フォレスト・イン・ザ・ダーク
【一日目・20:45】
山頂で腰を落ち着けていた高峰小雪と渡良瀬準は、
登ってきた筈の登山道を見失い途方に暮れた。
方向感覚を失ったという意味では無い。
魔術的に道が隠されたという意味でも無い。
眼下に広がる森が暗すぎて、視認が出来ぬのである。
木の茶色。
葉の緑。
花の赤色。
沢の青色。
日中は目に優しいそれらの色彩が、森林を形成していた。
ところが、夜になるや。
木は黒色。
葉は黒色。
花は黒色。
沢は黒色。
森の全ては、真っ暗な闇の色、単色と化したのだ。
小雪の知る魔法には、明かりを灯す魔法も存在する。
光の粒子を生み出してコントロールするといった、
魔法初心者の為の練習用魔法である。
しかし、今の彼女はその程度の魔法すら使用できない。
魔力が枯渇しているからである。
枯渇の理由の半分は、攻撃魔法を使用したこと。
もう半分は、己のサーヴァントへ魔力供給したこと。
小雪はアーチャーが長時間の単独行動を取ることが出来るよう
魔力の多くを、彼に贈与していたのである。
故に今、小雪と準は山頂に留まっている。
気持ちは急いている。
それでも、朝日が出るのを待っている。
あの闇の森の中を、足場の悪い下りの斜面を、
明かりも無しに、無事に下山することなど到底出来ぬ。
小雪と準は、そう、判断していたのである。
「やっぱり私たち都会っ子だから、
サバイバルって向いて無いですよねー」
準は、喋り続けている。
焦燥の色を濃くしている小雪の為に、
おどけた空気を演出している。
「そうですね」
小雪は準のトークをあいまいな相槌であしらっている。
恨めしげな目線は、眼下の森を捉えている。
夕闇の中、食事を取って一時間余り。
二人はずっとこのように過ごしていた。
「……?」
状況に変化が訪れたのは、二十一時を迎える少し前。
兆しに気づいたのは、高峰小雪。
眼下に広がる森林の闇。
その闇が少しだけ、揺れたように感じたのである。
「どうしたの?」
「今、あの辺りが……」
小雪が指差す先を確認しようと、準が腰を起こす。
が、足元の小岩がぐらりと揺れ、大きくよろめいてしまう。
時を同じくして。
小雪の指差した闇の一点が、赤く光った。
唸る強風が、小雪の髪を揺らしす。
よろめく準のわき腹を、猛烈な勢いで疾風が凪ぐ。
「っ!? ……ああっ!!」
その風に、もとより崩れていたバランスがさらに崩れ、
準は悲鳴を残し後方に滑落する。
「準さん!!」
伸ばした手が空を泳いだ小雪の視線の先で、
準は数メートルだけ転がり、岩に衝突した。
小雪は胸を撫で下ろす。
準が、断崖方向に倒れこまなかった故に。
角度、右に20度―――
それだけのズレで、準は周防院奏の後を追っていた。
ざしゅ。
ざしゅ。
小雪に準だけを気遣う余裕は与えられなかった。
存在を隠さぬ確かな足音が、背後から近づいてくる。
小雪は再び振り返る。
闇から滲み出るように姿を表したのは、女であった。
栗色の緩やかなウェービー・ロングの髪をしていた。
五体は浅黄色の軍服に包まれていた。
右手には黒い筒状の物体が握られていた。
「小雪さん! はやくこっちへ!」
準が、体勢を立て直すより早く、小雪に警告を発した。
準は気付いていたのである。
自分の脇を掠めた風は、弾丸が走り抜けた風なのだと。
自分たちは、銃撃をうけたのだと。
女は、小雪へと無言で接近してくる。
その右手が伸びた瞬間、小雪は躊躇わずに斜面を滑り降りた。
ほどなく虚空に響き渡るは渇いた銃声。
「立てますか?」
「大丈夫」
同じ高さまで滑り下りてきた小雪に、準は手を差し伸べた。
小雪が握ったその手から、生温くぬめる感触が伝わった。
血液だ。
準の脇を抜けた銃弾は、制服だけではなく彼の肉体をも掠めていた。
準は小雪の続く心配の言葉を遮って、言った。
「気にしないで小雪さん、かすり傷だから。
それよりも……」
ざしゅ。
ざしゅ。
それよりもあの足音から逃げるべきだと、準は動きで以って示した。
殺戮者が山頂につき、二人の姿を目視したならば、
再び、その銃が二人に向けて炎を吹くであろうから。
準の手には凶き突剣・
ルールブレイカー。
小雪の手には陰陽短刀・干将莫耶。
共にショートレンジの武器である。
あるいは、小雪に十分な魔力があれば、
魔法にて反撃することもできたであろう。
しかし、今、彼女の魔力は底を尽きかけている。
故に、反撃の手は下策。
故に選択肢は逃亡一択。
当然の判断である。
それ以外に出来ることがあるとするならば―――
(アーチャーさん、来てください!)
小雪の強い祈念とともに、彼女の左手が灼熱の温度に包まれた。
火傷は無い。
しかし、令呪の紋様の形が変わっていた。
一部、赤かったものが黒ずんでいる。
これが令呪による命令であるのだと、小雪は直感する。
しかし、現実は非情にして無情。
赤い鎧の弓兵は現れなかった。
(結界…… ですか)
小雪の推理は正しい。
この島を覆う能力制限の結界が、英霊の霊体化による瞬間召還をも
不可能なものとしている。
但し、令呪による【令】は、通っている。
マスターの命は、サーヴァントに伝達されている。
今ごろアーチャーは、小雪の下へと疾走を開始しているであろう。
(アーチャーさんが到着するのが先か……
私たちが追いつかれるのが先か……)
ともあれ、打てる手は打った。
あとは逃げられる限り、逃げるだけである。
ざしゅ。
ざしゅ。
頂上の程近くから、靴音が響く。
追跡者は、走ってはいない。
慎重で無理の無い足取りで、こちらへと向かってくる。
それでも、足音はもう頂上へと迫っている。
小雪と準が、追跡者に背を向ける。
その前方には、森林。
その左方にも、森林。
その右方にも、森林。
どちらも視界もなく、道もない。
暗闇のみが顎を開けて待っている。
「行くしか、ないんだよね……」
「ですね……」
小雪と準は、意を決し、正面の森へと突入した。
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【一日目・21:00】
待ち受けていたのは、やはり闇であった。
小雪や準が経験したことのない種類の闇が、二人を飲み込んだ。
濃度の濃い、深い闇であった。
呼吸の度に、灰に闇が染み込んでしまうかの如き、闇であった。
伸ばした手の先すら、見えぬ闇であった。
その未知なる闇の中で小雪が知ったことは、
二本の足だけでは進めないという事実である。
根こぶにつまずく。転倒する。
立木にぶつかる。転倒する。
斜面に滑る。転倒する。
既に無数の擦過傷と打撲痕をその身に刻んでいる。
故に、手を使わなくてはならない。
進行方向へ触覚のように腕を伸ばし、手触りで障害物を判断せねばならない。
足場の悪いところでは、木を掴むことで体重を分散させねばならない。
両手を駆使しなくては、一歩たりとも前へと進めない。
ざしゅ。
ざしゅ。
追跡者は、ゆっくりと近づいてくる。
一定のペースで近づいてくる。
それが救いでもある。すぐには追いつかれない故に。
それが恐怖でもある。もたついた分だけ距離を詰められる故に。
「……」
「……」
逃げる二人の間に会話はない。
そのような余裕はない。
行く手への集中。
背後への集中。
この二種類の集中だけで、全神経を、全思考を使い切っている。
数歩進んで、急勾配の斜面に突き当たった。
小雪は、息を飲む。
緊張が全身を走る。
その斜面の終点が分からない。
数歩で終わる距離かもしれない。
何十メートルも続いているかもしれない。
途中で、もっと急な斜面になるかも知れない。
見当がつかない。
判らない。
ざしゅ。
ざしゅ。
近づいてくる足跡に、小雪は我に返る。
この迷いが、また、追跡者との距離を詰めてしまった。
反省する。あらゆる判断は瞬間に行わなければならないと。
「準さん、降りましょう」
小雪は隣を歩いている準に囁いた。
返事は無かった。
今まで隣に感じていた筈の、準の息遣いが無くなっていた。
「小雪さん、こっちよ!」
戸惑う小雪に、闇の向こうから、準の呼ぶ声が響いた。
しかし、姿は見えない。
声の感じから察するに、それほど離れてはいない。
それは小雪にも分かった。
しかし、どれほど離れているのか。
それが小雪には分からない。
それでも。
小雪は準と合流すべく、準の声がしたと思しき方向へ向き直す。
「あっ!」
衝撃と共に、小雪の目から星が散った。
輪郭があやふやな緑色の光輪がいくつか、視界にちらつく。
側頭部を木にぶつけたのだ。
小雪は腰砕け、膝をつく。
「小雪さん!」
「準さん!」
再び、声に出して互いの存在を確認する。
準の返答は力強かったが、先程と比して少し遠くに感じられた。
先程と比してすこし違った角度に感じられた。
前方の木と思しき大きなものを避け、十歩。
前方の茂みに足を突っ込み、角度を変えて、二十歩。
変えた角度を元に戻して、三十歩。
四十歩進んで、足が止まった。
(……本当にこっちであっているのでしょうか?)
近づいたはずだ。
小雪は準の声の方角に向かって進んだはずだ。
しかし、自分が真っ直ぐ歩いているという自信がない。
あの時、間違った方向に進んでしまった気がしてならない。
それを確かめる術は、一つしかない。
「準さん!」
小雪は再び声に出した。
一秒、二秒。
返答は無い。
(もしかしたら、もう殺されたのでは……)
小雪の脳裏にふと恐ろしい考えがよぎるが、すぐに打ち消す。
銃声は聞こえなかったはずだ。
「準さん!」
再び、小雪は叫んだ。
「…ゅき……ん」
今度は微かに、準の声が届いた。
声が小さいのではない。
距離が遠いのである。
声は遠いといっても、せいぜい数十メートルの距離だろう。
それでも、小雪はもう準と合流できる自信を失っていた。
己の方向感覚が信じるに足らぬを自覚したが故に。
(こんなにも私は、視覚に頼って生きていたのですね……)
小雪は嘆息する。己のふがいなさを噛み締める。
しかし、その歩みが止むことは無い。
ざしゅ。
ざしゅ。
安定した足音が、自分のいる方角に近づいてきている故に。
その足音が準の声よりも、近くから聞こえてくるが故に。
「こ……さ…」
向こうから、さらに小さく、準の声が聞こえた。
小雪は、その声がする方向に背を向けた。
そのまま前向に歩みを進めた。
何故か?
(この女が私を追っているのなら――― 準さんとは合流しません)
我が身を囮に、準を追跡者から遠ざけようというのである。
仲間を守る。
小雪のその覚悟は本物であった。
ざしゅ。
ざしゅ。
目論み通り、足音は小雪を追って来た。
間違いなく正しく追ってくる。
迷い無く淀みなく追ってくる。
小雪はその確実さに、違和感を覚える。
(どうしてこの人は、真っ直ぐ私を追うことができるのですか?
闇は、お互いの視界を奪っているというのに……)
小雪は自問する。
その回答を得られれば、この執拗な追跡者の手から逃れる方策を
見出すことが出来るかも知れぬ。
ざしゅ。
ざしゅ。
小雪の足音は止まない。
追跡者の足音も止まない。
(私は、準さんとはぐれたとき、どうやって準さんを確認しましたか?)
安定しない逃げる足音。
乱れの少ない追う足音。
(声です。準さんの声を標に進みました)
逃げる足音。
追う足音。
(目が役に立たないから、耳を働かせて…… そう、耳で!!)
足音と足音。
(【音】なのですね。この敵は、私の【足音】を追ってきているのですね!!)
小雪の問いが、ついに解を得た。
解は即座に手段を連想させた。
(でしたら、潜伏です。
逃げる音を聞きどこまでも追跡してくるのでしたら、
その指針を失わせてしまいましょう)
待っていれば―――
死にさえしなければ、アーチャーがやってくる。
それまで追跡者を釘付けにできれば、
準を守りきることができる。
小雪はやにわに立ち止まり、静かに呼吸を整える。
追跡者の足音に耳を澄ます。
ざしゅ。
ざ……。
小雪の静止に幾分か遅れて、追跡者の足音もまた、途絶えた。
さほど遠く無い背後で。
しかし、近いとも言えぬ距離で。
(ふふ…… やっぱりそうでしたか)
己の推理の正しさを確認した小雪は、
一本の木に、静かにその背を預けることにした。
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【一日目・21:30】
小雪の感覚では、すでに数時間が経過している。
しかし、実際の経過時間は30分に満たない。
この間、小雪は一切動かなかった。
音を立てなかった。
喉が引き攣って、咳払いが出そうになる。
虫が皮膚を這い回っている感覚に襲われる。
額から流れる汗が瞳に入る。
発作的に叫び声を上げたくなる。
それに、耐えた。
耐え抜いた。
アーチャーの到着を、ひたすら信じ、耐え続けた。
(もういないのでは?)
小雪の心に湧き上がって来る声。
小雪の理性はその誘惑を即座に否定する。
そんなはずがない。
追跡者が移動する【音】を聞いていない。
追跡者は、待っているはずだ。
じっと、待っているはずだ。
足音の途絶えたあの場所で、待ち続けているはずだ。
(私が、動きを見せるのを)
故に、油断をしてはならない。
集中力を切らしてはならない。
音を立てずに、音を聞く。
これはそういった我慢比べである。
しかし、闇の中に身を潜めじっと耳を凝らしてみれば。
足音が無ければ全く無音、ということもなかった。
時折、風が吹くと梢が揺れる。さわさわと。
葉が鳴る。かさかさと。
音は、それだけであった。
夜の森は、シンプルであった。
小雪は意識を切らさない。
音に、全てを集中する。
さわさわ。風に梢が揺れる音がする。
かさかさ。風に梢が揺れる音がする。
音は無い。
さわさわ。風に梢が揺れる音がする。
音は無い。
かさかさ。風に梢が揺れる音がする。
さわさわ。風に梢が揺れる音がする。
音は無い。
音は無い。
音は無い。
さわさわ。風に梢が揺
―――ざ。
「!!」
小雪は聞き逃さなかった。
風とは関係なく立てられた音を。
左後方、ほどほどの距離から発せられた音を。
追跡者の足音が止んだ位置の近くから発せられた音を。
小雪は腰に提げた莫耶の柄を強く握り込み、次なる音に集中する。
―――ざ。
次の足音は、少し遠ざかった。
(なぜ、今、追跡者が移動を開始したのでしょうか。
膠着した状況を打破する為、あえて足音を私に聞かせて、
動揺を誘う作戦なのでしょうか?)
―――ざ。
次の足音は、さらに遠ざかった。
(離れてゆく……?
でしたら可能性としては低いですが、私への追跡を断念、
ということも、あるかもしれません)
―――ざ。
ここにきて小雪は確信した。
足音が、自分から離れていっていることを。
(これは、もしかしたら、本当に、ピンチ脱出かも……)
小雪の緊張感が、緩んだ。
右手の莫耶に対する握りも、緩んだ。
まさに、そのタイミングを狙い済ましたかのように。
―――きゅむ。
小雪の首に、【何か】が絡んだ。
「……っ!!」
絡んだ【何か】が容赦ない力で小雪の頚部を締め付ける。
気道が圧迫されて声も出せない。
無様にもがき、暴れることしかできない。
「……っっ、……っっ!!」
追跡者は遠ざかってなどいなかった。
すぐ後ろまで迫っていた。
小雪が背中を預けていた樹木。
その背後から、小雪に襲い掛かった。
暗闇の中、不確かな銃撃という手段を捨てて、
より確実な絞殺という殺害方法を以って、
文字通り小雪の息の根を止めに来た。
ぎち、ぎち、と。
カミキリムシの牙鳴りの如き音を闇の中に響かせて。
【何か】は、小雪を締め上げる。
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追跡者に関する謎は三つある。
一つ、いかに小雪の潜伏位置を特定したか?
二つ、いかに音を立てず接近したか?
三つ、遠ざかる足音とは何か?
一つめの解答―――
追跡者は、音を辿っていなかった。
匂いを、辿っていたのである。
小雪は、学生である。
思春期と青年期の間に立つ乙女である。
気になる後輩も存在している。
身だしなみには当然、気を配っている。
故に。
小雪は、匂うのである。
シャンプーの匂い。
ファンデーションの匂い。
パフュームの匂い。
決して自然の中には無い、人工の香りを。
小雪は強く漂わせていたのである。
二つめの解答―――
追跡者とて、無音で移動は出来ぬ。
故に隠した。
音の中に、音を。
時折、風が吹くと梢が揺れる。
葉が鳴る。
追跡者は、それを利用した。
梢が揺れる。
葉が鳴る。
その瞬間瞬間を利用して、一歩ずつ。
一歩が刻めぬ場合は、半歩ずつ。
すり足で。
音で音を覆い隠し。
実に根気良く、迫ってきていたのである。
三つめの解答―――
事は簡単。音はデコイである。
樹木一本隔てた後ろまで接近した追跡者が、
小雪の首に蔦を巻くための隙を得るために、
小石を投擲し、見当違いの方向に意識が向くよう、
遠ざかる音に油断するよう、
心理トリックを仕掛けたのである。
以上を踏まえ、この戦いを総括しよう。
感覚。経験。知識。体力。
追跡者はそれら全ての面で、小雪を上回っていた。
魔術の使えぬ高峰小雪は、只の無力な少女でしかない。
対する追跡者は、現役の軍人。
それも、サバイバル実技に秀でた軍人である。
闇夜の森林の戦闘で、太刀打ちが出来るはずがないのである。
所属軍、国連太平洋方面第11軍。
所属部隊、横浜基地衛士訓練学校、第207衛士訓練部隊。
階級、軍曹。
職務、教導官。
そう。
追跡者とは、神宮寺まりもであった。
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【一日目・21:45】
少女は、まだ死んでいない。
落ちていない。
少女は、ただ苦しんでいる。
もがいている。
右手の人差し指と中指は、頚部と蔦との間に潜り込んでいた。
それが不幸にも少女の意識をぎりぎりで繋いでしまっていた。
動脈が綺麗に塞がれれば、僅か数秒で意識を失い、
あとは眠るように死ねるというのに。
指が引っかかってしまったばかりに、抵抗しているばかりに、
少女は絶命するまでの数分間、苦しみ続けねばならぬ。
(体の力を抜け、名も知らぬ少女よ。苦しみを長引かせるだけだ)
まりもは木の向こうでばたばたと暴れている少女を想う。
しかし、その僅かな同情心から産まれる気の緩みはない。
まりもは既に、戦うことへの迷いを吹っ切っていた。
―――軍の存在意義とは、BETAを滅することにある。
―――故に、これは、軍務である。
―――軍務となれば、軍人は従わねばならぬ。
―――個たる意思を捨て、任務を達成する手段と化さねばならぬ。
小日向雄真と遠坂凛との邂逅の後。
一人、山中を放浪しながら思案を重ね。
結論を下し。
まりもは、一個の軍人となったのである。
(ん!?)
少女の垂れ下がっていた左腕が、不意に持ち上がった。
その手には短刀と思しき物体が握られている。
少女は腰に提げていたそれを抜き放ち、
己の首を絞める蔦を切断すべく振り上げたのである。
(ようやく出してきたか!)
少女が右の腰に短刀を提げていたことを、まりもは知っていた。
それが使用されるであろうことは予測していた。
その瞬間のみが自分の負うリスクであると、まりもは判断していた。
故に、警戒は怠らなかった。
対抗手段は、既に脳裏に描いていた。
「ふっ!」
短く鋭い排気と共に、まりもが伸ばしたのは右足。
頭の高さほどに蹴り上げられたそれは、軌跡の途上で小雪の手を襲った。
黒い短刀は蔦に触れることなく、少女が背を預ける木に突き刺さる。
(もう一本は!?)
まりもは、短刀が二本あることを知っていた。
それを同時に、或いは間髪入れず繰り出す可能性があると予測していた。
まりもの予想は当たっていた。
少女は、二本目の白い短刀を振り上げた。
しかし、続く行動はまりもの想像を超えていた。
少女は短刀を投じたのである。
側面へ。
闇の森の奥へ。
見当違いの方向へ。
―――それで、少女の抵抗は止んだ。
(最後は…… 錯乱したか)
まりもは蔦越しに、少女の全身が突っ張ったことを感じ取る。
それは、死への秒読みに入った証。
もう、少女の五体に、随意の力は入らない。
もう、少女に為す術は無い。
緊張し。
痙攣し。
弛緩し。
失禁し。
絶命する。
まりもは、そう思っていたのだが。
すっぱりと、蔦が断ち切れた。
とさりと、少女の体が地に伏した。
「―――な!?」
蔦を断ち切ったのは短刀であった。
数秒前、虚空に吸い込まれた、白い短刀であった。
それが、飛んできた。
もう一本の黒い短刀に吸い寄せられるが如く。
(近くにもう一人、いる!)
まりもは推測する。
その何者かは、軍人である自分に気付かれぬよう接近し、
ナイフの投擲という精度の低い手法にて友軍の救助を成功させている。
手練である。
力量に措いては、自分より上である可能性が高い。
まりもは素早く距離を開ける。
側方を警戒しながら、少女から遠ざかる。
予想外の奇襲には即座に撤退。
彼我の戦力差が測れぬ争いは可能な限り回避。
軍人として、その基本はまりもに染み付いていた。
速やかに、戦場を転進した。
後一歩で少女に止めをさせたというのに。
獲物には何の未練も執着も見せずに、迷い無く。
まりもは、白い短刀の飛んできた方向に背を向け、遁走した。
陽剣・干将。
陰剣・莫耶。
雌雄一対のこの剣には、ある呪術的な特性が備わっている。
干将と莫耶は、引き合うのである。
干将は莫耶の元へ。
莫耶は干将の元へ。
空中にあるのならば、物理法則を曲げ、軌跡を変えて、
つがいの相手の元へと、帰り来るのである。
それを、小雪はアーチャーより聞いていた。
それに、小雪は賭けたのである。
神宮寺まりもは、軍人である。
リアリストである。
故に、己の世界の理を信じて疑わなかった。
故に、もう一人の存在を信じて疑わなかった。
故に、まりもは誤った。
故に、小雪は生き延びた。
さわさわ。風に梢が揺れる音がする。
かさかさ。風に梢が揺れる音がする。
音は、それだけであった。
夜の森は、シンプルであった。
【場所:山地六合目・森林部】
【名前:高峰小雪(№43)】
【装備:なし】
【所持:なし】
【状態:全身に打撲と擦過傷(軽度)、魔力枯渇、令呪×2、気絶中】
【思考:知己保護、ジョーカー】
1)準を探し、保護する
2)知己と合流、保護する
3)ジョーカーとしての任務はアーチャーに任せる
※タマちゃん(スフィアタム)は島にはいないと思っています
※アーチャーから真名は聞いていません
※アーチャーの殺害数も自身の殺害数としてカウントします
※干将・莫耶は背後の木に突き刺さっています
=-=-=-=-= ・ =-=-=-=-= ・ =-=-=-=-= ・ =-=-=-=-=
【一日目・22:00】
ここがどこであるのか。憔悴しきった準には分からない。
小雪がどこにいるのか。疲弊しきった準には分からない。
今、準に分かることは僅か三つ。
樹木の疎らな地帯に入り、ある程度の視界が確保できたということ。
沢のせせらぎが聞こえるということ。
そして、追跡者の魔の手から脱したのだということ。
自分を追跡する者がおらず、
小雪が自分のそばにいないということは、
追跡者は小雪を追って行ったのであろう。
準は黙考する。
もし、小雪が追跡者に命を奪われたなら。
小雪が奪おうとしている十の命が、失われることは無くなる。
既に一人二人を殺めていたとしても、九か八の命は救われる。
でも。
だとしても……
(見捨てるっていうのは、アリなの?)
あの底知れない神秘的なの少女は、
底知れない神秘性を常に湛えてはいるけれども、
明瞭で確固たる、深い情を持っている。
仲間を大切にし、守ろうという意思を持っている。
だからこそ、おそらくは―――
今、自分が無事でいられるのは、小雪が囮となり、
恐ろしい狩猟者をひきつけてくれた為であろうと、
準は思っている。
仲間でもあり、敵でもある。
恩人でもあり、殺人者でもある。
どちらか一方の属性に決め付けることが出来ない。
故に、割り切ることができない。
(私、どうしたらいいんだろう……
ううん、どうしたいんだろう……)
結論の出ぬ思索にふける準の視界が急に、開けた。
目の前に、吊橋があった。
その向こうから、光が洩れている。
「誰か…… いるの……?」
準はその人工の光に堪らぬ懐かしさと愛しさを覚え、
ふらふらと誘われるかの如く吊橋に足を踏み出した。
【場所:山頂付近・吊橋 → 山小屋】
【名前:渡良瀬準(№62)】
【装備:ルールブレイカー】
【所持:なし】
【状態:左脇出血(中)、全身に打撲と擦過傷(小)、体力(中)】
【思考:暫定・非戦逃亡(雄真次第)】
1)あの光に近づく
2)小雪を救助すべきか否か、迷っている
※小雪と準の支給品(準の支給武器含む)は山頂に放置されています
=-=-=-=-= ・ =-=-=-=-= ・ =-=-=-=-= ・ =-=-=-=-=
【一日目・22:30】
再び、山頂にて。
まりもは、小雪と準が残したバッグを回収した。
その中身を確認し、用途に合わせて詰め替えた。
「これだけの食料があれば、十日は過ごせるか」
まりもはひとりごち、この殺人ゲームの攻略法と、
形を整えつつある己のスタンスを反芻する。
(このゲームは、殺し合いのゲームなどではない。
外殻はそのように見えるつくりだが、内核はそうではない。
生き残りのゲームだ。
多くを殺した者が勝つのではなく、
最後の一人として立っていたものが、勝つ。
殺せる機があれば、殺しておくに越したことはない。
しかし、自分の身を危うくしてまで殺す必要などはない。
もし、それをしなくてはならない状況があるとするならば。
次の三点くらいのものだろう。
● 自分ともう一人のみが、生存しているという最終局面
● 24時間に迫るまで死者が発生していない
● 団結した参加者がゲームを脅かすまでに膨れ上がる
そうでないのならば。
逃げればいい。
隠れればいい。
どの道、長期戦となるだろうから。
自分がこのスタンスを徹底する限り、そうならざるを得ないから。
故に、心がけるは。
よりダメージを低く、より体力を残し。
コンディションを保つこと。
● 一日に四時間以上の睡眠を取ること
● 一日に二度以上の食事を摂ること
● 衣服の状態を清潔に保つこと
● 適切な排泄をすること
● 物事を深く考えず、ストレスを溜めぬこと
生物として当たり前のことを、異常な環境下で
いかに徹底するか。
いかに環境を整えるか。
それが、大切だ)
まりもは考えを纏めると、次に為すべき具体案を検討する。
(では、次に成すべき事は寝床の確保だ。
誰にも見つからない場所、かつ、逃走の容易な場所を探さなくては)
樹上で眠る技術。
有り物で道具を作成する技術。
ブービートラップを作成する技術。
気配を消す技術。
人を殺す技術。
まりもは、軍人として必要なサバイバル技術の全てを身につけている。
適性が完璧に生かされる環境がここにある。
潜伏と回避に専念する限り。
この森の中をテリトリーとする限り。
まりもは、あらゆる脅威から身を守ることができるであろう。
まりもは、あらゆる難敵を屠ることができるであろう。
森に潜む悪魔の誕生である。
【場所:山頂 → 森林】
【名前:神宮寺まりも(№35)】
【装備:USSR スチェッキン 12/20】
【所持:USSR予備M×3、支給品一式×3(←高峰小雪、渡良瀬準)、
支給武器(←渡良瀬準)】
【状態:健康】
【思考:潜伏マーダー】
1)優勝して聖杯にBETAを倒してもらう
2)手詰まりになるまでは森林を出ない。深追いもしない。長期戦前提
3)他人との接触は避ける
4)余計なことは考えない。これは軍人としての「任務」と思うべし
※準の支給武器は現状不明
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最終更新:2010年07月13日 23:50