あらまし
許敬、許敬の子の
許訓、許訓の子
許相は三世並んで
三公となった。しかし、それは宦官に諂いつかえた故の台司(三公の地位)、封侯であったという。
許相の従兄弟(一族の同世代の子)の
許劭は名節と人物批評で著名となり、大きな影響力があった。許劭は許相らに幾度も任官を請われたが、彼らの薄行をにくんで応じず、また乱世を感じて朝廷を、ついで
陶謙、
孫策を避けて
豫章郡で生を終えた。
許劭は同じく従兄弟で名声高かった
許靖とも不仲であり、これによって両者の名声は少しく損なわれることになった。
許劭、許靖らはまだ親密であった頃、好んで郷里の人物を論評し、毎月一日にその品格を改定した。汝南郡ではその評を俗に
月旦評と呼んだ。
許靖もまた、のちに揚州に逃避し、孫策の侵攻を避けて遥か交州を経て
益州の
劉璋に身を寄せ、劉備の蜀漢で最高級の待遇を受けて
司徒となった。
許劭の兄の
許虔もまた名を知られた人物であり、汝南の人は「平輿の淵に二龍有り」と称えた。平輿県には後代、これらに因んだ「二龍郷」、「月旦里」が存在したという。
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最終更新:2015年12月28日 22:18