(投稿者:エルス)
警備の目を避けて歩きつづけ、俺はなんとなく、あの針葉樹の下に座っていた。特に思い出もないというのに、どうしてこの木の下を選んだのだろうか。
世の中、身に覚えのない、自分では分からない事があるものだと、俺は尽く、嫌になる程知っていたが、覚えがある気がするが分からないとなると、どうにもやりきれない。
己の心の内から目を逸らし、そんなことを考えつつ、俺は足を抱えた。
深夜の空気は肌寒く、目覚めが中途半端だったのが嫌でも分かった。
急にはっきりとしてきた自分の意識に少しだけ驚きつつ、俺は深く溜息をつく。
さっきのあの感情の波は、いったいなんだったのだろうか。いや、分かっている。あれは『俺』なんだと。だが、あれは……受け入れていいものなのだろうか?
元々が俺の体ではないこの「俺」の中に、俺とミシェルと言う中身が入っていただけの俺は、ぽっかりと空いた穴の正体が分からず、無いものとして扱った。
そして今、漸く気付かされたということだろうか。穴はただの穴ではなく、そこには今まで蓄積されてきた『俺』という感情の塊が埋まっていたのだと。
「…………」
はて? なんで俺はこんなに小難しいことを考えているのだろうか。俺は俺だ。なにがあっても、二つに分裂する事などないのだから。
俺は俺であり、その思うことは俺の思いであり、考えることは俺の考えなのだ。そして、それらすべてが望むことは、もう分かり切ったことだ。
そのためならば、どんな手段であろうと行ってやろう。例え外道畜生と罵られようとも、世界が敵に回ろうとも、そんなこと、俺の知ったことではないのだ。
「デイジー デイジー はいと言ってよ 僕は気が狂いそうなほど 君が好き」
「……?」
気持ち新たに、冷静さを取り戻したその時、ぼそぼそとした歌声が、ふと耳に入り込んできた。
お世辞でも上手いとは言えない……と言うよりも、上手いと評価する以前の問題だった。ぼそぼそと歌っているせいで、音程もなにも分からないのだ。
「ちゃんと立派な花嫁みたいに 馬車のパレードは無理だけど でも君はきっと素敵 君と自転車 二人乗り」
「……デイジー・ベル、か」
「ほえ?」
間の抜けた声を出しながら立ち上がったのは、楼蘭人の女だった。女、と表現するよりは、少女、と言った方が正確だろう。少なくとも、見た目はそう見えた。
膝まで届く炎のような色合いの赤髪に、透き通った赤色をしている瞳という組み合わせだけでは、楼蘭人とは分からなかったが、なにより目立つ服装で分かった。
さっきまでベイジー・ベルをぼそぼそと歌っていたその少女は、白い小袖と黒袴を着ていたのだ。
「誰だか知らないが、歌うならもう少し、大きな声で歌ってみたらどうだ?」
「……それは無理、です。恥ずかしい、から」
「そうか」
歌声だけでなく、普通の話し声もぼそぼそとしている。俺は聞き取りにくいなと思ったが、初対面の相手に近寄っていくのはどうなんだと考え直し、結局、座り込んだまま、少女を観察することにした。
あたふたとする訳でもなく、ただ顔を赤らめて、口元を掻いたり、頭を掻いたりと、ひっきりなしにどこか掻いている少女は、なぜかどこかで会った気がしたが、正体は分からない。
しかし、古くからよく知っている気の合う知人のような感じがした。古くから、といっても、
シリルという俺はまだ三年程度しか生きていないのだが。
「それ、トレンチガンです……よね?」
「ん、ああ。そうだが……それがどうかしたか?」
ふと顔を上げると、先程の赤らんだ顔はどこへやら、少女はきらきらと目を輝かせ、針葉樹に立てかけられているトレンチガンを凝視していた。
余程感動しているのか、小さく開いた口から、感嘆の吐息が漏れ、胸の前でぎゅっと握られた両手が誕生日に貰ったプレゼントの包み紙を破ろうとする子供のように動いている。
身長は百四十あるかないかと言うところのこの少女と、トレンチガンという奇妙な組み合わせに些か困惑しつつ、俺はその鉄色に沈む銃を、少女に差しだしてみた。
「持ってみるか?」
「はい、持ちます。持たせて、下さい。えと、弾は、装填されてません……よね?」
「もちろん」
実弾が装填されていない、イコール、好きに扱っていいと解釈したらしい少女は、構えてみたり、フォアエンドを後退させてみたり、排莢口を覗きこんだり、ともかく、色々やった。
なんだか、いつまでも持たせていると分解し出しそうな勢いで色々やるので、途中で俺は立ち上がって、トレンチガンを取り上げた。すると彼女は名残惜しそうに、唇を突き出した。
次に口を開く時、どんな言葉が聞ける事やらと、俺は口撃に備えて少し待ってみたが、いつまでたっても批難の言葉は聞こえてこない。不思議に思って彼女を見ると、まだ唇を突き出していた。
どうやら思っていることが顔に出るタイプ……というやつらしい。あれで平静を装っているつもりなのだろう。役者には向かないなと思いつつ、俺は頭に幾つか浮かんできた質問を口にした。
「で、お前は誰だ? どうしてここにいる? 銃に関心があるのはメードだからか? それとも、新手の殺し屋か?」
幾らなんでも最後のはないだろうと自分で自分に駄目出ししつつ、俺は彼女の目を見た。
なんというか、小動物のような仕草で思いっきり怯えるかと思いきや、以外にも真っすぐこっちの目を見ている。
ただ、いかんせん、足が震えているのが丸分かりだ。それと、今気付いたが、こいつ、俺の目を見てるんじゃなくて、襟元見てるだけじゃないのか。さっきから目線が微妙に下だ。
「ハルは……わ、わたしは、枝流須 春、です。ここには午後、取材で入って、それで、部屋を抜け出してきて……銃はその、趣味、です……殺し屋なんか無理、です」
「取材? 取材……ああ、ガーディアン(新聞)の記者と一緒に、何人か民間人が入ってきてるって話しだったな。完全に忘れてた。怖がらせてすまなかった。記者には、秘密にしてくれると助かる」
「……あ、安心してください。これでも、友達の秘密ばらすのとか、好きですけど……面倒になるのは、嫌いですから」
世間一般ではそういうのを安心できないというのだと、突っ込みたいのを必死にこらえ、俺は適当に相槌を打った。
楼蘭人ということを差し置いても、変な名前だ。漢字で書けるのかさえ分からない名前で楼蘭人と言われても、説得力は皆無だ。
だが、俺は改めて問い詰めるようなことはしなかった。なぜかと言われれば、俺はなぜだろうと言い返すだろう。なぜか分からないのだ。
気紛れ……という便利な言葉があるが、今回ばかりは、その気まぐれと言う言葉通りのことが起きていた。そう、気紛れなのだ、これは。
「ところで、こんな深夜に……なに、してるんですか? その……バイヨネット付きの、ショットガンまで、持って」
ぼそぼそとハルが喋る。囁くような声でありながら、そういう喋り方をするので、余計に聞き取りづらかった。
「嫌に目が覚めて、自分の部屋にいちゃいけないような気がしたからだ。ただ、それだけだ」
「……きっとそれって、ナニカから、逃げたいって、思ってるんです。多分、ですけど」
「俺が、逃げたい?」
「上手く言えないけど、人間って、基本的に卑怯で姑息で薄情、なんです。だから、自分の空間から逃げて、説明できないなにかから逃げる……えと、分かりません……よね、これじゃ」
「いや、そうでもない。理解できる奴は、理解できるだろうさ。安心しろ、俺は理解できた」
「なら、続けても……良いでしょう、か?」
「どうぞ」
「ありがとうございます」
そう言った後、ハルは自分と言う色眼鏡で見た世界観を基礎として、淡々と喋り始めた。
人と言うのは見下さなければ生きていけない生き物であるとか、歴史を知るなら戦争を知らなければいけないとか、大人しそうな顔に似合わず過激な事をさらっと言ったりした。
そして、誰もが知らないような、あるいは思いつかないようなことまで言いだしたので、俺は少し不安になり、聴者一人という寂しい彼女の発表会を終わらせた。
「しかし、顔に似合わず凄い事を言うんだな。少し、驚いた」
「ごめんなさい。私なんかが、偉そうなこと、言ってしまって……」
「いや、別に構わないさ。あれだな、大抵の兵士は反戦を望んでいる。それでもなお戦い続ける理由があるとか、英雄が兵士を戦わせるのではない。戦った一人の兵士が英雄となるとか。
これって、誰かの引用だろ? 言葉を話す時の口調が、少しだけ変わってた。できれば、誰の言葉か教えてくれないか?」
「……それはその、覚えてないんです。ご、ごめんなさい。ただ、どこかの陸軍中将の言葉だったとしか、記憶してなくて……」
「なら、別に良い。強制してる訳じゃないからな」
俺が少しだけ表情を緩めると、ハルもふっと笑ってくれた。可愛らしい顔つきをしているのに、どこか引きつったような、酷く不器用な笑い方をしている。
誰かに似ているなと思ったのも束の間で、すぐにマクスウェルの笑い方にそっくりなのだと思いついた。あの不器用中佐と目の前の少女を重ねるのは少し失礼な気もしたが、実際似ているのだから仕方がない。
笑いだしたい思いを堪えながら、俺はふと空を見上げ、自分のちっぽけさを再確認した。以前はどんなに頑張ったって、人間というのは所詮ちっぽけな存在なんだと思っていた自分が、酷く懐かしかった。
「……なあ、何十億人と居る人間の内の一人が自分なんだってことに気づいて、気持ちが沈んだことはないか?」
「気持ちが、沈む……? えと、どうして、気持ちが沈んじゃうんですか? それって、すごく良い事だと思うんですけど……あの、私は、という意味でですよ?」
「すごく、良い事……?」
予想もしなかった答えに一瞬呆然とした俺は、見つめられてぽっと赤くなるハルを見て、若干の気まずさを感じながら目を逸らす。
なんで赤くなるのかが理解できない俺であったが、以前の俺が気づかなければ良かったと思っていた問題の逆説を、少女がさらっと言ったことに、少し驚いていた。
少女は相変わらずぼそぼそ喋るので聞き取りづらく、話す内容もやや専門的過ぎるのだが、言っていることを理解できれば話をしていて退屈しない相手だった。
もっとハキハキと喋って、楽しそうに笑えば良いのにと、心の底からそう思う。そんなハルの横顔を見つめ、俺は続きを促がした。
「どうして、そう思うんだ?」
「だって、何十億分の一が自分だって言うなら、それは何十億分の一で自分っていう存在が生まれたってことじゃないですか。それに、何十億のたった一人が、自分なんです。これって、素晴らしい事じゃないですか?」
「…………」
自信なさげに首を傾げ、恥ずかしそうにそう言ったハルは、笑っていた。それが本音だと言いたげに、それだけが言いたかったと思っているかのように。
なるほど、確かにそうだった。何十億分の一と卑下することはないのだ。
逆に、何十億分の一という確率で自分が存在しているのだと、何十億と人間はいるのに、自分はたった一人なのだと、そう思えば良かったのだ。
劣等感と反抗心で、そこまで考える余裕がなかったという言い訳は通用しないだろう。なにせ、簡単な事なのだから。
紙をひっくり返すように、考え方をひっくり返せばよかっただけなのだから。
「でも、なんだかんだ言って、ハルも最近、そう思うようになっただけなんです。以前は、途方もない世界の広さに、独りで憂鬱になってましたし」
「……俺もそうだったよ。世界は俺なんか見ることはなく、ただただ進んでいく。だから遅れないように着いていこうとするけど、それは無理なことだと知って、なんだか虚しくなった。 全部が無駄な事だと、そう思い込んだ。だけど、それは間違っていなかった。実際、その通りだった。世界は俺なんか見てくれないし、歩く速度も変えてくれない。
でも、そんなの俺には関係ないと、最近になってそう思えるようになった」
「なんだか、かっこいい……ですね」
「そうでもない。俺はカッコ悪いよ、どこまでもな」
「えと……気分を害したなら、ごめんなさい。深夜なので、自分でも、なにを言いたいのか、よく……分からないんですよ」
申し訳なさそうに視線を落とし、両手をもじもじさせる少女を見た俺は、なんだか気持ち身体が軽くなったような気がして、思いっきり背伸びをしてみた。
不思議そうな顔をするハルを尻目に、俺はトレンチガンを持って、兵舎に足を向ける。そろそろ眠らなければ、明日の朝がキツイだろう。
「気分を害された覚えなんか無い。話を聞けて良かった。それじゃ、俺はそろそろ寝るから」
「あ、はい。お休みなさい……あの、それと……」
「ん?」
「頑張ってくださいね。ハルも、適度に頑張ります。その……色々と」
そう言って、彼女はにっこりと笑った。そんな顔が出来るなら最初からやれば良かったのにと、苦笑しながら、俺は思った。
彼女に背を向けて右手を上げ、左右にブラブラと振った。ふと、手を振り返してくれているだろうかと思った俺が後ろを振り向くと、もう誰もいなかった。
「………?」
不思議に思って辺りを見回すが、人影すら見当たらない。影の薄い雰囲気の子だったから、きっとどこかに隠れているのだろうと、俺はそう結論付けた。
孤独感を増長させる肌寒い風が吹き抜けていく。そういえば彼女は防寒着を着ていなかったなと思い出した俺は、もう彼女の名前を忘れている自分に気づいて、呆れ果てて溜息をついた。
東の空が明るくなるまで、まだ、もう少し掛かりそうだった。
最終更新:2011年06月08日 23:22