於扶羅(または
於夫羅)は、後漢後期の
匈奴人。
南単于の
羌渠の子。
中平年間、漢が
匈奴の兵を発した際、兵を率いて漢を助けたが、匈奴本国の反に会い、父が殺され、
於扶羅はその衆を率いて中国に留まり群雄諸侯と勢力を競うこととなった。
弟に
呼廚泉。子に
劉豹。孫は前趙の始祖
劉淵。
情報
於扶羅 |
種族 |
南匈奴 |
家柄 |
新興匈奴 |
父 |
羌渠 |
位歴 |
右賢王 南匈奴単于 |
死去 |
興平二年(195年)、立ちて七年にて死。 |
諡号 |
持至尸逐侯単于 |
子 |
劉豹 |
事跡
南単于の
羌渠の子として
右賢王となる。
中平年間(184-189年)、
黄巾の乱が起きると、匈奴の動員発令を受け、兵を率いて漢を助けた。
中平四年(187年)、
魚陽郡で
張純らが叛乱し、
鮮卑を率いて辺郡を寇した。漢が匈奴兵を動員して
幽州牧の
劉虞の下に配した。
羌渠は
左賢王を遣わした。
五年(188年)、南匈奴の国人は発兵がやまないのを恐れ、右部の
䤈落が休著各胡・白馬銅らと共に十余万人で叛乱し、羌渠を攻め殺し、
須卜骨都侯を単于に立てた。
於扶羅は
洛陽宮の
闕に詣って訟え、南単于に立った。その後本国へ帰れずに中国に留まった。
六年(189年)、
霊帝が崩御して天下が乱れると、叛乱して
白波賊と連合し、
太原郡、
河内郡を破り、さらに諸郡を略奪した。しかし、当時は民衆がみな集まって勢力を保ち、略奪の利益がなく、兵も損害を受けた。須卜骨都侯は即位一年で死去しており、於扶羅は本国に帰還することを願ったが、国人に受け入れられず、
河東郡平陽県に留まった。以後、南庭(南匈奴の政堂)に主はなくなり、老
王によって国事が行われた。
初平元年、討董卓の兵が起きると
張楊と共に
袁紹に附き、
漳水に駐屯した。
初平二年(191年)、袁紹が
韓馥の冀州牧の地位を欲し、韓馥が自ら譲ろうとした。冀州都督従事の
趙浮と
程奐が反対し、韓馥に曰く、
「袁本初の軍には
斗の糧も無く、各己に離散しております。張楊・
於扶羅が有って新たに附いたと雖も、未だ肯えて(自ら進んでは)用を為さず、敵とするに足りません。
小従事らが請いますに、自ら見兵(領兵)を以ってこれを拒みたくおもいます。旬日(十日)の間に必ずや土が崩れるように瓦解することでしょう。明将軍(韓馥)は、ただまさに閤を開き枕を高くしておくべきであり、何の憂い、何の懼れでしょうか」
韓馥は受け入れず、袁紹に州牧を譲ったが、於扶羅は後に叛いた。
袁紹・張楊が従わなかったため、於扶羅は張楊を
執えて袁紹の許から去った。袁紹は
麹義を使わして追撃した。於扶羅は
魏郡鄴県の南で破れ、張楊を執えたまま
黎陽県へ至り、
度遼将軍耿祉の軍を攻め破ってまた軍衆を振るわせた。
初平三年(192年)、魏郡
内黄県で曹操と戦ったが敗れた。
初平四年(193年)、袁術が軍を率いて
陳留郡に入り、
封丘県に屯した。於扶羅は
黒山賊の余賊と共に袁術を佐け、曹操と匡亭で戦ったが大敗した。
興平二年(195年)、死去。弟の
呼廚泉が単于に立って跡を継いだ。
年表
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関連項目・人物
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最終更新:2016年02月14日 22:04