( 投稿者:ushi )
「君に惚れているからという理由では、だめか?」
──ああ、総領息子様。
失礼ながら、そのような戯言で問いかけを袖にされること、私、もう何度目になるのでしょうか。総領息子様──、と、失礼。私がこの錆臭く油臭い地下で生活しているあいだ、総領息子様は念願の
ルインベルグ大公になられたのでしたね。評議会のお歴々を相手取り、朝に夕に、寝る間も惜しんで政争にお励みになられたそうで。グランデュークの放蕩息子と嘲弄を受けるに甘んじていた時分を思えば、想像もつかぬことでございます。総領息子様、などとお慕いさせていただいたのも今は昔。さて、これからは大公陛下と、そうお呼びしなければなりませんね。
こほん。
「ええ。陛下。──承服いたしかねます。他を当たってくださいまし」
こういった無礼極まりない物言いが陛下に通用しないことは、私、重々承知の上です。いっそ思うさま無礼を働いてしまえば、ご英断が期待できるのではないかと、浅知恵を働かせた時期もあったのですが。今となってはただの当てつけでございますね。
「時の王を袖にするとは罪な女だな君。ああ、あと、その、陛下ってのはよしてくれ。君に言われるとなんだかどうにも、照れくさいんだ」
「念願だったのではありませんか。大公陛下様」
「いいや、総領息子様、だ。君だけはそう呼べ。これは勅命だぞ。ヴェロニカ」
左様で御座いますか。勅命とあっては、致し方ありませんね。当てつけついでに、陛下という敬称も返上させていただくことにします。
「して、総領息子様。件の罪な女、よもや一国の主に無礼を働いたとあっては、生かしておけぬことでしょう。ええ、そうですとも。死罪に違いありませんわ。どうか一つ、ご明断のほどを期待させていただきます」
「色恋沙汰に死罪を科すほど、この国を落ちぶれさせてはいないつもりだ。それに色恋が死罪に結びつくとなれば、私はこれから何度死ねばいいか」
「大公陛下となられた今ですもの。死罪も帳消しですわ」
「死罪なのは否定しないのかね」
「私のような女を足しげく口説いていたのでは、審問官様のお顔も曇ることでしょうね」
「はは、審問官と来たか。そいつはおっかないな」
薄暗い地下工房、ランタンの発する心許ない明かりの向こうで、やはり、総領息子様は屈託なく微笑まれるばかりでした。そうしてしばらくのあいだ、私が工具を扱う硬い音だけが響いたあとで、にわかに総領息子様は得意気なお顔になり、
「だが、さしもの審問官といえど、その女が大公の花嫁となれば、口を引き結ぶのではないか? どうだ、名案だろう?」
「総領息子様。あの」
「ん、ようやくその気になってくれたか?」
「手元が暗いのです。ランタンの明かりを強めていただけませんか」
「……ふむ。了解だ」
ああ、ああ、一国の主ともあろうお方が、油まみれの女に顎で使われていようなどとは。まったく嘆かわしい限りです。私としましても、死をもって償いに代えさせていただきたい心境ですが、銃も剣も歯が立たぬこの身体をしては、潔く、とは参りませんもので。何とまあ、歯がゆうございます。
さて、どうしたものやら。
「なあ。ヴェロニカ」
「なんでございましょう。バイクの完成までには、もうしばしのお時間をいただきます。今お作りさせていただいているのが、以前ご説明いたしましたキャブレターですので」
「そうじゃなくてだな」
「そうお急ぎにならずとも一番にお乗りになれますよ。私の後ではございますが、それは試走ですから。兼ねてからお望みになられていた通り、総領息子様が──」
「ヴェロニカ」
ふと、顔を上げますと、総領息子様は神妙な面持ちになっておられました。こうなりますと、さすがに、聞き流すというのは私の矜持が咎めます。真摯にお言葉を耳に入れるほかありません。
……例えそれが、甚だ馬鹿げた、理想家のざれごとだとしても。
「──ご無礼を。お聞かせくださいませ」
工具を机上に寝かせ、姿勢を正すと、総領息子様は吐息の一つもせず、仰るのでした。
「私は本気だぞ。君は、本気か。どうなのだ」
「本気でございます」
「そんなに殺されたいか。王のため、民のため、国益のために死すべしと」
「ええ。切望いたしております」
「死ぬことで愛国心を嘯こうなどと、まさか戯けたことは抜かすまいな?」
語気を強め、視線も鋭く、仰られる様には、なるほど一国を背負って立つお方の、片鱗めいたものが伺えました。しかしそれを知ればなおのこと、アルベルト・フォン・グランデューク・ルインベルグ──、その人が王でいるために、私は、『総領息子様』の願いに恭順をすべきではないのです。
そのための言葉を探すのには、ひととき逡巡が必要でした。ややあってから、論調が強くなったことを自責なされたのか、総領息子様は溜息を一つ。そうして思慮する暇をいただけたので、私もようやく言葉の整理がつきました。
「戯けてなど、おりません。合理的な判断に基づいて申し上げたまでです」
「死が合理的と言うか」
「ええ。失礼ながら、総領息子様とて、その若さで大公陛下となられたからには、ご理解いただけますでしょう。国是に反する存在をこのように生かしておくことが、どれほど憂慮に値する事実であるか。殺していただけないまでも、この部屋で静かに生涯を閉じられるならば、私にとってそれが唯一最良なのです」
「私はそれが最良だとは思わん。唯一だとも、思えんな」
平行線のまま停まった会話の傍らで、ニキシー管時計の暖色だけが、鈍い低音とともに時を刻んでおりました。
思えばこのニキシー管時計も、総領息子様に命ぜられて、私がお作りさせていただいたものでしたね。電気で動き、聞くところに寄れば真空管と特殊なガスを使っていて、黄昏色に光る何とも趣深い時計なのだ、と。どこでご覧になられたのやら、私がお伝えいただけた仕様はそれだけで、二年間に渡る製作はまことに難儀をいたしました。完成の折り、失礼ながら、総領息子様はそれはもう年甲斐のない態でおはしゃぎになられて──、
ご存じでしたでしょうか。そのときの私は、お喜びになる総領息子様に肩を叩かれながら、これまでに覚えがないほどの充足感に包まれていたのでございますよ。
蒸気バイクや、ニキシー管細工や、あるいはいつかお作りした電気式の楽器類といったものが、まさか国益などという大それたものに貢献しようはずもありません。この薄暗い地下工房で、鉄と油と芥虫を隣人に過ごした数年間は、正直を申し上げれば、私の理想とする配偶とは、遠くかけ離れたものでした。でも──、それでも、総領息子様に笑顔をいただけるのなら、こんな暮らしも、悪くはない。無駄ではない。死をもって国益となす以外の役割が、私にもまだあったのだと。……そう思えたのです。
ああ、それを与えてくださった他ならぬあなた様が、どうして、なぜ今になって──、
「総領息子様」
私だって、無為に死にたがっているわけではないというのに。
口にしてしまえば、生きたいと願えば、それが叶わぬと知ってしまうから。総領息子様とともに、この工房で過ごした時間さえ、ことごとく嘘になってしまいそうで。
だから、私が口にできる願い事は、やはり、この一つしかないのです。
総領息子様。
「どうか、どうか私を、祖国のために死なせてください。死してようやく、私はルインベルグを祖国と謳う悲願を叶えられるのです」
俯いた視線の先で、鋼鉄製の義肢が、小さく軋みをあげました。皮膚も肉付きもない、機械仕掛けの私の右腕。総領息子様からいただいた、特別製の筋電義肢でした。これがあったればこそ、私は今も、些細な形とはいえ総領息子様のお役に立てる。大切な、大切な宝物です。けれど、この腕が、花嫁衣装の裾から伸びる様を想像してしまえば──、
背筋を苛む悪寒にこらえきれず、目を閉じていると、不意にその腕を、強く掴んで引くものがありました。
「そ、総領息子様……、何を」
総領息子様は無言のまま、掴んだ私の腕を胸元まで引き寄せ、両手で硬く包みました。これでは、これはまるで、その、まるでこれから、本当に愛の告白をなされるかのような格好ではありませんか。
あまりのことに、その一瞬で私が考えられたのは、
「総領息子様、その、油の臭いが……、うつります」
視線を彷徨わせながら弱々しく私が申し上げると、総領息子様はやおら身を乗り出し、
「かまわん。聞け。ヴェロニカ」
「──はい」
視線も微動だにせず、そう仰られては、私にはただ身を固くすることしか叶いません。ああ、せめてこの体勢だけでも、別な形に改めていただくことはできないものでしょうか。恐れながら提言をいたすべきか、私が慌ただしく逡巡していますと、
「君は私の、共犯者だ。そして道具だ。そうだろう」
その言葉を聞いて、私の思考は急に冷静になりました。
ええ。ええ、そうですとも。仰るとおりです。総領息子様を共犯者などとお呼びするのは私の本意ではございませんが、私自身を指して、共犯者、あるいは道具と、これほど相応しい呼び名も、およそ他にはないことでしょうね。
「……髪の一本から血の一滴に至るまで、祖国に、主君に捧げております」
自信をもって、微笑すら浮かべて私がお答えすると、総領息子様はひととき笑みで応じられたあと、再び表情を硬くしてこう仰いました。
「その道具を、私がどう使おうと、私の勝手だ。君が口出しをすることではないな」
「……はい」
「君が自身をまるで国益の道具のように謳うことを、私は否定しない。君がそう望むのであれば、君を道具として扱おう。今までも、私はそうしてきた。だが君も、道具であるからには、道具としての矜持を見せてみたらどうだ」
「……と言いますと」
「私の手を煩わせるまでもなく君はいずれ死ぬ。殊勝なことにな。然るに──」
そこで一度、恐らくは言葉をお探しになっていたのでしょう。総領息子様は視線を逸らし、ひととき間を置かれました。私を説得するに足る言葉を、きっとこれまで何度となくお考えになって、けれど私が首を縦に振ることはなかったものですから。それを改めて口にすることは、総領息子様にとって、いささかばかりの思慮が必要だったのでしょう。
しかしこのときばかりは、そうして言葉を飾ることが無意味であると、どうやら総領息子様は結論づけられたようでした。
フ、と口元を緩ませ、浮かべた不敵な笑みとともに、総領息子様は仰いました。
「つべこべ抜かすな。嫁に来い。私はもう決めた。私が決めたのだ」
「──……」
なんとまあ、実にシンプルで、身も蓋もない。愛の告白というより、
宣戦布告でございます。道具としての矜持を見せろ、とは、私がもはや何を申し上げようと、聞く耳持たぬと、とどのつまりはそう仰りたかったのですね。
──子供か。
失礼。さて、何しろ総領息子様は一度お決めになられたことは、決して覆されることがないお方でして、その総領息子様が、決めた、と仰る以上、私には、粛々と従うほかないわけでございます。
「どうだ、ヴェロニカ。私にここまで言わせておいて、まだ袖にするか。死罪ごときでは済まさんぞ。承服できぬと言うなら、君の矜持をいかほど傷つけてさえ、私は」
「ご随意になされるが」
……ああ──、
「よろしいかと」
南無三、負けてしまいましたね。
しかしながら、このときの私は、実のところ折れてなどいませんでした。総領息子様の仰ることですから、嫁に来い、などと申されましても、それは私を工房から連れ出す口実に過ぎないのだろうと、浅く考えていたのです。
その言葉を素直に受け取るには、私の心はもう、とうに錆びつきすぎていて──、
「バイクが完成したら、外に出るぞ。ヴェロニカ。嫌とは言わせん。いいな」
「謹んでお供いたします」
「よし。決まりだ」
苦笑とともにお応えすると、総領息子様は上機嫌な面持ちで席をお立ちになり、足取り軽く地下工房の外へ。去り際にドアの隙間からお顔を覗かせ、「絶対だぞ」と、念押しをされましたので、「はい」と、私が返事をいたしますと、ようやく総領息子様は工房を後になさいました。
──さて、まさかこのようなことになろうとは。
数年ぶりに太陽の下を歩くことが叶うというのに、不安も期待も、思ったほど持ち合わせがありませんでした。現実味がない、と申し上げるべきでしょうか。
部屋を見渡してみましても、ニキシー管時計は変わることなく時を刻んでいて、部屋の隅では蒸気バイクが私に組み立てられるのをじっと待っております。電気式楽器は毛布にくるまれたまま埃を被っていて──、そこでふと、今の自分が、どんな姿になっているのかが気にかかりました。
工房には、壁や寝台に行儀良く収まった鏡など、一つもありません。顎を手に取り首を捻って一考いたしますと、そういえば、廃材の中にそれらしいものがあったことを思い出しました。席を立ち、机上のランタンを手に掲げ、蒸気バイクの傍を漁っていると、ほどなくサイドミラーを作った際に出た端材が見つかりました。
さすがに数年ぶりの再会となりますと、いささかばかりの準備が必要なものでして。
椅子に座り直してから、ツナギの襟元を正してみたり、髪をすいてみたり、深呼吸をしてみたりと、一通りの悪あがきを終えて鏡を覗き込んだのですが、
「……ああ……」
果たしてそこには、ひどく身分の賤しそうな女が映るばかりでした。
どうにか、頬についた油を拭ったり、伸び放題になった後ろ髪を束ねたり、癖のついた前髪を撫でてはみるものの、何しろ髪は灰色ですし、肌は青白くて、挙げ句着ているのがツナギとあっては、いかんせん手の施しようがございません。
そっと鏡を机上に伏せて、代わりに作りかけのキャブレターを手元へ。
『バイクが完成したら、外に出るぞ』
……いっそ完成させなければいいのかもしれませんね。
我知らず笑みが出て、存外、悪くない気分でいる自分が、少し不思議に思えました。このときはまだ、これまでの日常が、ほんの少しだけ遠くまで広がったのだと、それくらいのつもりでいたのです。
総領息子様の言葉の真意など、考えもしていませんでした。
この関係が改まることなど、あるはずもないと。
このときは、まだ──。
最終更新:2011年07月13日 12:43