Chapter 2 :ファイルヘン

(投稿者:Cet)



 あの日柳青が部屋を訪れるまで、少女は夢を見ていた。
 それは荒野に立つ自分の夢。少女は地面に程近い位置に視点をおいて、自らの住む城塞都市を見つめている。ただ彼女は自分の住む都市から一歩も外へ出たことがないので、全ての認識は推測の域を出ない。そして遠方から誰かがやってくるのが見える。
 それは柳青で、彼は旅の道具に身を包んでおり、その足取りはどこか毅然としていた。旅立ちの直後を予感させる仕草であった。
 柳青! 柳青! どこへいくの柳青! 彼女はそう呼びかけようとするものの声が出ない。それもその筈だ、彼女は今や一輪のスミレだったのだから。
 そうして彼女は少年の姿を見送ったのかといえば、そうではなく。少年にその呼び声が届いたのか否か、少年の足先はこちらへと向かって蹴られていった。
 柳青! 柳青! よかった……貴方どこへいくつもりなのよ、それにどこかに行くならその前に私に教えるくらいすれば
 ぐしゃり。
 少女は踏み潰された。視界が上向きになる、空が青く、薄雲がたなびいて、朝の乾いた空気をそこに顕出させている。
 柳青!
 彼女は叫ぼうとしたが、しかし声は出ず。
 そのまま彼の足音が遠ざかるのを、聞くばかりで。
 そして夢から覚めた。彼女を呼び起こしたのは、他ならぬ柳青本人のノックする音であったのだが、彼女はその時どこか満ち足りたような気持ちにさせられていたのだった。
 少女は柳青の為に死ぬ。それはもはや決定された事なのだ、と。


 窓のある一室に佇む、一人の少女の姿があった。十代の後半といった年頃に見える。彼女は窓の外の景色を見るべく白い光を一身に集めている。そしてそれを観察する男達の姿があった。
「……覚醒から二時間が経ったが、彼女はいつまでああしてるのかな、ベルクソン」
「分からない、メードの行動について証明できる事例は少ない」
 なるほどね、と最初に声を発した方の男が応える。短い茶の髪、パリッとしたスーツにネクタイと、茶色のサングラスをかけた彼の姿はさながら伊達男を地で行っている。
「もういいか、よし、初顔合わせだ」
「ああ、くれぐれもしくじってくれるなよ『クナーベ』」
「うん、それにしても嫌なコードネームだねそれ」
 言いつつ、笑ってクナーベと呼ばれた男は部屋を出た。
 そのすぐ隣にある部屋が、少女のいる部屋だ。彼らはそれをモニター越しに観察している。少女にプライバシーと呼ばれる概念は適用されないらしい。
 モニターの少女がノックの音に反応して、ドアの方へと向く。たたっ、と部屋の中心にまで走り出でて、どうぞ、と緊張気味に来訪者を促す。
 現れた男の姿に、何か感慨を覚えたのだろうか。少女は立ちすくんでいる。それによって、男の方も何から話していいものか惑っている。だから言ったんだよと、モニターする方の男が呟いた。


 あー、君、自分のこと分かる?
 はい? 私ですか?


 そんな具合に会話はスタートした。ベルクソンは椅子に座り、黙ってその様子を見守っている。


 そうそう、例えば自分の名前とか
 ? そう言えばぴんと来ないです
 ハハ、名前にピンとも何もあったもんじゃないさ、君の名前は


 そーだな と男が一度区切った。

「考えてないのかよあいつ」ベルクソンがぼやいた。

 ファイルヘン、ってのはどうだろう


 ファイルヘン(すみれ)? 綺麗な名前ですね
 君の名前になるんだよ
 それはとても、素敵ですね


 酔っ払いって意味もあるんだけど
 はい


 少女が笑っている。それを見てベルクソンは顔をしかめる。

「歪んでるな」


 あ、言い忘れた。君はメードなんだ
 給仕さん?
 違う、ごっつい強い戦士の名前


 冗談ですか?
 いや違う、ほんとに。


 そんな具合で、会話は成立しているのか、いないのか。
 分からなかったが一応前へは進んでいる様子で、ベルクソンは一つ溜息をついた。
「やれやれ、ませ餓鬼(クナーベ)とスミレね。ロクなことにはならんだろう」
 彼は椅子から立ち上がり、部屋を出て行くことにする。
 その折、不意にモニターから笑い声が漏れるのを聞いた。彼は再び顔をしかめた。


最終更新:2008年12月14日 16:37
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