(投稿者:怨是)
1945年3月3日、明朝。
アシュレイはコーヒーショップの傍の路地裏で煙草を吹かしながら、僅かにぬくもりを帯びてきた風から春の訪れを満喫していた。
この辺境の町アオバークには、
ベーエルデー連邦各所へ通じる鉄道以外は何も無い。あるとすれば場末のコーヒーショップや何かの工場、住宅街くらいのものだ。
それでもアシュレイは、この町を気に入っている。絶え間なく人が出入りする割に人口密度がそれ程多くはないので、人間観察を誰にも邪魔される事なく続けられるというのが主な理由である。
「お、奇遇だねェ、エディボーイ」
「……ジャンか」
「いやぁトチったよ、トチった」
ジャン・E・リーベルトが悪戯っぽい笑みを浮かべながら頭を掻き、路地裏へ歩みを進めてくる。
彼と出会うのは、これで三度目だ。多くの神話が三位一体を唱えている通り、この数字は縁起の良いものとされている。日付も鑑みれば、アシュレイにとってこれほどの吉日は無い。今日こそは、あのルームナンバーの鍵について訊かねばならない。
ただ、それでも少し時間が欲しかった。単刀直入に訊くのを少しだけ先送りにし、ジャンの発言に乗る。
「どうしたんだ」
「何、ちょっくら会社を立ち上げたかったんだけどよ。先立つアレが必要だろ? ちょっと手持ちじゃ足りなくてさ。そんでここらの銀行に小切手持ってったら……」
「持ってったら?」
「銀行員の奴ら、どいつもこいつも俺を乞食か何かだと決めて門前払いしやがった! 髭くらい剃っときゃ良かったぜ」
この男の行動原理は相変わらず読めない。流離いの哲学者が、会社を興す。何の関連性があるのだろう。
アシュレイはその疑問を隅に置いたまま、挨拶代わりにアドバイスだけでもする事にした。
「そいつは災難だったね。レクランド銀行ほどじゃないけど、ここの銀行もケチな事で有名だぜ」
「ったく、来る者拒まず政策が聞いて呆れるぜ! 俺みたいな偉大な奴がこれからビッグな事をやってやろうってのによ」
「刹那主義者はみんなそう云うんだよ」
得意気に夢を語るジャンを、アシュレイは冷笑した。
少なくとも目の前のこの男から違和感や恐怖感を覚えることはあっても、大それた夢を成し遂げられる程のオーラは感じられなかったのだ。
鼻で笑われたのがよほど悔しかったのか、ジャンは珍しくムキになったようだった。
「あ! お前、この俺がその場の勢いで生活してると思ってるな!」
「違うのかよ。日銭を稼ぐ事で精一杯だって云ってたじゃないか。ツケだって払ってないだろ」
最初に会った時のピザ代も、この前会った時のコーヒー代も、ジャンは支払っていない。
大口を叩く人間は約束事には疎いものだ。アシュレイ自身がそういう手合いだから、そこのサングラス男が踏み倒すつもりでいるのは容易に想像が付いた。ご大層な理想や信念を掲げておきながら果たせもせずに、自分との約束を先延ばしにして無様に路地裏で燻っているのは、他でもなくアシュレイ自身である。
それもあってか、ジャン・E・リーベルトという人物は他人と云う気がしないのは確かだったが、アシュレイの生活とて決して裕福なものではない。少しくらいは釘を刺してやりたいのもまた、抗えぬ感情としてアシュレイの胸中に存在した。
「馬鹿、お前、一回や二回の飲み食いはツケとは云わねぇんだ! それに、会社が出来たら金なんざいっくらでもくれてやるぜ」
「じゃあ一生貰えそうに無いな」
「いいのか? 俺が会社を作っても入れてやんねェぞ? いいのかぁー、本当に、いいのかァー」
「別にいいさ、俺はここの暮らしが気に入ってるんだ。応援だけはするけどね」
と云い終えて一息付き、
「――それと、ジャン、一つ訊かせてくれ」
仕事用に使っていたチョークをポケットから取り出し、壁に“303”の字を書く。
口で云えば良いものを敢えてこのように勿体ぶった伝え方をした理由は、この地で、それもたかだか二度か三度会った程度の赤の他人に“303”という言葉を出す事に伴う危険が、アシュレイをかつて無いほどに戦慄させ、喉を内側から絞めたからだ。
「どうしたんだ、いきなり。男からのプロポーズは受けねぇぜ」
「確か、あんたの借りてたホテルのルームナンバーは303号室だった」
「それがどうかしたのか?」
ジャンはとぼけた返答をする。アシュレイの震えは、それでも収まらない。
本当にただの偶然だとしたら――ホテルのキーに303号室が存在しないのは
エントリヒ帝国くらいだ――アシュレイの予感はただの杞憂だった事になる。もしかしたら偶然で済まされるほうが良いのかもしれない。踏み込まないほうが良かったのかもしれない。何度も、秒刻みで思いとどまった事もあった。
それでも、書いてしまったのだ。白い“303”の文字を。この路地裏の壁に書かれたチョークの“303”は雨が降るまで消えない。予報に拠れば、あと一週間は消えない。もう後戻りはできない。
覚悟を固めて、息を吸い込む。
「気のせいかもしれない……が、俺はどうしても因縁めいたものを感じたんだ。あんたは“303作戦”を、知ってるか?」
かつてエントリヒ帝国が実行した、グレートウォールのG掃討作戦――それが“303作戦”だ。
国内の優秀なMAIDを総動員してGを駆除するというその作戦は、出撃させられたMAIDの大半を喪失するという惨憺たる結果に終わった。生き残ったごく僅かなMAIDも無理が祟って機能停止へと追い込まれた。
当時の事は全て軍事機密とされており、本来であればこの“303作戦”という言葉そのものが、国外はおろか国内であっても誰も知らないという事になっている。あらゆる面に於いて冒すべからざる禁忌だ。エントリヒ帝国が今日に至るまでずっと蓋をしてきた、そしてこれからも蓋をし続けるであろう歴史の暗部だ。
それ故、もしもジャンが何も知らなければ「何の事だ」と訊き返され、仮にそれを知っていても口を塞ぐ側だったとしたら、アシュレイは死ぬ。それを何度も意識したアシュレイは、耳の外側まで熱を帯び、そのくせ臓物はすっかり冷えているような、名状し難い興奮のせいで本題に入る前から憔悴していた。
ジャンはそんなアシュレイの様子を見て、肩をすぼめて苦笑する。
「焦るなよ、エディボーイ。俺がそんな陰謀好きに見えるか?」
「そうじゃ、ないんだ。いや……何か、確信のようなものはある」
アシュレイは別に、当時のジャンと会話をした覚えは無い。が、どこかで見た。303作戦を遠巻きから眺めていた時に、見たかもしれない。ともすれば、どこかですれ違ったかもしれない。
狂気の沼に首まで浸かってしまう事を覚悟しつつ、アシュレイはそのまま続けた。続けるついでに、鞄の奥に入れていた布――ジャンと初めて出会った時に拾ったものだ――を取り出す。
「あんたの言葉もエントリヒ訛りだ。ベーエルデーの人とは発音が微妙に違う。いや、それだけじゃない! この布にも、“303を追憶せよ”と書かれてた。偶然にしちゃ出来過ぎてる。俺がどうかしちまってるだけかもしれない。でも、あんたを見ると他人だとは思えないんだ!
あんたは何か、とんでもないものを、それも爆弾のように取り返しの付かない感情をぐつぐつと煮え滾らせているんじゃないのか。俺もかつて、そうだった。今でもその感情が無いわけじゃない。だからなのかな。今あんたと居る、この瞬間も、俺はグレートウォールの土煙を吸い込んでいるような気がしてる。あんたからは、グレートウォールの匂いがするんだ。死神が腰掛けている、あの灰色の山肌の……」
「――エディボーイ」
「ん」
ジャンのいつにもなく低い声音に、アシュレイは口を閉ざした。
心臓がまだ、危険信号を発し続ける。まだ肌寒い季節で、そのうえ手袋もしていないというのにも関わらず、両掌は汗で湿り気を帯びていた。
「今日は確か、3月3日だったな」
「ああ」
いよいよをもって動悸が速まり、同時に、胸の心室及び心房の扉を叩く音が強まった。後頭部の重力の感覚が薄れ、足元は熱病に浮かされた時の軽さを伴っている。アシュレイはこれらの変調が狂気によるものか、それとも何か重大な危機を前にした人間の正常な反応なのか、断定しかねていた。狂気に対する免疫と、臆病な感情とが一纏めとなって備わってしまったのだ。
俺は狂ってるのか? 狂ってないのか? どっちでもいい、結論が欲しい。早くしてくれ! あまり焦らされると本当に狂ってしまいそうだ。
食い入るように、目の前のサングラス男――ジャン・E・リーベルトを見つめ続けた。
そのジャンは、ようやく口を開く。
「俺の誕生日だ。あと、戦友“たち”の命日さ」
「って事は、やっぱり……!」
「知ってるも何も、俺は当事者だぜ。あの作戦に対し、ベーエルデー政府は同情的な姿勢を示した。“俺達”を支援はしないが、咎めもしないと約束してくれた。そう、いわゆる不可侵条約って奴よ」
……彼の言葉が真実だとすれば、アシュレイの予感は何から何まで的中した事になる。
眼前の彼は確かにあの戦場で戦っていたのだ。そして、何らかの理由で、ここに居るのだ。
ジャンは始めに表通りを指差し、次に足元へと指先を運ぶ。気が付けば、ジャンもアシュレイも、路地から表通りに出ていた。
「このアオバーク第六番街道は、ただの道だ。そのただの道が、俺を“ジャン・E・リーベルト”にしてくれる。ここだけが、俺に安らぎをくれる」
「ありがとう……でも、良かったのか? もっとはぐらかそうと思えば、いくらでも煙に撒けたってのに」
「札付きの匂いが香ばしすぎたからな。お前さんが社会に何を公表しようと、誰も信じない。そんな匂いがプンプンしてる。さて、今度はこっちが質問する番だ」
彼の返答からは不可解な点が幾つかあったような気がしたが、それを鑑みる暇をアシュレイは得られなかった。
虚を突かれて狼狽している隙に、ジャンからの質問が割り込んでくる。
「なぁ、エディボーイ。灰色の反対は、何色だ?」
「な……に?」
アシュレイの思考が瞬く間に凍りついた。
その質問を何処で知ったのか。疑問とは裏腹に、反射的に答えてしまう。
「虹色だ。同じ質問をされたことがある。俺は虹色と答えた」
「虹色か、悪くない。だがな、俺からすりゃあそれは違う。灰色の反対は、黒さ」
「……何故?」
何故、虹色を否定するのか。何故、説得力があるように感じられるのか。何故、黒なのか。何故、その質問を知っているのか。
頭の中に無数の“何故”が注ぎ込まれる事に耐え切れず、吐き戻した吐瀉物のように一言そう問うた。
口から零れ落ちる疑問のうち幾つかを汲み取ったのか、ジャンは面白がって口元を歪める。
「灰色は光が当たれば白くなる事もできる。だが、黒はどこへも行き付かない。例え光が当たろうが、黒は黒のままだ。墓場にお似合いの、取り返しが付かねぇ色なのさ」
「墓場……? ジャン、お前、何を云っているんだ。何をしようとしてるんだ! 教えてくれ……!」
「云われなくても、教えてやるよ」
ジャンが初めてサングラスを外すのを見て、アシュレイはこの上ないほどの後悔を味わった。
この男の双眸は、何に例えるべきか。決して覗き込むべきではない、黒々とした義眼のようなものが、本来は白と黒と何かで彩られた眼球が収まっているべきその眼窩に鎮座していた。二つの義眼は真っ黒で、光も通さないといった風情をし、それがアシュレイを更なる戦慄へと引き摺り込み、打ちのめした。
アシュレイが関心を持っていた事柄については予想が付いていたが、肝心な、そして致命的な部分で予想外の事実が告げられた。
彼の人ならざる気配は、初対面のあの1月14日の明朝の時から感じていたが、まさかプロトファスマだったとは夢にも思わなかったのだ。せいぜい、単にあの
シュヴェルテやかつての自分のように、絶望のあまり精神にヒビの入った者だと、その程度だろうと決めて掛かっていた。
恐ろしさのあまり、アシュレイは瞬きすら忘れてしまったかのように、ジャン・E・リーベルト――ではなく、カ・ガノ・ヴィヂを凝視した。いつの間にか、アシュレイが握っていた筈の細長い布はカ・ガノの手に渡り、彼はその布を頭に巻いて両目を隠していた。
――考えても見ろ。俺は今まで、プロトファスマ、つまりはGと人間の相の子と同席した挙句、語らっていたんだ! こいつは立派に社会に溶け込んでいる。それも、俺よりもずっと利口に! これ以上の恐怖が、これ以上の衝撃が、今まであったか……?
プロトファスマは
一人ではない。
EARTHからの報告では、かなりの数が存在する。だとすれば、今こうして対峙しているカ・ガノ・ヴィヂ以外のプロトファスマも、人間として何処かで生活し、ごく当たり前のように財産を築き上げ、誰かと会話している事になる。303作戦が実行されたのは何年も前で、そしてカ・ガノ・ヴィヂは『戦友たちの命日』と云った。そこから導き出された結論が、アシュレイを絶望させた。
逃げ出そうにも足は動かない。それどころか、どうやら心の至る所がまたオシャカになってしまったらしく、笑いが込み上げてきてさえいた。
ついに本当に気が狂いそうになった時、何者かの咎めるような声が、連続した金属音と共に表通りに響き渡った。
「見つけた! アレだ!」
「そこの民間人、そいつから離れろ! 喰い殺されるぞ!」
私服を着てはいるが、その立ち振る舞いは紛れも無く兵士達だった。金属音も怒声も、この兵士達によるものだとすぐに解った。彼らは種々の軽機関銃をカ・ガノ・ヴィヂに向けていた。数えてみれば数十人程、つまりは小隊規模のようだった。
ただ、アシュレイは正気を取り戻すことは出来ても、相変わらず足に力が入らない。状況が理解の範疇を超えた事に対して思考が追いつかないだけではなく、心の奥底で何者かが『いっそ、この状況を楽しんでみよう』と囁いてしまったせいでもある。
すかさずカ・ガノがそのアシュレイのコートの襟を片手で引っ掴み、兵士達の前でぶらぶらと揺らして見せた。
「そうは行くかよ! 治外法権を無視してここまで土足で踏み込むのは感心しないぜ? どこぞの紳士さん方」
「ジャン、いや、カ・ガノ……?」
「適当に話を合わせろ。何ぁに、殺しゃしないさ。ここのお偉方からのご厚意をフイにする程、俺ァ腐っちゃいねェからよ」
カ・ガノがアシュレイに小声でそう云うと、兵士達の群れへと再び怒号を浴びせる。
「だいたい、お行儀が良くねェな。ここは非武装地帯に登録されてる。とっととその粗末なブツを引っ込めて帰ったらどうなんだ? ええ! お呼びじゃねェんだ、お前ェ等はよ!」
「非武装も虚無僧もあるか。おまえさん自体が武器みたいなもんだからな。引っ込めるならおまえさんも道連れだ!」
兵士達の、そのリーダー格らしき中年の男が、いかつい義手の右腕でカ・ガノの身体を指し示す。
その指に導かれるように、アシュレイはカ・ガノのほうへと顔を向けた。彼は不敵な微笑を浮かべていた。
「ククッ……よくわかってるじゃねぇか」
にわかに、兵士達がどよめいた。が、アシュレイにはその理由はよく解らなかった。
カ・ガノがたとえ身体能力に優れていたとしても、小隊規模の兵士を一瞬にして突破せしめる程の動きを見せる事など出来るのだろうか。そもそもプロトファスマ自体、アシュレイは『人間に擬態したG』という知識しか持っていない。そのせいでより一層、カ・ガノの見せる自信に満ち溢れた表情と、兵士達の焦り様とが、アシュレイの認識の甘さを雄弁に物語っているかのように見えた。
アシュレイは元軍人であって、現在は軍属ではない。回ってくる情報は軍事組織のほうが圧倒的に多いのは、抗いようの無い節理だった。
「そう、俺の武器はこの指さ。出会った女は一人残らず絶頂させてきた」
「だがお前さん、今お前さんが抱えてる人質は男だ。とうとうそっちの道に目覚めたか?」
「馬鹿云っちゃいけねぇ。こいつが類稀な色男だってんで、女にゃ困ってないらしいからよ。こいつをエサに引き寄せるって寸法だ」
大声でそう主張するカ・ガノに、アシュレイは唖然とした。この男は、本当に、本当に何を考えているのか。
兵士側のリーダーは痺れを切らし、軽機関銃を構えなおす。
「三文芝居ならガキの時分に飽きるほど見せられた。今更やられちゃ大儀でならん」
「見物料くらい払ってくれよな」
「後でたんまり弾んでやる。まずはそいつを放してからだ」
「るせぇ! 俺が欲しいのは鉛弾の“おひねり”じゃねェ。トランクに詰まった“身代金”だったら考えてやってもいいぜ」
アシュレイの頭蓋骨に振動が伝わる。頭を指で叩かれている事に気づいた時には、既にその振動は止んでいた。
代わって、リーダー格である義手の中年が怒鳴りつけた。
「その金で悪事を働かれたら、それこそたまったもんじゃないだろう! いいか、状況はどう見てもお前さんが不利だ。如何な腕っ扱きとて切り抜けるのは難しいぞ」
「笑わせンな、石頭の馬糞野郎。モノホンの腕っ扱きってのはな、どんな時でも不利にゃならねぇもんさ」
再び、空気がざわつく。今度は兵士達ではなく、民間人によるものだった。カ・ガノが云ったように、ここは非武装地帯として登録されている。対G戦線から遠い区域だからこそこの制度は成り立っているのであって、そこで何かしらの揉め事が起きれば、当然ながら人々はこのように訝しげにわらわらと集まってくるのだ。
義手の中年が舌打ちし、何かを呟く。
「南無三、人が集まってきた!」
と云っていたのを、アシュレイは確かに聞き取った。そして二輪車のエンジン音の接近も、同時に。
「おいカ・ガノ! 早く乗れ!」
「解ってるって。そんなに急かしてくれるんじゃねェよ」
アシュレイは振り向くや否や、勢い良く放り投げられた。
受身を取るまでの僅かな時間に、包帯だらけの男がバイクを運転しているのが見えたが、きっとあの男もプロトファスマなのだろう。
そう思っている間に、バイクのマフラーから黒煙が吹き上がる。カ・ガノが兵士達に向かって手を振った。
「ショーはまた今度に延期だ! あばよ!」
「この!」
慌てて銃を構えた兵士を、中年が制す。
「いや、撃つな。深追いすればあとで上層部にとやかく云われる。撤退するぞ」
「この青年は連行しますか?」
兵士の一人が、険しい面持ちで袖を直しながらリーダーの中年男に目配せした。
中年男は、受身の姿勢のままのアシュレイの両腕を支える。アシュレイもそれに大人しく従う。
「ただでさえ難儀な身の上だ、名目上は保護という事にしよう。B班は武器を下水道経由で運んでくれ」
兵士達の半数ほどが慌ただしく武器を片付け、野次馬の市民達へと遠慮がちに視線を遣る。
その傍らで、中年男が残りの兵士らを集め、声音を低くして伝えた。
「よし、おれ達もさっさと車で行くぞ。どういう訳か、ここの国はご婦人方の井戸端会議のように情報が広まる」
「ちょっと待ってくれ! あんた達は誰なんだ!」
すっかり置いてけぼりになった事を悟ったアシュレイは、我に返って中年男の腕を掴んだ。
忘我に陥っていたつい先程までとは違い、幾分か思考が透明感を増している。よく考えれば、彼らの素性について何も知らない。目の前の彼らはどういった目的で――先程の中年男の発言から、カ・ガノ・ヴィヂの抹殺であるという目星は付いているが――ここへやってきたのか、そしてどういった事情で自分を保護するのか、あらゆる疑問が氷漬けになったままだ。
「名刺は後で手渡す。これでも“性根”は軍人であるつもりだ。来てもらってもいいかい、お友達」
黙って車に乗り込む。
あの騒ぎの当事者の一人として、市民の目に映ってしまった以上、他に方法も無い。彼らも急いでいる。なら、疑問の解決の為には素直に同行するのが一番だと思ったのだ。
他のメンバーが乗り込むなり、ドアも閉めぬうちに発車した。他の車も次々とアクセルを全開にし、高速道路でも出さないような速度で現場を去って行く。
「――俺が故郷を追われて放浪している間に、途方も無い何かが、すっかり構築されちまった」
車窓から目まぐるしく移り変わる景色を虚ろな目で眺めながら、アシュレイは確信した。
真の序章とは、今まさにこの瞬間なのだ。
最終更新:2009年12月24日 22:20