(投稿者:怨是)
私は何処かに落し物をした気がしてならない。
でも、それが何なのか、その形すら判らない。
探しに行く度に、一つ、また一つと他の物まで零れ落ちてゆくのを、私はどのようにして止めればいい?
結局、誰にも拾われなくなって、いつかは風化する。
思えば私は、あの日の夜には既に亡霊になってしまっていたのかもしれない。
だとすれば私は、見つけたとしても決してそれに手を触れられない。
誰がそれを拾ってくれるのだろう。
もう、私が死んでも、私の亡骸を拾ってくれる人は居なくなってしまったというのに。
(獄中日記と思われる記述。筆者不明)
1945年8月16日、夕刻。
プロミナは
アシュレイ・ゼクスフォルトから受け取った書類をケースに仕舞い込み、アシュレイに向き直った。相変わらずアシュレイは物憂げな面持ちで黙り込んでいる。只でさえ気が滅入っている所を、このいけ好かない青年のいじけた表情を見せられると、余計に落ち込む。プロミナはポケットから煙草を取り出したくなる衝動を、歯軋りでそのまま磨り潰した。直属の上官ではないにせよ、MAIDは人間様に御奉仕せねばならない立場だ。
境遇を口実にそれを無視すると、血の気の多いこのアシュレイという男は何をするか解ったものではない。何せ、彼は噂によると女性関係で同僚とトラブルになり、逆上して右目が潰れる程強く殴るなどしてその同僚の兵士生命を奪った経験があるらしいのだ。線の細い容姿にはおよそ似つかわしくない、鮮血の香りが鼻をくすぐる。
「あの、ゼクスフォルト上等兵?」
「何だい、プロミナ。今回は俺がきちんとお偉方に話を付けて、必要な情報を全部集めて来たぜ。まだ質問が?」
「いえ、ひどく御気分が優れない様に見えますので……」
「……気のせい、さ。取り敢えず、車のエンジンを掛けないとだな」
虚ろな目を何処か遠くへ泳がせて、アシュレイは踵を返す。何か後ろめたい事でもあるというのか、彼の固く閉ざした口からは何も発せられない。プロミナは口を固く閉ざして彼に追従した。
沈黙の中を歩いていると、
ホラーツ・フォン・ヴォルケン中将と目が合う。ヴォルケンは立ち止まり、初めはアシュレイとプロミナを交互に見比べていたが、やがて諦めた様に目を逸らし、歩みを進めようとしていた。居ても立っても居られず、プロミナはヴォルケンの前に立った。アシュレイはと云えば振り向きもせず、進行方向を向いたまま立ち尽くしている。彼だけ、時が止まっていた。
「ヴォルケン中将、こんな時間に如何されたのですか?」
「ベルゼリアを探しているのだが、彼女を見なかったか?」
ラウンジにも居なかったし、それから
アースラウグに出会って話をしている時にも見ていない。記憶を辿ろうとすると痛みが側頭葉を突き刺すので、プロミナはこれ以上思い出さない様にした。
「いえ」
「座学の時間だと云うのに抜け出して。MAIDが反抗期とは笑い話にもならん」
「ですよね、あはは……」
本当に少しも面白くなかった。それ所か、寧ろプロミナの胸が痛くなる。
「……やぁ、これはこれはヴォルケン中将殿。久しぶりすぎて顔を忘れちまったかい? 挨拶も無いなんて、寂しいじゃないか」
殆ど無表情のまま笑っていると、アシュレイが漸く向き直った。心なしか、その声音は恨めしげだ。
「ん?! アシュレイ君だったのか! ……いやはや、まさか戻って来ていたとは思わなかった。何があったんだ?」
ヴォルケンの反応は、プロミナから見てもわざとらしいものだった。大袈裟に驚いて見せるヴォルケンを、アシュレイは少しだけ睨む。濃縮された一瞬の殺意を、プロミナは見逃さなかった。恋慕を無碍にされた恋人ですら、ここまでの怒りを双眸には篭めまい。
「ちょいと忘れ物を取りに来たら、そのまま足から根っこが生えちまったのさ。あんた、ちょっと痩せたか?」
「色々あってな。酒も随分前にやめた」
「珍しいね。昔は浴びるように呑んでいたってのにさ」
噛み合っていない歯車が、こすれ合いながら無理矢理に廻っている。そんな違和感が彼らの会話から漂って来た。旧知の仲であるのに、素直に親しんでいない。片や腫れ物に触れるといった様相で、片や腹の奥底に抱えた敵意を滲み出す様に会話している。
「お知り合い、ですか?」
思わず、二人に尋ねてしまった。言外には『知り合いなら何故こうも余所余所しく出来るのか』という疑問も含めている。先に口を開いたのはヴォルケンだった。
「知り合いも何も。直属の部下だったのだ。私の絡み酒によく付き合ってくれてね。親友とも呼べる関係だった」
「懐かしい話だ。ただ、果たして親友と云える程に親しかったかどうかは何とも云えないね」
「うーん、では半ば親子に近かったかな?」
「親なら半年前に死んだよ。親父が病死でお袋が後追い自殺。久しぶりに家に帰ってみれば、管理人の爺さんが血相変えて泣き付いて来た。元々、親とはあんまり仲は良くなかったけど、居なくなると寂しくなるもんだね」
ひんやりとした空気に包まれ、プロミナは身震いした。あまりの重苦しさに、呼吸を忘れる程だった。
「それは気の毒に……まぁ、言葉の“あや”という奴だ」
「あぁそう。で、ベルゼリアをお探しか?」
「そうなのだ。アシュレイ君は見掛けなかったか」
「さてねぇ……何せ、あいつは神出鬼没だから、忘れた頃に机の下からひょっこり顔を出してくるかもしれないね」
「そう願いたいものだな。……ところで、アシュレイ君はこれから仕事か。一緒に歩いていた所を見るに、プロミナも連れて行くのか?」
――ご名答です。ヴォルケン中将。
火災の現場に向かい、能力で火を鎮めるだけの簡単な仕事だ。
「あぁ。俺は上等兵の分際にして臨時の教育担当官様となっちまった訳で」
「また少佐にまで登るのは難しいが、良かったじゃあないか。MAIDの教育担当官は一般的に昇進が早いという統計をライサから聞いているよ」
「そんな美味い話があればいいがね。ヴォルケン中将、あんたはあれから一年経っても中将のまんまだろ?」
「生憎と、ポストに空きがないのでな。暫くは駄目なオッサンで通す事にするよ」
「早いとこ出世しないと、そのまま退役しちまうぜ。何処かのクソジジイみたいに名誉大将とか名乗って、軍閥サークルでも立ち上げるってんなら、話は別だけど。さァて、お時間だ。プロミナ、急ごう」
アシュレイがプロミナの腕を掴み、道を急ごうとする。それをヴォルケンが立ち塞がって留めた。いつも思う事だが、ヴォルケンは190cmにもなる大男だ。偉丈夫に前で立たれると、それだけで身が縮こまる。彼が決して高圧的な人柄でない事は知っているが、それでも見上げるのは首が痛いものだ。
「――所で」
「何だい、オッサン」
「こんな事件を知っているか。いつものクソ新聞だが」
ヴォルケンが、懐から折り畳んだ帝都栄光新聞の切り抜きを取り出し、広げてみせた。アシュレイも、ヴォルケンも、心底うんざりした面持ちで、それを見ている。どうにも、プロミナが生まれてくる以前から、この新聞は嫌われていたらしいのだ。
「あぁ、それか。知ってるよ。だがプロミナにやらせているのは消火活動だ。火を操る能力を逆手に取り、逆に威力を弱める。消防隊に頼らずとも、親衛隊の面子が火消しをして、それから、プロトファスマのアジトとされている焼け跡にガサ入れする。それが、主な仕事だ」
「本当に、それだけか?」
「あったとしても話せない、と云ったら? 何せあのハーネルシュタイン上級大将殿直々のご依頼だ」
任務を預かるアシュレイが今まで助けを呼ばなかったのは、きっと監視を受けているからだ。そのアシュレイが恐らく、初めて助けを乞うた。不器用ながらも、黒幕が誰であるかを、そして言葉にしづらい事を暗に示唆したのだ。しかし、ヴォルケンは鈍感なのか、痺れを切らしている。
「……ならば、まかり通るまでよ」
「笑わせんなよ、オッサン。今じゃ殆ど敵同士みたいなもんなんだぜ。こんな所で無理矢理やって、ひどいシワ寄せが来たら、中将のポストが一つ空いちまうかもしれない。あんまり表立って首を突っ込む事柄じゃあない」
「後ろめたいとでも云うのか。その後ろめたい事に、命令かもしれんとはいえ、プロミナを巻き込むとは、泥水に浸かりすぎて心まで泥になったか、アシュレイ!」
「巻き込んでるとか、解ってんだよそんな事ぁよ! ヴォルケン! あんたの椅子じゃ重過ぎるんだ! 黒旗だって、未だに潰せてないどころか、皇帝派の連中まで首を突っ込み始めた! その上、黒旗はG-GHQと条約を結んで、こっちから攻撃を仕掛けられなくなった! あんたの子飼いのマイスターシャーレは今まで何をやっていた!」
始まってしまった。もう、これでは手出しできない。プロミナは遠巻きに二人の喧嘩を眺めた。怒り心頭でつむじまで真っ赤になったアシュレイとは対照的に、ヴォルケンは衝撃を受けて青ざめている。この二人が親密であった頃を知らないが、ヴォルケンの必死な形相を見るに、アシュレイは今のような人物像ではなかったという事だろうか。
「物事はそう単純に運ぶ程、整理整頓されては居ない! アシュレイ、冷静になれ!」
「高血圧なのはどっちだ! みんな歳ばかり取りやがって、そうやって訳知り顔で御託ばかり並べやがる! いいかよオッサン! ガキが大人を信用しなくなるのはな、大人が情けないツラを見せるからだ! あんたらはその典型だ! だからな、俺が何から何までお膳立てして動いてんだ! ケツを拭かれてる自覚はあるか、老害!」
「止さないか!」
ヴォルケンに突き飛ばされても、アシュレイの勢いは削がれない。寧ろ、アシュレイは更に過熱してヴォルケンのネクタイを掴み始めた。プロミナは呆然とその様子を眺め、嘆息する。つい数十分程前にも似た光景を見た事がある。プロミナ自身と、アースラウグのやり取りがまさにそれだ。
「先に仕掛けておいて、そりゃあ無いんじゃないか? おい! 俺だって出来れば平和に暮らしていたいよ。再編入届なんていう屈辱的な書類にサインを、そのたった一枚だけの書類をやっつけるのに、俺が何時間悩み続けたか知ってるか!」
「アシュレイ!」
「老い先短いジジイ共が余計なお茶会さえ立ち上げなきゃ、変な電話に呼び出されて、ろくに眠れない夜を過ごす事だって無かったんだ! それをお前らはのうのうとスパイごっこなんてしやがって――」
アシュレイの呪詛を、ヴォルケンの鉄拳が断ち切った。本気とまでは行かないが、歯が飛ばないというだけであって、それでもかなりの痛みを想像させる音だった。さしものアシュレイもこの一撃には耐え切れず、ネクタイを握った手を歪に開いて倒れ込む。
「少しは加減してくれ。これじゃあ当分、痣が消えない」
頬を撫でながら立ち上がるアシュレイの両肩を、ヴォルケンはゆっくりと掴んだ。
「そのくらいが頭も冷えるだろう。振り向いてみろ、アシュレイ。プロミナの顔をよく見るんだ」
「――ッ」
アシュレイのこんな顔を見るのも、プロミナは初めてだ。アシュレイは、何かに恐怖している様な、弱々しい驚愕に満ち溢れた眼差しで、こちらを見つめていた。プロミナは思わず噴きだしてしまいそうになるのを堪らえ、努めて無表情を形作った。彼らからしたら、冷ややかに侮蔑している様に見えたに違いない。
「……臨時だとしても、教育担当官ならばあまり情けない姿を見せるんじゃあない。子供が親を見ている様に、MAIDも担当官を見て育つ」
「悪かった」
「いや、私こそ急に踏み込んで、済まなかった。追々、教えてくれ。ただし、手遅れになる前にな」
「あぁ……解ってる。ただ、今はまだ、迂闊に動いたら何もかも台無しになっちまう。そんな気がするんだ」
何が台無しになるのかは、彼がプロミナの臨時教育担当官になって以来、一度とて知らされていない。アシュレイが何を思って、ひた隠しにして動いているのか、それを知る術は今の所は無いのだ。少しくらい教えてくれてもいいだろうにと思ったが、きっと彼も“あいつら”に監視されているのだろう。口を滑らせ、不都合な事を語れば、殺される。
「ごめんな、プロミナ。怖かったよな……」
「いいえ。急ぎましょう。国民の命を救う為に」
プロミナはまた、愛想笑いで何もかもを誤魔化した。こうしていれば粘ついた感情は消える。感情がぶつかり合うから面倒が起きるのだ。ならば自分は何も考えない人形であった方が、事は上手く運ぶ。魂は行き止まりに辿り着き、退路を失った。
最終更新:2011年03月27日 17:45