死んだ有機物から生きた無機物へ!

*

ずちっ……。


生乾きの粘膜を引きむしられるような感覚。


ずちっ……。


腹を内側からギリギリと押し上げるような鈍い痛み。初めは断続的に、次第間隔が短くなり、不規則な蠕動を
繰り返し、やがて産道を通過し膣から這い出してきた。
それはコールタールで練り上げたような真っ黒な蛇だった。細くすぼまった頭は蝮に似て、粘液にまみれテラ
テラとなまめかしい光沢を纏っており、その眼は深淵を湛えたように暗く、無機質で、黒曜石のような冷たい
光を放っている。

『っ……』

マリューシャは叫ぼうとしたが、喉元で声は磨耗するかのようにすり切れ、呼吸だけが荒らぎひゅーひゅーと
掠れた音を立てる。
その間にも蛇はどうやって体内に収まっていたのか、ずるずると途切れることなく這い出してくる。
その度に目の細かい紙やすりの様にざらついた鱗が、膣の内壁を擦過し、焼けるような痛みを残していく。
そうして膣から這い出た蛇は、緩慢な動作で鎌首をゆっくりともたげて、ちろちろと舌を出し入れしながら、
漆塗りの眼でじっとこちらを見つめている。

マリューシャの肌は悪寒にあわ立ち、手足はおののき戦慄いた。
蛇を払いのけようと強張った腕を弾かれたようにビクンと前に突き出すと、蛇は首をすっと竦めて腕の下に潜
り込むや今度は反対に矢のように素早く首を突き出して、一気に懐に飛び込んだ。

飛び込んだところでまた緩やかな動作で鎌首を上げ、眼前で嘲るように二度、三度舌なめずりをした。
それからタイミングを計るように数度、メトロノームのように体を揺らすと、ひょいと身をバネの様に弾ませ
て伸び上がり、最高到達点で首を返すと、精確に臍をめがけて飛び込んできた。

蛇は臍に頭を突っ込んだまま激しく身をくねらせている。マリューシャは蛇の首根っこを掴んで引き抜こうと
するが、まるで臍に根付いてしまったかのように離れない。
蛇が身をくねらせる度に悪寒が背筋を通って尾骨と頭蓋の間を往来し、神経を嬲り、彼女は気も狂わんばかり
に悶えさせた。
蛇は何かに挑むようにしてしばらくの間、果敢にのたくっていたが、突然ぶりゅんと一度、弾性のある膜が破
られたような感触がしたとき、蛇は吸い込まれるように臍の中へと滑り込んでいった。

満腔に跋扈する恐怖、臓腑をかき回される不快感。今、蛇が体のどこを走っているかは手に取るようにわかる。
臍から入りこんだ蛇は、腸の間を縫って上へ上へ登っていき、胃に数周にわたって撒きつくと、胃袋をぎゅう
っと締め上げ胃液を喉元まで絞り上げていく。
のた打ち回るマリューシャは口から、おびただしい量の吐瀉物を吹き散らした。
つんと鼻を突くような匂いをさせながら、生暖かい汚物は頬を埋めるほど一杯にシーツの上に広がった。

それから蛇は胃に穴を開けて入り込み、咽頭の辺りにまで登ってくると、今度は食道からは気管に入り込み肺
の中に踊りこんだ。
蛇がのたうつたびにプチプチと肺胞が潰されていく感触がすると、呼吸は虚を吸い込んだように空転しはじめ
、吸い込んだ一切の空気は肺の外へと抜けていった。
肺を荒らし終えた蛇は動きをいったん緩めると、じわじわと陵辱を楽しむかのように、下へ下へと降っていく。

そしてまたあの感覚。腹部を内側から押し上げていくよう鈍痛。蛇は今、子宮にいて、産道を通って再び外に
出ようとしていた。
鱗が膣壁を擦り、血をにじませ、神経を嬲り苛んでいく。
そうして再び膣から頭を覗かせたときには、漆黒のつやのある体に、粘液と、羊水と、血とを纏っていた。
どこからか差し込む鈍い光は漂う埃を照らし、ガラス粉のようにチラチラと輝いて蛇の体に降りかかり、触れ
るや光の粉は溶けるようにして輝きを失って元の塵に戻っていく。
蛇腹を艶かしく縁取る黒ずんだ紅は表面張力と、筋肉の収縮運動に導かれるままに、鱗の合間合間を侵し、独
特の幾何学模様を整然と描き上げてく。

蛇はまたこちらに向けて鎌首をもたげた。蛇が次に何をするかは容易に想像が付いたが、マリューシャはもは
や抗うことはなかった。
威嚇するように、また嗜虐の快楽に酔いしれたように、顎を一杯に開いてしゃがれた嘶きをあげると、再び臍
に飛び込んだ。

そうしてまた五臓六腑を食い荒らし、膣から飛び出し、臍に飛び込み、繰り返すごとに一層早く、五臓六腑を
食い荒らし、膣から飛び出し、臍に飛び込み、繰り返すごとに一層早く…………。



*

あたりは静寂に包まれていた。耳を澄ませば、壁の向こうからはコツコツと、厳かな足取りで行き交う人の気
配がする。
乱れた呼吸を落ち着けるのに数度の深呼吸を要した。不吉にどよめく鼓動は今だ悪夢の余韻を引き摺り、それ
を鎮めるにはさらに幾ばくかを要した。

どうやら夢であったらしいのだが、頭には膜が張ったようにぼんやりとして、まだ半分は寝ているような気が
する。だがその一方ではっきりと覚醒して、現実を掴んでいるというような矛盾した違和感がある。
目を覚ましたとき目蓋を開いたという記憶が無く、気が付いたときには無味乾燥な天井を見つめていた。今、
目を覚ましたと言うよりは、目覚めてることにたった今気付いたといった感じだ。
夢の記憶はあっという間に霧散して、もはや思い出すことは叶わないが、しかし見ていたことは確かで、それ
も悪夢であることは胸中に残るおぼろげな悪夢の残滓によって察せられた。

口の中は乾き、粘ついて、糸を引くほどに粘度の高まった唾液は苦く嫌な味がした。
またひどく寝汗をかいており、衣服がぐっしょりと湿って体に張り付き不快だった。
臨月を向かえ膨れ上がった腹は内臓を圧迫して常に息苦しく、体を起こすのも億劫である。だが、ずっと横に
なっていても具合がよくなるどころか、全身が凝り固まって寝疲れしてしまうので、しかたなく緩慢な動作で
身を起こす。

身を起こすや彼女は目を見張った。

シーツは寝汗ではなく、おびただしい量の血が両足の間からあふれ出し、純白のシーツを赤く染めていた。血
はまだ暖かく、流れ出してからそれほど時間は経っていないようである。
そんな時、陣痛が俄かに始まりジワジワと激しさを増しはじめた。既に一度出産経験のある彼女は、目の前で
起きてる事態は破水であると即座に悟った。


*

前期破水という予期せぬ事態に見舞われたものの、分娩は滞りなく進み、かくてマリューシャは無事に出産を
はたした。
赤子は程なくして施設に送られると、彼女は事前に聞かされていたが、どういう取り計らいがあったのか、彼
女自信がそれを希望したわけではないにも拘らず、彼女の下でしばらく育てることとなった。
それよりも、それから自分はどうなるのかという意味のことを身振り手振りで医師に尋ねると、医師は言葉を
濁して言明を避けるのであった。
ともあれ半ば強引に、またはなし崩しに子供をしばらく世話をすることとなった。マリューシャ自身も強いて
拒むことはなかった。


しかし子供を抱けば自然と胸の奥からぽわぽわとした、温もりが湧き出してきた。
母にすがる小さな手の、力強く、か弱く、暖かく、愛しい感触に心を慰撫されると、久しく忘れていた慈愛の
心。胸の深奥から沸き立ち、心を少しづつほぐしていく。初めて我が子をいとおしいと感じた。

 だが、それを強く感じるようになると、またあの蛇が蠢きだし臓腑を侵しはじめた。
 自分が幸せを感じることに負い目を感じるのだ。

 どくん。と一度、心臓が脈を打つ。

私が、この子の親でいいのだろうか?なんで、こんなものが腕の内にあるんだ?
なぜ?そう思い始めると、次々と疑念が湧いてきて止まらず、物を思えば寒々しい。
ただ、身のうちから湧き出してくる母性愛に身を委ねるだけでいい。そんなことは分かり切ってるはずなのに
想い始めると止まらないのだ。

そんな身勝手な自我の独白から逃れようとマリューシャは一層強く我が子を抱きしめる。暖かく柔らかい。小
さな手が彼女の頬を触れれば、それだけでその息づく脈動が聞こえると先ほどまでの不安もとろけてしまう。
不安な時、子守唄を歌って紛らわした。おかしなことにマリューシャは常に子守唄を口ずさんでいる。食事を
するときも鼻歌を歌う。

 ふと視線を落とすと我が子と目が合った。
 深淵をたたえた、宝石のやうな瞳。淀みなくこちらをじつと見いる。


 Hush-a-bye, baby, on the tree top!
 ねんねこ赤ちゃん、木の上で。

 When the wind blows the cradle will rock 
 風が吹く。揺りかご揺れる。


だが、不意にドクン。ともう一度、強く心臓が脈を打つと、再び不毛な自問問答に引き戻され、今の今まで抱
いていた感情が、嘘のように萎えていき、途端白々しさを感じるのだ。
とにかく何かを欺いてるような気がしてならない。でなくば欺かれてるのかもしれない。では何に?

 ふと、腕の内に虚無が入り込んだ。


 When the bough breaks the cradle will fall
 木の枝折れる。揺りかご落ちる。

 Down will come baby, bough, cradle and all. 
 赤ちゃん落ちる。みな落ちる


何が起きたのかわからなかった。自分が何をしたのかもわからない。ただ呆然と立ち尽くすばかりである。

 腕の中には子供はいない。
 虚無を抱くガランドウのかいな。

子供の喚き声は部屋の四方にぐわん、ぐわんと、何重にも反響した。
ひどく眩暈がして、マリーシャはその場で糸が切れた操り人形のように崩れ落ちた。

子供は泣き続けている。


次の瞬間、鉄の扉が乱暴に開け放たれた。そこから一斉に人があふれ出し、あっという間に狭い独房を埋め尽
くした。

あわてて駆け込んできた軍医が、子供を取り上げるのを見ると呆然としていたマリーシャは、はっと我に返り
その白衣にすがりついて、子供を取り返そうとした。だが一緒に部屋に入ってきた兵士が、そうはさせじと彼
女を取り抑えた。

マリーシャは狂ったように泣き喚き、静止を振りほどこうと必死に四肢を振り回して暴れた。ついには彼女の
額が、一人の兵士の鼻下にぶち当ると、兵士はたまらず腕の力を緩めてしまった。

その隙をついて彼女は腕を静止を振り切って、子供を取り戻そうと軍医に向かって飛び掛った。だが、眼前に
立ちはだかる人垣が一斉に覆いかぶさって、彼女を押し包んだ。

それでも子供を抱いて立ち去る軍医の背中に、取戻そうと彼女は必死に腕を伸ばしたが、もはやそれは果たせ
そうになかった。

彼女は尚もわめき散らしている。それは怨嗟の叫びの様でもあり、哀願する様でもあった。また怒号の様でも
あり、ただ意味もなく絶叫しているようにも見えた。猿のように顔中に皺を寄せて泣く様は、醜く笑ってるよ
うにも見えて、ある者は滑稽を覚え、嘲笑を浮かべた。

何を叫んでいるのかは、自分自身でももうわからないない。

 それは私のだ!返してくれ!』といったのかもしれない。『私がやったんじゃない』と弁解しているのかも
しれない。言葉は喉まで来たところで、引っかかり、無理に押し出すと、あー!とか、をおー!といった獣じ
みた慟哭になっている。言葉が出ない。どれほど叫んだとしても、喉まで来たところで意味の成さない音に代
わってしまうのだ。

 苦しい。もはやそれをひり出すことすら精一杯。


ヒステリーで過呼吸に陥り、声を出すことすら覚束ない。視界が揺らめき、滲んで、次第暗んでいく。鎮静剤
が打たれたのだろう。世界が、極彩色の赤でくるめきたち、溶けるようにして闇に没した。

*

「憐れな娘だ」
「幸い、子供の命に別状はないそうです」
「……そうか」

事の一部始終を、メード技師のオルロフから聞いたラサドキンはそう言って短く嘆息した。そして数日来の無
精髭をさすりながら、やおら口を開く。
「何故、彼女に子供を渡したのかね?施設の者に引き渡すことになっていたはずだが?」
「それは……」

オルロフは目を伏せて押し黙る。叱責されてると考えているようだ。

「ああ、別に君を叱責しようというわけじゃない。興味本位から聞いてるだけだ」

ラサドキンがそこまで言って続きを促しても、オルロフは数度言いかけては、遅疑逡巡を繰り替えした。一々
晦渋な男なのだ。本当に叱責しないのかという疑念が払いきれないらしい。それでもラサドキンが繰る返して
説得すると、この男なりにもようやく決心が付いたようで、やおら口を開き、おずおずとした口調で語り始め
る。

「私は彼女を憐れに思いました」
「それは私も同感だ」
「はい……こんな私にも子供がおります。まだ三歳になったばかりです。大佐にはお子様はおられるでしょう
か?」
「いや。愚妻は不妊症でね」
「……そうですか」

オルロフは言いかけたことを、引っ込めるそぶりをしたが、言いたげに口をもごもごとうごめかす。実は彼自
身、誰かに聞いてもらいたかったのかも知れぬと、ラサドキンは思い後を促した。

「その……こんなことを言うと親馬鹿に思われるかもしれませんが、やはり我が子は可愛いものです。仕事が
急がしくて中々相手をしてやることも出来ないのが残念でならないのですが、その子の顔を見るたびに私は生
きてる喜びを感じます。その・・・月並みな表現ですが目の中に入れても痛くありません」

そこまで言ったところでオルロフは、懐をまさぐり手帳を取り出すと、それに挟んである一枚の写真を手にと
った。一目して愛しげな吐息を短く漏らし、「私のせがれです」と言ってラサドキンに見せた。子供を抱いて
いる自分の写真である。
「利発そうな子だ」とラサドキンは世辞半分に言ったが、オルロフそれを素直に受け止め「ありがとうござい
ます」と生真面目に頭を下げる。その表情に嘘はなさそうだったが、しかし皺の多い彼の顔には悲歎が深く影
を落としていた。

そして彼はまた「それだけに、彼女を憐れに思いました」と言って口ごもる。どう言葉に表していいかを思案
してるようだった。だが考えが纏まるとまた口を開く。

「これは、私の独善なのかもしれません。彼女が、それを…子を育むという喜びを知らずに、人としての生涯
を終えようとするを私は憐れに思いました。戦争で親から引き離され、賊に…辱められ。あげく殺し合いを強
要され……」

オルロフは自分で話すうちに、自分の言葉にさいなまれ、感に堪えられずに嗚咽を漏らしはじめた。彼女の身
の上を思い、そして自分がしようとしていることに、やはり良心の呵責を覚えるらしい。
「私は自分の罪を思うと、子供に会わす顔がありません。これは贖罪のつもりでした……私は彼女に僅かなが
らでも、幸福を持たせてやりたかったのです。それが残酷な事であると重々承知しているつもりです。それが
私が彼女にしてやれる贖罪だと思いました……」

「贖罪か……」
不毛なことをする。とラサドキンは言かけたが、それより先にオルロフが、「自分でもこんなことして何にな
るとは思いました」と自嘲気味に弱々しく鼻を鳴らした。

この男のしたことは結果だけを捉えるなら、彼女の救済にはならなかった。何れにしても彼女は死ぬことにな
っているからだ。
本当に彼女を救いたいのであれば、彼女をこの境遇から解き放つべきであったろうが、それを実行すれば自分
の身が危険に晒されたであろう。しかし彼には妻子がいるのだ。
もし実行していたとしたら家族にも累が及んだことであろう。それを偽善となじるのは酷であろう。

故に、オルロフの心は救われないのだろう。救済の機会は罰によって与えられ、贖罪という行為によって自ら
を救うことが可能となる。
しかしながら彼の仕事は国の命令である。それである限り、心情どうあれ、彼の行為が罪に問われることはな
い。彼は無実ゆえに救われぬ。

しばしの沈黙の後に、ラサドキンはうっそりと口を開き、
「贖罪……如何にも不毛な行為である。誰も君を咎めはしないというのに、君自身罰せられることを望んでい
る。だが誰にも君を罰することはできない。結局のところ贖罪とは復讐でしかないんだ。誰にでもなく自分自
身に対してのね。」

とにべもなく言い切った。オルロフの表情は、さらに影を深め沈鬱なものとなるが、ラサドキンは構わず続け
る。

「少なくとも国はは贖罪など求めないだろう。結局のところ贖罪は自己満足でしかないだが……だが自己満足
は別に悪いことじゃない。それに君の話を聞いていて、面白いことを思いついた」

そう言ってラサドキンは顔中の皺に、深い影を重ねて笑みを作った。

「何を……」
オルロフはいぶかしんだ。
普段蝋人形のように無機質な白い肌には俄かに赤みが差している。
笑っているのだ。この男は。
誰が見たってそう見えるだろう。だが同時に誰が見たって笑っているようには見えない。

「大佐…貴方は一体何を考えて……」

ラサドキンは一層皺を深めて笑う。いよいよ悪魔染みた形相だ。オルロフを見る彼の目は子供のようにじゃれ
ている。

「聞きたいかね?」
「……」
「彼女を幸福にしてやろうと思う。それも石くれのような」
「石くれ……?!」
「そしてその幸福は愛によって紡がれる。そのために私は彼女を誠心誠意愛してやろうと考えている。きっと
幸福だ」

ラサドキンは唐突にそんなことを言った。その場に似つかわしくない、余りにも歯の浮くような台詞である。
オルロフはその言葉の意味するところを理解しかねた。

「時に同志オルロフ。君は愛とはなんだと考えているかね?」

オルロフは返答に窮した。何故大佐は藪から棒にそんなことを聞くのだろうか?
だがラサドキンにとっては彼の答えなどどうでもよいらしく、まごつくオルロフを他所に言葉を続ける。

「私はね、誰かに必要とされることだと思うんだ。人間は一人では生きていけない。だから互いに助け合って
生きている。人は人を必要としている。それは愛への飽くなき欲求だ。そして互いに必要とされていると感じ
たとき、愛は結実する。それは一つの閉じられた系だ。その中にこそ人間の幸福がある。その系を、両者の持
つ二つにして一つの愛で己で満たしえたなら、それはその系の中に置いてのみであるが、完全無欠な神の境地
にある様なモノだ。その中に至高の幸福が存在するもの私は考えている……それは果たして可能だろうか?」

可能か?と聞かれても発言の内容が抽象的でありオルロフには理解し難く、ますます疑問を深めた。

随分と哲学的な問いかけにも聞こえるが、いったいどういう意味だろうか?よもや恋愛相談をしているわけで
はないだろう。

オルロフはラサドキンの意図を計りかねて沈黙するが、ラサドキンは話の続きを言い出す様子もなく、彼の答
えを待っている。

「あの…それはどういう意味でしょうか?その可能かというのは……」

ようやくそれだけの言葉を搾り出す。

「別に道徳哲学を論じてるつもりはない。技術的に可能かと聞いているのだ」
「は?」
「例えば……彼女のここに」と言ってコメカミを人差し指でつつき「手を加えて、そういう風に感じさせるこ
とが出来るだろうか?」

ラサドキンは自分の考えをうまく言葉に出来ないでいるらしい。

「外科手術やその他の方法で多幸感を常に感じさせるようにすることは、可能かということでしょうか?」とオ
ルロフが理解の及ぶ限りの範囲でそう言ってみると、ラサドキンは我が意を得たとばかりに「そう、それだ」と
首肯した。

「だが、それだけではない。その幸せを感じるための条件として、使用者の愛……必要とされることを条件と
して設定できるだろうか……」

前例のないことではあるが、彼の知る幾つかの技術を組み合わせればそれは恐らく可能であろう。これは興味
深いとオルロフは感じた。

「恐らく可能でしょう」
「ほう!?」

そう言った瞬間、彼は後悔した。それはいけない、してはならないと彼の良心がそんな外法を拒否したのだ。
しかし同時に一瞬でも興がそそられた事に自分でも戦慄した。探究心というヤツには分別がない。だからこそ
、それを良心で監督していかなければならないのだ。
それはオルロフが己に課した道徳律である。ただでさえMAIDの開発を命令されただけで良心が咎めているのだ。
この上、さらに人間性を奪うようなことをさせられてたまるものかとオルロフは思った。
だが、しかしそれと同時にオルロフはラサドキンの言い出した考えに、ひどく魅せられてもいた。
思考がこれまでにないほど弾み、その為のメソッドが、すでに彼の頭の中で恐ろしい速さで組みあがっていく。

自分の考えに興奮しているラサドキンの顔は赤い。同じくオルロフの顔も紅潮している。

「では、やってくれるか?上には私から話をつけておく」

返答に窮したが、しかしオルロフ自身、良心では拒否しつつもそのプランには魅せられていることを強く感じ
ずにはいられなかった。
彼の求道者としての業と、人間としての良心とがせめぎあっていた。

「どうした?」

と言ってラサドキンはオルロフの顔を覗き込む。その尋常ではない顔色には、有無を言わさぬものがあり、気
弱なオルロフにはどうにも抗えそうにない。
オルロフはつい「ええ、まぁ」と曖昧な返事をした。しまったとは思ったが、だがこれは科学の進歩、ひいて
は人類の幸福に繋がると自分の良心に言い訳をした。
その場の空気に流されてしまったのだ。

「じゃ、よろしく頼むよ」
「はい……」

魔が差した瞬間であった。



*

最終更新:2009年09月20日 11:51
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