ねむねむタイム
それなりの修羅場はくぐってきた。
ある時はレベル5の第一位と戦い、またある時は、ローマ正教を裏で牛耳る最強の魔術師と互角に渡り合った。
ロシアでは戦場を駆け抜け、バゲージシティでは地獄も見てきた。
たかだか一介の高校生には受け止めきれない程の心の傷を負いながらも、
彼はここまでやってきたのだ。
しかしここに、そんな彼すらもあざ笑うかのような、最大の敵が立ち塞がっている。
過去の偉人たちに睨まれ、異国の言語を読み取り、暗号と数式の解を求め、化学式に頭を悩ませる。
ぶっちゃけ課題である。
上条はここ三日間、ず~~~っと問題集やらプリントやらとにらめっこをしていたのだ。
それもそのはず。何しろ三日前、小萌先生に泣き付かれてしまったのだ。
ただでさえ成績は下から数えた方が早いくらいなのに、度重なる無断欠席で出席日数もギリギリで、
もはや小萌先生のフォローだけでは、学校側としてもどうしようもない状態になっていた。
なので今回の三連休を使い、「せめて誠意だけでも見せる」ため、
この三日間、ただひたすら、黙々と課題をやっていたのだ。
だが人間の集中力には限界がある。
そうでなくても、徹夜続きだ。フラフラするのも無理はない。
しかし課題はまだ山のようにある。
小萌先生のところにインデックスを預けてまで(本人は渋々だったようだが)やっている課題だ。
さすがに終わらせないと色々とマズイ。
けれども眠いし終わらない。
上条は働きが鈍くなった頭をなんとか動かし、
ある人物へと電話する。
「……あ、美琴…か? 悪いんだけど………た、助けてください!」
その言葉を最後に、上条は力尽きた。
せっかくの休日だというのに美琴はヒマである。
ルームメイトの白井は、風紀委員で忙しいのだそうだ。
ベッドに転がり、少女漫画を読みながらダラダラとしていると、ケータイが鳴り響いた。
この着信音は一人だけにしか設定していない。ガバッと起き上がり着信相手の名前を見る。
やはり上条からだ。
まず慌てる事31秒、心を落ち着かせる事14秒、軽い発声練習8秒、
鏡を見て前髪だけでも直そうかと思ったが「あっ、電話だから関係ないや」と思い直した事0.17秒。
計53.17秒の準備期間の後、美琴はケータイを手に取った。
「ななな、何の用かしら!!?」
それでもこの体たらくである。
『……あ、美琴…か?』
上条の声は明らかに弱々しい…と言うより半泣きだった。
『悪いんだけど………た、助けてください!』
「助けてって…アンタ何があったの!?」
尋常ではない上条の様子に、美琴は思わず声を荒げる。
だがそれ以降は上条の声は聞こえてくる事はなく、代わりにツー、ツーという音が聞こえてくるだけであった。
嫌な予感がする。
美琴はケータイの着信履歴を見る。
不幸中の幸いと言うべきか、どうやら寮の固定電話からかけられたものらしい。
場所なら分かる。
美琴は急いで上条の寮へと走り出した。
この野郎!
それが現場に駆けつけた美琴の心の中の声の、第一声であった。
被害者はコタツで突っ伏す形で倒れており、チャーペンを握り締めたまま固まった右手は、
ノートに「(x-6)(x+2)=0 これより,x-6=0 またはx+2=0 よって,x=6,-2」という
謎のダイイング・メッセージを残している。
よほど凄惨な事件だったらしい。
「ったくもう! 心配して損したわよ!!」
そう言いながら毛布をかけてあげる美琴。
本人のためを思うなら、本当は起こしてあげる方がいいのだが、
上条がそこまで切羽詰った状態である事を美琴は知らないのである。
だがコタツに広がった参考書やら問題集やらを見て、
ある程度状況を把握した美琴は、「せっかく来たんだから、ちょっとくらい手伝ってやりますか」と、
上条の握っていたシャーペンを抜き取ろうとする。
その瞬間、美琴はとんでもない事に気付いてしまった。
今ってもしかして、二人っきりなんじゃね?
そうなのだ。この狭い空間で、美琴は上条と二人っきりなのだ。
黒子はいない。いつもコイツにくっついている、ちっこいシスターも何故かいない。
しかも目の前にいるコイツは熟睡していて、自分が何をしても起きそうにない。
そのことに気付いた美琴は、声にならない叫びを上げる事5秒、色々と想像して悶絶する事246秒、
一旦落ち着こうとして深呼吸する事133秒、そして再び想像して悶絶する事177秒、
その後なんやかんやで405秒。計966秒、約16分間も何かワチャワチャしていたのだ。
こんなチャンスは滅多にない。
今こそ積年の恨み(主にスルーされたり、イライラさせられたり)を晴らす時。
当初の目的【べんきょうのてつだい】はどこへやら、
上条が無防備なのをいいことに、仕返しという名のイタズラが、今、始まろうとしている。
美琴は高鳴る胸を抑えながら、その油断しきった顔に近付いていく。
くかーっと寝息を立て、よだれを垂らし、時折むにゃむにゃと何か言っている。
非常にだらしない姿だが、恋する乙女はそれを「カワイイ」と表現するらしい。
子犬でも見つめるようにウットリとしている。
しかし、長時間直視する事はできないらしく、「見つめる→目を逸らす→深呼吸→見つめる」を繰り返していた。
こうしてるだけでも充分幸せなのだが、しかしそれでは、せっかくのこの貴重な時間が勿体無い。
コイツが起きる前に、普段できないような事をして、もっと楽しんでしまおう、と美琴は考えた。
[MissionⅠ NEGAO WO GEKISYA SEYO!]
美琴はケータイを取り出し、その寝姿を保存しようと企んだ。
一応建前上は、「何かあった時に、この写メを材料に交渉【きょうはく】する」というものだが、
本当の使用目的は乙女の秘密である。
何度もパシャパシャと音を立て、うまく撮れて保存したもの、
緊張して手ぶれが激しくなり失敗したもの含めて、約100枚近くの写真を撮る。
もうホクホクである。
「ふっふ~ん。 いっつも私をスルーするから悪いのよ~♪」
と、口では言っているが、顔はニヤケきっている。
上条とは違った意味で、こちらもだらしない。
と、その時である。上条が「みこ…とぉ……」と小さく呟いた。
バレた!!? と思ったが、寝言だったようだ。
「お! お! 驚かすんじゃないわよ!!」
本当に心臓が飛び出るかと思ったらしい。
後に美琴はこのときの事を、「14年間生きてきて、一番ビックリした瞬間だった」と語っている。
しかし上条はどんな夢を見ているのか。その後も何度も「美琴」の名前を呟いている。
実際は「ヘルプで呼んだはずの美琴が、課題の追加を大量に持ってきた」という、
とんでもない悪夢を見ている訳なのだが、そんなことを知る由もない美琴にとっては、
「ひょっとしてコイツ、夢の中で私と!?」とか思ってしまう。真実というのは残酷なものだ。
[MissionⅡ NAMAE WO YONDE MIYOU!]
何度も何度も名前を呼ばれ、美琴も妙な気分になってくる。
この特殊な空間がそうさせたのだろう。
普段ならありえないが、コイツが寝ている今なら言えるかもしれない。
コイツの名前を。
「み、こと……」
「ななな、何よ! と、と、とう、ととと、とう」
「みこ…むにゃ……」
「とう、とう、とと、と、とう…………ま………」
「言えた!」と胸を張って言えるかは微妙だが、一応名前を呼んだと言えなくもないような気がする。
その後も何度か挑戦したが、「と」と「う」と「ま」を繋げて呼べたのはこの時だけだった。
それにしてもこの男、まるで起きる気配がない。
これだけ近くで美琴が大騒ぎ(本人的にはその自覚はない。あくまで冷静なつもりである)したというのに、
相変わらずレム睡眠の真っ最中だ。
これだけ起きないのであれば、多少無茶しても大丈夫なのではないだろうか。
[MissionⅢ IROIRO SAWATTE TANOSHIMOU!]
一応、名前は呼べた(と本人は思っているらしい)ので、今度はもう一段階ハードルを上げてみる。
ゴクリと生唾を飲み込んだ後、そ~っと腕を伸ばし始めた。
どうやら触れてみたいらしい。
相手を刺激しないように、まるで猛獣と触れ合うかのような、ゆっくりとした手つきではあったが、
美琴の右手は、見事、上条の頭にポフッと着陸した。
「ふぉ!? ふおぉぉぉおおおお!!?」
感激と興奮のあまり、言語中枢がおかしくなった模様。
そのままワシャワシャと頭を撫でてみた。
トゲトゲした髪は、触ってみると意外と柔らかく、「大型犬ってこんな感じなのかな?」と、何となく思った。
その後も鼻をつまんでみたり、耳たぶをフニフニしてみたり、首筋をコチョコチョしてみたりと、
本人が寝ているのをいいことにやりたい放題だ。
自分からやっておいてイチイチ悶える美琴も美琴だが、これだけされても全く起きない上条も上条である。
だがほっぺたをプニプニと突いている時に事件は起こった。
くわえやがったのだ。
美琴の細い人差し指を、上条の口が無造作に。
「!!? !!!!?? !!!!!!????」
あまりの出来事に脳が追いついていないらしい。
学園都市で第三位の演算能力をもってしても、処理できないことはあるのだ。
上条は「千歳飴……」と、とても夢の内容が分かりやすい寝言をほざきながら、
チュピチュピと美琴の指を、吸ったり舐めたり転がしたりしている。本当は起きているのではなかろうか。
「や……ちょ、やめ………ぁ…は、あ…………んん!!」
やだ、なにこれエロイ。
やっとの思いで指を抜き取ると、上条の口と繋がった糸がツツーッと引いていた。
美琴はそれを、心臓をバックンバックンさせながら、自分の唇へと当てようとする。
もう一度言うが、普段の彼女は絶対にこんなことはしないだろう。何もかもこの状況が悪いのだ。
だが唇に触れようとした瞬間、ハッと思い直し、頭を抱えた。
(な、何をしようとしてんのよ私は~~~!!! これじゃ変態【くろこ】と一緒じゃない!!!)
惜しい。もうちょっとだったのに。
美琴はティッシュで指をふき取った。思い直してからティッシュを使うまで、色んな葛藤があった事は内緒だ。
冷静になったのか、さすがに懲りたのか、
それとも、「思い返すととんでもなく恥ずかしい事をしていた」という自覚をしたため
上条の顔をまともに見れなくなったからなのかは分からないが、
これ以上ちょっかいを出さないでおこうと美琴は思った。
そっと立ち上がり、帰ろうとする。ホント何しに来たのやら。
だがその時、美琴は左腕をガッとつかまれた。
一瞬、何が起きたのか分からない美琴に、本日最大の試練が訪れる。
[Final Mission KAMIJOU NO HANGEKI KARA MI WO MAMORE!]
そのままグイッと引っ張られ、美琴は床に倒れこむ。
「いった~! 何が起きた…の…?」
本当に何が起きたのか。
目の前には、自分に覆いかぶさる形で抱き締めてくる上条の姿があった。
「ちょちょちょ持って待って!!? 何!? 何これ!!? えっ、アンタ起きてんの!!?」
急な展開に焦る美琴だが、どうやらこれでも上条は寝ているらしい。
「ん~…あと5分……」とか言いながら顔をスリスリしてくる。
「や! ほ、ほんとに…やめなさいよ! ちょ、ちょっとおおお!!」
それでも上条の暴挙はとどまるところを知らない。
いつも幻想をぶち殺すその右手が、美琴の控えめな現実【むね】を鷲づかんだのだ。
「ぇぇぇぇええええええええ!!!?」
そのままモニュモニュと胸を揉む幻想殺し。
「…肉まん……」などと寝言をぬかしてはいるが、肉まんはそんな持ち方しないだろ。
こんな神業【ねぞう】ができるのは、彼か結城リトぐらいなものだ。
「ん…は…あぁん……ら、めぇ………や…ぁ、あ…んあ!」
やだ、なにこれ超エロイ。
好きな男に押し倒され、胸を揉まれているのだ。変な気分になってもおかしくはない。
どんどんエスカレートする上条の手つきに、美琴の高ぶる感情も歯止めが利かなくなりそうだ。
が、いいところで上条の動きがピタッと止まった。
焦らしまで寝相で行うとは、さすがは一級フラグ建築士である。
「はえ…? なんれ…?」
効果は抜群だ。
美琴はトロンとした目つきで、上条の方を見る。
すると上条は、ここで止めを刺しにきた。
ムチュッ
唇と唇が重なり合う感触。今まさに美琴は「奪われた」のだ。
いわゆるファーでストなキスを。それも寝ている相手にだ。
今日はあらゆる意味で頑張ったが、さすがにこれには耐えられなかった。
いつものように、「ふにゃー」の掛け声を残し、美琴は心地よ~く気絶した。
何かあった。
この状況はどうなってる。
上条が目を覚ますと、もう夕方だった。
腕から伝わってくる感触は、とても温かくて柔らかい。
まるで女の子でも抱き締めているかのような感覚だった。
いやいや、そんなはずがない。だって身に覚えがないもの。
しかし目を開けると、そこには真っ赤に染まった美琴の顔がある。
いやいや、そんなわけがない。だってありえないもの。
きっとこれはまだ夢なのだ。上条はそう言い聞かせて再び目を瞑る。
「って! んな訳あるかあああぁぁぁぁ!!
何で!? 何故に美琴センセーがワタクシめの部屋にいるのでせう!!?
そして何で俺と一緒に仲良く寝てんの!!? てか何で俺は美琴を抱き枕にしてんだ~~~!!!?」
抱き枕どころか、もっと大変な事をしてた訳だが。
上条はとりあえず水を一杯飲み、落ち着いたところで今日の出来事を思い出していく。
今日は課題に追われていた。ここまではいい。
睡魔と戦いながらも手と頭はなんとか動かしていた。問題はここからだ。
たしか数学の問題(多分、二次方程式だったと思う)を解いている時に限界に達し、
最後の力を振り絞り、美琴に助けを求めた…気がする。
だから美琴がここにいる理由は、まぁ分かる。
では何故、その美琴を抱き締めながら、自分は寝ていたのか。
その答えを鈍感王上条が導き出せるわけもなく、彼は訳も分からず頭をかきむしる。
絶賛気絶中の美琴。
全く進んでいない課題。
それだけでも厄介なのに、さらにこの後、
「よ~カミやん! 課題は進んでるかにゃー? ヒマだから冷やかしに来てやったぜい」
と、最悪な理由で遊びに来た友人と、最悪なタイミングで鉢合わせする事になり、
その翌日、クラスで上条の公開処刑が行われる事になるのだが、それはまた別の話。