ポルシア戦争 | ||
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[じゅんびちゅう] | ||
概要 | ||
年月日 | 1856年~1859年 | |
場所 | 東西ポルシア領内 | |
結果 | ポルシア戦争前の国境線まで互いの支配領域を戻し、休戦。 |
ポルシア戦争(ぽるしあせんそう)は第二次世界大戦後、東ポルシア(ポルシア民主共和国)が西ポルシア(ポルシア連邦共和国)へ侵攻した戦争である。
第二次世界大戦後、ルテニアの支配下に置かれた東ポルシアが西ポルシアに突如として侵攻。足並みの揃わない統一欧州戦線が援軍を出しそびれている間に東ポルシアは西ポルシアを圧倒し、首都を制圧。更に西進を進める東ポルシアだったが、兵站の崩壊により進軍が停止してしまう。その後漸く派遣された統一欧州戦線と周辺国による援軍により、東ポルシア軍を押し返す事に成功する。 統一欧州戦線軍が開戦前の東ポルシア領内へ侵入を始めると、社会主義陣営の崩壊を防ぐべくそれまでは静観を決め込んでいたルテニア軍が集結を開始。それを見て統一欧州戦線は矛を収め、開戦前の国境線まで後退することに同意し、戦争は集結した。
二次大戦後、東ポルシアはルテニアの"指導"の下二次大戦前から活動を続けていたポルシア共産党による一党独裁体制が確率されていた。統一欧州戦線にとってはルテニア率いる社会主義陣営の欧州侵攻は重大な脅威として認識されていたが、当のルテニアは二次大戦中に被った甚大な被害の回復や、戦後新たに社会主義陣営に加わった東欧の安定を目論んでおり欧州侵攻など夢のまた夢であった。
そんな中、独裁体制の下世界に社会主義を拡散するという目標が形骸化していたルテニアと、形成されたばかりで理想主義に燃えるポルシア共産党の間には埋めがたい温度差があった。西ポルシアをも飲み込んで統一ポルシアを社会主義国家にせんとするポルシア共産党は、東ポルシアという歴史の浅い"社会主義国家の最前線"を既成事実化したいルテニアと思想的に対立していた。
ルテニアによって戦後すぐに再軍備が施され、徴兵により豊富な人員とルテニアより供与・購入した兵器によって充実した軍を保有していた東ポルシアに比べて、西ポルシアはヴェルスラント・霜月などの猛烈な反対により再軍備が遅々として進まない状態であった。漸く再軍備が承認されたが、限定された人員しか認められず、西ポルシア政府も戦車や航空機といった重装備に関しては周辺国家や国民に対する配慮によって少数ずつの導入を行う「段階的再軍備」を行わざるをえない状態であった。
こうした事情により東西ポルシアの軍事力は1856年時点で圧倒的に東ポルシアが優位であった。
東ポルシアが開戦に踏み切った明確な理由は今だはっきりとはしていないが、こうした軍事力の格差以外に、ルテニアが対西ポルシア戦に関して東ポルシアとはっきりとした意思疎通を行っていなかったことや、統一欧州戦線の足並みが揃わず、それどころかポルシアの再軍備を巡って瓦解寸前まで内輪揉めを起こしていたことが、東ポルシアに”野心”を抱かせる一因となったことは間違いないであろう。
戦後の情報で、開戦に関しては完全に東ポルシアの独断であったことは判明している。
ポルシア戦争でのネールヴェ戦線を題材にした動画、"ポルシアに咲く花" |
ルテニアから得た最新のT-61戦車や、各種航空機などの充実した装備。更には早くの内に再軍備を果たし訓練を重ねたことで練度の面でも優位であった東ポルシアは奇襲により緒戦においては西ポルシアを圧倒した。 開戦から僅かな時間で首都を制圧した東ポルシア軍の勢いは止まらず、そのまま西進を続けた。 圧倒的な強さの東ポルシア軍に統一欧州戦線は衝撃が走るが、初期段階では「ルテニアを中心とした社会主義陣営の総攻撃」という誤った認識があり、増援を送るどころか西ポルシアを見捨てるような動きさえする始末であった。 西ポルシアに僅かに配備されていた戦車や航空機は、戦争の初期段階に東ポルシアの侵攻をなんとか食い止めるために投入されほぼ全てを失ってしまう。
西進を続ける東ポルシア軍だったが、東ポルシア政府も予想しなかった程の進軍速度に補給が追いつかず、西ポルシアのネールヴェ地方で進軍が停止する。このチャンスを活かすべく西ポルシアはネールヴェの防衛に全力を注いだ。 それでも兵数と装備に劣る西ポルシア軍はネールヴェで劣勢であったが、西ポルシア政府は一部の部隊に二次大戦中を想起させる"死守命令"まで出し、この地方を守り通す事に成功する。
ネールヴェの防衛で貴重な時間を稼ぐことができた西側諸国は、ここに至り漸く西ポルシアへの増援を送り込む。兵站の崩壊と兵力の摩耗により弱っていた東ポルシア軍にこれを防ぐ能力は残されておらず、統一欧州戦線軍は東ポルシア軍を押し返し、遂に東ポルシア領内まで押し返すことに成功。 だが統一欧州戦線軍が東ポルシア領内に進行すると、今度は統一欧州戦線軍の補給が怪しくなる。結果、進撃は停止し、逆に敵地に孤立する部隊まで現れてしまう。
統一欧州戦線軍の背筋を凍らせたのは、この段階まで事態を静観していたルテニア軍が集結し始めたという報告であった。(この動きが本当にルテニア軍を投入する為のものであったとも、後の休戦条約を行う為の行動であったとも言われるが、詳細は不明) 結果として、東西ポルシアと関係諸国の間で協議が行われ、休戦条約が結ばれた。
西ポルシア軍 M6"クルセイダー" T-61より遠距離戦に優れたが絶対数が不足していた | ||
東ポルシア軍 T-61 火力に優れたが遠距離での命中率はM6に劣っていた |
東ポルシアの独断であったにせよ、社会主義陣営による欧州侵攻が行われたことは欧州諸国にとっては衝撃だった。結果、それまで絶望的なまでに連携が取れなかった統一欧州戦線が各国の妥協と協調により対ルテニアの目的の下団結を進めるようになった。 東ポルシアに圧倒された西ポルシア軍も、周辺諸国と国民の態度変化により以後は再軍備を急激に推し進めることになった。
社会主義陣営では、東ポルシアではポルシア共産党の人事が刷新されるなど”粛清”が行われ、休戦の年にヴォルゴグラード協力機構が発足した。 これはルテニアという超大国の下に周辺の社会主義国家を完全に組み込む狙いがあったとされる。
第二次世界大戦後に東西分割されたポルシアでは、戦中の疎開、迫り来るルテニア軍からの避難や西側への亡命などにより人間の移動が起こっており、その為ポルシア戦争では離散し敵同士となったかつての家族、かつての友人、かつての恋人が殺し合うことになった。
ポルシア民主共和国
ポルシア連邦共和国 ブリテン連合王国 ヴェルスラント王国 霜月国 ルア・フォルタ