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ハラキリサイクル(上) 忍法・戯言破り

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ハラキリサイクル(上) 忍法・戯言破り ◆LxH6hCs9JU



 【0】


 愛する者は死に候らった。



 ◇ ◇ ◇



 【1】


 たとえばここが法律も倫理もへったくれもないサバンナのど真ん中だとして、罪というものの意味は如何ほどに残るか。
 弱肉強食という環境はたしかに存在する。弱い奴の肉は強い奴に食われるというだけの、わかりやすい環境。
 絶対ではあるけれど絶無ではない。ゆえに強い奴の肉が弱い奴に食われることだって、ないとは言い切れないのだ。

 ここはそんな場所なのだろう。人が人を殺しても許される環境、あるいは人が人を殺さなければ保てない環境。
 環境に罪を問うことは無意味だ。その環境に順応している人間に罪を問うことも、等しく無意味だ。
 さて、ぼくらはこの環境に順応しているのか、抗っているのか。肯定と否定の狭間を、ひたすら行ったり来たり。

 気持ちでは抗っているけれど、受け入れる覚悟はいつでもできている――そんな曖昧な順応の仕方を取っている人間が、大多数だろう。
 この場合、自覚無自覚は関係ない。どちらにしたって死は止められないし、無干渉でもいられないから。
 そういう意味での、《絶対》。環境に抗うと豪語してみせるには、それこそ新しく、オリジナルの環境を作れる《力》でもないと。

 まあこんな戯言、他称止まりの神様には無意味以下の――やっぱり、戯言なんだろうけど。

「…………ひくっ」

 すすり泣く声が、耳の端から入ってくる。
 夜も明けたというのに、聞こえてくる音はすずめのさえずりでもなくこれだ。
 そういえばここって、《参加者》以外の動物は存在しているのだろうか? 野良猫とか野良ねずみとか。

「…………っ」

 すすり泣く声とは別にもう一つ、押し黙る音も聞こえてくる。
 人間が声を抑えたとて、音を消し切ることは不可能だ。どんなに小さくとも、呼吸には音を伴うものだから。
 生きている限りは無音なんてありえない。意識的に静かにしようとしている分、さっきから鼻息の音が聞こえっぱなしだ。

「…………」

 ぼくはすすり泣きもしなければ、押し黙りもしない。
 存在感を薄れさせるという意味での、無音。
 この空間において言えば、ぼくが一番静かだった。
 他の二人とは境遇が違うからこそ、一番でいられた。

 つい先ほど《放送》が始まって、すぐに終わった。
 感想は特にないけれど、事実は確かめることができた。受け入れてもいる。受け入れられる放送だった。

 でも。

 ハルヒちゃんと朧ちゃんにとっては、それは受け入れがたく――《慟哭》と《沈黙》に、反応は分かれた。
 どちらがどちら、というのは言うまでもない。反応はあくまでもそれぞれであって、そこには優劣もなく。
 関係の深さだって、耳にした情報程度しか所有しない第三者のぼくでは、わかりえない。

長門有希》と《甲賀弦之介》は、どちらにしたって二人の大切な人、ということだけを押さえている。

 その喪失は泣くほどのものか、声を失うほどのものか。尋ねる気にもなれないし、口を挟む気すら起きない。
 ただ……あまり長いことこうしているのは。女の子たちの悲痛な表情をただただ眺めているのは、趣味じゃないや。
 かなうことなら慰めてあげたいというのが心情だけれど、はたしてぼく程度で役者が務まるかどうか。
 ハルヒちゃんのほうは気むずし屋だし、朧ちゃんは纏う悲壮感が尋常でないほどに深刻だし、
 火に油を注ぐだけの結果になるとも限らない。いやこの場合は、決壊寸前のダムに津波をぶち込むようなものか。

「……ふぅ」

 ぼくはわざとらしく、この状況に疲れてしまっていることをアピールするようにため息をついた。
 鬱蒼とした気分をリフレッシュしよう。視線を転じて、ぼくらが身を置くこの部屋を眺め回してみる。
 北西の位置に天守閣を置くこの付近一帯は、土塀が大多数を占める迷路のような区画だ。
 その割にはホールなんてものがあったりするけれど、まあ民家なんて気の利いた休息所は見つかりにくい。
 とはいえ知人を失った女の子二人、道端で泣かれ沈黙されても困る。
 そんなぼくたちが見つけたのは、この《納屋》だった。

 いや、正しくは納屋というより倉、か?
 本来は農村や漁村にあって然るべきものなんだけれど、平たく言ってしまえば用途は物置なんだし、ぼく的なイメージは納屋だ。
 桑や米俵、壷に入った塩、壁際には鉄製の拘束具みたいなものまで置かれていたが、ひょっとしたら拷問部屋だったりもするのだろうか。
 こんな陰気な場所、早々誰かに見つかるってこともないだろうけど……あまり長居はしたくないな。

 長居をする理由だって、本当はないはずなんだ。
 なら、どうしてぼくはここにいる。
 どうしてここに、居続けようとする。
 なにがぼくを、この場に繋ぎ止める――?

 しばらく手元の時計だけを眺めていると、朧ちゃんがゆっくりと立ち上がった。
 顔を俯かせた危なっかしい体勢で歩き出し、ぼくの横を通り過ぎる。
 ぼくやハルヒちゃんが《どこに行くのか》と問いかけるよりも先に、

「しばし一人に……してください」

 と言って、朧ちゃんは納屋を出て行ってしまう。
 なにも言うことができなかった。なにを言ったところで彼女は止まるまいと、そう思えた。

 それにしても、《しばし一人にしてください》か。
 しばしっていうくらいだから、ここへも戻ってくる意思があるんだろうけど。
 戻ってきたところで、コンディションが回復しているかどうかは定かじゃないわけだ。
 一人になることについて、いろいろ不安や懸念はある。
 でも今は精神面の回復を優先するべきだろうから、本人の意思は尊重させたほうがいいに違いない。

 少なくとも、ぼくが朧ちゃんに踏み込めるのはここまでだ。

 では、ハルヒちゃんはどうだろう?
 涼宮ハルヒ。自称神ではなく他称神。古泉一樹が言ったとおりの神っぽい力を持つ女の子。
 今回死んだのは、そのハルヒちゃんの友達。SOS団の団員、長門有希。それはもう、身内中の身内だ。
 自分の精神を保つのにいっぱいいっぱいで、他人にまで気を配っていられないというのが妥当なところだろうか。
 朧ちゃんが出て行っても、ハルヒちゃんはなにも言わなかった。あのハルヒちゃんがだ。

 これを一樹君が見たらどう思うだろうか。彼の望む方向性と比べて、差異はどれほどにあるというのか。
 少なくとも、現在の環境がなに一つ変化していないことを鑑みれば、《まだ足りない》ということなのだろう。
 だとしたらどれくらい足りないのか。ぼくってやつは、二人きりになったところでそんなことばかり考えてしまう。

 本当に、ろくでもない。
 けどここで思考をやめるのは、もっとろくでもない。
 ヒトデナシよりはロクデナシを選ぶさ。少なくとも、こういった環境では。

 だから考えようか。

 長門有希だけで足りなかったというのなら、誰なら足る?
 キョン、みくるちゃん、古泉君、朝倉――誰がなにをどれだけ与える?
 不足分を埋めるための式は、今のハルヒちゃんの様子にこそ表れているんじゃないか?

 と、

「戯言だな」

 ぼくは言った。そしてもう一つ、言う。

「――有希ちゃんは、誰に殺されたんだろうね」

 体育座りで塞ぎこんでいたハルヒちゃんが、じとりとぼくの顔を見やった。
 今まで目も合わせようとしなかったのに、急に睨んできたのだ。
 そりゃ、そうなるだろうけど。

「……有希が、誰かに殺されたっていうの?」
「そりゃそうだろう。ここで自然死や事故死なんてのはありえない。さっきの十人の死因は、他殺一本で縛れるよ」
「自殺って線もあるでしょ。それに、事故死だってないとは言い切れないじゃない。交通事故なんかはないにしても、転落死とかさ」

 ごもっともで。それに気づけるくらいには冷静なようだ。
 それでいて、有希ちゃんが誰かに殺されたという事実を否定したいという気持ちも、わずかながらにある。

「これはちょっとした疑問なんだけどさ、有希ちゃんは誰かに恨まれてたりとか……もしくは、恨まれるような性格だったりするのかな?」
「はぁ?」

 カエルを押し潰したような表情で、ハルヒちゃんはぼく睨んだ。ここまでくると、せっかくの美少女が台無しだ。

「馬鹿なこと言わないで。有希は我がSOS団が誇る優秀な団員よ。恨みとか、殺されるとか、そんなわけ……あるはず、ないじゃない」

 ハルヒちゃんは過去形にしなかった。
 語調が徐々に弱まっていったのは、別に思い当たる節があったからではないのだろう。
 認めたくないから。どこかでまだ、信じ切れていないから。だから言葉にするのに抵抗を感じる。

 でもだとしたら、それはおかしな話なんだよハルヒちゃん。
 なにせきみが望むなら、長門有希は死んでいないと――そう断ずることだってできるはずなんだから。

 絶無ではないが絶対ではあるこの環境において、涼宮ハルヒの《力》は如何ほどに意味を残すのか。
 ぼくは今、見極められる境遇に、立っているのかもしれない。

「あー……もう!」

 ハルヒちゃんは唐突に声を張り上げ、そして立ち上がった。

「なんでそう、暗い話をしなくちゃならないのよ。なに? あんた、さっきの放送に不満でもあるわけ?」
「不満というよりは疑問かな。どうにもぼくには、あの人類最悪の言っていることが疑わしくてね。《世界の端》の件も含めて」
「あいつが嘘をついているとでも言うわけ? 有希や、朧ちゃんの言う《弦之介様》は、実は死んでいないとでも?」
「そこまでは言わないけどね。ただぼくたちには、《信じない》という選択肢もたしかにあるっていう話だよ」

 そう――信じられない、信じたくない、そう思うなら信じなければいいだけなんだ。
 一樹君はハルヒちゃんのことを、妄想癖の強いメンヘラ少女みたいに言っていたけれど、とんでもない。
 この娘は人並み程度には現実を見ているよ。与えられた事実を真っ向から否定してみせるほどの子供っぽさは、ない。

 認めたくなんてないのに、認めてしまっている。
 無知ではいられない大人としての性質。ハルヒちゃんの場合は、無自覚か。
 それははたして、《無為式》と呼ばれたぼくとどっちがマシなんだろうな――なんて、これこそ戯言。

「とにかくね、いー。あんたが考えているような怨恨の線、あるわけがないのよ。
 ここはミステリー小説の世界でも、二時間ドラマの世界でもないんだから。そんなのに意味なんてないの。
 恨みとかなくたって、人が人を殺す理由はちゃんとある。有希だって、そんな傲慢な考えの人間に襲われて――」

 ああ、この娘は本当に聡明なんだな。無自覚なのではなく、能ある鷹が爪を隠している可能性もありうるのか。
 人が人を殺す理由。サバンナで強者が弱者の肉を食らうのと同じ真理。それがあたりまえとなっている環境。
 あるいは、あたりまえとしてしまっているのはこのぼくたちなのか。どちらにしたって、ミステリーは不成立。

《この鹿の肉はどの群れのライオンに食べられたのか》なんて謎、解く意味もなければ興味をそそるテーマでもない。
 ただこの場には、骨となった鹿と同じ群れに属していた《神》がいる。
 神は鹿をどう悼むのか、鹿を食べたライオンをどう処罰するのか、答えはここに、諦観という形で出てしまっている。

 ぼくが言うのもなんだけれど。
 本当に、ぼくなんかには相応しくもない言葉だと思うけれど。
 ハルヒちゃん。
 きみって――案外、薄情な奴なんだね。

「――なんにしても、ね。あたしは立ち止まるつもりなんてないわよ。止まったって意味なんてないもの。
 あんたもいつまでも俯いていないで、自分の足で立ちなさい。階段なんて三段飛ばしで駆け上がる気構えよ!」

 ぼくの脚はそんなに長くない。
 しかし、呆れるくらいにわかりやすい空元気だ。
 これは他人に弱味を見せまいとしているからだろう。ぼくがいなければ反応も変わったのかもしれない。
 友達の死に泣き崩れる涼宮ハルヒ――想像できないってほどでもない。根は少女だからね、この娘も。

「はいはい……で、その立ち止まらない足で、きみはどこに向かうのさ? 有希ちゃんを殺した犯人でも捕まえにいくのかい?」

 ぼくがそう言うと、ハルヒちゃんはあからさまに不機嫌そうな顔を作った。
 鋭く尖った嫌悪感が、むしろ清々しい。素が美人だから、睨まれるのもそう悪くない。

「……あんた、そういう種の冗談を平気で口にする人間なわけ?」
「冗談はあまり言わないな」

 戯言は言うけど。

「あいにくだけど、あたしはあんたが思い描いているような人間に納まる気はないの。
 それともなに、あたしがあんたの前でシクシク悲しんでいたとして、あわよくばそれを慰め取り入ろうっていう魂胆?
 だとしたらとんだ悪趣味ね。軽蔑に値するわ。というか、これ以上あたしを怒らせないで」

 残念、ぼくは慰めるより慰められるほうが好きなんだ。
 怒られるのも実は嫌いじゃない。もちろん相手は選ぶけどね。

「じゃあさ、ハルヒちゃん。きみは有希ちゃんを殺した犯人を――許せる、そう言うのか?」

 これは突き刺さる怒気の針を、抜き取るための所作。
 ぼくの質問に対して、ハルヒちゃんは怒ることをやめる。
 怒ることをやめて、それで別の感情が表に競り上がってきたわけでも、ない。
 その瞬間、《涼宮ハルヒの感情》という世界は静止したのだ。

 友人を殺した人間について考えないこと――それはとても勇気ある行いだと、ぼくは思う。
 感情を抑制して、きっちりと物事の分別をはかれているということだから。
 決して悲しんでいないというわけでも、恨みを抱いていないというわけでもない。
 ただ単に、我慢しているだけ。自分を保つために必要な、ハルヒちゃんなりの我慢なんだ。

 ぼくは、その奥底が知りたい。
 無自覚を責める気はないが、少しは自覚してもらわないと困るんだ。
 だからぼくは――きみに期待する。

 数秒の静止の後、ハルヒちゃんは乱暴に髪を掻き毟ってから、億劫そうにぼくを見た。
 怒気はやはり消えている。代わりに凍てついた、蔑みの色が瞳に宿っていた。

「あんたがこんなにも話しててつまらない男だとは、思わなかった」

 そりゃまた随分と買いかぶられていたものだ。
 ハルヒちゃんはぼくに対しての興味をなくしてしまったのか、気だるそうに納屋の出入り口へと進む。

「どこに行くのさ」
「朧ちゃんを迎えに行くのよ」
「迎えに行ってどうする。慰めでもするのか?」
「うっさい」

 見事に一蹴されて、ぼくは彼女の後ろ姿を見送る。
 これ以上突っかかろうものなら、肉体的な制裁が飛んできそうだった。

 出入り口は引き戸になっている。
 立て付けが悪いのか、戸はハルヒちゃんの我武者羅な力加減にガタガタと揺れ、悪戦苦闘の果て豪快に開け放たれる。
 どこぞの誰かさんみたいに、《開かない扉は蹴破ってしまえ》と考えないのがまた、彼女の比較的まともな部分だ。
 いや、内心は考えていて、ただそれを実行に移さなかっただけなのかもしれないが。

 さて、それはそれとして戸は開けられたわけだ。
 戸の先には当然、外の光景――朝を迎えた明るい世界が広がっている。
 その世界に、朧ちゃんは颯爽と君臨していた。
 両手に刀を握り、これを上段に構えて。

「――えっ?」

 声を漏らしたのはハルヒちゃんだった。彼女もまさか、納屋を出たすぐそこに朧ちゃんが立っているとは思わなかったのだろう。
 一人にして欲しい。ぼくたちにそう言ったのは朧ちゃんで、それを無言で承諾したのはぼくとハルヒちゃんだ。
 一人で出て行った後なにをするつもりなのか。問いも考えもしなかったのも、ハルヒちゃんなのだ。

 ――剣先は真上よりも少しだけ後ろに傾いていて、前ではなく天を突くように。
 ――柄を握る両の拳は額よりもやや上の位置、腕が目線に被らない程度に。
 ――このスタイルは獣の威嚇にも似ている。自らの体を大きく見せようというあれだ。
 ――剣道家の目からはどうだか知らないが、素人の目からすれば見事な上段の構え。

 涼宮ハルヒが驚愕している。
 朧ちゃんが、刀を上段に構えていたから。
 振り下ろしたら刃が触れる距離に、自分が立っていたから。
 朧ちゃんの顔からは涙が消えていて、表情は涙ごと凍っていたから。

「ハルヒちゃん!」

 叫んだのは、ぼくだった。
 座っていた状態から一気に体を持ち上げ、戸の前に立つハルヒちゃんのもとへと一歩二歩、三歩四歩五歩、六歩。
 硬直したまま反応が遅れている体を抱え込み、ハルヒちゃんごと全身を翻す。
 必然、朧ちゃんにはぼくの背を向ける形になった。

 ハルヒちゃんの正面を捉えていた凶刃は、そのままゆったりと振り下ろされ――ぼくの背中を狙う。
 決して速くなどない、しかしまっすぐで正確な振り下ろし。それが背中に、来た。

「――あっ、ぐ」

 衣服が裂ける音。
 ちくしょう、斬られた。
 痛覚よりも先に音で知ることができた。
 ぼくに訪れる、その場に倒れてしまいたい衝動。
 腕の中のハルヒちゃんだけは巻き込まないようにと、あえて仰向けになりながら倒れた。

 ぼくが倒れて、ハルヒちゃんが立ったまま、朧ちゃんは刀を振り下ろし終えていた。
 わざわざ仰向けに倒れたせいで背中を打ってしまったけれど、おかげでそんな最悪の状況を見渡すことができる。
 幸いにも、朧ちゃんに第二撃目を放つ様子はない。斬ったぼくと、斬りそこなったハルヒちゃんを、交互に見比べている。

「……なに、やってんのよ」

 そんな中で、ハルヒちゃんは声を絞り上げた。

「なにやってんのよ、あんた」

 先ほどまでぼくに向けていた蔑みの眼差しを、そっくりそのまま朧ちゃんに対して転用する。
 眼力に宿っているのは、否定と拒絶と決別の意思。
 よりにもよって、《あの》涼宮ハルヒに対して。
 朧ちゃん――きみはやっちゃいけないことをやってしまったんだ。

「どうして……どうしてこんなこと――!」

 ハルヒちゃんが叫び切るよりも先に、朧ちゃんは脱兎のごとく逃げ出した。不意打ちが失敗しての判断だろう。
 斬られたぼくが言うのもなんだが朧ちゃんの太刀筋は素人のそれだったし、ハルヒちゃんには殺傷能力抜群のクロスボウがある。
 正面切手の殺し合いは不利。ハルヒちゃんの決意やら覚悟やら腕前やらはどうあれ、朧ちゃんはそう判断したに違いない。

「なんだってのよ……っ」

 ギリッという音が聞こえた。ハルヒちゃんの歯軋りだ。
 悔しそうに、心底悔しそうな表情を浮かべて、朧ちゃんの後背を見つめる。

「追わないの?」

 なにげなく、ぼくは訊いてみた。

「怪我人放っておくわけにもいかないでしょ」

 さも当然と言わんばかりに即答して、ハルヒちゃんはぼくのほうを見やる。
 ああ、そうか。ぼくが斬られたから。心配で追いたくても追えないってわけか。
 うん、やっぱり冷静じゃないかハルヒちゃん。それでいて見事にツンデレだ。

「こんなつまんない男の怪我、放っておいてくれていいのに」
「つまんないこと根に持たないでよ」
「つまんない男ですから」

 殴られた。

「とにかく傷口見せて。荷物の中に包帯やらなんやらがあったはずだから、応急手当くらいなら今ここで……」
「それよりもさ、ハルヒちゃん。さっきの質問、もう一度繰り返させてもらっていいかな?」

 強引に。
 ハルヒちゃんの優しさを振り払って、訊き直す。

「今度は《有希ちゃんを》とは言わない。きみは――人を殺す人を、許せるのかい?」

 そして、また。
 またまた、《涼宮ハルヒの感情》という世界は止まってしまう。

 問い――おまえは人殺しを許せるか?

 ある者にとっては、戯言中の戯言。
 人殺者の是非を問う愚かしさ。
 傑作と笑い飛ばされそうな、ばかばかしさ。
 それでも、涼宮ハルヒを止めるスイッチにはなってしまう。
 停止のスイッチと再動のスイッチは同じ。
 スタートもストップもリスタートも、これ一つで賄える。

 ハルヒちゃんは数秒、迷う仕草をして、今度こそはぐらかさずに答えるのだろう。

「――許せるわけないじゃない」

 言った。
 言い切った。
 言い切りやがったよ。

 まったく。
 なんていうおひとよし。
 ぼくはなんていうろくでなし。
 薄情だなんてとんでもない、前言は撤回だ。

 一樹君から崇められる無自覚神様、涼宮ハルヒ。
 神であるよりもまず、SOS団団長であることを自覚する少女。
 その心根は純真すぎるほどに――友達想いだ。

「あたしはね、いー。SOS団の団長なのよ。団長が団員の心配をするのは当然ってものでしょう?」

 これは体裁。

「だからこそみくるちゃんや古泉君やキョンのことが心配だし、有希を殺した奴は絶対に許せない」

 これは表面。

「どんな理由があったってね……人を殺す奴は最低よ。ちゃんとした法の下で裁かれるべきだわ」

 これは内面。

「けどここに法の裁きは適用されない。裁くべきか裁かざるべきか、裁くべきだとしたら――」
「あたしが裁く」

 これが奥底。

「有希を殺した奴とは、いずれケリをつけてやるわ。それが、あたしの務めだから」

 強い意志。
 屈強な精神。
 粋な団長意識。
 並外れた行動力。

 わがままで、傲岸不遜で、夢見がちだったとしても。
 きみはどうしようもないくらいに人間だ。素晴らしい種の人間だ。
 ぼくみたいな欠陥製品と並べたら、ほら――こんなにも輝かしい。

「いずれっていうことは、《まず目先から》っていうことと取って構わないのかな?」
「もちろん、朧ちゃんだってこのままにしちゃおけない。無理やりにでもあんたの前に引っ張ってきて、謝罪させてやるわよ」

 ハルヒちゃんにとって、SOS団の仲間たちは大きすぎる存在なのだ。
 かといって目の前のことを蔑ろにしてしまうほど、彼女は盲目でもない。

「《弦之介様》を探してあげるっていう約束は、もう果たせないけど。そこでぷっつり縁が切れるだなんて、あたしは認めないわよ」
「……ハルヒちゃんは、どうして朧ちゃんがぼくたちを襲ったのかわかるかい?」

 流れは動機の話へ。
 少なくとも、朧ちゃんとのファーストコンタクトは誰の目から見ても穏便に経過したはずだった。
 それがなぜ、今になって。いや、今になったからこそなんだろうけど、ハルヒちゃんはそれをわかっているのだろうか。

「……そんなの、わかんないわよ」

 それは、わかっているのにはぐらかしているのか。わかれるはずなのにわかろうとしないのか。
 はたまたわかってはいるけれど理解はできないから言葉という形で認めてしまえないのか。
 まあ、有希ちゃん殺しの件について《復讐》やら《仇討ち》やら《野郎、ぶっ殺してやる》やらの単語が出ないところを見ると、本当にわからないのかもしれないが。

「いー。あんたにはわかるっての?」
「わかるさ。わかりたくなくてもわかっちまう」

 ぼくは言った。

「朧ちゃんはね、ただ単に八つ当たりしたいだけなんだよ」

 ハルヒちゃんがきょとんとする。
 今度はカエル顔ではない。小首を傾げるという、いかにもな美少女のポーズできょとんとしている。

「弦之介様が逝ってしまわれた。とても悲しい。どうして弦之介様は死なれたのか。どうしてこいつらは生きているのか。
 ああ忌々しい。弦之介様ではなくこいつらが死ねばよかったのに。忌々しい、忌々しい、忌々しい忌々しい――ってね」
「なにが《ってね》よ。朧ちゃんがそんな短絡的思考に陥るばかだっていうの? あんたの妄想でしかないじゃない」
「短絡的思考に陥るんだよ。あれだけ慕っていた人を亡くしたんだからね、そりゃそうさ」

《弦之介様》のことを語る朧ちゃんの様子は、それはそれは楽しそうだった。
 語るのは美点ばかり。伴う表情は笑顔ばかり。そこに恨みや妬みがあろうはずもない。
 誇らしげに、まるで恋する乙女のように、男を語る女――ったく、なんて戯言だよ。

 鈍感なぼくにだってわかるぞ。
 朧ちゃんは、《弦之介様》が好きだったんだ。
 そしてその想い人は、死んだ。
 意味なんて一つじゃないか。

「でも、だからって……それであたしたちを、襲う?」

 ハルヒちゃんは確かめるように訊いてくる。
 この娘、やっぱりわかってるな。考えてみれば、ぼくにわかってハルヒちゃんにわからない道理もないか。

「襲うね。少なくとも、ぼくだったら襲う。朧ちゃんにとって、《弦之介様》との再会は最重要課題だったんだ。
 それが果たせなくなったとしたら、もうどうでもよくなる。一以外の数字は目にも入らない。てっぺんしか見えていない。
 朧ちゃんはさ、最初からぼくたちを殺す覚悟があったんだと思うよ。弦之介様を生かすためなら、それくらいやってのけた。
 でももうその行為に意味はなくなってしまった。だからといってやらないとは言い切れない。もう朧ちゃんは、正常じゃないから」

 あの人の名前が呼ばれたら、きっときみは、ぼくたちを裏切るのだろう――。
 間違っちゃいなかった。予想どおりではあった。けどその裏切りは安易すぎた。

 優先順位の頂上が脆くも崩れ落ちる。
 人は次点の目標に意義を見出せるだろうか? 答えは否だ。
 最優先に置かれるからにはそれ相応の意味がある。他じゃ賄えない絶対の意味が。

 誰だって、大概はそうだろうさ。ぼくだって同じ。
 朧ちゃんとぼくの境遇を重ねてみたら、はっ、重ねるまでもない。
 ハルヒちゃん。ひょっとしたら、きみに斬りかかっていたのは――ぼくかもしれなかったんだよ。

「じゃあ朧ちゃんは、これから先……ここで、なにを――やるつもりだと思うのよ?」
「さあ?」

 さて。
 朧ちゃんは逃げた。
 逃げた先で、いったいなにをするのだろう。
 ぼくたちに対して反撃の機会を窺うか、別の標的を探すのか。
 まだ生きているかもわからない甲賀弦之介の仇を探してさまよい歩くのか。

 どう転んだって、ろくでもないことになるんだろうな。
 環境に支配されるならともかく、怨恨絡みの殺意なんて本当にろくでもないよ。
 そんなろくでもないことに付き合ってやる義理はないんだけど、ないんだけどさ。

「ぼくにはわからないよ。けどハルヒちゃん。きみは《さあ?》で終わらせるつもりでも、ないんだろう?」
「あたりまえでしょ。前言を撤回するつもりはないわ。朧ちゃんは、絶対にあんたの前に連れてくる」

 涼宮ハルヒに曇りはなかった。
 それにしても、《団長》か。なるほど確かに、彼女には相応しい称号だ。
 仮とはいえ、ほんの数時間程度の付き合いとはいえ、こうも甲斐甲斐しく《団員》の面倒を見ようとしているのだから。

「いー。あんたはここで大人しくしてなさい。いい? 動いちゃだめよ。もし勝手に動いたら、死刑だからね!」
「了解です、団長」

 ぼくは言って、ハルヒちゃんは駆けて行った。
 走りながら、クロスボウを装備している様子が見えた。
 一戦交える気なのだろうか。はてさて朧ちゃんをどう罰するつもりか。

「死刑、ね」

 絶対ではあるが絶無ではないこの環境、法の裁きなんてないものだと思っていたけれど、案外言い切れないかもしれない。
 断罪の意思は誰もが持っているとして、執行権を持っているのはハルヒちゃん、おそらくきみだけだ。

 だとしたら、あれ、なんだ?
 涼宮ハルヒは神なんかではなく、《裁判官》か?

「うん、素晴らしいくらいに戯言だ」

 戯言続きの朝だった。



 ◇ ◇ ◇



 【幕間 彼女と彼の会話】


「きみは人の死というものに対しどれだけの感慨を得られるというのかね?」

 いきなりそんなこと訊かれたって、答えられるはずもない。
 そうね、とりあえず《ご愁傷様》とは思うでしょうね。喜んだりはしないわ。誰だってそう。

「いや、そうとも言い切れないよ。きみは知らないだけかもしれないが、人の死に喜びという感慨を得る人間は少なからず存在する」

 あ、そう。で、だからなに?
 質問の対象はあたしであって、その少なからず存在する誰かさんじゃないわけでしょ?
 ならあんたの言ってることはこの質問には関係のない戯言よ。

「まあ、それはそのとおり……そういえば、きみはごくごく最近、人の死に直面したことがあったね。たしか夏のことだ」

 そういやあったわね、孤島での殺人事件が一件。
 なんであんたがそんなこと知ってるのかしらないけれど、あれって結局はお芝居だったのよ?
 殺されたと思っていた人は実は生きていたわけだし、こんなところで思い出す話題でもないと思うけど。

「それでも考察の材料にはなるだろう。たとえばきみはその殺人事件の折、死体を見てどんな表情を浮かべただろうか。
 驚愕か? 悲哀か? それとも《待ってました!》だろうか? あのときのきみは少なからず事件を望んでいただろうしね」

 ふざけないで。

「ならきみは、本当は殺人事件など望んではいなかったということだろうか。嬉々として推理にあたっていたというのに?
 いや、《所詮は他人事》とその程度の感慨しか抱いていなかったからこその探偵ごっこか。
 ではあの夏の日、殺されたのが身内の人間であったならばどうだろうか? きみはおそらく、冷静ではいられなかっただろう。
 今のきみが《先》か《前》かは知れないが、その身内が死の一歩直前に踏み込んだこともあったな。
 三日三晩寝袋に包まってまで看病に努めたのはどこの誰か、そうきみだ。きみはそれだけ怖かったのだ。
 身内の、あるいは彼の、死が、あるいは喪失が、一人残される自分が、あるいは孤独が、きみはどうしようもなく怖かった」

 台詞が長い。

「きみはとても正直な人間だ。死というものに抱く感慨、これもまた正直に出る。
 他人は他人、身内は身内、正直だからこそ差別化も激しいだろうさ。
 さて、長門有希は死んだ。きみは正直に感慨を抱いただろうさ。ずばり、《嫌だ》とね」

 そもそも、あんた誰なのよ。

「ただし、きみは現実を否定するには至れなかった。あれだけの前科、いや実績があるというのに。
 きみの《力》は長門有希の死を否定する方向には働かなかったわけだ。
 どうして……いったいどうしてなんだろうね。こればかりは誰にもわからない。わからないだろうさ。
 わからないが、仮説を立てることはできる。この場ではそうだな、こんな仮説を立ててみるがどうだろう」


 どうだろう、なんて言われたって。


「きみは、  なんかじゃない」


 あたしにだって、わかんないわよ。



 ◇ ◇ ◇



 【2】


「――見つけたっ!」

 塀に囲まれた迷路のような区画を抜けて、あたしは堀の際に立つ朧ちゃんの姿を発見した。
 手にはまだ凶器が、いーを斬った刀が握られている。
 朧ちゃんはあたしの声に気づくと、ぐるり、とまるでからくり人形のようにこちらを振り返った。

 ――見ているだけで吸い込まれそうな、瞳。

 初めて朧ちゃんを見つけたときも、目が印象的だった。
 外人みたいに瞳の色が違うってわけでもないのに、どうしようもなく目がいってしまう。
 その黒と白で彩られた瞳には、なにか人の注意をひきつけるような秘密でもあるのかもしれない。

「…………」

 あたしと目を合わせても、朧ちゃんは無言だ。
 なにを思い、なにを考えて、こんなことをしているのか、あんなことをしたのか。
 仮にいーの言うとおりだったとしたら、あたしは朧ちゃんを許すことはできない。

 その手に握った刀を放さない限りは。
 あたしだって、このクロスボウを手放したりはできない。

「なんで追われてるのか、それくらいはわかるわよね――朧ちゃん」
「…………」

 朧ちゃんは表情を変えなかった。あたしが正面からクロスボウを突きつけても。
 そういや、いーと出会ったときもこんなシチュエーションだったわね。
 あのときのあたしは、引き金を絞ることができなかった。けど、今回ばかりは違う。

「返答しだいじゃ撃つわよ」

 言葉を投げかけるよりも先に、あたしはそう前置きした。
 対決する覚悟を示して、それでも朧ちゃんの表情は変わらない。

「まずは説明。なんでいーとあたしを襲ったのか。そこから話してちょうだい」

 無言。初っ端から無言。朧ちゃんはまるで悪びれた風でもなく、無表情。
 あたしは少しだけカチンとなり、引き金に込める力を強めた。

「喋んなさいよ。これは警告のために構えてるんだからね。どっちが速いかなんて、一目瞭然でしょ?」

 朧ちゃんとあたしの距離は優に十メートルほどはある。もちろん、間に遮蔽物はない。
 これの有効射程距離は三十メートル。届くという意味では過不足ないけれど、近すぎても問題、そういーは言っていた。
 だからなに、と今のあたしならそう返すだろう。

 もし近すぎるがゆえに矢が外れて、その間に朧ちゃんが迫ってきたとしても、そのときは徒手空拳でやってやろうじゃないの。
 次の矢を装填する必要なんかない。聞き分けのない団員は殴ってわからせてやるんだから。そう、だから。

 だからあたしに、引き金を絞らせないで。
 無言を、今すぐやめて。

「喋りなさい。これは団長命令よ。あなたはSOS団に仮入団を果たした仮団員なわけだから、団長の命令には絶対服従」

 朧ちゃんはそれでも無言。刀を握ったまま、口を閉ざしたまま、あたしと見つめ合ったまま、動かない。
 和服が似合う可愛い女の子――それこそ、まるで日本人形のような。本当はこれ、元から動かないんじゃないかって思えるくらい。

「……ねぇ朧ちゃん。あたし、無視されるのが嫌いなの。説明が難しいようならまず、なにか反応の一つでもしてみなさいよ」

 朧ちゃんの一挙手一投足を注意深く観察する。それにしたって動きはないっていうのに。
 あたしの言葉なんかてんで無意味。朧ちゃんの口を動かす魔法になんかならない。
 ああもう、嫌になる。

「……っ」
「…………」

 クロスボウの意味も、刀の意味も、これじゃありゃしない。
 黙って黙って、黙りこくって、それで黙りとおせると思ってるなんて、考え方が子供っぽいのよ。
 時間はなにも解決しちゃくれないし、巻き戻ったりもしない。ただ無為に過ぎていくだけ。
 有希も弦之介さんも死んじゃったけどさ、あたしたちはまだ生きてるのよ? 明日があるのよ。
 こんなとこで時間を無駄にしていいわけがないでしょ。ただでさえあたしはSOS団の団長なんだから。
 今頃みんなはどうしているのだろう。みくるちゃんなんて、絶対にぴーぴー泣いてるわよ。
 古泉君やキョンだって、平静ではいられないはず。有希が死んじゃってSOS団の内部はガタガタ。
 本当にもう、どうしてくれるっていうのよ。惨事だわ、ええ、大惨事よ。ホント、嫌になる……。

「――っ、なにか喋んなさいよっ!」

 呆れるくらいの無言。嫌気が差すほどの無言。声を忘れてしまうほどの無言。
 無言なんて声帯の無駄遣いよ。沈黙はなにも生まないし価値もない。忌むべきは無言。
 無言、無言。無言、無言、無言――無言無言無言無言無言無言無言、無言ッ!

 いいかげんに、しろ! 

「喋ってくれなきゃわかんないじゃない! どうしてあんな真似をしたの、どうしていーを斬ったりしたの!
 弦之介さんが死んだから? もうなにもかもどうでもよくなったから、それであたしたちに八つ当たりしてやろうって!?
 ふざけんじゃないわよ! こっちは親切心であなたに協力してあげたっていうのに! SOS団への入団は申請却下よ!
 それにあたしだってね、有希が死んじゃっていろいろ胸に溜め込んでるんだから!
 黙ってれば許してもらえるだろうなんて、そんな魂胆でいる誰かさんには付き合ってられないのよ、ねえ!」

 ……違う。
 本当は、こんなことが言いたいんじゃないの。
 あなたとお話がしたいのよ。
 でもそっちが喋ってくれなきゃ、なにも話せないじゃない。

「なにも話さないっていうんなら、それでもいい! とりあえず抵抗できなくしてから、いーの前に引きずり出す!
 そんでもってあたしたちに斬りかかったことを謝罪させるから! 団員同士のいざこざは、ご法度なんだからね!」

 困っている人は、助けるのが道理。そしてそれは、あたしのスタイル。
 最初はそんな、軽い気持ちだった。放送の後になったら、もう見ていられなくなった。
 あたしはおひとよしなのかもしれない。そんな自覚はなかったけれど、ここにきてそう思う。

 ああ、もう、面倒くさい。
 あんな刀がなんだっていうのよ。怖がってらんないわよ、あんなの。
 あたしはクロスボウを放り捨てて、自らの足で前に進む。
 相手がなにを持っていようが関係ない。
 ひっぱたいてその腕引いてやるんだから。

「一緒に来るのよ、朧ちゃん」

 何歩か踏み出して、
 そう告げて、
 やっと気づいた。

 いつの間に、だろう。
 朧ちゃんの表情は変わっていた。
 無表情ではありえない、くらい。

 笑って――ううん。

 口元を緩めて、眉を落として、瞳から威圧感を消して。

 嗤って、いた。

「朧、ちゃん……?」

 その、次の瞬間だった。
 ずぶり。
 そんな音が耳に入ってきたのは。

 我が耳を疑った。
 だって、ありえないもの。
 距離はまだ、こんなにも離れている。

 なのになんで――刺さって、



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