血だるま剣法/おのれらに告ぐ◆F0cKheEiqE



獲物を求め、休む事も知らず、ただ夜道をひた走る一匹の狂犬がいる。

その狂犬は、左右に長い太刀を引っ提げ、月代はおろか髷すら結わぬ蓬髪を風に靡かせ、
血や土や埃で汚れきった着流し一枚に、粗末な腰帯を一つ締め、
ぼろぼろで今にも潰れてしまいそうな草鞋を素足に直接履いている。

顔も着物と同様、血や埃でドロドロに汚れきっており、
元々どちらかと言えば細い頬は、斬って削いだ様に扱けて、
その異様な精気に輝く恐るべき双眸がなければ、乞食浮浪者にしか見えないだろう。

口からは、グォォ、と人の発するとは思われぬ異様な獣の如き呻きあげ、
一心不乱に唯走り続ける姿は、正に鬼気迫ると言う形容が相応しい…

この男、岡田以蔵が以上の様に走り始めていったいどれ程の時が経ったか。
小半刻ほどだったかも知れないし、それ以上、あるいはそれ以下だったかも知れない。

一つだけ確かな事は、最初に遭遇した老人、“剣聖”上泉伊勢守を除いて、
この島の南西部に広がる城下町や、
聳え立つ帆山城の天守閣がすぐそこに見える程度に城下に近づくまでの過程では、
人っ子一人出会わなかった事だけであろう。

だが、そんな寂しい孤独な道行きも、これで終いだ。

城下には恐らく人が集まっているだろう。
老いも若きも、男も女も。

多くの人が集まっている事だろう。

そして、その全ての人間が余すことなく、以蔵の『復讐』の対象なのだ。
このまま走れば、すぐに到達できるほどの距離に、橋の様な物が見えてくる。
外堀で隔てられた城下町と外とを結ぶ『渡し』の一つだ。

求めるものが見えて、以蔵は初めてニコリと血笑し、さらに足を速める。

ただでさえ異様に速かった足をさらに速めた為か、
草鞋の緒が切れて、ボロボロだった草鞋の片方が、バッとほつれながら宙に飛ぶ。

砂利などで、たちまち以蔵の足はズタズタになるが、気にとめない。
そもそも、ここに来るまでの間に、伊勢守との戦いや、野の草や枝の為に、
彼の体には少なからず傷が付き、血を滲ませているのだが、
彼は見向きもしないのだ。

正に、葉隠れに言う『死狂ヒ』の境地に、彼はあった。


『渡し』は既に目前であったが、その時であった。
ユラリと、陽炎の如く、『渡し』の上に、細い人影が一つ、出現したのである。
黒装束を着たその男は、まるで闇から抜け出て来たの如くであった。

常人なら少なからずぎょっとする様な不気味な出現であったが、
今の岡田以蔵は尋常の精神状態に無い。

グ ォ ォ ォ ォ ォ ォ ォ ォ ォ ォ ッ !

獣の如き咆哮を挙げ、頬まで裂けるような邪悪な笑みを浮かべると、
二本の凶刃を天に振り上げ、黒い青年に襲い掛かったのであった。

『渡し』の上で刃鳴が散った。


岡田以蔵は土佐の『郷士』の生まれである。

『郷士』と言う階級は、江戸時代においては実に複雑な存在であり、
その定義付けにはかなりの解釈の違いがあり、一概に語る事は出来ない。

ただ、土佐において『郷士』と言えば、土佐藩主の一族である山内一族が入って来る前、
土佐を支配していた土着の長宗我部氏に仕えていた在地の武士達の事である。

関ヶ原の結果、西軍についた長宗我部氏は改易になり、土佐は山内一豊の知行地になったが、
彼ら長宗我部氏遺臣団は山内氏に支配に抵抗し、たびたび一揆を行った。

山内一豊は断固としてこれを粉砕し、
結果、長宗我部氏遺臣団は、外来の山内の家臣達『上士』より下に位置する『郷士』として、
山内氏の土佐支配の機構に組み込まれてしまったのである。

『郷士』は一応名目上は武士階級であるが、
『上士』との身分差は絶対的で、『郷士』は徹底して差別され、
直接刃を交えるような戦いは、慶長八年の「滝山一揆」以来途絶えたものの、
水面下での陰湿な対立は幕末まで続いた。

岡田以蔵はこの『郷士』の生まれなのだ。

一応彼は父の由来で上士である「足軽」の身分を持っていたが、
それでも、武家社会の最底辺に属することには変わりはない。


彼は人間としてかなり歪んだ精神の持ち主であった事は周知の事実だが、
彼の人格形成にこの生まれの卑しさが深く関係しているのは、恐らく間違いあるまい。

長い江戸を通じて、武士階級の大半は困窮し、下級武士など、
なまじ身分的制約故にその生活は悲惨なものだったと言うが、
岡田家も決しては豊かではなかった。

武市半平太に誘われ、小野派一刀流に入門した以蔵だったが、
道場稽古では度々常軌を逸した凶暴性を見せたという。

恐らく、生まれの卑しさに故に、
常に見下げられて生きてきた事に対するねじくれた怨念が、
時に噴出し、数々の乱暴に結実したものだと思われる。

土佐勤王党に入った後も、
『腕は立っても、それだけしか能の無い、無教養で卑しい生まれの男』と言う、
周りの偏見の目は変わらなかった。
否、なまじ腕が立ったが為に、数々の暗殺の血名と共に、一層恐れられ、煙たがられた。
そして、回りが彼をのけ者にすればするほど、以蔵はより一層世を拗ね、精神はねじくれ、
それ故に世間のとの溝はさらに深まると言う負の螺旋は、
下方へと向けて怒涛の如く下がるにまかせていた。

この負の螺旋が極まれば極まるほど、反動の様に武市への精神的依存も強くなっていった。

以蔵にとって、武市はこの世にあって唯一信頼できる人物であった。
神のように信頼してもいい人だと信じていたのだ。

その武市が、彼を裏切った!

武市に対する絶対的な敬愛は、
最早収まること知らないこの世への憎しみ、そして怒りとして爆発した。

果たして彼は、彼を見下げ続けたこの世に対する復讐を開始したのである。


月下の『渡し』の上で、血煙りが宙を舞っていた。
しかし、それを生み出しているのは、以蔵の二本の凶刃では無い。

意外な事に、その発生源は鱠切りにされた以蔵の肉体であった。

「ガァァァァァァァッ!」
獣の如き咆哮と共に、二本の豪刀がぶぅんと唸りをあげて振るわれる。
一刀流はおろか、介者剣術ですら無い盲目滅法な出鱈目な太刀筋だが、
箍の外れた恐るべき怪力によって風車の如く振るわれる白い刃の旋風は、
まるで台風の様であり、迂闊にその射程圏内に入れば、
力任せにブツ切りにされるか、怪力に弾き飛ばされるか、といった具合の凄まじさであった。

にもかかわらず…

ゆ ら り 

以蔵と対峙している黒装束の美貌の若者の影が揺らぐ。
つい先ほどまで青年があった空間を、空振りの豪刀が通り過ぎた。
そして、

ゆ ら り 

再び青年の影が揺らぐ。
気が付けば、青年は以蔵の懐に飛び込んでいた。

「グォッ!」
以蔵は急いで青年に向けて太刀を振るうが、
青年は逆手の脇差を振るうと、
例の奇妙な動きで以蔵の太刀をかわしながら間合の外に逃げ出してしまう。
再び以蔵の太刀は空を斬ったのみで、
以蔵には新たな傷が一筋増えていた。

致命傷には程遠いが、傷よりの出血は確実に以蔵の体力を奪っていく。
既に全身の彼方此方に同様の傷を無数に作った以蔵は、
流れ出る自身の血液により血だるまになっていた。




さきほどから、これの繰り返しであった。
今の以蔵の豪刀は、一撃でも相手の体に触れれば、
ただ斬れるでは済まない恐るべき重傷を相手に与えるだろう。

だが、触れられないのだ。

『渡し』の上に突如出現した黒衣の青年は、
逆手に構えた脇差以外には如何なる武器も持ってはいなかったが、
にも関わらず以蔵はかつてない苦戦をこの青年相手に強いられていた。

苦戦の原因は、青年の奇妙な動きにあった。

それはおよそ一切の流派に、聞いた事も見た事もない奇怪な動きであった。

まるで地面を滑るような奇妙なその歩法は、
緩急自在に流れるように動き、
まるで陽炎でも相手にしているかのごとく以蔵を幻惑し、
以蔵の豪刀は悉くこの動きにすり抜けられてしまう。

そして、気が付けば相手はこちらの懐に入り、逆手の脇差で斬りつけて来るのだ。

否、脇差ばかりでは無い。
空いた片方の拳、両の足すらも青年は自在に操り以蔵を撃つ。
“柔”と動きを異にする、以蔵にとって未知のその格闘術に、以蔵は為す術も無い。
恐らく、理性がある時の以蔵でもこれには抗しがたかったであろう。
青年の操る“拳法”は、土佐の田舎者である以蔵など知る筈もない、
日本の格闘技とまるで体系が異なる大陸伝来の武術なのだから。

常の剣術の使い手で、この若き美貌の“忍法”剣士、
四乃森蒼紫に対抗できる剣士がどれほどいるだろう。
弱冠一五にして、御庭番衆御頭の地位を先代より継いだこの恐るべき若者は、
『流水の動き』という、独自の技を操る。

『流水の動き』

その名如く、まるで己を流水であるかのごとく、
緩急自在に移動し、相手の攻撃を避け、幻惑する技である。
静動のハッキリとした常道の剣術を修めた者には、
その動きを見切るのは著しく困難だ。
ましてや、技も忘れた今の以蔵には不可能と言っても過言では無い。

皮肉な話だが、先ほど以蔵が圧倒した上泉伊勢守ならば、
蒼紫の『流水の動き』の動きとて容易く破ったであろう。

いかにそれが異形の剣であろうと、
天下を巡ってあらゆる奇剣・妖剣、果ては忍術や妖術とすら対戦し、
その悉くを打ち破ってきた伊勢守に見切れぬはずなどあるまい。

技無きが故に伊勢守を退けた以蔵は、
今度は逆に技無きが故に、
この技術主義の極致ともいえる『流水の動き』に手も足も出ないのである。



青年と以蔵が遭遇してから早十分…

以蔵の足元には血の池が広がっていた。
全身余すことなく刀傷と打撲に覆われ、凄絶無比の様相を呈している。

一方、蒼紫の体には傷一つ無く、怜悧な美貌には笑み一つ浮かんでいなかった。

(そろそろか)

蒼紫は、地面に染み込んだ以蔵の血の量と、
息の上がりきった現在の以蔵の様子を見て、
この勝負の終りの時も近いと判断した。

以蔵の二本の豪刀…
あれは危うい。
“天才”のあだ名に恥じぬ蒼紫の慧眼は、
以蔵の二本太刀の秘める恐るべき威力を即座に喝破したが、
それ故に以蔵の剣に真っ向から立ち向かうという道を真っ先に捨てた。
技も糸瓜も無い滅茶苦茶な太刀筋だが、
力のままに振るわれるその剣速たるや相当なモノであり、
蒼紫と言えども迂闊に踏み込む事は出来ない。

突っ込んでくる猪に真っ向から構える猟師などいない。
蒼紫は、イスパニアの闘牛士のように、
徐々に徐々に以蔵の体を傷つけ、体力を奪う戦法を執った。

そしてその戦法は確実に効を現しつつあった。
依然、獣の様な呻き声をあげつつ太刀を振り回す以蔵だったが、
その剣速は確実に速さを失い、足はふらつき、息は上がりきっている。

自制する事無い無軌道な体の行使と、大量の出血が、確実に以蔵の体力を奪っていたのだ。

「最後に…御庭番衆剣法の真髄で屠ってやろう」

最早何太刀目かすらわからぬ空振りを避け終えた蒼紫は、怜悧な無表情のまま、
血走った眼でこちらを睨みつける以蔵にそう抑揚の無い声で告げた。

ゆらり、と蒼紫の姿が揺らぐ。
しかし、それからの動きが、これまでの彼の動きとは一変していた。

まるで踊るような、正に剣舞の如き誘幻的な太刀の運びをしながら、
ゆっくりと以蔵の周囲を回り始めたのである。

それは、長い歴史を持つ隠密御庭番衆により編み出された実戦剣舞…

「終りだ…」


蒼紫のかつてない動きに、本能的に危機感を覚え、
一層出鱈目に振るわれた以蔵の太刀筋をするりと避けた蒼紫は、
いつの間にか以蔵の背後で跳躍し…

ザンッ!

「流水の動き」の真髄、『柔』からの翻る様な『激』への反転、
疾風の如き三筋の剣撃は、とっさに盾の如く翳された以蔵の研無刀もろとも、
以蔵の胸部を三筋に断った。

回転剣舞

四乃森蒼紫が、これまで江戸城に侵入した敵隠密を、悉く血の海に沈めてきた必殺の秘太刀であった。


蒼紫は地に臥した以蔵を背にして、城下へ再び戻ろうとしていた。
恐るべき怪物ではあったが、所詮彼の敵では無い。

最後の御庭番衆御頭として、
戦うべき時に戦えず、死ぬべき時に死ねなかった男が、
望んでも得られなかった、彼が求めてやまなかった戦場がここにある。

故に求める物は戦い。
新たなる戦いを求めて再び血戦の城下へと蒼紫は足を進める…つもりであった。

「ありがとな…」
驚愕に眼を見開いた蒼紫が背後を振り返る。

「血ぃ抜けたお陰で…少し眼ぇ覚めたぜよ…」
胸部から血を流しながら、右手の野太刀を杖に立ちあがる岡田以蔵の姿がそこにはあった。
さらに言えば、目は相変わらず血走ってはいるものの、そこには理性の光が戻っている。

「貴様・・・何故生きている?」
「さあな・・・ワシもてっきり自分が死んだもんだと思うたが、どっこい生きとるなぁ」

以蔵が今生きているのは、鍛え抜かれた胸の筋肉と、盾として翳された研無刀の異様な頑丈さ、
そして、回転剣舞が入りきる直前に蘇った剣士の本能故であった。

「来いや・・・まだ終わっとらんぜよ」
「死に損ないが・・・いいだろう。今度こそ仕留めてやろう」

傍から見ればどう見ても死に体にも関わらず、以蔵の眼にはさらに強くなった殺意と闘志が宿っている。
以蔵の言葉に、蒼紫は戦士として相手を斃すべく、再び死の剣の舞を舞う。

「無駄だ…今の貴様には、俺の『流水の動き』を捉えることなど不可能だ」
「へへへ・・・・」

事実である。理性が戻ったところで、以蔵の腕で敗れる術理では無い。
しかし、以蔵の顔に浮かんでいるのは不敵な血笑であった。

「今度こそ・・・本当に終わりだ!」
逆手の脇差が、死の白光を閃かせ、以蔵の背後より遅いかかる。
以蔵は振り向くが、太刀での防御は間に合わない。
白刃は以蔵の体に迫り…



「馬鹿な」

以蔵の空いた左手に捕獲されていた。
回転剣舞唯一の弱点、『流水の動き』から逆手小太刀の一撃に切り替わる『動』の一瞬、
それを、剣の腕では蒼紫に遥かに劣る以蔵が捉えられたのも、
これまで文字通り血を流して『流水の動き』を喰らい続けたが故であった。

その代償は左手一本。
鉄拵えの鞘を輪切りにし、研無刀をも斬った回転舞の太刀筋は、
受けた以蔵の掌を中指と薬指の合間より割り切って、腕の半ばまで到達し、
骨に引っ掛かってようやく止まっていた。
もう左手は使い物になるまい。

が、

「捕まえたぞ…」
「!」
「ようやくてめぇを捕まえた!」
「クッ!」
以蔵の叫びに、蒼紫は咄嗟に体を逃がそうとするが、
「遅ぇっ!」
以蔵の野太刀の方が速い!

誰が予想し得た?
若き天才剣士の首は、血の糸を引きながら宙を舞った。


城下、南西部の一角。
『渡し』の傍の白い塀の一角に、一つの生首が晒されていた。
若く美しい、驚愕の表情を今尚残した四乃森蒼紫の首であった。

その首のすぐ上の塀には、蒼紫自身の血で書かれた一つの宣言があった。


おのれらに告ぐ

おれはおのれらを

みなごろしにしてやるのだ

いぞう



それは、虐げられ続けた一人の哀れな剣鬼のこの世への宣戦布告であった。


【四乃森蒼紫@るろうに剣心 死亡】
【残り七十三名】


【へノ弐 城下町の何処か/一日目/黎明】

【岡田以蔵@史実】
【状態】左腕に重傷(回復する見込み薄し)、全身に裂傷打撲多数、この世への深い憎悪と怒り
【装備】野太刀
【所持品】なし
【思考】
基本:目に付く者は皆殺し。
【備考】
※理性は取り戻しましたが、尋常の精神状態にありません


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前話:鳥獣戯剣 次話:暗雲

剣聖の決意、狂犬の末路 岡田以蔵 活人剣の道険し
御庭番衆御頭 四乃森蒼紫 【死亡】

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最終更新:2010年03月02日 22:41