諫議大夫(または諫大夫)とは、政事を論議し、天子を諫める任を負う
大夫である。
光禄勲に属するが、後漢では文書上のものとなり、天子への直属を深める。
目次
歴史
武帝元狩五年、初めて諫大夫を置く。
中興後、諫議大夫と為る。
位
(前漢)
無員、秩比八百石。
(後漢)
無員(或いは三十人)、秩六百石。
職掌
(前漢)
論議を掌る。特に天子に諫争するを任とするか。
(後漢)
およそ大夫は、みな顧問応対を掌る。
常事無く、ただ詔命の使う所となる。
属吏・属官
常職無く、ゆえに属官も無い。
所属項目(タグ)
関連項目・人物
「諫議大夫」をタグに含むページは1つもありません。
詳説
諫議大夫は、他の大夫と同じく、天子に顧問応対し、論議を掌る。とりわけ、その名の通り天子を諫めることを期待された官と考えられる。日頃処理する職務はなく、故に
印綬も持たない。
拜命されるのは、「好学明経」などとする
儒士が目立つ。宣帝期の
王吉は
法治の傾向を批判して礼制を定めるよう求め、哀帝期の
楊宣は経学に基づいた建言を行った。
周挙は順帝から災異の頻発を問われて叛乱を予見し、殤帝崩御後に廟堂の序列を議論している。
諫言の具体例としては、
勝は諫官に居り,しばしば上書求見し,言百姓の貧、盜賊の多、吏の不良、風俗の薄、災異がしばしば見られ憂えざるべからずを言うた。(『漢書』龔勝伝)
密かに孝成皇帝の時を見るに、外親が権を持し,私する所の人々を牽引し以って朝廷を充塞して、妨賢人の路を妨いだため、天下を濁乱し、奢泰(奢侈)は度をうしない、百姓を困窮させたのであります。……(鮑宣伝)
故の稲田使者の燕倉が先ず発覚し、以って
大司農の敞に告げ、敞は諫大夫の延年に告げ、延年以って聞く。
丞相徵事任宮が手ずから傑を捕らえ斬り、丞相
少史の王壽が安を誘い將って府門に入れ、みなすでに誅に伏し、吏民は安を以って得た。
と、諫大夫は
朝廷の内外を結んで告発を天子の上聞に達せしめる、重要な役割を果たしている。
また、『百官志』の「詔命の使う所となる」の如くに使者として高官や地方に派遣された記述も多い。。
前漢では、
或いは言う、益州に金馬碧雞の神が有り,醮祭して致すべし,是れに於いて諫大夫王襃を遣わし、節を使持してこれを求む。(郊祀志)
「朕は先帝の休烈を承け, 夙夜に栗栗とし,任に克らぬことを懼れる。この間に陰陽は調わず,五行は序を失い,百姓は饑饉す。烝庶(多くの庶民)の失業をおもい,臨遣諫大夫博士の賞ら二十一人に臨み遣わして天下を循行させる。存問 耆老、鰥寡、孤獨、乏困、失職の人,舉茂材特立之士。……」(元帝紀建昭四年)
また、
乘馬延年は河水の決壊に際し計算に秀でる故に治水に派遣された人物である。
霊帝期の末には、
种劭が
何進に召された
董卓の帰還を留める使者として立っている。
大将軍何進はまさに宦官を誅せんとし、并州牧董卓を召した。澠池に至ると進の意が更まり、狐疑して、劭を遣して宣詔してこれを止めた。卓は受けず、遂に前して河南に至った。劭は迎えてこれを労わり、因りて譬し還軍を令した。卓は変有るを疑い、軍士を使して兵を以って劭を脅した。劭は怒り、詔を称して大呼しこれを叱り、軍士は皆披き,遂に前して卓を質責した。卓は辞屈し,乃ち夕陽亭へ軍を還した。
また、本来常職の無い官であるためか、
杜緩や
朱儁のように武功を挙げた将が帰還して一時留まったり、
蓋寬饒、
陳禅、
段熲、
劉猛のように高官が罪を得て左遷される受け皿でもあったようである。
-
最終更新:2014年12月23日 13:56