銀時計の男

( 投稿者:ushi )

 大空洞ナイトヘーレ。
 かつてエントリヒ帝国ルインベルグ大公国とを直線で結ぶ基底トンネルとして計画、建造されながら、国際情勢の変遷により凍結された、世界最大、最長の地下空間である。外径二○メートル、設計全長六○キロにも及ぶ地下鉄道路は、急造された複数の隔壁と、未開通の岩盤によって堅く閉ざされたまま、今日も両国の地下に横たわっている。淀んだ空気は薄く、闇は奥深く、そこはまるで巨大な竜の体内さながら。今や歴史の底に忘れ去られ、やがて化石となって埋もれていくだろう、未来建設の亡骸だった。
 人が立ち入ることなどあろうはずもなく、長らく暗黒で満たされていたその場所に、この日、強烈な白光がもたらされた。
 天井に設けられた白熱灯が点灯したのだ。
 暴かれた闇の底で、無数の虫や鼠たちが慌ただしく逃げ惑い、でたらめな方向へ散っていく。大空洞の住人たちをひどく怯えさせているものは、何も白熱灯の光ばかりではない。彼らにしてみれば、それは単なる合図に過ぎなかった。
 彼らは知っているのだ。この場所が、自分たちにとっての楽園ではないことを。
 ──大空洞ナイトヘーレの支配者が、誰であるのかを。

「……ッ──、ク、ワン……、チェ──、1──」

 がらんどうの空間に、痛烈なハウリングとノイズの音がこだまする。天井を這っていたものの大半がそこから剥がれ落ち、何匹かは、コンクリートに叩きつけられて即死した。呆気ないその死に様を嘲笑うかのように、一際激しいハウリングが響き渡ったあと、唐突に、すべての音が掻き消える。

「……チェック、1、2」

 若干のノイズを伴いながら、低い男の声がそう告げた。

「供給電圧、正常。──始めよう」

 宣言とともに、トンネルの外壁が微かに震動した。
 重機の駆動音と、舞い落ちる石材の破片を伴って天井から降りてきたのは、大型の昇降機だった。設備のメンテナンスに必要な人員や機材を、まとめて降ろすためのものなのだろう。平たい円筒形の足場は、それ自体が牢獄の一室を吊したように広く、大きい。
 床を這い回る害虫たちを根こそぎ押し潰しながら、昇降機は最下層に到着した。

「降りろ」

 指示とも言えぬようなその言葉に、従順な足取りで従ったのは、細く、華奢で──、そしてその手に、あまりにも巨大な鉄塊を携えた、一人の女だった。
 黒い金属でできたそれは、一見して巨漢の手にすら余るだろう大きさで、柱を折り畳んだような形状をしている。その二つ折りの鉄塊を、あろうに女は片手で、真っ直ぐに背を伸ばし、表情も曇らせることなく携えているのだ。
 彼女が一歩を踏み出すと、その爪先で、金属が石を打つ音がした。
 後に続いた革製の足音が、金属製の足音と交互に響く。やがて白熱灯の下に辿り着いた女の足には、カーボンのそれと思しき黒い光沢があった。鉄塊を持った右腕にも、やはり同じような光沢がある。女の半身は、どうやら機械でできているようだった。ドレスを装甲板で飾り付けたような格好といい、黒尽くめの異様な風体の中で、灰色の髪を束ねたリボンだけが、場違いに可憐な青色をしていた。

「状況開始」

 応じる言葉もなく、女は粛々と従った。
 鉄塊を携えた腕を水平に掲げ、浅く振りかぶると、金属の咬み合う音を立て、畳まれていた二つ折りが一本の柱となった。遠心力の慣性を帯びてゆらりと伸びたシルエットは、細く長い砲身のそれだ。女が携えていたのは、折り畳み式の長距離砲だった。
 ──彼女こそが、この地下空洞、ナイトヘーレの支配者だ。
 彼女の爪先、互い違いの足音がこの場に舞い降りたとき、がらんどうの廃墟はひととき戦場に姿を変える。命は等しく無価値となり、迸る火力を前にしては一切が塵芥同然だ。なぜならここは、人命という概念のない戦場であるから。
 遠く女の視線の先で、白熱灯が次々と点灯した。一定の距離を隔てて連続する照明の真下には、大小のコンクリートブロックや、人型を模した標的が不規則に並んでいる。
 ナイトヘーレは、

「Yes, Sir──、状況開始します」

 仄暗い地の底にある、兵器試験場だった。



「まるで鴨撃ちだな」

 唇の端から白煙をくゆらせながら、その男は吐き捨てた。
 壁に無数の亀裂が走り、錆色の鉄骨が剥き出しになったその部屋は、ナイトヘーレの外壁部分に、一定区間ごとに存在する管制室の一つだった。
 本来であれば、大空洞の設備を制御する役割しか持たない一室に、今はいくつもの機材や酸素ボンベが持ち込まれ、元々広くはない室内を一層狭くしている。外壁に設けられた窓の向こうからは、つい先ほどまで、砲弾の射撃音とコンクリの破砕される音が響いていたのだが、眼鏡をかけた男の冷ややかな視線は終始、手元の銀時計に注がれていたようだった。彼が見届けたものといえば、女が昇降機から降りる場面の一部始終ぐらいだ。
 その発言にいささか不快感を覚えたのか、試験内容をつぶさに観察していたもう一人の男が、訝しげに口を開いた。

「鴨撃ちにしても、よく当てるものだと思いますがね。何かご不満が?」
「不満があるのは、的だ。ユンハンス。動きもしない的を相手に、挙げ句こんな場所では何の証左も得られない。時間の無駄だ」
「有効射程のステイタスくらいは得られるでしょう」
「そんなパッケージングが何の役に立つ。ただの空想だ。そんなものは」

 ユンハンス、と呼ばれた若い風貌の男は、呆れた風に肩をすくめた。

「そうは仰いますがね、教授。あの陰気なメードと、この場所を、兵器試験の名目で借り受けるだけでも、こちとら相当に危ない橋を渡ってんですよ。勘定から抜けてやしませんかね、嘱託職員に許される権限ってものが」
「それが弾薬を浪費する口実になるのか?」
「弾が使われていないと納得しない手合いが多いんですよ。この国は。羽振りのいい客を演じておかないことには、テーブルそのものから追い出されかねない」
「守銭奴のお前が、投資家の真似事とは。ずいぶん殊勝なことだな」
「ペイバックがいつになるか、わかったもんじゃありませんが──」

 と、ユンハンスが肩を落とすと同時に、窓越しのブザーが彼の耳に届いた。
 ──想定の作戦時間が経過したのだ。
 窓から外を見下ろせば、砲身をわずかに俯けた格好で、肩を落として管制室を見上げる女の姿がある。彼女と視線を合わせながら、ユンハンスが受話器を取るジェスチャーをしてみせると、女は踵を返し、昇降機に備え付けられた受話器をすぐさま手に取った。

『はい』

 卓上のスピーカーを介して、女の返答が室内に届く。応じて、ユンハンスは手元に置かれたマイクスタンドを引き寄せ、

「充分だ。副砲身にAPDSを装弾、射撃テストをしたのち、切り上げろ」
『了解いたしました。──あの、ところで、ユンハンス様』

 すでにマイクを元の位置へ返そうとしていたユンハンスは、その呼び掛けを聞いて、ひどく疎ましげな顔になった。無視を決め込もうとしたが、女が受話器を持ったまま立ちつくしているのを見て、渋々マイクを手元に戻す。

「……何だ?」
『一つ質問をさせていただいてもよろしいでしょうか?』
「内容による。手短に言え」
『恐れ入ります。その、後ほどお答えいただいても結構なのですが──』
「時間を無駄にしてくれるな。何だ」

 ユンハンスが急かすと、その剣幕に恐縮したのだろう、スピーカーから微かに女が息を呑む音が聞こえた。逡巡をするような短い沈黙が続いて、いよいよ苛立ったユンハンスが口を開こうとしたときだ。
『なぜ──』と、女はようやく問いかけた。









『なぜ標的が、人の形をしているのですか?』









 ユンハンスは、閉口した。
 兵器技師である彼にとって、人型の標的を用いることはごく自然なことだった。だが、それが当たり前であるからこそ、その質問には別な意図があるのではないか、と、咄嗟に勘ぐってしまったのだ。彼女の疑問は、至極もっともなことで、おそらく他意はないことだろう。であるならば、感情を露わにして返答をすべきではない。ユンハンスはひととき黙考し、硬くなった表情を、氷を溶かすようにして柔らかく改めた。

「──お前が、あまりによく当てるものだから、コンクリブロックの用意が間に合わなんだ。次はもう少し、お手柔らかにな」
『……左様で。いえ、失礼をいたしました。試験に戻ります』
「そうしてくれ。──ああ、ついでに俺も一つ聞きたいことがあるんだが、いいか?」
『なんでございましょう』

 仕返しとばかりに、ユンハンスは意地の悪い笑みを浮かべた。

「洒落たリボンだな。誰にもらった?」

 分厚いガラス窓の向こうで、今度は女が閉口した。当惑した表情を俯かせ、女は受話器のコードを引き寄せると、ひどく肩身が狭そうな様子で、

『これは……、その、総領息子様──、いえ、大公陛下から、先日いただいたものです。場違い、でしたでしょうか』
「いや? よく似合ってると思うが。……大事にするんだな」
『はい。ありがとうございます』
「ああ、手間を掛けた。試験に戻ってくれ」
『はい』

 マイクを切るやいなや、ユンハンスは舌打ちと溜息を、ほぼ同時に吐き捨てた。

「色気づいたか。首輪付きが」

 悪態をつくユンハンスに、傍らの男は無表情で応じた。

「勘づかれているな」
「まさか。数年来、地下で生活していた女ですよ。何に勘づくっていうんです。だいたい何を勘違いしたところで、知らないと知られている女の話を、誰が聞くって──」
「ギルデッドは、どこに置いてある。ユンハンス」

 紫煙を一息、問いつめた男の眼光は、見る者を凍てつかせそうに冷ややかだった。漂う白煙はまるで冷気のよう。冗談めかした態でいたユンハンスも、にわかに体を硬くする。

「……国内に待機させてありますが」
「尾行につけさせろ。もし首輪が外れぬようなら──、削除する」
「この期に及んで? ヤコブの梯子はどうするんです?」
「ギルデッドにくれてやれ。喜んで使うさ」

 ユンハンスの問いかけに、男は背姿で応じると、ドアノブに手をかけ、一瞬で管制室を後にする。残されたユンハンスは、口を半開きにしたまましばらく唖然としていたが、背後からの射撃音で我に返ると、再び舌打ちと溜息を吐き出した。

「勘弁してくれ。……俺はブリキの玩具屋か?」

 独り言とともに、ユンハンスは重くなった腰を上げ、卓上にあるマイクとは別の、外線電話の受話器を手に取った。二度三度、四度とコールが響くあいだ、指先で忙しなく机を叩いていると、コールが七度目を数えてようやく、通話が繋がった。
 ──どいつもこいつも、俺に無駄なことをさせやがる。
 ユンハンスは、これ以上にないほど不機嫌な顔で、ハロー、と電話口に呼び掛けた。

「クソ保安官。仕事だ」



 P l e v ... 【 ピアソン&コックス 】
最終更新:2011年12月11日 10:25
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