(迅鯨)
話は前回よりさらに数年ほど遡る。1930年代半ば頃のヴォ連といえば内戦期の混乱もようよう収拾され、28年に開始された総合経済政策である五ヵ年計画も軌道に乗り
、一応順調な経済成長を成し遂げている時期である。「数多の犠牲を払いつつも」という但し書きがつくのはさておき、一応のところ国内は概ね平定され久しくご無沙汰
だった秩序ある平和が訪れた。
無論完全にではない、あくまで概ねである。大小百数十の民族からなり、それに加えて様々な政治的矛盾を抱えたヴォ連においては争いの火種には事欠かない。時期に
よってその増減があり、現在は統計的に見て比較的安定していると言った程度の秩序である。今回はそんな平和の恩恵に預かれなかった地域とか人たちのお話。
ヴォ連領内の中央ルージア山岳地帯にカラバフスタンと呼ばれる地域がある。ヴォ連革命のドサクサも収拾しつつある御時世にもかかわらず、この地域では長年ヴォス
トラビア人の支配下に置かれていたカラバフスタン、ひいては中央ルージア全体を解放せんと息巻く一部のコアな民族主義者達がおりまして、彼らの間で今更ながら独立
の気運が高まっていた。彼らは自らをバスキンジと称している。
かつてこのカラバフスタンはヴォストラビア帝国の属国でカラバフ・アミール国と名乗っておりアミールと呼ばれる君主が代々統治していたが、革命の折にこのアミー
ルも地位を追われ、カラバフスタンはヴォ連邦を構成する共和国の中に組み込まれた。
だが国を追われた王の一族やその臣下は地下に潜伏し捲土重来の機会を虎視眈々と狙っていた。バスキンジと名乗るカラバフ独立派はそうした旧体制の王党派を中心と
し、この他カラバフ以外の地域から集まった少数民族、反共主義者、傭兵などからなる雑多な反体制グループの寄せ集めである。そしてそれらはヴォ連の不安定化を目論
む外国の工作機関から当然のように支援を受けていた。
無論そうした動きをヴォ連政府は看過しない。軍や
秘密警察を用いて弾圧を強める一方で、これとは別に体制派のカラバフ住民を集めて武器を与え、自警団を組織させ
ていた。この自警団はジャディドと呼ばれ、後方の治安維持のみならず反乱の鎮圧に積極的に投入されていた。むしろ鎮圧の主力はこのジャディドが主力といってもいい
くらいだ。
こうした民族紛争には同族かそれに近い集団を鎮圧に用いるのが上策だとされている。同族であるなら相手の文化や思考を熟知しており、地理にも明るい。現実にイス
ラエル軍やロシア軍では、アラブ系のベドウィン人部隊やチェチェン人で編成されたヴォストーク大隊と呼ばれる部隊が実際に存在し紛争に投入されている。
それになにより彼らは裏切り者だ。負ければ行くところが無く、その末路も悲惨なものになることは想像に難しくない。だから必死で戦う。それはジャディドも例外で
はなかった。
かくして紛争は反体制分離独立派のバスキンジと、中央政府の後押しを受けた民兵組織ジャディドの二つの勢力を主軸に展開されていた。
しかしそんな大人の事情も子供たちには良くわからない。近くの集落で散発的なテロや襲撃が起きているらしい。と大人たちが話してるのを漏れ聞く。
村人たちは独自に自警団を結成して、村の外円部に見張りやぐらをさずけ、持ち回りで番をし襲撃に備えている。
マリューシャの父も当番の日には猟銃を背負って見張りに立つ。そんな大人たちの様子を見て緊迫した世情なんだなとそれを子供心に何となく感じていた。だがそれで
も日常は淀みなく流れ、そしてこれからもずっとそれが続いていくように思われた。
そうしていつものようにマリューシャは神学校に通う。この地域では公的な教育インフラが十分に行き届いておらず、かわりにその地域の伝統的な宗教団体が無償で読
み書きを教えている。
共産主義は基本的に唯物主義であり無神論の立場を取るが、実際には長い歴史を通して根付いた宗教の持つ力を認めており、そうした現実主義からある程度の信仰の自
由は認められているし、田舎であればこうしたことも黙認されている。
もっとも貧しい寒村にあっては子供ですら重要な働き手で、午前中にしか学校の授業を受けられず、午後は家の手伝いをする。学校に行けない子供だって少なくない。
子供たちは早朝に神前で祈りを済ますと授業に入る。年長組も年少組も皆一緒にお祈りだ。授業も皆で一緒に受ける。
彼女らの教師でもある寺院の司祭が祝詞を挙げ、生徒達もそれに続いて和する。
しかしその日はお祈りの最中に武装したゲリラたちが寺院の門を蹴破って乱入してきた。
一瞬騒然となる院内を、天井に向けて銃を撃ち鳴らして鎮めると、ゲリラ達の頭目と思しき男が前に進み出てこう言った。
「革命万歳!!この施設はたった今より我々の制圧下に入った。これより諸君は旧弊を破壊し共に革命を遂行する同志である。ここの責任者は我々が必要とするものを無償
で、できれば自主的に供出するように。」
そのゲリラは政府の後押しを受けた体制派のジャディドの民兵であった。
「そんな横暴が通るものか!!チェキストの手先めっ!!」そういって抗議する司祭の剣幕にも涼しい顔で受け流しながら、押し入ったゲリラの頭目は言う。
「そいつはご尤も。だがそんな道理もこいつにゃ勝てまい。」そう言って司祭に銃口を向ける。「神の教えとやらも本日限りで引っ込んじまうのさ。なぜならば今日よ
りここは地獄で俺たちはその獄卒で、貴様らも同じく獄卒になるからだ」そう言って賊は司祭を蹴り倒し、彼に向かって銃口を向けるが、それでも司祭は怯まず尚も抵抗
の構えを見せる。子供たちを守る使命感。聖職者としての矜持がその司祭の勇気の源であった。しかしそれ以外に武器は無い。
それでも屈せず「そんなことをすれば必ずや神罰が下るぞ」と精一杯抵抗して見せるが、やはり相手はそれに動じる様子も無い。
「そいつは面白ぇ、本当に神罰が下るか試してみよう。ククッ……一遍こういうこと言ってみたかったんだ
よな」そう言うと賊の頭は、口元を醜く歪めながら銃爪にかけられた人差し指をゆっくりと一度屈伸させた。
騒然となって逃げ惑う人々。何も出来ず立ち尽くして泣き叫ぶもの、抵抗して射殺されるもの。うまく逃げおおせた者は果たしてどれくらいいるだろうか?要領の悪い
ことにマリューシカは後輩たちを逃がそうとして逃げ遅れ捕まってしまった。
「まだ子供だぜ?」マリューシャを地面に押さえつけながら野卑た声でゲリラの一人が言う。「てめぇの得物でてめぇ慰めて何が悪い。かまうものか、穴があいてりゃ十分だ」
そう言うや幾人もの男たちは代わる代わるにマリューシャを強姦した。泣き叫んで必死に抵抗しても少女のか細い腕では抗いようも無い。それでも必死に声を挙げて泣き喚く。
「止めて」と哀願し、「殺してやる」と呪詛の声を挙げた。
「うるせぇな!!気がそがれちまうだろうが!!」と怒鳴ってマリューシャを殴りつける。ぶたれるのは初めてではないが、親にぶたれるのとは明らかに違う。親にお仕置き
されるときは何か悪いことをした時であって、こんな剥き出しの暴力が躊躇無く叩きつけられたことは彼女の短い人生の中で初めてだった。
悪い人間がいるというのは知ってる。でもそれは大人が言って聞かすお話の中で知ってるだけで、本当の暴力を目の当たりにしたことなんて無かった。
初めて人間の残虐性を見せ付けられたとき、身がすくんで、胸の中が恐怖で一杯になって、それが出口を求めて心を引っ掻き回す。人間がこんなに残酷になれるなんて
彼女には信じられなかった。信じたくもなかった。こんな理不尽で抗いようが無くて……。
マリューシャの身をたわめるほどに強く抱き、腰を打ち付ける男たち。充分に湿されてない彼女の膣の内でぎちぎちと肉がこすれあう。次第に血がにじみ初めると摩擦
はいくらか滑らかなものとなって、何度となく犯されてるうちにだんだんと感覚が麻痺してきて自分の体を遠くに感じるようになって、意識は朦朧としてやがて途切れた。
未熟な少女の体を、陰残で獣的な笑みを浮かべて蹂躙する男たち。行為の最中も後もいたわれることなど無く、ただ肉を貪られるだけだった。
兵士の素材としては体力こそ成人には及ばないが、それ以外では子供は概ね大人よりも素質がある。
物覚えがよく、また倫理観も未発達でそのように仕向ければ幾らでも残酷になれる。そして心身ともに非力であるため麻薬と暴力のアメと鞭で容易に家畜として飼いな
らせる。そうした意味ではチャイルドソルジャーは成人の兵士よりも遥かに残虐で誰からも恐れられた。
「お前の名を言ってみろ」
「私の名は……」
「さぁ言え」
ゲリラはさらってきた子供に新たな名を与る。名前というのは一種の仮面だ。それを名乗るだけで自分が別の存在になったような気になる。そして残虐でない人間を残
虐ならしめるにはその二重性が必要だ。彼を殺すのは我では無く、他の我なり。そう思い込ませて殺戮の場へと仕向ける。
「私の名前はブラッド・トゥー・ネバードライ」やっとそれだけを搾り出す。「してその名の意味するところはなんだ?言え!言え!教えたはずだ」だが相手はそれだけ
で満足せず。荒々しくマリューシャの体をゆすりながら次を急き立てる。
「……我が名の意味するところは永久に乾かざる血。反動分子どもを常に打ち、常に撃ち、常に討つ。ついには撃ち滅ぼす。我は常に闘争を欲し、勝利を尚欲し敵の血を
浴び続ける。それ故にその血は乾くことが無い」
「よろしい、では自らの手によって最初の血を浴するがいい」
そうして新たな名を与えられた子供たちはまず、彼らの肉親や親しい人間を自らのてによって殺すことを強要し、自分達の村を焼かせる。しかし村人を皆殺しにはしない
。恐怖を他に伝えるためにいくらかは生かしておくのだ。これは敵の戦意を削ぐ目的以外に、恐怖と共に子供らが犯した蛮行も広めるというのもある。
そうして自らが属する社会を自らの手によって破壊させることによって、子供たちは精神的にも社会的にも帰る場所を失い、心身ともに組織に属するほかに生きる術を
喪失させるのだ。
初めて人を殺したとき頭の中にギュイイイインという鋭い金属音が響き、自分が果てしない深淵へと落ちていくような錯覚がして眩暈がした。震えがとまらず、体が言
うことを全く利かなくなって、その場で私は糸が切れた操り人形のように崩れ落ち、嘔吐した。胃液の苦い酸味が鼻を付いてにこみ上げてくる。
死ぬのは嫌だ。誰だって怖い。誰かを自分の手で殺してしまうのはもっと恐ろしい。
そんな死が今、自分の手に握られている。
それを良く見知った人へと振り下ろす。そんな自分は尚恐ろしい。
その人を殺したとき自分の中で自分を一人、殺したような気分になった。そんなことがその日から何度も繰り返されて、そのうちに自分の中の自分を殺しつくして彼女は
死に果て、死んでるでも生きてるでもないブラッド・トゥー・ネバードライになった。
抗いようのない不条理が、彼女の心を苛んでいく。それが繰り返されるたびに心は死んでいく。やがてそれに逆らうことの無味意味さを悟ると、幾らか楽になり彼女な
かで諦観が深く根を下ろす。しかし人間の適応力というものは存外高く、こんな状況に陥ってもそんな状況なりに順応していく。絶望ですら一つの適応だ。
初めて人を殺したときのショックが十とするなら、二人目を殺したときは半分の五に減じ、以降回を重ねるごとに耐性がついていく。
もはや暴力に翻弄されるしかないマリューシャは、ただそれを甘んじて受け入れてくしかなく、慣れていくにつれ、いつしか彼女もまた暴力を構成する一つの要素とな
った。
一緒にさらわれた友達は死んだ。地雷を踏んで腰から下が吹っ飛んで、臓物を撒き散らしながら。ちぎれたはらわたからは詰まった糞と血が交じり合って、すごい臭い
がした。
あの時寺院からうまく逃げおおせた友達は、容量の悪いことに自分から銃を取って反政府側について自分の前に立ちふさがった。それももちろん死んだ。銃剣で腹を疲
れて。
急所じゃないから死ぬのに随分と時間がかかった。翌日蝿にたかられ、鳥に啄ばまれていたけどまだ生きてた。恨みがましい目でマリューシャを睨んでいた。
カラスをおっぱらって水筒の水で唇を湿してやると、その顔は少しやわらいで、最後に弱々しくもそっと笑って見せ、そして死んだ。
人だけではない彼女の住んでた村も死んだた。街辻という街辻に死体が土嚢代わりに積み上げられて、家々には双方の狙撃手が息を殺して潜んでいる。
『もう、どうにでもなれ』そう思うようになると幾らか楽になった。
そしてそうなればなるほど彼女の意思とは裏腹に、マリューシャはより効率的な戦争の道具として殺傷力が高めらていく。それどころかいつのまにやら自分から積極的
に戦いを求めるようになっていた。
ここまでくると少々異常だ。マリューシャと同じようにさらわれた子供たちの多くは程度の差こそあれ、ここまでの順応をみせることはない。
狂ったのであろうか?確かにそうかもしれない。だがそれだけでもない。どうやら彼女には生まれ持った殺戮者としての素質というものがあるらしい。
人間に限らず多くの動物には、大抵の場合同属同士の争いにおいては一定の抑制が働くようになっている。獣のオスが餌やメスを取り合って争うことはよくあるが、し
かしどちらか一方が死ぬまで争うということはない。どちらかの力の差がはっきりした段階で、それに劣るものが背を向けたとしても追い討ちをかけて止めを刺したりと
いうことはしない。種の存続の為に、同属同士の闘争には一定の抑制が効くようにできている。
人間の場合そうした本能に加えて、文化的、社会的などなど様々な要因がからみいっそうそれは強く働く。
だがまれにそうした抑制が働かない、またはその働きが弱い個体は確実にいる。それは攻撃的精神病質とでも言うべきもので、英雄の持つ特性の一つだ。
平穏に一生を送っていればおそらく一生発現することはなかったであろう因子が、今、彼女の中で密かに芽吹き始めていた。
沢山人を殺したけど、誰かが憎くて殺したこはただの一度だってない。嘘だ。
本当は何もかもが憎い。全てを殺してしまいたい!!それだけで頭が一杯で憎悪だけがすべてだ。
それも多分嘘だ……。
自分が何を思って戦ってるのかなんて、もう自分でもわからない。
世界は全て灰色に煤けてしまって、赤い血の色だけがいやに鮮烈だ。
強いて言うなら、『生き残りたい』ただその一心で戦う。でもどうせ今日を生き延びたところで明日もまた……。
そんなことは解りきってるのにそれでも必死で戦ってしまうのは、なんだか自分の意思でそうしてるというよりも、そういう風に動くように体が出来てるんじゃないかと思う。
それはとても機械的で、その時になれば普段の自分からは考えられないような獣じみた生に対する執着や、憎悪が自動的に作動してしまう。
死んでしまいたいと思うこともあるけれど死にきれない。それは現実に逆らおうとする気力すらも湧かないのと同じで、自らを殺してしまうくらい強い感情が素面では
到底湧いてきそうにないからだ。結局のところ自分は死ぬ気力もわかないまま、かつ誰かの手によって殺されてしまうほどに非力でもなく、不運でも幸運でもなく、ただ
生存本能にぶら下がって生き長らえてるだけのようである。何をしても生きてる気がしない。
そうして繰り返される戦いの日々に時折訪れる休息の一時に彼女はふと我に返る。そんなとき最近のマリューシャはこんなことを思う。
初めて人を殺したとき、その時の心境は確かにショックではあったが、自分でしておきながらその反応はどこか芝居めいていたように思われた。ふと思う。人間の感情と
いうのは、しかるべき状況でしかるべき反応を示すように普段の生活を通してしつけられているのではないだろうか?
もはや自分は誰を殺したってなんとも思わない。必要ならば幾らでも残虐になれる。だがそれはここでの生活でそうするよう強いられてるうちに、いつしかそれを体が
覚えてしまったからだ。
いや、もしかしたらそういう風に自分を思い込ませているだけなのかもしれない……まぁどちらでもいいか。
しかし仮にそうだとすれば、それと同じようにここに来る以前の生活の上での反応もそうするようにしつけられていたのではないだろうか?自分が家族や友人に抱いて
いた感情も、そうなるようにしつけられていたのではないだろうか?
いずれにせよその環境にはその環境に適した心持と言うものがあるように思え、それがわかってきさえすれば、どんな生活でもそれなりに楽しめるのかもしれない。
現に今の生活もこれはこれで楽しいものがあるということに最近気付いた。まだ心のどこかに抵抗感がくすぶってはいるがそれも日に日に薄らいでいく。
そう考えると、今の暮らしもかつてのそれも等価値のように思えてもくる。いやいや、そういう風に考えて自分を騙そうとしてるのかもしれない。
だがそれの一体何が悪いのだろう?……わからない。
不毛な自問自答は尚も続く。
荒んだ暮らしをしてるとどうにも自暴自棄になるが、すると自分のことを他人のことのように思えて、その一挙手一投足は自分でしていながら、それをどこか遠くで見
ているような自分に気づく。なんとも奇妙な自作自演の人形劇を見せられているような気分だ。
もちろん怖いときは怖いと思うし、悲しいときはやはり悲しいと思うがそれもどこか人事のようで、自分の物であるようには思えずそうした感情がぶくぶくと浮かんでき
ては、するりするりとすり抜けて、心のどこにも引っかからずいつの間にやらどこかに行ってしまっている。
思考が一通り一周し、次のシーンに移る頃にはその前のシーンを忘れてしまう。
あのときは感動した、怖かった、腹が立った、等という風に思ったとしても、それが過ぎ去ったあとに思い返してみると、なんでそういう風に感じたのかまるで思い出
せない。過去が現在にまるで結びつかない。現在から未来に思考を繋げるということもない。
ただただひたすら脈略もなく今だけがあって、その場その場で即興の支離滅裂なアドリブをするのだ。
ああ、人形劇といえば自分がもっと小さかった頃、まわりの人間すべてが芝居を演じてるように思えた。どっかにその筋書きがあってその通りに演技してるんじゃない
かって。で、もしかしたら自分もしらずしらずその神様の台本どおりに動いてるんじゃないかと思うと、それにとても逆らってみたくなった。
例えば前に進むと見せかけて突然方向転換をしたり、奇声をあげてみたり、イスをひっくり返してみたり。でもそんな奇行すらも筋書き通りなんじゃないかと思うと、
神様に嘲笑われてる気がしてなんともやるせない気持ちなった。
空しい一人相撲である。筋書きなんてものはあろうはずもない。でも未だに心のどこかで誰かに操られてるような気がする。
で、なんでそんなことを今更思い出したんだっけか?
えっと……そうそう、さっきの自分の反応一切が習慣的なものでが芝居めいている云々ということについてだ。そうしたものは生まれたときからもっているものは限られ
て少しづつ与えられていくんじゃないかな。
でもそれは元々は自分の物ではないからどこかで違和感を感じるのかもしれない。そうした習慣的に繰り返していた感情が今、自分から剥離してしまったようだ。
別に悪いことばかりではない。自分の心がどんどん裸になっていくようでとても爽快だ。剥き身の自分がどうにも非人間的に思えるのは、そも人間的とされるものが実
は後天的に備わった上っ面なのかもしれない。
でももし、人間がいづれれそうなっていくように出来ているとすれば、どうやら自分は人間として産まれ損なったようだ。
で、それがどうしたんだっけ?
……ポカン。と一度、マヌケな音がした。
「さて、そろそろいかなきゃ」
去る者は日々に疎し。と謂う。我を忘れ、遠ざけて闘争に明け暮れる日々。
戦うごとに過去の自分は遠のき、いつしか彼女は、かつて自分がマリューシャであったことなどすっかり忘れてしまっていた。
*
その日こんな夢を見た。
常に攻撃を受けていた。
また攻撃もした。
憎悪は肥大し続ける。
憎み続け戦うことが全てだと感じた。
悪魔のような存在が現れこの世界を破壊する。
それでも戦い続ける。
全てが敵である。
憎しみが全てを覆い尽くした。
自分自身さえも強く憎んだ。
いっさいが気に入らない。
すべてを消し去りたい。
深い闇が心を覆う。
もはや感情はなかった。
永遠にすべてを傷つけすべてを破壊し何もかも一切を燃やし尽くす。そういう存在そのものになった。
『太陽のしっぽ』より
*
最終更新:2009年02月03日 03:06