いちゃいちゃ……?
7月にしては暑く、また梅雨明けもしていないからか湿気も多く、じめじめとした嫌な天気が続いている。早朝はまだしも、それを過ぎれば纏わりついてくるような、湿気に満ちた空気に満たされていく。
除湿機があれば大分マシになるのだろうが、生憎と、この部屋にそのような高級品は無かった。ならエアコンをと思ったが、これまた生憎と絶賛故障中である。
相も変わらず、そんな不幸街道を走っているのは上条当麻。不幸、という言葉が代名詞になりつつある悲しき一般高校生である。
(そんな私上条当麻でございますがっ! 何も不幸だけではないのでございますの事よっ!)
頭の中でついつい叫んでしまい漏れてしまう本音。
ただいま、彼女様がベッドでご就寝中なのでございます。その彼女様に快適な朝を味わっていただくため、上条は甲斐甲斐しく働いていた。
味噌汁を作りながら、上条はまだベッドで寝ている彼女さんを起こそうと声を少し張り上げる。
「おーい、そろそろ起きろよー」
上条の声が彼女、美琴の意識を睡眠から引っ張り上げる。
「んぅ……」
美琴は薄らと目を開ける。頭の大半が眠気を占めており、ぼーっと天井を見上げる。
見えた天井はいつも見ている物ではなく、言い方は悪いが少々安っぽい、けれど生活、というものがよく見える天井だった。
「うぅん……」
寝返りを打てば顔に帰ってくるのは程良い硬さの枕の弾力。
寝ぼけた頭でそういえば、と思う。インデックスはどうしたんだろう。
彼女は美琴と上条が付き合う事を意外にも快く認めてくれた―ただ、今では若干小姑化―良き理解者である。その彼女の声が聞こえてこない。
「ったく、お前夜更かしでもしたのか?」
「してないもん……」
そうは言っているが、実は、心行くまで上条の寝顔を見ていたらとんでもない時間になっていたせい、だったりする。
お玉片手にエプロン姿でキッチンから出てきた上条に、美琴は寝起きのどこか抜けた声で尋ねる。
「ねぇ、それよりインデックスはぁ……?」
「インデックス? 昨日言っただろ。アイツ、小萌先生の家ですき焼きパーティーしてそのまま泊ってくるって」
「あー、そういえば……」
夕食の用意を持って上条の部屋に来た時に肩すかしを食らったのをよく覚えている。
その時に上条の担任の家に行った云々を聞いた気がする。
どっからどう見ても『すっごく眠いです』と言いたげなぼーっとした表情のまま身を起こし、寝ぼけ眼を擦る美琴。
「ふあぁ……」
「お前なぁ……。俺しかいないとはいえ、そんな大口開けてあくびすんなよ……」
「だって眠いんだもん……」
昨日、美琴は上条宅に泊っていた。理由は、特に無い。ただ泊りたいと思っただけで、上条も寮には許可は取っていると聞けばあっさりと承諾した。ただそれだけである。
そもそも、彼女が彼氏の家に泊りたいと思う事に、理由なんて物は無い。まぁ、強いて言えばイチャイチャしたいから?
「そろそろ朝飯出来るから顔洗って……美琴さん?」
「んー……」
「まだ寝ぼけてんな、コイツ……」
美琴が唇を突き出して何かを待ってる。
上条と美琴がその『何か』をした回数というのは存外少ない。
実はかなりの恥ずかしがり屋の美琴にとってソレはもの凄く勇気のいる事で、まるで決闘に赴く様な顔(ただし真っ赤)で、
『よっ、よぉし! 来ちゃったりなんかしちゃっても大丈夫よ!』
なんて両手を広げて力いっぱい待ち構える事もしばしば。
それはそれで非常に面白いのだが、なんか違う気もする。なので、そういう時に上条からする事はほとんどない。
基本的に不意打ちだ。その時の反応も面白いので、上条は常々タイミングを狙ってたりする。
『にゃ……!? にゃ……にゃ……にゃーーーーーーー!?』
と、顔を真っ赤にして叫んだり暴れて、上条に押さえこまれて再びキスをされてノックダウンするか、
『……………………………ふにゃぁ』
と、やはり顔を真っ赤にして腰でも抜けたかのように力無く崩れ落ち、ぽすん、と上条の腕の中に収まり、やっぱりもう一度キスされて、ぼんっ、と爆発するか。
どっちの反応も上条にとっては大満足である。彼女さんにキスも出来るし可愛い姿も見れるし。まさに一石二鳥。
「んー……」
心なしか、さっきよりも唇を突き出している気がする。
その顔に上条は何か拝む真似をしていた。おそらく「滅多に見れる顔じゃないしな。眼福眼福」とか思っているのかも。
けれどその斜め下辺りでは、その表情が少しずつ怒りに染まってきている。
「んーんー!」
いつまで経っても期待の物が来ない事に焦れて不機嫌になっていっている。なのに、上条は「おっ、この顔も可愛いな」とこれにも拝む真似なんかしている。
「むぅー……」
美琴はいい加減しびれを切らし、目を開けて上条の顔を睨むように見上げる。子供のようにぷくぅ、と顔を膨らませていてはその迫力も半減どころか無い。
「早くちゅーしろー!」
人は、寝ぼけていると大胆になる様です。
「むぐっ!?」
首に手を回されてがっちりとホールドされて、上条は唇を奪われる。
(えっ、なにこれ!?)
襲われた方はその感触を楽しむ前にビックリだ。
あの恥ずかしがり屋に不意打ちを食らったのだ。普段の行動のギャップの差もあって結構な混乱である。
「んふぅ……」
たっぷり30秒。それだけの時間、上条の唇を堪能した美琴は至極満足そうな顔で顔を離し、まだ頭が追いつておらずぼーっとしている上条を見上げる。
が、美琴は決して寝起きは悪くないし、起きてから結構時間も経っているし、そこに自分からとはいえキスという心が激しく揺れ動く事をしたら、嫌でも頭も覚めるというものだ。
「…………ッ!?」
ぼふっ! と耳はおろか首まで真っ赤にして煙を出す美琴。
恥ずかしさのあまり涙が薄らと浮かび、まるで乙女のように口元を出て隠し、あたふた、というよりは、オロオロと情けなくも見える表情でうろたえている。ただし、顔はそりゃあもう真っ赤です。マジで火が噴き出そうなくらい真っ赤です。
「と、とうま……?」
助けを求めるかのような声で上条を呼ぶが、上条は恐ろしい程にワザとらしく演技のかかった動きでしおらしくその場に崩れ落ちる。
「女の子に襲われるなんて……、上条さん、もうお婿に行けない……」
それこそ乙女の様な仕草で顔を両手で覆う上条。ついでによよよ、とこれまたワザとらしく泣く真似もしてみる。
「ふあ!? ……ええと、その、ふぇ……!?」
上条のその行動で美琴は更に混乱し、思わず助けたくなりそうな程慌てふためく。けど顔はやっぱり真っ赤。
美琴がもう少し冷静なら気付いた事だろう。上条の体が小刻みに揺れているのが。
(まさかここまで上手くいくなんて……)
その両手をどければ、必死に笑いをこらえ涙目になっているとっても楽しそうな表情をした上条の顔があるのだろう。
確かに嬉しかった不意打ちのキスだが、されっ放しというのも何なので仕返しをしてみたのだが、それが思った以上に大打撃を与えたようだ。
ここでちょっと追撃をしてみよう。
「うぅ……、上条さんはどうすれば……」
我ながら完璧な演技だと思う。これならきっと誰から見ても泣いているように見えているだろう。と思っているのは上条だけ。笑いをこらえるのに必死過ぎてプルプルと体が震えているのが丸わかりだ。
まぁ、美琴が気付いていないから別に大丈夫だろうけど。
(ふっ、勝った……)
いつの間に勝負になっていたんだ、と思わなくもないが、上条は至って気にしていない。
後は勝利のコールを聞くだけである。そう思った瞬間、ある意味、究極とも言えるカウンターがきた。
「だっ、大丈夫! 私が当麻をお嫁さんにして貰ってあげる!!」
『花嫁・御坂当麻』と『花婿・御坂美琴』誕生の瞬間である。
最も大事な所がこの上なく決定的に激しく間違えている気がするのは気のせい。ええ、全くもって気のせいでございます。
美琴的には何も間違っていない。むしろこれ以上ないベストアンサーである。あと美鈴さんも大喜びしそうだ。たぶん。きっと。おそらく。
「ブハァ!?」
これには上条もさすがに、演技でも何でもなく本気で噴き出した。
ちょっと待って美琴さん? 一体何がどうなって上条さんがお嫁さんになるでございましょうか?
まさか『当麻がお婿さんになれない→お婿さんに出来ないのは嫌だ→あれ? じゃあお嫁さんにしちゃえばいいじゃん→万事解決ハッピーウェディング』とか何とかぶっ飛んだ事考えてないでしょうね……?
「幸せにしてあげるからねっ!」
(あ、こりゃ間違いねえな)
グッ! ととっても力強く、けれど恥ずかしげな顔でガッツポーズをしている美琴を見ながら、気付けばとても平坦な気持ちになっている上条は静かに自分の考えに確信を持つ。
それと同時に自分がとても珍しい環境に身を置いている気がしてならない。
いくら混乱の絶頂に居るとはいえ、年下の彼女、しかも中学生にこんだけ熱の籠ったプロポーズをされる、というのは中々にレアな経験ではないだろうか。
(うーん、今のを録音できなかったのは惜しかったかも)
後で聞かせればこの上なく面白い事になる事は間違いないだけに、録音できなかったのは非常に惜しい。
未だ己がとんでもない事を口走った事に気付いていない美琴を見れば見るほどそう思う。実に惜しい。
「ま、いっか」
けれど上条はあっさりと諦める。確かに、遊ぶのはとっても楽しそうだ。けれど、少なからず―自分でもどうかと思うが―心に来た言葉、というのはそう何度も聞くものでもないだろう。
上条は手足に力を入れ、立ち上がろうとする。その途中、ガリッ、と腰の辺りを固い物で引っ掻かれる感覚に襲われ、ふと見ると、テーブルの角に部屋着の下が引っかかっていた。下着ごと。
これも上条の不幸が成せる業だろうが、気付いて本当によかった。今回だけはその痛みに多大な感謝を抱ける。
(このまま立ったら上条さん大変な事になっちゃいますよぉ……!?)
冗談抜きでお婿さんに行けなくなってしまう所だった。
あのまま立っていれば言葉にするもおぞましい事態になっていた事は間違いなしだし、おまけに美琴がいるこの状況、百年の恋も冷めかねない。
細心の注意を払い、上条はその中途半端の姿勢を保ちながらまず足元を確認する。おし、足を引っ掛けて転ぶようなものはない。次いで引っかかっている部分に手を掛け、慎重かつ一気に外そうとする。いや、外そうとした。
「にゃ……!?」
上条は大して気に留めていなかったが、下に履いている物が引っかかっているという事は、ちょっとばかり腰が露出している、という事である。
さて、ここで一つ想像してみよう。
美琴はただいま色んなことで混乱の絶頂。ついでに恥ずかしさも絶頂。上条さんにべた惚れ。美琴はとっても初心で純情で恥ずかしがり屋。
そんな少女が、彼氏の僅かとはいえ露出を見たらどうなるか。想像に難くない。
「ふにゃ~……」
「オイ!? このタイミングで漏電って狙ってるだろ!?」
短パンを上げる直前での電撃に、上条は咄嗟に右手を掲げ、ついいつもの癖で立った。そう。立って、しまった。
結果、電撃は防げ部屋の中に被害らしい被害はない。
だが、
『…………………………………………………………』
とても、悲しい沈黙が部屋を満たした。幸い、エプロンのおかげで地獄は防げていた。
全てを察し、美琴は『何も見てないよ』と唯でさえ赤い顔をさらに赤くして、下手な口笛を吹きながら窓の外へ視線をやる。
その心遣いに涙を流しながら、上条は慌ててずり落ちた物をたくし上げようとした。そう、たくし上げようとした。
上条にとって不幸とは、かくも身近な存在である。
慌てていたせいで足を縺れさせビタァン! と前のめりに倒れる。同時に思う。終わった、と。上条当麻の人生が今、この場で終わったと。
その音に驚き美琴は慌てて視線を戻すと、そこにあるのは前のめりに倒れている上条。
「…………ッ!?」
今度はきっと全身がのぼせあがったかのように真っ赤になっている事だろう。
美琴の視界に映ったのは、適度に筋肉の付いた伸びた上条の両腕。服の上からでも分かるほど、無駄のない体をしている上半身。そして……
「…………ふにゃぁ」
瞬間、鼻血を出しながら美琴は再びベッドにその身を預けた。
その事に一切目を向けないまま、上条は無言で起き上がり今度こそたくし上げ、風呂場に引っ込む。
そして、
「…………不幸だ…………ぐす」
いつもの呟きの後、声も無く泣きだした。本気で。
泣きながなら、半ば本気で『美琴のお嫁さんになるしか上条さんに道はないのでせうか……』と思う。
余談ではあるが、このおよそ10年後。学園都市のとある公園で、公園デビューを果たした御坂当麻の姿があったそうな。