九月の狂想曲
上条が美琴と再び合流したのは午後二時に差しかかろうとする頃だった。
自分の出場分に加えて土御門の代役で参加種目が倍に増え、美琴に連絡していた予定から大幅に自由時間が削られてしまったからだ。
しかもこの後上条は二〇〇メートルハードル、スウェーデンリレー、さらには全員参加の男子組体操に出場しなくてはならない。
「目に見えて疲れてるわね。お昼はちゃんと取れたの?」
「……ちくしょう。土御門の奴、後で覚えてろよ……」
美琴が苦笑いで上条をなだめる。
よしよしと頭を撫でられていると、
「おーい、カミやーん」
渦中の人、土御門元春が手を振りながらこっちに向かってくる。
上条は両の拳を振り回して、
「やい土御門、テメェよくも嘘ついて今日の競技すっぽかしやがったな!! こっちはとばっちり食らってテメェの分全部穴埋めしてんだぞ!!」
「いやー、ホント悪いにゃー。心の底からすまないと思ってるからユルセ?」
上条達の目の前で急ブレーキをかけて立ち止まり、両手を合わせてわざとらしく拝む振りをする土御門。
上条はげんなりしながら、
「全く、これっぽっちも、一ミリたりとも悪いとか思ってねーだろ」
ツッコミを受けた土御門は表情をまじめくさった物に変えて、
「カミやん。確かにオレは嘘をついたぜよ。でもそれはちゃんと理由(ワケ)があるんだにゃー」
「……まさか、何か事件が起きたって言うんじゃないだろうな? 去年みたいに、あんなことが」
ずい、と土御門に詰め寄る。
「ああ。きわめてまずいぜよ」
土御門は美琴の様子をチラ、と横目で確認すると声をひそめる。
上条は土御門の様子に合わせて声のトーンを落とし、
「何か俺にできる事はあるか?」
「大丈夫だ。カミやんの手を汚すようなことじゃない」
土御門は首を横に振る。
「じゃあせめて、何が起きてるのか教えてくれねえか?」
「実はな……」
「実は?」
蚊帳の外に置かれて不機嫌になりつつある美琴を視界に収めつつ上条はゴクリ、と息を飲む。
「舞夏の学校で作ってるメイド弁当の売れ行きが悪いんであっちこっちに売り込みかけてたんだにゃー。何とかして今日中に千個売らないとまずいらしくって」
「結局妹ネタかよ!」
「いやー、本当にすまないと思ってるんだにゃー。カミやん、嫁さんと語らう時間が減っちまったんだろ?」
土御門はすかさずパチン、と両手を合わせてもう一度『申し訳ない』とばかりに上条達を深々と拝む。
嫁、と言う単語で美琴の耳がピクリ、と動く。
美琴は顔を真っ赤に染め両手をわたわたと振って、
「よ、嫁だなんてそんな……。こんな奴で良かったらどんどんこき使ってください」
「嫁とか言うなよ土御門! コイツが調子に乗るだろがって痛ったぁ!?」
アンタこそ余計な事を言うなとばかりに上条をグーで小突く。
土御門は微妙な表情に薄く笑いを浮かべて、
「まぁまぁ、夫婦喧嘩はそのくらいにしてほしいにゃー。土御門さん、カミやんの自由時間を奪っちゃって申し訳ないと思ってるから、ここから先の競技は出なくて良いように掛け合ってきたぜよ」
「本当か?」
「その代わりと言っちゃ何だけど、今から三〇分後に行われるトライアスロンに出場して欲しいって吹寄から連絡が」
「全然交換条件になってねーだろ! つか、今からそんなもんに出たらくたびれきって何もできねえよ……」
「それじゃカミやん、スタート地点は第二一学区の実験用ダムなんで後はよろしく頼んだぜーい!」
すたこらさっさと踵を返して走り去る土御門。
「あ、こら待て土御門!! ……逃げられた。不幸だ」
がっくりと肩を落とす上条。
美琴は携帯電話の液晶画面に大覇星祭のデジタルパンフレットを表示させると、
「トライアスロン、トライアスロン……これね。高校二年男子選抜競技。ふうん、ショート・ディスタンスの方なんだ」
「ディスタンス? 何だそれ??」
上条は聞き慣れない単語に首を傾げる。
「トライアスロンは距離によっていくつかあるんだけど、一番ハードなのは水泳三・八キロ、自転車一八〇キロ、長距離走四二・一九五キロのコースを走破する、通称アイアンマンレースって言うのは聞いた事あるでしょ? で、今回のコースは水泳一・五キロ、自転車四〇キロ、長距離走一〇キロのショート・ディスタンス――別名オリンピック・ディスタンスな訳」
「……聞くんじゃなかった。ショートでも相当きつそうじゃねーか」
美琴の説明に上条はげんなりとなる。
「アイアンマンレースは競技終了まで一〇時間くらいかかるけど、ショートの方は遅くても三時間前後で終わるみたいね。学園都市の学生がやるんだから、トップは一時間半くらいでゴールするんじゃないかしら」
「……あの。俺が無能力者だってこと忘れてませんか?」
上条は突っ立ったまま本気で泣きそうな顔になる。
美琴は上条の頬を両手で挟んで持ち上げると、
「ほら、頑張れ彼氏。元気が出るおまじないしてあげるからしっかり完走すんのよ?」
「元気が出るおまじないだぁ?」
超能力者(かがくがわ)のお前が今さら魔術(オカルト)かよ、と上条はツッコミたくなる。
「そ。……こうやってね」
美琴は上条のおでこに掛かったハチマキをずらし、汗ばんだおでこにキスするとキスした場所をハチマキで隠した。
「……元気出た?」
茶目っ気を交えて頬を赤く染めながら美琴がちらり、と上条を見る。
「……あー、出た。元気出た。すごく出た」
上条は自分の顔がゆでだこのように赤くなっていくのを止められない。
紅潮した頬を美琴に見せないようそっぽを向いて、
「にしても、恥ずかしいだろこう言うの」
「でも嬉しいでしょ?」
「……、」
その質問には答えないでおくことにする。
自分の出場分に加えて土御門の代役で参加種目が倍に増え、美琴に連絡していた予定から大幅に自由時間が削られてしまったからだ。
しかもこの後上条は二〇〇メートルハードル、スウェーデンリレー、さらには全員参加の男子組体操に出場しなくてはならない。
「目に見えて疲れてるわね。お昼はちゃんと取れたの?」
「……ちくしょう。土御門の奴、後で覚えてろよ……」
美琴が苦笑いで上条をなだめる。
よしよしと頭を撫でられていると、
「おーい、カミやーん」
渦中の人、土御門元春が手を振りながらこっちに向かってくる。
上条は両の拳を振り回して、
「やい土御門、テメェよくも嘘ついて今日の競技すっぽかしやがったな!! こっちはとばっちり食らってテメェの分全部穴埋めしてんだぞ!!」
「いやー、ホント悪いにゃー。心の底からすまないと思ってるからユルセ?」
上条達の目の前で急ブレーキをかけて立ち止まり、両手を合わせてわざとらしく拝む振りをする土御門。
上条はげんなりしながら、
「全く、これっぽっちも、一ミリたりとも悪いとか思ってねーだろ」
ツッコミを受けた土御門は表情をまじめくさった物に変えて、
「カミやん。確かにオレは嘘をついたぜよ。でもそれはちゃんと理由(ワケ)があるんだにゃー」
「……まさか、何か事件が起きたって言うんじゃないだろうな? 去年みたいに、あんなことが」
ずい、と土御門に詰め寄る。
「ああ。きわめてまずいぜよ」
土御門は美琴の様子をチラ、と横目で確認すると声をひそめる。
上条は土御門の様子に合わせて声のトーンを落とし、
「何か俺にできる事はあるか?」
「大丈夫だ。カミやんの手を汚すようなことじゃない」
土御門は首を横に振る。
「じゃあせめて、何が起きてるのか教えてくれねえか?」
「実はな……」
「実は?」
蚊帳の外に置かれて不機嫌になりつつある美琴を視界に収めつつ上条はゴクリ、と息を飲む。
「舞夏の学校で作ってるメイド弁当の売れ行きが悪いんであっちこっちに売り込みかけてたんだにゃー。何とかして今日中に千個売らないとまずいらしくって」
「結局妹ネタかよ!」
「いやー、本当にすまないと思ってるんだにゃー。カミやん、嫁さんと語らう時間が減っちまったんだろ?」
土御門はすかさずパチン、と両手を合わせてもう一度『申し訳ない』とばかりに上条達を深々と拝む。
嫁、と言う単語で美琴の耳がピクリ、と動く。
美琴は顔を真っ赤に染め両手をわたわたと振って、
「よ、嫁だなんてそんな……。こんな奴で良かったらどんどんこき使ってください」
「嫁とか言うなよ土御門! コイツが調子に乗るだろがって痛ったぁ!?」
アンタこそ余計な事を言うなとばかりに上条をグーで小突く。
土御門は微妙な表情に薄く笑いを浮かべて、
「まぁまぁ、夫婦喧嘩はそのくらいにしてほしいにゃー。土御門さん、カミやんの自由時間を奪っちゃって申し訳ないと思ってるから、ここから先の競技は出なくて良いように掛け合ってきたぜよ」
「本当か?」
「その代わりと言っちゃ何だけど、今から三〇分後に行われるトライアスロンに出場して欲しいって吹寄から連絡が」
「全然交換条件になってねーだろ! つか、今からそんなもんに出たらくたびれきって何もできねえよ……」
「それじゃカミやん、スタート地点は第二一学区の実験用ダムなんで後はよろしく頼んだぜーい!」
すたこらさっさと踵を返して走り去る土御門。
「あ、こら待て土御門!! ……逃げられた。不幸だ」
がっくりと肩を落とす上条。
美琴は携帯電話の液晶画面に大覇星祭のデジタルパンフレットを表示させると、
「トライアスロン、トライアスロン……これね。高校二年男子選抜競技。ふうん、ショート・ディスタンスの方なんだ」
「ディスタンス? 何だそれ??」
上条は聞き慣れない単語に首を傾げる。
「トライアスロンは距離によっていくつかあるんだけど、一番ハードなのは水泳三・八キロ、自転車一八〇キロ、長距離走四二・一九五キロのコースを走破する、通称アイアンマンレースって言うのは聞いた事あるでしょ? で、今回のコースは水泳一・五キロ、自転車四〇キロ、長距離走一〇キロのショート・ディスタンス――別名オリンピック・ディスタンスな訳」
「……聞くんじゃなかった。ショートでも相当きつそうじゃねーか」
美琴の説明に上条はげんなりとなる。
「アイアンマンレースは競技終了まで一〇時間くらいかかるけど、ショートの方は遅くても三時間前後で終わるみたいね。学園都市の学生がやるんだから、トップは一時間半くらいでゴールするんじゃないかしら」
「……あの。俺が無能力者だってこと忘れてませんか?」
上条は突っ立ったまま本気で泣きそうな顔になる。
美琴は上条の頬を両手で挟んで持ち上げると、
「ほら、頑張れ彼氏。元気が出るおまじないしてあげるからしっかり完走すんのよ?」
「元気が出るおまじないだぁ?」
超能力者(かがくがわ)のお前が今さら魔術(オカルト)かよ、と上条はツッコミたくなる。
「そ。……こうやってね」
美琴は上条のおでこに掛かったハチマキをずらし、汗ばんだおでこにキスするとキスした場所をハチマキで隠した。
「……元気出た?」
茶目っ気を交えて頬を赤く染めながら美琴がちらり、と上条を見る。
「……あー、出た。元気出た。すごく出た」
上条は自分の顔がゆでだこのように赤くなっていくのを止められない。
紅潮した頬を美琴に見せないようそっぽを向いて、
「にしても、恥ずかしいだろこう言うの」
「でも嬉しいでしょ?」
「……、」
その質問には答えないでおくことにする。
上条にとっての大覇星祭初日最終種目、トライアスロンがスタートした。
スタートを合図するピストルが鳴ると同時にウェットスーツを着た学生達は一斉にダムに飛び込み、泳ぎ始める。
トップを取ったのは水流操作系の能力者らしく、水の抵抗をものともせずホバークラフトのように突き進み、あっという間に姿が見えなくなった。
上条は無能力者のため淡々と泳ぐしか手段がなく、水泳方面に特化されていない能力者達と共に集団を作って水面を進む。
(こうやって集団の真ん中辺りを泳いでいると、水の抵抗を少なく感じるな。スリップストリームとかじゃねえだろうけどこいつは楽ちんだ)
うまく体力を温存しながらダムを泳ぎきり、上条は運営委員からヘルメットと自転車を受け取る。水から上がって重く感じる体を自転車の上に乗せ、ペダルをぐい、と踏み込む。
ここから第一七学区、第二〇学区、第一六学区、第八学区をくねくねと走り抜け、第七学区に入ったところで長距離走に切り替わる。コースにはチェックポイントがあり、腕のゼッケンに仕込まれたGPSで通過タイムなどが記録される仕組みとなっている。
上条は第七学区で暮らす高校生であり、その日常生活は学区内で帰結する。
生来の不幸体質もあってスクーターなどの移動手段を持たない上条からすると、自転車に乗って他学区を通過するというのはなかなか新鮮な驚きを伴う。
上条は後方に流れ去る風景を眺めながら、
(四〇キロってのはちっときついけど、高級自転車を借りてサイクリングしていると思えばこれはこれで……ん?)
ドン、と何かがぶつかってくる衝撃を感じた。
さらにゴツン、ゴツンと。
誰かが上条に体当たりを仕掛けている。
しかし体当たりと呼ぶには威力が弱い。
(誰だ?)
上条は横を向く。
見知らぬ少年だった。
ややうつむき気味に自転車を漕ぎながら上条に何度も向かってぶつかってくる。
「お、おい! こんなところで俺なんかに突っかかってきたって順位が変わる訳じゃ……!?」
どうも様子がおかしい。
少年はうつむいたまま荒い息を吐き、惰性に任せてペダルを回しているように見える。
少年は上条にバトルを仕掛けているのではなかった。
意識をもうろうとさせたまま、少年はふらふらと上条の方にもたれかかるように自転車ごと倒れ込んできた。
「う、うわっ……!」
ガシャーン!! と。
よろける少年の巻き添えを食って上条は自転車ごと道路に向かって押し倒された。
「痛ってぇ……っておい! 大丈夫か?」
上条の呼びかけも耳に入らないのか、少年は起き上がろうとしない。
上条は倒れた二台の自転車をひとまず脇にどかし、少年のそばにしゃがみ込む。
ヘルメットを脱がせるとぜーぜー、と荒い呼吸音が聞こえる。
少年は苦悶の表情を浮かべ、蒼白な顔面を玉のような汗が伝う。
「くそ! 脱水症状か? それとも熱中症か? 運営委員は? 救護班はどこだ??」
上条はキョロキョロと辺りを見回す。
コースには中継用のカメラが設置されているので、上条達の異変は運営委員側にも伝わっているはずだ。しかし沿道には観光客がびっしりと詰めかけている。こちらへ向かいたくても簡単に近づけない、と言う事は容易に想像できた。
最後に運営委員の姿を見かけたのは五キロ手前のチェックポイントだ。
そこからここへ向かっているなら駆けつけるのに相当時間がかかる。
このままではまずい。
「誰か! 誰か手を貸してくれ!!」
上条は叫ぶが、ざわめく観客達は上条達を指差すだけで誰一人動こうとしない。
待っていれば能力者がやってきて何か見せてくれるだろうと思っているのだろう。あるいは上条達が倒れたのも一種のパフォーマンスと考えているのかも知れない。
太陽が傾きだしたとはいえ陽射しは暑い。疲労だって蓄積している。道路の上で病人を寝かせておくにも限界がある。
少年をこのまま放っておく訳には行かない。これがどんな症状なのか上条には分からないが、一刻も早く医者に診せた方が良いという事だけは分かる。
上条は少年のそばでしゃがみ込んだまま振り返る。
―――道ならある。
混み合う沿道は使わず、出場選手以外通行禁止にしたこの道路を逆向きに走って行けば、運営委員達のいるチェックポイントまでは一直線。路肩部分を通れば競技の妨害にはならない。
こっちに向かって来ているならこっちからも移動すれば早く合流できる、と上条は頭の中で計算して、
「行くしか、ねえよな」
当麻! と呼ぶ声が聞こえた。
上条を応援するために沿道で待っていた父・刀夜の声だった。
その父が人波をかき分け上条の元へ向かおうとして、逆に押し戻される姿が見えた。
その隣では母がもみくちゃにされながら父を支えている。
両親の前で無様な姿は見せられない。
上条はお姫様抱っこの要領で少年を抱き上げると、
「辛いと思うけど、ちっとだけ我慢してくれ」
来た道を逆方向に向かって走り出す。
スタートを合図するピストルが鳴ると同時にウェットスーツを着た学生達は一斉にダムに飛び込み、泳ぎ始める。
トップを取ったのは水流操作系の能力者らしく、水の抵抗をものともせずホバークラフトのように突き進み、あっという間に姿が見えなくなった。
上条は無能力者のため淡々と泳ぐしか手段がなく、水泳方面に特化されていない能力者達と共に集団を作って水面を進む。
(こうやって集団の真ん中辺りを泳いでいると、水の抵抗を少なく感じるな。スリップストリームとかじゃねえだろうけどこいつは楽ちんだ)
うまく体力を温存しながらダムを泳ぎきり、上条は運営委員からヘルメットと自転車を受け取る。水から上がって重く感じる体を自転車の上に乗せ、ペダルをぐい、と踏み込む。
ここから第一七学区、第二〇学区、第一六学区、第八学区をくねくねと走り抜け、第七学区に入ったところで長距離走に切り替わる。コースにはチェックポイントがあり、腕のゼッケンに仕込まれたGPSで通過タイムなどが記録される仕組みとなっている。
上条は第七学区で暮らす高校生であり、その日常生活は学区内で帰結する。
生来の不幸体質もあってスクーターなどの移動手段を持たない上条からすると、自転車に乗って他学区を通過するというのはなかなか新鮮な驚きを伴う。
上条は後方に流れ去る風景を眺めながら、
(四〇キロってのはちっときついけど、高級自転車を借りてサイクリングしていると思えばこれはこれで……ん?)
ドン、と何かがぶつかってくる衝撃を感じた。
さらにゴツン、ゴツンと。
誰かが上条に体当たりを仕掛けている。
しかし体当たりと呼ぶには威力が弱い。
(誰だ?)
上条は横を向く。
見知らぬ少年だった。
ややうつむき気味に自転車を漕ぎながら上条に何度も向かってぶつかってくる。
「お、おい! こんなところで俺なんかに突っかかってきたって順位が変わる訳じゃ……!?」
どうも様子がおかしい。
少年はうつむいたまま荒い息を吐き、惰性に任せてペダルを回しているように見える。
少年は上条にバトルを仕掛けているのではなかった。
意識をもうろうとさせたまま、少年はふらふらと上条の方にもたれかかるように自転車ごと倒れ込んできた。
「う、うわっ……!」
ガシャーン!! と。
よろける少年の巻き添えを食って上条は自転車ごと道路に向かって押し倒された。
「痛ってぇ……っておい! 大丈夫か?」
上条の呼びかけも耳に入らないのか、少年は起き上がろうとしない。
上条は倒れた二台の自転車をひとまず脇にどかし、少年のそばにしゃがみ込む。
ヘルメットを脱がせるとぜーぜー、と荒い呼吸音が聞こえる。
少年は苦悶の表情を浮かべ、蒼白な顔面を玉のような汗が伝う。
「くそ! 脱水症状か? それとも熱中症か? 運営委員は? 救護班はどこだ??」
上条はキョロキョロと辺りを見回す。
コースには中継用のカメラが設置されているので、上条達の異変は運営委員側にも伝わっているはずだ。しかし沿道には観光客がびっしりと詰めかけている。こちらへ向かいたくても簡単に近づけない、と言う事は容易に想像できた。
最後に運営委員の姿を見かけたのは五キロ手前のチェックポイントだ。
そこからここへ向かっているなら駆けつけるのに相当時間がかかる。
このままではまずい。
「誰か! 誰か手を貸してくれ!!」
上条は叫ぶが、ざわめく観客達は上条達を指差すだけで誰一人動こうとしない。
待っていれば能力者がやってきて何か見せてくれるだろうと思っているのだろう。あるいは上条達が倒れたのも一種のパフォーマンスと考えているのかも知れない。
太陽が傾きだしたとはいえ陽射しは暑い。疲労だって蓄積している。道路の上で病人を寝かせておくにも限界がある。
少年をこのまま放っておく訳には行かない。これがどんな症状なのか上条には分からないが、一刻も早く医者に診せた方が良いという事だけは分かる。
上条は少年のそばでしゃがみ込んだまま振り返る。
―――道ならある。
混み合う沿道は使わず、出場選手以外通行禁止にしたこの道路を逆向きに走って行けば、運営委員達のいるチェックポイントまでは一直線。路肩部分を通れば競技の妨害にはならない。
こっちに向かって来ているならこっちからも移動すれば早く合流できる、と上条は頭の中で計算して、
「行くしか、ねえよな」
当麻! と呼ぶ声が聞こえた。
上条を応援するために沿道で待っていた父・刀夜の声だった。
その父が人波をかき分け上条の元へ向かおうとして、逆に押し戻される姿が見えた。
その隣では母がもみくちゃにされながら父を支えている。
両親の前で無様な姿は見せられない。
上条はお姫様抱っこの要領で少年を抱き上げると、
「辛いと思うけど、ちっとだけ我慢してくれ」
来た道を逆方向に向かって走り出す。
競技コースとして指定された道路を少年を抱き上げながら逆送した上条が救護班と合流したのは、上条が転んでから一〇分も後の事だった。
青い顔をしたままの少年を預けて、上条はほっと息をつく。
運営委員の一人が競技に復帰しようとする上条の背中に向かって、
「君、今から棄権(リタイヤ)しても特に問題は……」
「いや、戻るよ」
上条は首を横に振った。
額にかいた汗を右腕で拭いつつ、
「ゴールで俺を待ってる奴がいるんだ。だから行かなくちゃ」
倒れた自転車がある場所へ向かって走り出す。
青い顔をしたままの少年を預けて、上条はほっと息をつく。
運営委員の一人が競技に復帰しようとする上条の背中に向かって、
「君、今から棄権(リタイヤ)しても特に問題は……」
「いや、戻るよ」
上条は首を横に振った。
額にかいた汗を右腕で拭いつつ、
「ゴールで俺を待ってる奴がいるんだ。だから行かなくちゃ」
倒れた自転車がある場所へ向かって走り出す。
高校二年男子選抜トライアスロン開始後三時間が経とうとしていた。
美琴は上条との約束通り、ゴール地点として定められたとある高校の校庭で上条を待っていた。
この高校がゴール地点に選ばれたのは、校庭がほどほど広く、かといってそれほど何かの競技に使われる事もなく、そしてちょうど長距離走開始後一〇キロの地点にあったからだ。
すでに選手の九割以上がゴールもしくは棄権で競技を終了しているが、その中に上条の姿はなかった。
姿を見失った訳ではない。
上条はゴールであるこの場所にまだ姿を現していないのだ。
競技の途中で倒れた選手が何人かいるらしいが、その中に上条が入っていない事は確認した。一度は運営委員の管理データをハッキングする事も考えて、美琴は首を横に振る。
PDAなどなくても情報を『引っ張って』くる事はできるのだ。
そうしないのはただ単に『そうしたくない』から。
美琴は校庭の入り口を見つめる。
観客がほとんどいなくなった校庭で、
美琴は上条を待っている。
美琴は上条との約束通り、ゴール地点として定められたとある高校の校庭で上条を待っていた。
この高校がゴール地点に選ばれたのは、校庭がほどほど広く、かといってそれほど何かの競技に使われる事もなく、そしてちょうど長距離走開始後一〇キロの地点にあったからだ。
すでに選手の九割以上がゴールもしくは棄権で競技を終了しているが、その中に上条の姿はなかった。
姿を見失った訳ではない。
上条はゴールであるこの場所にまだ姿を現していないのだ。
競技の途中で倒れた選手が何人かいるらしいが、その中に上条が入っていない事は確認した。一度は運営委員の管理データをハッキングする事も考えて、美琴は首を横に振る。
PDAなどなくても情報を『引っ張って』くる事はできるのだ。
そうしないのはただ単に『そうしたくない』から。
美琴は校庭の入り口を見つめる。
観客がほとんどいなくなった校庭で、
美琴は上条を待っている。
上条当麻は歩いていた。
本人としては走っているつもりなのだが、足が満足に動いてくれない。
今日は二人分の競技に出場した。
最後にトライアスロンがあって、しかもその途中で倒れた選手を助けて逆送した。
人よりちょっと筋肉がついている上条でも、本当に体力の限界に差しかかっていた。
ぜーぜーと息を切らせて、
(く、そ……あとどれくらい走ればゴールなんだ……)
ふらふらと。
おぼつかない足取りで上条は一歩、また一歩と前に進む。
(アイツはきっと待ってる。行か……なくちゃ)
この競技に参加する事自体が予定外(イレギュラー)のため、上条は美琴とゴールで待ち合わせる約束を交わしていない。
でも。
でもきっと、彼女はそこで待っている。
上条には確信があった。
と。
わっ、と大きな歓声が耳に入る。
最下位になってもあきらめない上条を、
何の能力も使わずに競技に参加する上条を見届けようと残ったわずかな観客達が上条に向けて『頑張れ』と手を振る。
声の聞こえる方に視線を向けると、案内板を見つけた。
本人としては走っているつもりなのだが、足が満足に動いてくれない。
今日は二人分の競技に出場した。
最後にトライアスロンがあって、しかもその途中で倒れた選手を助けて逆送した。
人よりちょっと筋肉がついている上条でも、本当に体力の限界に差しかかっていた。
ぜーぜーと息を切らせて、
(く、そ……あとどれくらい走ればゴールなんだ……)
ふらふらと。
おぼつかない足取りで上条は一歩、また一歩と前に進む。
(アイツはきっと待ってる。行か……なくちゃ)
この競技に参加する事自体が予定外(イレギュラー)のため、上条は美琴とゴールで待ち合わせる約束を交わしていない。
でも。
でもきっと、彼女はそこで待っている。
上条には確信があった。
と。
わっ、と大きな歓声が耳に入る。
最下位になってもあきらめない上条を、
何の能力も使わずに競技に参加する上条を見届けようと残ったわずかな観客達が上条に向けて『頑張れ』と手を振る。
声の聞こえる方に視線を向けると、案内板を見つけた。
“トライアスロン:ゴールまで残り五〇〇メートル”
この角を曲がって校庭に入りトラックを一周すれば、そこがゴールだった。
(あ、何か見た事ある場所だと思ったらここって学校じゃねーか。はは。何だ、ここかよ)
上条は踏みしめる足に力を込めて、
(悪りぃ)
ゴールテープの向こうで待っているはずの少女に向かって、
(待たせたな)
よろよろと、ふらふらとトラックを回り、
(すっかり遅くなっちまったけど)
右手を挙げて、
(そこにいるよな)
ゴールテープを切った。
(あ、何か見た事ある場所だと思ったらここって学校じゃねーか。はは。何だ、ここかよ)
上条は踏みしめる足に力を込めて、
(悪りぃ)
ゴールテープの向こうで待っているはずの少女に向かって、
(待たせたな)
よろよろと、ふらふらとトラックを回り、
(すっかり遅くなっちまったけど)
右手を挙げて、
(そこにいるよな)
ゴールテープを切った。
「当麻っ!」
血相を変えた父の声が聞こえる。
「当麻さん!」
狼狽した母の声が聞こえる。
「上条くん!」
悲鳴のような美鈴の声が聞こえる。
「カミやん!」
しっかりしろと励ます土御門の声が聞こえる。
「上条!」
泡を食ったように驚く吹寄の声が聞こえる。
「とうま!」
泣き出しそうなインデックスの声が聞こえる。
(そこに、いるよな)
上条は目を閉じて、
運営委員を押しのけてゴールテープの向こう側に飛び込んだ美琴の腕の中へ、
ゆっくりと前のめりに倒れ込む。
血相を変えた父の声が聞こえる。
「当麻さん!」
狼狽した母の声が聞こえる。
「上条くん!」
悲鳴のような美鈴の声が聞こえる。
「カミやん!」
しっかりしろと励ます土御門の声が聞こえる。
「上条!」
泡を食ったように驚く吹寄の声が聞こえる。
「とうま!」
泣き出しそうなインデックスの声が聞こえる。
(そこに、いるよな)
上条は目を閉じて、
運営委員を押しのけてゴールテープの向こう側に飛び込んだ美琴の腕の中へ、
ゆっくりと前のめりに倒れ込む。
「―――ッ!!」
美琴は両腕を限界まで伸ばす。
もう自力で満足に立つ事もできない上条を掬い上げるように支えて、
「よく頑張ったわね。ここがゴールよ」
「……さか」
上条が何かを呟いている。
「ん?」
美琴は上条の口元へ耳を寄せる。
「……みさか」
「うん」
「……しいな」
何を言っているのか聞き取れない。
美琴は汗をびっしょりかいた上条の体を抱きしめて、
「どうしたの?」
「……楽しいな」
上条は笑っている。
息が苦しいはずなのに、
体が熱を持って辛いはずなのに、
笑っている。
「楽しい?」
「……大覇星祭って、楽しいな」
「……うん。楽しいね」
上条は笑っている。
美琴の両腕に支えられたまま、気を失って、
それでも笑っている。
美琴は最後にぎゅっ、と上条を抱きしめて、すぐそばで待機していた救護班を呼んだ。
担架に乗せられ、運ばれる上条を見送る。
行き先はいつもの病院だ。
美琴は少しずつ遠ざかる救急車のサイレンを聞きながら、
「最後に病院に担ぎ込まれるのは、アンタの中では完全にお約束なのね……」
唇を噛みしめて、泣きだしそうな顔で笑って、拳を握りしめて空を見上げる。
ナイトパレードが始まるまで、あと一時間。
美琴は両腕を限界まで伸ばす。
もう自力で満足に立つ事もできない上条を掬い上げるように支えて、
「よく頑張ったわね。ここがゴールよ」
「……さか」
上条が何かを呟いている。
「ん?」
美琴は上条の口元へ耳を寄せる。
「……みさか」
「うん」
「……しいな」
何を言っているのか聞き取れない。
美琴は汗をびっしょりかいた上条の体を抱きしめて、
「どうしたの?」
「……楽しいな」
上条は笑っている。
息が苦しいはずなのに、
体が熱を持って辛いはずなのに、
笑っている。
「楽しい?」
「……大覇星祭って、楽しいな」
「……うん。楽しいね」
上条は笑っている。
美琴の両腕に支えられたまま、気を失って、
それでも笑っている。
美琴は最後にぎゅっ、と上条を抱きしめて、すぐそばで待機していた救護班を呼んだ。
担架に乗せられ、運ばれる上条を見送る。
行き先はいつもの病院だ。
美琴は少しずつ遠ざかる救急車のサイレンを聞きながら、
「最後に病院に担ぎ込まれるのは、アンタの中では完全にお約束なのね……」
唇を噛みしめて、泣きだしそうな顔で笑って、拳を握りしめて空を見上げる。
ナイトパレードが始まるまで、あと一時間。
美琴はとある病院の屋上にいた。
地平線の向こうに沈む夕日はつかの間世界をオレンジ色に塗り替える。
スカートの裾をなぶる北風は冷たい。
金網製のフェンスを握りしめた両手は血の気を失って白く変わり、どれだけ息を吹きかけても元の温度を取り戻せそうにない。
上条はいつもの個室で眠っている。
今頃はベッドのそばに置かれた計測器が規則正しい音を鳴らして上条の生存を告げているはずだ。
その病室を飛び出して、美琴はここにいる。
眼下に広がる日常を見つめながら、ただ無言で。
今日も彼が目覚めるのを待っている。
地平線の向こうに沈む夕日はつかの間世界をオレンジ色に塗り替える。
スカートの裾をなぶる北風は冷たい。
金網製のフェンスを握りしめた両手は血の気を失って白く変わり、どれだけ息を吹きかけても元の温度を取り戻せそうにない。
上条はいつもの個室で眠っている。
今頃はベッドのそばに置かれた計測器が規則正しい音を鳴らして上条の生存を告げているはずだ。
その病室を飛び出して、美琴はここにいる。
眼下に広がる日常を見つめながら、ただ無言で。
今日も彼が目覚めるのを待っている。
上条はゆっくりとまぶたを開いた。
最初に視界に入ったものは真っ白い天井で、ぼんやりと見ているうちに自分がいつもの病室に収容された事を何となく理解する。
頭の下にはすっかり慣れ親しんだ枕。
体の上にはクリーニングされたばかりの清潔な上掛け布団。
横たわったまま首を右に傾けると、パイプ椅子が二つ並べて置かれていた。
上条はベッドの中から右手を伸ばし、シートの部分にそっと触れる。
まだ暖かいシートはつい先ほどまで上条の両親がここに座っていた事を教えてくれた。
そして、慣れ親しんだ残り香が上条の鼻をかすかに通り抜けていく。
それはここにもう一人別の誰かがいた証。
上条の両親ではない誰かがここにいたのだ。
上条はゆっくりとベッドの上に起き上がり、キョロキョロと辺りを見回すが人の気配はない。
ここに、
間違いなくここにいたはずの少女がいない。
そばにいるはずの美琴がいない。
どこへ行ったのだろう。
美琴の性格でぶっ倒れた上条のそばを長く離れているというのはおかしい。
ただそれだけなのに上条は何故か釈然としない思いを感じる。
「俺を置いてどこ行ったんだよ、アイツ」
口から自然と不満の声が漏れた。
そのまましばらく美琴の行き先について考え込んでいると、カーテンを掛けられた窓の外が妙に明るく感じられるのに気がついた。
上条の視線はベッドサイドのテーブルに取り付けられた時計へ。
時刻は午後六時四五分。
太陽はとっくに沈んでいるこの時刻で、天井灯をつけた室内より『外の方が明るい』なんてあり得ない。
「……、あ」
美琴がここにいない理由にようやく思い至った上条は、上掛け布団をはねのけ、ベッドから降りる。
ベッド下に置かれたスリッパを突っかけ、体操服姿のままで病室を出た。
すっかり使い慣れたエレベーターに乗り込み『R』のボタンを押す。
ゆるゆるとドアが閉まり、一度に二〇人くらい乗り込めそうなエレベーターはかすかな駆動音と共に上昇を始めた。
やがてチン、と小さな音がしてエレベーターが上昇を止める。
滑るように二枚重ねのドアが開き、上条はエレベーターを降りた。
目の前には灰色に塗られた鉄のドアがあった。
上条は鈍い銀色に輝くドアノブを握りしめて、願う。
(きっとこの先にアイツはいるはずだ)
ドアノブを回し、重いドアを押し開けるとジジジ、と言うノイズ音と共に目の前の景色が一瞬歪んだような気がした。
「? ……御坂? そこにいるのか?」
病院の屋上を取り囲むように建てられたフェンスの前で、ジャージを羽織った一人の少女が立っている。
「御坂?」
上条の呼ぶ声に美琴は振り向くことなく楽しげに、
「遅かったじゃない。ナイトパレード、もう始まってるわよ」
上条は無言で美琴の後ろに立った。
美琴は顔だけを上条の方に向けて、
「どうしたの? ははーん、さては私が病室にいなかったから慌てたんでしょ? それとも怒った? もしかして寂しかっ……た……?」
上条は美琴の質問に答えず、美琴を後ろから強く抱きしめる。
美琴はほんの少しだけ上条の腕の中で身じろぎして、
「め、めずらしい事もあるもんね。アンタが自分から抱きしめてくるなんて」
「……、」
「も、もも、もしかしてさっき言った事って図星? 全問正解おめでとう?」
「……何だって良いだろ」
上条は美琴の肩越しに世界を見る。
夜空を埋め尽くすほどまばゆく輝くイルミネーション。
学園都市に高く聳えるビル群を美しく彩る無数のレーザー光線。
大通りでは電飾だらけのパレードカーや移動ステージが軽快な音楽と共に光の大河を作る。
美琴は前を向くと上条の首に両腕を回して、
「……寒くないの? アンタ体操服のままじゃない」
「そう言うお前だって上にジャージ羽織ってるだけだろ。寒くねーのかよ」
地上の熱狂も二人がいる屋上までは届かない。
首筋を通り抜ける風が思ったよりも冷たく感じて、上条は美琴を抱きしめる腕にもう少しだけ力を込める。
美琴は肩越しにある上条の頬と自分の頬をくっつけて、
「……あったかいね」
「あったけーな」
二人はフェンス越しに光の洪水を見つめる。
去年、上条は満足に見る事のなかったナイトパレード。
去年、美琴は上条を誘えなかったナイトパレード。
「あの、さ」
いつもハキハキ喋る美琴がめずらしく口ごもっている。
「ん?」
上条は先を促す。
美琴は言葉を慎重に選ぶように、
「何かさ、その……アンタの両腕から、今のアンタの気持ちが伝わってくるような気がする」
「ふうん。……それってどんなんだ?」
「……教えない」
そう言って、ほんの少しだけ笑う。
「楽しいな」
上条は、何が、とは言わなかった。
「そうね。楽しいわね」
美琴は、何が、とは聞かなかった。
今日は朝からドタバタしていて満足に一緒にいられなかった。
ナイトパレードだって、本当は病院の屋上からじゃなく通りに出て見るつもりだった。
初めての頬へのキスは失敗して、先生に叱られて、いらぬとばっちりを食らって、へとへとになって。
それでも、と上条は思う。
事件が起こらない、誰もが笑っていられる、
平和な大覇星祭は、こんなにも楽しい。
二人で見るナイトパレードはこんなにもまぶしい。
眼下に広がる輝きは、今日一日頑張ったことへのご褒美に思えた。
最初に視界に入ったものは真っ白い天井で、ぼんやりと見ているうちに自分がいつもの病室に収容された事を何となく理解する。
頭の下にはすっかり慣れ親しんだ枕。
体の上にはクリーニングされたばかりの清潔な上掛け布団。
横たわったまま首を右に傾けると、パイプ椅子が二つ並べて置かれていた。
上条はベッドの中から右手を伸ばし、シートの部分にそっと触れる。
まだ暖かいシートはつい先ほどまで上条の両親がここに座っていた事を教えてくれた。
そして、慣れ親しんだ残り香が上条の鼻をかすかに通り抜けていく。
それはここにもう一人別の誰かがいた証。
上条の両親ではない誰かがここにいたのだ。
上条はゆっくりとベッドの上に起き上がり、キョロキョロと辺りを見回すが人の気配はない。
ここに、
間違いなくここにいたはずの少女がいない。
そばにいるはずの美琴がいない。
どこへ行ったのだろう。
美琴の性格でぶっ倒れた上条のそばを長く離れているというのはおかしい。
ただそれだけなのに上条は何故か釈然としない思いを感じる。
「俺を置いてどこ行ったんだよ、アイツ」
口から自然と不満の声が漏れた。
そのまましばらく美琴の行き先について考え込んでいると、カーテンを掛けられた窓の外が妙に明るく感じられるのに気がついた。
上条の視線はベッドサイドのテーブルに取り付けられた時計へ。
時刻は午後六時四五分。
太陽はとっくに沈んでいるこの時刻で、天井灯をつけた室内より『外の方が明るい』なんてあり得ない。
「……、あ」
美琴がここにいない理由にようやく思い至った上条は、上掛け布団をはねのけ、ベッドから降りる。
ベッド下に置かれたスリッパを突っかけ、体操服姿のままで病室を出た。
すっかり使い慣れたエレベーターに乗り込み『R』のボタンを押す。
ゆるゆるとドアが閉まり、一度に二〇人くらい乗り込めそうなエレベーターはかすかな駆動音と共に上昇を始めた。
やがてチン、と小さな音がしてエレベーターが上昇を止める。
滑るように二枚重ねのドアが開き、上条はエレベーターを降りた。
目の前には灰色に塗られた鉄のドアがあった。
上条は鈍い銀色に輝くドアノブを握りしめて、願う。
(きっとこの先にアイツはいるはずだ)
ドアノブを回し、重いドアを押し開けるとジジジ、と言うノイズ音と共に目の前の景色が一瞬歪んだような気がした。
「? ……御坂? そこにいるのか?」
病院の屋上を取り囲むように建てられたフェンスの前で、ジャージを羽織った一人の少女が立っている。
「御坂?」
上条の呼ぶ声に美琴は振り向くことなく楽しげに、
「遅かったじゃない。ナイトパレード、もう始まってるわよ」
上条は無言で美琴の後ろに立った。
美琴は顔だけを上条の方に向けて、
「どうしたの? ははーん、さては私が病室にいなかったから慌てたんでしょ? それとも怒った? もしかして寂しかっ……た……?」
上条は美琴の質問に答えず、美琴を後ろから強く抱きしめる。
美琴はほんの少しだけ上条の腕の中で身じろぎして、
「め、めずらしい事もあるもんね。アンタが自分から抱きしめてくるなんて」
「……、」
「も、もも、もしかしてさっき言った事って図星? 全問正解おめでとう?」
「……何だって良いだろ」
上条は美琴の肩越しに世界を見る。
夜空を埋め尽くすほどまばゆく輝くイルミネーション。
学園都市に高く聳えるビル群を美しく彩る無数のレーザー光線。
大通りでは電飾だらけのパレードカーや移動ステージが軽快な音楽と共に光の大河を作る。
美琴は前を向くと上条の首に両腕を回して、
「……寒くないの? アンタ体操服のままじゃない」
「そう言うお前だって上にジャージ羽織ってるだけだろ。寒くねーのかよ」
地上の熱狂も二人がいる屋上までは届かない。
首筋を通り抜ける風が思ったよりも冷たく感じて、上条は美琴を抱きしめる腕にもう少しだけ力を込める。
美琴は肩越しにある上条の頬と自分の頬をくっつけて、
「……あったかいね」
「あったけーな」
二人はフェンス越しに光の洪水を見つめる。
去年、上条は満足に見る事のなかったナイトパレード。
去年、美琴は上条を誘えなかったナイトパレード。
「あの、さ」
いつもハキハキ喋る美琴がめずらしく口ごもっている。
「ん?」
上条は先を促す。
美琴は言葉を慎重に選ぶように、
「何かさ、その……アンタの両腕から、今のアンタの気持ちが伝わってくるような気がする」
「ふうん。……それってどんなんだ?」
「……教えない」
そう言って、ほんの少しだけ笑う。
「楽しいな」
上条は、何が、とは言わなかった。
「そうね。楽しいわね」
美琴は、何が、とは聞かなかった。
今日は朝からドタバタしていて満足に一緒にいられなかった。
ナイトパレードだって、本当は病院の屋上からじゃなく通りに出て見るつもりだった。
初めての頬へのキスは失敗して、先生に叱られて、いらぬとばっちりを食らって、へとへとになって。
それでも、と上条は思う。
事件が起こらない、誰もが笑っていられる、
平和な大覇星祭は、こんなにも楽しい。
二人で見るナイトパレードはこんなにもまぶしい。
眼下に広がる輝きは、今日一日頑張ったことへのご褒美に思えた。