不知火/夜明け前 ◆F0cKheEiqE
潮の臭いが鼻を擽り、音が鼓膜を揺らす夜の仁七村。
いかなる理由、手段故かは不明だが、つい近頃まで確かに人が暮らしていた痕跡があるものの、
今や人っ子一人いないこの漁村を、一人迷う男がいる。
仏生寺弥助という男である。
ひょろ長い体躯の、どこか無頼な雰囲気を纏ったこの男は今、
誰もいない民家の一つを戸口から覗き込んでいる。
明かり一つ無い屋内は暗いが、月明かりが強く、それ故に見えないという事は無い。
この村は海の傍である事と、屋内に散らばった種々の生活品の内容から鑑みるに、
恐らくは漁師の家だったろう事が覗われる。
何の変哲もない、よくある漁村の一民家であった。
では、何故に弥助は、この無人の漁師の家を覗き込んでいるのか。
得物を探しているのだろうか?
しかし、弥助は先ほど自身が仕留めた
中村半次郎の死骸より軍刀を入手したばかりであるし、
より良い得物を探すにしても、わざわざこんな漁師の家を探る事もないだろう。
では、何故かと言えば、つい先ほど、弥助が地面に黒い大きな染みを見つけ、
其れが点々と民家へと続いていたからに他ならない。
民家の中を見れば、何かを引き摺り回したような黒い染みの線が、幾本も出来ている。
それに合わせて、本来はある程度整然と並んでいたであろう生活品が、
めちゃめちゃに地面に散らばっていた。
この黒い染みの正体を、弥助は良く知っている。
「少し、前か…?」
弥助が呟く。弥助の見立てでは、この染みはごく最近に付いた物だが、
最低でも一日以上は前の代物である。
最初、自分殺した男以外にも、このあたりで殺された奴がいるのかと思ったが、どうやら違うらしい。
では、この血痕は、ここの主だった漁師達の物なのであろうか。
「・・・・・」
それを知るすべは弥助には無い。
ただ、この「御前試合」とやらから一層強いきな臭さが漂ってくるのを、弥助は感じる。
無論、この御前試合の実態がどうあれ、彼のやらんとする事には変化はないが。
すなわち…
「・・・・・・・!」
気配。人の気配。
弥助は、民家の奥の闇に、身を潜め、もうすぐここに来るであろう誰かを待つ。
◆
色白で、大体五尺ほどの背丈を持つ小柄な男が、仁七村の往来を闊歩する。
肥後浪人、“攘夷志士”
河上彦斎。
彼の腰間には、暫く前に中村半次郎の死体を叩き潰した鉄鞭は無く、
代わりに、立派なな拵えの刀が横たえられている。
どうしてそんな所にあったものか、半次郎の死体を潰した彦斎は、
雑木林を抜け、浜辺を通り抜け、仁七村へと入った。
そこで最初に覗き込んだ民家の土間に、無造作に転がっていたのが、
今、彦斎の腰間にある代物である。
彦斎は刀の目利きに通じている訳ではないが、
いま自分の腰間にある秋水が、並々ならぬ業物である事を即座に見抜いた。
どうしてこんな業物が、漁村の一民家に転がっていたのかは解らない。
しかし、刀を探していた彦斎には恐ろしく好都合な展開であったのは間違い無い。
ちなみに、彦斎が差している業物は、「関孫六」の綽名を持つ「孫六兼元」の一振りである。
名を聞けば、流石の彦斎も飛び上がる様な大業物だが、
こんな代物を無造作に転がしておくとは、但馬守も大した大判ぶるまいである。
しかし、得物を求めて、これほど早く見つかるとは、ましてやそれが業物と来れば、
やはり天が、自分にあの不忠不敬の輩どもを鏖殺することを望んでいるとしか思われぬ。
象山暗殺直後の奇妙な熱を一層強め、
彦斎は常ならばあり得ぬこの状況に、やはり常ならばあり得ぬ理論を強化していく。
そうして彼が、村の中央部あたりまで来た時であった。
ぶぅん、と突如暗闇より何かが彦斎へと向けて飛来する!
即座に、得意の片手抜き打ちで、其れをはたき落す彦斎。
飛来した棒切れが、二つになりながら地面に落下するのを見つつ、
ばっと、体を後方へ飛ばし、それに合わせて、空の弾倉に弾丸を再装てんするように納刀する。
彦斎が得意とするのは、しゃがんだ様な低姿勢からの右片手による逆袈裟の抜き打ちである。
彦斎は、この一撃必殺の我流剣法に絶対の自信を置いていた。
其れ故の納刀である。
見れば、闇よりひょろ長い体躯の男がぬたりと出現している。
やや珍しい拵えの刀を右手にだらりと下げている。
体からは、彦斎の嗅ぎ慣れた臭いが漂ってくる。血臭であった。
「・・・・・・・・」
「・・・・・・・・」
双方言葉は無い。
両者ともに、初見で認識していたからだ。
“こいつは人斬りだ”と。
両者が静かに睨み合っていたのは、僅かな時間であった。
襲いかかってきた男、仏生寺弥助が動く。
軍刀を大上段に構え、彦斎に飛びかからんとする。
其れを見て、彦斎は一瞬薄く笑った。
大した動き、されど俺の抜き打ちの方が遥かに速いっ!
右足を前に出してこれを折り、左足を後方に伸ばして膝を地面にすれすれにまで下げる。
剣術の死角、下方からの攻撃を神速を持って行う彦斎我流剣法「不知火流」。
佐久間象山をも斬った、恐るべき死の光が、鞘の内より発射される…筈であった。
「!」
予期せぬ衝撃を受け、彦斎の体が揺れる。
予期せぬ衝撃は、必殺剣の柄頭よりやってきた。
蹴りであった。弥助のザトウムシのようにひょろ長い足より繰り出された蹴りが、
正に鞘より出でんとする関孫六の柄頭を蹴り戻したのだ。
◆
古来より、抜刀術、あるいは居合に打ち勝つには、二つの方法があると言われる。
一つは、「抜かせて勝つ」という物である。
『撃剣叢談』に宝山流の達人、浅田九郎兵衛が、
居合の達人、三間与一左衛門と立ち合った際の逸話が残っている。
『 淺田九郎兵衛は寶山流の名師で、作州森家に仕へて二百石を受けてゐた。
或時、東國浪人の三間與市左衛門といふ者が作州に來つて居合を指南したが弟子も多くついた、
この與市左衛門は十六才から十二社權現の神木を相手にして二十年居合を拔いたが
遂にその神木が枯れたといふことである、
流名を水乗ス流と名づけて世に廣めてゐたが作州で劍術を好むほどのものが大抵勝負をしたけれども
皆三間の居合に負けて一人も勝つ者がなかつた。
この上は九郎兵衛でなければ相手になるものはなからうといふので、
人々がすゝめて三間と勝負をさせることに決つたが、九郎兵衛の弟子共が心のうちに危ぶんで、
師匠に向ひ、
「三間が居合は東國のみならず、諸國の劍術者で勝てる者が無いといふことでございますが、
先生にはどうして勝たうと思召されるや承りたし。」
といふと、九郎兵衛が答へて、
「居合に勝つことは何もむづかしいことではない、拔かせて勝つまでぢや。」
と、いつた、三間がこの由を傳へ聞いて、
「淺田は聞きしに勝る上手である、その一言で勝負は知れた、我が及ぶ處ではござらぬ。」
といつて立合はなかつたとの事である。 』
「居合は、鞘の中に勝利を含み、抜いての後は不利」と言われる。
居合とは、先手を打って、あるいはカウンターとして、
神速の抜き打ちで一刀のもとに相手を斬り倒す技術であり、
居合より通常の立ち合いにそのまま移行できる流派も無いわけではないが、
基本的には抜き打ちの一撃に全生命を傾注する物であり、
特に、一撃を仕損じれば決定的な隙が生じてしまう。
故に、立ち合いを得意とする剣士が、居合を得意とする剣士に立ち向かうには、
如何に相手に先に抜かせ、其れを受け流すかという事が重要になるのである。
しかし、ここで発想を逆転してみる。
「居合は、鞘の中に勝利を含み、抜いての後は不利」とは言え、
抜かなければ相手を斃すことは敵わない。
ただ剣術使いと違う点は、剣術使いが『抜いてから斬るの』に対し、
居合使いは『抜く事が斬る事』である点である。
居合使いに取って、「抜く」事はそのまま「斬る」事なのだ。
だとすればこういう考えも成り立つのではないか。
つまり、「抜かせずして勝つ」という物が。
これこそが、居合に打ち勝つ二つ目の方法である。
◆
予期せぬ衝撃に揺れる彦斎の体であったが、
その地に伏せる様な体勢故に、倒れるような事は避けられた。
しかし、居合使いに取って最も重要な初撃の拍子が外されたのである。
これは、余りにも致命的な隙を生んでしまった。
体勢を直し、再び抜き打たんとする彦斎の顎先へと向けて、
弥助の蹴りが放たれたのだ。
拍子を外され、柄頭などで防御する事も叶わなかった彦斎の脳髄に、
顎先より凄まじい衝撃が走った。
体勢を地に伏せるように低くし、
常の剣術の死角である下方からの斬撃を神速で放つ彦斎の剣法。
されど、我流で極めた蹴り技を持つ弥助にとっては、下方とは必ずしも死角では無い。
さらに皮肉なのは、彦斎に取って必殺の姿勢であった、前屈みに地に伏せるような体勢は、
人体最大の急所である頭部を、弥助の蹴りの間合いに自ら飛び込むという形となってしまっていたという事だ。
顎を打たれ、一瞬、意識が宙に飛ぶ彦斎。
意識が戻った時、彼が見た物は、「力の剣法」神道無念流御家芸、
大上段からの渾身の一撃が、真っ向から竹割りに自分の顔面を割る光景であった。
そしてそれは、彼の見た最後の光景でもあった。
不知火は、誅敵を一人も討ち果たす事無く、宵闇に消えた。
◆
にノ陸、道祖神前。
彦斎を斃した弥助は、彼の差していた業物を奪い取ると、
しばしの探索の後、村を後にした。
道祖神の傍に腰かけながら、
だいぶ降りてきた月を眺める。
夜明けは来るのもそう遠い先の事でもないだろう。
しかし、弥助の行く手に光明は差さず。
「・・・・・・」
さあ、何処へ向かおうか。
五里霧中の暗夜行路に、今宵、剣鬼が一人繰り出す。
彼の夜明けはまだ遠い。
【河上彦斎@史実 死亡】
【残り七十二名】
【にノ陸/道祖神前/一日目/黎明(早朝近く)】
【仏生寺弥助@史実】
【状態】:健康
【装備】:軍刀、孫六兼元
【所持品】:支給品一式(食料三人分)、鉄扇
【思考】 周りは全て敵であると思っている。
1:あてもなく彷徨う。
2:恩師、
斎藤弥九郎にどう向き合うべきか分からない。
【備考】
※1862年、だまし討ちに遭って後より参戦。
当時の斎藤弥九郎は64才。この御前試合参戦時の弥九郎の九年後の時期である。
参戦している弥九郎は、既に弥助を門下としていると思われる
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最終更新:2010年03月17日 22:33