英語教師と委員長(仮)
――放課後、例の教室で。
それだけが書かれた、小さな紙。
フユキは生徒たちから集めたプリントの束の中に、その紙が挟んであるのを見つけ出した。
(またか……)
英語教師の彼は鼻の横をひくつかせながら目を閉じ、憂鬱そうにため息をつく。
もうこれで何度目だろう。こうやって呼び出されて、ほいほい指定の場所に行ってしまうのは。
数える気にもなれない。
いや、それより。
この小さな紙片のなんと無防備なこと。
提出物を集める喧騒の一瞬の隙を突いて差し込まれた「それ」は、クリップで止められているわけでも、
粘着性の物質を介して接着しているわけでもない。
ふとしたことではらりと床に落ちてしまっても不思議ではなかったのだ。
フユキは気が気でなくて、廊下を歩いているときも時々「落ちていないか」と振り返ってしまったくらいだ。
人前で見るわけにもいかず、職員用トイレの個室におそるおそる駆け込むまで、
その懸念はフユキに冷や汗を浮かせ続けた。
(いっそ、これはどこかに飛んで行ってしまったことにして、見なかったことにでも……)
紙片に書かれた言葉を解するから、憂鬱になるのだ。
見なかったことにすれば、精神的安静を得られる。
フユキは必死に思い込もうとする。
――不確かな手段で伝えようとする彼女こそが悪いのだ、と。
もてあそばれていると自覚しているから、あがく。もがく。
しかし、楽観に塗れただけの思い込みは、無理がありすぎる。
強制させているくせに、最後に選択する権利を持たせる彼女は生粋の狩猟者だ。
ほんの少しだけ隙を見せて「逃げられるかもしれない」という幻想を見せているだけだ。
そして逃げたところで追いつかれて喉元に牙を突き立てられて、怯え、震えることに変わりはない。
(でも、それでも俺は死ねない。永遠の追いかけっこをループする運命にあるんだ)
毎日のように体験させられる「死の間際」。
(その「死の間際」だけを延々と見せ付けられて、まだ正気を保てている自分を誉めたいくらいだ)
フユキはプリントの束を、滅菌された便器の蓋の上にそっと置き、
それからガタンと音をたてて背後の扉に背を預ける。
(なんで、なんで、こうなってしまったんだ……)
彼の心に鬱屈とした何かが溜まっていく。澱んでいく。そして、ヘドロのような感情が決壊する。
――ことん、と。
フユキが、自分の頭を壁に打ち付けた音は頼りなく、儚かった。
それこそがまさに「喰われる者」の「あきらめ」だと彼自身が認めるだけに、
それ以降、ひっそりとした職員用トイレに物音はなかった。
§ § §
「こんにちは、フユキ」
少女の声。
たったひとことの挨拶なのに、おしとやかで上品な雰囲気が伝わってくる。
指定されていた、人気の無い教室に足を踏み入れた瞬間だった。
(今日は最初から「フユキ」か)
呼ばれた方の彼は気力をすでに使い果たしたように、のろのろと顔を上げていく。
斜陽の黄色がかった紅をバックに、それでも色あせない朱色の髪。
腰のやや上まで流されたその髪は、どの毛先を見ても綺麗に切り揃えられている。
そして――。
朱色の三角に天を突く耳は猫科の物、尻尾も朱色の短毛でいかにも強靭。
そんな女子生徒は誰かというと、
キンサンティンスーユからの帰国子女、クラス委員長にしてピューマの娘――名はシュナ。
「はい、シュナ様」
教室の入口に立つフユキは、苦渋を隠そうともせず、そう返した。
「そのように怖がらなくともいいのですよ。どうぞ、こちらに」
一方、シュナは彼の苦しそうな態度を気にもせず、窓辺に立ったままだ。
さらりと朱髪を傾け、きらきらと夕陽を照り返しながら、すっと手を差し伸べてフユキを誘う。
逆光で、フユキは彼女の表情をうまく見て取れない。
眩しくて、見ていられなくて……目を外したとしても、夕陽がちらついて彼女の残像が離れない。
目の前に立ちふさがって微笑んでいるシュナという女子生徒と、
普段クラス委員長として皆の面倒を見てやっている女子生徒と、
どちらが実像で、どちらが虚像なのか。――一体どちらが、本当のシュナなのか。
「シュナ。もう、やめよう。こんなこと」
フユキはまっすぐ立っていられなくて、埃の浮いた机に手をつきながら声をかける。
彼の動悸は際限なく高まっていく。
『シュナ様』の許し無しに「シュナ」と呼んでしまったこと。
「教師と生徒」という関係を、二人だけのこの場に持ち込んでしまったこと。
その二つが、成人した男性であるはずのフユキをこうも狼狽させている。
(それでも、こんなの間違ってる)
爪でがりっと埃を掻き寄せ、恐れを封じるかのように歯を軋ませた。
「もう一度……確認をしないといけませんね」
声が、冷えた。おしとやかさが、変質する。夕陽すら遮る、冷徹さ。
「理屈が合わない。優秀な君らしくない」
「そうでしょうか。わたくしはそうは思いません」
「それに、君への借金は必ず返すと、言ったはずだ」
「しかし、貴方に全額返済できるだけの資産が、今、ないのは確かです」
「だからと言って、こんな強請りじみた……っ!」
すす、とシュナが滑るように、立ち並ぶ机の間をすり抜け、フユキの至近距離に出現する。
ヒトであるフユキには驚き以外の何者でもない運動性能だが、
ピューマであるシュナにとっては、持って生まれた能力を自然に使っただけだ。
「おやめなさい、フユキ。激昂するなど、わたくしの奴隷に相応しくありません」
「君の奴隷になるとは言った。誓った。これは変わらないし、俺も甘んじた。でも……」
ひっそりと交わされた、オレンジ色の教室だけが聞いた、二人のささやき。
そしてその「奴隷」という単語の物騒さに驚くには、立ち並ぶ机たちは無機質すぎた。
「フユキは優しすぎたのですね。でも、甘すぎる必要はありませんでした」
「それ以上言わないでくれ。連帯保証人を受けたのは俺の意志だ。そこまで君に言われたくは無い」
「あら、今日はどうしたのですか、フユキ。そのように強気で、勇ましくて」
「……ヒトだとしても、卑屈になる必要性は無い」
「ふふふ。ピューマだとしても、ヒトを玩具にする必要性はない、とでも?」
ひゅっ、とシュナが両腕を広げる。
タイを慣れた手つきで緩め、シャツの一番上と二番目のボタンを毟り取る。
「シュナ……」
「いいえ、フユキ。これよりわたくしを、そう呼ぶことを禁じます」
さらにシャツの襟に手をかけ、そのままゆっくりと、しかし有無を言わさず彼を窓辺に引きずっていく。
引きずられる彼も、さしたる抵抗を見せずにされるがまま。
……しっかりとその首に巻きついた革の首輪を露にされ、立場を否応なく自覚したことが、彼にそうさせたのか。
とん、とシュナが背中をガラス窓に預ける。
「下校途中の皆さんに見てもらいましょうか、フユキ。貴方のこの首輪を……」
自然と、フユキは外の光景を見下ろすことになる。
ヒトと人間が分け隔てなく通う、この奇特な学園の下校風景。
誰も二人がいる三階を見上げてはいない。しかし、徐々に遠ざかっていく夕陽に染まった生徒たち。
彼らは、何の前触れもなく振り仰ぐことだってある。
「シュナ……様。お戯れも、ほどほどに。私はシュナ様の奴隷に違いありませんが、
待遇の改善を訴えるくらいは許可されていたはずです。今は、それを行使しただけに過ぎません。
加えて……教師と生徒の関係をこの場に持ち込んでしまった点については、申し訳ありません」
フユキは彼女の大胆さに、保身を考えざるをえない。
目の良い人間なら、朱色の髪の女子生徒を窓辺に押し付けている、英語教師の顔が見えるはずだ。
「ええ。後者については、許します」
シュナはからかうように、フユキの首輪を何度も指で触れる。
それも縦方向に、彼の肌と、革の首輪との境を強調するように。
さらには、フユキの張り出した喉仏を軽く押し込むようにして、くすくす笑っている。
「ですが、前者については、許しません」
ぱちん、と音をたてて、首輪の上から指で弾くシュナ。
決して痛みはないにもかかわらず、窓下の光景を見ることしか許されていないフユキは、
一度ぴくりと肩を震わせた。
何か条件反射のようなものが、彼の身に刻まれているのだ。言葉を返すことができない。
「許さない」と言われて食い下がれるほど、彼は楽観主義ではなかった。
状況判断ができている。……もちろん、彼がそれを好んでしているわけではないのだが。
沈黙を保つ彼の代わりにか、こくりと唾液を飲み込んだヒトの喉へ向けてシュナは語り出す。
「仕方のないことではありませんか?
フユキが自分で制御できないのでしたら、主人のわたくしが御します」
「シュナ様が誤解されているだけです。私にそのような力はありません」
「嘘はおやめなさい。わたくしは知っています。
貴方は……わたくしの友人たちを虜にする香りを振りまいています。淫魔のような、ふしだらな香りを」
そこでようやく、シュナは彼のシャツの襟にかけていたもう一方の手を離した。
釣られるように、フユキの顎が下がる。
窓の向こうから近づき、すぐ下の朱い彼女へと当たる焦点。見つめ合った。
清楚で、慎ましやかな仮面の下に、ひどく冷たい気品を隠し持った朱い氷の少女。
主人ゆえの傲慢さで、奴隷の内心を無理やり暴こうと見上げている、鳶色の光。
大人びた妖艶さをも兼ね備えた、髪より朱い唇が……歪む。
「ですから、主人であるわたくしが責任をもって、貴方の精を常に搾り取り、その香りの元を弱めねばなりません」
そう、主人が突きつけた言葉は硬く、ゆえに揺ぎない。
ぞくりとした悪寒に、フユキの喉が詰まった。
首の皮が革の首輪に巻き込まれ、ぴりっと引き攣れる、その微かな痛み。
そしてすぐにもたらされる身の異変は、ピューマという肉食獣に睨まれた末に感じるものと、そう違わない。
死の間際に怯える、青ざめたヒトの唇も、歪む。
「私をそこまで……借金をかたに奴隷であると誓わせただけでは、到底足らないと仰るのですね」
そう、奴隷が呻いた言葉は、重く、ゆえに沈み行く。
いつの間にか斜陽はさらに傾き、薄紫色の夕闇が訪れ始めていた。
下校する生徒はさらに数を減らし、校舎に残る生徒はもっと少ない。限りなくゼロに近いだろう。
それでも、暗がりの増しつつある教室の窓辺に寄る二人のささやきの声量は、低い。
「そろそろ始めましょうか、フユキ」
「……」
「フユキ? お返事は?」
「……はい。シュナ様のご学友に害を為す前に、この、み、みだ、淫……くっ」
フユキはそれ以上、羞恥のために言葉を発することができなくなった。
その屈辱の単語で、自分自身を再び形容しなければいけないことに、彼は口ごもった。
胸元でじっと見上げてくる、鳶色の射るような瞳に気圧されて、記憶が蘇ってきたのだ。
「奴隷」宣言を強要されるとき即ち、フユキがシュナの許しを得られなかったとき。
その一切が去来した。
「みだらな、です。わたくしの、奴隷さん」
そして導くように、少女の声音で響いてくる言葉。促している。言え、と。
いくつも歳の離れた少女に命令されているという事実が、フユキを責め、苛む。
少し手を動かせば抱きすくめてしまいそうな格好なのに、立場はまるで逆。
仮に逆上して彼女を抱き込んでしまったとしても……それ幸いと喉元に突きたてられるに違いない、猛獣の牙。
ヒトであるフユキに対抗する手段はない。
それでも。
そうだとしても、抗わずにはいられない。
「Please forgive this obscene slave, My master」
(この淫らな奴隷をお許しください、ご主人様)
平坦な声は、フユキの内心に渦巻く感情を、何一つあらわしていなかった。
教壇に立っている時の、ぴしっとはっきりした声音ではなく、
「言う」という行為だけに単純化された機械のような音声。
しかし、気だるげな彼の中で、二つの眼だけが光を失ってはいなかった。
そして、奴隷のその眼つきが気に入らなかったのだろうか。
「……っ! フユキっ!」
シュナは抑えながらも、フユキのタイを掴み、強く手繰る。
「あ、貴方というヒトは、わたくしがかけた憐憫というものを理解していないというのですか。
貴方に残った最後の誇り……それでも教師を続けたいと、わたくしに訴えたのは嘘なのですか。
貴方の愛するもうひとつの言語でそのような宣言をして、貴方は何とも思わないというのですか」
シュナは我慢がならなかった。
略奪の限りを尽くしても構わないはずの奴隷に、「職業」というものを残してやった主人の裁量。
それを裏切られた気分だった。
「貴方はなんと、愚かな……」
最後の拠り所である「英語教師」の部分を使って、奴隷であると宣言したフユキが、許せなかった。
――しかし。
「はい。この「愚かな」奴隷をお許しください、シュナ様」
彼は自分を形容する言葉を、主人の口から先に訂正させることを目論んでいたのだった。
シュナは、フユキのタイを握る指をするりと解いた。
彼のその切り替えしに免じてやったつもりだった。
最後の誇りを盾にしてでも、守り通したのは、意地。
生気の失せたような顔をして、それでもなお光を庇うフユキという青年を、シュナは高く評価している。
こういった機転の良さを見込んで、彼の一切、全てを奪うことを辛うじて止めたのだ。
手からするりと逃げ出すタイを眼で追いながら、シュナは思い出す。
自分の心はこの男に、鮮やかに掠め取られてしまった。
彼の生まれた地にふさわしく、暖かくて、でもどこか切ない、春風のような笑顔に。
だから反撃した。彼から奪えるものは全て奪って、自分の物にしてやる、と。
自分の生まれた地にふさわしく、ひりつくように熱くて、でもどこか冷たい、狩猟者の笑顔で。
「良いでしょう、フユキ。続けましょう。貴方の精を絞り尽くしましょう」
その結果、たとえ彼から憎まれても構わない。
決して抜けない牙をこの男の喉に、一生、突きたてたままでいられるなら。
§ § §
フユキの目の前で、制服のスカートの裾がゆっくりと持ち上がっていく。
両端を上品に指でつまみ、見せ付けるようにして少女の太腿を露にしていく。
本当に奥まで見えてしまいそうなギリギリの位置でピタリと、動きが止まった。
「フユキ。紐を」
「はい、シュナ様」
フユキは少し屈むようにして、両手をシュナのスカートの中へと潜り込ませていく。
なるべく肌には触れないように。
シュナもまたフユキを手伝うように、スカートの端を広げる。
フユキの両方の指に、結んだ紐の端が触れる。
少し力を入れるだけで、それはするりと解ける。
このようなことばかり上手くなる自分に、フユキは気を滅入らせる。
その時ぱちり、と静電気が爆ぜるように、間近で二人の目が突然にかち合った。
一方が何かを隠すように、濁った眼を伏せる。
もう一方が、強気に切れ長の眼をさらに細めて彼を挑発する。
「フユキも、今日の学園最後はこれで締めたいのでしょう?」
「はい、シュナ様」
「……貴方はそれ以外、物を言えなくなりましたか」
「……最後も何も。夕食後、入浴中、就寝前、と、後三回控えておりますので」
「フユキも大変ですね」
「……失礼します」
解いた紐をゆっくりと引き寄せて、スカートの中から外に取り出す。
やわらかくて滑らかな生地がこすれる感触に、シュナがふっ、と軽く息を整えたのが分かった。
彼女の体温を色濃く残した下着はついに、フユキの手の中を真っ白に彩って収まる。
蜘蛛糸から紡いだらしい、その特別高価なサイドストリングのショーツは、
彼女の母親が経営する紡績企業関連のものだ。
シルクに近いが、強度と伸縮性が並外れているため、かなり凝ったデザインをとることができる。
それでいて滑らかな生地なのだから、非常に高価な商品にもかかわらず、いわゆる勝負下着として人気がある。
ようするに、この朱髪の少女は企業令嬢でもあるのだ。
……フユキの莫大な借金を肩代わりできるくらいの資産を持っていても何ら不思議はない。
ぱさりと、シュナは持ち上げていたスカートを下ろした。
彼の手によって外された自分のショーツを手早くするりと奪うと、
「咥えなさい、フユキ」
その彼にもう一度突き返す。
返事はなかったが、口で咥えさせているのだから、シュナに文句はない。
外の薄暗さに少しだけ意識を向けた後、手早く彼のベルトを緩め、ファスナーを引き下ろし、
スーツを少しずり下ろしながら、体重をかけて彼を背後の机に寄りかからせる。
このあたりの作業は、彼自身にやらせるより、シュナが主導権を握った方が手早くできる。
「フユキ。すごいにおいですね」
露になったトランクス越しに伝わってくる精の臭いに、シュナは眉をしかめて彼を見上げてやる。
嫌悪の表情を彼に見せてやることに、シュナはこの上なく昂ぶっていく。
そして蔑まれたフユキといえば、眼を逸らすことも、歯を噛んで主人の下着に跡を残すわけにもいかない。
彼はただ、上体を支える両手に力をこめただけだ。
指先が机に食い込む痛みは、やけに鈍く。
手の平の下でざらつく埃の不快さだけが目立った。
「これでは無理もありません。このにおいの強さならば、クラスの女子を惑わせて余りあります」
シュナは再びそう彼をなじり、俊敏そのものに動く。
左手を閃かせて彼の唇から自分のショーツを奪い返し、右手を蠢かせて彼の下着の隙間から男性器を引き出す。
すでに彼のそれは半ば勃ち上がり、そしてシュナの助けを得ながら、恥らうようにゆっくりと直立していった。
(一日でも出さず風呂にでも入れば、そもそも臭わない。出し続けてるから、臭うだけだ。今日だけで何回……)
フユキは言葉には出さずにそう反論するが、
彼女の細い指で、自分の屹立を一度だけなぞり上げられた感触に、ぞくぞくと肩を震え上がらせた。
さわさわと陰毛をくすぐり、もう一方の手で陰嚢を転がす……快感と呼ぶには淡すぎる彼女の前戯。
だが逆に、その熱い塊は期待を漲らせて赤黒く充血していく。
「シュナ様。お願いが」
「何か。フユキ」
シュナは冷たい一瞥を投げかけただけで、また作業に戻る。
今日一日身につけていたはずのショーツをふわりと空中から落とし、彼の腫れ上がった股間にかぶせる。
余った部分と、四本の細い紐も人差し指でくるくると回すように巻きつける。
フユキはその淀みない手馴れた動きをただ、茫然と見守る。
微かに冷えたがまだ充分温かい彼女の体温。
それをあざとく感じ取った彼の熱い肉は、くすぐったそうにしながら、それでもさらに張り詰めていく。
「どうか、使用後に再着用など、なさらないように」
「何故です。わたくしに、下着を穿かずに帰宅せよと?」
シュナの指が細い輪を作って、シャフトの部分を強く絞めた。
粘膜が内側から破れてしまいそうなほど、血液が集まる感覚がフユキを襲う。
少女の真っ白な布地に包まれていて見えはしないが、ここも紛れなく彼の一部だ。容易に想像できた。
「気が気ではないのです。もし、帰りに誰か同僚とすれ違いでもしたら」
「……残り香。何故に男性教師と連れ立って歩く女子生徒から、こうも精液の臭いが漂うのか、と。
そういうことですね、フユキ」
こくり、と彼は頷いた。
それは単なる彼の素直さなのか、それともまた何か企んでいるのか。
伏せた顔と日暮れの薄闇の中では判別できない。
シュナは内なる興奮と、嗜虐心とを同時に覚え……一刻も早く、彼の射精する時の顔が見たいと思った。
ショーツのストリングの先を指先に絡めて固定すると、
綿菓子器に差し込んだ割箸を回すようにして、彼のペニスを中心に、くるくると純白の下着をまわしていく。
意外と……男性というものは横の回転にも弱いことを、シュナは学んでいた。
「……ふっ。んっ」
その証拠に、抑えきれない彼の吐息。
「フユキ。今日はもう五度目だというのに、本当に……旺盛なこと……」
もっと、もっとそれを聞きたくて、シュナはフユキを煽る。
彼に羞恥を覚えさせるそのタイミングのとり方は、天賦の才。
ショーツに今度は彼の熱を写し取るように、しゅるしゅると滑らせる速度をさらに速めていく。
滑らかな生地なのをいいことに、たやすく上下の摩擦も混ぜていく。
「シュナ様の、おかげ、ぁ、かと……っ」
「いいえ。わたくしは貴方に、特別な何かを施した覚えはありません。
フユキが、射精しても、射精しても、あとからあとから精子を作るからいけません」
「でしたら……あっ」
円運動を続ける朱い少女の指がその運動の半径を縮めた。
フユキの恥部が、彼女の指のやわらかさを感じて歓びに膨れる。
布地越しではあるが、布とは段違いに確かな感触に、フユキは女性のように高く喘いでしまった。
そして言い訳でもするように、彼は喉を自分で詰まらせて低く唸った。
「私に、食事を作らせてください。長く一人暮らしで、味の方も……」
「何の心配もない」と、フユキは自信の一端を覗かせようとしたのだが、
「とんでもありません」
ひどく呆気なく退けられた。
「奴隷の健康管理も、主人の義務。それをむざむざ……奴隷に、毒を盛る機会を与えるなど」
「そんなっ、滅相もありません、シュナ様。私はただ……」
「ただ……?」
シュナはじっとりと睨みつける。
「……申し訳ありません。三食を保障して頂けて、私は大変に恵まれています」
フユキは観念したかのように声を潜めた。
「そうですか。それではまた、続きを」
奴隷の反応に気をよくしたシュナは、両手を使って彼を愛撫し始める。
周囲を回転する指の関節で、彼のくびれた部分を絶え間なくいたぶり、
もう一方の手でころころと、二つの精巣をこねくり回す。
ガタッと大きな音が机の足から響いて……彼の気持ち良さそうな吐息を、シュナは聞き損ねた。
朱髪の少女は両手をめまぐるしく動かしながら、顔を伏せた彼の前髪が揺れるのを見る。
その少し先。
青ざめていた唇は、血の赤を徐々に浮かせ始め、引き攣っている。
夕暮れの残光を反射して、表面に薄くのった唾液がきらめく。白い前歯が無防備に、覘いている。
――誘われている。
シュナの生まれ持った野性が疼いた。
「……っ!」
彼の驚愕と言ったらなかった。されてしまったと言うのに、逆にしてしまったかのように、わなないている。
キスくらいで、だらしない。
今のが初めてのキスだからと言って、何か特別だと言うのか。
ずっと、ずっと前から、彼の唇を喰らってしまいたかったのだ。今、たまたまそれが発露してしまっただけ。
「……ん、ちゅ。……これは契約です、フユキ。
わたくしが貴方の食餌を用意することに対して、このキスでもって、疑問を差し挟むことを封じます」
彼の唇と触れ合いながら、零距離で命令する。
くにくにとお互いの唇を捻じ曲げるその快感。
何度も啄ばんでしまいたくなる気持ちを振りほどき、
シュナは伸ばした首を戻すと、再び彼自身への愛撫に熱中する。
フユキも、ついさっきのシュナの内心と同じく、ずっと前から薄々と感じていた。
日に八回も射精してなお萎えない……その異常さ。
まず間違いなく、日々の食事に何か仕掛けをされているはずだ。
それはシュナが初めてのキスを許し、追求を恐れたことからも明らかだろう。
最善としてフユキが考えた「食事を自分で作る」案は退けられてしまったが、
彼女から引き出した「奴隷の健康管理は主人の義務」という発言は、
問いただしたかった確認事項の最低限を満たしていた。
――フユキは、シュナの自分への行為に、破滅の匂いを覚えていたくはなかった。少なくとも。最低限。
しかし、と。
フユキはだんだんと強まっていく射精の衝動を受けて、別の疑念を持ち始めていた。
この幾ばくかの安心感も、シュナによって操られているのではないか、という思い。
彼女と初めて会った時、あまりに変化しすぎる自身の状況に我を失い、
彼女の「奴隷」になることを誓わされた。
衣食住全てを差し押さえられ、フユキ自身の意志でさえ封じられそうになった。どん底だったのだ。
それから既に何ヶ月か過ぎ、いくつか妥協を引き出してはいる。
フユキなりに知恵を絞り、プライドの高い彼女の隙を衝いては状況の改善を果たしている。
だがしかし、その駆け引きすら、シュナという女子生徒の掌上だとしたら――
「フユキ。何かお話を。興が冷めます」
主人の声はいつの間にか熱を帯び始めている。
フユキは疑念を脇に置き、これ以上の粗相を犯さぬように彼女へと集中する。
「……はい。気づいておられるかと思いますが、補充しなければならない物が、んんっ!」
「そのまま。貴方はここが気持ち良いのは分かっています」
「はっ、ああ……ろ、ローションのボトルがあと二回分と見積もり、ました」
「ええ。すでに通信販売で注文済みです。夕食をとる頃には届くでしょう。
……フユキはどれもこれも、お気に入りですから。すぐなくなります」
さらにくすくすと微笑み始めたのは、シュナも興奮してきているからだ。
捕食者の笑い。それは元来、獲物を威嚇するためのものだと、どこかで聞いたことがフユキにはある。
そして、逃げられないと悟った獲物は一体どうするのだろうか。
ただ身を運命に任せるのか。それでも逃げようと抗うのか。
……果たしてフユキは。いや、彼の心は既に決まっている。
「シュナ様。もう、いけません。……射精、させてください」
運命に任せたのではない。
媚びへつらって、傲慢な捕食者の隙を坦々と狙うのだ。
「素直が何より貴いのです、フユキ」
ただ、ひとつ問題が。
驕った強者の思考は、弱者には読めないことの方が多い。
――鳶色の切れ長な瞳が沈み、朱色のさらさらな髪が、フユキの股間へと覆い被さっていく。
「シュナっ! シュナ様っ!」
「ここまで」の状況はフユキには想定外だった。
そのせいで一度だけ、禁じられた呼び名で呼んでしまった。
おそるおそる、彼は自分の下半身に眼を向ける。
「……ん。ふぅっ。……んく。んっ」
視覚で知っても、状況は変わらなかった。
シュナの頭が上下に、下を向いたまま小刻みに動いている。
それだけならまだしも、クモ糸で編まれた薄い布地でくるまれた自分の欲望から伝わってくる確かな感触が、
フユキの思考をガンガンと打ち続ける。
……何か特別な弾力をもつ熱が、さらに上からぴっとりと包み込んで、撫で回している。
「フェラチオというものは、意外とやりにくいものですね」
そして、いったん口を離して自由になった、シュナの朱い唇から洩れた言葉の意味するところ。
それが「もしや」と信じきれないフユキの思いを全て裏切っていた。
「……十分に、潤っていないからではないでしょうか」
一見冷静なようなフユキだが、口調は明らかに狼狽している。
「分かっています。これは、帰宅してから残りのローションを使って、試してみる価値がありそうです」
「シュナ様。どうかご再考を。
ご自身で仰ったではありませんか、ここは……私の不浄の根幹ではありませんか?」
「……構いません。おそらく、貴方が強い快感を覚えれば覚えるほど、射精する精子の量も多くなるはずです。
そもそも、わたくしはフユキの精を、余さず掻き出さなければならないのですから。不浄だとて、臆しはしません」
その時フユキが「食事に怪しげな精力剤を混ぜなければいい」と思ったのは確実だが、
もちろん彼の理性がそれをせき止めていた。
フユキは既に腹をくくっている。媚びへつらえる限界まで、耐える、と。
耐えて……彼は正気を戻した口調で主人に告げる。
「興が冷めてしまったでしょう。後は私が自分でします」
フユキは、埃がついてしまった指をシャツの裾で軽く拭ってから、
口唇愛撫のせいで少しほつれてしまったシュナの朱髪を、梳いて整える。
「わたくしを甘く見てもらっては困ります」
そして彼のしたいようにさせてはいるが、きっと鳶色の瞳で強気に睨みつけるシュナ。
「潤いならば。フユキ、貴方が自身で……ここからもっと溢れさせなさい」
きっと先走りの液のことを言っているのだろう。
シュナの指先が軽くトントン、と尿道口を小突いたことからも間違いない。
「あとは。主人たるわたくしが補います」
そして、何が彼女をそこまで惹きつけるのか、
シュナは再び、白く飾られたフユキの屹立に顔を寄せていく。
(もう、なるように、なれ――)
抗えるだけ、抗った。
フユキは観念し、すでに沈みきった夕陽の方角に一度だけ意識を向けた。
まだ陽の光は残っているが、それもじきに消える。
それまでに終えなければ後処理もままならず、彼だけが後で苦労するのは明らかだ。
少女の攻めに対して、彼女の言うように素直に受け入れることにした。
シュナはまず、両手を定位置に備える。
彼の性器……フユキを構成するもっとも大枠の二つをふわりと包んだ。
二つの丸い貯蔵庫を指先でいじりながら「白い液を残らず出せ」と脅しつけ、
焦らされた不満を、身を硬くして訴える射出管をしごきながら「好きなだけぶちまけろ」とおだてる。
フユキを奴隷に貶めてから、すでに日常となってしまった行為。
そして同じく日常と受け入れてきたフユキもまた素直に、蒸した熱を何度にも分けて、吐息に紛れ込ませる。
刹那、「その呼気はどんな味がするのだろう」と唐突にシュナは思った。
いけない。今日は、フユキを喰らいたくて仕方がないらしい。
そして自嘲的に内心で呟く。
何がそうさせているのかは分からないが、きっとそれは……フユキがいつにも増して抗おうとしているからだ。
その様がもっと相手を煽るだけと分かっているだろうに、フユキは止めない。
それが、この上なく美味に感じられる。むしろ、誘っている。
目の前で姿すらあらわさないにも関わらず、純白の布を剥いた向こうにある存在をほのめかす。
舌で実際に味わってみろと、身をわきまえない挑発。
巻きつけてやった白いショーツの天辺を、じわりと滲ませてきている、その汁気。
シュナの口の中に、じゅわりと唾液が溢れた。
次の瞬間には、フユキの先端を口内に収めていた。
フユキをなじる時に常に言う、ふしだらな臭いもその時は気にならなかった。
気づけば唇で、舌で、牙で、味わっていた。
当然、クモ糸のショーツからは無味しか感じない。
それでも唾液を染み渡らせ、その中身をいっしょに吸い取れれば分からない。じゅっ、とすすってみた。
フユキが何事か小刻みに喘いでいるが、勝手にさせる。
びくびくと怯えるフユキが喧しくて、両手の動きをさらに激しくして黙らせようとする。
フユキは唇を噛み締めたようだ。抑えきれない悦楽を、今度は鼻息にして荒げている。
少しだけ、満足する。息も絶え絶えでこそ、逝く間際によく似合う。
気分が良くなったせいか、密かに自慢の朱髪をくしゃりと掴んでいるフユキも、許す。
ようやく、唾液が馴染んできた。
本当に直に触れているような、錯覚。
もっと、もっと食べさせて、欲しい。フユキの最もおいしい所。
実際に食べたことはないが、布越しでも、こんなにも魅力的に実っている。
喉の奥まで飲み込まなくても、ちゅうちゅうとしゃぶるだけでこれほどに興奮するのだから、間違いない。
つい先刻まで指でしていたように、舌先でフユキをくるくると回してやる。
どうやらとても良いらしく、またさらにフユキが反り返る。限界まで、硬直する。
もうそろそろ、だろう。
フユキを咥えたままの口が笑みを抑えられなくて、少し隙間が空く。
フユキの汁気を溶け込ませた唾液が、こぼれていく。
慌てて口内の空気を肺に取り込み、フユキにさらに密着する。
果実から果汁を絞り取る行為にそっくりだ。
新鮮な果実をぎゅっと握り締めれば垂れ落ちてくる、その果汁のみずみずしさには感動すら覚える。
そうだとすると、女性がこれを男性にしてあげたくなる気持ちも、理解できる。
不味い、青臭い、と表現される精液を飲み込んでしまう愚行も、納得できる。
これは、愛しい男の、精髄。
さらにきつく、唇の輪を狭め、牙を甘く食い込ませ、舌で出口はここだと促してやる。
――どぐんっ。
とうとう、フユキは大きく跳ねた。抑えつける舌を吹き飛ばすように脈打つ。
つい吸い上げようとして、ショーツで覆ったままなのを思い出した。
それでも良い、とすぐに思い直す。
日常に、新たな行為が加わったのだ。これからいつでも飲み干せる。
「ご苦労様」と労わるように、精子を日々蓄える二つの楕円球を転がす。
「全て出し切るまでそのままで」と励ますように、精液を日々輸送する力強い幹を根元から押し上げてしごく。
薄い布の向こうで起こっている現象に集中すれば、ショーツを焦がさんばかりの熱量が、続々と噴出してくる。
射精直前とはまったく逆に、
口唇を使った愛撫で優しく、穏やかに、断続的な解放を出迎えるひととき。
フユキはようやく、忘我の深淵から自分を取り戻した。
「ようやく」と形容しなければならないくらい、
シュナの情熱的な一連の愛撫からもたらされた悦楽はひどかった。何より、気持ちよすぎた。
両手を使ったいつものそれとは異種。
何か別の生き物のように蠢く舌から責められた衝撃は、まだフユキの奥底に色濃く残っている。
「次」を求めて止まないほどに、残響している。
そして、酩酊感。
それも泥酔した次の日の二日酔と無縁で、浮遊感だけがクリアになった良いとこ取りだ。
ちかちかと瞬く視界の星に、フユキはつい馬鹿げた夢想を、止められない。
……これで、あの艶かしいシュナの口内に直に含まれてしまったら、一体どうなってしまうのか、と。
その時、ふわっとシュナ自身の芳香が湧き起こった。
覆いかぶさっていた上体をすっきりと起こしていた。
フユキが彼女の表情を見て取れば、ほう、と呆けたように軽く白い牙を見せている。
そして……頬にも飛び散ったような白色。濁った白色が一滴。
もうほとんど暗い教室に、その色だけが鮮やかに見えた。
とたんにフユキは羞恥を覚え、シュナに気づいてもらえるようなゆっくりとした速度で、
それを拭おうと指先を近づけて行く。
彼女の判断に任せる、というのはフユキがここ数ヶ月で覚えた最も重要なことだ。
鳶色の瞳が彼の指先へ焦点を合わせた。
そのまま、視線が注がれ続ける。
そっと、フユキは自分で出した精液の残滓を丁寧に一度きりで拭った。
シュナの視線の先も依然として変わらず。ついに、正面で彼の指先と白い雫と向き合う。
あ、と言う形にシュナの唇が丸く開いた。
む、と言うように、シュナの唇がフユキの人差し指を咥えた。
そしてくるりと指先を舐め取った少女の舌先。
「シュナ様……」
彼はどうにかそれだけを言うことができた。
すると、彼女ははっと瞬いたあと、ぷいっとフユキの指先を吐き出した。
「フユキ」
「はい」
「これは……美味しくありません」
柳眉をとにかく不味そうにしかめ、朱い唇を歪めているシュナの様子は、
フユキをして吹き出すように笑わせてしまうのに充分だった。
緊張をほどよく解いた彼は、手早くポケットタイプのウェットティッシュを取り出す。
「ははっ。美味しい……とでも思わせる何かがありましたでしょうか」
慎重に数枚をシュナに手渡し、フユキ自身も手早く支度を整えていく。
明らかに出しすぎの気がある下半身は、見るも無残にどろどろだった。
「体質……という線はありませんか、フユキ」
「はあ……私は今までゴシップの類でも、コレが本当に美味である人物の話を聞いたことがありません」
「そうですか」
そう言いつつも、シュナは何か思案顔だ。
教壇から見える、授業中の彼女の顔でもある。
優秀な成績を誇るだけあって、今、その裏で何を考えているのか。フユキには想像もつかない。
彼は一介の英語教師であり、あまりそちら方面に明るいわけではないのだ。
とにかくもフユキはびちゃびちゃになっているシュナのショーツを取り払って、色々と省略するが身支度を済ませる。
制服の上からもそもそとセーターを着込み、それから朱髪を一度打ち振って整えたシュナの様子を窺いながら、
フユキも秋用に調整したロングコートをスーツの上に引っ掛ける。
そして彼は思いついたことを言ってみることにした。
ふむ、とまだ考え込んでいる彼女がとても歳相応に見えて、可愛く思えてしまったのだ。
「シュナ様のご慧眼には及ばないと。重々承知しておりますが」
「何か。わたくしは今、切欠、というものを探しています」
「ありがとうございます。……仮に。仮に、のお話ですが」
「くどいですよ、フユキ。わたくしに二度、同じ事を言わせないでください」
「では。体質の改善には、食事療法という手段があるのではないかと、ふと思いまして。
……シュナ様はご自分で、私めの健康管理が義務であると仰った以上、如何様にしても構わないかと存じ上げます」
「フユキ……貴方また何か企んでいますね。言いなさい、はっきりと」
「貴女様からのキスを、もう一つ。さすれば、シュナ様が用意して下さる朝食も、昼食のお弁当も、夕食も。
それら全てに対して何の不審があろうとも、ご主人様の有難いご厚意であると。
怪しげな薬が混ぜてあるとは――」
そしてフユキはそれ以上、何も言えなくなった。
ふあ、と朱色のそよ風が、コートの懐に潜り込む。
シュナが、冴えない彼の代わりにと選んだネクタイを強く、大きく手繰れば、
フユキは辛うじて、彼女のほっそりとした腰を支える。
そして、月明かりが差し込みつつある夕暮れの末の教室で、二人はしばし一つだけの影を形作った。
「……これでよいですか、フユキ」
「ええ。さらなる忠誠を、というところでしょうか、シュナ様。それと、もうひとつだけ」
「何か」
「……シュナ様の、その、愛液、の方も、それほどに美味ではありませんので、ご心配なさるほどで」
「お、おお、お莫迦っ! フユキのお莫迦っ!
何もそのようなっ! 大莫迦者ですっ、フユキは! ああ、もう! お莫迦っ!」
それから、派手に机が動く音。
無機質かと思われた机たちも、この二人につい、吹き出してしまったようだった。