プロローグ
迂闊だった。切実にそう思う。
頭から幾多の血を流しながら、ディスレイファンは後悔していた。
単純に、『強くなりたいから山に篭る』というセオリーを実施していただけなのに、気がつけば瀕死になっていた。それというのも、相手が悪すぎたからだ。
この辺り一帯では有名な、決して戦ってはいけない相手。ソレは『白熊』と呼ばれている最強の熊。
何でも『スタンプカード』とやらを持っていけばスタンプを押してくれるという茶目っ気さも持っているのだが、それを持っていない相手には容赦しない。
付近の住民の間でも、常識だった。「出会っても決して近寄らず、白熊が消えるまで息を潜めよ」山篭りの前に、近くの村人から言われた言葉。それだけの実力を、この白熊は持っているのだ。
そして――もしかすると倒せるかもしれないなどと、無謀なことを思った己。
どれだけの矢を射ても、どれだけ剣で切りかかろうと、白熊には全く効果がないも同然だった。逆に白熊の攻撃は確実にディスの体力を削り、皮を裂き、肉をえぐる。
もう動けない。半ば死を覚悟する。白熊が再び両手を上げ、ディスへと振り下ろした。
脳天に一撃を食らい、その場に倒れこむ。冷たい雪が、ひどく心地よかった。
す――と突然、ディスの両頬へと、雪よりも冷たい手が添えられる。
白く細い指。薄目を開いて、その主を見やる。ぼやけた視界ではあったが、何とか確認できた。
雪山に、薄布一枚羽織っただけの女の姿。慈愛に満ちた顔と、冷たく柔らかい指の印象だけが残る。
「――――――」
女が何かしら呟いた。聞き取れない――、いや、聞いたこともないような言葉。
答えるように、白熊が唸る。そして声は遠くなり、白熊の姿が視界から消えてゆく。この女が追い払った――それ以外には考えられない。
「――――――」
女が再び、何かを言う。ディスには理解できない。ただ、その指の柔らかに恍惚(こうこつ)としていた。
女が微笑む。そしてディスの半身を起こし、抱きしめる。体全体が冷たかったが、それでも温かみを感じた。
しかし――獣臭かった。
顔の上の重圧で目を覚ます。目を開くと茶色の毛が埋め尽くしており、そして獣臭さだけがある。
「クリさん・・・またかよ」
呆れたようにディスは呟き、顔の上に乗っているネコを引き剥がした。
「毎日毎日俺の顔の上に乗りやがって・・・・」
冒険者ギルド『月河』に所属している者達の宿舎・『MOON☆RIVER』の一階101号室は、ギルドマスターにして龍殺し『流星矢』ディスレイファンの専用となっている。しかし何故か小動物的なものによく好かれるという特性のためか、『月河』で飼っているネコやトリがよく侵入してくるのがいただけない。
「にゃー」
小ばかにするように、ネコが鳴いた。
「あのな、クリさん」
ネコと向かい合うように、ディスが座りなおす。
「人の顔の上に乗っちゃだめだ。クリさんだって、起きていきなり顔に誰かが乗ってたら嫌だろ?」
クリさん――このネコの名前であり、何故か『月河』の全員からさん付けされている。どこかに漂う高貴な印象がそうさせるのかは分からない。少なくとも、誰もそれを疑問に思わないから慣例(かんれい)として続いている。
「にゃー」
「ちゃんと分かってるのか? 分かったらもうしないようにな」
「にゃー」
会話が成立しているのかどうかは、誰にも分からない。
「まったく・・・」
呆れたようにディスが呟き、ベッドから降りる。
「けっこいい夢見てたのに・・・」
洗面所へと歩いて、昨夜のうちに汲んでおいた井戸水で顔を洗う。寝ぼけた顔へと冷たい水をかけることで、瞼(まぶた)に残っていた眠気が消えてゆくのが分かった。
「さって・・・」
にや、と笑って。
「今日も一日、平穏に過ごすかね」
こうやって、龍殺し『流星矢』ディスレイファンの一日は幕を開ける。