(投稿者:エルス)
そこは一年の殆どを雪で覆われている、白い村だった。電気も水道も無きに等しく、住む人々は狩猟で生計を立てていた。
彼女はその村で生まれ、母親に縫物を、祖父に狩猟を教えられながら育った。朝早くから祖父と共に森へと重いライフルを持ち、
家へと返ってくれば疲れた身体を暖炉近くの椅子に持って行き、その上でうとうとしながらマフラーや手袋を縫っていた。
彼女の父は軍人だ。彼女は父がどのような軍人であるかを知らなかったが、たまに帰ってくる痩せ男が自分の父だとは知っていた。
その痩せ男は赤毛の短髪で、何時帰ってくる時も顎に無精髭を生やし、小さな灰色の目は笑う度に糸のように細くなった。
彼女は父が帰ってくると、大荷物を下ろすのを手伝い、それが終わるともう自分の物になったライフルを手にして、父を森へと
引っ張っていくのだった。父、イヴァン・ライコネン大尉は第十七狙撃連隊に所属する優秀な狙撃手だった。
同時に分かりやすい教えを与えてくれる、優秀な教育者でもあった。狙撃手としての心の持ちようから、狙撃に必要なすべての
技能を初心者でも確かな実感を持てるよう教え、その技能に磨きをかけさせ、やがて彼の生徒は一流の狙撃手として成功する。
彼の教え子は尽く優秀な兵士になり、狙撃手になり、時に英雄にもなった。それでも彼が大尉から昇進しないのは、彼の中に流れ
ている他国家の血が差別の対象になっているからだった。しかし彼はそんなことどうでもいいと言いたげに、休暇中は娘である
彼女に狩猟の技能、そしてやや進歩して狙撃手の技能を教え、その修得の早さに驚き、同時に哀しくなった。
この村は大きな国家である祖国の端、それも元々が祖国に侵略された共和国であり、祖国からすれば他国人ということだ。
当然、他国人であると同時に祖国の国籍を持つ人々は差別の対象になっており、優秀な射撃の腕を持っているのならば軍人となる
ことを強制されるのが、この村の常識になりつつあったのだ。噂になってはまずいな、と彼は思い、彼女が十二才を迎えたその日
から、自分の持つ技能を教えるのを止め、彼女が泣いて頼みこんできても、それを受け流すように談笑を始めた。
それから暫く。彼は、父であるイヴァン・ライコネンは粛清の嵐に飲まれ、行方知れずとなった。
父が死んだという実感もなしに彼女は日常を過ごしていたが、それは長々と続くものではなかった。
村の近くには幾つかの町と村があった。その村と町は長年続いてきた差別に対抗しようと、武器と兵士を行動を起こすその時に備
え、準備していたのだ。それが軍に見つかった。当然のように日常が瓦解した。村と町は木を切り倒し、バリケードを構築。
狩猟用の罠を改良し、それをバリケードの向こう側に仕掛けた。そんな喧騒の中、彼女の祖父は静かに息を引き取った。
彼女に悲しみで涙を流す時間も与えず、人々はライフルを持つことを強要した。何人かの歩兵を撃ち殺し、両手を上げた将校の頭
をその行動の意味を知らずに吹き飛ばした。戦いは長く続く訳がなかった。歩兵の次は戦車が町を蹂躙し、殺戮を行う。
建物ごと人間が砕け散り、瓦礫から赤い体液が流れ出す。彼女の住む村はそれを知ると、すぐさま逃げ出した。
離反を許さない村々の人間が武装もしていない民間人を撃ち殺し、男をなぶり殺し、女を持ち帰り、子供を踏み殺した。
彼女はそんな中でもライフルを握り、アイアンサイト越しに人の頭を凝視し、トリガーを引き続けた。
逃げ延びた村人たちは安全な村へと移り住み、そこで差別に耐え、毎日繰り返される重労働に耐え、新たな生活を始めた。
彼女は一人になった。母はどうやら逃げられなかったらしい。空虚な心で年を越し、そして彼女は一人の軍人に出会った。
ウラジミール・ラスコーヴァ伍長と言う肩幅の広い大男は、イヴァン・ライコネンの死を知らせに来たのだった。
彼女は信じられず、遺体を見せろと言った。熊のような男は首を縦に振った。
そこは白い丘だった。しかし、彼女がみたのは丘ではなく、死体が累々と転がる墓場だった。老婆が地面に転がる死体を揺さぶり、
涙を流しながら誰かの名前を呟き続け、女と子供が死体を見ながら抱き合い、そして泣き叫んでいた。
イヴァン・ライコネンは眉間を撃ち抜かれ、視線を空に向けたまま死んでいた。最後に見た時よりもやつれた父の顔を見ると、彼女
は膝をつき、眉間の穴を見つめ、機能を失った目を見つめ、狼のように吠えた。遠吠えのように神秘的なものなど一切感じられない、
怒りと悲しみに任せた咆哮。人間のものではなく、それはまさに動物的本能を剥き出しにした、凶暴な感情を抑えきれなかった、『何か』だった。
咆哮が終わると、彼女はすべて忘れ、眼前の死体が誰なのかすら認識できず、虚ろになった目をウラジミール・ラスコーヴァに向けた。
彼はイヴァン・ライコネンから遺言を授かっていた。それを忠実に守る気でもいたし、そのためにはどんな罪でも背負うつもりだった。
しかし、彼はその虚ろな目を直視した瞬間、訳も分らぬ悪寒に身体を震わせた。
それからかなりの時間が経過した。彼女は祖国を裏切り、祖国の軍人を無感動にも殺し続け、そしてさまよい歩いた。
手に持ち続けているライフルは身体の一部と言っても過言では無く、彼女はその槍を苦も無く扱い、殺し続けた。
途中、新たな槍―――対戦車ライフルを手にし、それを活用して戦車や装甲車なども仕留めていく内に、彼女は自分は何かが欠けている、と
思うようになった。それは文盲であることだと彼女は決めつけたが、実際にはイヴァン・ライコネンの死体を見る前の記憶が、欠けているのだ。
忘れ去った訳でもなく、物理的な現象によって失われた訳でもない。ただ記憶の檻の中に封じ込め、鍵を思い切り投げ捨ててしまっただけの事。
充実感も達成感も、何も感じられないまま戦場を渡り歩きながら、彼女は仲間を助ける為、という目標を頭に置きながらトリガーを引くようになった。
仲間と言っても決まった人間でもない。時には角刈りの白人だったり、また時には寡黙な黒人、猫の亜人でもあった。
それらを守るように戦う事で、何かが満たされると無意識に思っていたのかもしれない。だが、その何かは満たされないままだった。
ヴェードヴァラム師団に所属し、
クリスティア遊撃隊という部隊に身を置いても、日常の充実感は感じられたが、心の奥底は空虚なままだった。
相も変わらずにアイアンサイト越しに人間のシルエットを重ね、物理的な重さ、八十キロ程度の命を刈り取って、しかし、それだけだ。
クリスティアという信頼するメードがいても、遊撃隊と言う第二の家族がいても、彼女の奥底に眠る記憶が目覚めない限り、彼女の感じる欠損感は
拭い去れないだろう。だからなのか、彼女は父と祖父に教えられた狙撃を続け、人間を狩る、狩猟を続けているのは。
記憶には記録されず、身体に染み付いた習慣として人間を狙い撃ち、たった八十キロ程度の命の灯火を吹き消す。
それを繰り返すことで何かが変わるという訳ではないが、彼女―――当為を意味する名、ゾルレンから変化した、
ソイリンという名の女狙撃手はその
行為を続ける以外に生きる術と、存在証明を知らなかった。無知な彼女が握るのはペンでも本でもなく、木と鉄で出来たライフルだった。
牢獄とも表現できる、生活感の一切しない自室で膝を抱え、ぼうっと一点を見つめている彼女がすべてを思い出すには、いったい何が要るのだろうか。
幼き頃から使い続けているライフルでもなく、
クリスティアという肉親並に信頼しているメードでもなく、頼りになる遊撃隊の面子、ジョナサンや
オブライエンでもない。もしかしたら、誰でもないのかもしれない。彼女が思い出すには彼女自身がそれを受け入れる為の準備があり、その準備が
終わるまで、その記憶は思い出されることはないのかもしれない。
ただ確実に言えることは、今の彼女はその忘れている過去と同程度の幸福を手にしていて、それを金輪際手放す気は無いということくらいか。
あの雪原を駆けた赤髪の悪魔は空虚な目で空を見、人を見、景色を見て、そして烈将に付き従うことを決めた。
この世に存在するどんな要塞よりも堅牢な思いを、そう簡単に壊すものは存在しえない。だからこそ、烈将クリスティアは彼女を信頼しているのだろう。
唯一残念なのは、信頼されている本人の『中身』が、鍵を掛けられたまま閉じられている事だ。鍵を解く手段は一体どこにあるのだろう?
それは誰にも分からない。
最終更新:2010年05月28日 00:49