(投稿者:Cet)
結局その本を誰が置いて行ったのかは分からない。
でも彼女はその本を手に取った。それが全てだった。
彼女は白い指でその本のページをぱらぱらとめくった、よく読みこんである本で、ページの端には指で押さえたあとが微かに残っていた。そして、ページはあるところで開いて止まった。きみのために、たとえ世界を失うことがあろうとも、世界のためにきみを失いたくはない。どういうことだろう、と彼女は考える。世界とは何で、きみとは誰で、世界を失うとはどういうことで、きみを失うのはどういうことだろう、と考えた。しかし彼女には何一つ分からなかった。でも、なんとなくそこには悲しい響きがあった。誰かが遠くで泣いていて、その誰かはきっと“きみ”を失くそうとしているのかもしれない、そう思った。
少女はその本を、もとあった通りに机の上に置いた。そして、その場を後にする。出撃、緊急招集。
木張りの廊下を駆ける。
◇
その巨大な蜘蛛が現れるようになったのは世暦1947年の夏のことであった。その蜘蛛はいつも、現れては戦線を侵食し、そしてある程度侵攻すると百八十度向きを変え、グレートウォールを軽々と乗り越えて去っていった。それの繰り返しによって戦線は少しずつ形を変える。とはいえ、人類には被害ばかりがあったのではない、大蜘蛛のひきつれた
アシダカは戦線にひしめく他のGを喰らったのだ。それによって、戦線は五分とはいかなくとも、それなりの拮抗を保ってはいた。しかし何にしても被害が継続的に生じれば、当然限界というものは出てくるのだ。
そして、今回駆り出されたのは彼女らであった。
空戦メードである少女は大きな銃を手に、それを眺めていた。地上には砲撃部隊が展開して、断続的な砲撃を繰り返していた。その弾丸が直撃する度に大蜘蛛は身体を揺さぶったが、まるで実体を持っていないかのように被害を受けなかった。
蜘蛛はグレートウォールの山腹を背にするようにしてそこに留まっていた。侵攻するような素振りは見せないが、しかし接近すればこちらに対して攻撃を行った。
少女は手にした銃を、射程距離ギリギリから撃ち続けた。彼女の引き連れる隊員らも、別の射角から蜘蛛に対して攻撃を続けていた。しかし、蜘蛛はその攻撃によって何らかのダメージを受けているような素振りを決してみせなかった。蜘蛛は、泰然と身体を揺らし、時折膨大な量の糸を腹部から放った。その糸に触れたものは、戦車であれ、人間であれ、何であれ融けた。とにかくその糸を喰らわないように、とだけ彼女は心を配って攻撃を続けていた。
少女の顔に表情はない。銃撃をするたびに、彼女の顔は微かにそのシルエットを変えるだけだ。撃つ、撃つ、撃ち続ける。最低限の回避だけを考える。
蜘蛛が尻を上へと少しだけもたげるのを見て、少女は自らの高度を上げて、そして蜘蛛から距離を離す。糸が噴出する、それは少女のいる位置とは全く関係ない方面にまき散らされ、そしてその糸に触れた戦車の中から数人の兵士達が飛び出すようにして逃げ始める。爆発が起こる。彼女は自らの危険が去ったということを確認すると、再び攻撃に移った。それを繰り返す。
やがて、少女の持つ銃に装填されていた弾丸が尽きる、それを確認した少女は、横目で腰のポーチに入っているところの弾薬類を見ると、暫し攻撃を止めて手を伸ばした。
短い叫び声が聞こえた。
微かな混乱が脳裏に芽生えて、それを振り切るようにして視線を上げる、そして新たな弾倉を装着させようとした彼女の手が停まる、蜘蛛の額に並ぶ幾つもの赤い目が自分を見ているかのように感じられた。そして、その蜘蛛の腹部が胎動する。何かが起ころうとしているのは明白であった。距離を離さなければいけない。どこかから短い叫び声が聞こえる、ほかの少女の声だ。「隊長!」その声で我に返る、後退だ。後退をしなければならない。
蜘蛛が大きな腹をもたげた。
こちらを向いている。
最終更新:2011年08月29日 18:25