【投稿者:エルス】
A.D.1941年
エテルネ公国首都『ダルク』 オテル・デ・ザンヴァリッド
窓から吹き込む微風に
ルルアの紫がかった黒髪が揺れた。
廃兵院と呼ばれる施設の一つであるオテル・デ・ザンヴァリッド、通称アンヴァリッド。
エテルネ公国の英雄でありエテルネ第一帝政の皇帝、ナポレ一世とその兄弟が眠る場所。
同時に戦傷病兵や傷痍軍人が暮らす、歴史的建造物の一つである。
その敷地内にある病院の一室に、ルルアは眠っている。
「貴女は何時になれば、目を覚ますのでしょうね」
ウェンディは純白のベッドに横たわるルルアを見ながら淡々と囁いた。
絶対数の不足しているメードは部隊に所属していても各地で転戦することが多い。
ウェンディとルルアも何度か共闘し、互いに信頼していた。
だが、現実は容赦無くルルアの身体を引き裂いた。
始まりは帝国軍戦線後退のため、横腹をGに刺された形になった連合軍の前線部隊が孤立したことだった。
連合軍総司令部から下された命令は、メードの力を過大評価した決死の作戦だった。
グリーデル最古参かつ最精鋭のメード部隊であるレッドコートが挺身して突破口を開き、前線部隊のメードは殿として侵攻を食い止める。
メードの回収は後回しとされ、八人で編成されていたレッドコートは二人に数を減らし、前線部隊のメードはルルアを残して全滅。
唯一の生き残りのルルアでさえ機甲部隊の救援が無ければこの世には居なかった。
―――メードは消耗品なのか……。
右目を包帯で覆われ、左手首から先と左膝から下、そして精神的ショックで心まで失ったルルアを見てウェンディは思った。
命に別条はないとはいえ、最愛のメールを目の前で失ったというのだから、この状態は仕方がないのだろう。
下手に心を元に戻そうとすれば、ガラス細工のように砕け散ってしまいそうな脆さをルルアから感じ、ウェンディは目を逸らし、
「―――」
病室に入ってきた人物と目を合わせた。
長身で体つきが良い、碧眼に短いブロンドの髪。
茶色っぽい軍服に真新しい中佐の階級章を付けたクラーク・マクスウェルは、驚いたのも束の間、すぐに目を背けた。
「見舞いか」
「ええ、そうです。マクスウェル中佐」
総司令部に決死の作戦を提案した張本人。そしてその働きが認められ昇進した男。
意識してではなく無意識に睨めつけていたとは、ウェンディ自身知らなかった。
刺すような鋭い目線に目を合わせられなくなったマクスウェルだったが、ベッドに近づきルルアを見る。
その目には無機質な感情などはなく、悲哀に満ちた人の心が映っていた。
苦渋の決断だったのかもしれないとウェンディが横髪で自分の鼻をくすぐっていると、マクスウェルが尋ねた。
「まだ、目を覚まさないのか」
「ええ、そうです」
「……そうか」
少しだけ間を置いた返答の後、手に持っていた果物の入ったバスケットを机に置いたマクスウェルは一言だけ、
「すまない」
「何故謝るのですか? 謝罪される理由などありませんが」
「……すまない」
「ですから」
「全て私が悪い。そう言うことだ。理解してくれ」
すべて一方的すぎるとウェンディは思った。
謝罪にしてもこちらのことなどお構いなしで、追求すれば勝手に話を打ち切る。
中佐という立場は不器用と言うだけでは、すまされないこともあるというのに。
「ゴドウィン大佐なんだ」
「……?」
「あの作戦、やると言ったのは、ゴドウィン大佐なんだ」
「ここまで来て、言い逃れですか?」
「君がそう思うのならそれでいい。ただ、真実は―――」
「真実? 真実は貴方のような駄犬が尻尾を巻いて逃げ返ってきたということ。そうじゃありません?」
「……そう、だな。ああ、そうだ。そうなんだ。私が、彼女を」
マクスウェルは自嘲の笑みを浮かべ、安らかに眠るルルアを見た。
「……殺したようなもんだ」
「―――さようなら、中佐殿。もう二度とお会いしないことを願います」
乱暴に閉じられたドアを背に、マクスウェルは握りしめた拳の収め所を探し、それを力なく下げた
「それでルルア嬢の調子はどんなんですよ、中佐?」
マクスウェルが連隊本部に戻ると、戦車部隊長のロドリゲス・フィーライン大尉がコーヒーカップ片手に話しかけてきた。
浅黒い肌に鳥肌を浮かべながらもこの寒い中、戦車兵の特徴であるツナギの袖を捲っている。
「まだ、意識が戻らない。精確に言うと、ああ、医者の話なんだが、意識は戻っているが、精神的な障害を負っている、らしい」
「ようするに相当に強いショック受けちまったんですか。あの強いルルア嬢がねぇ……。信じたくもねえ話だ」
マクスウェルが連隊長に与えられた部屋へと歩く隣で、ロドリゲスは口をへの字に曲げてそう言った。
「私も信じたくはない。私の作戦立案がなければ、あんなことにはならなかった」
「ええ、そうですがね、中佐の立案がなければ取り残された俺たちと貴重な戦力は全部無くなってました。中佐は戦略上正しいことをしたんですよ」
「戦略上、な。それは私も理解しているが、あの作戦は大佐が私に言ったものだ。総司令部に立案したのは私だがな」
苦笑いを浮かべて部屋へと入るマクスウェルに続き、ロドリゲスも中へ入った。
中々に広く、作戦会議も出来る連隊長の部屋の上質な皮を使った椅子に座って、マクスウェルは続ける。
「結果として私は中佐に昇進し、救出部隊を指揮して多数のGを駆逐し、彼女を救助した功績を称えられ、大瑛帝国勲章ナイト・グランドクロスを貰った」
「これからはサー・マクスウェルと呼ばれる事になりますね」
「よしてくれ。ミスター・マクスウェルでもくすぐったいというのに、サーなんて呼ばれた日には悶絶してしまうだろう」
疲れがたまった体を背もたれに預け、マクスウェルは溜息を吐いた。
その碧眼はここではない何処かを見据えており、悲しげに揺れていた。
「サーと呼ばれるべきはゴドウィン大佐……いや、准将で、ルルアは……彼女はレディと呼ばれるべきだ」
「ロイヤル・インディファティガブルガーズ独立混成連隊の連隊長が何を言ってるんですか。この先が思いやられますね。ま、ルルア嬢については同感ですが」
「そうだろうな。そういえば君だって戦車中隊の中隊長じゃないか。同じようなものだろう」
「連隊長に比べれば気が楽でしょうが」
カップに残ったブラックのコーヒーを飲み干して、ロドリゲスは急に真面目な顔をして続けた。
「ところで例の件、どうなってるんです?」
「ルルアに代わるメードの配備……だったな」
「ええ。守られる側としては是非聞いておきたいんですよ」
「今、レッド・コートの生き残りとエテルネ製メードの二つの案がある。どちらも了承の印を押せばすぐ配備されるだろう」
引き出しから束になった書類を机上に出し、マクスウェルはそれを見るようにと促がす。
ロドリゲスは怪訝そうな顔をしながらそれを手に取り、書類を捲りながら言う。
「レッド・コートは兎も角、なんでエテルネから? 奴ら、グリーデル人は嫌いだったのでは?」
「戦線崩壊の始まりはエテルネ公国から出した軍が防衛線を突破されたから、というのを隠したいのだろう。所謂、口止め料だな」
「なるほどね……。どっちもは無理なんですか?」
「総司令部に問い合わせた結果『貴重かつ強力なメード戦力を過剰に保有することは許可出来ない』と返ってきた」
「……まるでルルア嬢がいないみたいな事案でこっちがイラついてるってのに、奴らはまだそんなこと言ってんですか」
「仕方ないだろう。メードが対G戦力としてどれほど優秀か、我々が一番よく知っている。数が少ない優秀な武器を、一個連隊に集中配備するのは良い考えではない」
ロドリゲスから書類の束を受け取り、それを元あった場所へ仕舞ったマクスウェルはそう言いながら溜息を吐いて続ける。
「それが例え、満身創痍の混成連隊であってもな」
―――ロイヤル・インディファティガブルガーズ独立混成連隊。
戦死したジョー・ゴドウィンが指揮官を務めていた頃はロイヤル・イラストリアス独立連隊だったが、先の戦線後退戦において少なからず被害を受け連隊は戦線から離脱。
補給と人員の補充の為にエテルネ公国国境近くのクロッセル連合陸軍基地に移動し、そこで壊滅状態のまま放置されていたローエングリン大隊を吸収して、現在の編成になった。
言わば、あるもの全部を叩き込んだシチューのような部隊だ。
当然、名称と連隊旗についてという戦闘に関係ない所から話し合う必要があったし、この先何ヶ月間は指揮系統の確認をするだけで終わりそうな状態だった。
それら全てを背負う立場にあるマクスウェルの疲労を知っているロドリゲスは間を置いて、
「明日の見舞いには俺が行く。持っていってほしい見舞い品はあるか?」
「ん、ああ。すまない、本当なら私が行くべきなのだろうが……」
「知ってる。明日は会議だろ? だから俺が行くんだ」
「なら、一つ、頼まれてくれるか?」
「俺とお前の仲だろ? 物がなんだろうと持っていくよ」
「そうか。二つあるんだが」
「一つだと言ったろ?」
驚いて目を丸くするロドリゲスと、その反応にキョトンとするマクスウェル。
「……ふむ、ああ、二つは駄目か?」
「ああ……。持ってくよ、持って行けばいいんだろ? それで何を持って行けと?」
「すまないな。まず、このさき寒くなってくるから、防寒用のコートだ」
「防寒用って、これ普通のコートだし男物だぞ?」
「……私に言うな。店員に言え」
ああ、これは悩んだ挙句に店員にお勧めのコートは? と言ってしまってそのまま買ったに違いない。
ロドリゲスはマクスウェルの不器用さに呆れながら、そのコートを受け取った。シンプルなデザインで、熱を通しにくい素材のようだ。
ただその素材の性質なのか、動き易さはあまり考えられていないらしく、手触りは堅く、ごわごわとしている。
「それと、これだ」
「これは……。なんてもんを俺に押し付けるんだ。お前は……」
机にそれを置いたマクスウェルに、驚きと呆れが混ざった顔でロドリゲスは言った。
「すまない」
「いや、謝罪の言葉を即答されて許す奴はいない」
「……何か奢る」
「オーケイ。それで良い」
溜息交じりにロドリゲスが応じ、机のそれを受け取る。
去り際にロドリゲスは口元を上げて言う。
「お財布握り締めて待ってろよ」
マクスウェルは肩をすくめ、苦笑した。
「―――では、この案で了承頂けますね。オズワルド少佐」
翌日の朝から開かれた会議がようやく終わりの入口に立ったのは、午後の一時になったところだった。
ローエングリン大隊の臨時指揮官、
ジャック・オズワルド少佐と大隊指揮下の中隊長四名とその副官が集って、
指揮系統を整理し、これからの方針を決め、新しい連隊付きコックが来るのは何時かなどと話し合っていたのだ。
「大方はな。しかし、どちらも正規の指揮官を失っている。この指揮系統が染み渡るまで、一体どれほど掛かるだろうか……」
「最低で一カ月、最大で三カ月。総司令部が我々に与えた慣熟期間は、その程度ですよ」
「無理は我々の無茶で完遂せよ、か。精神論ここに極まれり、だな」
皮肉を込めてオズワルドは苦笑いを浮かべ、冷たくなったコーヒーを啜る。
退屈な話し合いで集中力を維持するには、カフェインが必要不可欠だった。
会議に参加している皆がコーヒーを飲み、それを燃料にして口を開いていたのだ。
「次は、対G戦争の最後の一線は貴官らの精神の強靭さに掛かっている、とでも言い出しそうです」
「言うだろうな。制服組に前線の心境は理解できんだろう」
「そもそも、制服組などと言うものがこの世を回している限り、頭の出来が自分の価値と同意義であると勘違いする者達が
出てくるのだ。我々、前線組は、そんな下らない者達の盾となるのが現状だ。恐らく、これからもそうだろうが」
「守ってやっているというのに……。反戦活動やら予算削減などやられてこちらの心境が下降しないとでも思っているのだろうか?」
本音の蓋を開け始めたオズワルドに沈痛を秘めた表情のマクスウェルは静かに立ち上がり、
「考えない方が得策だろう……。オズワルド少佐、会議はこれにて閉会。宜しいな?」
「ええ、ありがとうございました。中佐殿」
互いにラフな敬礼をした。
会議が終わって部屋に戻ったマクスウェルは、体が鉛になったような疲労感を吹き飛ばそうとコーヒーを淹れ、それを机の上に置いた。
書類を一纏めにして引き出しに入れ、漸く休憩の時間を手に入れたという充実感を味わう余裕も、コーヒーの苦さに顔を顰める余裕も無かった。
休憩時間を削って連隊の為に補給品の追加で必要な書類を仕上げ、総司令部に連隊の指揮系統について分かりやすく要約した文書を作成しなければならないからだ。
ペンを握り、カフェインで動く執筆人形となったと自己暗示を掛けて、マクスウェルは紙で出来た敵と机上で戦闘を開始した。
気がつくと、そこは病室のようだった。そう認識したルルアは、部屋の暗闇に恐怖を抱いた。
黒が、暗黒が、暗闇が、それらがそこにあるだけで体が震え、精神は逃避を切望し、四肢はそれを果たそうと動いた。
「ぃ、ゃ……」
すり潰されたようなかすれ声が自分の声であると知り、ルルアは言いようのない不安を抱く。
ここは何処なのだろうか? 一体、何時なのだろうか? 戦線はどうなったのだろうか?
幾つもの思考が浮かび、消えずに滞留する中で、ルルアは自分の体の状態を認識する。
「ぇ」
右目が無い。
左手首から先が無い。
左膝から下が無い。
眼窩に収まっていた筈の眼球が、あのバイオレットの瞳が、無い。
左手首から先の、あのすらりとした五本の指と小さな掌が、無い。
左膝から下のあの脚、走る為に、歩く為に必要なあの脚が、無い。
「――――――」
声ではなく、吐き出される空気の音が無情にも部屋に響く。
恐怖に身を任せれば、ベッドから転げ落ち、体の節々が感じる痛みに涙が溢れた。
虫のように床を這いずり、暗闇の中で助けを、心の支柱を探した。
すると、部屋のどこからか、か細い金属音が鳴るのがルルアには分かった。
小さく、蚊の鳴くような音だったが、どこか心を落ち着かせるその音の発信源に向け、ルルアは這った。
「ぁ……」
関節が熱を持ち、体温が上昇する。
それらを構っていられるほど、今のルルアは強かではない。
どうしようもないほどに弱く、何かに縋らなければ生きられない、寄生虫のようなものだった。
そうして、ルルアは音の発信源をその手に掴んだ。
ひんやりと冷たい、棒状のそれは、何時かその手に握ったことのあるものだったが、安堵に心落ち着かせた彼女がそれを知ることは出来なかった。
真夜中に電話が鳴ることは珍しいことではなかった。
マクスウェルが何時も通りにその電話を掴み、何時も通りに応答しようとした。
しかし、電話の内容を聞いたマクスウェルは慌ててコートを引っ掴み、軍のジープの鍵を引っ手繰ってオテル・デ・ザンヴァリッドへ向かった。
白い氷の結晶が振りはじめる深夜。中世で時を止めたオテル・デ・ザンヴァリッドは、戦傷兵たちの為に室内を温め始めたころだった。
国の為、人類の為に文字通り身を捧げた彼らは出来る限り不自由無く過ごさねばならないという考えの下、廃兵院オテル・デ・ザンヴァリッドはその熱を上げてゆく。
マクスウェルがその扉を開き、ルルアのいる部屋に入ると、ロドリゲスや数名の看護婦、そして精神科医が居た。
意識の回復したと知らせを受けて駆けつけてみれば、ルルアは前と同じようにベッドの上で寝息を立てている。
「巡回の看護婦が泣き声を聞いたと言ってね。駆けつけたら、床でカタナを抱いて泣いていたよ」
ドクターが理由など分からないから何も言うな、と目をマクスウェルに向けながら言うと、ロドリゲスが溜息を吐く。
「ドクターとお茶を飲みながら話してたら、いきなりだ。くそ、見たくないものを見ちまった」
「どうした、ロドリゲス、お前らしくない。一体、何を見たと言うんだ?」
「……子供みたいに泣いてたんだよ。あのルルア嬢がだ」
「泣いていた?」
ありえない、とマクスウェルが呟き、一歩後ずさった。
するとドクターが眼鏡のブリッジを持ち上げながら、一歩前に出て口を開いた。
「恐らく、心的外傷後ストレス障害だろう。精神病の一種だ。あとで診断してみるが、一部記憶の混濁や消失などがあるかもしれない」
「それは……ルルア嬢が普通の兵士みたいな弱っちい奴らと、同じになったって意味なのか? ああ、くそ、マクスウェル、お前は信じられるか?」
「落ち着け、ロドリゲス。それで、今の状態は、どうなんだ?」
「安定している、と言いたいが、目が覚めなければ分からないといった状況だ。しかし、PTSDではなく、さらに重度の複雑性PTSDの可能性も捨てきれない」
二つの違いが良く分からないマクスウェルとロドリゲスが質問しようとしたが、ドクターはそれを手で制した。
「PTSDは特徴として恐怖感や無力感、更に悪夢や感情制御が出来なくなる、というものだが、D-PTSDは場合によってPTSDよりも深刻だ。
解離症状や絶望感、自己破壊的及び衝動的行動が目立ち、信念を喪失し、過度な敵意を持ち、人間関係に問題を起こす事もある。もしそうだった場合、
とても、とても悲しいことだが彼女を隔離し、ベッドに縛りつけにでもしなければ―――」
ぐぅ、とドクターの喉から空気が押し出された。
マクスウェルに襟元を掴まれ、空中に投げだされたドクターは、一瞬なにが起こったのか分からなかっただろう。
目をぱちくりさせてぽかんと口を開けるドクターは、状況を理解した瞬間、捲し立てるように言った。
「マクスウェルくん、これは現実だ。受け入れなければならない、辛いが、そうしなければならないんだ」
「彼女がこうなってしまったのは我々の所為だ。それをこんな仕打ちで返す事など出来ない」
「メードの力は君らが一番よく知っている筈だ! それが何の縛りも受けず暴走してしまったらどうなるかくらい想像できるだろうに!!」
「それでも私は……、私が壊してしまった彼女にそんな仕打ちをすることが許せないのだ!」
「ならマクスウェルくん、その考えは間違ったことだと、自分が行ったそれは正しかったのだと思い直すことだ! 君はそんな脆弱な心のままでいて良い立場じゃないんだろう!!」
「二人ともこんなところで言い争いなんて、気でも狂ったのか? 少し彼女を眠らせてやれよ」
些細な事から始まった口論を収めたのはロドリゲスだった。
結局、怒り覚めやらぬドクターはマクスウェルとロドリゲスを病室から叩きだし、行き場を無くした二人は車で街へ向かった。
ロドリゲスの乗ってきた車はオテル・デ・ザンヴァリッドに置いてきていたが、下士官に回収させることにした。
少し寂れた感のある酒場の前に車を停め、二人の男は中へ入っていった。
すると見た目だけでなく、その酒場は中身も寂れ、どういうわけか、ベートーヴェンのピアノソナタ第八番が流れていた。
しかし、そのピアノの旋律は寂れている店の雰囲気に合い、またそこにいる客の雰囲気にも合っていた。
どこか悲しげであり、どこか明るげなのだ。二人は椅子に座り、深い溜息を吐き、酒を頼んだ。
マクスウェルは二度目の溜息を吐き、天井から吊り下げられている裸電球をじっと見つめながら言った。
「どうしてだろうな。現実と言うものは、どうして小説のように幸運へ向かないものなのだろうな」
「マクスウェル、今日は考えるのを止めよう。休もうじゃないか。俺はもう疲れた。くそっ、なんであんなんなっちまったんだ」
「ああ、そうだな。今日は、休もう。私も疲れた」
「くそ、くそ。ああ、マクスウェル、どうして神はあの子を恨んでるんだ? あの子が、ルルアがなにをしたって言うんだ?」
「落ち着け、ロドリゲス。さあ、休もうじゃないか、酒を飲んで、気を楽にしよう」
「ああ、そうだな、休もう。俺は疲れた。疲れたんだ……」
二人揃ってスコッチを胃に流し込み、独特の臭いを楽しみ、酔いに酔った。
スコッチの次はアイリッシュ、アイリッシュの次はウェルシュ。胃がウィスキーの入った樽になったのかもしれないと、二人は思った。
時間が刻々と進んでいく中、二人は飲み合った。赤い鼻をした客はそれを見て胸の痛みを堪えるような笑みを浮かべ、赤いコートを着た男は鼻で笑った。
十一杯目のウィスキーを飲み終え、マクスウェルは静かに言った。
「神が私たちのためにいれば、誰が私たちに逆らう存在になるだろうか……」
ロドリゲスは陽気そうに笑い飛ばし、カウンターの向こう側の老紳士は微笑み、赤鼻の客は無理矢理に笑い、赤いコートの男はスコッチを煽った。
その後も酒を飲み続け、マスターの制止の声も聞かず、酔い潰れかけていたというのに車で帰ろうとしたマクスウェルは、何もない一本道でハンドル操作を誤り、車は針葉樹に激突した。
それほどスピードを出していたわけではなかったのだが、車のボンネットは見るに堪えないほど潰れており、割れたフロントガラスからは雪が入り込んでいる。
額をハンドルに打ち付けたのか、マクスウェルは頭を押さえた。すると生暖かい、ぬめりとした液体が手に付着した。血だな、とマクスウェルは冷静に呟いた。
どうやら割れたフロントガラスで切ったらしいと推測し、助手席のロドリゲスの肩を叩いて彼を起こすと、マクスウェルは深くため息をついた。
起きたロドリゲスはしばらくきょろきょろと頭を巡らし、最終的に納得したように一度頷いてからマクスウェルに言った。
「どうやら今日はここで寝るしかないようだな」
「すまない。ああ、どうやら、飲みすぎたらしい。何も脳まで休むことはないだろうに……」
「責めるな。お前はあれか、悲観主義者なのか? あれはマゾがなるもんだろうに」
「私は、悲観主義者ではない。ただ、何と言うべきか、責任感が過大になっている、そういう気がする」
「ならそれはルルア嬢の影響だろう。まあ、兎に角、お休み、サー・マックスウェル」
「ああ、お休み」
割れたフロントガラスをぼんやりと見ながら、二人は眠りに落ちていった。
目を覚ますと、目が潰れそうなほど眩しかった。
ルルアはその眩しさに目を細め、そのまま起き上がろうとしたが、何故か出来なかった。
腹筋を使って上半身を起こすだけだというのに、それが酷く体力を使う重労働かなにかのように思え、ルルアは首を傾げざるおえなかった。
"先日"はなにも苦労なく行えた動作だった筈なのに、今日はそれがどうしてできないのだろうか。
仕方ないので誰かに起こしてもらおうとルルアはあたりを見回したが、ここが個室だと気付くと、諦めてまた目を閉じてしまった。
「……穏やかですね」
ふうと息を吐いたルルアはそう言うと、また目を開けた。
どうやら眠る気はなく、ベッドの上でくつろぐだけのようだ。
そこに、ドクターがノックもなしにドアを開けて入ってきた。
目元には隈が浮かび、元々の老け顔も比例してか、実際の年齢より二十歳年上に見える有様だ。
片手に分厚い医学専門書を持ち、もう片方の手は眼鏡の位置を直す為に使われていた。
「おはようございます。ドクター」
ルルアは微笑んだ。ドクターは反射で「ああ、おはよう」と答えていたが、その目は驚愕で見開かれている。
暗闇に怯えていたと言う報告が昨夜あり、その対策を考えなくてはと徹夜して良い案が思い浮かばず、
患者の覚醒を待つことにしたは良いが、眼前の患者、ルルアは欠損部位を除けば健常者に見えなくもない状態だったから、そうなるのは当然と言えた。
「……どうかしましたか?」
「いや、どうもしていないよ。ところで体調はどうかな。中は暖かくしているが、外は寒いからね」
「欠損した部位を覗いて問題ありませんよ。ただ、片目だけだと距離感が掴み辛いですけど」
「そうだろうね。人の目と言うのは、もともと二つあるものだから……同様に、四肢もそうだ。義肢が届くまで、辛抱してもらいたい」
「ええ、それまで大人しくしていますよ」
「ああ、そうしてくれ。それじゃ、僕は行くね」
「はい、お仕事頑張ってくださいね、ドクター」
ドアを開けてドクターが退室するのを見送ったルルアは、ふと首を傾げた。
何故ドクターはあんなに顔が青かったのだろう? しかしそれもすぐに忘れた。
今日は穏やかな朝だった。
ドクターはまず、自分を落ち着かせようとしたが、身体の震えは一向に収まらなかった。
そしてドクターは頭を抱え、神を罵った。神はこの世のどこかにいると言う、宗教家どもの存在を罵った。
綺麗事では済まされないことが起こってしまったのだ。神がいるとすれば、そいつは残酷な殺し屋なのだと思い込みたくなるほどのことが。
「なんてことだ……」
ドクターは呻いた。先程の会話と先日の騒ぎを合わせ、更に運ばれてきた直前のことや彼女の見た凄惨な光景のことも式に組み込んだ。
数式のようなその決まりから吐き出された答えは、まさに絶望、もしくは人間として当然の自己防衛手段が取られたことを示している。
「彼女は、なにも覚えていないんだ」
エヴァンスは電話を探した。
なんにせよ、伝えなければなるまい、あの不器用な友人に。
マクスウェルが連隊司令部に戻ることができたのは、午後四時を回った辺りだった。
軍の所有物であった車を大破させただけでなく、飲酒運転などの違反行為をMPにこってり絞られ、くたくただったが、彼の机の上には書類が置かれていた。
榴弾砲の砲撃の後に突撃を敢行されたようだと、マクスウェルは溜息を吐きながらそう思った。
防寒着をハンガーに掛け、書類と戦う為に椅子に座る。
インクと万年筆で書類を一枚づつ倒していくマクスウェルだったが、丁度午後九時に力尽きた。
二日酔いの痛みで頭が働かないと言うのもあってか、集中力が何時もより持続しないようだと、マクスウェルは水を飲みながら思う。
こういう気乗りしない日は急ぎの書類だけを仕上げてさっさと寝てしまうのが得策だったが、急に鳴りはじめた電話がそれを邪魔した。
じりりりり……と、頭を木槌で叩かれるような思いをながら受話器を取り、罵り声を上げて受話器を叩き壊したくなる衝動をなんとかして堪える。
電話の主は、あのドクターだった。
「こんな時間に何の用だ。ああ、それと、少しだけ声を静かに頼む。二日酔いでな、頭に響くんだ」
『マクスウェルくん、二日酔いなんかしてる場合じゃないぞ。起きたんだ、彼女が』
「……一体、誰のことだ?」
『何を言ってるんだ君は!』
「大声を出すな馬鹿者! くそ、ああ、すまない、で、誰のことだ?」
『ルルア嬢に決まってるじゃないか!』
頭にその言葉が響き渡り、こめかみが爆発しそうな痛みを発したが、マクスウェルは動じなかった。
二日酔いなど、ものの数秒で吹き飛ばせるものなのだと、マクスウェルは知ることができた。
書類はそのままで明りも消さず、防寒着も持たずにマクスウェルはジープに乗り込み、キーを回した。
丈夫さだけが取り柄の軍用車だからだろうか。車内は氷を押し込めたかのように寒く、十分もすると身体が震え始める。
しかし、そんなことに構っていられるマクスウェルでは無かった。
路面状況の確認もせずアクセルを踏み込み、車を走らせる。
路面の凹凸に合わせて上下するジープに耐えきれず、窓から顔を出して胃から出てきたものを吐き出し、銃弾が撃ち込まれるかのような衝撃を発する頭痛に抗い、
マクスウェルはあのベッドに横たわるルルアのことを思い出し、ハンドルに拳を叩き付けた。
エヴァンスから連絡を受けた時に感じた安心感は既に無く、誰に向けるとも知れない怒りと焦りがじわじわと心を浸食し、思考を乱す。
誰にもこの気持ちは理解できまいと、マクスウェルは不気味に笑った。ただでさえ不器用な笑い方をするので、気がふれたような笑い方になった。
だが、いつまでもその笑みを浮かべたままではなかった。
心を平静に保ち、冷静でいることが指揮官として正しい事だと思い出したマクスウェルは、先程までの自分を過去に追いやった。
感情的になってしまうのは人間として仕方ない事だが、それをどうコントロールするかが問題なのだ。
言うだけなら容易いが、マクスウェルはそれを実行し、また持続できるだけの精神力と忍耐を備えている。
それは指揮官として、人の上に立つ者としての力量を備えているということだったが、マクスウェルの場合、ある欠点を抱えていた。
感情をコントロールしようとするが故に、相手に感情を伝えることが壊滅的に苦手なのだ。
「……助かってくれよ」
だがそれも、一人の時は関係無かった。
ルルアに対する謝罪の念と罪悪感、その他諸々の感情を携え、マクスウェルはアクセルを踏む足に力を込めた。
部屋の外がやけに慌ただしい。ルルアはそう思ったが、思っただけで別にどうしようとは思わなかった。
別に部屋のすぐそこで人が死んでいたとしても、この安らかな時が続くのならそれでよかった。
何故か、酷く疲れているような気がして、ずっとこのままベッドで横になっていられたら良いのにと思った。
けれど、それは何か違うと、誰かが言っている気がする。
「……誰、この声は、一体誰なの……?」
思わずそう呟いたが、答えをくれる人はいなかった。
何かをしなければいけないという訳でもなく、何かが出来るという訳でもない。
もう身体が正常ではないのだから、それは仕方がないことだ。
ルルアはそう自分に言い聞かせ、次に瞬間、何故そんなことを自分に言い聞かせているのか分からなくなった。
そして、寂しさと喪失感をぐちゃぐちゃに掻き回したような、絶望か何かに似た感情が心の隅に巣食っているのを感じた。
「は、ぁ……っ」
この感情は何なのだろうか。一体、これはどういう名前の感情なのだろうかと、ルルアは不思議に思い、同時に恐怖を感じ、息を止めた。
肺が空気を吸う事を拒み、気管が萎縮し、涙が眼に浮かぶ。苦しいと思っても、呼吸することは叶わない。
―――私は一体、どうしてしまったのだろう……。
涙に滲む視界。
酸素を求めるように伸ばした手が空を切り、苦しみが痛みに変わる。
空気を求めて灼熱する肺が杭で貫かれたかのような激痛を発し、声にならない叫び声が上がった。
落ちついて対処すればなどという考えは、激痛で頭の中から吹き飛んだ。
それに、これは冷静になったとしても、対処できることではない。
「くっ、ぁ……か、は……ぁ……」
次第に激痛が和らいでいき、意識が遠のいていくのをルルアは感じ、それに身を任せてしまうのも良いだろうと考え、目を閉じた。
涙が頬を伝い、顎から落下する。部屋は暖かい筈なのに、ルルアには冷たく感じた。
これが死と言うものなのだろうか。それとも、自分の諦めの悪い部分が必死で抵抗しているのだろうか。
どちらが正しいのか分からなかったが、どちらにせよ、最終的に死ねるのならそれで良いとルルアは思った。
どうして死にたいのか、何故死にたいのか、それすら分からなかったが、それで良いのだと彼女は死という終わりを受け入れた。
けれど、何かが邪魔をする。
それが自分の感情なのか、他の誰かの感情なのか、まったくの謎だった。
しかしどちらにせよ、彼女を支えているのはその『謎の感情』だけであり、それが折れればルルアという存在はこの世から消えるだろう。
―――私を邪魔するのは、誰……?
彼女の意識は、そうして段々と薄れていった。
気づけばルルアは病室とは違うどこかの部屋にいた。
見覚えがあるのは当たり前で、それは以前、自分が使っていた部屋だった。
何処だったか、正確な場所と時間は思い出せなかったが、
グレートウォール戦線の前線基地ということだけは覚えていた。
兵舎とは別に増設されたメードだけの兵舎があって、そこの一室だった筈だ。
一人が丸々一室使うことが出来て、それなりの広さがあった。
「私がどう思っていても、貴方には届かないのでしょうね。ルルア」
突然声を掛けられ、ルルアは一瞬困惑したが、その声の主を見るとあらゆる感情が消え去った。
「……神、狼?」
「はい、そうです。私は貴方を愛した、神狼という名の男ですよ。勿論、本物のね」
月明かりの差す窓際でそう微笑んだ神狼は、死人ではなかった。きちんと、生きていた。
堪らず、ルルアは神狼に抱きつき、涙を流した。彼は子供をあやすように彼女を抱きしめ、頭を撫でた。
「ああ、神狼……」
「……ルルア。ごめんね、本当に、ごめん」
「ううん、もう良い。もう、良いから……」
続く言葉が思いつく前に、ルルアは神狼の唇に自分の唇を重ね、その身体を彼に委ねた。
オテル・デ・ザンヴァリッドは騒然としていた。炎が燃え上がり、黒煙がもくもくと天に昇っていく。
何があったのかを誰かに尋ねる前に、マクスウェルはその想定外の事態にまず状況を整理することに努めなければならなかった。
だが、いくら冷静であろうとしても、どれだけ自分の責務が状況の把握だと思い込んでも、目の前の炎はそれを許してはくれない。
エンジンを止める時間すら勿体無く感じ、マクスウェルはジープから飛び出し、ルルアのいる病室へと走った。
奥に進むにつれて熱を持った煙が立ち込めるようになった。それでもマクスウェルは進み続け、病室のドアを開けた。
ベッドに目をやると、苦しそうにもがいているルルアがいた。ホッとしたのも束の間、病室に自分以外の誰かがいるのを感じ取ったマクスウェルは、ホルスターから拳銃を抜き取った。
(ここからさきは霞んでいて読めない)
最終更新:2016年08月11日 06:55