洒涙雨 3 ―後編―
日も沈みかけ、日の光が徐々に赤みを帯びてきた時間。
赤みを帯びた光が差し込む部屋の中、美鈴と美琴は向き合って座っていた。
「えー!?」
部屋の隅々まで行きわたる程の声量。美鈴は肺の中を空っぽにしてもまだ足りない気持ちで叫んだ。
突然の大音量に耳をふさいだ美琴の肩を掴み詰め寄る。
「あれだけいい雰囲気作っといてまだ告白してないの!?」
「なによぉ、そんな大声で言わなくてもいいじゃない……」
いつになく弱気で尻すぼみな娘の声も耳を素通りしていく。
結局、美鈴は勇気を振り絞って上条と美琴の間に割って入って浜辺まで連れ戻した。
声をかけた瞬間、2人とも慌てて手を離したのをとても好ましく思ったのをよく覚えている。
告白したてでは、手を繋いでいる事も、それを親に見られる事も恥ずかしい事だ。だから、慌てて手を離したと思っていた。
「っはぁ~……。我が娘ながら情けない……」
が、実際は2人の無自覚な行動だった。
沈痛な面持ちで頭を抱える美鈴。こころなしか、頭痛さえしている気がする。
その母の行動を、美琴は小さくした体で申し訳なさそうな表情に恥ずかしさを混ぜた顔で見ていた。
上条への『好き』だと言う想いを自覚した途端、上条との事が今まで以上に恥ずかしくなった。嫌じゃない、むしろずっと一緒に居たいのだが、どうしようもない位に恥ずかしい。
(うわー! うわー! 今まですごい事しちゃってる気がするー!!)
最初に浮かぶのは偽デート。出会って早々、上条にタックルをかまし、彼が倒れている間だけだが抱きついていた気がするし、その場から彼の手を掴んで去った気もする。あと間接キスなんかしちゃったかもしんない。しかも、とっても嬉し恥ずかしい事を上条が言っていた。
次に思い浮かぶのは大覇星祭。思えば上条とは常に至近距離で会話していた気がするし、ここでも彼の手を掴んで一緒に走った。そして競技中に恥ずかしい事を言われて半ば押し倒されもした。
そして次は大覇星祭の罰ゲーム。ポケットから取り出した携帯に着いているのはおそろいのゲコ太ストラップ。そこに行くまで上条の手を掴んでいた様ないなかったような。
肩を抱かれ顔をすぐ傍までに寄せて一緒に写真も撮った。写真は黒子に邪魔されたけど。
最後は、ほんの数時間前の海の事。最初から最後までずっと上条の隣にいて手なんか繋いじゃったりして。そんでもって彼への気持ちをはっきりと自覚して。
状況は様々だが、こうしてみると結構手を繋いでいる2人。それはともかく。
それらのシーンがついさっきの事の様に明確に美琴の頭に再生されていく。
ひとつのシーンを思い出す度に顔の赤みは増していって、最後の方になると耳や首まで真っ赤になっていた。
「……………………………………」
「美琴ちゃん?」
急に一切の音を出さなくなった娘をさすがに怪訝に思い、美鈴が体ごとそちらへ向ける。
その視線の先には、赤、という色を真っ先に思わせるほどに顔を赤くしている美琴の姿。気のせいか、煙が上がっているような。
「み、美琴、ちゃん……?」
「…………ふにゃぁ」
「ちょ!? 美琴ちゃん電気電気! 電気漏れてる!!」
まだ静電気程度だが、確かに美琴の周りでパチパチと紫電が音を立てている。
「ふにゃぁ…………?」
けれど美琴から返ってくるのは、聞くだけで力が無い事がわかる程に頼りない気の抜けた声。
どうすれば美琴が戻るのか美鈴には正直わからないし、近付いてみようにも静電気が徐々に強くなってきていて近付けない。
こういう時はどうするべきなのか。慌てて思考が短絡的になっている美鈴は、とりあえず最初に思い浮かんだ少年に援護を要請する事にした。
「当麻くーん!? 当麻くんはどこー!?」
慌てて廊下に出て人目も気にせず叫ぶ。
その声を聞きつけたのか、運よく部屋に居た上条が正面の部屋から出てくる。ちなみに、部屋の位置も美鈴たちが決めてたりする。
それは措いといて、慌てている美鈴に上条が少し声を荒げ尋ねる。
「どうしたんですか美鈴さん!?」
「美琴ちゃんが大変なの! 早く中に入って!!」
「御坂が!?」
言い終わるが早いか、上条は聞いた途端に美鈴を押しのけて急いで部屋の中に入る。
部屋へ続く戸を潜ると、焦点が定まらず顔を赤くしてフラフラしている美琴。これを見た瞬間、上条は全身の力が抜けていくのを実感した。
「大変って言うから何かと思えば、コレか……」
脱力しながらも安心した笑みを浮かべる上条。美鈴の慌てぶりからもっと大変な事なんじゃないかと想像してしまったが、それは杞憂で終わった。
戸に掴まってその場にへたり込んだ上条に、美鈴は混乱に怒りを混ぜて叫ぶ。
「コレってなによ!?」
「あ、そっか。美鈴さん、知らないんでしたっけ」
けろりと答える上条。
確かに、知らなければこれは慌てる。そして頼った男がこれを見て安心した顔で座れば怒りもする。
怒りながらも何が何だか分からず、困惑した表情を浮かべる美鈴の視線を受けながら、上条は近付き、右手をぽふ、と美琴の頭に置く。
「にゃぅ……」
「コイツ、時々ですけど、こうなる事があるんです」
上条の右手の感触が心地いいのか、目を閉じまどろんでいる美琴を視界の端に収めながら、上条は美鈴へ簡単に説明をする。
「理由はわからないけど、能力の制御が出来なくなって、気を失うんです。でもまぁ、こうやって俺が右手で抑えてれば、眠っているだけだから大丈夫です」
そういえばコイツ、俺がいない時にこうなったらどうしてるんだろう。美鈴に説明しながらそう思うが、白井がルームメイトだし大丈夫か、と自問自答を終える。
上条の説明を聞きながら、全てを理解した訳ではないが、安心しきった美鈴。原因とかは分からないが、これだけははっきり分かる。
「じゃ、当麻くんに任せるわ! それじゃ!」
「え!? ちょっ待っ!?」
上条に任せれば安心だと言う事。そうとわかれば美鈴のする事は一つだ。
「私は詩菜さんたちと話す事があるから美琴ちゃんは任せたっ!」
反論しようとした上条の口が開き切る前に、美鈴が脱兎のごとく部屋から脱出し向かいの部屋へ駈け込んでいく。急いでいた割に戸を全て閉めていっている辺り、何かを狙っている気がしてならない。
ワナワナと体を震わす上条は、つい今しがた脱出した美鈴へ吠える。
「アンタはこんな娘を放っていくのかー!?」
「にゃっ!?」
「っ!?」
その叫びに過敏に反応した美琴が体をびくりと震わし、ゴッ、という鈍い音が響く。
その下では何故か右足の甲を押さえて悶絶している上条。
「ゆ、油断してた……!」
美琴の体が震えた事で、丁度真下辺りにあった彼女の体がもち上がり、驚いた拍子に体も動き、浮いた美琴の膝が上条の足の甲に着地していた。
泣きそうになるほど痛い。けれど、右手は意地でも離さなかった。離したら間違いなく電撃が部屋に充満するからだ。
「ってて……」
正直、痛みがある内は立っているのも辛い。ので、素直に美琴の隣に座る事にした。
頭を撫でられるのはやはり気持ちいのか、美琴はまたまどろんだ顔をしている。しかしついに力尽き、そのまま眠る様に目を閉じて。
「おっと」
ぼふ、と上条の腕の中に倒れ込む。
このままだと負担になると思い、ゆっくりと美琴の頭の位置を膝に持っていって体を横にさせる。右手は邪魔にならないよう彼女の肩へ。
思わず美琴の寝顔にほぅ、と見惚れる。それを振り払うように頭を横に振って、美琴の頬を軽く突っついて寝ている事を確認する。
それに少し声を上げるが、目は開けないので確かに寝ている。それを確認すると、上を向いて深く息を吐く。
「っはぁ~……! やべぇ……」
思わず口から言葉が出た事を少し悔いながら手で口元を覆う。
触れた左手で感じるのは、信じられないほどに熱い自分の顔。これは鏡がなくても分かる。自分は絶対に顔が真っ赤だ。
そして何がやばいって、下を向くと美琴の顔があるという事だ。しかも寝ている無防備な顔が。
チラッと下を向くと、真上を向いて自分を真っ直ぐ見つめるようにしている美琴の寝顔。
「ッ!?」
それを見た瞬間、鼓動が跳ね上がる。顔もどんどん熱くなっていく。
その内に美琴の顔を見ているのが恥ずかしくなって、慌てた風に顔をそむける。
けれど、心のどこかでは彼女の顔を見ていたいと思っていて、彼女の顔を視界の中心に据える。
でもやっぱり恥ずかしくて顔をそむける。
そんな事を数度続けていると、ようやく慣れてきて、顔をそむける事はなくなった。
美琴の寝顔を見ながらぼんやりと思う。
(俺、今日はどうしちまったんだ……?)
初めてだ。美琴を見る事がこんなにも恥ずかしいと思ったのは。
環境がいつも違うから? 美琴の水着姿を見たから? その理由もあると思う。けど、それが決定的な理由で無いとも思っている。
なのに、いくら探してもその決定的な理由が見つからない。代わりに見つかったのは、海の時に発見してから胸中にずっとある得体の知れない感情。
初めて感じる感情に上条は思う。訳のわからない感情だと。
苦しくなったと思えば暖かくなる。切なくなったかと思えば優しい気持ちになる。
今もある、その訳のわからない感情でも分かる事が一つだけある。
(御坂が原因、ってことか……)
彼女の姿を見ると恥ずかしいと思う。でももっと見ていたいと思う。
彼女の声はくすぐったく思う。でももっと聞いていたいと思う。
彼女の笑顔は嬉しいと思う。もっと笑顔を見ていたいと思う。
彼女を守りたいと思う。他の誰でもない自分の、自分だけの手で。
何でそう思うのかは分からない。そもそも、理由なんてないのかもしれない。理由なんてあっても、それはきっと薄っぺらく聞こえるだろうから。
(理由って、必ず必要って訳じゃないよな、きっと)
そう思うと、何も無理に理由を付ける必要はないんじゃないかと。素直に認めればいいんだと。
美琴の姿を見たいと、声が聞きたいと、笑顔を見たいと、美琴の世界を守りたいと、素直に認めればいい。そう思える。
それを認めると、さっきまでの訳のわからない感情も次第に落ち着いていく。
暖かく、優しく、穏やかなものへとゆっくり色を変えていく。
変わっていく中で、おぼろげだった感情が少しずつ輪郭を付けていく。ふわふわと、頼りなさそうなのに、その形は決して崩れない。
そのしあわせな感情の正体は、なんというんだろうか。
あと一歩で掴めそうだ。そう思った所に不意に、足をくすぐる感覚と右手を押される感覚が訪れる。
その感覚に足を見れば、寝返りを打って自分の腹へ顔を向けている美琴がいた。
その寝顔に上条は思わず小さく噴き出した。
「なんつーだらしない顔して寝てんだお前。お嬢様だろ……」
実に間抜けな顔をしていた。
とてもしあわせそうな表情で、口が少し開いている、とても愛くるしい寝顔。
押されて肩からどかされた形になったが、右手が離れても電撃が来ないので今は本当にただ寝ているだけなんだろう。
居場所を失った右手の落ち着く場所を求めて、上条は美琴の流れる様な髪を少し梳く。
(うわ、すげーサラサラしてんな)
引っかかりの一切ない、本当に流れる髪に上条は軽く感動を覚える。
それからはとても静かだった。美琴の寝息だけが聞こえる、とても静かで温かい時間。
上条もリラックスした様子で、美琴の頭を撫でながらそこから見える窓の景色を眺めていた。
(あ、やべぇ。眠いぞ……)
大して泳いでいないが、海とは思っている以上に体力を消費する。加えてこの穏やかな空間だ。自然と眠気が訪れる。
じわじわと迫ってくるまどろみの中、上条は視線を窓の向こうから美琴へと戻す。
そこには間の抜けた顔にも見える、気持ちよさそうな寝顔。
(いつもみたいに元気で騒がしいのも楽しくていいけど、たまにはこういうのもいいよな)
この寝顔を見ていると、事あるごとに電撃やタックルをしてくるお嬢様には見えない。
そんな美琴も嫌いじゃないが、今みたいにただの子供みたいな表情を覗かせる彼女も嫌いじゃない。いつもこんな感じだと、穏やかで楽しい毎日になりそうなんだけどなぁ。
そこでふと、この上なく唐突に気付いた。
嫌いじゃないって、なんだ?
(嫌いじゃない。でも、本当にそれだけか……?)
さっきも感じた、名前の知らないしあわせな感情が再び上条の心に浮かびあがってくる。きっと、嫌いじゃない。その言葉に違和感を抱かせているのはこの感情だ。
なんかこう、的確に今の感情を表現できる言葉があった様な。眠気と闘いながら、上条はなんとかその感情の名を掴み取ろうと手を伸ばす。
(だぁー……、眠いから考えがまとまらん……)
美琴の頭を撫でる上条の手も徐々に止まっていく。
ついには完全に動きが止まり、ぽふ、と美琴の頭に添えられるように置かれる。
「……ああ、でも、何となく、わかった、……かも……」
感情の名前は正直、まだよくわからない。初めて抱く感情だ。もう少し時間がかかりそうだ。だから、この苦しさと切なさとはしばらく一緒にいなきゃならない。
それはちょっと、ちょっとだけ嫌だけど、しょうがない。分からない自分がいけないんだから。
だから、もうちょっとだけ待って欲しい。俺がこの気持ちをちゃんと分かる様になるまで。この気持ちはきっと、お前に向いているから。
でも、そんなあやふやな気持ちでも一つだけ分かる事がある。
「お前と一緒にいたいんだ、俺……」
運よくあった柱に背を預け、上条は心地よい感情を抱きながら意識を睡魔へ委ねる。
部屋に差し込む光が完全に赤くなったころには、部屋にあるのは少年と少女の穏やかな寝息だけがあった。
そこに無粋にも、戸が開く音が届く。
「たっだいまー……っと、ありゃあ2人して寝ちゃってるのか~」
すやすやと寝ている2人の姿に、美鈴は困った様な表情を浮かべた。
まだ夕方だが、夏の日が出ている時間は存外長く、今はもう6時を回っている。そろそろ夕食の時間だ。だから呼びに来たのだが。
「こーんな気持ちよさそうな顔して寝られたら起こせないわよ……」
美鈴には、2人が微笑みながら寝ているように見えた。
まるで、2人の周りだけ時間が、季節が異なると思うほどに穏やかな空気。
これを起こすのは、余りに忍びない。
「ま、いっか。あとでなんか買っとかないとねー」
言いつつ美鈴は旅行に持ってきたカバンから、しまっていた目覚まし時計代わりの腕時計を取り出し、時間を設定していく。
「花火が始まるのは……この時間だから、これでいいかな」
この旅館の七夕イベントのメイン。花火が始まるのは8時だから、30分前に目覚ましを設定していけば大丈夫だろう。あとは、置き手紙でも置いておけば問題ないか。
せっかく七夕のイベントを拝めるのだから、夕食は逃させてもこれは逃させる訳にはいかない。
時計と置き手紙を2人の傍に置いて美鈴は立ち上がり窓へ手を掛ける。閉めっぱなしの部屋だと寝苦しいだろうと思った配慮だ。
「あら? あらあら!?」
思わず窓から身を乗り出し、右手の方に見える山の方に目を凝らす。
それほど高くない山の上には、どんよりとした暗い雲。天気に詳しくない美鈴には断言できないが、あれはきっと雨雲だ。
あの雲がこちらまで来て、雨が降れば花火は中止だろう。
「これはいい感じじゃない!?」
だのに、美鈴の顔には期待に満ちた眼差し。
美鈴たち保護者は、この旅館の伝説じみた事に期待はしていた。が、それも、ちょっとした切っ掛けにでもならないかなー、そんでそのまま上手くいかないかなー、という楽観視交じりの淡いものでしかなかった。
なんせ、この旅館の話を完全に再現するには天気さえも味方につけないといけない。
その天気が今、何とも都合のいい様に運びそうな感じ。
「これは、詩菜さんたちにも伝えないとねー!」
美鈴の軽やかな足音はその調子を変えないまま、部屋の外へと消えていく。
一切の音が無くなった部屋に聞こえるのは穏やかな寝息。見えるのは赤い光に包まれた、微笑んでいる少年と少女。
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「ん……さみぃ……」
肌寒さを覚え、眠い目を擦りながら起きたのは上条。寝ぼけた頭のまま周りを見渡すとすっかり暗くなっていた。けれど外の光が差し込んでいるようで、視界に困る暗さではなかった。
その明りを頼りに周囲へ目をやると、窓が少し開いていた。肌寒さの原因はあれか。
窓を閉めようと立ち上がる。けれど足が全く上がらない。気になり足元を見る。
「……んぅ……」
そこには気持ちよさそうに寝ている美琴の寝顔。
「あー、なんだ。美琴か……」
そういえば、寝てたなコイツ。
意識が徐々にはっきりする中で思い出し、立つのを諦め、手近なところに何か羽織れる物はないかと首を巡らす。だが歯がゆい事に手の届く場所には無かった。
それを確認した後、少し思案する。このまま美琴を寝かすべきか起こすべきか。
このまま寝かしていては寝冷えでもして風邪をひくかもしれない。しかし、とても気持ちよさそうに寝ている彼女を起こすのは気が引ける。
「……起こすか」
深く考えた割にはあっさりと答えが出た。
寝るだけならいつでも出来るのだし、またこういう機会もある事だろう。なんと言ったってあの親たちだ。何度でもこういう状況を作りかねない。
だが、見るからに張りと潤いがある綺麗な頬。無防備極まりない間抜けな寝顔。これらがそう簡単に見られない事は重々承知している。
ので、自身の内から湧き出てくる欲望に素直に身を委ねる事にした。
まぁ要は、遊ぶ、という事だ。
まずは頬を突っついてみる。
「おお、すっげぇプニプニしてる……!」
返る頬の弾力に軽い感動を覚えつつも突っつく指は止めない。
美琴の寝顔に変化はない。
次に頬を引っ張ってみる。
「おわ、意外と伸びんな」
みょいーんと伸びる頬にこれまた軽い感動を覚える。
美琴の寝顔はちょっと痛そうにしている。
次は鼻をつまんでみる。
「……ふ、ふにゃっ……」
「……ッ!」
苦しそうな顔から漏れた、何とも可愛らしい苦悶の声に、上条は噴き出しそうになる。
美琴の寝顔は息苦しそうにしている。
次は耳に息を吹きかけて見る。
「……にゃふぅ……!」
くすぐったそうな顔をして、体がプルプルと震えながら出たのは、ほとんど吐息の様な声。
今まで散々いじった累積か、美琴の寝顔は泣きそうになっている。ただまぁ、ここまでされて起きないのも大したものだ。
最後は、その寝顔をただ眺める。
泣きそうな顔から、いじる前の間抜けな、しあわせそうな寝顔へと戻っていく。
「……いい加減、起こすか」
美琴の寝顔を心行くまで堪能したつもりでも、それでもまだ起こす事に名残惜しさを感じる。
しかしそろそろ起こさないと本当に寝冷えを起こしてしまう。
ぺちぺちと優しく美琴の頬を叩きながら声をかける。
「おい、美琴。体冷えちまうぞ。美琴」
「ん~……」
頬を叩く手と声を煩わしく思ったようで、美琴はそれらを振り払う様に腕をゆっくりと大きく回すように動かす。
その腕を掴んで動きを止めてから、上条は空いている手でもう一度ぺちぺちと叩く。
「ほら、起きろって。風邪ひいちまうから」
少し乱暴だが美琴の体の下に腕を差し込んで無理やり彼女の体を起こす。
そのまま、彼女の肩を掴んで前後左右に揺さぶってみる。
「ん~……!」
するとさすがに目が覚めた様だ。
美琴は眠そうな顔に怒りを混ぜ、寝惚け眼を擦りつつ、このこの上なく快適な眠りを邪魔してくれた奴を睨んだ。
その睨んだ視線の先には。
「おっ、やっと起きたか。お前、意外とねぼすけなんだな」
新しい事でも見つけた様な笑みを浮かべた、上条の姿。
彼の姿を視界の中心に据え、美琴の意識は何処かへ飛んでいく。呆けている彼女に掛けられる上条の声も遠い。
まだ眠っている頭を無理やり叩き起こして、自分が気を失う直前の記憶をかき集める。
(え、えーと、あの時はコイツとの事を思い出していて……)
その事を考えるだけで顔の温度が上がってくるが、今は無視。
(で……、あ、そうだ。確か漏電して、そんで母が慌ててコイツを呼んで……)
その後に、上条の右手が頭に触れて漏電は収まって。で、その手があんまりにも気持ち良かったからそのまま寝ちゃって、そんでもって確か……。
(コイツにひざま……く……)
徐々に開かれていく美琴の瞳。
限界だった。音でも聞こえそうな程に美琴の顔が一気に赤くなる。
いきなり顔が赤くなったものだから、上条も驚き肩を強く掴んで迫る。
「おい!? どうした!?」
が、美琴は美琴で、ただでさえ近い顔が大接近した事に恥ずかしさも頂点を越える。
強引に肩から上条の手を外し、座った体勢のままテーブルや床に手を突いて、反対側まで勢いよく離れる。手に何かが引っかかる感覚がしたが、それも無視して離れる。
「にゃ、にゃんでもにゃいから!!」
その上手く呂律の回っていない、所々上ずった声を受けるのは、いきなり手を虚空に差し出され、すごい速さで離れる美琴に呆気にとられた上条の顔。
手を弾かれるように外されたのがちょっと傷付いた。以前ならそれだけで終わっただろうけれど、今はそれさえも愛くるしく見える。
「なら、いいさ」
笑顔を浮かべながら立ち上がり、宙を漂っていた手を膝について立ち上がり窓へ向かう。
いつの間にか開いていた窓を閉めている上条の背に、美琴は上手く言えない違和感を覚える。
本当に上手く言えないのだが、こう、強いて言えば、ただ力強く頼りがいのあった雰囲気に、優しい色がついたような。
それもそうだと断言はできない。ただ、海の時に見た上条とは何かが異なって見えた。
(私が寝ている間に何かあったの?)
うーん、と腕を組んで悩もうと腕を前に持ってくると、手の先に時計が引っかかっていた。さっきの感覚はこれか。
見ると、美琴が母の腕時計だった。時間は7時半を差そうかとしている所。床に置いておいても壊しそうだし、と美琴は時計を持ってテーブルの傍へ寄る。
置こうとした瞬間だった。
腕時計からとは思えない、機械的な電子音が大音量で部屋に響いたのは。
「にゃー!?」
突然の大音量に驚いた美琴の手から時計がすっぽ抜け、天井へぶん投げられる。
勢いよく飛んで天井でガッ、と音を立てた腕時計は上条の足元へ落下する。
「あーもううるさいっ!」
片方の耳に耳栓代わりに指を突っ込んだ上条が時計を拾い上げ、少々乱暴に時計の目覚まし機能を止める。
止まった事を確認してから、上条はポイ、と持ち主の娘へ放物線を描く様に放り投げる。
「美鈴さん……、ちったぁ加減をして……」
放り投げた体勢で呆れ顔で呟く。
言葉は出なかった物の、受け取った方も同じ事を言いたいようだ。だが、こっちは少しばかり怒りを見せている。
「ん? なぁ美琴。それ、なんだ?」
「……置き手紙、みたいね」
いい加減明りを付けようと移動していた上条が、テーブルに置かれていた置き手紙を発見する。上条の言葉に違和感を抱きつつ、腕時計を置いてから美琴がそれを手に取る。
顔の前に持って来た時に丁度明りがついた。見てみると、母の字だ。一体なんだろうと目で追っていると、この後の花火の事だった。
「なんて書いてあんだ?」
「これから花火上がるんだって。この部屋から見えるらしいわよ」
言いながら美琴は上条に置き手紙を手渡す。
手紙の内容に目を通す上条をしり目に、美琴は隣に立つ少年の先ほどの言葉に抱いた違和感を探る。
普通に名前で呼びかけられただけだ。別段、違和感を抱く所はないように思える。
(…………ん? ちょっと待って。『名前』で?)
違和感の正体に気付き、思考がフリーズしている少女の隣で上条は手紙の内容に目を通し終え、確認する様に内容を頭の中で反芻する。
(8時に花火上がんのか。今はえっと、7時半をちょい過ぎた位か。んー、じゃあちょっと行ってくるかな)
置き手紙をテーブルに置くついでに腕時計で現在確認をしてから、上条はそのまま部屋の外へ足を伸ばす。
「美琴ー、俺ちょっとロビー行って短冊書いてくるわー」
まだ短冊に願い事を書いていない事を思い出し、今の内に書いてこようと思ったのだ。あと30分もあれば余裕だろう。
返事が聞こえない事を少し訝しんだが、それほど広い訳ではない部屋だ。聞こえていない事はないと思い、そのまま部屋を出る。
上条が部屋から出て程なく、美琴のフリーズしていた頭はようやく活動を再開する。混乱という形で。
「なななな名前!? え、ちょっ、えー!? 名前でって、うそ、本当に名前で!?」
と、半ば狂乱しながら自分を名前で呼んだ張本人に叫ぶ。が、その姿はきれいさっぱりない。
「あれ……?」
それに見事なほどに拍子抜けをくらい、美琴の頭は急速に落ち着きを取り戻していく。
そういえば何処かへ行くと言っていたような。それ以上は思い出せないので飲み物でも買いに行ったんだろうと、自分に結論付ける。
美琴は徐に窓へ近付き、縁へ腰を降ろしひんやりした窓の感触を頬で確かめる。火照った顔にこの冷たさは気持ちいい。
(私、今日、顔赤くしてばっかりじゃない……)
それがなんだか無性におかしくて、くすりと小さく笑みを溢す。
今も赤いだろうけど、昼間みたいに取り乱すことはない。
(さっきの不意打ちは例外で……)
そう、アレは不意打ちだ。あんまりにも自然に言うものだから、こっちも気付かなかった。
こんな感じで呼ばれる事を願っていた自分だが、実際に呼ばれて思う。やっぱり、面と向かって目を見て言って欲しいと。
不意打ち気味に呼ばれるのも悪くないが、一番はやっぱり、気持ちを込めて呼んで欲しいと思うのは、わがままだろうか。
(でも、アイツ。何で急に名前で呼んだんだろ?)
いつもはビリビリとか御坂と呼んでいたのに。
彼女が想いを寄せる少年は、何を思って自分の事を名前で呼んだんだろう。
その疑問に答えられる少年が傍に居ない事が、寂しくも口惜しくも思う。
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ロビーに到着した上条は、すっかり薄らいでいる到着時の記憶を頼りに、短冊が飾られた竹をなんとか発見する。
(つーか、午後が何かと濃すぎんだよ)
辟易する様な言い方だが、真実、込められている感情はそれとは異なる。
それは、口元に薄く刻まれている笑みを見ればよくわかる。
白紙の短冊が置かれている台の前に立つと、柱に影になっていて見えなかった看板が見つかる。
(旧暦の七夕の事?)
子供でも読めるようにと配慮だろうそれは、縦長の看板で色とりどりのチョークで絵も交えて書かれていた。
そのすぐ傍にある同じような看板は高い位置にあり、こちらはより詳しい事が書かれていた。子供には難しい言い回しや言葉もあるので、こちらが大人向けだろう。
(へー、七夕の日に降る雨の事を『洒涙雨(さいるいう)』って言うのか)
短冊とペンを手に取ったまま、思わず看板を読みふける上条。
洒涙雨とは、旧暦の七夕の日に降る雨をさす言葉で、7月7日や8月7日にすることの多くなった昨今では、その意味を失いつつある秋の季語だ。
その雨の意味は、織姫と彦星が逢瀬の後に流す惜別の涙。その逢瀬がままならず、悲しみに流した涙。と大きく2つある。
その意味がどちらも『悲しい涙』だと言う事を、上条はどうにも納得する事が出来ない。
(別に涙って、悲しいから流すもんでもないだろ)
そんな事を思いながら、上条は短冊になんて書こうかと悩んでいた。
昼間言ったタイムセール云々はさすがにあんまりだと思ったらしい。かといって、他にどんな願い事があるだろう。
欲しいものはあるが、それはわざわざ願う程の事でもないと思う。いや、あるにはあるのだが、それを願い事にするのは、気恥ずかしいというかなんというか。
唸りながら悩んでいると、近くを歩く他の宿泊客の声が聞こえてくる。なんとなしに声に視線を向けると、良い年の取り方をした、そう思える老夫婦がいた。
「知っていますか? この旅館、七夕の雨の日に告白するとそれが叶うらしいですよ」
「そりゃあ知らんかったな。ただまぁ、わしらには関係のない話じゃな。そんな物に頼らんでもばあさんはわしのもんじゃからな」
「あらあら、おじいさんったら。大きな声でそんな事言って」
恥ずかしそうにしているが、まんざらでもなさそうなお婆さんは悠然と歩くお爺さんの後をのんびりと付いていく。
立ち聞きをする形になってしまったが、その話で願い事を決めると同時に気恥ずかしさを捨てる事にした。
自分はあのお爺さんの様に強気には慣れないので、頼る事にした。なにせ、どうしても欲しいものだ。神頼みくらいはしてもいいだろう。
(って、何て書けばいいんだ?)
さすがに直接書くのはダメだろう。しかし間接的に書くと言っても、どうやれば間接的になるのか。そもそも、願い事を間接的に書いていいものなのか?
願い事は決まったが、また新しい問題に頭を抱える上条の目に入ったのは、ロビーの中心に立つ柱の四方にある時計。
「げっ! もう8時じゃねぇか!」
花火が上がる時間だ。
慌てて願い事を書いて、乱雑に笹の葉に括りつける。
そして急いで部屋へ戻ると、耳に入ったのは高く澄んだ声。
「遅いわよ。どこ行ってたの?」
「わるいわるい」
責める様な口調に、上条は息を切らしながら謝る様に手を上げる。ていくか、ちゃんとロビーに行ってくるって言った様な。まぁいいか。ほじくり返してもしょうがないとその話を終わらせる。
息が落ち着いてようやく気付くのは、静かだという事。花火の音が聞こえない。
「弱いけど、雨が降ってきちゃったのよ。今は様子見してるみたいよ」
「ふーん。って、なんで知ってんの?」
「今、母からメールが来たのよ」
別の場所で見てるという母からそうメールが来た。館内放送が無かった所を見ると、大方、ここの職員に聞いたか外で放送でもあったんだろう。
上条も美琴も、家族が別の場所に居るという事に作為的な何かを感じながら、窓の向こうに目をやる。
確かに雨が降っている。けれど雨脚はすごく弱い。右手の方に雲が見えるから、きっとそこの雨が風に乗ってこっちまで来ているだけだ。
「嫌な雨ね」
その雨を見ながら、誰へでもなく呟いた美琴の声がやけに響く。
七夕の日に告白すると叶う。そんな日に雨が降るなんて、普段は大して感慨を抱かない雨が今だけは憎らしい。
が、美琴は知らない。その憎らしい雨こそが、その話の決定的な要素だという事に。
「洒涙雨って言うんだろ? 花火が見れなくなるのは嫌だけど、そんなに嫌な雨か?」
上条が洒涙雨という単語を知っている事に驚き隣を見る。その視線に上条は、さっきロビーで見てきたんだ、と外を見ながら答える。
そうか、ロビーに行っていたのか。と納得しながら、ならなぜこの雨を嫌だと思わないのかが不思議だった。
織姫と彦星が別れる悲しみのあまりに流す涙。洒涙雨とはそれを指す言葉なのに。
その事を言うと、上条は意外そうな顔をして言い返してきた。
「別に、別れたのが悲しくて流した涙、って決まってる訳じゃないんだろ?」
「そりゃそうだけど……」
納得を渋る様な言い方をする美琴に、上条は笑みを浮かべながら続けた。
「じゃあさ、会えたのが嬉しいから涙を流した。かもしんないだろ?」
「あ……」
人は悲しいから涙を流す。涙と言うと、どうしてもそっちを先に思い浮かべる。だから、洒涙雨もそういう意味が付いたのかもしれない。
でも、人が涙を流すのは悲しいからだけじゃない。
嬉しくて、あんまりにも嬉しくて、それが心に収まりきらないほど嬉しいから、人は涙を流す。
「そう考えるとさ、この雨ももっと降れー! って思えるんだよな」
そう、なのかもしれない。
この雨は別れを悲しむ涙ではなく、会えたのが嬉しいから流す涙なのかもしれない。
言葉の意味は、必ず辞書通りに受け止めなければならない、という事はない。
上条みたいに、時には自分が信じたいと思える意味を、見出してもいいはずだ。
「……そうかもしれないわね」
「だろ?」
にかっ、と笑う上条につられ美琴の顔も綻ぶ。
もう一度窓の外へ顔を向ける。雨は雨脚を変えず振り続けている。これ以上は強くならないだろう。
さっきは憎らしく思えた雨が、今は止んで欲しくないと思える。上条の言葉で、こうまで意識が変わる自分の単純さを不思議に感じながら。でも、嫌な不思議さじゃなかった。
けれどやはり、思った通り弱い雨脚は更に勢いを弱めていき、ついには完全に雨が上がる。
雨がやんだ事が少しさびしい。でも、十分に勇気を貰えたからいいか、と一人微笑む。
直後、空を切る様な甲高い音が夜闇に木霊する。そして程なく響く、腹の底まで届き振動させる様な轟音。
「おー、花火やんのかー!」
「いきなりすごいのあげたわね」
暗い空に浮かぶのは、文字通りの大輪の花。最後の締めに上がりそうな大きい花火だ。
その花火を皮切りに、次々と種類が打ち上げられ、周囲の影が赤や黄色や青などに染め上げられる。
「なー美琴ー」
花火へ視線を向けながら、上条が唐突に隣で花火を見ている少女の名を呼ぶ。
「ッ! な、なによ」
また不意打ちで名前を呼ばれて跳ね上がる鼓動を抑えて美琴は応じる。
顔を向けると、上条が真っ直ぐに美琴を見つめていた。
「俺さお前と」
上条はそこで言葉を切った。
まだ、美琴への気持ちの名前は分からない。それでも言いたい事がある。
断わられるかもしれない。嫌われるかもしれない。もう、美琴と会えなくなるかもしれない。
それは怖い事だ。寂しい事だ。悲しい事だ。
(でも、俺、美琴と一緒にいたい。だから前に進みたい)
そして、何かを意気込む様に小さく深呼吸をしてから美琴に向き直る。
美琴の顔は強張っていた。何を言われるのかわからないから。
最初に上がった花火と同じ、甲高い音が聞こえる。
その音を気に留めず、上条は口を開く。
「――――――――――――――――――」
瞬間、花火の轟音が一切の音を飲み込みかき消した。
声を張り上げたつもりだったのだけれど、やっぱり怖かったようで、普段と同じ程度しか出なかったようだ。
(臆病者だなぁ、俺……)
自嘲する様な呟きを内心で発する。
花火の轟音でかき消されたかと思った上条の声は、確かに、美琴へと届いていた。
驚きに見開かれた美琴の目が徐々に閉じていく。
彼女の唇は、ともすれば叫んでしまいそうな想いのうねりを抑え込もうと、キュッ、ときつく引き結ばれる。
「……うん……」
小さい、風にさえ消えてしまいそうな程にか細い、今にも泣き出しそうな美琴の声。
けれど、上条は聞き逃さなかった。
「そっか……。そっか……」
何故だろう。涙が零れそうだった。
零れ落ちそうな物をこらえようと、上条は上を向く。だけど、堪え切る事は出来なかった。
一筋だけ、頬を伝い落ちた。口元に刻まれた、笑みの横を流れる様に。
「……バカ……」
ずるい。目の前の少年は本当にずるい。なんで、なんでコイツの言葉はこんなにも……。
くしゃくしゃな笑顔を浮かべたその瞳には一つの雫。雫は先ほどの雨の様に静かに美琴の頬を伝い、ぽつり、と床を叩く。
雫の後を指先で拭い、上条は暖かく優しい笑みを浮かべる。
美琴は、涙が零れるのを抑えようとしながら笑ったからか、彼女の笑顔は少し歪だった。
「どこにも行くなよ、美琴」
でも、やっぱり抑えきれず、雫は静かに何度も零れる。
「私を手放したら承知しないわよ、当麻」
上条は、言葉では答えなかった。
雫が流れ落ちる頬に愛しむように触れる。
そして、影が一つになった。