箱庭世界史



目次



概要

  • ロシア成立がなく、代わりに神聖アルティス帝国が建国。
  • ナポレオン戦争でナポレオンがバルカン半島全域を支配。
  • 清滅亡後,中華民国ではなく,代わりに大漢武帝国が建国。

第一次義土戦争

1529年、オスマン帝国はスレイマン1世の指揮の下、ウェスペルタティア領であるバルカン南部に上陸し、瞬く間にギリシアを占領。
当時の国際情勢は、1494年からイタリアへの権益拡大を狙うウェスペルタティアと同じくイタリア政策を展開している神聖ローマ帝国フランス王国とのイタリア戦争が継続していた。ウェスペルタティアを東西から挟撃するべく、フランス王フランソワ1世は独仏土三国同盟でウェスペルタティアを包囲殲滅する案を神聖ローマ皇帝カール5世に提案。カール5世はこれに同意し、一時休戦を条件にこの同盟に賛成した。トルコ側は当初難色を示したものの、欧州二大国の力を背景にバルカン半島への反攻を行うことこそ市場目的と考えていたためこれに同意。ここに対義包囲網が完成した。
トルコ軍は海軍力を背景に8月23日に旧イスタンブールを制圧、続いて9月3日にはディレクサス・ソフィア両首都圏を制圧し、ウェスペルタティア国王はウェルシェストまで撤退。
10月1日、ウェルシェストに篭城したウェスペルタティア軍3万2千はトルコ軍18万人を迎え撃つことになった。トルコ軍は突如捕虜解放を提案し、ウェスペルタティア側もこれを受け入れ、ウェルシェスト側は兵力が5万人に膨れ上がった。しかし農業生産力が乏しく、元々食料が乏しかったウェルシェストにはそれらの兵力を養う余裕は無く、包囲1ヶ月目にして食糧が枯渇し始める。また、解放された捕虜の中にはトルコに買収された者も多く、城内で内乱が頻発。辛うじて鎮圧したものの、兵力は2万6千にまで消耗していた。もはや風前の灯かと思われたが、12月18日に大寒波が襲来し、この寒波でトルコ軍は兵力の3割が減少したといわれる。また北方のポーランド王国が援軍に駆けつけ、籠城軍をあわせ6万4千になり、トルコ軍と交戦した(ウェルシェスト郊外の戦い)。この戦いで大敗したトルコ軍は連合軍の追撃もありバルカン半島からアナトリアに撤退。ウェスペルタティアは何とかトルコ側に辛勝した。
しかしこの間に神聖ローマ帝国はイタリア北部を占領し、フランスはコルシカ・サルディーニャ両島を併合した。


三十年戦争


第二次義土戦争

1683年、ウェスペルタティア領のメセンブリーナ地方でメセンブリーナ人による反乱が起こり、反乱者たちはオスマン帝国に対して支援を要請した。これをスレイマン1世の第一次義土戦争以来150年ぶりのバルカン占領の好機と考えたカラ・ムスタファ・パシャは、15万からなる大軍を率いて海路からメセンブリーナに侵入、東バルカンを占領しつつディレクサスに迫った。
国王は各国に援軍要請を行いイスラム軍から欧州を防衛するように訴えかけ、ポーランド国王ヤン3世がこれに応え派兵。アルティスも援軍1万3千人を派遣したものの、前年に起こっていたメルークの乱の平定に忙しくこれ以上の増援は行うことができなかった。
1683年8月初頭、ディレクサスに到達し、この町を完全に包囲したオスマン軍は、町の西部から城壁の突破をはかって攻撃を仕掛けた。しかし最新の築城法で要塞化されて第一次包囲の時代よりはるかに堅固になったディレクサス市の防備を破ることができず、攻城戦は長期化した。遠路進軍してきたため強力な攻城砲を搬入できなかったオスマン軍は、地下から坑道を掘って城壁を爆破する作戦もとったが失敗に終わった。
一方、防衛側のディレクサス守備軍は士気が盛んでたびたび要塞から打って出てオスマン軍を攻撃したが、包囲軍に対してほとんど損害を与えることはできなかった。
9月12日、アルティス・ポーランド・ドイツ諸侯の連合軍がディレクサス郊外に到着、ディレクサスとその周辺を見下ろすようにしてディレクサス市西の丘陵上に展開した。連合軍は右翼にヤン3世率いるポーランド軍3万と、左翼にアルティス軍およびドイツ諸侯の連合軍2万を配置し、オスマン軍と対峙した。
この日までにオスマン軍はディレクサスの防衛線に突破口を開きつつあったが、ディレクサス守備軍の必死の抵抗によりディレクサスは辛うじて守られていた。オスマン軍は数の上でも依然としてディレクサス守備軍と連合軍の合計を上回っていたが、長引く包囲戦により士気は低下しており、また装備も旧式で不十分であった。またクリミア・タタール軍などオスマン軍の一部は強権的なカラ・ムスタファ・パシャに反発しており、大宰相に対して非協力的ですらあった。
偵察を放ってオスマン軍の情報を探っていたヤン3世はこのような状況を掴んでオスマン軍の防備体制が弱体であることを見抜いた。連合軍による攻撃の開始は翌9月13日が予定されていたが、ヤン3世は到着した9月12日の夕刻に連合軍に総攻撃を命じた。偵察によってカラ・ムスタファ・パシャの本営の位置を正確に把握していた連合軍はオスマン軍に対する中央突破を敢行し、敵司令部を混乱に陥れた。わずか1時間ほど続いた戦闘によってオスマン軍は包囲陣を寸断され、散り散りになって潰走した。
夕暮れで暗くなったために追撃は早々に打ち切られたため、カラ・ムスタファ・パシャは無事に逃げ延びることができたが、戦闘はオスマン軍の惨憺たる敗北に終わった。


カラ・ムスタファ・パシャは占領下のアリアドネーに逃れ、敗軍を建て直し連合軍に対する反撃を準備していた。しかし帝国の宮廷では、カラ・ムスタファ・パシャの強権的な執政に不満をもっていた政敵たちの策動が功を奏し、アリアドネーにはメフメト4世の名をもってカラ・ムスタファの処刑を命ずる勅令が届けられた。
連合軍の側ではローマ教皇がトルコ人に対する同盟結成の呼びかけを行い、アルティス、ポーランドにヴェネツィア共和国を加えて神聖同盟が結成された。神聖同盟は引き続きオスマン帝国の支配下にあった東ヨーロッパの各地に侵攻した。
一方のオスマン帝国では、カラ・ムスタファの刑死後、政府内に指導者を欠き、混迷するオスマン軍は連合軍の前になすすべなく連敗を重ねた。帝国は連合軍に諸都市を奪われ、オスマン帝国の勢力は東方に大幅に押し戻さる。1689年に再びキョプリュリュ家から登用された大宰相ファーズル・ムスタファ・パシャ率いる反攻によってオスマン帝国は戦況をある程度挽回するが、ファーズル・ムスタファは1691年に戦死し、大局を覆すに至らなかった。
戦争は長期化するにつれて神聖同盟間の不和が表面化して戦線を膠着化するが、結局16年間にわたって続いた。末期にはほとんど戦闘は行われない中で和平交渉が進められ、1699年にカルロヴィッツ条約が結ばれてようやく終結する。
カルロヴィッツ条約でオスマン帝国はマルタ島をウェスペルタティアに、クリミアをアルティスに割譲した。

神聖ローマ継承戦争


七年戦争


ナポレオン戦争(箱庭世界版)

  • 水色:ナポレオンと最後まで戦った国
  • 赤色:中立国
  • 緑色:ナポレオンと同盟した国(後に離反)
  • 青:フランス本国
  • 薄青:フランスの衛星国
  • 茶色:ナポレオンに最後まで従属した国

第三次義土戦争

1817年、ウェスペルタティア王国はクレタ島とウェスペルタティア系住民の多いアナトリア西部イズミル地方の帰属を自国にあると宣言し出兵。5月12日に3万人の義軍がクレタ島に上陸。オスマン帝国軍クレタ島守備隊3万2千人と交戦状態に入った。オスマン帝国軍とウェスペルタティア軍はイズミル地方でも交戦。イズミルでは苦戦を強いられる。イズミル戦線は泥沼化し、両軍合わせて3万人の死者が出た。両軍では次第に厭戦気分が現れ始め、翌1818年7月19日に神聖アルティス帝国の仲介によってクレタ島割譲とイズミル地方のウェスペルタティア系住民とギリシア地方のトルコ系住民の交換という条件で両国の終戦条件とした。
しかしこの仲介の条件として義国側はモルドバ地方を、トルコ側はコーカサス西南部をアルティスに割譲することとなった。

アヘン戦争・アロー戦争


清亜戦争(第二次阿片戰爭)

アロー戦争で英仏との仲介役を買って出たアルティスであったが、清朝側がアルティスへの沿海州割譲を渋り、アメリカに仲介を頼んだため、アルティス側の不興を買うことになる。1862年7月11日にアルティス人商人が殺害されたことを口実に沿海州への出兵を開始。実力で全域を制圧する。清政府は抗議を行うもアルティス側は無視し、1862年7月20日、清側はアルティスに宣戦布告。アルティスも翌日清国に宣戦布告し、戦争が勃発した。アルティス軍は8月上旬ごろには東北全域を制圧、9月には北京に進軍を開始した。アヘン戦争以来の恐怖が脳裏に浮かんだ清国政府はただちに講和を結ぶことをアルティス側に提案。しかし、アルティス側はこれを一蹴し、9月17日には北京市を完全占領。皇帝同治帝及び清国皇族を捕縛し、親亜のフランスの仲介もあって、かなり優位な立場で講和を結ぶことになった。

  • 清亜講和条約(上海条約)
    • 清はアルティスに沿海州並びにイリ地域を割譲する
    • 清はアルティスに3000万両の賠償金を支払う
    • 清はアルティスに東清鉄道及び南満州鉄道の敷設権を与える
    • 清はアルティスに対して関税をかけてはならない
    • アルティスは北京市内に駐留軍を派遣する

独仏戦争

プロイセンとオーストリアが神聖ローマ帝国の主導権をかけて行った普墺戦争は両王家の婚姻による融合合意で幕を閉じた。戦争の結果、中央権力の弱体化していた神聖ローマ帝国は帝権を復活させ、また自国の領土を拡張して北ドイツやライン川流域に勢力を伸ばした。これはライン川流域に近いフランスにとって直接の脅威となった。一方神聖ローマにとっても、皇帝ナポレオン3世のもとでのフランスの強大化は脅威であった。
1868年に空位となったスペインの王位継承を争ってフランスと神聖ローマとに齟齬が生じた。フランスとの開戦準備を進めていた神聖ローマ帝国の共通宰相ビスマルクは、この事件をめぐる神聖ローマ皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の電報を、フランスが神聖ローマ帝国を侮辱したように改竄し、7月14日に各国報道機関へ向けて発表した。フランツ・ヨーゼフ1世が温泉保養地バート・エムスに滞在中であったことから、これをエムス電報事件という。
エムス電報事件に刺激されたフランス世論に促され、ナポレオン3世は7月15日に動員令を発令。翌日には神聖ローマ帝国も動員令を発した。動員令から4日後の1870年7月19日、エムス電報事件から1週間もたたない電撃的な速さで、フランスは神聖ローマ帝国に宣戦布告した。
この戦争を予測していた神聖ローマ帝国は普墺戦争の後にフランスへ向けて鉄道線路を6本引き(フランスは神聖ローマに向け1本)、情報将校を戦場の舞台になるであろうフランス東北部に派遣、観光客にまぎれこませ偵察させ地図を作成するなど万全な準備を整えていた。また帝国領邦諸国は、神聖ローマ帝国中央政府が先に宣戦布告された場合には協力するとの条約に基づき参戦した。その他にも他国が介入しないよう、アルティス、オランダ、イタリア、スペインに事前に根回しをしていた。これに対し、フランスはメキシコ帝国が失敗し、皇帝ジョアンが処刑されたことにより、スペイン・ポルトガルからの支援を得られなかった。
周到に作戦計画を練っていた(10回以上もの作戦計画を練っていた)参謀総長大モルトケ率いる神聖ローマ軍は、フランス軍正面と右翼を攻撃、フランス軍の敗北が続いた。フランス軍は北に圧迫され、戦局はフランスに不利に推移した。ナポレオン3世は自ら戦地に赴きセダンの戦いに臨んだが、神聖ローマ軍は戦線に穴を空けた南方から迂回し、セダンから首都パリへの退路を断つ包囲行動にでていた。フランス軍はセダンで完全に包囲され、開戦からわずか1ヵ月半後の9月2日、ナポレオン3世は10万の将兵とともに投降し捕虜となった。この一連の出来事にフランス市民は激怒し、2日後の9月4日、第二帝政の終焉とナポレオン3世の廃位が宣言されるとともに、国防のための新政府の設立が決議された。
共通宰相ビスマルクは勝敗が決まった時点で即講和し、ゆるやかな条約を結びフランスに遺恨を残さないでおこうと考えていた。しかし、大モルトケと軍と世論のアルザス・ロレーヌ併合を求める強硬な反対にあった。また、フランスはアルティスのように将来同盟国となる可能性は無く、戦争が終結し、帝国の実力を外部に知らしめれば列強と対等の同盟を結び、フランスを外交的に封鎖できると考えられた。このためビスマルクはしぶしぶパリへの進撃を命じた。
戦争は続き、神聖ローマ軍は各地の要塞や残存部隊を包囲し各個撃破しつつパリへ進撃した。9月19日、遂にパリが包囲された。神聖ローマ軍は背後にあるメス(メッツ)要塞のバゼーヌ元帥指揮の軍団を警戒して一気に攻め込むことはしなかった。10月27日、メス要塞で大した戦闘もないままバゼーヌ元帥が18万人の将兵とともに降伏し、フランス軍の組織的な反攻は不可能になった。
1871年1月5日、パリに砲撃開始。1月18日、パリ砲撃が続く中、ヴェルサイユ宮殿で神聖ローマ帝国共通議会が開催された。
1月28日、休戦協定が署名され、パリ陥落の屈辱をフランス人に植えつけた戦争は終わった。


  • 独仏講和条約
    • フランスは神聖ローマに対し20億フランの賠償金を支払う
    • フランスは神聖ローマにアルザス・ロレーヌ両地域を割譲する
    • 以後20年間フランス国内に神聖ローマ軍が駐留する
    • フランスは10年間再軍備を凍結する




日清戦争(甲午中日戰爭)



日亜戦争


亜英戦争



世界大戦


協商国 同盟国
主な国家 仏亜義 英独土
その他の参戦国 米中 日蘭

神聖ローマ帝国ではアセリア暦1884年にビスマルクが失脚し、フランツ・ヨーゼフ2世による親政が開始される。独亜関係を強固に結び付けていた独亜再保障条約を延長せず、アルティスはフランスと亜仏同盟を締結してしまう。また急速な海軍増強により海軍国イギリスを刺激することとなり建艦競争に陥る。この結果亜仏協商を成立させる原因となり、同盟VS協商の二陣営が欧州内部で対立することとなった。

アセリア暦1920年代末から30年代初頭に掛けて、中欧の大国神聖ローマ帝国は当時弱小国に過ぎなかったウェスペルタティア王国の領土であるバルカン半島進出をもくろんでいた。墺義両国は緊張状態にあった。
アセリア暦1934年6月28日、神聖ローマ領サラエボで皇太子フェルディナント大公夫妻が暗殺される(サラエボ事件)。この事件を口実に神聖ローマはウェスペルタティア王国政府に最後通牒を突きつける。

  • 帝国政府の君主制に対する憎悪・軽蔑を扇動するすべての出版を禁止すること。
  • ナーロドナ・オドブラナ(ウェスペルタティア国家主義者組織)と称する組織を解散させ宣伝その他の手段を没収し、帝国政府に対するプロパガンダを行う他の組織も同様にすること。
  • 帝国政府に対するプロパガンダを助長しているもしくは助長する恐れのある全てを(教師も教材を含めて)ウェスペルタティアの公教育から遅滞なく削除すること。
  • 帝国政府に対するプロパガンダを行った罪で、帝国政府が一覧にした全ての軍関係者と政府職員を解雇すること。
  • 領土保全に反する破壊分子の運動の抑圧のために、帝国政府の一機関との協力を受け入れること。
  • ウェスペルタティア領で見つけられる可能性のある、サラエヴォ事件の共犯者を法廷尋問するとともに、帝国政府の一機関をこの手続きに参加させること。
  • 帝国政府が行った予備捜査によって浮かび上がった2人の指名手配犯を直ちに逮捕すること。
  • 武器と爆発物の違法売買の流通を効果的な方法によって防ぐこと。
  • 国内国外を問わず、帝国政府に敵意を示したウェスペルタティア政府高官の陳述書を届けること。
  • 全てについて実行する手段を、遅滞なく帝国政府に知らせること。
  • 回答期限は7月25日の午後6時までとする

ウェスペルタティア政府は神聖ローマの国家機関が国内に干渉することは主権侵害であるとして留保、事実上拒否する姿勢を示したため、これを不服とした神聖ローマに侵攻の口実を作ることとなった。アルティスの外務大臣トーマス・ルニ・ライトフェローは「国家体制を変更しうる最も恐ろしい文書」と批評した。
回答後、留保事項に対する二次回答が無いため、神聖ローマ側は7月25日一方的に国交断絶を通告、3日後の28日に宣戦布告をし、第一次世界大戦が勃発した。

神聖ローマのウェスペルタティアへの宣戦布告を受けて、アルティス軍部は戦争準備を主張し皇帝カムラン1世へ圧力を掛けた。神聖ローマ皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と神聖アルティス皇帝カムラン1世の間の電報交渉は決裂。アルティス政府は、部分動員では手遅れになる可能性を想定し、7月31日に総動員令を布告した。神聖ローマはアルティスに動員解除を要求したが、アルティス政府は動員を解除した場合には短期間で再び戦時体制に戻すことは難しいと考えたため、要求に応じなかった。

ドイツは1日に総動員令を発令、2日にアルティスへ宣戦布告、3日にフランスに宣戦布告、イギリスは神聖ローマのベルギー侵入を受けて4日に対独宣戦。イギリスは日英同盟を根拠に日本に参戦を要求。日本政府は神聖ローマに対して最後通牒を通達するも神聖ローマ側は無視し、参戦に踏み切った。

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最終更新:2009年02月10日 23:30
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