(投稿者:Cet)
ファイルヘンの自室には、今ファイルヘン本人と
クナーベの二人がいた。
それぞれが小説を手にしている。ファイルヘンの持つ方のタイトルは『朝露』。そしてクナーベの持つ方のタイトルは『マベスク』。
「クナーベさん」
ふとファイルヘンは本から顔を上げて尋ねた。視線の先のクナーベも顔を上げる。
「ん?」
「あの、ちょっと質問があるんですけど」
「いいよ」
クナーベは本を伏せる。ファイルヘンは微笑んだ。
「すみません、えーと……好きな人を抱きしめたのに、悲しくなるって、どういうことですか?」
「なるほど」
クナーベはファイルヘンの目を見ながらぽつりとつぶやいた、そして口元に手を当て、数秒思考した後、スーツのポケットからペンとメモを取り出し、メモを円形のガラステーブルの上に置いた。ガラステーブルの淵と土台はそれぞれ木の意匠が施されている。
さらさらと何やら書いて、それをファイルヘンに見せた。
「これはなんでしょう」
「文字……ですか?」
「その通り、これは楼蘭の古語だ。
左の複雑な文字が、愛(Liebe)という意味を持ち、右の簡素な線、これは形容詞であることを示す文字だ」
「文字自体に、意味があるんですね」
「そういうこと」
なるほど、とファイルヘンはひとしきり納得したようだった。
「そして、この言葉を読むとなると、悲しい(traurig)と発音する」
それを聞いてファイルヘンは、身じろぎ一つせずにいた。
「見る時と読む時で、それぞれ意味が違うということですか?」
「そういうこと」
クナーベの返答に、ファイルヘンは何かを考えているようだった。
「……不思議ですね、面白いというか」
「納得した?」
「何となく」
「よろしい、他に何か質問は?」
「ありません、先生」
クナーベは少しむせそうになって、堪えていた。
ファイルヘンは再び本に目を移していた。クナーベが咳払いを一つする。
最終更新:2009年05月21日 18:21