とある魔術の禁書目録 自作ss保管庫

Part09

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愛妻弁当はまだ早い


 上条の部屋を飛び出した美琴は、日が落ちたために誰もいなくなった公園のブランコに腰掛けていた。
 静かな公園にブランコの鎖がわずかに軋む音だけが響く。

「もういい、よ、ね……」
 小さく呟くと、美琴はぐっと奥歯を噛みしめた。
 それと同時に徐々に歪み始める美琴の視界。
「馬鹿……」
 美琴は指でそっと右目を拭う。
「馬鹿、上条当麻の、馬鹿。インデックスの、馬鹿……」
 次に左目を拭う。
 しかしその瞳にたまっていく涙は止まる所を知らない。
「……ううん、違う。馬鹿なのは、私」
 そして指などでは拭いきれなくなり始めた涙を、今度は右手の甲で拭う。
「一番馬鹿なのは、私」
 次に左手の甲で。
「私が……私が……一番、馬鹿……馬鹿だ、大馬鹿だ……」
 右手、そして左手で。
 美琴は頬を伝う涙を両手で拭い続けた。
 けれど、どれだけ拭おうが一度流れ始めた涙は止まらない。
 しゃくり上げながら、美琴は何度も何度も涙を拭い続ける。
「馬鹿……馬鹿……」
 そのうち美琴は涙を拭うことを止めてしまった。
 阻む物がなくなった涙は美琴の頬を伝い、少しずつ少しずつ彼女の服や足下を濡らしていく。
 やがて美琴の涙が彼女の服に大きな染みを作るほどに流れた頃。
「う、わ……ぅわぁああぁあぁ……!」
 とうとう美琴は誰はばかることなく、言葉にならない声を上げた。

 自分はいったい何をやっていたのだろうか。
 なんと滑稽なことをしていたのだろうか。
 上条にはいっしょに住んでいる相手がいた。
 それは以前、上条は自分のところに帰ってくる、そう断言していたあのシスターだ。
 彼女は客観的に見て、とてもかわいらしい女の子。
 素直になれず己の感情すら自覚しきれていない自分と違い、自分が見てもわかるほどの上条への好意を素直に示す彼女は、上条と本当にお似合いだ。
 上条自身は彼女を家族のような存在だからとして否定していたが、本当はきっと男女の関係なのだろう。
 年頃の男女が一つ屋根の下に住んでいて何もないはずがない。
 しかもインデックスは上条に明確な好意を持っているのだ。
 むしろ何もない方がおかしい。
 そうだ。
 上条当麻とインデックス、二人は付き合っているのだ。
 そんな相手がいる男性相手に、自分はいったい何をしようとしていたのだろう。
 素直に接する?
 食事を作ってあげる?
 馬鹿馬鹿しい。
 好きな相手がいる男性に一人の女の子として見てもらって、そこにいったい何の意味があるというのだろう。
 いったい何を期待していたのだろう。
 期待しても仕方がないではないか。
 いや、それどころかむしろ、期待することそのものが罪深いことではないか。
 なぜならそれは好きな相手を裏切れと言っているのと同義なのだから。
 そんなこと、あの上条がするわけがない。
 絶対にするはずがないのだ。
 つまり、自分の期待は最初から、おそらく上条と仲良くなりたい、友達になりたいと思ったあの日から、既に意味のない物だったに違いない。
 なのに自分はそんなことにも気づかないで今日まで色々悩み、苦しみ、行動してきていた。
 今日だって上条に会えるからと、彼の家に行けるからと、愚かしくも浮かれていた。

 私は馬鹿だ。
 馬鹿で滑稽だ。
 本当に滑稽だ。
 ノーベル滑稽賞があれば満場一致で文句なく受賞できる、それくらい滑稽だ。
 嫌だ。
 もう上条のことなど考えたくない。

――だから神様、お願いです、アイツのことを忘れさせて下さい。

 今この胸の中にある想いを全て捨ててしまいたい。

――今から流せるだけの涙を流して泣きますから、その涙といっしょに私の中のアイツへの気持ちを全て流して下さい。

 思い切り泣くことによって、今までの想いを全てなかったことにしてしまいたい。

――私の、御坂美琴の心の中から、上条当麻を、消して下さい!

 悲痛な思いを胸に抱くと、美琴は顔を覆いひときわ大きな声を出して叫んだ。
「ぁあああああ…………!」



「馬鹿野郎、それ以上泣くんじゃねえ!」
「……え?」
 美琴は聞き覚えのある声に、はっと顔を上げた。
「馬鹿野郎が」
「アンタ、どうして……」
 美琴の目の前にいるのはもちろん、上条当麻だった。

「言っただろう、お前は泣いちゃいけないって。笑ってなきゃいけないって。なのになんでそんな哀しそうに泣いてるんだ」
 走っていたのだろうか、上条は額から流れる汗を拭いながら荒い呼吸をついていた。
 そんな上条を美琴はしゃくり上げながら、キッとにらみつけ大声を出した。
「な……泣いちゃいけないって、そんなの、私の勝手でしょ! 何偉そうに説教してんのよ! 私がどこで何してようがアンタに関係ないでしょ! だいたいアンタ、なんでここにいるのよ!」

――早くどこかに行ってよ!

 しかし上条も負けていない。同じように美琴をにらみつけると大声で反撃する。
「お前を捜しに来たに決まってるだろう! それ以外何があるってんだ!」
「さ、捜しに!? ば、馬鹿! アンタ馬鹿じゃないの!? あのシスターほったらかしにして何してんのよ! 私なんか無視してさっさと帰りなさいよ!」

――これ以上、私の側にいないで!

「ああ、帰るさ! お前が泣き止んで、大丈夫だってわかったらな! でも大丈夫だってわかるまでは絶対帰らないからな! ずっとお前の側にいるからな!」
「側にって……ふ、ふざけんじゃないわよ! 私は、アンタなんかに側にいてほしくないわよ! 私は好きでここに一人でいるの! アンタなんかに心配される覚えはないのよ! いいからさっさとあのシスターのところに帰りなさいよ! ちゃんと自分の彼女を大切にしなさいよ!」

――そうじゃないと、どれだけ泣いたって、

「は? ふざけてんのはお前じゃねーか! こないだも言ったろうが! インデックスは俺の妹みたいなもんだ! 彼女じゃねーって、何度言やわかるんだ! 勝手な勘違いしてんじゃねーよ! それにお前に覚えがあろうとなかろうと俺は絶対にお前を心配するからな! 嫌だって言ってもするからな! 無視なんか絶対にしてやらねーからな!」
「それでも無視しなさいって言ってんでしょうが! それに妹みたいって言ったって、あの娘がアンタにとって他人なのは変わりないじゃない! アンタは家族じゃない女の子といっしょに住んでるのよ! ならアンタ達が付き合ってるって普通に考えるでしょうが! どこが勘違いなのよ! これが勘違いって言うんなら、どうして一つ屋根の下に住んでるのよ! 理由言ってみなさいよ!」

――どれだけ忘れたって、

「…………!」
 勢いに任せて怒鳴り合っていた二人だったが、ここで上条が一瞬言葉につまった。しかしブンブンと頭を振ると、すぐにまた怒鳴りだした。
「い、いっしょに住んでる理由は……! 今は言えねえ!」
「なんでよ!」

――どんどん気持ちが溢れて来ちゃうじゃない!

「言えねーもんは、言えねーんだ! 誰にだってあるだろうが、どうしても言えないことが! けど、絶対に後ろめたい理由じゃねーし、俺達が付き合ってないってのも本当だ! 俺達は絶対にそういう関係じゃねーんだ!」
「何よそれ! 肝心なことは隠したまんまの、そんないい加減な言葉を信じろって言うの? アンタ虫が良すぎんのよ! 信じられるわけないでしょ!」
「それでも信じろ! 無理矢理にでも信じろ!」
「なんでそこまでしてアンタを信じなきゃいけないのよ!」
「そうでないとお前が泣き止まないだろう!」
「私が泣き止んだらアンタに何があるってのよ! はぁ? それってもしかしていつもの偽善なの!? ハン! アンタの偽善はもうウンザリよ!」

――このままじゃアンタのこと、絶対忘れられないじゃない!

「……偽善、じゃねえ。偽善なんかじゃねーよ!」
「偽善でしょうが! 私が泣いちゃいけないとかなんとか、そんなのただのアンタの自己満足に過ぎないでしょう! そんな物に私を巻き込まないでよ! 私が泣こうがわめこうがアンタになんの関係もないんだから、いい加減ほっといてよ! そんなに私が泣いてるのが気に入らないってんなら、アンタが私の目の前から消えたらいいだけでしょうが! そうよ、消えればいいのよ。消えてよ! 消えてよ!!」

――アンタのこと、キライになれないじゃない!

「消えねーよ!」
「消えなさいよ!」
「うるせえ! それに関係ならある! お前が泣いてることは俺に関係ある! お前が笑ってることは俺に関係ある! 他の奴なら偽善かもしれねーけど、お前のことだけは、俺には関係あるんだ!!」
「…………!」

 美琴のこと「だけ」は自分に関係がある。

 上条がそう言った瞬間、美琴は目を見開きはっと息を呑んでいた。
 そのまま美琴は怒鳴るのを止め、途切れ途切れに呟いた。
「何、それ……。わた、し、のこと、だけって……」

「…………」
 しかし上条は何も答えない。
 自らが発した言葉に動揺しているのか、にらみつけていたはずの美琴からも目を逸らせ、苦虫を噛み潰したような表情になっていた。

「言ってよ」
 美琴は上条を見つめ、絞り出すような声で訴える。

「…………」
 けれどやはり上条は何も言わない。

「言ってよ。なんなのよ、それ。お願いだから言ってよ……ねえ、もう一度ちゃんと言ってよ、お願い、だから……!」
 絞り出すような声で、美琴の心が、叫んだ。

 その声に促されるかのようにぽつりぽつりとようやく上条は話しだした。
「誰の涙も見たくない。俺、いつもこんなこと言ってるよな」
 美琴は上条の目を見てうなずいた。
「これを、他の奴に言ってるんなら、俺は確かにお前の言う通り、相手の都合を無視して上っ面だけで言ってる、偽善者なのかもしれない……。けどお前にだけは、俺、違うみたいなんだ」
「みたいって、どういうことよ。アンタ自身のことでしょ」
 美琴の疑問を受け、上条はイライラしたように頭をかいた。
「よくわかんねえ。よくわかんねーんだよ、俺だって! なんでこんなこと思ったのかも、そもそもいつから思ってたのかも。でも、偽善とかそんなんじゃなくて、本当に俺、お前の泣いてる所だけは、見たくないんだ。お前にだけは……ずっと、笑っててほしいんだ。これだけは本当だって、言えるんだ」
 上条はそこまで言うと、大きく息を吐いた。
「…………」
 美琴は無言で、そんな上条に続きを促す。
「だから俺の言葉を信じてくれ。もう泣かないでくれ。頼む、御坂」
「…………」
「それで、涙が止まったら、できたら笑ってほしい。これは……お願いだ」
 上条は深々と頭を下げた。
「…………」
 それに対してやはり美琴は何も言わない。
 だがその瞳からは、既に涙は流れていなかった。



「…………」
「…………」
 美琴も上条は何も言わなくなった。
 ただお互い、じっと相手を見つめ続けている。
「なんでよ」
 やがて口を開いたのは美琴だった。

「なんで、なんでそんなこと言うのよ……」
「なんでって」
「なんで、そんな優しいこと言うのよ。いっつも、私をスルーしてるくせに……。スルーして、無視して、私のことなんか気にもしないくせに……」
「そんなこと、俺は別に……」
「なんでこんなときばっかり優しくするのよ。なんで笑えってお願いするのよ。信じろっていうのは命令だったのに、なんで笑えっていうのはお願いなのよ」
「……だって、俺はお前に、本当に笑ってほしいから。そんなの、お願いじゃないとおかしいだろう」
「だから、なんでそんなに優しいこと言うのよ」

――止めてよ。

「優しいこと、なんかじゃない。俺が、したいだけだ」
「アンタの場合、ただ、したいだけのことが優しいって、言ってるのよ」

――甘えたくなるじゃない。

「俺はそんな優しい奴じゃない。これだってお前にわがまま言ってるだけだろう」
「何よそれ。わがままが優しいなんて、反則よ」

――信じたくなるじゃない。

「今のアンタはあのシスターを放り出してここにいるんでしょ? いっしょに住んでる女の子を放り出して? そんなことした後で、私に笑ってほしいなんて、そんなこと言っていいの? あの娘に対して後ろめたくないの?」
「そんなこと思うぐらいなら、最初から言わねーよ」
「…………」

――アンタ知ってるの? 私、そんなに強くないんだよ。

「……本当に、いいの? 私、本当に、アンタの言葉、信じて、いいの?」
「だからそう言ってるだろう」
「本当に、私……」

――そんな真剣な目で見つめられたら、言われたら……。

「笑ってくれよ」
「それがアンタの、わがまま?」
「お前の笑った顔が見たいんだ。俺、お前の笑った顔、好きなんだよ。だから、お願いだ……!」
「……馬鹿」

――アンタのこと、信じちゃうん、だからね……。

 美琴はその瞳から再びポロポロと涙を流しながら上条を見つめた。
 しかしそこに浮かんでいたのは泣いた顔ではない。
 上条を見つめる美琴に浮かんだ顔、それは紛れもなく上条が求める、上条が好きだという、笑顔だった。

「これで、いい?」
「……ああ」



 美琴がようやく見せてくれた笑顔を見た上条は、大きく息を吐くとそのまま美琴の隣のブランコに腰掛けた。
「隣、座ってもいいか? 走り回って、ちょっと疲れちまった」
「もう座ってるじゃない。ま、まあ別にいいけど……」
 美琴は上条から視線を逸らせる。
「悪いな」
 上条はほんの少し笑みを浮かべ目を閉じ、ブランコの鎖に寄りかかった。



「ね、ねえ」
 目を閉じたまま動かない上条に、美琴は遠慮がちに声をかけた。
 その声に反応して、上条はゆっくりと目を開けていく。
「ん? どうした、御坂?」
 上条は眠そうな声で美琴に話しかけた。
「アンタ、何寝てんのよ。もう帰れば? アンタの目的は達成できたんでしょ、私はもう泣いてないわよ」
「別に寝てねーよ、ちょっと疲れただけだって……。まあお前がそこまで言うなら帰るけど」
 上条はうん、と伸びをすると何度かブランコを揺らし、勢いよく前に飛び出した。
「よっと」
 大きく弧を描いて地面に着地した上条は、くるっと美琴の方を向いてニカッと笑った。
「じゃ、帰ろうぜ御坂」
 その言葉に美琴はきょとんとした表情を浮かべる。
「ぜって、何それ?」
「お前も帰るんだろ? もう遅いし、寮まで送っていくぞ」
「…………」
 美琴は黙って辺りを見回した。

 確かに辺りはすっかり夜の帳に包まれており、その様子から現在の時刻がずいぶん遅いだろうことは容易にわかった。
 夕日が落ちる頃に上条の家に行ったことを考えると、この公園でかなりの時間を過ごしたことになる。
 上条の言う通り、そろそろ寮に帰るべきだろう。

 何かの理由で美琴が帰るのをためらっている、そう思った上条は美琴に対してすっと右手を差し出した。
「帰ろうぜ御坂。送っていくから、な」
「…………」
 美琴は上条の差し出す手を自然な動きで握ろうとした。

 だが、
「…………!」
 美琴が上条の手を握ろうとした途端、彼の隣にある人物の姿が現れたのに美琴は気づいた。
 その人物の正体を認識した美琴はすっと手を引っ込める。そしてそのままごくりとつばを飲み込んだ。

 上条の隣にいた人物、それは紛れもなくインデックス、いや正確にはインデックスの幻だった。
 その証拠に、既にインデックスの姿は影も形もなくなってしまっている。
 美琴が上条の手を握ろうとした瞬間、ほんの一瞬だけ現れてすぐに消えたのだ。
 それはインデックスの上条への想いが産んだ幻だったのかもしれない。美琴のインデックスに対するある種の恐怖が産みだした幻だったのかもしれない。
 ただはっきりしていることは、その一瞬が美琴にとって衝撃だったということだ。
 そのたった一瞬で、美琴は上条の手を握るのをためらってしまったのだから。

「ん? どうした、御坂?」
 美琴の態度が妙だったので、上条の表情は怪訝そうなそれに変わる。
「…………」
 しかし美琴は上条の質問には何も答えなかった。握ったり開いたりを繰り返す自分の手をチラと見ると、すっと目を閉じた。

 ゆっくり一度深呼吸をした美琴は目を開けると、さっき一瞬だけ現れたインデックスの立っていた場所と、自分が今座っている場所、そして上条の立っている場所を見比べた。
 インデックスが立っていた場所は上条のすぐ隣。インデックスが手を伸ばせば容易に上条の手を握れる場所だ。

――コイツとあのシスターの距離が、今のコイツらの距離。

 そんなインデックスに対して自分と上条の距離は、いくら美琴が手を伸ばしても上条には決して届かない距離。

――そして、これが私とアンタの距離。絶対にアンタには届かない。これが私と、あのシスターとの決定的な差。でも、アンタが手を差し出してくれれば、

 美琴は目の前に差し出された上条の右手を見た。
 怪訝な顔をしながらでも、上条は美琴に差し出した右手を決して引っ込めようとはしていない。美琴が自分の手を握るのを待ってくれている。
 そう、今なら、上条が自分に手を差し出している今なら、美琴の手は上条に届くのだ。
 美琴は心の中だけで小さくうなずいた。

――今だけは、私の手はアンタに届く。アンタに甘えることになるけど、それでも今は構わない。アンタに届くことが、私にとっては今、一番大事だから。

 美琴は再びゆっくりと手を差し出し、上条の手をしっかりと握る。
 そのまま美琴は静かに立ち上がった。
「ありがとう」
 立ち上がった美琴は上条をじっと見つめた。
「な、なんだよ……」
 美琴に見つめられてなんとなく居心地が悪くなった上条は、頬をぽりぽりとかきながら言葉を濁す。
 そんな上条の様子を見た美琴は、満足そうな微笑を浮かべるとぱっと上条から手を離した。
「ありがとう、でもあんたはまっすぐ家に帰って」
「いや、遠慮すんなって」
「遠慮じゃないわよ、私は一人で帰れるから。それに――」
「それに?」
「いい加減アンタを帰して、少しは借りを返さないといけないしね」
「借りって、俺にか?」
「違うわよ。どうせアンタにはわかんないことよ。もういいから、さっさと帰りなさい」
「……まあお前がそこまで言うなら仕方ないか。じゃあまたな、御坂」
 上条は釈然としない表情で渋々うなずいた。
「またね。……あ、そうだ。ねえ」
「ん? なんだ?」
「あのね、アンタ、私を送らないことを申し訳ないと思ってるのよね。なら、一つ頼みがあるんだけど――」
 美琴は表情を未だ戻していない上条にそっと耳打ちした。
 その内容に、上条の表情は不思議そうなそれに変わった。
「ねえ、いい? わかった?」
「…………」
 美琴の言葉に上条は黙ってこくりとうなずいた。



 翌日の早朝、上条は大きく伸びをしながらいつもの自販機前にやってきた。いつもより一時間近く早く家を出たためにまだ眠いのか、大あくびなどをしている。
 上条は携帯で時間を確認すると、眠そうに目をこすった。
「時間は、合ってるな。でも御坂の奴、いったいなんだってんだ? 時間も場所も指定してわざわざ人をこんなところに呼び出すなんて? 上条さんは、まだ眠いんですよっと」
 そう言うと上条はぐるっと辺りを見回した。
 早朝のためだろうか、まだ辺りには誰もいない。本当に静かな空間が広がっていた。
 しんと静まりかえった早朝の冷たい空気を気持ちよさそうに吸いながら、上条はまた大あくび。

 そのとき、そんな静けさを切り裂くような甲高い声が聞こえた。
「受け取りなさい!」
「?」
 上条は慌ててあくびをかみ殺すと、声のした方を向いた。
 するとその方向から、何かがぽんと飛んできた。
「おっとっとっと」
 上条は半ば反射的に飛んできた物を受け止めた。
「あっぶねえ。で、これいったい、何……?」
 上条は額からじんわりとにじんでいる冷や汗を拭うと、まじまじと手の中にある物体を見た。

 それはブルーの綺麗なハンカチに包まれた、小さな直方体の箱だった。それになぜか温かい。
 上条は箱を顔に寄せて、くんくんと鼻を動かした。
 箱からは美味しそうな匂いが漂っている。
 上条は訝しげに呟いた。
「この形、匂い、弁当か……?」
「正解」
 上条の背後から声をかけたのは、朱い顔をした美琴だった。

 上条は弁当と美琴の顔を交互に見比べた。
 その様子に美琴は憮然な表情になる。
「何よその顔。文句あるの?」
「いや、文句っつーか、単純な疑問。なんで弁当が俺の手に?」
 美琴は上条からやや視線を逸らした。
「それは、その……いろんな意味があってね……」
「いろんな意味って?」
「だから、まずは、昨日の、お詫び。私が公園でその、アンタに空き缶をぶつけたから、アンタどうせタイムセールに間に合わなかったんでしょ? だから、そのお詫び」
「なるほど。まあ別にそこまで気にするほどのこともないと思うが……。ん? ということは、お前が昨日うちに来た理由って、もしかしてそのお詫び、か?」
 上条の言葉に美琴はこくりとうなずいた。
「晩ご飯、作ってあげようと思って。だから、材料買って……それで……」
「あ、だから昨日あんな材料が玄関に。なのに俺は追い出すようなまねを……。本当に悪かったな、インデックスには帰ったらまたちゃんと言っておくから。それとも、インデックスにも直接謝らせた方がいいか?」
 美琴は今度はふるふると首を横に振った。
「あのシスターには、まだしばらく会えない。会わない方が、いいわ。それにあのシスターの気持ち、私は、よくわかるから……」
「そう、そうかも、しれないな。本当、悪い。気、遣わせて」
 美琴はもう一度首を横に振った。
「それでね、その代わりとして、お弁当作ったからアンタに食べてほしくて」
「そうだったのか。でも悪かったな、あの程度のことでここまでしてもらうなんて。材料費だって馬鹿にならないだろうに」
 申し訳なさそうな顔になった上条に、美琴は慌てて手を振った。
「気にしないでよ、私が勝手にやってるんだから。それにほら、こないだも言ったでしょ、最近料理に凝ってるって。けど、うちの学校って高級な料理の作り方なんかは実習とかするんだけど、お弁当とかそういう普通の物ってのからはほど遠い所でね。私としては独学するしかないのよ。それで、これがその成果。だからそんなに気にするほどのことじゃないわよ。実験結果を食べてもらうんだから、こっちからするとむしろ感謝したいくらいなのよ。材料だって気にしなくていいわよ、勉強のためですって言えば寮の食堂から無料で分けてもらえるんだから」
「材料はそれでいいとして、肝心の弁当が実験なんて言われると、ちょっと食欲がなくなるな……。でも御坂、お前俺なんかじゃなくて白井あたりに食べてもらえばいいんじゃないのか? アイツがお前の申し出を拒否するとも思えないんだが」
「アンタが食べなきゃ意味ないでしょ!」
「へ?」
 突然大声を出した美琴に、上条は目を丸くした。
「……あ? あ、ああ、そうじゃなくて。ほら、黒子はさ、私が作った物ならどんな物でも文句言わずに食べちゃうから意味ないのよ。こっちとしては正直な意見が聞きたいんだから」
「なるほど。でも上条さんの意見もあまりあてにならないかもしれませんよ」
「どうして?」
「こないだのお好み焼きで御坂の料理が美味いことはわかってるし、貧乏かつ万年欠食児童の上条さんが料理を粗末に扱うわけがないんですよ」
「……それでいいわよ、私はアンタが美味しいって言ってくれさえすれば」
「はい?」
 美琴が小声で呟いた言葉が聞こえなかった上条は、無意識的に聞き返した。
 けれど美琴は頬を朱くして上条から視線を逸らせる。
「……なんでもない」
「……そうか。まあ、とにかく悪いな、御坂。そういうことなら今日はこれ、ありがたくいただくよ」
「うん。じゃあ今日の夕方、そのお弁当箱返してもらうときに感想聞くから、よろしくね。四時にここで待ち合わせ。遅れるんじゃないわよ」
「わかった」
「あと、評判が良かったらまた暇見つけて作ってあげるから、そのときもよろしくね」
「それは個人的には歓迎したいんだが、もしかして、そのときも俺は朝早くからここでお前から弁当を受け取らなきゃいけないのか?」
「当然でしょ。アンタだって遅刻を防げて一石二鳥じゃない」
 美琴はうなずくと、上条に気づかれないようにそっと視線を上条の家の方向に向けた。
 いや、正確には今も間違いなくそこにいるであろう、インデックスに向けたのだ。
 脳裏に浮かぶ昨日の光景。それと同時に、ほんの少し美琴の眼は鋭くなる。

――今はまだ、アンタの方がコイツの近くにいる。アンタと私じゃ、確かな差がある。でも、そんな差なんてすぐに埋めてやるんだから。

 困ったような、それでいて嬉しそうな顔で弁当を色々な方向から見たり匂いを嗅いだりしている上条の方に、美琴は視線を動かした。
 今度は美琴の瞳に優しい色が浮かぶ。

――今だってコイツが手を差し出してくれれば、私の手だってコイツに届くんだから。それに今なら、今だけなら、

 美琴は心の中で上条に手を伸ばした。上条自身の体にはやはり届かないが、上条が手に持っている弁当箱になら、なんとか手が届きそうだった。

――私の手だってコイツに届くんだから。だから、私は絶対負けない。アンタとコイツの間に何があろうと、絶対。

 美琴は昨日、風紀委員の支部で初春が自分にささやいた言葉を思い出した。
 それは甘美な言葉。上条の家の玄関を開けるまでは、心の中を幸せな気持ちで満たしていてくれた言葉。
 美琴は心の中だけで小さく首を横に振って、その言葉を頭から消した。

――愛妻、弁当なんか、じゃない。そんなのじゃない。私達はまだ、そんなのにはなれない。ないけど。けど、それでも、いつの日か、きっと……!

 いつの間にか美琴の瞳の中には、小さな決意の炎が灯っていた。
 それはまだ小さな小さな炎。けれどどんなことがあっても決して揺るがない、消えることのない炎である。
 美琴自身が未だ自覚しきれていない、強い、確かな気持ちが実を結ぶその日まで。



 今日この日を境に、貧乏高校生、上条当麻の昼食のラインナップに美琴の弁当が加わることになる。
 もちろん、毎日ではない。
 白井の目を盗んで毎日風紀委員の支部で弁当を作ることはさすがに美琴にはできないし、上条の方だって寝坊をしたり不幸に巻き込まれることが多々ある。
 割合としては多く見積もっても一週間に二、三日。それが上条が美琴の弁当を食べることができる日である。
 それでも。
 美琴の決意が、行動が、上条の中の何かを確実に変えていくのは間違いないのだ。
 だから。
 それは、遠くない日のことなのかもしれない。
 上条が毎日美琴に会い、弁当を受け取るようになる日は。
 上条が自らの意思で美琴に会おうと思うようになる日は。
 美琴の伸ばした手が、上条に届くようになる日は。

 そう。
 そんな日は、そう遠くないときに、きっと、やって来るに違いない。



おしまい


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