剣聖の決意、狂犬の末路◆cNVX6DYRQU



「ガアアアアッ」「はっ」
森の中に掛け声と鋼の打ち合う音が辺りに響き渡る。
戦っているのはどちらも侍だが、その姿は対照的と言って良かった。
一人は三十前の男で、着物も顔も汚れ切り、浮浪者と区別の付かぬ格好ながら目だけが爛々と光っていた。
男の名を岡田以蔵、人呼んで人斬り以蔵と言う。
対するは六十歳程の身形の良い老人であり、その顔にも所作にも気品が漂っていた。
老人の名は上泉信綱、剣聖と呼ばれた新陰流開祖上泉伊勢守である。

「グアアアアアアアッ」「むっ」
以蔵が真っ向から叩きつけてくる野太刀を信綱が辛うじて受け止めるが、その勢いに押されて体勢が崩れる。
「グウウウウゥ」
以蔵はそのまま体重を掛け、凄まじい強力で刀ごと信綱を圧し切ろうとする。
信綱は手にした刀の頑丈さにも助けられつつそれを凌ぐと、一瞬、以蔵の剣圧の向きを反らし、手首を掴んで投げ飛ばす。
「ギャッ」「くっ」
以蔵は投げられつつも空中から信綱を薙ぎ、信綱は飛び退くが浅く足を切られる。
そして、以蔵は信綱が体勢を立て直す前に宙を転がって地に降り立つと、太刀を構えて突進する。
「ラアアアアアアッ」「やっ……ぐっ」
以蔵の突きを信綱はどうにか逸らすが、太刀の後にやって来た以蔵自身の身体にぶち当たり、跳ね飛ばされる。

上泉伊勢守と言えば日本剣術史上最高の名人との呼び声高い大剣豪である。
無論、岡田以蔵とて相当の達人には違いないが、それでも格に於いては信綱が一段上との見方が一般的だろう。
だが、現実は明らかに以蔵が押し捲り、信綱がやっとしのいでいる有様だ。
剣聖の実力が評判ほどではないのか、あるいは戦国から幕末までの剣術の発展がさしもの剣聖をも追い越したのか。
真実はそのどちらでもない。
剣の道を志し、陰流を始めとする幾つもの剣術流派の奥義を極め尽し、更に工夫を加えて新陰流を興して以来、
天下を巡ってあらゆる奇剣・妖剣、果ては忍術や妖術とも対戦したが、信綱の剣の前に屈さぬ者は一つとして無かった。
以蔵が如何に精妙な術を使おうと、信綱がこうも防戦一方になる事は無かったであろう。
しかし、以蔵は術も技も全く使っていないのだ。
江戸で習い覚えた鏡心明智流も、土佐で師の武市半平太に叩き込まれた一刀流も以蔵の頭からは完全に抜け落ちている。
ただ信綱に向かって真っ直ぐに突き進み、真正面から剣を叩き付ける、ただそれだけだ。
その上、人の心すらも失ったかのように、以蔵は先程から言葉も発せずに獣の如き咆哮を上げ続けている。
敵が技で攻めて来るのならば、その本質を見極め、逆に利用して相手を打ち倒す事が出来よう。
敵に人間らしい精神の働きがあれば、心理戦で動揺させるなり位で押すなりして制圧する手もある。
だが、技も無く心も無く一個の獣と化して向かって来るこの男に対してどう立ち向かえば良いのか。
嘗て剣豪将軍足利義輝に最強の剣を問われた信綱は、
「膂力体格に恵まれた者が大上段から振り下ろすに優る剣は無い」
といった趣旨の答えを返した事がある。
信綱が戦っているのは正にその最強の剣の具現、剣聖の唯一の天敵とも言う可き存在なのである。
苦戦するのも当然と言えよう。

(やむを得ぬか……)
遂に信綱は或る決意を固める。
信綱は新陰流を興すに際して特に陰流をその基としたが、全ての技を忠実に移植した訳ではなく、改変した物もある。
その一つを改変前の、即ち陰流の型で使う事にしたのである。
「はあっ」
気合いと共に信綱は突進して来る以蔵に向けて刀を投げ付ける。
しかし、手元が狂ったのか刀は以蔵の頭上を抜け、後ろの樹に峰を上にして深々と突き刺さる。
そして、信綱は投げた刀の鞘を構えると空に跳んだ、それも一丈余りの高さ迄も。
これこそが陰流奥義猿飛……信綱の師である愛洲移香斎が鵜戸明神より授けられた秘技である。
新陰流にも同名の猿飛と言う型はあるが、これとは全く異なるものに置き換えられている。
それは陰流猿飛の前提となる超人的な跳躍力がた易くは身に付けられないという理由もあるが、
何より信綱が陰流猿飛を使用者を危機に陥れかねない邪剣と判断した為である。
敵が猿の如き跳躍力で周囲を跳び回り、或いは頭上から襲われれば確かに大抵の剣客は動揺し、隙を生ずるだろう。
だが、もしも敵がこちらの動きに惑わされず、冷静さを保ったままであったら……
その危惧が今、実現しようとしていた。
以蔵は信綱の思いがけない動きに驚く事も焦る事も無く、頭上の信綱を得物ごと叩き斬らんと渾身の一撃を叩き込む!

ガキッ!
鈍い音と共に二つになった鞘が弾け飛ぶ。
だが、刃は信綱にまでは届いていない。
もしも信綱の手に有ったのが尋常の鞘や刀であれば信綱自身も諸共に斬られていただろう。
支給された鞘が並外れて頑丈だったからこそ、己が破壊されるのと引き替えに信綱の身を守りきったのだ。
そして、信綱は以蔵の斬撃の勢いを利用して更に跳び、先ほど飛ばした刀の峰の上に着地する。
以蔵も素早く振り向いて樹に刺さった刀を握るが、その前に信綱は更に跳躍を繰り返して木々の中に消えて行った。

「グオオオオオオオッ」
信綱に逃げられた以蔵が苛立ちの余り樹から引き抜いた刀をその樹に叩き付けると、凄まじい音がして樹が倒れる。
切り倒されたのではなく、衝撃によって幹が砕かれたのだ。
如何に以蔵が怪力であってもこの腕力は尋常ではない。
胸の奥で燃え盛る昏い炎が以蔵の潜在能力を解放し、普段の数倍の筋力を発揮させているのだ。

岡田以蔵は土佐の足軽の家に生まれたが、同じく土佐の郷士である武市半平太に出会って運が開けた。
半平太は以蔵の剣才を見込んで引き立て、それから以蔵は剣術修行や尊皇攘夷活動を半平太と共にする。
以蔵はその凄まじい殺人の技で志士達の間で知らぬ者の無い程に名を馳せたが、それは飽くまで人斬りとしての名だ。
志士として恩人半平太を助けているつもりだった以蔵本人と世間との溝は余りにも深かった。
土佐に政変があって捕えられ、厳しい拷問を受けても志士を自認する以蔵は決して口を割らなかったが、
半平太や志士達は以蔵が自白して自分達の身に危難が及ぶのを恐れ、毒殺しようとした。
以蔵の鍛え抜かれた身体は毒にも耐えたが、敬愛する半平太に疑われ殺され掛けたことで以蔵の心は呆気なく壊れた。
その後どうしてこの場に連れて来られたかも、あの男が言っていた御前試合云々の話も、以蔵は殆ど理解してない。
ただ判るのは、自分を此処に連れて来た連中も、自分を尊皇の志士ではなく人斬りとしか見ていないという事だ。

(いいだろう、殺してやる。こうなったら誰も彼も、みんなぶち殺してやる!)
自分に全てを与えてくれた人に裏切られた以蔵は、皆が期待する通りの人斬りになる事を決意していた。
何も考えずに剣を振るい参加者も主催者も、いや、地上の生けとし生ける者を殺し尽してくれようと。
獣は行く、獲物を求めて町へと走る。

【へノ弐 森の外れ/一日目/深夜】

【岡田以蔵@史実】
【状態】狂乱状態
【装備】野太刀、研無刀
【所持品】なし
【思考】
基本:目に付く者は皆殺し。
【備考】
※死亡直前からの参戦です。
※狂乱によって一時的に身体能力が上がってます。
※ヘノ弐の森の中に岡田以蔵と上泉信綱の支給品一式が入った行李が放置されています。



(これが兵法天下第一と称された剣客の姿か)
傷を負い、武器を失い、捨てた筈の邪剣を使って漸く逃げ延びた己を信綱は自嘲する。
「あのような者を救えずして、何が活人剣か」
信綱の眼は、以蔵が生まれ乍らの獣ではなく、その胸の奥に強い哀しみと怒りが渦巻いている事を見取っていた。
信綱はそうした強すぎるが為に苦しむ者を弱くしてやり、救う事こそ兵法の意義だと考えている。
それなのに自分はあの苦しみ悶える獣を救ってやる事が出来ず、無様に逃げてしまった……
「だが、このまま放っておく訳にはゆかぬ」
以蔵は己の身体への負担を省みず、持てる力を全開にしていた。
あの調子で暴れ続ければ遠からず身体が耐え切れなくなり、己自身の力によって死に到るだろう。
その前に何とかして止め、救ってやらなければ……それがどんなに困難であっても。
そして、救うべきはどうやらあの男だけではなさそうだ。
あの白洲……この御前試合の参加者が集められた場には強い哀しみ、苦しみ、狂気が渦巻いていた。
それらについても出来る限り晴らしてやりたいと、信綱は考えている。

(これは我が人生でも最も分の悪い勝負になりそうだが……何としても勝ってみせる)
勝負……そう、信綱の最終目標はこの御前試合での勝利、剣聖はこの戦いに乗ったのだ。
と言っても、他の参加者を殺そうと言うのではない。
相手を殺さず、制して負けを認めさせる事を繰り返して優勝しようと言うのだ。
そのような優勝を凄惨な殺戮劇を望んでいるであろう主催者が認めるか……認めさせてみせる。
新陰流が活人剣を標榜している以上、新陰流開祖である信綱が行くべき道はそれ以外に無い。
単純に参加者を皆殺しにして優勝するより、主催者を倒すよりも遙かに険しいこの道を信綱は選んだ。
手に武器は無く、足の傷は無理な跳躍を繰り返したせいでかなり悪化している。
そして何より、今の信綱はたった一人の参加者にすら敵わず、命からがら逃げ出してきた身なのだ。
どう考えても絶望的な戦い……それでも信綱の決意は微塵も揺らがない。
悲壮な決意を胸に、剣聖は再び歩み始める。

【ほノ壱 森の奥/一日目/深夜】

【上泉信綱@史実】
【状態】健康、足に軽傷
【装備】なし
【所持品】なし
【思考】
基本:他の参加者を殺すことなく優勝する。
一:あの男(岡田以蔵)をなるべく早く見付けて救う。
【備考】
※岡田以蔵の名前を知りません。

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試合開始 岡田以蔵 血だるま剣法/おのれらに告ぐ
試合開始 上泉信綱 旅は道連れ、世は情け

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最終更新:2009年04月08日 22:33