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糸魚川の戦い - (2009/07/11 (土) 03:08:38) の編集履歴(バックアップ)


糸魚川の戦い

糸魚川の戦い(いといがわのたたかい)とは永禄11年から永禄12年の冬にかけて姉小路家と上杉家の間の起きた戦いである。

参加兵力及び戦力評価

姉小路家
(永禄11年11月10日)
富山城兵
第一弾幕隊:鉄砲隊12500:柴田勝家小島職鎮鈴木重兼
第二弾幕隊:鉄砲隊15500:伊吹萃香黒田孝高鵜殿長持
先陣本隊:騎馬隊13377:朝倉宗滴朝倉景紀朝倉義景
火力本隊:鉄砲隊9500:鈴木重秀アリス・マーガトロイド真柄直隆
第三弾幕隊:鉄砲隊9000:磯野員昌レティ・ホワイトロック鈴木重泰
第四弾幕隊:鉄砲隊4453:本願寺顕如鈴木重意原長頼

(11月15日)
築城隊:6500:海北綱親

(永禄12年1月15日)
援軍弾幕隊:鉄砲隊8500:佐々成政百々安信天野景貫

(1月20日)
後詰本隊:騎馬隊6000:浅井長政八雲藍紅美鈴
後詰弾幕隊:鉄砲隊9500:十六夜咲夜レミリア・スカーレット朝倉景鏡

最終投入兵力88327


上杉家
春日山城兵 留守居厄:最上義光(計略担当)
迎撃隊(12月10日)
上杉景勝四季映姫・ヤマザナドゥ富田氏実:騎馬隊14500
柿崎景家斎藤朝信:騎馬隊9500
村上義清:騎馬隊9500
本庄繁長:騎馬隊8000
水原親憲中条藤資:騎馬隊8000

(1月20日)
延沢満延:騎馬隊6500

2月10日
上杉景勝:騎馬隊6500
新発田重家四季映姫・ヤマザナドゥ:騎馬隊6500

最終投入兵力69000

姉小路家として初めての対上杉攻勢作戦である。第三次越中防衛戦の勝利により上杉方の兵力を損耗せしめた姉小路にとって待ちに待った好機の到来と言えよう。北陸の主立った将達が一同に会し、士気旺盛である。
越中富山城・越後春日山城の距離が長いため、野戦となることは必至。上杉の騎馬隊は武田騎馬軍と並び称されるほどの精兵揃いである。
数度に渡る防衛戦はなんなくこなしたものの、攻勢作戦は困難となることが予想される。

合戦までの経緯


富山城を巡る合戦は、上杉家の一方的な敗北に終わった
しかし、大被害ではあったものの素早い撤退により致命的打撃を免れ、春日山城にはそれなり以上の兵力を備えていた
これまで越中の姉小路は越後の地に侵入してくることなかった為、上杉は東北を制圧した後に、完全編成で再び越中を狙えばいいと考えていた
しかし、姉小路はこの予測を裏切り、厳寒の時期に出撃を開始した

概要

 春日山城は上杉にとって本拠であると同時に、何よりも重要な経済拠点であった。
頸城平野に広がる春日山の城下町は、元関東管領、上杉憲政が暮らす府中の町と合わせ戸数一万軒、人口七万を有しており、日本海側屈指の大都市であった。 隣接する直江津湊からは京へ名産の麻を送るなどし、貿易の拠点でもあり、佐渡島で産出される金山の集積地点でもあった。
 最も経済的に豊かであったのは春日山の東方、魚沼郡あたりであったが、西方からの侵略者に対しての、春日山の重要性に変わりはなかった。
度重なる越中への進撃で、上杉軍はその戦力を大きくそぎ取られていたが、一連の越中戦に比べて、優位な点が数多く存在していた。
 まず、春日山の地が上杉にとって本拠であったということ。そして多くの将が春日山の重要点を何よりも理解していたということだ。
その結果、上杉景勝という上杉家次代跡継ぎを中心とした、固い結束が生まれた。
 揚北衆、本庄繁長も、春日山を失えば、自らの本拠である阿賀野川周辺の本拠が危機に陥ることを何よりも理解しており、反旗を翻すそぶりすらみせなかった。
特筆すべきは村上義清だろう。
 経緯は省略するが、信玄によって奪われた国土の奪還を彼は何よりも重視していた。元本拠、北信濃の葛尾城への道は春日山と直結しており、春日山を失うことは彼にとって何よりも避けたいことであった。このことから村上の今回の戦にかける意気込みは凄まじいものであったという。

 姉小路軍にも不利な材料はあった。豪雪の中を急行軍で進撃しており、士気の低下、凍傷などによる戦闘力の低下。そして何よりも主力の鉄砲の信頼性の低下があった。
 豪雪と悪路の影響は、補給部隊にも多大な影響をもたらした。山口館の戦いで得た教訓も、わずか半年の準備期間では解決は不可能であった。
このように、姉小路側も大きな不安要素を抱えての戦であった。

解決策として、越後国境に新規の城を築く一方、姉小路軍は現地にて、上杉軍が蓄えていた物資の開始に動いた。
越中攻防戦のおり、上杉家は春日山西方の城、砦に食料をかなり多く備蓄しており、それらは取り残されたままであった。
 これは受けた損害を回復した後、再度越中を狙おうとしていたためと思われる。
これを油断と言ってしまえばその通りではあるが、裏を返せばそれだけ越後の冬が厳しく、その時期の侵略は常軌を逸しているのだといえるだろう。
(皮肉にも謙信の父、長尾為信は1521年の12月に越中侵略を行っているが…)
少なくとも残された食料は姉小路側の兵站事情を少なからず助けることになった。しかし冬そのものの脅威が去ったわけではなかった。

 上杉景勝以下の強力な騎馬部隊が出撃したのは12月10日。冬がいよいよ深まってくる時期であった。
姉小路主力はこれを確認すると、可能な限り引きつけて 撃滅する為、一時西への撤退を開始、上杉もこれを追撃する様子を見せた。
 しかし、積雪の為か朝倉宗滴隊に対する伝令が遅延し、取り残される形になってしまった。
当然ながら、上杉騎馬隊は宗滴隊に次々と襲いかかり始めた。
ここへ来て宗滴は後退は困難と判断し、突出した上杉軍の小部隊を漸減しつつ、堪え忍ぶ道を選んだ。
 一方、後退していた弾幕隊は、宗滴救援の為、各自が次々と反転、再度越後への侵入を開始した。
歴戦の猛者、柴田勝家は鈴木重家、黒田孝高、本願寺顕如といった若き将の助力を得ながらも部隊を再突入させていった。
 しかし、姉小路鉄砲隊の中核をなしていた鈴木重家隊は突如反転し、魚津へと向かった。後続部隊との合流を図った説。最上義光など上杉方の謀略説など様々な説があるが、真相は謎である。
 鈴木重家隊が後退した結果、宗滴の救援に駆けつけられるのは柴田、黒田、そして顕如隊の3隊となった。しかしこれらはいずれも鉄砲を主体とした部隊であり、騎馬隊相手に正面から殴り合うには策が必要であった。
特に気候が氷点下に至る極寒状況では流石の明智筒も安定性が低下し、騎馬隊への打撃力が低下していた。
まず、上杉の暴風のような攻撃によって本願寺隊が崩壊。顕如が捕らえられるほどの大敗北であった。
 同様の攻撃に曝された柴田隊も瞬く間にその戦力をすり減らし、壊滅の危機に瀕した。
しかし、この部隊は奇跡的に撤退に成功する。
機動力に劣る鉄砲隊、それも多数の負傷者を抱えた状況にも関わらず、撤退が成功した理由には磯野隊による支援射撃、そして柴田勝家の巧みな戦術判断によるたまものであった。
 しかし、その中で柴田はたった1つ大きなミスを犯した。それは自らの後退を隣で陣を敷いていた黒田隊に知らせ損ねたことである。
 柴田が意図的に知らせなかったのはまずありえないであろうから、恐らくは上杉方の謀略であろう。
 左翼の空白に突撃したのは柿崎景家であった。猛勇で知られる彼は、受ける損害を度外視し、姉小路の前線部隊と後方支援部隊の狭間に滑り込み、前線部隊を背後から襲撃した。
 黒田隊にとってこれは由々しき事態となった。ただでさえ柴田隊が後退したことによって前面の担当する防御範囲が広がっており、火力の集中が不可能になっていたのに加えて、安全なはずの背後からも攻撃を受けることになったのだ。
これを機と見計らったのか、斉藤隊、村上隊などの上杉の将が一気に黒田隊を押しつぶそうと果敢に攻め寄せた。
黒田はこれを雪壕による仮設陣と限定的な火力集中、そして伊吹萃香を中心とした一部の精鋭隊による襲撃を駆使し、退路が確保されるまでの時間稼ぎを図った。
しかし、上杉方がその時間稼ぎに感づき、損害を顧みず黒田隊への攻撃の手を緩めなかったのが災いした。
 後方の磯野隊、そして再配置をすませた柴田隊は懸命に柿崎隊の排除を試みたが、その排除を待つべくもなく、黒田隊は崩壊。
黒田は負傷した伊吹萃香と共にわずかな護衛を引き連れ富山へと退いた。
それとほぼ同時に柿崎隊も壊滅。これによって柿崎隊がそのまま朝倉隊の背面を襲撃、前線の完全崩壊だけは免れた。
これは黒田と伊吹の両名(とついでに鵜殿)の戦線離脱を大いに助けた。何よりも黒田隊を崩壊させた斉藤、柿崎、村上隊が宗滴隊に殺到したのが3人の命を救った。
 前線が崩壊すれば後方の親不知、子不知が出口を塞ぐ袋の口と化し、おびただしい損害を出すことは必定であった。
このとき、姉小路軍数万の命運は宗滴の双肩にかかっていたと言っても過言ではないだろう。
朝倉隊はこのとき、上杉景勝隊、中条藤資隊と連戦し、さらに側面から水原隊からの攻撃に曝される非常に厳しい状況にあった。






この戦いの影響



逸話

この合戦は姉小路良頼にすら事後報告しか行われていない。現場の判断で行われた合戦である。
北方軍の軍団長にはそれだけ大きな権限が与えられていた。これは、姉小路家の領地が広大で
あることもさることながら、冬季の越中の交通の便が悪いことからの配慮である。
そのような電撃戦であるにも関わらず、各地から越中への物資の補給は円滑であった。
これは姉小路家の奉行衆が量的質的共に優秀である事の証左であろう。
姉小路家が各地で電撃作戦を行う事ができたのは、前線基地への円滑な物資の補給が
あってこそである。

この合戦は現場の独断ではあるが、一部の将には予想の範囲内であったようだ。
第三次越中防衛戦が終了した折、姉小路領内の御用商人や諸将から越中に戦勝祝いの品が届けられた。
多くは宗滴が文化人であることから、茶器などの美術品や名刀古刀であった。
姉小路良頼からは褒賞の石見銀や生野銀、飛騨金などが送られたようである。
そんな中、竹中重治は2000着もの木綿の陣羽織を送った。これは越後侵攻が近いことを察した
竹中重治が寒さの厳しい遠征になることを予想して防寒具を送ったのだと言われている。
明智家からは500帖もの油紙が贈られている。これは、河川や海の付近を移動する際、
水に弱い鉄砲弾薬を保護するための必需品である。この合戦の行われた糸魚川では雪が多く、
移動の際も海や川が多かったので重宝したといわれている。
その他、羽柴秀吉の提案で材美濃の諸将からは寒冷地で暖をとるための良質の飛騨木炭、
それとは別に美濃衆を代表して斉藤義龍から防寒対策の美濃和紙が贈られた。