とある魔術の禁書目録 自作ss保管庫

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フリーズ・オクトーバー




第三十五章

―肉体の苦痛は、人々の生命の幸福のための必要条件である。

「それでも、やはり痛い。肉体的に苦痛なのだ。なぜこんな痛みがあるのだろう?」
と人々はたずねる。
「なぜなら、われわれにとってそれが必要なだけでなく、痛くないなどということなしに生きてゆかれないからだ」
われわれに痛い思いをさせこそしたが、痛みをできるかぎり少なくして、
この痛みから生ずる幸福をできるだけ大きくしてくれた人なら、こう答えるに違いない。

―トルストイ著 原卓也訳『人生論』新潮社 (1975) p.201より引用





傷の多い生涯を送って来た。
俺には『普通の高校生活』というものが、見当つかなかった。
俺は不幸な星のもとに生まれたので、平穏な生活を初めて手にしたのは、大学生になってからだった。

別段誰かに唆された訳でもなく、大きなきっかけがあった訳でもなく、示し合わせた訳でもなく。
非常にスムーズな流れで、美琴に惹かれ、美琴に恋し、美琴と愛し合った。
それは、太陽が沈んで月が出て来るような、極々自然な流れだった。
そうして自然に付き合い始めた俺達は、これまた極々自然な流れで同棲を始めた。

俺が大学進学を期に男子寮を出る際、既に一人暮らしをしていた美琴に
「家賃も勿体ないし、折角だから一緒に住もうか」
と、合理的かつロマンティックな提案をしたところ、美琴もノリノリでついてきたのだ。
トントン拍子で話が進むとはこのような状態を言うのだろう。

俺と美琴の住むマンションには寝室が1つしかない。
さらにベッドも1つしかない。
リビングのソファも人が寝るには不適切なサイズだし、雑魚寝出来るような予備の布団も用意していない。
要するに、俺と美琴は常に一緒のベッドで一緒に寝ているということになる。

……今、イヤラシイ妄想をした連中、怒らないから正直に申告しなさい。

それが正解だ。

しかし、俺と美琴の寝室でのアレコレを語るのは、このお話の趣旨から逸脱するので差し控えさせて頂きたい。
もし寝室でのアレコレを語り始ようものなら、忽ちこの『全年齢対象』のスレから追放されてしまうだろう。

まあ、小萌先生風に言わせてもらうと、
「イロイロあったのですよ~イロイロ~」
ということだ。
各自、妄想にて補完して頂きたい。

閑話休題。
俺は現在、寝室の前で閉め出しを食らっている。

どうしてこうなった。



@@

時間を少し巻き戻そう。
夜の10時のことだ。

這々の体でアルバイトから帰ってきた俺を待っていたのは、絵に描いたように不機嫌な顔をした美琴だった。
より正確に言うと、生気の抜けた顔と言った方が正しいのかもしれない。
時折、腕を組んだり肩肘をついたり腰に手をやったりと、見るものをやきもきさせる仕草をとる。
美琴は、ぼんやりとした青白い顰め面を浮かべながら、むっつりと押し黙っていた。

あまりにも生気のない青白い顔をしているので、体調を慮って、
「風邪か?病院でも行くか?」
と尋ねてみたが、
「違う。別に病院も行かなくていい」
という、味気ない回答しか帰って来なかった。

俺は美琴を気遣い、少しでも明るい雰囲気にするべく、大学やバイトで起きた抱腹絶倒必至の話を繰り出す。
「……で、『あれ~何か聞いたことのある内容だな~』って思ってたら、去年の授業だったんだよ!」
「へえ」
「店長のヅラがさあ、帽子と一緒にずれ落ちてんだよ!でも、本人は気付いてないつもりでさあ!」
「そう」
「『このクーポン使えますか?』って持って来たの、ド○ドムバーガーのクーポンなんだよ!ここスーパーだぜ!?」
「ふうん」
という、2文字乃至3文字程度の曖昧模糊とした返事しか返って来なかった。

最初は美琴のご機嫌を取ろうと躍起になっていた俺だっただが、煮え切らない態度の美琴にイライラし始めた。
怒りが沸々と澱の様に募っていく。
間を見計らって話かけるが、美琴は相変わらずのむっつりのままだった。

堪りかねた俺は、ついに、
「なあ、俺なんかしたか?文句があるならハッキリ言えよ!」
と、声を荒げてしまった。

それでも美琴は、のれんに腕押し糠に釘といった様相のままだった。
そして、
「今日は先に寝るね」
とだけ言い残して、早々に寝室に引きこもってしまった。

俺は憤りを隠せなかった。
今回は特に美琴の不機嫌の理由が思い当たらなかったからだ。
というか、今日は今の今まで美琴と一言も会話を交わしていなかったので、不機嫌にさせるような要因がないのだ。

俺は昼からの講義だったので、朝起きた時にはもう美琴はいなかったし、講義の後は夜の10時までアルバイトをしていた。
今日は美琴のプリンも食べていないし、下着もちゃんとネットに入れて洗濯した。
『ゆうべはおたのしみでしたね』だったので、昨日から不機嫌という訳でもない。

では、何故美琴が不機嫌なのか。
俺には全く見当もつかなかった。



@@@

暫くの間、ダイニングのスツールに腰掛け、沈思する。
『アイツ何であんなに不機嫌なんだ!?文句があんなら直接言えっての!』
や、
『いやいや。俺には言えない何かで悩んでるんだ。男なら寛大な心で……』
や、
『まさか浮気か!?俺とは遊びだったのか!?』
や、
『ま、なるようになるんじゃね?今日はもう疲れたし、諦めてリビングで寝ようぜ』
といった様々な俺が、ヤルタ会議でのアメリカとソ連の如く、脳内で侃々諤々とやりあっていた。

最終的に、
『いやいや。俺には言えない何かで悩んでるんだ。男なら寛大な心で……』
と宣う、最も理知的で穏便派な俺の意見が尊重され、スマートな大人を気取りながら寝室へと向っていった。

俺はドアを流麗にノックしながら、美琴に呼びかける。
「みこと~大丈夫か?」
そこまで言ったところで、
「ゴメン。今は静かにしてて欲しいの」
と、布団の中に籠ったまま言ったであろう、くぐもった声が返って来た。

その平坦で冷ややかな声は、忽ち俺をヒートアップさせる。
『アイツ何であんなに不機嫌なんだ!?文句があんなら直接言えっての!』
と宣う、最も暴力的で武闘派な俺が強引に主導権を奪い取ってしまった。

俺は、シャボウスキーの記者会見を受けてベルリンの壁に殺到した東ドイツ市民の如き勢いでドアをノックし、
チャントを熱唱するマンチェスターユナイテッドサポーターの如き勢いで美琴を呼び続けた。
しかし、寝室へのドアは、幕末の京都御苑新在家御門のように、頑に閉ざされたままだった。

それでも固執的に美琴を呼び続け、ドアをノックし続けていると、ついに、
「静かにしてって言ってるでしょ!」
という、絹を裂くようなヒステリックな叫び声があがり、
『ガン!ガシャン!パリーン!』
という、目覚まし時計っぽい破壊音が轟き、俺は沈黙を余儀なくされた。

その後、どちらからともなく謝罪の言葉を交わすが、耳が痛くなるような静寂が辺りに漂っていた。
居た堪まれなくなった俺は、一切の思考を放棄すべく、全てを眠りに委ねることにした。

しかし、先程申し上げた通り、我が家には寝室が1つしかない。
俺はダイニングキッチンのフローリングに羽織っていたジャケットを敷き、ごろんと横になる。
しかし、ビニール樹脂のフローリングは、あまりにも硬質で無愛想で酷い寝心地だった。

かつては浴室で寝起きしていたという苦々しい実績もあるが、それはあくまでも布団があればの話である。
いよいよ居場所のなくなった俺は、自宅を見限ることにした。



@@@@

ネカフェ、ファーストフード店、或いは野宿。
一夜をしのぐぐらいなら方法はいくらでもある。
そんな中、俺は『友人宅に泊まる』という選択肢を選んだ。

哀れなる羔を匿ってくれる、寛大で奇特で酔狂な友人を探そうと、携帯のアドレス帳を開く。
すると、アドレス帳の一番最初に出てくる『あ』行欄に、最も相応しいであろう友人の名を見つけた。

『青髪ピアス』である。

青髪は大手を振って『友人』と呼ぶには些か憚られる存在だ。
どちらかといえば『腐れ縁』むしろ『人生の汚点』にカテゴライズするのが相応しい気もする。

しかしアイツなら、事情を説明すれば、
『ぎゃはははは!何やらかしたん?浮気?不倫?カミやんはええ加減一夫多妻制の国に移住した方がええよ!』
みたく俺を思う存分罵倒し、爆笑しながら迎え入れてくれるはずだ。

今俺に必要なのは、慰めでも同調でもなく、笑いだ。
とにかく、行き場のない怒りと悲しみを、笑いで誤摩化したかった。

意を決して青髪に電話をかけ、事のあらましを説明する。
途端、青髪からの、
「ぎゃはははは!何やらかしたん?浮気?不倫?カミやんはええ加減一夫多妻制の国に移住した方がええよ!」
という、先程の俺の思考をそのままコピペしたような回答が返って来た。
あまりにも予想通り過ぎることに驚愕しながら、俺は厚顔無恥甚だしいお願いをする。

「つうわけで、わりぃけど今からお前んち泊まりに行ってもいいか?」
「そんな気使わんでかまへんて!カミやんは『独身サイド(こっち側)』に帰って来てくれるって信じとったよ!」
「いや、まだ『リア充サイド』にいるつもりなんだけど……」
「いやいや。もう諦めって!今日は失恋記念に朝までエロゲパーリナイや!」

夜中なのにこのテンション。
いろいろあって既にくたくたになっていた俺は、早くも青髪に頼った事を後悔しつつあった。
しかし、おかげで今夜は枕を濡らす暇もなさそうだ。

と、その前にもう一人連絡しておかなければいけないヤツがいる。
俺は、アドレス帳の『さ』行から、1人の名前を選び出した。
そして、次の文言のメールを送信した。

『俺と美琴に関する大事な相談がある。明日の夕方Joseph'sに来て欲しい』

と。



@@@@@

とあるファミレスの一席にて。
いきなりだが、俺は今、肥沃に実った秋の稲穂の如く、深々と頭を垂れている。

一方、目の前に座る白井黒子は、憮然たる表情でふんぞり返って座り、
敵意と殺意のこもった冷徹な目つきで俺を睥睨している。
あまりにも露骨な拒否反応に若干たじろいでしまうが、恐れをなしている場合ではない。
事態は急を要するのだ。
俺は恥も外聞もかなぐり捨て、月にまで届きそうなほどよく通る声で嘆願した。

「折り入って相談がある」
「お断りですわ」

見事な即答だった。
回答まで0.5秒も時間を要していない。
TBSオールスター感謝祭では、きっといい成績を残すことが出来るだろう。
ああ、この決断力をほんの少しでも日本の政治家達にお裾分け出来れば……

と、そんな事を考えているヒマは無い。
俺は、早くも崩れ始めた根性に激を入れ、諦めずに食い下がる。

「そんなご無体な!せめて内容を聞いてからでも……」
「どーせ
『美琴の機嫌が悪いんだけど、何か思い当たる節はないか?』
とか、
『美琴が可愛過ぎて生きるのがつらい』
といった類いの、屁の突っ張りにもならない痴話話か、聞くだけで糖尿病を患いそうなゲロ甘おノロケ話でしょう?」

図星だ。
こいつは心理掌握か何かか?
「まあ概ねその通りだな……美琴が可愛いのも、美琴の機嫌が悪いのも否定できない……」
「お姉様の美しさは万国共通、永久不変の理ですの!よくもまあ、そのニンニク臭そうな口でいけしゃあしゃあと!」
「はいはいそうですそうでございますそうでごさいました!私が悪うござんした!」
「どうしてこんな類人猿とお姉様が……とにかく、私はお猿さんと戯れる程ヒマではありませんので!」
「ちょ、待ってくれよ!」
「ぜーったいにお断りですわ!」

白井はそう言って席を立ち、こちらに一瞥もくれずに帰ろうとしている。
マズい。
このままでは、唯一と言ってよい頼みの綱を失ってしまうことになる。
俺は再び恥も外聞もかなぐり捨て、必死のパッチで白井を呼び止めた。

「頼む!俺にはお前しか(頼るヤツが)いないんだ!」

騒々しかった店内は、まるで時が止まったかのような静寂に包まれた。
一瞬の間が空き、ざわつきと共に徐々に自然解凍されていく店内から、
「え、なになに?痴話喧嘩?」
「わあー!昼ドラみたーい!」
といった類いの不穏な囁きが聞こえたが、いまは放置しておこう。

渦中にいる白井は、そんな囁きなどどこ吹く風といった様子だったが、
一瞬の静止の後、面倒くさそうに振り返り、憤懣やる方ない表情を浮かべながら言った。

「そのような言動がお姉様の機嫌を損ねているという事実を、アナタはいい加減ご理解なさるべきですわ」
「なんの話だ?とにかく俺はお前を必要としている。お前無しではもう立ち直れそうにないんだ!」
「……それはひょっとしてギャグで仰っているのですか?」
「だからなんの話だ?俺はいつもいつでも本気で生きてるつもりだぜ」
「お姉様はどうしてこんなアホな男なんかに!ああ、嘆かわしい!お姉様、どうか正気にお戻りになって……」

白井は両手で顔を覆い、およよよ…と、すすり泣き始めた。
しかし、それは誰がどこをどう見てもハッキリと断言出来るほど、あからさまな嘘泣きだった。
かつては『クラスの三バカ(デルタフォース)』という称号を欲しいがままにした俺だったが、
いくら何でもこんなわざとらしい嘘泣きに引っかかるほどバカではない。
俺は白井の安っぽい三文芝居を華麗にスルーし、先を促す。

「はいはい、ごめんね~。で、いい加減俺の話を聞いてくれるのか?くれないのか?」
「その居丈高な態度は何ですの?あなたこそ人にものを頼む気がありますの?」
「ありますあります!ほら、このとーりでございます!」

俺は、腰部を折り目正しく90°に折り曲げ、すかさず平身低頭、絶対服従の姿勢をとった。
愈々観念したのか、小さく嘆息をついて、
「あくまでもお姉様の為にですのよ?決してアナタの為ではありませんので、その旨をよーく念頭において……」

どうやら大勢決したようだ。
俺は、白井が欣喜雀躍しそうな、しかし俺自身にとっては憂慮に耐えない悩みを打ち明けた。

「俺、美琴に嫌われた……」



@@@@@@

「俺、美琴に嫌われた……」

そう言い終わるか否かのところで、白井は満面の笑みを浮かべながら宣う。

「ざまあみさらせですわ!やはり黒子とお姉様が端然と築き上げた愛の花園を踏み荒らすことは許されないのですわ!嗚呼お姉様!嗚呼嗚呼お姉様!嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼お姉様!やっと正気に戻られたのですね!私は、黒子は、どれ程この日を待ちわびたことでしょうか!お姉様が『変態が服を着て歩いている』と評されるこの上条当麻の毒牙にかかって幾数年!黒子とお姉様との間に堅く結ばれていた愛の赤い糸はもう失われてしまったのではないか、お姉様はもう黒子を愛して下さらないのではないか、黒子を見捨てて出奔してしまうのではないかと危惧しておりました!いえ、黒子は悲嘆に暮れながら半ば諦めておりましたの!しかしながら!やはり心の深淵では黒子を愛し続けて下さいましたのね!黒子は今、万感(無い)胸に迫らせておりますの!今日は人生で3番目に喜ばしい日ですわ!2番目はお姉様と起居を共に出来ることが決まった日!もちろん黒子にとって人生最良の日とは、今後来たるであろうお姉様と黒子が結ばれる日ですわ!嗚呼!もう居ても立ってもいられませんの!お姉様、式は如何なさいます?神前式?仏前式?それとも教会式?黒子はオールカマー!なんでも来いですのよ!たとえお姉様が世界遺産・厳島神社で式を挙げる事をご所望されようとも、鳥取県にある三仏寺投入堂で式を挙げる事をご所望されようとも、チェコにあるセドレツ納骨堂で式を挙げることをご所望されようとも、黒子は喜んで受け入れますわ!いいえ、黒子とお姉様との間には式など必要ありませんの!黒子はお姉様が傍にいるだけで、天にも登る程の幸せを感じるのですから!まあ仮に教会式で挙げたとして、どのようなコンセプトにしましょうか?黒子としては……」

白井の狂気的独白が始まった。
『長口上はあくびの種』とは言い得て妙である。

俺は、
「ざま」
あたりで既に聴覚をシャットアウトしており、目の前のコーヒーに意識を集中させていた。
コーヒーはすでにぬるくなっており、底には溜った砂糖の層が出来ていた。
それをくるくるとかき混ぜながら、嵐が過ぎ去るのをただひたすら待った。
ああ、それにしても周囲の目が痛い。



@@@@@@@

「……なあ、白井」
「お姉様おやめ下さいまし!こんな往来では黒子、お恥ずかしゅうございます……って何ですの?」

白井がバナナで釘を打てるんじゃあなかろうかと言わんばかりの、冷ややかな目で俺を睥睨している。
文字通り俺を見下ろしながら。

「頼むからテーブルから降りてくれ……」
「……あらあらまあまあ!私としたことが!淑女としてあるまじき行為ですわ!」

そう言いながら悪びれる様子もなくテーブルから降りる。
ぱんぱん、とスカートの折り目を直し、ごほん、と咳払いをひとつ。
そしてこちらに向き直り、
「で、アナタは何をやらかしたんですの?」
と、ワクワクテカテカした表情を隠そうともせずに尋ねて来る。
俺は腕を組みながら、思い出したくもないが、昨日の痛ましい出来事について語り始めた。

「つまり、アナタは何もしていないのに、帰ってきたらお姉様のご機嫌がすこぶる悪かった……と?」
「Yes, that's right.」
「なるほど……」
「何かわかったのか?」
「お姉様はようやく学園都市屈指の演算能力の高さを、自己分析の方に向けてお使いになられたのでしょう」
「はあ?」
「で、『アナタと交際している』という重大で致命的な誤謬について、ようやくお気づきになられた」
「はあ」
「平たく言えば『私、何でコレと付き合ってるの?』『もう愛想が尽きたわ』といった類いの意味ですわ」
「……そうか」
「ま、アナタのような凡百が、高貴なるお姉様とお付き合いするというのが、土台無理な話なのですわ」
「……だよなあ」
「まったくその通りですわ!華麗なるお姉様の経歴に傷を……って、どうして泣いておりますの!?」

俺はさめざめと涙を流していた。
3歳も年下の女子高校生の毒舌だけで泣かされるという、日本男児にあるまじき屈辱である。
ああ、何とも情けない。
これじゃあ美琴も愛想を尽かす訳だ。

「……そうだよなあ。俺じゃ美琴と釣り合わないよなあ」
「ちょ、ちょっとアナタ……!こんなところで!」
「白井すまん……申し訳ない……こんな男じゃ、美琴も愛想尽かすよなあ」
「い、いえ……そんなことは……」

俺は、金ダライ1杯分ぐらいあるのではないかと思われる程の滂沱の涙を流し続けた。
だくだくと流れ続ける涙が、喉の奥につっかえる。
白井が差し出したハンカチで目頭を抑えながら、涙の洪水がおさまるのを待った。
ドギツイピンク色をした白井のハンカチは、フローラルな甘い香りがした。



@@@@@@@@

「落ち着きましたか?」
「ああ。ありがとな」

涙でボドボドになったハンカチを白井に返す。
たっぷりと涙を流し続けた俺は、存外にスッキリとした気分だった。
仕上げにテーブルの横に添えられた紙ナプキンで、ちーんと鼻をかむ。

目の前の白井は、
「まあ、はしたない」
と、毒づいているが、その表情からは普段の剣呑とした雰囲気は感じ取れなかった。
白井にとって俺は不倶戴天の怨敵であるはずだが、コイツなりに気を使ってくれているのだろう。
その優しさが身に沁みる。
俺は、胸の内に渦巻いているどろどろとした心情を、ぽつりと吐露する。

「……俺、美琴と別れた方がいいのかな」
「私の口からは申し上げることが出来かねますが……アナタとお姉様の間に愛がないのであれば……」
「俺は勿論、まだ美琴を諦められない。でも、美琴の生気の抜けた顔を見てるとどうにも……」
「まあ……お姉様がそのような表情をなさるなんて……」
「ああ。俺が原因だよな。美琴は血の気の失せたような顔をしているのに、声をかけることしか……」

またしても、涙が溢れ出る。
美琴がこんな様子を見れば、きっと愛想を尽かすに決まっている。

しかし、白井は、
「アナタ、今なんと……?」
と、目を少し見開きながら怪訝そうに俺に問いかけて来る。
別段気に触るようなことを言ったつもりではなかったが、思い当たる言葉をリピートする。

「『美琴は血の気の失せたような顔してるのに、声をかけることしか……』か?」
「上条さん、お姉様の様子を詳しくお聞かせ願えますか?」
白井は忽ち表情を切り替え、さながらジャッジメント然とした慇懃な表情になる。
突然の白井の豹変に戸惑いながらも、俺は昨日の美琴の様子について思惟する。

「そうだな……ぼーっとした生気のない顔をしていて」
「はい」
「何を言っても上の空で」
「ええ」
「時々腕を組んだり頬杖ついたり腰に手をやったり、ダルそうで」
「……」
「さっき言ったように、血の気の失せたような顔をしてたなあ」
「……分かりましたわ」

そう言うと、白井はふーっとため息をつき、天を仰いだ。
それは、名探偵が事件の真相に辿り着いたが、カタルシスを得られない時に浮かべるような表情だった。
俺は、どうやら何かに気づいたらしい白井に尋ねる。

「分かったって、美琴の不機嫌の理由か?」
「ええ。恐らくは。もっとも、確証は持てませんけれども」
「勿体ぶらずに教えてくれ!」

切羽詰まって火急を要する俺は、白井に詳細を問いただす。
鼻息荒く迫る俺に対して、白井は何か含みのある表情のまま言う。

「こればかりはご自分でお気づきになられるか、お姉様自身のお言葉でなければ……」
「どうしてだ!?俺じゃ信用できねえのか!?」

俺はさらに語気を強めて白井に詰め寄る。
端から見れば、相当みっともない男に見えるだろう。
しかし、今の俺にはなりふりかまっている余裕などなかった。

それでも白井は、いつになく堅い表情を浮かべながら、
「申し訳ありませんが、これはお姉様を慕うもの、いえ、1人の女性として申し上げる訳にはいきません」
と、毅然とした声で言い切った。
何が何だか分からず混乱したままの俺を取り残して、白井は言葉を続ける。

「今、お姉様は自分自身と戦っておられます。これは貴方がどうこう出来る問題ではありません」

分かっていたとはいえ、きっぱりと『俺に出来る事は無い』と言われると辛い。
自分の無力さ、そして不甲斐なさを痛感させられた。

俺は、
「……何か、俺に出来ることは無いのか?」
と、まるで死刑回避を哀願する被告人のような声で、白井に訴えかける。

すると白井は、それまでの硬質な表情と声色を緩め、子供を諭すような柔和な声で言う。
「手を、握ってあげて下さい。そして、お姉様が元気になられた時には、目一杯愛してあげて下さい」
と。



@@@@@@@@@

白井は、
「大丈夫ですわ。貴方とお姉様はきっとやり直せます。……実に不本意ですが!」
と、特に後半部分に力を入れてキッパリと言い切った。
俺は、イマイチ判然としないままだったが、追い返される様にして自宅へと帰った。

「ただいま~」

恐る恐る声をかけ、玄関へ歩を進める。
なぜ自宅に帰るだけなのに、これほど恐がってるんだろう。
俺は自分自身の不甲斐ない心に激を入れながら、ダイニングへと進む。
そこは昨夜俺が飛び出した時と、ほぼ同じ状況だった。

「おーい、美琴~?」

蚊の鳴くような囁き声で、美琴を呼ぶ。
しかし相変わらず返事はなく、美琴の行方も杳として分からなかった。

となると、残された可能性は寝室しかない。
俺はゴクリと生唾を飲み込み、意を決して寝室に入っていった。

予想通り、美琴はベッドで布団に籠り、ネコのように丸くなって眠っていた。

俺は掛け布団を少し押し退け、美琴の顔を覗き込む。
明度を下げた栗色をした髪の毛が、無造作に顔を覆っていた。
出逢った頃は肩につかない程度の長さだったが、今では鎖骨を覆う程の長さになっていた。
その髪の毛を優しく払い、出逢った頃より幾分か大人びた表情を眺める。

普段は血色の良い肌色をしているはずの頬が、まるで陶磁器のように青白く不健康そうな色をしていた。
閉ざされた瞳は堅く閉ざされており、まるで必死に何かから逃れようとしているように見えた。
すらりとのびた鼻筋も、薄く伸びた唇も、何もかもが果敢なげで苦しそうに見えた。

『美琴、苦しそうな顔をしてる……まるで何かに耐えているような……!』

何故かは分からない。
ふいに、唐突に、突然に。
俺は理解した。
美琴の不機嫌の理由が、いや、全てが。

どうして白井が理由を教えてくれないのか。
どうして俺に出来ることが何もないのか。
どうして美琴が不機嫌なのか。
どうして美琴の体調が悪そうなのか。

俺は天を仰ぎ、嘆息をついた。
「そりゃ、美琴の性格じゃ言えるはずもないよな」
と、誰に言うでもなくつぶやいた。

分かってみれば、実にデリケートでシンプルな問題だったのだ。

『男』である俺が、この問題の本質を理解することは未来永劫叶わないだろう。
だから『俺がどうこう出来る問題』ではなく、『手を握る』ことしか出来ないのだ。
『美琴自身の問題』なのだから、外野が出来ることと言えば、応援し、支え、励ますことぐらいしかない。
そして、この『美琴自身の問題』を白井の口から聞くのは、あまりにも無神経で野暮な話というものだ。

俺は、白井に言われた通り、美琴の手を握る。
少し冷えた美琴の手を暖めるようにしっかりと。
そして、苦悶に満ちた美琴の顔を、優しく愛でるように撫でる。

少しだけ美琴の表情が和らいだ気がした。
それを見て、俺の心のわだかまりは一気に氷解した。

後は時の流れに身を任せるしかないのだ。
いや、時の流れに身を任せておけばいいんだ。

丁度、月の満ち欠けのように。
丁度、潮の満ち引きのように。

時間が全てを解決してくれるから。

そして、その時が来るまで、俺は美琴の手を握り、支えようと思う。
そして、その時が来たなら、俺は目一杯愛して、愛されようと思う。










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