春の日差しは心地よい。夏の日差しは、あのジメジメとした暑さが嫌いだ。秋の日差しは寒さが交じって、気持ちよくない。冬なんて論外だ。
私なりの日差し談義を心の中で論議させた上で、あらためて春の日差しは気持ちが良い。病院の屋上は、患者さんや職員のシーツが物干し竿の上で仲良く干されており、時折来る風によって靡かせた。
金網によって囲まれた屋上には、私だけしか居ない。ベンチに座っていた私は腰を上げると、ふらつきながら、視線の先で防御陣営を取っている金網に向かう。そこへ着くと、背中でもたれる様に、金網に背中を預けた。そして、ため息をつく。
「もし私に両手があれば、命は投げ捨てるのになぁ」
私は両手を失った手首を見た。手首の先には手の平と、十本の指は存在しない。
手首から先は、まるで何もなかったかのように、断面図には包帯が二重三重に巻かれていた。私は、Gによって両手を失った可哀想な女性だ。
地続きがなく、海に囲まれた
楼蘭皇国はGによる被害がもっとも少ない国だった。といっても、少数の群れで大陸から渡っていく飛行型Gによる襲撃があるぐらいだ。それに伴う被害も少なく、一ヶ月に一回ぐらいの確立で新聞の記事に載るぐらいの頻度だった。
そうした平和ボケに包まれた私の家は、Gの襲撃を軽視していた。でも一週間前、それは起こった。飛行型Gによる、私が住んでいる町の襲撃事件。
幸い、死者は出なかったものの、私の両手は貪欲なGによって食い潰された。そして私の妹は全治数ヶ月の重傷を負い、地方の病院では手に負えないと診断され、倭都に搬送された。
家族の中で被害にあったのは、私と妹だけだった。父と母は無事だったのが、唯一の救いだ。
「あーこんなとこで遊んでいる人、発見」
能天気な女の人の声が、屋上に設けられたドアの方に聞こえてくる。屋上に通じるは、私の前方にあるので視線を手首から真正面に向けた。ドアが風に乗って勢いよく閉じる音がすると、一人の女性が立っていた。腰まで届く後ろ髪に、前髪は額にかかるぐらいの位置で綺麗に一直線に整えられていた。
そんな女性……黒江さんは過去に、Gの被害にあった女性だった。私と同じ、患者さん用の白色のワンピースを着ており、両足にはよれよれになった白色のスリッパを履いている。
「ここは危ないよー」
と言いながら、黒江さんの視線は雲ひとつない青空に向けられていた。彼女の右手にはなぜか真っ白の一枚の紙がくしゃくしゃになりながら、握り潰されている。私は、黒江さんのことがよくわからない。目立った外傷はしているわけでもないし、健康体そのもの。
だけど、私や他の人と話すときだけ、視線を背けるのだ。精神病なら内科の病室へ送られるはずだが、黒江さんは私と同じ外科の病室。私は他の人と共同部屋で寝泊りしているが、黒江さんは個室だった。
「全然、危なくないよ。こんな手で、ここから落ちるわけないじゃん」
と言う私の隣に、黒江さんは金網に背中を預けた。私の両手は無いので、二メートルを越える金網をよじ登って、一人鳥人間大会をすることは不可能に近い。偶発的な事故で、金網の一部が破けてしまったら、両手を使うことなく空中浮遊できるのだけどね。
「手が無ければ、脚があるじゃないか。あら、これって自殺教唆罪かしら」
黒江さんは
一人で突っ込み、一人で笑い出す。視線は私に向けられず、緑色の物干し竿で吊られている洗濯物を見ていた。黒江さんは、私が知り合った患者の中で、一番ポジティヴ思考を持っている。多分、目立った外傷が無い黒江さん本人からしてみれば、の話だけど。
「あーあー。なーんで、鴉って黒いのかねぇ」
黒江さんの独り言は続いた。私はふと空を見上げるが、雲ひとつ無い空に鴉なぞ飛んでいるわけでもなかった。黒江さんの視線は、空に向けられている。大きく見開いた両目に映るお空に何かが居るのか、探しているように見える。
「あの、なにか居るんですか?」
「鳥さん。鴉じゃないよ」
私は青空を見上げるが、そこには鳥は一羽も居なかった。やはり、黒江さんの頭は変だ、と思った。しばらく黒江さんは黙り込み、ずっと空を見ている。
その間、私は屋上から出て行くタイミングを見失い、彼女の隣で呆然としていた。鴉なんて飛んでいるわけじゃないのに、と思いながら、黒江さんと同じように私は見えぬはずも無い何かを探している。
「私ねー実はこの病院に三年間過ごしているんだ」
右手に潰された真っ白な紙を凝視する黒江さんは、そう言って話を切り出した。私は、少し驚いた。てっきり、私より数ヶ月早く入院した患者さんだと思っていたのだから。
「十五歳のとき、Gに襲われたんだけど、咄嗟にゴミ箱に隠れたおかげで怪我は無かったんだ。でもね、それ以降私はGを連想させる黒色に対する恐怖心が出来きたのよー。紺色は大丈夫だけど。寝るときは苦労したよ」
黒江さんは能天気に自分の過去を明かした。それと同時に、私はだから黒江さんは私の顔を見ないんだなと思った。私の髪の毛は黒色で、黒江さんから見てみれば、Gを連想させる狂気なんだと。だから部屋も個室だったわけか。
「それにね、私の身体は瘴気で犯されているんだよねー。人に感染するわけじゃないのに、家族は私を居なかったことにしているんだ。家族が私にしてくれることは、偏見と差別。それと、世間体を気にして、私をこの病院に閉じ込める為に、お金を払っていること」
瘴気が人に伝染しないことは、私でも理解できている。しかし、人間から人間に感染しないわけだが、Gから人に感染することはあった。瘴気に犯された人間は、一見健康に見えるが、体の内部である臓器などが腐敗し、最終的に死に至る恐ろしいものだった。
だが、世間一般……特に各国から切り離されている皇国にとって、それは人に感染する不治の病だと認識されていた。それがデマだとしても、偏見と差別は消えるわけでもない。
「だからね、私はあんたを見ることが出来ないんだ。あんたがどんだけ可愛かろうが、私の目には映らない、映ってくれない」
右手で持っていた、くしゃくしゃになった紙を両手で広げる黒江さん。食い入るように、真っ白に染まった紙を凝視していた。
「でも私は、黒江さんのことが見ることができる。それって、不公平じゃない」
「バカねー。私が見えなくて、あんたが私を見ることが出来たら、それは不公平じゃないわ。さて、お話は終了ー。さっさと部屋に戻って、お昼ご飯食べなさい」
黒江さんはそう言うと私は渋々、腰を上げた。黒江さんに反抗する気力がないので、素直に従うことにする。靡く風に身体を揺さぶられながら、病院の中へ通じる引き戸を手首で引き、中へ入った。私が屋内に入れたことを黒江さんにアピールするため、少し強く戸を閉めた。真っ白な壁と、緑色の階段を見ながら、深呼吸をする。三十秒間、その場で深呼吸を繰り返すと、先ほど閉めたドアに振り返る。静かにドアを引くと、黒江さんの後姿が金網の向こう側に見えた。
「かごめ、かごめ。籠の中の鳥は。いついつ増やる。夜明けの晩に」
黒江さんは、かごめの唄を口ずさみながら、顔を見上げて青空を見ていた。
これで何回目だろうか。黒江さんが自殺未遂したのは。
それから四日後、黒江さんは屋上から自殺した。黒江さんの遺体は家族の下に届けられず、病院の方で簡単な葬式と火葬が行なわれた。私は葬式と火葬には出席せず、病院のベットで寝ていた。黒江さんの約束どおり、一ヵ月後に会うつもりだったから。
事件から一ヵ月後。私の退院は正式に決まった。それと波長が合うかのように、黒江さん事件で封鎖されていた病院の屋上が開放されていた。両親に「少し用事がある」と言い残し、夕暮れに染まった空を眺めながら、私は屋上に居た。
洗濯物は干されておらず、金網に囲まれた四方の空間。
私はいつものように、金網に背中を預けた。
「かごめ、かごめ」
掠れた少女の声が、どこからともなく聞こえてきた。辛うじて、かごめの唄だと分かった私は深呼吸をする。そして、黒江さんの言っていた『真っ白な髪の毛をした少女』の話を思い出した。
「籠の中の鳥は。いついつ増やる。夜明けの晩に……」
掠れた声は、段々とはっきり聞こえてくるようになる。まるで、すぐ傍に居るかのように思えてきた。
「後ろの正面、だぁれ?」
耳元で、囁かれた。私は止まらない冷や汗を垂れ流しながら、背中を預けていた金網に向かって、身体を向けた。
金網の向かい側。あの世とこの世を結ぶ、三途の川のようなスペースに一人の少女が立っていた。真っ白な髪の毛。後ろ髪は腰に届くほど。眉やまつ毛も真っ白に染まっており、瞳は赤色に染まっていた。
白色の着物に、紺色の袴を着た少女は私の方を見ながら、不気味な笑みを浮かべていた。
「こんばんわ」
放心状態になりかけた私を引き戻すかのように、少女は呟いた。ある意味、それを予期していた私は「こんばんわ」と返事を返した。
「黒江さんは、わたくしに『願い』を頼むとき、これを貴女に渡して欲しいとおっしゃいました」
少女は、くしゃくしゃになった一枚の紙を金網の隙間から、私に渡した。両手の無い私はそれを口で摘み、身を屈めた。口に挟んだ紙を、足元に落とすと、私はそれを飛ばされないように右足で優しく踏んだ。
「あの人は、何をお願いしたんですか?」
作業を終わらせた私は、黒江さんの願い事が気になったので、尋ねる。少女は暁に染まった空を見上げて、こう言った。
「この世から、黒色が無くなって欲しいと」
そうですか、と私は返事を返した。なるほど、黒江さんらしい願いことだと思う。
「それでは、わたくしは用が済んだので、お暇させてもらいます」
「最後に、ちょっとだけいいですか?」
この場から去ろうとした少女を引き止めた。私は金網に顔を寄せ付けると、すぐ傍で佇む少女の耳元に小声で囁いた。少女は私の言葉を聞くと、不気味な笑みを浮かんだ。
「ええ。呪うのは得意ですよ」
少女はそう言うと、私は後ろを向いた。全てが終わったことを確認した私は、ちらりと金網に視線を向けると、そこには誰も居なかった。真っ白な少女の存在が、まるで幻のような錯覚に陥る。
でも、あれは幻でも虚無でもなく、れっきとした現実と認識してくれたのは、黒江さんの遺書である紙が、右足によって踏まれたままだったからだ。
私は、紙に書かれた内容を見ることはできない。両手が無い私にとって、必死になれば確認できるのだが、そんな気になれなかった。無論、これは黒江さんなりのジョークなのかもしれない。
鴉の鳴き声をすると、私は空を見上げた。夕焼けに染まる空に、一羽の鴉が羽ばたいている。これから訪れる暗闇に畏怖しているのか、鴉はずっと鳴き声を張り上げていた。
鴉に同調するかのように、私はいつの間にか、涙を流していた。止め処なく流れる涙に、私は手首を使って、両目を擦った。
そうだ、黒江さんは死んでしまったんだと。私は死んでいこうとする彼女を止めることができず、一緒に付き添うのもできなかった。
私の前に現れたあの少女は、死んでしまった黒江さんの願いことをかなえてくれる死に神なんだ。だから、もう黒江さんは居ない。憎たらしい口調は、もう聞けないんだと。
そう思った私は、身体を震わせて、嗚咽を漏らした。