0001 houseiin(2006-6-6)モノとは神や鬼よりも上位にある『何か』なのだそうです。鬼と書いてモノと読ませている例が多く在りますし、折口信夫も神と鬼と霊とモノが古代の信仰対象だったと述べています。更に神と鬼は元は同一で、陽に働けば神、陰の働きをすれば鬼なのだそうです。モノはそれらを生み出す根源(グレートマザー)だと言うのですが、同時にモノ=マナという、生物のエネルギーでもあるとも言うのです。この二つをどう解釈すれば良いのか、カオスが個々の生物のエネルギーとなるとはどういう事なのか。全てはカオスから生まれたから個々の生物の中にもそれが入り込んでいる、という解釈では十分ではない気がするのですが、何でも良いので面白い考えや知っている事があったら教えて下さい。
0002 2touhei(2006-6-17)はじめまして。非常に面白そうなテーマですが同時にかなり難しそうなテーマですね。どの文献からあたったらよいのか分からないくらい無知な私ですがまったく別の視点から考えてみました。参考にならないド素人の戯言、妄想だと思って聞いて下さい。まず「モノ」という言葉の響きからある名前が思い浮かびました。古事記に登場するアマテラスのライバルにして日本最古の大怨霊ではないかと噂される 大国主(オオクニヌシ)です。ご存知の通り 別名 大物主(オオ「モノ」ヌシ)と呼ばれていますよね。三輪山を神体として大物主を祀る大神神社では大国主が自らの和魂を「大物主」として祀ったとされていますがこの大国主、七福神で有名な大黒天と習合していたりします。大黒天といえば元はインドの戦闘神マハーカーラー。死神であり閻魔であり冥界の神でもあるという恐ろしげな「荒神」です。幽事を司る大国主と符号する点が見受けられますよね。さてここで主題になる大国主ですがたくさんの別名を持つことでも有名ですよね。大物主という別名以外にも大己貴や大穴持、宇都志国玉など様々な名前で呼ばれているようです。これは神徳の高さを現すからである、とか元は別の神であったものが習合されたからであると説明されたりするようですが、大物主という別名だけを取り出して考えた時私は一つ気になる事がありました。何故あの場面では 大国主は「大物主という名前」に変えなくてはならなかったかということです。先ほど 大神神社では大国主が自らの和魂を「大物主」として祀ったとされているとお話しましたがそれでは答えになりません。インドの戦闘神と習合するような荒ぶる神としての「大国主」と和魂として祀られた「大国主」は区別されるべきである というだけなのであれば別に「大物主という名前」でなくても他にいくらでも名前はつけられたはずです。三輪山がある奈良地方では大国主が登場する以前に大物主という土着の神がいたから後に登場する大国主と習合して大物主という名前になった、ということも考えられないことはないのですがそうなると大国主が一地方の神に吸収されたような形になるのでどうもしっくりきません。そこで一つ推理してみました。荒ぶる神を丁重に鎮め、それを守り神として祀るような場面、「荒」神と「和」魂が同居するような状態をうまく言い表す言葉、概念としてすでに存在していたのが「モノ」でありであるからこそあの場面で「大国主」は「大モノ主」という名前になったのではないかと。houseiinさんのお言葉をお借りすると「カオス」と「マナ」を包括するグレートマザーを言い表す言葉として「モノ」という言葉がすでに存在していたから「和魂としての大国主」の命名に際してその言葉がチョイスされたのではないかと。そんな妄想をしてみました(笑)houseiinさんの質問に答えるどころか単に折口先生の説を土台にした書き込みなってしまいましたね(汗)無知な上に慣れない推理などしたものですからかなり論理に飛躍がありそうですがつまらない戯れ言だと読み流して頂けると幸いです。長文失礼致しました。
0003 tantanbou(2006-6-18)モノとは、自然、あるいは自然現象ではないでしょうか?自然災害(噴火、山火事、雷、台風、地震等は荒ぶる神(鬼)を生み、神々しい自然現象(日の出、日の入り、後光、御神渡り等)は神を生み出したとされています。自然崇拝は古くからある信仰の対象です。光、熱、ガス、水は生物が生きていくのには欠かせないエネルギーであり、また、モノ=自然であれば、植物も動物も石も岩も山も川も海も人に恩恵(エネルギー)を与えてくれる者であると考えられます。
地球そのものを一つの『群体』として考えた時、それらをまとめる統一した意思(あるいは思念体)をモノと呼ぶのかもしれません。
0004 houseiin(2006-7-4)2touheiさん、有り難う御座います。大物主の起源から考える、というのはとても興味深いお話です。確かに大黒様は元元憤怒の魔神ですね。ブラックホールのように全てを飲み込み無に帰す暗黒破壊の神。密教的には大日如来の化身だそうですが。大物主と繋がったのは「大国」が「だいこく」に通じるからかと思っていましたが、私も折口先生の著作を調べてみたいと思います。「カオス」と「マナ」を包括する存在としての役割を大物主が与えられていたという考え方は面白いです。そして大物主が治めていた世界が「天孫」という名を与えられた何者かに奪われ、カオスやマナは我々が意識できない場所に逃げてしまった、とも考えられますね。興味深いお話、有り難う御座いました。
0005 houseiin(2006-7-4)tantanbouさん、今日は。いつも面白い分析有り難う御座います。やはり、モノ概念があるのは自然崇拝の盛んな処が主なのでしょうね。一神教の国では、全ては神の力に帰結されますからね。モノは物とも者とも書けますから、森羅万象全てを包括する概念と捉えてもいいのかな?地球とは・・・そうか、大きすぎて気付かなかったけど、モノで大地が覆われているなら、その覆われている範囲が一地域な訳はないんですよね。開眼。ご意見、有り難う御座いました。
0006 KAMURO(2006-7-4)こんばんわ。元来「モノ」とは目に見えないなんらかの力をさしているようで、当然その中には「自然界」も含まれますが、「先祖の魂や精霊」なども含まれていたようです。古代国家においてこれらを維持または崇拝することは重要な意味があったようで、これら「モノ」に関わる集団「部」が後の「物部氏」になっていきます。八百万の神々を崇拝すべし、と仏教崇拝派の蘇我一族と対立した集団です。これが転じて大きな力を持った集団「武士」を「モノノフ」と読むのは「モノノベ」が転化したものだとも言われています。余談ですが、「モノ」と「ヒト」の中間をとりなす役職が「中臣氏」に結びついていくという説もあるそうです。
0007 KARASU(2006-9-2 )返信が遅くてまことに申し訳有りません。氏姓制度の仕組みとモノ概念の繋がりはとても面白い研究対象になりそうです。物部氏は神域を司る点によって古代政治の上位に位置していたそうですね。だから仏教受容も拒んだのだ、という説があります。武士、中臣氏についてもモノ概念から説明できる点があるというのは面白い。情報、有り難うございました。
0008 shion(2006-9-3)こんにちは。興味深い話題ですので、参加させてください。私も、2touheiさんと同様に、モノというと大物主神を思い浮かべました。大物主神とは、三輪山の神で、大国主神の和魂という説がありますが、蛇神、祟り神でもあります。蛇とは、この時代まつろわぬ民の象徴でした。大物主神の登場は、国造りの途中に海から現れて大国主神を手伝ったとされています。しかし、「古事記」ではそれは名も記されていない神で、「日本書紀」の方には三輪山の大神神社の祭神(=大物主神)とされています。ここで重要なのは、三輪山は奈良にあるということだと思います。「日本書紀」が「古事記」よりも大和朝廷よりに書かれているのはよく知られています。「日本書紀」は天武天皇の皇子、舎人親王の編纂によるものです。そして、奈良といえば天武天皇のホームグラウンド(?)でもあります。ここから推測するに、大物主神とは、朝廷に服従を誓った奈良の神(豪族)と考えられます。だからこそ、大物主神は大国主神の和魂なのです。そもそも、和魂と荒魂がありますが、これは天津神(=大和朝廷)側からの見方です。天津神への服従心を和魂、天津神への反抗心を荒魂といえるのではないかと思います。これは、祝詞に「おのれの(=大国主神の)みことの和魂を八咫の鏡にとりつけて」とあることからも分かります。つまり、大国主神は天孫への服従を誓い、という意味です。このとき、大国主神の和魂である大物主神は、天津神に服従を誓っている、ということになります。大国主神とはおそらく元々は一人の人物ではなかったことでしょう。出雲をはじめとするさまざまな地方の国津神の象徴であったと思います。その大国主神のうち、天津神に服従した者を大物主神(和魂)と呼んだのではないかと考えました。すると、大国主神のうち、天津神に反抗する者は荒魂であったのでしょう。ここで、大物主神は和魂でもありながら、元々は荒魂(蛇神)でもあります。天津神誕生以前には和魂も荒魂も混じり合った存在だったでしょう。ですから、私はモノとは縄文時代等のアニミズム的な八百万の神だと思います。これは、神と鬼にもつながります。神は天皇や、大和朝廷の貴族の先祖たち天津神(和魂)で、鬼とは、朝廷に反抗する者たち(荒魂)です。神と鬼より上位の存在、モノとは、和魂と荒魂よりも古より存在するもの、つまり和魂と荒魂が分離する以前の混沌とした状態ではないかと思います。何だか書いているうちによく分からないことになってしまいました。答えになっていませんね。すみません。戯言だと思ってください。長文・乱文失礼しました。
0009 KARASU(2006-9-4)今日は。ご意見有り難うございます。国津神がモノ概念の象徴的存在であるという考察が、やはり多いようです。と同時に、日本語という奴は便利で、支配されていく豪族まで神と表現してしまうのだから恐れ入ります。まつろわぬ民族には土蜘蛛なんて名前を付けたくせに(笑)国津神は祟り神的に書かれる事が多いですが、それもまた朝廷側からの目線だと思われます。モノというカオスの中には、恵みを齎す力も破壊を齎す力も混ざり合っているのでしょうね。だからこそ神と鬼の更に上に位置する事ができた、と。恵みである神も、破壊である鬼も、統括してしまうのですから。権力の抑圧の無い素朴な信仰も、モノの一面かもしれません。返信も意味不明で申し訳ありません。モノ概念はとても広くてうっかりすると手から零れ落ちていってしまいそうですが、何とか頑張っていきたいと思います。
0010 -(2006-10-31) houseiinさん、初めまして。私は、「モノ」について、レスなさっているみなさんのような歴史的知識もありませんし、考えが深いわけでもなんでもないのですが、面白そうなお題なので参加させてください。(無視してくださっても結構です(笑))houseiinさんのおっしゃるように、「モノ」を上位にもってくる考え方、これは、ある意味、
個々の人間にとってみれば、心の中の「ポリシー」だとか、「拠り所」を、「モノ」に置き換えている、つまり、哲学的用語で言うならば、唯物論的なにおいがぷんぷんします。わたしには。おれには、或いはわたしにはコレ(モノ)があるから、安心できるみたいな。唯物論というのは、宇宙の本質は物質、精神は物質に規定されるという考え方ですが、失礼なのを承知で言わせてもらうならば、こういう考え方は、「幼い」考え方のような気がします。小さな子って、自分のたから「モノ」を、いつも肌身離さず持ってたりするじゃないですか。それと同じとは、決して言いませんが、類似点はあるような気がするわけです。「カオス」から、神(陽)と鬼(陰)が分かれた、という考え方には、確かに一理あると思いますが「カオス」=「モノ」と言い切ってしまうと、あまりにも安直のような気がします。人間に置き換えて考えてみると、以前はおもちゃなどの「モノ」が頼りだった、しかし、特に精神的に成長するにつれ、内的、精神的部分が、自らの寄って立つところになるように思うのです。だから、(あくまでわたしの考えですが←強調(笑))、「モノ」を上の方に置いて、重要視するのは、神にしても、鬼にしても、どうもしっくりこない、そのように考えるわけです。長々と、どうも失礼しました。
0011 KARASU(2006-11-1)ええと、まず、ホウセイインは私ですという事をお断りしておきます。唯物論もモノが付いていますね、というのはまず置いておいて。唯物論のお話からさせて頂きます。私自身は物質は精神に規定されていると考えています。例えば名付けがまさにそれです。名付けなくても、「存在」は無くなりません。また、精神が必要としているから、様々な物が(またモノですね)生み出され、発見されるのでしょう。では、唯物論は幼いでしょうか。精神が拠り所とするものが無いなら、どうやって人間は存在していくのでしょう(概念を持っているのは人間であるという仮定で)。拠り所が要らないならば、どうして言語を持ったのでしょう。思想や思考を持ったのでしょう。さて、本題のモノ概念ですが、それでは神や鬼はどこから来たのか・・・そこに対する意見も書いて下さると話が広げやすいので、思う事があったら書いて下さいませ。意見を訊いてるくせにまた質問形式で返してスミマセンでした。
0012 -(2006-11-1)おはようございます。まず最初に、謝罪したいと思います。何もわかっちゃいないくせに、生意気なことを言って、本当に申し訳ありませんでした。ごめんなさい。その上で、意見を述べるなんて、とんでもないことなのですが、このままでは、わたし自身、卑怯な「書き逃げ」になってしまいますので、お聞き苦しいとは思いますが、ご勘弁をお願いいたします。 >私自身は物質は精神に規定されていると考えています。 わたしも、まさしくそう思います。その上で、「神」、「鬼」について考えるならば、古(いにしえ)の人々の、大自然に対する畏怖の念、あるときには意味不明の恐怖の念が、「神」「鬼」の根源になったように思います。その「大自然」(あるいは、もっと広げて「大宇宙」)を、「モノ」と呼びうるのであれば、「神」「鬼」を作り出したのは、「モノ」と呼べるのでしょう。ただし、それは、あくまでも、人間の精神、畏怖などの念があってこそ、のことだと考えます。「唯物論」を「幼い」などと言ってしまったのは、確かに早計でした。そもそも、唯物論を、「神」「鬼」の出自に結びつけること自体、無理があったのでしょう(反省)。特に日本における「神」「鬼」の概念には、特殊なものがあると思います。
歴史(文献)を勉強し直して、出直したいと考えています。どうも失礼いたしました。
0013 KARASU(2006-11-1)お早う御座います。書き込み有り難う御座います。こちらもちょっと口調が強すぎたのではないか、と一晩寝て反省致しましたです。物質は精神に規定される、というのに賛同頂き有り難う御座いました。こちらもまだまだ勉強中の身です。文献など調べてみて、何か思い付いたりしたらびしびし書き込んで下さい。私ももっと勉強したいと思います。お互い、頑張りましょう。唯物論を神、鬼と結び付けられないか、ちょっと考えてみたいと思います。モノ繋がりで(笑)
0014 shion(2006-11-1)こんばんは。>唯物論を神、鬼と結び付けられないか、ちょっと考えてみたいと思います。 面白そうですね。「もののけ」も、元はといえば「物の気」ですからね。がんばってくださいませ。話をぶった切るようで、申し訳ないのですが、陰陽五行説に結び付けてみたりしたので、宜しければ見ていただけると幸いです。今回私は「鬼」を「陰」、「神」を「陽」にあてはめてみました。すると、それぞれ日本古来の色に当てはめると、陰は「暗=黒」、陽は「明=赤」になります。また、五行説では、黒は水、赤は火の色になります。五行の色は正色と呼ばれたのに対し、正色同士を混ぜ合わせた色は、間色と呼ばれます。そして、北方に当たる間色は、黒+赤の紫なのです。つまり、これこそ陰陽の和合といえるのではないでしょうか。紫、北といえば、道教における北極星の神、太一(紫微)です。北極星は、他の星がその周りを回ることから、最高の天帝と考えられていました。(妙見信仰のようなものなのでしょうか・・・)陰陽の和合=宇宙の最初・混沌です。これは天之御中主神などの別天津神にもつながる気がします。紫はいうまでもなく最高の禁色ですから、神・鬼より上位の存在「モノ」にふさわしいかな、と考えます。また、冠位十二階で、紫が第一位の色で、黒より赤が上位に来ているのも面白いと感じました。(まあ、これこそ五行に基づいているので、当然といえば当然ですが・・・)また、よく分からないことになってしまいました・・・。後付けのような理由をくどくど言ってしまい、すみません・・・。
0015 KARASU(2006-11-8)返信が遅くなってしまい、申し訳ないです。井上円了先生なんかは、哲学と妖怪の二本立てでしたから、案外唯物論とモノ概念は遠くないのかもしれません。今回は陰陽五行説からモノ概念を考えられたのですね。後付けなんて、滅相も無い。紫は中国の皇帝、日本では天皇の色ですね。妙見信仰は神仏習合の中で北極星とも関連付けられていました。
「見えない力」が正に傾くと神、負に傾くのが鬼となりますから、「ほほう!」という感じでした。日本の神話は中国からの影響を大きく受けてどこからがオリジナルなのか分からない状態ですし、有り得ないとは言えない、むしろ十分考えられます。有り難う御座いました、そろそろ皆さんの意見を混ぜて、モノ概念について考察してみたいと思います。あ、でもまだまだ御意見受け付けておりますです、ハイ。
0016 gfts(2008-6-17)(‘ヮ‘)ノシ こんばんは☆面白そうなので少し何か書いてもイイでしょうか?モノが原因で精神も鬼も神もぽこぽこと放って置いても自然に生まれるかもしれない気が何となくするのでそれは何だか、混ぜこぜのカオスから生まれる生命のロマン特別番組っぽいノリで素敵です☆そう考えると、何となく偉いかもしれないような気が何となくするなって想います☆変な見解なので参考にならないと思います。ごめんなさい☆♪おまけ♪ウガンダのバガンダ族の話に出てくるキントゥという神様の字義が(モノ)らしいです。それで、最初の人間らしいです。関連性があるのかないのかは分らないですが☆
0017 kagehiroi(2008-9-5)皆さんの見解からキョンシーの成り立ち、すなわち道教における魂魄という概念が思い浮かびました。まあ、知っている方はたくさんいると思いますが、一応。道教では人の魂は2対1体で魂と魄に別れます。魂は陽で精神活動をつかさどり死後天に昇り、魄は陰で肉体運動を司り地に帰る。この魄が間違って死体に入るとキョンシーになるのですが、ここの話の流れだと魄が、『モノ』に似ているような気がします。肉体、地、陰。キーワードは揃ってます。多分日本でのモノノケの概念もこれとの影響はあると考えますが、人の精神においても先人たちは『モノ』ということを考えていたのかも。キョンシーは死体というただの物体に、魄という『モノ』が入り込んでできた『モノ』を象徴する妖怪かもです。
0018 takimocho(2008-9-11)とても面白そうな論点で、興味をそそられてしまいましたので、ちょっと書かせていただきます。そもそも「物」→モノとは、霊的な存在を示す言葉の一つで、カミ・オニ・モノとタマを加えた4つの要素は、性質こそ違えど根源は同じであると言われています。(文献は忘れてしまったのですが…)霊的概念のモノと物的概念の物の隔たりからアプローチすれば、オニやカミにも結びつけることが出来るのではないでしょうか?浅学稚拙な論ではありますが、参考までに。それでは、失礼いたしました。
0019 KARASU(2008-9-15)春山さん>書き込みありがとうございますぅwwwww ぽこぽこと放って置いても自然に生まれる…のかどうかは分かりませんが、生命のロマン特別番組で母胎を思い出しました。羊水の、栄養のある液体の中で生命が育つ…みたいな。うん、偉い。ウガンダのバガンダ族のキントゥさん、面白いでスネ!最初の人間ってやっぱりカオスみたいなところからうまれるんでしょうか。詳細お待ちしてますwww
0020 KARASU(2008-9-15)影拾いさん>キョンシーと言えば幽幻道士…とか思う私は何歳でしょうか。肉体とはつまり魂魄の容れ物とも解釈できますね。間違って陰の地に葬られた死体はキョンシーになると聞いたことがあります。
鬼など人の心が由来の妖怪に『モノ』が関わるのなら、人の精神そのものにも『モノ』が食い込んできても不思議じゃないかもしれません。ありがとうございます
0021 KARASU(2008-9-15)takimochoさん>こんにちは、書き込みありがとうございます。「物」と書くと形ある物体という意味になりますね。カミ・オニ・モノが同じというのは知っておりましたが、タマもそうだというのは初めて聞きました。物体を表す「物」に何故「モノ」という音を当てたのか(混乱を来すにも関わらず!)、その点もかなり重要な、カミ・オニに繋がるポイントかもしれませんね。また面白いアイディアがあれば(文献名を思い出したとか…)よろしくお願いします。
0022 sabato(2008-9-19)おはようございます♪こちらのトピックには初投稿でございます。僭越ながら参加させて頂きます★“モノ”と云う言葉は不思議です。その中には物理的存在と精神的概念と云う、一見相反する様に見えるものが同居している。けれども、我々だって肉体と精神があって成立している存在なのです。“森羅万象全てを包括している概念”と云う考えは面白いと思うし、同感です。そいつを踏まえて(重複する部分もあるかと思いますが)、私の意見を述べさせて頂きたく思います。まず“者”という言葉。これは自分や相手の事です。「私はこう云う者です」とか「君は何者だ」とか。ここから“モノ”は“対象”を指し示す概念ではないのかと仮定してみます。その場合“対象”は人間に止まりません。抽象された事柄や現象を擬人化した時にも“者”は生まれます。「何者」と問い掛けた相手が畜生や風に揺れた木々の事もあるでしょう。自分の中に“ナニモノ”かが巣喰っていると云う妄念に取り憑かれてしまうお人も居ます。相対する対象に可能な事は全て“モノ”に成り得ます。物質であろうと、人間であろうと、霊鬼であろうと、心の動きや現象をも包括してしまうのが“モノ”と云う言葉の属性ではないでしょうか。ここでちょっと車軸は変わりますが、アルファベットで表記すると“MONO”。これは文房具のブランド…ではなくて、ギリシア語由来で“一つの~”と云う意味。モノローグやモノトーン、一夫一妻制をモノガミー、一つの事に偏執する者の事をモノマニアと云い、モノリスは一枚岩、モノポリーは独占と云う意味です。“唯一”と考えれば、この本邦でも男性器を“イチモツ”(漢字で書くと“一物”)と表現したり、命自体を“モノ”と云う事もあります。“物種”なんて言葉の背景にも関ってくるのでしょうか。唯一と云う事は他には無い“大切な”と云う意味にも捉える事が出来ます。物狂いや物忘れ、物乞い。これらの言葉の“物”は人格や記憶、生きる為に必要な物を指しています。物分りや物心は道理や常識、空気と云った所でしょうか。物差しは単なる文房具ではなく、指針や理念を表す事もあります。尤も「手前の物差し」の様に反対に“ちっぽけな常識”の様な使い方も多々されますが。馬鹿者や愚か者と云う様に相手(対象)を卑下する時の“モノ”の使われ方ですね。物置や物貰い、物怖じなんてのは“取るに足らない”“邪魔な”“何でもかんでも”と云った属性が見え隠れしています。これは“大切な”とは程遠い真逆の概念であります。ここでもまた“相反する二つの属性”が同居しているのです。しかしこれは逆に“モノ”と云う言葉に、“なくてはならない”と云う属性もあったのではないかと考えられます。月並みな表現をするのならば、“悪役が居なくてはヒーローは成立しない”と云った所でしょうか。そしてまま、善悪や常識などと云った不確かな要素はTPOに遵って簡単にくるりと逆転してしまいます。しかし頭に“もの”が付く言葉は大変多くあるのです。物哀れ、物寂しい、物憂げ、物足りない、物音、物思い…。これらの言葉の“物”は漠として“捉え所の無い”と云う属性を。物笑い、物凄い、物忌みや物々しいと云う言葉の“物”は強調を促し“特別な”と云う属性を付加させています。また文章や言葉そのものを指す事もあります。物語りや物書き、物言い。“モノ”が“モン”に変化したと考えれば、“問”“聞”“文”などは関係を疑いたくなる言葉です。“詣でる”と云うのも神様とのコミュニケーションと考えると、もしかしたら繋がってくるやも知れません。“もののけ”は“モノ”の“ケ”。“取るに足らない”物が化生したとも、“特別な”者に化生したとも受け取れますし、“ケ”を“気”と考えれば、生命力のことでもあり、また“モノ”が指し示す“命”とも繋がります。こうして“モノ”に付いて考えていると解釈はとりとめも無く溢れてゆき拡散していってしまい、“まるでお化けか魍魎です(談・楠本君枝さん)”。死骸を齧る魍魎は年を取らないそうです。と云う事は命が無いと云う事か、それとも命そのものと同じ様な概念と云う事でしょうか。そう考えると…。魍魎も影にあって形は無く、漠としたモノノケ。語感もなんとなく似ているなぁと思ったりして。朦朧とははっきりとしていない、秩序が無いと云う事です。即ち混沌。カオスです。道教に於いて天地を創造した盤古はカオスの象徴。キリスト教でも神は秩序を創りたもい、我が国の伊邪那岐と伊邪那美はカオスを攪拌する事でこの国を作り上げた。ぐるぐるぐるぐる。攪拌とは混ぜ捏ねると云う事です。それが形の無い時は混沌と呼ばれ、固まった時に天に成り、地に成り、人に成り、生命に成り、世界に成ったのだと考えれば“それ”が森羅万象全てを包括すると云うのは当たり前の事だったのです。カオスも秩序も関係無い。形も存在の有無も理すらも関係の無い、凡てが産まれ総てが還って行く“そこ”が“モノ”の完全なる源なのではないでしょうか。とまぁ浅薄な知識を元に、予断と思い付きと妄想に委ねて諄々と書き連ねてしまいました。お読み苦しい点も多々あるかと存じますが、読んで戴きましてありがとうございました。
0002 2touhei(2006-6-17)はじめまして。非常に面白そうなテーマですが同時にかなり難しそうなテーマですね。どの文献からあたったらよいのか分からないくらい無知な私ですがまったく別の視点から考えてみました。参考にならないド素人の戯言、妄想だと思って聞いて下さい。まず「モノ」という言葉の響きからある名前が思い浮かびました。古事記に登場するアマテラスのライバルにして日本最古の大怨霊ではないかと噂される 大国主(オオクニヌシ)です。ご存知の通り 別名 大物主(オオ「モノ」ヌシ)と呼ばれていますよね。三輪山を神体として大物主を祀る大神神社では大国主が自らの和魂を「大物主」として祀ったとされていますがこの大国主、七福神で有名な大黒天と習合していたりします。大黒天といえば元はインドの戦闘神マハーカーラー。死神であり閻魔であり冥界の神でもあるという恐ろしげな「荒神」です。幽事を司る大国主と符号する点が見受けられますよね。さてここで主題になる大国主ですがたくさんの別名を持つことでも有名ですよね。大物主という別名以外にも大己貴や大穴持、宇都志国玉など様々な名前で呼ばれているようです。これは神徳の高さを現すからである、とか元は別の神であったものが習合されたからであると説明されたりするようですが、大物主という別名だけを取り出して考えた時私は一つ気になる事がありました。何故あの場面では 大国主は「大物主という名前」に変えなくてはならなかったかということです。先ほど 大神神社では大国主が自らの和魂を「大物主」として祀ったとされているとお話しましたがそれでは答えになりません。インドの戦闘神と習合するような荒ぶる神としての「大国主」と和魂として祀られた「大国主」は区別されるべきである というだけなのであれば別に「大物主という名前」でなくても他にいくらでも名前はつけられたはずです。三輪山がある奈良地方では大国主が登場する以前に大物主という土着の神がいたから後に登場する大国主と習合して大物主という名前になった、ということも考えられないことはないのですがそうなると大国主が一地方の神に吸収されたような形になるのでどうもしっくりきません。そこで一つ推理してみました。荒ぶる神を丁重に鎮め、それを守り神として祀るような場面、「荒」神と「和」魂が同居するような状態をうまく言い表す言葉、概念としてすでに存在していたのが「モノ」でありであるからこそあの場面で「大国主」は「大モノ主」という名前になったのではないかと。houseiinさんのお言葉をお借りすると「カオス」と「マナ」を包括するグレートマザーを言い表す言葉として「モノ」という言葉がすでに存在していたから「和魂としての大国主」の命名に際してその言葉がチョイスされたのではないかと。そんな妄想をしてみました(笑)houseiinさんの質問に答えるどころか単に折口先生の説を土台にした書き込みなってしまいましたね(汗)無知な上に慣れない推理などしたものですからかなり論理に飛躍がありそうですがつまらない戯れ言だと読み流して頂けると幸いです。長文失礼致しました。
0003 tantanbou(2006-6-18)モノとは、自然、あるいは自然現象ではないでしょうか?自然災害(噴火、山火事、雷、台風、地震等は荒ぶる神(鬼)を生み、神々しい自然現象(日の出、日の入り、後光、御神渡り等)は神を生み出したとされています。自然崇拝は古くからある信仰の対象です。光、熱、ガス、水は生物が生きていくのには欠かせないエネルギーであり、また、モノ=自然であれば、植物も動物も石も岩も山も川も海も人に恩恵(エネルギー)を与えてくれる者であると考えられます。
地球そのものを一つの『群体』として考えた時、それらをまとめる統一した意思(あるいは思念体)をモノと呼ぶのかもしれません。
0004 houseiin(2006-7-4)2touheiさん、有り難う御座います。大物主の起源から考える、というのはとても興味深いお話です。確かに大黒様は元元憤怒の魔神ですね。ブラックホールのように全てを飲み込み無に帰す暗黒破壊の神。密教的には大日如来の化身だそうですが。大物主と繋がったのは「大国」が「だいこく」に通じるからかと思っていましたが、私も折口先生の著作を調べてみたいと思います。「カオス」と「マナ」を包括する存在としての役割を大物主が与えられていたという考え方は面白いです。そして大物主が治めていた世界が「天孫」という名を与えられた何者かに奪われ、カオスやマナは我々が意識できない場所に逃げてしまった、とも考えられますね。興味深いお話、有り難う御座いました。
0005 houseiin(2006-7-4)tantanbouさん、今日は。いつも面白い分析有り難う御座います。やはり、モノ概念があるのは自然崇拝の盛んな処が主なのでしょうね。一神教の国では、全ては神の力に帰結されますからね。モノは物とも者とも書けますから、森羅万象全てを包括する概念と捉えてもいいのかな?地球とは・・・そうか、大きすぎて気付かなかったけど、モノで大地が覆われているなら、その覆われている範囲が一地域な訳はないんですよね。開眼。ご意見、有り難う御座いました。
0006 KAMURO(2006-7-4)こんばんわ。元来「モノ」とは目に見えないなんらかの力をさしているようで、当然その中には「自然界」も含まれますが、「先祖の魂や精霊」なども含まれていたようです。古代国家においてこれらを維持または崇拝することは重要な意味があったようで、これら「モノ」に関わる集団「部」が後の「物部氏」になっていきます。八百万の神々を崇拝すべし、と仏教崇拝派の蘇我一族と対立した集団です。これが転じて大きな力を持った集団「武士」を「モノノフ」と読むのは「モノノベ」が転化したものだとも言われています。余談ですが、「モノ」と「ヒト」の中間をとりなす役職が「中臣氏」に結びついていくという説もあるそうです。
0007 KARASU(2006-9-2 )返信が遅くてまことに申し訳有りません。氏姓制度の仕組みとモノ概念の繋がりはとても面白い研究対象になりそうです。物部氏は神域を司る点によって古代政治の上位に位置していたそうですね。だから仏教受容も拒んだのだ、という説があります。武士、中臣氏についてもモノ概念から説明できる点があるというのは面白い。情報、有り難うございました。
0008 shion(2006-9-3)こんにちは。興味深い話題ですので、参加させてください。私も、2touheiさんと同様に、モノというと大物主神を思い浮かべました。大物主神とは、三輪山の神で、大国主神の和魂という説がありますが、蛇神、祟り神でもあります。蛇とは、この時代まつろわぬ民の象徴でした。大物主神の登場は、国造りの途中に海から現れて大国主神を手伝ったとされています。しかし、「古事記」ではそれは名も記されていない神で、「日本書紀」の方には三輪山の大神神社の祭神(=大物主神)とされています。ここで重要なのは、三輪山は奈良にあるということだと思います。「日本書紀」が「古事記」よりも大和朝廷よりに書かれているのはよく知られています。「日本書紀」は天武天皇の皇子、舎人親王の編纂によるものです。そして、奈良といえば天武天皇のホームグラウンド(?)でもあります。ここから推測するに、大物主神とは、朝廷に服従を誓った奈良の神(豪族)と考えられます。だからこそ、大物主神は大国主神の和魂なのです。そもそも、和魂と荒魂がありますが、これは天津神(=大和朝廷)側からの見方です。天津神への服従心を和魂、天津神への反抗心を荒魂といえるのではないかと思います。これは、祝詞に「おのれの(=大国主神の)みことの和魂を八咫の鏡にとりつけて」とあることからも分かります。つまり、大国主神は天孫への服従を誓い、という意味です。このとき、大国主神の和魂である大物主神は、天津神に服従を誓っている、ということになります。大国主神とはおそらく元々は一人の人物ではなかったことでしょう。出雲をはじめとするさまざまな地方の国津神の象徴であったと思います。その大国主神のうち、天津神に服従した者を大物主神(和魂)と呼んだのではないかと考えました。すると、大国主神のうち、天津神に反抗する者は荒魂であったのでしょう。ここで、大物主神は和魂でもありながら、元々は荒魂(蛇神)でもあります。天津神誕生以前には和魂も荒魂も混じり合った存在だったでしょう。ですから、私はモノとは縄文時代等のアニミズム的な八百万の神だと思います。これは、神と鬼にもつながります。神は天皇や、大和朝廷の貴族の先祖たち天津神(和魂)で、鬼とは、朝廷に反抗する者たち(荒魂)です。神と鬼より上位の存在、モノとは、和魂と荒魂よりも古より存在するもの、つまり和魂と荒魂が分離する以前の混沌とした状態ではないかと思います。何だか書いているうちによく分からないことになってしまいました。答えになっていませんね。すみません。戯言だと思ってください。長文・乱文失礼しました。
0009 KARASU(2006-9-4)今日は。ご意見有り難うございます。国津神がモノ概念の象徴的存在であるという考察が、やはり多いようです。と同時に、日本語という奴は便利で、支配されていく豪族まで神と表現してしまうのだから恐れ入ります。まつろわぬ民族には土蜘蛛なんて名前を付けたくせに(笑)国津神は祟り神的に書かれる事が多いですが、それもまた朝廷側からの目線だと思われます。モノというカオスの中には、恵みを齎す力も破壊を齎す力も混ざり合っているのでしょうね。だからこそ神と鬼の更に上に位置する事ができた、と。恵みである神も、破壊である鬼も、統括してしまうのですから。権力の抑圧の無い素朴な信仰も、モノの一面かもしれません。返信も意味不明で申し訳ありません。モノ概念はとても広くてうっかりすると手から零れ落ちていってしまいそうですが、何とか頑張っていきたいと思います。
0010 -(2006-10-31) houseiinさん、初めまして。私は、「モノ」について、レスなさっているみなさんのような歴史的知識もありませんし、考えが深いわけでもなんでもないのですが、面白そうなお題なので参加させてください。(無視してくださっても結構です(笑))houseiinさんのおっしゃるように、「モノ」を上位にもってくる考え方、これは、ある意味、
個々の人間にとってみれば、心の中の「ポリシー」だとか、「拠り所」を、「モノ」に置き換えている、つまり、哲学的用語で言うならば、唯物論的なにおいがぷんぷんします。わたしには。おれには、或いはわたしにはコレ(モノ)があるから、安心できるみたいな。唯物論というのは、宇宙の本質は物質、精神は物質に規定されるという考え方ですが、失礼なのを承知で言わせてもらうならば、こういう考え方は、「幼い」考え方のような気がします。小さな子って、自分のたから「モノ」を、いつも肌身離さず持ってたりするじゃないですか。それと同じとは、決して言いませんが、類似点はあるような気がするわけです。「カオス」から、神(陽)と鬼(陰)が分かれた、という考え方には、確かに一理あると思いますが「カオス」=「モノ」と言い切ってしまうと、あまりにも安直のような気がします。人間に置き換えて考えてみると、以前はおもちゃなどの「モノ」が頼りだった、しかし、特に精神的に成長するにつれ、内的、精神的部分が、自らの寄って立つところになるように思うのです。だから、(あくまでわたしの考えですが←強調(笑))、「モノ」を上の方に置いて、重要視するのは、神にしても、鬼にしても、どうもしっくりこない、そのように考えるわけです。長々と、どうも失礼しました。
0011 KARASU(2006-11-1)ええと、まず、ホウセイインは私ですという事をお断りしておきます。唯物論もモノが付いていますね、というのはまず置いておいて。唯物論のお話からさせて頂きます。私自身は物質は精神に規定されていると考えています。例えば名付けがまさにそれです。名付けなくても、「存在」は無くなりません。また、精神が必要としているから、様々な物が(またモノですね)生み出され、発見されるのでしょう。では、唯物論は幼いでしょうか。精神が拠り所とするものが無いなら、どうやって人間は存在していくのでしょう(概念を持っているのは人間であるという仮定で)。拠り所が要らないならば、どうして言語を持ったのでしょう。思想や思考を持ったのでしょう。さて、本題のモノ概念ですが、それでは神や鬼はどこから来たのか・・・そこに対する意見も書いて下さると話が広げやすいので、思う事があったら書いて下さいませ。意見を訊いてるくせにまた質問形式で返してスミマセンでした。
0012 -(2006-11-1)おはようございます。まず最初に、謝罪したいと思います。何もわかっちゃいないくせに、生意気なことを言って、本当に申し訳ありませんでした。ごめんなさい。その上で、意見を述べるなんて、とんでもないことなのですが、このままでは、わたし自身、卑怯な「書き逃げ」になってしまいますので、お聞き苦しいとは思いますが、ご勘弁をお願いいたします。 >私自身は物質は精神に規定されていると考えています。 わたしも、まさしくそう思います。その上で、「神」、「鬼」について考えるならば、古(いにしえ)の人々の、大自然に対する畏怖の念、あるときには意味不明の恐怖の念が、「神」「鬼」の根源になったように思います。その「大自然」(あるいは、もっと広げて「大宇宙」)を、「モノ」と呼びうるのであれば、「神」「鬼」を作り出したのは、「モノ」と呼べるのでしょう。ただし、それは、あくまでも、人間の精神、畏怖などの念があってこそ、のことだと考えます。「唯物論」を「幼い」などと言ってしまったのは、確かに早計でした。そもそも、唯物論を、「神」「鬼」の出自に結びつけること自体、無理があったのでしょう(反省)。特に日本における「神」「鬼」の概念には、特殊なものがあると思います。
歴史(文献)を勉強し直して、出直したいと考えています。どうも失礼いたしました。
0013 KARASU(2006-11-1)お早う御座います。書き込み有り難う御座います。こちらもちょっと口調が強すぎたのではないか、と一晩寝て反省致しましたです。物質は精神に規定される、というのに賛同頂き有り難う御座いました。こちらもまだまだ勉強中の身です。文献など調べてみて、何か思い付いたりしたらびしびし書き込んで下さい。私ももっと勉強したいと思います。お互い、頑張りましょう。唯物論を神、鬼と結び付けられないか、ちょっと考えてみたいと思います。モノ繋がりで(笑)
0014 shion(2006-11-1)こんばんは。>唯物論を神、鬼と結び付けられないか、ちょっと考えてみたいと思います。 面白そうですね。「もののけ」も、元はといえば「物の気」ですからね。がんばってくださいませ。話をぶった切るようで、申し訳ないのですが、陰陽五行説に結び付けてみたりしたので、宜しければ見ていただけると幸いです。今回私は「鬼」を「陰」、「神」を「陽」にあてはめてみました。すると、それぞれ日本古来の色に当てはめると、陰は「暗=黒」、陽は「明=赤」になります。また、五行説では、黒は水、赤は火の色になります。五行の色は正色と呼ばれたのに対し、正色同士を混ぜ合わせた色は、間色と呼ばれます。そして、北方に当たる間色は、黒+赤の紫なのです。つまり、これこそ陰陽の和合といえるのではないでしょうか。紫、北といえば、道教における北極星の神、太一(紫微)です。北極星は、他の星がその周りを回ることから、最高の天帝と考えられていました。(妙見信仰のようなものなのでしょうか・・・)陰陽の和合=宇宙の最初・混沌です。これは天之御中主神などの別天津神にもつながる気がします。紫はいうまでもなく最高の禁色ですから、神・鬼より上位の存在「モノ」にふさわしいかな、と考えます。また、冠位十二階で、紫が第一位の色で、黒より赤が上位に来ているのも面白いと感じました。(まあ、これこそ五行に基づいているので、当然といえば当然ですが・・・)また、よく分からないことになってしまいました・・・。後付けのような理由をくどくど言ってしまい、すみません・・・。
0015 KARASU(2006-11-8)返信が遅くなってしまい、申し訳ないです。井上円了先生なんかは、哲学と妖怪の二本立てでしたから、案外唯物論とモノ概念は遠くないのかもしれません。今回は陰陽五行説からモノ概念を考えられたのですね。後付けなんて、滅相も無い。紫は中国の皇帝、日本では天皇の色ですね。妙見信仰は神仏習合の中で北極星とも関連付けられていました。
「見えない力」が正に傾くと神、負に傾くのが鬼となりますから、「ほほう!」という感じでした。日本の神話は中国からの影響を大きく受けてどこからがオリジナルなのか分からない状態ですし、有り得ないとは言えない、むしろ十分考えられます。有り難う御座いました、そろそろ皆さんの意見を混ぜて、モノ概念について考察してみたいと思います。あ、でもまだまだ御意見受け付けておりますです、ハイ。
0016 gfts(2008-6-17)(‘ヮ‘)ノシ こんばんは☆面白そうなので少し何か書いてもイイでしょうか?モノが原因で精神も鬼も神もぽこぽこと放って置いても自然に生まれるかもしれない気が何となくするのでそれは何だか、混ぜこぜのカオスから生まれる生命のロマン特別番組っぽいノリで素敵です☆そう考えると、何となく偉いかもしれないような気が何となくするなって想います☆変な見解なので参考にならないと思います。ごめんなさい☆♪おまけ♪ウガンダのバガンダ族の話に出てくるキントゥという神様の字義が(モノ)らしいです。それで、最初の人間らしいです。関連性があるのかないのかは分らないですが☆
0017 kagehiroi(2008-9-5)皆さんの見解からキョンシーの成り立ち、すなわち道教における魂魄という概念が思い浮かびました。まあ、知っている方はたくさんいると思いますが、一応。道教では人の魂は2対1体で魂と魄に別れます。魂は陽で精神活動をつかさどり死後天に昇り、魄は陰で肉体運動を司り地に帰る。この魄が間違って死体に入るとキョンシーになるのですが、ここの話の流れだと魄が、『モノ』に似ているような気がします。肉体、地、陰。キーワードは揃ってます。多分日本でのモノノケの概念もこれとの影響はあると考えますが、人の精神においても先人たちは『モノ』ということを考えていたのかも。キョンシーは死体というただの物体に、魄という『モノ』が入り込んでできた『モノ』を象徴する妖怪かもです。
0018 takimocho(2008-9-11)とても面白そうな論点で、興味をそそられてしまいましたので、ちょっと書かせていただきます。そもそも「物」→モノとは、霊的な存在を示す言葉の一つで、カミ・オニ・モノとタマを加えた4つの要素は、性質こそ違えど根源は同じであると言われています。(文献は忘れてしまったのですが…)霊的概念のモノと物的概念の物の隔たりからアプローチすれば、オニやカミにも結びつけることが出来るのではないでしょうか?浅学稚拙な論ではありますが、参考までに。それでは、失礼いたしました。
0019 KARASU(2008-9-15)春山さん>書き込みありがとうございますぅwwwww ぽこぽこと放って置いても自然に生まれる…のかどうかは分かりませんが、生命のロマン特別番組で母胎を思い出しました。羊水の、栄養のある液体の中で生命が育つ…みたいな。うん、偉い。ウガンダのバガンダ族のキントゥさん、面白いでスネ!最初の人間ってやっぱりカオスみたいなところからうまれるんでしょうか。詳細お待ちしてますwww
0020 KARASU(2008-9-15)影拾いさん>キョンシーと言えば幽幻道士…とか思う私は何歳でしょうか。肉体とはつまり魂魄の容れ物とも解釈できますね。間違って陰の地に葬られた死体はキョンシーになると聞いたことがあります。
鬼など人の心が由来の妖怪に『モノ』が関わるのなら、人の精神そのものにも『モノ』が食い込んできても不思議じゃないかもしれません。ありがとうございます
0021 KARASU(2008-9-15)takimochoさん>こんにちは、書き込みありがとうございます。「物」と書くと形ある物体という意味になりますね。カミ・オニ・モノが同じというのは知っておりましたが、タマもそうだというのは初めて聞きました。物体を表す「物」に何故「モノ」という音を当てたのか(混乱を来すにも関わらず!)、その点もかなり重要な、カミ・オニに繋がるポイントかもしれませんね。また面白いアイディアがあれば(文献名を思い出したとか…)よろしくお願いします。
0022 sabato(2008-9-19)おはようございます♪こちらのトピックには初投稿でございます。僭越ながら参加させて頂きます★“モノ”と云う言葉は不思議です。その中には物理的存在と精神的概念と云う、一見相反する様に見えるものが同居している。けれども、我々だって肉体と精神があって成立している存在なのです。“森羅万象全てを包括している概念”と云う考えは面白いと思うし、同感です。そいつを踏まえて(重複する部分もあるかと思いますが)、私の意見を述べさせて頂きたく思います。まず“者”という言葉。これは自分や相手の事です。「私はこう云う者です」とか「君は何者だ」とか。ここから“モノ”は“対象”を指し示す概念ではないのかと仮定してみます。その場合“対象”は人間に止まりません。抽象された事柄や現象を擬人化した時にも“者”は生まれます。「何者」と問い掛けた相手が畜生や風に揺れた木々の事もあるでしょう。自分の中に“ナニモノ”かが巣喰っていると云う妄念に取り憑かれてしまうお人も居ます。相対する対象に可能な事は全て“モノ”に成り得ます。物質であろうと、人間であろうと、霊鬼であろうと、心の動きや現象をも包括してしまうのが“モノ”と云う言葉の属性ではないでしょうか。ここでちょっと車軸は変わりますが、アルファベットで表記すると“MONO”。これは文房具のブランド…ではなくて、ギリシア語由来で“一つの~”と云う意味。モノローグやモノトーン、一夫一妻制をモノガミー、一つの事に偏執する者の事をモノマニアと云い、モノリスは一枚岩、モノポリーは独占と云う意味です。“唯一”と考えれば、この本邦でも男性器を“イチモツ”(漢字で書くと“一物”)と表現したり、命自体を“モノ”と云う事もあります。“物種”なんて言葉の背景にも関ってくるのでしょうか。唯一と云う事は他には無い“大切な”と云う意味にも捉える事が出来ます。物狂いや物忘れ、物乞い。これらの言葉の“物”は人格や記憶、生きる為に必要な物を指しています。物分りや物心は道理や常識、空気と云った所でしょうか。物差しは単なる文房具ではなく、指針や理念を表す事もあります。尤も「手前の物差し」の様に反対に“ちっぽけな常識”の様な使い方も多々されますが。馬鹿者や愚か者と云う様に相手(対象)を卑下する時の“モノ”の使われ方ですね。物置や物貰い、物怖じなんてのは“取るに足らない”“邪魔な”“何でもかんでも”と云った属性が見え隠れしています。これは“大切な”とは程遠い真逆の概念であります。ここでもまた“相反する二つの属性”が同居しているのです。しかしこれは逆に“モノ”と云う言葉に、“なくてはならない”と云う属性もあったのではないかと考えられます。月並みな表現をするのならば、“悪役が居なくてはヒーローは成立しない”と云った所でしょうか。そしてまま、善悪や常識などと云った不確かな要素はTPOに遵って簡単にくるりと逆転してしまいます。しかし頭に“もの”が付く言葉は大変多くあるのです。物哀れ、物寂しい、物憂げ、物足りない、物音、物思い…。これらの言葉の“物”は漠として“捉え所の無い”と云う属性を。物笑い、物凄い、物忌みや物々しいと云う言葉の“物”は強調を促し“特別な”と云う属性を付加させています。また文章や言葉そのものを指す事もあります。物語りや物書き、物言い。“モノ”が“モン”に変化したと考えれば、“問”“聞”“文”などは関係を疑いたくなる言葉です。“詣でる”と云うのも神様とのコミュニケーションと考えると、もしかしたら繋がってくるやも知れません。“もののけ”は“モノ”の“ケ”。“取るに足らない”物が化生したとも、“特別な”者に化生したとも受け取れますし、“ケ”を“気”と考えれば、生命力のことでもあり、また“モノ”が指し示す“命”とも繋がります。こうして“モノ”に付いて考えていると解釈はとりとめも無く溢れてゆき拡散していってしまい、“まるでお化けか魍魎です(談・楠本君枝さん)”。死骸を齧る魍魎は年を取らないそうです。と云う事は命が無いと云う事か、それとも命そのものと同じ様な概念と云う事でしょうか。そう考えると…。魍魎も影にあって形は無く、漠としたモノノケ。語感もなんとなく似ているなぁと思ったりして。朦朧とははっきりとしていない、秩序が無いと云う事です。即ち混沌。カオスです。道教に於いて天地を創造した盤古はカオスの象徴。キリスト教でも神は秩序を創りたもい、我が国の伊邪那岐と伊邪那美はカオスを攪拌する事でこの国を作り上げた。ぐるぐるぐるぐる。攪拌とは混ぜ捏ねると云う事です。それが形の無い時は混沌と呼ばれ、固まった時に天に成り、地に成り、人に成り、生命に成り、世界に成ったのだと考えれば“それ”が森羅万象全てを包括すると云うのは当たり前の事だったのです。カオスも秩序も関係無い。形も存在の有無も理すらも関係の無い、凡てが産まれ総てが還って行く“そこ”が“モノ”の完全なる源なのではないでしょうか。とまぁ浅薄な知識を元に、予断と思い付きと妄想に委ねて諄々と書き連ねてしまいました。お読み苦しい点も多々あるかと存じますが、読んで戴きましてありがとうございました。