彼女はクスリと笑ってから、ミシンを踏む足に力を込めた。
それに応じてミシンは糸が絡む針を規則的に上下に動かし、布とレースを一つのものへと結び付けていく。
それを見て、もう一度彼女はクスリと笑った。
その可愛らしいピンクの布を持って来たときの、男の顔を思い出したのだ。
「悪いな、突然」
それが扉を開けたときに最初に男が発した言葉だった。
格好は彼女と同じく相変わらずの黒尽くめ。
だが今回は、その手に上質の桃を思わせる柔らかい布と真っ白いレースを抱えていた。
加えて、いつもは自信に満ち溢れた皮肉な笑みを浮かべているはずの口は、何ともいえない渋いへの字となっている。
彼女は、ああなるほど、と悟った。
彼がこういう表情をするときは大概原因が決まっているのだ。
「バカ娘がまた遊びに来やがったんだ」
とりあえず家の中に入れて抹茶を入れると、彼は一口啜ってから言葉を続けた。
彼女にとってその言葉は極めて想定内だったが、賢くもそれは口に出さず、驚きの表情で相槌を打った。
「で、静かにさせるために映画を見せてたら、何だ、えーと妖精みたいなヤツが出てきたらしくてな」
もう一口抹茶を啜る。
それから頭をぼりぼりと掻いて、よく知らんがと付け加えた。
当然だろう、彼は何も見えない男なのだから。
「見終わってから、何かその妖精みたいな服が着たいとか言い出したんだ」
うんざりしたような顔で、でもどこか錆びた笑みを隠したような顔で、男はため息をついた。
それを見て彼女も考える。
性格的に考えて、彼の“娘”がそんな我が侭をはっきり言い出すとは思えない。
恐らくは映画を見終わってから、こそこそと独りでその憧れた服を作ろうと画策し、
それが何かしらの大問題になりうるほどの失態を犯し、それが彼にバレて大目玉を食らい、
わんわんと泣きながら謝って、事情を説明したといったところだろう。
じっと見つめる彼女の視線に、男は居心地悪そうに無精ひげを撫でた。
まぁ先ほどの予想はまず間違いない。
健気に謝る娘と、それをなだめようと慌てる彼の姿が、すぐそこに見えるようだ。
そして結局、どうしようもなくなり、その服を作るために彼女のところに来たわけだ。
「まぁそれで、その、お前は洋裁とか得意だろ? 何とかならねぇか」
泣き声がうるさくてかなわねぇんだ、と男は吐き捨てるように付け加えた。
本当にそう思っているのなら、このまま帰らなければいいだけの話だ。
それなのにわざわざ
フライを飛ばしてまで彼女のところまで出張し、
おまけにその道中でピンクの布と白いレース――恐らく彼にとってそれが一番妖精っぽいと思ったのだろう――を購入しているとは。
不器用な人、
とても不器用な男。
いつも嘲笑を浮かべているというのに、一番大切なときに微笑を出せない人。
人心の掌握に長けておきながら、愛しているの一言が言えない男。
「お任せください。最近の映画の妖精であれば、恐らくピンキーローズのことでございましょう。
丈も大体分かりますから、急げば明日にでも仕上がりますよ」
「そうか! やれやれ、助かったぜ」
男はようやくいつもの皮肉っぽい顔に戻り、へへっと笑い声を上げた。
そして、もう遅いので今日はここに泊まっていってはどうか、という彼女の勧めにも素直に応じる。
ガシャンガシャンとミシンは動き続ける。
少し控えめな明かりの下で、彼女の意思通りに動き続ける。
ふと、彼女は動きを止めた。
途端に静寂になった空間の片隅で、男の寝息が静かに聞こえる。
悪鬼と呼ばれるテロリスト。
世界を拒絶する残忍な鬼人。
復讐のために破滅の道を選んだ、その男。
それが今この瞬間だけは、忘れ去られてしまったような錯覚を覚えた。
父親に甘える娘と、
不器用にそれに応えようとする男と、
それを支えるべく夜を徹する、ただの――。
「……出会うためにわたくし達は死にました。でも死んでいるから、もう何もできないのです」
不意にぽつりと、そんな言葉が彼女の唇を割って漏れ出てきた。
それを誤魔化すための、柔らかい笑みも。
男の寝息は乱れない。
深く眠っているのだろうか。
彼女は再びクスリと笑ってから、ミシンを踏む足に力を込めた。
ガシャンガシャンとミシンは動き続ける。
ミシンは動き続ける。
最終更新:2010年08月06日 20:35