( 投稿者:ushi )
拝啓、総領息子様。
先日は私のために、新品の給仕服だけでなく、特製のリボンまでご用立てをいただきまして、まことに有り難うございます。本日のところは宮内庭園にて蒸気バイクの試走をいたしますため、やむを得ずツナギを着用しておりますが、リボンの方は今もご覧いただけます通り、私の殺風景な後頭部を健気に飾っておりますので、ひとつご容赦のほどを。
さて、総領息子様。
私、数年ぶりの太陽の下でございます。
長らく裸電球の下にいたせいか、青天に浮かぶ烈日はいささか目に痛いもので、つばのある帽子が恋しくなってまいります。もう少し感慨のあることを申し上げるべきなのかもしれませんが、私、この期に及んでも今ひとつ実感が得られませんもので。例えますならば、パルプ・マガジンの空想世界を夢で見ているかのような心境でございます。
奇しくもこの光景は、そう、ちょうど私の愛読しております、ラジヲクラフトの──、
「ヴェロニカ」
背後からのお声に振り返りますと、ぽん、と、何か柔らかいものが私の頭に被さりました。手で触れてみますと、膨らみのある厚い生地の質感。真新しいキャスケット帽でした。
「使え。目と肌が痛むだろう」
「ご厚意は有り難いのですが、その、総領息子様の前で帽子を被るわけには──」
「目を細めていては試走に差し障るぞ」
「……では、ご容赦を賜ります」
総領息子様がそう仰るからには従うほかないのですが、上質な仕上げと手触りから察するに、これもまた出来合の品ではおそらくないことでしょう。昨日から高価なお品物をいただいてばかりいて、少々罪悪感を覚えます。あまつさえ、総領息子様の前で頭に物を被るなどと、ああ──、なんということでしょう。一方的に施しを頂戴しておきながら、献身的な従者を気取る。路傍の犬にも劣る安っぽい忠義ではありませんか。
「遂にこの日が来たか──、ヴェロニカ! 私はもう待ちきれんぞ!」
……と、ひととき自責の念に苛まれはしたものの、大層おはしゃぎになっていらっしゃる総領息子様を見て、気が変わりました。私の苦悩をよそに、バイクの周囲をくるくると周りながら、カウルを撫で、タンクを撫で、最後には座席に腰を下ろし、満足げなお顔。大変なご無礼と承知で申し上げますが、果たしてどちらが犬なのやら。
……私の物憂いなど、私自身が思うほど、大それたことではないのかもしれません。
私が胸の内に秘めた忠義の重みがいかばかりであろうと、総領息子様は、ありのままでいらっしゃいます。これまで私の存在を欠いてきた世界は、祖国は、何の滞りもなく、今日も輝かしい陽光の下にあり、今日と言わず、明日と言わず、いわんや私の亡き後も、当たり前のように続いていくのでしょう。
それと比べてしまえば、私という存在の、その想いの、なんと矮小なこと。
「浮かない顔だな」
沈みかけていた顎を浮かせますと、バイクのシートに浅く腰を預けた総領息子様が、苦笑とともに仰いました。
「久々の地上だ。何か思うところがあるか?」
そうお訊ねになられても、はっきりとした言葉は浮かびません。顔は生まれつきです、などと軽口でお返ししてもよかったのですが、降り注ぐ陽気のせいでしょうか。このときの私は、普段より少しばかり素直なようでした。
「しいて言えば、そうですね。……塔を、思い出しておりました」
「無線の塔か」
甚だ恣意的な感想ではございましたが、総領息子様には、どうやらご理解をいただけたようでした。人類が脳に無線機を埋め込み、言葉という概念が失われた世界を描く、前衛的なパルプ・フィクション、無線の塔。この物語の主人公は、有線至上主義者を嘯き、会話に無線を介することを極端に嫌っているのですが、彼は、この世界において無線に支配されない唯一の存在であるとともに、孤独な爪弾き者でもあるのです。その声は誰にも届くことはなく、彼の叫ぶ真実というものは、完成された社会構造を前にしては、あまりにも矮小で──。
お分かりいただけますでしょうか。
例え形はなくとも、私の目の前には、それがあるのです。私がいかに無力で、小さな存在であるかを思い知らせようとする、大きな、大きな、塔の姿が。
「君はまだ……、読んでいないのだったな。あの小説の結末を」
しばしの沈黙のあと、不意を打つような形での、総領息子様のお言葉でした。
おそらくは出版社の経営が思わしくないのでしょう。ラジヲクラフトはここのところ、発刊自体が滞っているそうでして、私もまだ最新号にはお目にかかれておりません。紙面を埋めるための不定期連載に過ぎない無線の塔などは、次号で掲載があるのかすら定かではない有様です。
はい、と私が首肯いたしますと、総領息子様は溜息をひとつ。
「ならば結末を読むまで、留め置いてはどうだ。君の感傷を軽んじるわけではないが、かといってこのバイクに乗せるには、そいつは重すぎる代物だ」
「……ふふ。それはまた、早くお乗りになりたいだけなのでは? 総領息子様」
私が苦笑しつつお聞きすると、総領息子様は、さもありなん、といった態で仰いました。
「ああ。だが、感慨に耽るのは、こいつで少し遠出をしてからでも遅くはなかろう」
──ああ、総領息子様。
仰ることはごもっともです。しかし正直を申し上げれば、こうして陽光の下を歩くことも、あの物語の結末を知ることも、私、ほんの少しだけ怖いのです。それを知ることがなければ、地下に閉じこもってさえいればと。そこに自分の可能性を重ねれば重ねるほど、私は臆病になっていくばかりで。
けれど、そんな臆病者が、こうして外に出る勇気を選べたのは、総領息子様のお言葉があったればこそで、今また総領息子様が、私に勇気ある選択をお望みでいらっしゃるからには、覚悟を決めなくてはいけませんね。
「──それでは、お待ちかねの試走をいたしましょう」
「ああ。そう来なくてはな」
屋根の下から、太陽の下へ。キャスケット帽を今一度しっかりと頭に被せると、何かに守られているような心地がいたしました。降り注ぐ日差しは心なしか柔らかく、追い風に押されて、ほどなく総領息子様のお側へ。
……さて。
地下の工房から庭園に運び出すため、一度分解をしたのち、改めて組立をいたしましたので、まずは動作の確認をしなくてはなりません。とはいえ、一通りの点検は工房で終えておりますし、差し当たってエンジンの駆動に問題がなければ、あとは試走を残すのみでございます。総領息子様も興奮を抑え切れぬご様子で、ハンドルをしっかりと握り締め、満面の笑顔でいらっしゃいます。
「では、総領息子様」
「ああ。いつでもいいぞ」
……うん?
私の気のせいでしょうか。総領息子様。いつでもいいぞ、と仰ると同時に、何を警戒なされたのか、ハンドルをぎゅっと、こう──、握り直しませんでしたか。目で見てわかる仕草で握り直しましたよね。気のせいではありませんね。だって満面の笑みですもの。
……ああ、総領息子様。
降りたくないのですね。
「あの、総領息子様、……お気持ちはわかるのですが、一度降りていただかないことには」
「何故だ」
「何故って──、まずは私が試走をして、安全確認をいたしませんと」
「キーはこれか。回したぞ。次はどうすればいい?」
「あの、総領息子様、あの」
どう説得をいたしたものか、と私が思案を片づける間もなく、獣の唸るような音とともに熱機関が始動いたしました。車体の後部から二本の蒸気筒が射出され、前輪をロックしていた板金が外側へ展開。これといって機能に支障はないようです。運転手以外。
始動の際のギミックがことのほかお気に召したのか、総領息子様は目を輝かせ、
「おおっ。動いたぞ、ヴェロニカ! ──後ろから伸びたのは何だ?」
「排気筒です。平時は邪魔になりますので伸縮機構を組み込んで格納式にいたしました。始動時は蒸気が安定供給されませんので、今ほど動いた部分は圧縮空気と蓄電池の電力で動いております。お気に召していただけましたか」
「素晴らしい。君は最高だ!」
「ありがとうございます。──お降りください」
「断る!」
「総領息子様」
「断じて断るぞ!」
「一番乗りには違いないではありませんか」
「格好つけて座っているだけだ。走っていないのでは一番乗りにならん!」
そのように力いっぱい仰られましても。
しかしながら、ああ、こうなることは私、予想の範疇にございました。であるからこそ早々に組み立てを済ませ、総領息子様がお触れになる前に、試走を終わらせてしまおうと浅く考えていたのですが。臆病風に吹かれてひととき感傷に浸っていたらこの有様です。
──致し方ありません。
及び腰になっていた私が悪いのです。ええ。そうまで仰るならご随意にしていただこうではありませんか。
「……わかりました。では、これから私の言うことをよくお聞きくださいね」
「うむ!」
「お作りさせていただいたこの蒸気式オートバイですが、一般に言う蒸気機関とは機関部の仕様が大きく異なります。通常、蒸気機関は充分に発熱し、蒸気が安定供給されるまで幾ばくかの時間を必要としますが、このバイクは、電気制御による並列型蒸気発生装置によって、始動時にのみ、蒸気の生成を瞬時に行いますため──」
「うむ! もういいか!」
「まだです。蒸気発生装置、すなわち補助動力による蒸気生成は主動力の蒸気供給が安定するまで続きます。このほど、一時的に補助動力と主動力の出力が同時に行われますので、駆動部に強いトルクがかかります。蒸気発生装置は主動力のタービン回転数が一定に達すると一時停止し、各部の運動を利用した蓄電に切り替わりますので──」
「だいたい理解できたぞ! もういいな!」
「わかりました。では、これだけ聞いてください。始動直後は出力が安定しませんので、加速が鈍いからといってスロットルを回さないでください。大変危険です。いいですか。総領息子様。スロットルはそっと回してください。でないと速度が出てしまいます」
「わかった! スロットルを回すほど速くなるのだな! もういいだろう!」
「だいたい合っていますが、総領息子様、私としましては、あまり回さないでほしいというのがこの話の主旨でございまして──」
「どうしろというのだ!」
「もうご随意になさってください」
「最初からそう言えばいいものを! で、スロットルというのはこのレバーだな!」
「左様でございます」
「回せばいいのだな!」
「総領息子様。そっと回してくださいね。そっとですからね。そっと。それとブレーキに関してですが──」
と申し上げたそばから、スロットルが限界まで回され、
「お、おおっ、うおおお──ッ!」
総領息子様が発進いたしました。
発進、と言いますよりかは、発射、と言った方が適切かもしれません。爆発的な駆動音とともに、排気筒から猛烈な勢いで蒸気が噴きだす様は、ロケット弾の発射によく似ておりました。車輪のついた鉄塊、と言ってもあながち間違いではない重量の車体が、前輪を大きく浮かせて急加速し、瞬く間に視界から消えたのです。
そしてほどなく、視界の外から、盛大な衝突音が聞こえてまいりました。
「……ブレーキの説明が、まだです」
蒸気が徐々に立ち消えて、開けた視界の足下を、跳ね飛んだ前輪が左から右へ転がって行きました。バイクの進行方向へ目を向ければ、部品を撒き散らして横転した車体の傍ら、植え込みに頭から突っ込んだ総領息子様の臀部が見えます。
南無三、これは重傷です。──バイクの方が。
前輪のシャフトは間違いなく曲がるか折れているでしょうし、ことのほか精密な部品に関しましては、すべてに再点検の必要があるでしょう。こんなこともあろうかと、部品のスペアを作っておいて正解でした。動力部は替えが利きませんので、問題の有無に関わらず点検を実施すべきとしても、遠からず機会を改めての試走が叶いそうです。ともあれ、次回は対策として、レバーに遊びを持たせておかなくてはいけませんね。
そのようなことを思案しながら、散らばってしまった部品を私が拾い集めていますと、植え込みから生えるような格好でいらっしゃる総領息子様が、
「ヴェロニカ。バイクを壊したことは謝る。謝るが……、助ける順序が違わないか?」
「患者はより重傷な者から看るのが、規則ですので」
「それはそうだが、私は人間だぞ」
言って、植え込みから這い出た総領息子様に、私、笑顔で申し上げました。
「でしたら、つばをつけておけば治ります」
最終更新:2011年07月13日 12:48