弘農王妃唐氏、または唐姫は、後漢後期の人物。帝位を廃された弘農王劉弁の妻。董卓の命によって李儒が夫に自殺を強いた際に同席し、別れの歌を交わした。後に賈詡のはからいで献帝に保護され、弘農王妃の位を拜した。


情報

唐姫
(不詳)
(不詳)
本貫地 潁川郡
唐瑁
弘農王劉弁妻 弘農王妃


事跡

 初平元年(190年)、董卓の乱を討つために山東に義兵が起きると、董卓は弘農王国の郎中令李儒に命じて弘農王劉弁に(ちんどく)を進めさせた。李儒は「この薬を服せば、悪を避けることができます」と言ったが、王は「我に疾(病)は無い。これが我を殺さんと欲するだけだ」。と飲むのを承知しなかった。李儒は強いてこれを飲ませ、劉弁は已を得ず、妻の唐姫や宮人と飲讌(酒席)を開いて別れを告げた。酒が回ると、王は悲歌して曰く、

「天道は易きも、我は何ぞ艱しきか 万乗を棄て、退き蕃を守る 逆臣見え迫り、命は延びず 逝くはまさに汝を去って 幽玄に適(ゆ)かんとす」

 因って唐姫(弘農王妃唐氏)を起ち舞わせ、姫は袖を抗(挙)げて歌い曰く、

「皇天は崩れ后土は穨(くず)れ 身は帝となるも命は夭摧す 死生は路異ってこれより乖(たが)う いかにすればよろしいか、我が煢独(孤独)にして心中の哀きを」

 因って涙が零れて嗚咽した。座す者は皆歔欷(すすり泣き)した。王は姫に告げて、
「卿は王者の妃である。勢い、また吏民の妻とは為らぬ。自愛せよ。これより長の辞(わかれ)だ!」
 薬を飲んで死んだ。
 王が薨去すると、姫は潁川郡の郷里に帰った。父の会稽太守唐瑁が新たに嫁がせようと思ったが、姫は誓って許さなかった。
 しかし、李傕が長安を攻略すると、兵を遣わして関東を寇掠し、唐姫も囚えられた。李傕は姫を妻にしようと思ったが、姫は固く言うことを聴かず、あくまで自分からは名乗らなかった。尚書賈詡がこれを知り、状況を献帝に報告した。
 帝は聞いて感傷に浸り、詔を下して姫を迎えて帝室の園中に置き、侍中に節を持たせて(持節)使わし、姫を拜して正式に弘農王妃とした。


年表




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関連項目・人物

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最終更新:2016年01月05日 19:10