脱出

(投稿者:Cet)



 ディー、やめろ。
 頼む、やめてくれ、それだけはやめてくれ。
 なあ、私たちはお前に何くれとなくしてやったじゃないか、なのに、何故こんなことをする? 何故こうも我々の心を踏みにじる?
 お前の心の音はどこへ行った? お前は、一体何者だ?


 ディーを刺激しないで!


 ハウニヴ、安心しなさい、全てはお前の望むようにする。
 我々にディーを傷つける気などない。我々は、ディーと話をしたいだけなのだ。そうだろう? ディー。
 あの日空からやってきて、我々の住むこの場所に流れ着いたお前は、我々の与える果実や飲み物、焼いた獣や魚、穀物、それらによって生きてきた。だから、純粋に我々に反抗する意味が無いだろう? ディー。お前は今何を考えているのだ? 我々はディーの心の声を常に聴いていた。それはそれは美しい鈴の音だった。まるで、そう、お前が今そこに握り締めている、その石の中から聞こえてくるような――ハウニヴの心と同じ心の響きだった。ディー、お前の心の音は、それはそれは美しいものだった。
 その心の音が今は聞こえない。ディー、お前はどこに行ってしまったのだ? ディー、お前はどこにいるのだ?
 それは、今いっとき失われているだけなのだろう?
 ディー、お前は、我々と出会ったあの日のお前を、じきに取り戻してくれるのだろう?
 ディー、お前の心からは、今、全く音がしない。
 何の音もしないのだ。
 ディー、我々の話を聞いてくれ、そして、ハウニヴを離してくれ。ハウニヴを殺さないでおくれ。

 それだけが望みなのだ。多くは望まない。
 ハウニヴを離しておくれ、頼む、ディー。


     ◇


 だから俺は言ったのだ! 人間など何故信用した!


 しかし、お前も喜んでいただろう? ハウニヴと同じ心の音がする人間が現れて、お前も喜んでいただろう?


 俺は! こんなことになるだろうと思っていた! こんなことがいつまでも続くわけがないのだ!
 美しい心の持ち主だけがこの島を訪い続け、我々に美しい心の断片だけを見せ続けるなど――そんなことがあるはずがないのだ!
 さあ、今すぐ、今すぐディーを殺せ! 今ならまだ間に合う!


 だめ!
 ディーを殺さないで! それだけはやめて!


 ハウニヴ、今だけは俺の言うことを聞いてくれ!


 だめ! それだけは絶対にだめ!


 そうだ、ディーを殺してはならない。
 ディーを殺してはハウニヴが悲しむ。ハウニヴの心を傷つけるということは、我々を傷つけるのと同じだ。だから、ディーを殺してはならない。
 自分で自分を傷つけるなどと、そんな馬鹿げたことをしてはならない。


 今、ハウニヴを傷つけないと、ハウニヴはもっと傷つくことになるのだ!
 何故それが分からない! 今、我々が傷つかなければ、我々はもっと傷つくことになるかもしれないのだ!
 心と心を交わし、心と心を繋げ、労わってきた結果がこれだ!
 心を捨てなければならない! 少なくとも、今はそうだ!


 待て、ディーの言うことを少しは聞こうじゃないか。話をするんだ。そうすれば、きっと分かる。あの心の音の持ち主であるディーならば、きっと分かる。そうだろう、ディー。本当のことを言えば、我々はお前のことが好きだったのだ。ハウニヴと同じように、あの美しい心の持ち主であるお前のことが、我々は好きだったのだ。だから、我々はお前を殺さなかった。
 ハウニヴがどんどんとお前に惹かれていく中でも、我々はお前を殺そうとしなかった。本当なら、ハウニヴがもし許すのであれば――そんなことは有り得なかったにせよ――我々はお前のことを何度だって殺していただろう、ディー。
 勿論、実際にはそんなことはしなかった。そんなことをしても、我々が傷つくだけだからだ、ハウニヴを傷つけるということは、お前を傷つけるということは、そういうことだ。
 しかし、それでも、我々はお前のことが憎かった。ハウニヴが徐々に笑みの色を変えていくのが憎かった。我々は、お前のハウニヴとの繋がりを通して、様々な心を知ることができた。憎しみ、嫉妬。情愛。そういうものだ。
 私は、思うにお前のことが羨ましかったのだ、ディー。
 ディー、それでも、我々はお前のことを殺したくなんてなかったのだ。
 我々はお前のことを好きになってしまったからだ。お前は、ある意味では既に、我々の心の一部だからだ。
 今なら、まだ引き返せる。ディー。
 そんなものは置いて、ハウニヴを自由にするんだ。
 そして、その石を、その石を、我々にもう一度触れさせてくれ、ディー。お願いだ。
 我々は、ハウニヴを、そして、その石を失ってはならないのだ。それだけは、考えられないことだ。


 ディー、あの方々の言う通りよ。
 ディーは、あの方々の与えるものを食べて、飲んで、そして暮らしてきたわ。
 今更になって、何で、ディーはあの方々を傷つけるの?
 あんなにも、美しい心の響きを交わし合った後で、何で、その響きを傷つけなければならないの?
 ねえ、教えて欲しいの、ディー。
 私は、何も知らないまま生きてきたから。
 ディーみたいな人がいるなんて、知らないまま生きてきたから。
 だから、私はディーみたいな人に出会えて嬉しかった。こうやって、ずっと生きていたいって思ったの。本当よ、嘘じゃないわ。本当にそう思ったのよ。
 生きていてよかった、って思ったのよ。
 あの方々に出会えたことと同じように、貴方に出会えたことが嬉しかったの。
 私は、ここにやってくる前まで、ずっと辛いことをされながら生きてきた。
 家族なんていなかった。気がついた時には一人で、人の心を聞くための努力をたくさんしてきた。それだけが、私の価値だった。
 でも、この場所にやってきて。
 あの方々に出会えて。
 あの方々が私を守ってくれて――。
 私は本当の意味で自由になれた。本当の意味で、誰かと心を交わすことができた。
 そして、貴方に出会えた。
 これが、私の本当の気持ち。
 ディーには、とっくに分かっていたと思うけど。
 今更、こんなことを言う必要なんて無いと思うけど。
 ねえ、ディー。だから、仲直りをしましょう?
 私は、貴方の心の音が、今は分からないの。ねえ、もう一度、声を聞かせてほしいの。
 お願い。

 ディーは、私のことなんか好きじゃないの?
 ディーは、あの方々のことが好きじゃないの?
 本当のことを言ってほしい。
 私は、貴方の心の声を聞き続けてきたから。
 貴方が、私のことを、好きだと言ってくれたから。
 貴方が、あの方々のことを好きだと言ってくれたから。
 この島のことを、吹き付ける風のことを、打ち寄せる波のことを、立ち込める闇のことを、やってくる夜明けのことを、好きだと言ってくれたから。
 そんな声を聞かせてくれたから。
 だから、私たちも貴方のことが好きになったの。
 ねえ、思い出して。
 その声を、もう一度聞かせて。


 ディー、泣いているのか?
 分からない。我々には分からない。ディー。何故お前は泣いているのだ。
 お前の心の中には、今は何もない。悲しみも、嬉しさも、何もない。
 なのに、何故涙を流している。何故、お前は。


 ディー?


 なんだこの音は
 これは、お前の心の音ではない。
 遠くから、何かが来る。
 一体、何がやってこようとしているのだ?


     ◇


 少佐、後十分で到着します。それまで耐えて下さい。


 汚らわしい音だ! 汚らわしい音がする!
 災厄の音だ! その声を消せ! その声を塗り潰せ! 消してしまえ!
 ディー! そんなものをどこに持っていた。
 ディー、お前のその小さな道具を捨てろ! そこからは災厄の響きが聞こえる。汚らわしく、悍ましい。そんな音は捨ててしまえ!


 ああ、ディー。
 貴方は全てを待っていたのですね、ディー。貴方は、それを持って、ずっと待っていたのですね。
 少しずつ、貴方の声が聞こえ始めました。
 ディー、貴方の心が、再び聞こえ始めています。それは、あの方々だって分かっているはずです。


 ディー! お前の心の声が再び聞こえている! お前の心は、再び鈴の音を奏でようとしている!
 お前は、
 お前は……
 お前は、そうか、ああ、
 美しい!
 そして汚らわしい!
 悍ましい!
 素晴らしい……そして、もうたくさんだ!
 お前の心の声は、もう、たくさんだ!
 そんなものを聞かせないでくれ!
 お前の心の音を聴かせないでくれ!
 おかしくなってしまう! 我々はおかしくなってしまう。


 オカシクなってしまう。ディー。お前の声を私も聞いていた。
 でも、こんな音は、もうたくさんだ。ディー。お前はここにいてはならない。お前が美しく、強い人間であることは分かった。あの鈴の音は私も聞いていた。美しかった。
 お前は心を作ることがデキルのだ。どんな美しい心も、どんな醜い心も。
 お前はどんな心にもなれてシマウ。どんな心をも作り出してシマウ。
 でも、本当のお前の心ハ、美しく醜い。
 でも、ディー、オマエはここにいてはナラナイ。お前はこの島から去らねばナラナイ。
 ディー。その石を置いていけ、後生だから。


 おばさま、落ち着いて下さい! ディーの声を、最後まで聞き届けてあげて!
 もしかしたら、これが最後になるのかもしれないのだから! もう、彼の声を聞くことはできなくなるのかもしれないのだから!
 ディー、貴方は、この石が必要なのね?
 この石が、人類の寿命を延ばすのね?
 この石のお陰で、大きな戦いがあるのね?
 この石をめぐって、私たちは、私たち同士と――人間同士で、争うのね、そして、あの方々と、人間もまた、争うのね。
 これが始まりなのね。
 何億もの人が死ぬのね。
 何十億もの人が死ぬのね。
 でも、この戦いで死ななかった人々は、時計の針を少しだけ前へと進めることができるのね? ディー。それが、貴方の望みなのね。
 私たちには分かるのよ、私たちには分かるの。あの方々も、おばさまも、私も、貴方の心が分かるの。
 だからこそ悲しいの。
 ディー、貴方は、皆にいなくなってほしくないのね。少しでも長く、少しでいいから、強く生きて欲しいだけなのね。
 この宇宙が、いずれ終わる?
 この宇宙が消えてしまうまでの時計の針を、この宇宙が潰えてしまうまでの、時計の砂を。
 少しでも押し留めたいだけなのね?
 人間の時計の針を進めて、彼らに力を得させて、少しでも、悲しみを乗り切るだけの力を得させたいだけなのね? それが、貴方の望みなのね?
 そのために、人々が争うことが、貴方には悲しいのね?
 でも、それをしなければならないからするの。貴方は、悲しくて悲しくて仕方がない、それが私には分かるの。私には、あなたの声が聞こえる。
 あの方々が、いずれ貴方を憎んだとしても。
 でも、私は、貴方の味方。
 ディー、私を連れていってほしい。


 ハウニヴ! やめてくれ! 我々はディーを恨みたくなんかないのだ!


 石の声を聞いて。ねえ、石もまた喜んでいる。
 ディーに連れていかれることを喜んでいる。
 石の中でマグマが煮えたぎっている。
 石の中で風が吹き荒れている。
 石の中で濁流が暴れ回っている。
 まるで羊の群れが野山を踏み荒らすように!
 まるで羊の群れが全ての野草を食み、根こそぎにしてしまうように!
 石の喜ぶ声が、私には聞こえる。


 ああ、ハウニヴ、石の声を聞くな!
 その声を聞いてはならない! 行くな、いかないでくれ!


 ごめんなさい。
 ごめんなさい。
 そして、ごめんなさい、ディー。



ああ、音が近付いてくる。
災厄の音が、もう目の前にまで迫っている!


 ディー!

     ◇


 少佐! 到着しました。早く乗り込んでください。
 少佐、どうして黙っているのです。そして、その女が、例の特殊渉外官なのですね。後は我々が何とかします――あの化け物たちに、砲撃する許可を下さい、少佐。
 少佐?
 ……波飛沫で頬が濡れていらっしゃいます。
 そうですか。
 分かりました、少佐。実行します。


 やめて! ディー! あの方々を傷つけないで……お願い。


 この女を連れていけ。
 少佐、後は居室でゆっくりお休みください。
 あの島からは、声が聞こえるような気がします。怨嗟の声が、一体これは、何なのです? 私には、何がなんだかさっぱり分からないのです。
 ……特に気にしなくてもよいと?
 分かりました。私は軍人です。命じられたことを実行するのみです。
 今は、彼らに対して攻撃を加える必要は無いのですね。
 少なくとも、今は。

 そして……この石は。
 貴方が握り締めて離さない、この美しい石は。

 ……。

 今、羊の声が聞こえませんでしたか?


最終更新:2022年09月21日 13:09
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