薄暮

(投稿者:エルス)



楼蘭皇国首都、倭都は朝霧に包まれていた。
多くの民が寝床で毛布に包まる中、美濃は早くも布団を畳み、軍服に着替え終えた。
まだ朝日すら昇っていないこの時間に彼女は師である能義稀久大将の残した屋敷を後にした。
肌寒い外気に体を一度、大きく震わせ、外套を纏えば良かったかと思いつつも、往く。
着いたのは神社だった。名を倭都招魂社と云い、護国の英霊を祭る場所であり、桜の名所である。
美濃は未明に、毎日ここへと訪れていた。まだ、その門は開いていないが、美濃はそこで挙手注目の敬礼をした。
一分程、美濃はそこで動かず、ただただ突っ立っていた。





信濃院が朝を迎えた。こつこつとまな板と包丁の奏でる音を響かせながら、巴が朝食を作っているのを、邪魔にならない
所に突っ立っている美濃は、ただほうと感嘆していた。次々と食材が調理されるのが、美濃にしてみれば珍しかったのだ。
何故なら、美濃の作る料理というのは白米ではなく葦であって、おかずといえば釣った川魚か漬物程度で、味噌汁など飲む以前に作っていない。
腹が膨れればそれでええと云う美濃は、巴の作る本格的な(というよりも庶民的な)料理が、豪く素晴らしいものに見えるらしかった。

「美濃殿、出来ればそこの醤油を取って貰えないだろうか」
「む、これか」
「そうです。ありがとうございます」
「何、気にしないでええよ」
「……意外ですか?」

巴が振り向きもせずに淡々と食材を切りながら云う。
しかし美濃はそれを失礼とも感じていないようで、やや首を傾げると、腕を組んだ。

「何がじゃ」
「私が料理をしていることが、です」
「……そう特別な事ではあるまい」
「そうですか」

顔色を変えずに巴は包丁仕事を続けていく。無駄がなく素早く、てきぱきとした動作を美濃は見ながら、巴の次の言葉を待っていた。

「ここは普段、時間を持て余す事が多いです、なにかはじめてみたらどうですか?」
「既に老い先短い野狐が、今更何をするのか。今のままでええよ」
「……私も実働六年目です。全ては気の持ちようではないでしょうか」
「気か。つまり精神じゃな。ふむ、そうじゃな、何か始めてみるかの」
「はい。殿下と共に何かをしてみれば宜しいかと」
「編み物、か」
「それも宜しいかと。他にも茶道や華道、実に多くのことに挑戦しておられますので」

美濃はまた、ほうと声を上げ、表情を少し変えた。
笑ったようでもあるが、注意して見ねばそうと分からない下手な笑いだ。
信濃から自然に笑えるようになれば良いと言われているが、これでは相当長く掛かるだろう。

「実に多才じゃな。……ならば儂は俳句でも、始めるかのぅ」
「はい。私は家事はできますが……そこまではできかねますので」
「んむ。あれは奥が深いからの、儂も今までは読むだけでそれを創ることはせんかった。しかし、やるからには、じゃな。屋敷の書庫でも漁ってみるかのぅ……」
「おそらく殿下は時間をもてあましているので……」
「つまり、相手をしろと、云う訳か」
「はい。よろしくお願いします」
「んむ、引受けた。ところで巴、その敬語はやめい。儂を敬う必要などありゃせんのぢゃ。普通に喋れ。挑みかかってくるような感じでもええ」
「……」

こほん、と巴が咳払いをして、ニヒルな笑みを浮かべた。それが何時もの巴であって、今までのは先輩に当たる美濃への上辺だったようだ。
それを見た美濃はまたほうと声を上げる。どうやら、それが口癖らしい。

「では、そうさせてもらう」
「儂もその方がええよ。堅苦しいのは軍だけでええのじゃから」
「よろしく頼む」
「……ええ香りじゃな」

美濃が鼻で笑った。無論、表情は口元を本の僅かに吊り上げて、少し目を細めているだけだ。
巴はというと鍋の前に立ち、変わらず調理している。その鍋からは、美味そうな味噌汁の香りが漂っていた。

「料理ばかりは譲るつもりはない……」
「……儂の作る飯は質素じゃからな。譲るも譲らぬも始めから決まっておる」
「そうか……もうそろそろ仕上がる。殿下を呼んできてくれ」
「んむ」

美濃はゆっくりと歩いていく。その小さく、短い足が一歩を踏み出す度に腰から吊るした軍刀が音を立てている。

「ふむ……」

小さい背中をした美濃の後姿を見送った後、巴は味噌汁の味を確かめた。





平和とは、長くは続かない。信濃達が食事を終えると、その時を待っていたとばかりに近衛師団の中将が来客として信濃院を訪れた。
前髪が後退し始め、鼻の下に白い髭が少し伸びている程度しか特徴の無い中将は、温和そうな雰囲気を持ちながら剃刀のような鋭さを持つ人物だった。

「両名とも聞け、事態は喉元で起きるまでに切迫している」

二人とも、息を呑むでもなく、まったく動く気配がない。
中将はそれに何とも思わず、淡々と続けた。

「本日夕刻、殿下が倭都招魂社を参拝される事は承知の事だろう。それを狙って、青年将校の一派が動いている」
「……倭都招魂社を、血で汚す御積りか」

倭都招魂社―――その一言で美濃が口を挟んだ。
多くの戦友が眠る場所でもあり、今の楼蘭の基礎を作り上げた英霊の眠る聖域に血を流すという行為、それを美濃は耐え難い屈辱だと感じ、憤慨していた。

「その積もりは毛程も無い。しかし、皇國の若年層にはその神聖さが、いや、英霊を敬う事を知らん者が居るのだ。知識だけ手に入れた愚者の行いが、どんなものであるかは分かるだろう」
「……それは、ただの獣では―――」
「云い過ぎだぞ、美濃」
「……失礼した」
「脇道に逸れた。本題に戻ろう」

青年将校らは計画露見前に武器、弾薬、刀剣類を強奪し、既に倭都に潜伏している。
潜伏場所は判明していないが、倭都招魂社参拝時かそれ以後に暗殺、もしくは襲撃を敢行すると思われる。
周辺一帯は近衛で封鎖したいが、今回は公の場に出るという事もあり、それも叶わない。
警備と封鎖は最小限に留めつつ、青年将校らの暗殺、襲撃を阻止、これを撃滅する。

「よって今回は外を我々が担当し、内を少数精鋭の兵と両名が担当することとなる」
「つまり、儂らは佐々介三郎と安積覚兵衛、ですな」
「殿下が藩主様ならば、そうなる」

それは冗談にもならず、そのまま空気が沈滞する。
重々しい空気を自ら進んで切り開いてゆく陽気な人物はここには居らず、その重々しい空気のまま説明は進んでゆく。
そして中将が帰ってゆくと、美濃と巴は顔を見合わせて、一度だけこくりと頷きあった。





夕刻、重々しさとは無縁に華々しさがあるのは、少数の報道陣と野次馬が居るからだ。
暗殺、襲撃があると知っておりながら、彼らを抑えるのは少数の憲兵達で、小銃を持った兵士は倭都招魂社の門の前に立っているだけだった。
美濃は何時もの無表情で報道陣のフラッシュに一瞥し、見られぬ位置まで歩くと銃嚢から拳銃を引き抜いて、初弾がちゃんと装填されているかを確認した。
ふうと息をつく。美濃にしてみれば青年将校らは国賊に等しい。護国の英霊を愚弄するこの行為を、断じて許す訳にはいかぬと表情に出ぬ怒りを胸中に隠していた。

実は、参拝は既に始まっていた。せめてもの対策として時間をずらすという、足掻きにも近い手が取られたのだ。効果の程は、期待するだけ無駄だろう。
巴が信濃を見守る中、離れた桜の木下で美濃は水筒を一口飲んだ。中身は値の張る楼蘭酒だった。美濃の水筒は水が入っていることのほうが珍しく、大体は酒が入っている。

「このまま終わってはくれませんかね」

近衛である少尉が、美濃に言った。精悍な顔立ちをしていて、やや困ったように口元を吊り上げている。
その少尉を見上げて、美濃は少尉に水筒を突き出すと、飲めと勧めた。間接キスなど、その言葉自体知らないのだろう。
少尉は少し困った顔をしたが、仕方なく受け取り、飲み口から匂いを嗅ぐと、今度はほとほと困った顔をした。しかし、薦められたので一口飲む。美濃がふんと鼻で笑った。

「何も起こらぬのなら、それが好い。血は流れぬのだからの」
「そうですね……美濃殿、これは酒ですか?」
「飲んだのなら、貴様も同罪じゃて」

まいったなと少尉は美濃に水筒を返した。美濃はそれを受け取ると、一口飲み、幸せそうに酒臭い息を吐く。
それを見ていた少尉が、頭を掻いて苦笑しながら云った。

「全く、程々にして貰いたいですなぁ」
「これだけは無理じゃな……ぐっ―――」

突然、美濃の腹部に激痛が走った。腹を裂かれ、火鉢を突っ込まれたような激痛が、腸を喰い千切っているかのようにのた打ち回っている。
膝を付き、少尉の手を見れば、輪胴式拳銃(リボルバー)が握られていた。銃身が変に太い。サプレッサーとか云う物かと、美濃は錆の味を飲み下しつつ推測した。
銃口から一筋、硝煙が漂っている。

「でしゃばるのも、邪魔するもの、ね」
「何……貴様、国賊じゃと……しかし、儂を殺めたとしても、何も為らぬぞ……!」
「目標は貴方ではない。戦力減衰が我々の目論見です。ですから貴方は―――」

少尉が言葉を言い終わる前に、信号喇叭の音が響いた。突撃を知らせるそれは美濃が腰に括り付けていた喇叭を手に取り、激痛に耐えながら吹いたものだった。
二度目の突撃合図が鳴り響いた後、驚いていた少尉は漸く美濃に拳銃の残弾全てを叩き込んだ。力無く地面に倒れると、美濃はぴくりとも動かない。
偶然だったのだろう。喇叭が合図になったかのように門から武装した将校が侵入し、それを既に察知していた巴は群れている将校達に短機関銃の猛射を浴びせた。
勿論、すぐに弾切れとなり、弾倉を交換するのだが、その隙に将校達も応戦した。しかし、銃弾は途中で塵と消えた。信濃が持つ能力を、盾として使用しての戦闘である。

「……遠き砂国に散った同胞に死んで侘びて来い」

巴が呟きつつ、三本目の弾倉を短機関銃に叩き込み、また猛射を浴びせる。
他の近衛もそれと同じに、手に持つ武器を山となったものへ撃ち込み続けていた。
桜の木下に居る少尉は、弾の切れた拳銃を捨てると、美濃の拳銃を剥ぎ取った。
初弾が装填されていることを確認すると、信濃の居る方へと足を向ける。

「全く、皇族にこんな化物が居るとは、楠木閣下の云った通りだな……」

信濃の周りには近衛が三人居ったが、少尉は狙いを付け、ものの三発で片付けた。
少尉は軍靴を鳴らしながら信濃の前へ出ると、殺意も何も無い顔で、云った。

「……国が国民を嘲笑うとは、我々未来在る者達は幻滅致しました。殿下」
「ふむ……国が民を嘲笑う、と」

信濃は周囲で事切れている近衛に目を向け、すっと目を細めた。

「して、この首を落とした後のことは考えておるかの? 拳を振り上げることは容易じゃが、その後の収めどころ……どこにある?」

波の立っていない海のように静かだった信濃の目に力が宿る。
少尉は変わらず、何も無い目で見つめていた。

「収め所など幾らでも在りましょう。殿下、我我は未来ではなく、今を問うているのです。国の象徴たる皇族、それが偽りとは、さてどういうことか」
「ほう……偽りとはどのような意味かいの?」

信濃は口元を隠すように扇を広げた。
少尉は、臆することもなく続ける。


「殿下は既に屍(かばね)、人で無い存在でしょう。それが、皇族としてまだそこに居る。象徴に中身が無いというのは、鍍金(メッキ)のされた鉄葉(ブリキ)でしかありません。我我は純金の中に鉄葉が混じっているのが解せぬのです」
「失礼なことを申すの……して、汝はどこまで調べれたのかの?そう……なぜ汝のいう殿下がお隠れになったか、その真実をの」
「我我は調べてはいません。ただ教えて戴いただけ。真がそこに在るのです。経過など要らぬでしょう。現に殿下は、経過など無しにそこに居るのですから」
「ふむ。哀れじゃな……自らの欲が為に動く者、其の者に好いように振り回されておる。いや、まだ良いのかもしれぬ。知らぬのならばよいこともある。知らぬ振りをすることもない」
「振り回されるのが青年将校、我我中間に在る者達の運命です。知らぬのも、また運命。駒が対極を見れぬのは歴史の常でしょう。駒は取られ、二手前まで友であった駒と対峙する。そのような、下らぬ壇上遊びです」
「確かにの。 ああ、斗国の言葉にこういったのがあったの──無能な働き者は処刑するしかない……とな」
「……ならば刑場はここに在り。我が志命、桜と散るに躊躇無し。道連れとして、殿下も共に」


殺意も何も感じられない緩慢な動作で、少尉は拳銃を信濃に向けた。覚悟と決意の上に成り立った彼らの意思だ。
後ろでは襤褸雑巾のように地に横たわるものと、それを盾に戦う将校達が近衛に駆逐されつつある。
しかし、撃てば変わる。犠牲に比例した結果が、歴史となって刻まれる。彼らはその礎に為ろうとしていた。

「残念なことよ……だが覚えておくがよい。雀と鷹とではその見る目線が違うということをの」

そう云って信濃は静かに扇を構える。少尉の引金に掛かっている指先が動く。
信濃は、それ以上動かなかった。乾いた銃声が短機関銃と小銃の発砲音に混じって響く。

「―――な、に」

少尉の手を、赤く染まった手袋を嵌めた手ががっしりと掴んでいた。銃口はその手の主の胸に押し当てられていて、紺色の布に鮮血が染み出している。
拳銃の弾丸を身に受けたのは、美濃だった。歯をこれ以上無いほどに食い縛り、口元に血泡を付けた瀕死の美濃は、がくがくと震える足で仁王立ちしていた。
誰の目から見ても、立ち続けていられぬのは明白だった。その顔は蒼白であり、下半身は、既に赤で染まっている。

「……御國に仕えし兵(つわもの)が、護国の英霊を何と思うたか。憤慨以外の言葉が見つからぬぞ!……国賊!天誅!」

歯と歯の合間から搾り出されたような声にしては、それは大きかった。ふらふらと今にも倒れそうにしているが、しかし、美濃は倒れない。
その手でしかと軍刀の柄を握り、足に力を籠めた。稲妻に打たれたかのような激痛に喀血したが、美濃は止まれぬ。
抜刀し、構え、遮二無二に、しかし渾身の力を込めて袈裟を繰り出した。

「あ―――が」

深々と斬られた少尉は真っ二つに割れた。何度か痙攣したが、それも収まり、死んだ。
美濃も、糸の切れた人形のように倒れ、それきり動かなくなった。
赤が広がっていく。この場所で血が流れるのを一番嫌がっていた美濃の血が、今を変えようとした将校の血が、流れ続ける。
それまで表情の変化が見られなかった信濃が、目を見開き、唖然とした。

「美濃」

ぽつりと、信濃は云った。気づけば美濃の横に立っていた。
足場は血が川を作り、死臭が漂っている。青年将校らは既に駆逐された。
真実を求めた彼らは彼らの全滅で、呆気無く幕を降ろしたのだった。
信濃はそういう場所で、美濃の名を呼んだ。しかし、返事は無い。

「この大虚け!誰が死ねと申した!命を……命を粗末にするでない……起きよ、美濃。おきておくれ……」

服に血が染み込むのも、信濃は気にせず、辛うじて目を開き、ぱくぱくと口が動いている美濃の手を握った。
しかし、信濃の手は震えていて、顔は今にも泣き出しそうだ。美濃は察したのか、弱弱しくもその手を握り返す。
信濃は、はっとして涙を堪え、微笑んで見せ、云った。

「……そうじゃな。そうであった。妾は泣てはいけぬのじゃな」

美濃が少しだけ表情を変える。相変わらず下手な笑い方で、口元は血で汚れていて見えない。
目だけを細め、赤い唇をゆっくりと動かす。

「……おん、しの……けん、じゅ……う……」
「恩賜の、拳銃……これかえ?」

蚊の鳴くような声だったが、信濃は転がっていたその拳銃を拾って、その手に握らせた。
注意しなければ判らない程、小さく、美濃は頷く。その目は、何も見えていない。
それでも美濃は主である信濃を見ようと、必死だった。虚ろな目が忙しなく動いている。

「おお、きみ……もうし、わけ……ありま……せぬ」
「もうよい……汝はよくやった。妾が見届けた。汝こそ、真の忠臣である」
「あ……」



「ありがたき……ほまれなり……」



それきり、美濃は喋らなかった。









美濃は桜の木下で厳かに立つ老人の元へ歩んでいた。静かに桜を見て、手帳にすらすらと文字を記しているその老人はふと振り返る。
二人の目が合った。互いに泣いているようにも見える黒い瞳を持ち、傍から見れば何かに嘆いているようにも見えるその姿は、しかし山のように大きくあった。
老人は目を細めると、無言で首を横に振った。美濃はそれでも一歩踏み出そうとすると、両肩に手が置かれ、進めなくなった。
見れば、短い茶髪の侍女兵と黒髪の侍女兵が首を横に振ってしっかりと肩を握っていた。その後ろには、多くの侍女兵や兵士達が同様に首を横に振っている。
何故渉らせてくれぬのだと美濃は、泣きに泣いた。老人は桜の木下で、じっと動かなかった。その目は、微かに濡れていた。




事件首謀者の楠木中将死亡。今朝の新聞は総じて書き立てた。
家族と護衛を連れて逃亡中に陸軍の部隊がこれを発見、追跡し、銃撃戦の後に手榴弾で自決した、とのことだった。
結局、楠木が口を閉じたままで事は静まり、消えた。その大本に何が潜んでいるのかは分からないが、事は終息した。
信濃院に、再び平和が訪れていた。その信濃院の主である信濃は、可愛らしくも頬を膨らませ、赤面していた。
その向かい側には紺色の軍服と白いズボンを穿いた侍女兵が、仏頂面で座っている。

「ええい、うるさいのじゃ!……心配させよってからに……」
「本当に、申し訳ありませぬ。大君を守る事、そして、あの地を汚されたことが、我慢できず、必死でしたので……」

答えた声の主は美濃だった。死んだかと思われた侍女兵は何とか死の山から下りてきていたのだ。
といっても、腹はまだ糸で塞がれ皮が繋がっているだけであって、少し無理をすれば激痛が頭を貫き、稽古でもしようものなら問答無用で糸が切れ腹は割れる。
安静を要する身体だというのは、美濃は信濃に告げていなかった。あまり心配を掛けたくないと、美濃が信濃院に勤めている者達に口止めをしたのだ。
まだ顔に朱を残している信濃が云った。

「ええい……美濃、改めて汝に命を下すのじゃ」
「御言葉の通りに」
「今後一切、軽率な真似をするでない……ましてや、死のうなどとは思うな。捨て身での献身は妾とて責めはせぬが、結果死ぬことを犬死と心得よ。改めていう。死ぬな」
「……然り、です。了解致しました」
「ならばよい……まったく、恥ずかしい思いをしたのじゃ」

怒ったように云うが、まったく怒った様子のない信濃を見て美濃が表情を少し変化させる。
笑ったつもりなのだろうが、その下手糞な笑顔に誰も気づいていない。

「じゃが、あの言葉に一切の偽りはない。……これからも頼むのじゃ」
「はい」

美濃が軽く頭を下げると、信濃に聞こえぬ小さな声でつぶやいた。

「……まだ来るなと、云われてしまったからのぅ」

渉りかけた足を止められた。あれが幻でないと美濃は信じていた。
たとえ幻であったとしても、止められたのは事実なのだから。

「まあよい……して、巴はまだかの」
「遠くへ行っておりますから、まだ掛かるかと」
「そうか……よし、美濃、茶道をみっちり仕込んでやるのじゃ。覚悟せい」
「……のんびりと、やりたいものですが」
「妾ものんびりとしたいのじゃが、汝が悪い。入院してた日数分短縮せねばの……何せ、近日父上がこの信濃院に参られるからの。茶を楽しみに」
「そうですな……とんだ我侭でした」
「じゃろ。それまでに美濃を見られても大丈夫なまでに仕込まねばの」

信濃は年齢に相応しくない、まるで鬼婆のような意地悪そうな顔をした。
それで何かを察したのか、美濃は苦々しい表情で云った。

「……恐縮です」

この後、美濃は茶室で散々叱咤され顔を青くしながら茶道の指導を受けることになるのだった。
しかし本人は、別の問題が頭に渦を巻いていた。

―――巴は、大丈夫だろうかのぅ

楠木中将の抹殺は巴がやった。信濃にはそれと伝えていない。
美濃が耳にしたのは、容赦のない巴のやり方だった。
情を持ち込む美濃にしてみれば、何故そんな事をしたのか、疑問である。
結果として、巴は楠木一家と護衛七名、侍女兵一体を抹殺した。任務上、それは完璧な内容だ。
しかし、美濃は巴に強く当たるつもりだった。
何故なら美濃は、経過と情を大事にする者だったからだ。




また夕刻、巴は帰ってきた。飯を作れなかった事を信濃に侘びて、晩飯の準備に取り掛かろうとしていた。
美濃はそれを呼び止め、座敷に連れて、面と向かい合った。早くしなければ晩飯に間に合わないということと、遠路から帰ってきた疲労が重なったのか、巴は露骨に不機嫌な顔をする。
しかし美濃はそれを全く気にもせずに云う。

「貴様は、鬼か?」
「……何?」

巴が更に不機嫌になる。
命じられた任務を全うし、帰還して言われた言葉が「鬼」である。
これでは美濃が殴られても文句は言えない。

「意味が分からないな」
「中将の家族、妻と子三人、何故殺めた」
「機密を守るため……当たり前のことをしたまでだ」
「事件に関わっておるのは中将だけじゃ……妻子は、関係なかろう」
「甘いな……姿を見られた以上は殺めねばなるまい」
「だから皆殺しか。死人に口無しというわけじゃな……しかしのぅ、それはいかん。いかんことなのじゃ」
「なぜいけない?」

美濃の表情が少し曇る。

「関わりのない民を殺すのがええことか?まだ幼い子と、それを養う母を殺すのが、ええことか?答えてみい、巴」
「関わりのない? ならば離縁の手続きなりしているべきであろう。それすらしていないのは関係者だということを示している何よりの証拠……それともなにか。戦場でいちいち敵か否かを見極めねばいけないとか世迷言をほざくか?」
「縁があるかないかではないのじゃよ……ああ、敵か否かを見極めねばいけぬ世迷言、とな。世迷言、結構じゃよ。しかしの、巴、敵か否かを見極めぬでどう戦う?」
「それは戦場にいるか否かで決まる。そこにいる以上、私はその者が命のやり取りをする覚悟があると考えている」
「なら、妻子らは戦場にいたのか?」
「私の戦場にいた……それがすべてだ」
「……随分と、我侭な戦場じゃのぅ」
「なんとでもいえ……だが、憶えておけ、目撃者を一人残す……その危険性をな。殿下の秘密が世に知られたとき、どうするのだ?」
「その時は……責任を取るのよ。襤褸のようになるまで守り続け、屍となるまで盾となり矛となり、生涯を捧げるのじゃよ」
「甘いな……」

巴が美濃を睨み付けて立ち上がり、そのまま横を通り過ぎると、美濃の背後に回った。
それでも美濃は、じっと座っていた。

「お前はそれで自己満足がいくのだろう……だが、事実が公開されたとき、揺り動くのは国家であり、国民だ……それを殿下は望むと考えてるのか?」
「望まぬ、望まぬな……しかし……むぅ……」
「満足に反論できないなら、どうして私をここに呼んだ。これでは時間の無駄だ。分かっているんだろうな?」
「……女子供を殺すのは、いかんと云いたかったんじゃ」

美濃が静かに云うと、巴は少し顔を俯けた。良心の呵責が無い訳ではない、しかし、それを耐えなければ信濃の身が危うい。
泣き喚く子の命を摘み取ったことはまだ覚えている。しかし、それを見逃してしまえば信濃の明日が無いかもしれない。
珍しく巴が、歯を食い縛った。

「殿下の笑顔のためならば……この身は悪でも構わん。血で穢れるのは私だけでいい。お前は綺麗なままで殿下の傍に突っ立ってるがいいさ」
「……それでは儂は……儂はっ……」

振り向くこともせず、美濃は言いよどんだ。続ける言葉が出てこないのだった。
決意した筈だった。信濃の家族として彼女を守り通し、巴に欠けているものを教えようと。
しかし、気づけば美濃自身、欠けたものの多いただの人形だ。教え諭すような立場ではない。
開けた口を閉じ、しばしの沈黙が流れた。

「巴は、優しいのぅ……」
「優しい?……単なる自己満足の間違いだろう」
「そう思っとるならそれでええよ。正直に云うとな、儂はお主を怒鳴り散らしてでもこっち側にしたかった。でもの、この腹が、糸なんぞで結んであるから殴りも蹴りもできん。ああ、すまぬな、口下手ついでに、惚けまで始まったようじゃ」
「……なら早く帰れ。殿下が心配する」
「そうじゃな、そうするかのぅ……」

失敗じゃった、ああ失敗じゃった。そう呟きながら、美濃がゆらゆら立ち上がると、巴は黙って肩を貸してやった。
悔しいのか美濃は唇を噛んで、目をきつく閉じた。見られたくないのか、右手で顔を覆った。

「すまぬのぅ、老い耄れが世迷言をほざいて、そのくせよろよろと肩まで貸され……ほんと、すまんのぅ……」
「だったら今度は年長らしく振舞え。それで帳消しにしてやる」
「んむ……」
「……戻るぞ」
「待て、少し……待て……」
「どうした」
「いや……もう、大丈夫じゃよ」

しかし、美濃の嵌めている右手の手袋は微かに濡れていた。目元も、少し腫れている。
巴はそれを見るなり鼻で笑うと、顔を正面に戻した。

「……今のは見なかったことにしてやる」
「すまぬな、ほんとうに」
「年長が簡単に謝るな、それらしく振舞え……」
「ああ、そうじゃな。そうするかのぅ」
「ふん……」

ところで、今日の晩飯はなんじゃ。
美濃の疲れたような声が、太陽と月が同居する時間にぽつりと響いた。










関連項目

最終更新:2010年03月01日 00:46
ツールボックス

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