに安堵も感ぜられました。このまま幻ということにしておけば、道を違わずに済むのであります。自分の欲求
によって、提督殿に無用な心労をお掛けするのは心苦しいのであります。我慢をしてさえいれば、全て丸く収まるのだから、これほど
簡単なこともない。しかし、例えば提督殿のふとした反応。廊下をすれ違うとき苦しげに眉を顰めるだとか、露骨に自分から離れよう
としたりだとか。あのキスが現実のものであったという証の所作を目にすると、また自分も、意識をせずにはいられないのでありまし
た。度し難いことに、心緒は喜びに震える。彼がまだ自分を気に掛けてくれているのだと、勝手な解釈が先走って、胸底の火は勢いを増
す。
一ヶ月ほども過ぎた、ある夜のことであります。自分といえばすっかり習慣になってしまったあの耳を澄ます行為に没頭し、もうそ
の頃には床板の響き具合によって幾らか感情の機微も察せるほどでありました。
加賀殿は最初トントントンという、きちんと地に足を突きつけるような音をしておりましたが、今ではトットットという具合に少々
軽い響き。一次関数グラフのように、日に日に決まった割合で軽やかになっていった風なのであります。あくまで予想ではありますが、
一度地に落ちた幸福度が一ヶ月の内に回復していったという証左なのではないでしょうか。もっと早くにこの習慣を始めていれば予測も
裏付けられたのでありましょうが、現状、事実は本人にしか知り得ないことであります。
提督殿はと言いますと、二日三日に一回耳にするだけでありますから加賀殿ほど正確には分からないのでありますが……最初ギシギ
シ歪で不安定な音。それから段々テクテクと普通になっていったのでありますが、近頃は初期よりももっと酷く、ギリギリギリといっ
た具合であります。グラフにすると上に凸の曲線であります。耳にするだけで、なにかハラハラと落ち着かなくなる、不安を煽られる
音でありました。
無論、日によってはこの流れに当てはまらない時もありました。ドシドシと機嫌の悪い音。カツカツ逸る気持ちの顕れた音。ただ大
方の心緒の動向というのは、先述の通りなのであります。加賀殿は一向良くなるばかりなのに、提督殿は急速落ちてゆく。その背反は
どこか、自分には危うげに思われてならなかったのでありました。
その日の提督殿は、またいつにも増して酷い足音でありました。トットット、軽く跳ねる響きに被せて、ギリリギリリと不安定に過
ぎる音が鳴ります。皆はよくこんな危殆なる音の中眠りにつけるなと、壁の向こうを思うほどでありました。自分が敏感過ぎるだけで
ありましょうが、ただならない、心臓の苦しい心地。
加賀殿の過ぎ去った後しばらく経ってから、独り廊下を戻る足音が大きくなってゆきます。毎回、彼の去るときには得体の知れない焦燥
に駆られるのでありました。早く過ぎ去ってと心の中に唱え続け、足音の小さくなってゆくに比例して安堵の気持ちがじんわりと溢れ
てくる。
しかしその夜の足音は、自分の部屋の前にてぷつり、途絶えたのでありました。
息を飲むであるとか、身を固くするであるとか。如何様な言葉よりも深刻であります。部屋のノックされた時には、意識の埒外に小
さく叫び声をあげてしまったほど。一体どうしようか、どうすればいいのか思惟はぐるぐる廻るのでありますが、ついぞ答えの纏まる
ことはない。二回目のノックがあり、自分は半ば反射によって戸を開けに立つのでありました。
恐る恐る開けてゆきますと、まず甘ったるい酒の匂いが鼻につくのでありました。思わず顔に手を持っていってしまった為に、
「ごめん、臭うか」
挨拶より先、彼には謝罪の言葉をつかせてしまったのでありました。
咄嗟の返答が思いつかない。当時の自分は恐慌の渦中にあった故、ただ用意していた言葉を吐くことしかできないのでありました。
「なにか、ご用でありますか」
言い放ってしまった後から、その文言の険しさ、タイミングの悪さを認識したのであります。恐らくは顰めた面のまま、かすれた小
声に吐き出しました。これでは誤解されても仕様が無い、いや寧ろ歓迎されていないと認識するのが普通でありましょう。気遣い屋の
提督殿でありますから、例に漏れず一歩後ずさり、
「すまない。邪魔した」
目を逸らして踵を返そうとしたのでありました。
「中で話を聞くのであります」
どう言い繕うか悩んだ末ようやく吐き出せた言葉は何か仰々しく、可笑しな響きを含んでいます。咄嗟に掴んだ彼の左手は余りに細
く、まるで竹のようでありました。骨折の固定具を外してまだ間もない頃であります。またすぐぽきりと折れてしまいそうな感触にぎ
ょっとして、すぐぱっと手を離したのでありました。
部屋に招き入れると、それからじんわりと危機感が沸いてくるようでありました。一度キスを果たした仲において、ベッドのある空
間に二人きりでいるということ。それを意識して、何か今更どぎまぎしてならなくなったのであります。
大方歓迎していないというわけではないと察したらしい提督殿は、座卓の前にあぐらをかくと、
「酒豪に付きあわされると、ねぇ。……厭だね。もう頭が痛くなり始めた」
ベッドの淵に腰掛けた自分へ、そう話しかけるのでありました。
「なら、早く部屋に帰って寝たほうがいいのでは……」
「酔っ払うと無性に寂しくなることってない? 兎角今は、独りは厭だ」
彼の言った寂しいという語が、自分には特異な意味を持っている風に聞こえたのでありました。無用な憶測が馳騁して、さっと顔が
強張る。提督殿は目ざとくそれを認めると、
「慰めろなんて言わんよ。少し話し相手になってくれればそれで」
はにかみ言い繕うのでありました。
癪に触る物言いだと感ぜられたのは、勝手でありましょうか。自分とて覚悟の無いまま部屋に上げたわけではありますが、加賀殿を
抱いたその足に別の女の部屋に立ち寄って、挙句「慰めなくていい」ときた。もう提督殿はあの時のキスを忘れてしまったのかと、独
り沈鬱してしまったのであります。
「なんで避けていたのでありますか」
怒りの心緒が、そう口火を切らせました。いや正確に言うならば、怒らなければならないといった打算が表に出たのであります。
「そんなつもり、ないけど」
「嘘であります。自分、何度も話しかけようとしたのに結局今の今まで一言も口を利けなかったのであります」
「めぐり合わせが悪かっただけ」
「ならなんで今日に限ってわざわざ会いに来たのでありますか」
「だから、酔ってて。このままプレハブに帰るのも厭だから……」
「……質問を変えるのであります。なんであの時キスしたのでありますか」
提督殿は気まずげに顔を背けたまま、口ごもるのでありました。この局面において逃避などできるわけもなく。何時かは話さなけれ
ばならないのでありますから、自分はただ黙って彼の言葉を待つばかりでありました。
正直に告白いたしますと、弱い立場の者を追い立てる、嗜虐の愉悦を享楽していたのであります。無論先行していたのは怒りと不安
でありますが、どこか心緒の片隅には溜飲下がる思いがくすぶっておりました。浮気するからそうなるんだと、伴侶の立場にないと言
えないような台詞を心の中に唱えていたのであります。
長い沈黙の後、彼のようやく放った言葉は、胸に燻る怒りの火を増大させるものでありました。
「すまない」
謝罪とは即ち悔悟でありますから、提督殿はあの時のキスを後悔しているわけなのであります。それを認知すると、堪らない屈辱に
目の前が真っ赤になる。
「謝るくらいなら、最初からしなければいいではありませんか」
まだ声を絞るほどの理性は残っていたのであります。しかし、ふと気を緩めれば彼の頬に平手を喰らわせたい衝動に身を支配されてしまうことでありましょう。感情を静謐にするには、労をとったのでありました。
「あの時は、荒れていた。ちょっとどうにかしていたんだ。すまない」
提督殿は、苦しげに言う。おそらくはこの先どう追求されるか分かった上で、尚言いのけたのでありましょう。自分も、彼の予測通りの言葉を吐かずにはおれませんでした。
「そんな程度の心持ちで自分のファーストキスを奪ったのでありますか」
「……あぁ」
「最低でありますな」
謗れば謗るだけ、また自分も惨めになるのであります。結局加賀殿に向けらているような感情を、自分は得ることができないのであ
りました。
一分ほど沈黙が続きました。重苦しい空気に耐えられなくなったか、彼は腰を上げて早足にドアに向かうのでありました。
「すまない。帰るよ。……邪魔したな」
「待つであります」
咎める声音を作って言えば、流石に提督殿も逃亡しようとはしませんでした。ベッドを離れた自分は、彼の竹のような手を取って身
を寄せたのでありました。
「もう一度。キス、しなくちゃ、帰さないのであります」
今にして思えば、気障に過ぎる台詞であります。しかしまた、かなり効力のある言葉であることも自覚しているのでありました。彼
の罪悪感に滑り込んで、自分の欲求を満たそうというのです。
逡巡に目を泳がせた提督殿は、それでも優しく唇をくれるのでありました。
2
以来彼は伽のあった日には、自分の部屋に立ち寄るようになったのであります。少しだけ話をして、キスをして、帰る。そのような
習慣が生まれたのでありました。
自惚れ、ではないと思うのですが、幾ばくか彼の足音も快調になっていったように思われます。変に疲れた顔をすることもなくなり、
またこれは当然でありますが、自分を避けることもなくなりました。依然として憂いは払拭できずとも、その精神に、張りつめたとこ
ろはなくなったはずなのであります。自分のおかげだと胸を張る気はありませんが、このキスの習慣が何かしら彼の心緒に影響を与え
ていたことは、一つ確かな事実であります。
それからどれほど過ぎたか記憶にはっきりしないのですが、作業に流した汗が風に当たると冷え冷えする、そんな時分のこと。
カ号の定期整備のために工廠にて作業を進めておりますと、入り口にて自分を呼ぶ声があったのであります。集中しすぎていたので
ありましょう。意識が引きずり戻されたかのような感覚がありまして、ふと顔を上げれば紅に光る海の稜線が厭に眩しかったのであり
ます。
自分を呼んだ者の姿は逆光によって影となり顔は判然とはしませんでしたが、その声色から誰がやって来たのか察することはできま
した。入り口に近づけば、ついに佇立する提督殿、その姿がはっきりと視界に収まります。
「今、暇?」
片手を挙げつつ、彼はそう話しかけてくるのでありました。
「提督殿こそ、今暇ではないはずなのであります」
「休憩時間中の外出は認められている。暇でしょ? 散歩に付き合ってくれたまえよ」
「加賀殿を誘えばいいではありませんか」
何となしに発したこの言葉は、何か彼の心に波風立てたようでありました。
「ウッ、む。……それはそうかもだけどね」
目を泳がせながら、訥弁に誤魔化す。そもそも今まで彼が自分を散歩に誘った事などないのでありますから、つまり疚しい何かを抱
えているわけなのでありました。
このお誘い自体はとても嬉しかったのであります。ですが流石に自分も、背景の不透明な状況において不貞の逢瀬を楽しめるほど、
剛の者ではないのであります。
断りの言葉を吐くより先、それを察したか、彼は手を掴むと自分を無理やりに引っ張ってゆく。
「離すであります!」
抗議の声を上げるとすかさずに、
「そんなに厭か」
苦笑交じりに言うのでありました。本心から厭に思っていないというのは先述の通り。故に自分もこの問いかけには黙して答えるし
かないのでありました。
結局、十間も歩けば諦観の内に追従を余儀なくされるわけであります。提督殿も自分が抵抗の意思を無くしたと見るや、手をすぐ離
すのでありました。まぁ落ち着いて考えればただ歩いて話すだけなのでありますから、何も問題は無いはず。不貞を犯したその現場自
体を押さえられるわけではない。そう楽観したのは、今にして思えば過ちでありました。
食堂前の自販機で適当な飲み物を購入します。提督殿のおごりで自分は冷えた紅茶を、提督殿自身はマックスコーヒーでありました。
どういう意図かはわかりませんが、彼は自分に普通の恋人同士のような睦みを求めているように思えたのでありました。
「地元じゃよく飲んでたんだ。まさか西じゃ馴染みのないものだったなんて思わなかったね。……最近販売域広がったから入荷させ
た」
彼は手持ちの缶をゆらゆらと揺らす。原色の黄色が毒々しく、何か言い知れぬ不安をかき立てられるパッケージでありました。
物珍しさにじっと見つめておりますと、
「飲んでみる?」
そう小首を傾げられました。
提督殿が差し出した物でありますから無碍にできるはずもなく、また好奇心もあった故、一口飲んでみることにしたのであります。周
りに人がいないか確認した後、急ぎ缶を傾けてみますと、じっとりぬめる液体が舌に猛烈な甘さを叩き込みつつ、喉奥の方へじわじわ
浸透してゆくようでありました。
余りに予想とかけ離れた味であります。まるで練乳をそのまま飲んでいるかのようでありまして、堪らずせき込んでしまう。提督殿
は自分のそんな醜態を眺めると、けらけら哄笑するのでありました。
「おいしくなかった?」
「よくこんな甘ったるいだけの飲み物、口にできますな」
乱れた呼吸に缶を突き返せば、反省の色も無く飄々と弁解されるのでありました。
「ちょっと温くなっちゃったからね。熱々ならまだましなんだけど」
辺りを凪いだ秋風が、ふとした沈黙を運んでくる。紅茶で口直しをしつつ、急に黙った彼を伺い見てみると、なにやら仔細顔に思惟
を廻らしている様子。
「どうかしたのでありますか」
そう聞きますと、彼は顔を向けて怪しく微笑むのでありました。
何か危殆な気配を覚えたのであります。一歩後ずされば、提督殿も一歩距離を詰めてくる。彼は手にしたマックスコーヒーを煽ると、
身構える暇を与えもせずに口づけてくるのでありました。
無理やり割って入ってくる舌が、あの凶悪な液を流し込んできます。口の端から一筋こぼれ出てきても、彼は一向勢いを緩めず、つ
いには口の中を空っぽにしてしまったのでしょう。ただ口を口で塞ぎ、嚥下を促すばかりになりました。
人に見られてはならない状況であります。しかしそういった緊張が口腔内に広がる生々しい甘さと作用して、もうクラクラ目眩を覚
えるほどでありました。早く飲み込んでしまおうと思っても、中々喉は動いてくれない。こくこくと小さく、数十秒も使ってようやく
口を空にすると、彼の舌が確かめるように中を一巡舐めて、それからようやく解放されたのでありました。
目の奥が気持ち悪いような感覚でありました。胃に下されてしまった糖分が、頭を苛むのであります。顔を上げ、得意そうな彼の表
情を見て、半ば反射的に手を上げかけたのでありますが、さっとよぎったある思い出の虚像が腕の動きを止めました。
連合艦隊旗艦に据えられた時のものであります。提督殿が見せつけた加賀殿との睦み。彼女のした行動を、今自分はなぞろうとした
わけなのでありました。妾に墜ちかけた身にありながら、彼の伴侶たる加賀殿と同じ事をする。何かそれがはばかられるべき悪行に思
え、またそういった権利も無いように感ぜられたのでありました。
一番口惜しいのは、自分のこの刹那の揺らぎを彼に察せられてしまった事であります。提督殿は口角を上げたまま、
「叩けばいい。抵抗しないよ」
そうのたまうのでありました。
「そうやって、かっこつけてればいいのであります」
自分にできたのは、この程度の非難を言ちる程度であります。
頭を撫でられ、その流れで抱きすくめられてしまう。無論身をよじって抵抗するのでありましたが、背をさする左手が羞恥や危機感
を吸い上げるようで、十秒も経たない内に諦観の心地となるのでありました。あの竹の手は視界に入れた者体に触れた者を、悉く悲哀
に染め上げるようであります。
何か急に惨めに思われました。ただキスだけを重ねてきただけの我が身が、哀しいほどに浅ましく思われたのであります。加賀殿に
追いつくことはできないという今更の事実が、裂くような痛みを伴って胸に馳騁する。
提督殿を馬鹿にできない情緒不安定さであります。気が付けば自分は、目の端から涙をぼろぼろと零しているのでありました。
「どうした?」
目を見開き聞く彼に、何も答えることはできません。何せ自分でも何が何やらといった心持ちなのであります。
彼の指が涙を拭い、再三のキスをされる。口惜く、羞恥を覚え、また危機感もある。怒りも、厭悪もあって、されど深層の心緒は悦
びに震え、また慰みに和らげられていたのでもありました。彼の舌が自分の舌を慰撫すると、むつかしい感情はたちどころに甘く蕩け
ていくようであります。
3
その夜、加賀殿の足音が何時になく荒々しかったことに、自分は背筋を凍えさせたのでありました。それは驚懼というよりも、想定
していた中で最も悪い展開になってしまったという、悔恨にも似た感情であります。
今にして思えば、提督殿がわざと加賀殿に見せ付けたのではないかとも考えられるのでありますが、今更真相を問えるわけも無く。
兎角当時の自分は、現代にタイムマシンの無い事をひたすら怨むばかりなのでありました。……死さえ覚悟していたのであります。何時
ぞやに、彼女に刺されて死ぬ空想をしていたものでありましたが、もうその事に羞恥や痛々しさを感じる余裕も無い。どうにか対策せね
ばと思惟を廻らすのでありました。
まさか馬鹿正直に謝るわけにもまいりません。到底許されるはずがないのであります。その日は眠れず、そして結論を得られるわけ
も無く、暁の紅を目にした時には半ば絶望的な心持でありました。
恐らく、同じ負の方向に傾いた感情を有していたために、行動も似てしまったのだと思います。朝、食堂に向かう前にトイレに赴く
と、目を真っ赤に腫らした加賀殿と鉢合わせしてしまったのでありました。
お互いに目を見開き、そして沈黙したまま挨拶もできない。硬直した体躯の足元を、じっとりと時間が過ぎてゆくのでありました。
結局そのまま何も言葉を交わさなかった事が、自分の不貞を覗き見られたという何よりの証拠となりました。苦々しげな表情のまま、彼
女は自分の脇を通り抜けて行ったのであります。
上がった心拍が落ち着きを取り戻すことはありませんでした。自分の部屋の中にいる時でさえ、何か睨みつけられているような気に
なるのでありました。膝を付き合わせた対話の機会でもあれば、この強迫観念はたちまち具体的な恐怖に取って代わっていたのでもあ
りましょうが、実際にはこのトイレでの面会以後、しばらく顔さえ見ない日が続くのであります。進展があったのは、四日後。
あの足音は日の経つごとに荒々しく、また病的な不気味さを湛えてゆく。提督殿との逢瀬もなくなり、いやそもそも彼が廊下を歩く
音はあのマックスコーヒーのキス以来ぱたり聞こえなくなったのであります。
加賀殿も、或いは浮気を黙認しようとしたのやもしれません。表面上はいつもと変わりなく、ただ彼と自分とだけが察す事のできる
不調を抱えているわけなのでありました。
彼のためとなるならば自身の思いは封殺する。そういった献身について理解の無い自分ではありませんし、もし逆の立場であったな
らば自分もそうしようとしたのでありましょう。ただ問題なのは、つまり自分が陸軍艦であり、またミッドウェーにおいて彼女の矜持
を著しく傷つけた、その元凶であったということであります。自分は毛頭その気はないのでありますが、彼女からすれば一時といえ旗
艦の座を奪い、挙句今度は彼を奪おうというのであります。忍耐なぞ、そう長く継続するわけはないのでありました。
毎夜ベッドの中にてビクビク身を震わせていた自分は、とうとうその音を耳朶にしてしまったのでありました。決して衝動的、感情
的なドタドタという音ではありません。ギッシ、ギッシ。厭にゆったりとした、それでいて何時もよりはっきりと響く幽鬼のような音
であります。一歩ずつ近づいてくるたび比例して背筋の痛くなってゆくほどの、冷たい覇気を放っている。
どうか通り過ぎてくれと心の中に唱え続けたのであります。甲斐あってか、その夜は対面せずに済んだのでありますが、自分の部屋
の前で一度ぴたりと足音の止んだ時などはもう生きた心地がしなかったのでありました。
彼女の過ぎ去ったおよそ三十分の後、再び足音が聞こえてくる。もうどんな響きであったかは言いますまい。提督殿は躊躇いの間を
充分に開けてから、戸をノックするのでありました。
その顔色は青白く、しかし表情は寧ろ軽いものでありました。もうこれ以上落ちることはないといった後ろ向きの安堵が、彼の憑き
物を落とした風なのであります。
「よく来れましたな」
自分は先ず開口一番にそう言ったのであります。皮肉でも嫌味でもなく、もっと純粋な感想でありました。提督殿は諦観の微笑をも
ってして応え、無言の内に部屋に入る。もう、断りをいれないほどに慣れていたわけなのでありました。
いつも通り自分はベッドに腰掛け、彼は円卓の前に胡坐をかく。提督殿は卓の埃を手で払ってから、視線も寄こさずに口を開く。
「お前を抱いたと加賀に言ったよ」
一体自分は、その言葉をどのように受け取ればよかったのでありましょうか。喜べばよかったのか厭悪すればよかったのか。その時
の自分は、何か彼に憐憫の情を抱いたのでありました。先述の“後ろ向きの安堵”を得たいが為に、自分から自分の首を絞めにゆく。
しかもそういった行為に救いを幻視しているらしいことが、益々惨めに思えたのであります。
何故嘘をついたのかなどとは聞けません。不貞を犯したとて体を重ねてさえいなければ、その罪は軽くなるのでありましょうか。無論、
この問いの答えは否であります。妻帯者に恋慕を抱く時点で、それは同等の罪なのであります。ましてや幾重にも接吻を重ねた身、懺
悔さえ許されない立場にあることは自明と思われる。
故に自分は、ただ彼を励ますばかりなのでありました。
「滑車でありますな。提督殿は」
「滑車?」
「ずっとひたすら同じところをぐるぐるぐるぐる悩んでいるのであります。前に進むこともせず」
「うん」
彼は苦々しく、眉を顰める。
追い詰められた者が即物的快楽を求めるというのは、感情を持つ生き物の共通する悪癖なのでありましょう。自分は寝巻きの上着を
はだけさせ、彼を手招くのでありました。
「嘘をつくのは、よくない事でありますな」
何とか羞恥を押さえ込み、気障ったらしく、誘惑の言葉を吐く事に成功したのであります。彼は諦観の微笑を持って、自分を褥に押し倒
すのでありました。
キスには慣れていたはずなのでありますが、天地の感覚の差異というのは中々に捉えづらいものでありまして、唇の端から唾液の零れ
出てゆく度、口惜しさに胸を焼かれるようでありました。意外だったのは、彼が白磁の陶器を取り扱うように自分を愛撫する事であり
ます。初めてだったので、気を遣うのももっともではあったのです。しかし以前覗き見た彼と加賀殿との行為がまだ頭にはくっきりと
残っていたので、普通に優しくされるという事へ漠然とした疑問を抱いてしまうのであります。無論それについて不満を抱きはしませ
んでした。安堵しましたし、嬉しくもあったのであります。
提督殿は体勢の窮屈さを意にも返さない手際の良さにて、するする服を脱がしてゆく。とうとう身に覆うものが無くなってしまうと、
差し迫った恥ずかしさに息も切なく、自分は目をぎゅっと閉じて逼迫した心緒の痛みをひたすら耐えるのみとなりました。
彼の接吻が鎖骨や首筋を撫ぜる度、自分の吐息の熱っぽさを自覚して、またそれが羞恥を掻き立てるのでありました。漏れ出そうと
する恥ずかしい声を必死に肺腑へ押し戻していれば、提督殿は目ざとくその意図を察して意地悪をしてくるのであります。突然に腰へ
手を伸ばしたり、果ては同じ場所へ口付けてこようとするのでありますから、自分はもう堪えられない。
実況やら焦らしやらにて散々に嬲られ尽くされ、もう思惟も霞だち始めた頃合、ようやく提督殿は段階を押し進めたのでありました。
幾ら総身が悦楽に蕩けていたといえ痛みは烈々と差し迫り、刹那のうちに意識もはっきりとしたのであります。
自分が痛みに鈍感であったのならば、どんなにかよかった事でありましょうか。それはただ熱く自身を貫くそれが、耐えがたいほど
に辛かったという訳なのではありません。ふわふわとした多幸感から急速に引き戻された思考の中、つい見てしまった彼の瞳。虚ろに
濁るそれが映していたものは、決して自分の泣き顔などでは無かったのであります。慣れ親しんだ加賀殿の、緩び媚びた表情を幻視し
ているに違いありませんでした。
明確な根拠などはありません。ただ、克明に感じ取ったのであります。自分は慰めの道具として必要に思われているに過ぎず、提督
殿の想いは常に加賀殿と寄り添っていたのであります。重ねてきたキスも今の繋がりも、仮初の戯れ事。自分にとっては重要な事なの
であったのだとしても、提督殿も同じ感慨を抱いているのかと言えばそんなことはない。
心の痛めば痛むほど、つまりそれが自分の浅ましさであります。抱くべきでない期待を勝手に抱き、叶うわけのない願いを夢想して、
それらが瓦解してゆく事に悲痛を覚えているのでありました。涙の滂沱とするその理由が彼に伝わらない悲哀というのは、しかし相応
しい罰なのでもありましょう。彼の精を迎え入れ、腹底の温かくなるのに比例して、虚しさも増大してゆく。キスをせがめば応えてく
れるのではありましたが、果たしてそれは自分の望んでいたものとは少し形の違うもののようでありました。
4
朝、隣に眠る彼の顔を見、何かまた悲しくなって涙が目尻を滑り降りる。昂ぶりの冷めた寂寞が、下腹の痛みをより苛ませるような
感覚でありました。時計を見ればもう四時半をまわったところ。起床時刻は六時でありましたので、二度寝してしまうのも不安なので
あります。まさか艦娘のがやがや群がる廊下を帰らせるわけにもいかないわけでありました。
身を起こし、彼の肩を揺すぶると規則的な寝息がぴたりと止む。倦怠な様子に瞼を持ち上げた提督殿は自分の姿に焦点を合わし、途
端むつかしい表情をとるのでありました。
「もう、帰った方がいいのであります」
ベッドから抜け出そうと身をよじるも、しかし彼の左腕が手首を掴みそのままかくんと引っ張ってくる。体勢を崩され、自分は堪ら
ず彼の胸にしなだれます。髪を梳かれ頬を撫ぜられ、その心地よさに思わず瞼を閉じかけたのでありますが、ある思惟が頭をよぎった
為にされるがままである事へ反発したくなったのでありました。つまりこんな恋人同士にするような睦みなど、ただただ虚しいだけな
のであります。
掛け布団を剥ぎ腕の範囲から離脱すれば、提督殿も渋々起き上がってくれるのでありました。暫時気だるい沈黙が流れ、不安と、そ
の不安自体無価値なものであるという諦観の感とが胸の内に充溢してゆくのでありました。ゆったりとした絶望の心地が堪えきれないほ
どに膨張して、
「これからどうしてゆけばいいのでありましょうか」
思わずそう泣き言を言ちると、彼は頭を撫でるだけ、依然黙したままであります。
最後に軽く触れ合うだけのキスをして、提督殿は立つのでありました。戸口にまで近づいた段にて、
「また、来てくれますか」
そう問うた自分は、その言の葉の言い終わる前より自己嫌悪に苛まれていたのであります。果たして薄弱な意思を抱えた首肯はそれ
でも幾らか自分を励ましてくれました。来るべき対話の時へ、改めて覚悟を定めたのであります。
朝食の後、変に間のある自由時間。何をするでもなく部屋にてベッドに横たわると、彼の香りの残滓が鼻腔をくすぐるのでありまし
た。静謐を取り戻した心は、幸福を享楽するのであります。長閑は自身の欲望を宥めてくれて、そしてその菩薩のような無欲の境地に
おいては、慕情の根源。つまり献身の念が表にたつのでありました。
彼が求めてくれる限り、自分もまたそれに応じよう。いつか彼が自身の疾患を克服して、自分を必要としない時が来るように。未来の
為に、心の痛みを捧げよう。穏やかな心緒にそう思いを決めたのでありました。
どれほどか経ち、戸をノックする者がある。誰かは分かっております。恐怖も焦燥も無いのでありました。自分は彼女を部屋の中へと
招き、円卓を挟んで対面したのであります。
加賀殿は真っ赤に腫らした眼に自分を睨みつけると、怒りを隠そうともせず険しく口火を切りました。
「どういうつもりなのかしら」
「それは、提督殿に聞いて欲しいことでありますな」
挑発の言を間髪入れずに発すると、しかし加賀殿は下唇を噛んで堪えたようであります。溜息一つ、大仰に吐き切り、拳を握りこんで
から一寸身を乗り出します。
「認めるのね」
「何を、でありますか」
「あなたは、提督を誑かした」
「……はて? なんのことか」
「もう全て彼から聞きました。今更、誤魔化そうとしないでもらえるかしら。……事実確認のためにここに来たのではないわ。これ
以上私の提督を貶めるなら、私はあなたに容赦しない。それを伝えにきただけ」
そういった物言いだから気まぐれも起こしたのでしょうにと、喉に出かかった言葉を飲み込んで、しかし自分は一向に収まりつかな
くなってしまった。冷静ではいられないなと、自分の心緒を客観視した気分でありました。
躊躇したのではありますが、
「加賀殿は、勘違いしておられる」
この言葉を吃りぎみに言い放ってしまいますと、もう昏い熱情を押さえ込むことは不可能でありました。
「どういう意味かしら」
「自分が提督殿を誘惑したのではないのであります。彼が自分を欲して、そして自分は応えた。ただそれだけのこと」
これを耳朶にした加賀殿はまず吃驚したように目を見開いて、しばし黙しておられた。言葉の理解が追いつくにつれ、次第次第に殺
気を迸らせ始めたのであります。
端から負けにゆく恋慕でありました。故にこの局面においてだけは、たといどれだけ罵られようとも、たといどれだけ堕ちようとも、
引くわけにはいかなかったのであります。妾が正妻に意見するなどおこがましい事なのでありましょうが、しかし自分は加賀殿以上に
彼のことを見てきたのであります。
「せ、責任逃れしているように、聞こえるけれど」
怒りに震える唇が、彼女を訥弁とさせたようでありました。自分はそんな加賀殿を見据え、遂に言ってしまった。
「無論、罪はあります。提督殿にもありましょう。……しかし自分に言わせれば、責任逃れをしているのは加賀殿。あなたのように
も見受けられる」
「な、何が……」
「そもそも彼の精神の変調に気が付けなかったあなたが悪いと言いたいのでありますよ。あの提督殿がただの気紛れで不貞を犯すと、
本気でお思いなのでありますか? 彼の抱えていたものを見ようともせず察そうともせず、自分だけがいい思いをして、挙句が“私の提
督を誑かすな”であるのだから、妻帯者というのは大変でありますな」
自分でも驚くほどに、性格の歪んだ声色でありました。
「それ以上口を開いたら、許さない」
冷え冷えとした加賀殿のすごみももう耳朶にはできず、自分はただ純粋な嘲笑の心地にて彼女を謗ったのであります。
「そうやって鈍感だから、彼の態度の変わったことにも気が付かないでいたわけでありますな。……提督殿が初めて自分に口付けて
くれたのは、ミッドウェーの終わった直後なのでありますよ」
卓が吹き飛び、加賀殿が自分を押し倒す。首に掛かった手の圧力が、自分の意識を薄れさせてゆきました。許さない、許さないと叫
び連呼された言の葉は、今でも耳にはっきりとしているのであります。
物音を聞きつけた艦娘が部屋に入り、加賀殿を取り押さえ宥めたとのことであります。だから依然自分は生きているわけなのであり
ますが、その場面は自分の記憶の中からは抜け落ちていて、恐らくもう意識の落ちていたということなのでありましょう。ただ刹那の
勝利に酔いしれながら生命を投げ渡していたわけなのでありますから、滑稽な事この上ないのであります。
未だに関係は続いているのであります。夜を越すたび、いつかの終端が迫ってきます。この頃は提督殿も精神の健康を取り戻しつつ
あり、つまり自分が必要とされなくなる日も近いのでありましょう。……万事、これで良いのであります。一時の快楽が自分には過ぎ
たる幸福で、それが永劫続くとなればとても堪えきれるものではない。正しい日常が戻るだけ。憂いを抱く必要は無いし、寂寞に思う
ことも無い。
気が付けばもうあの因縁のプレハブも壊され果てて、自分と彼とを繋ぐ絆に何の証左も無いのでありました。
最終更新:2014年12月26日 21:16