のっぺらぼっち

(迅鯨)



 一人称をもてあそび

 二人称とたわむれ

 三人称で統計にうずもれる

 僕、わたし、俺、うち、あなた、君、おまえ、てめぇ、自分、彼、彼女、彼奴、あいつ、こいつ、そいつ、どいつ……。

 私はそのいずれにも当てはまらない。そのうちのどれか一つでもいいから僕であればいいと思う。贅沢が許されるなら固
有名詞を所望したい。
 あたしは何時でも、みんなの内の誰かだけど、誰一人として自分ではなく、またあいつらは誰一人として俺を知らない。
 いろんな人称を試したけれど全部無駄。私は何時までたっても人称不定無色。

 何者でもない俺は、毎日、毎日、誰かの姿を借りている。

 虚無の淵を己と叩けば、我らと応える同胞(はらから)の声を待望して幾星霜。未だ応答ナシ。




 ウェンディ以下、ライラ、ガルガンチュアパンダグリュエルの四名が、希望の塔と呼ばれるこの施設に来て三日ほどたつ。

 「いや四日だ」
 「あらそうだったかしら?」

 ガルガンチュアに指摘されてウェンディは首をひねった。確か三日前・・・と記憶を探ろうとするが、記憶がどうにも曖昧だ。
 「そりゃそうさ」とガルガンチュアは言い、先ほどまで朝食のスクランブルエッグが乗っていた空のアルミ皿へ、フォー
クを放り込んだ。
 カランと軽金属同士がふれあう乾いた音が食堂に短く響く。

  「ここに来て、毎日同じことの繰り返しだからな。昨日と今日の区別だって曖昧にもなるさ。あたしだって、日付の感覚
が狂ってくるよ」そう言って彼女は暇疲れが滲んだ嘆息をし、二度三度首を鳴らした。

 そう言われて、ウェンディーは食堂のカウンターの隅に掛かっているカレンダーを確認してみると、今日の日付は五月六日
となっていた。ここに来たのは五月三日だから今日を入れれば三泊四日となる。確かににガルガンチュアの言う通りかもしれない。

 この希望の塔に来てからは、毎日同じことの繰り返しだ。先月の作戦中に発生したある事件の経緯を、毎日入れ替わり立
ち代りやってくる様々な肩書きをもつ人間を相手に同じことを話し、それが済めば昼食を挟んで検診。
 もちろん体の何処にも異常は見つからないが、それにも関わらず毎日問診から、触診、血液検査、レントゲン測定、脳波
測定と人間ドックフルコースを堪能し、それが済めば特にする事も無くブラブラして過ごす。

 この間、午後9時の門限までなら外出するのは自由だが、しかし希望の塔はよほど辺鄙な所に立ってるらしく、周りに人
里は一切見当たらず、外出したとしても行くところが無い。
 娯楽と呼べるものは、食堂に置いてあるラジオか、資料室と呼ばれている図書館から本を借りて読書するくらいである。
 しかし、図書館と言ってもそこは研究施設である。収蔵されている書物は八割がた専門的な学術書の類で、どれも門外漢
にしてみれば異国の言語で記されてるかのように難解きわまるのモノだ。パンダグリュエルがそれを借りて読んでいるのを
見たが、彼女は内容を理解しているのだろうか?それはわからない。
 それ以外だと、あとは古典文学と一昔前に流行った小説が若干。それと新聞くらいだ。

 そんなところでウェンディたちはあと、数日は過ごさなければならず、まったくもって退屈極まりない。ライラなどとっ
くに嫌気が差して何をするにも、嫌だ嫌だの言い通しである。
 ウェンディはそんなむずがるライラをあやしながら、初日から事情聴取や、検診に付き添っている。彼女にしてみれば自
分のに加えて、日に二度も同じことをやるのだから余計に疲れるのだが、当のライラは親の心子知らずといやつで、そんな
彼女の苦労などお構い無しである。

 「さて、そろそろあの子を起こさないと」ウェンディは椅子から腰を上げ、一方ガルガンチュアはテーブルの隅に畳んで
置いてあった新聞を広げ、そこに目を移した。





 珍しいこともあるものだ。ウェンディは一瞬我が目を疑った。食堂を後にし、ライラの寝起きする部屋の戸を開けてみれ
ば、既にライラは目を覚ましていたのである。
 これで、ライラが自分から身支度をすませていつでも出れる用意をしていれば、そして自分から食堂に来て朝食を取って
くれたら朝はどんなに楽だろうかとウェンディは思ったが、それでも布団からライラを引き離す手間が省けただけでも随分
と助かる。

 しかし完全に覚醒してるというわけではなく、ライラはパジャマ姿のままでベッドに座りぼんやりとしていた。

 寝ぼけているのだろうか?「……ライラ?」とウェンディが呼びかけると、ライラはうっそりとこちらに顔をむけるが、
何かを言い出すそぶりも無くきょとんとした瞳でウェンディを見るとも無く見つめている。

 やや間があって「ウェンディ……」と眠たげな声でライラは呟いた。
 「?」ウェンディは怪訝の色を浮かべた。
 「おはよう」ライラは言った。
 「え、あ、おはようライラ。自分から起きるなんて珍しいわね」

 いつもと様子が違うだけにウェンディの調子も少々くるってしまう。ここに来るまでに、どうやって起こそうかと色々思
案していただけに、肩透かしを食らったおもいだ。
 しかしウェンディは気を取り直し、「さ、早く着替えて、朝ごはん食べなさい」といつもの調子でライラを急き立てる。

 しかしこれまた珍しいことに、今日のライラはそれに逆らうことなく粛々と支度を始めたのである。いつもなら下着から
ドレス、靴下までウェンディが手取り足取り着せていくのに、今日のライラは自分から着替えているのだ。

 ここは保護者として、まぁえらい!と褒めてあげるべきなんだろうが、日ごろのライラの行状を知っているウェンディは
そのライラらしからぬ行動を素直に喜べず、それどころかますます怪訝を深め、熱でもあるんじゃないかとライラの健康状
態を疑ってしまう始末。

 「ふぇ?」

 ウェンディの手のひらがライラの額に触れる。

 「熱はなさそうね」

 顔色だって別段悪くないし、目も充血していない。どこにも異常はなさそうだ。それなら、これは素直に喜んでいいだろう。
そこまで確認してウェンディはようやく人並みの反応してみせる。

 「偉いはライラ!自分でお着替えできるなんて!」




 目を覚ますと、眼前にあったのは見慣れた天井だった。体を起こし、部屋全体をぐるりと見回せば、やはり見慣れた部屋
だった。簡素な作りのパイプベッドがあり、その向かいには化粧台があり、その右にクローゼット、左側に出入り口がある。
 最小限のスペースに最低限の生活用品を詰め込んだ味も素っ気もないつくり。
 そして、同じような作りの部屋がこの建物にはいくつもあるということを私は知っている。
 だがそれを見る視線は一定ではない。この部屋が今日の宿主にあてがわれた部屋であることは間違いないだろう。今日の
自分が何者であるかはまだわからない。私は部屋全体を見渡し、備え付けの備品以外の何か私物はないかと視線を泳がした。

 それにしても今日の宿主はよほど朝に弱いのか、頭がひどくぼんやりしてうまく働かず、なにやらもどかしい。ついぼう
っと呆けてしてしまい、そうすると、すかさず睡魔が重力と共謀し体をベットに引きずり込もうとする。が、そんな生理的
欲求に私はそれほど頓着しない性分だ。眠りに落ちようとする体を引き起こすことなど造作ない。
 私が重力と格闘していると、そのうち、部屋の外の廊下の向こうから足音が近づいきた。そしてこの部屋の前で足を止め
ると、私の後ろで扉が開く音がして、その向こうから視線が背中に延びる気配がした。

 「……ライラ?」

 聞き覚えのある名前だ。そう呼ばれると、なにやらしっくりとくる。これが今日の自分の名前とみてまちがいない。自分
の名前がわかる瞬間というのはいつでも爽快なものだ。
 私はその声の主を見返す。落ち着いた雰囲気のする若い女だった。この顔も見覚えがある。
 女は怪訝な表情でこちらを伺っている。いつもと様子が違うからだろう。
 私の宿主が普段どんな様子なのかはわからないが、これは経験則からいって動かしてるうちに次第と感じがつかめてくる
はずだ。日頃行っていることは、体にしみつき、意識せずともにじみ出てくる。その習慣がその人物を、その人たらしめる
と私はこれまでの経験から理解している。

 「ウェンディ……」

 きっとこれがその女の名前だ。とっさに私の口をついて出てくるのだからよほど親しい間柄なのだろう。

 しかしどこかで聞いたことのある名前、見覚えのある顔だ。それは宿主の記憶だけでなく私の記憶にもある。
 はて、いったい何処で見知ったのだろうか?

 しかし私自身の記憶というのは宿主のそれと比べると随分曖昧模糊としており、つい昨日のことすら夢うつつの出来事の
ようで鮮明には思い出せない。
 それはともかく、まずは挨拶だ。「おはよう」その一言がコミュニケーションの最初の一歩であり、己を知る手がかりの
取っ掛かりとなるアクション。
 ところがそれがこの女にしてみればよほど意外だったのか、不意を付かれたように一瞬狼狽の色を浮かべた。

 「え、あ、おはようライラ。自分から起きるなんて珍しいわね」

 なるほどそういうことか。彼女のその態度をみて私は合点がいった。
 ライラは普段、このウェンディに毎朝起こされているのだ。それが自分から目を覚ましているというのはウェンディにとっ
てよほど稀有なことなのだろう。ウェンディはクローゼットの中から衣服を一式とりだして、「さ、早く着替えて」と言っ
て私をせきたてた。

 促されるままに、それを受け取り着替え始める。すると、これまたウェンディは不思議そうな表情を浮かべ、私の顔に手
を伸ばした。
 ひたっと彼女の冷たい手が私の額に触れた。

 「熱はなさそうね」

 あたりまえだ。しかし彼女をしてそういう反応を取らしめるのは、このライラが日ごろよほど自堕落に振舞っているとい
うことだろう。今日一日、私ことライラはそう振舞うことにしようと心に決めた。

 あれこれ詮索してるうちにこの体の持ち主の思考パターンも、なんとなくわかってきた。思索は言葉と供にある。私がラ
イラの頭の中でいろいろ考えをめぐらせていると、彼女が普段どういう口調で話してるのかもわかってくる。

 思考のなかでとびかう言葉が普段ライラが使う口語文体に翻訳されるからだ。
 今日の私の一人称は「ライラ」。自分の名前がそれを兼ねている。
 ライラには時と場合と相手に応じて、俺、僕、私という風に一人称を使い分ける習慣は無いらしい。一人称を使い分ける
必要性を廃した語法というのはシンプルでいてなかなか合理的だと、私は思った。

 などと考えてるうちに着替えは着々と進んでいた。そしてウェンディは目を見開き驚嘆する。

 「偉いはライラ!自分でお着替えできるなんて!」

 彼女は大げさな仕草でそういった。なるほど一人でお着替えできるライラはえらいんだな。



最終更新:2010年10月12日 06:38
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