金剛樹の梢の下 幕間「ワルイユメ」
一面の赤い炎。熱気を孕んだ風は、話に聞いた事しかない砂漠のそれを思わせ。
古老の昔語りに聞いただけの想像の中のそれよりは、幾分か湿気を含んだ汐の香り。
炎を纏った梁が落ちてくる直前に、窓から逃げ出した緑の翼。
その腕に抱きこまれた、日光を照り返して黄金に光る翼。
その姿を、焼け落ちた天井に視界を塞がれる寸前まで瞳に焼き付ける私。
崩れてきた建物から庇うように、私の体を抱きこむ翼と腕。黒い二対の翼は母の物。
がっしりとした筋肉質の、灰黄の土ぼこりに似た色の羽根に包まれた腕と翼は父の物。
さらりと私の周囲を包む黒い真っ直ぐな髪。炎の加護を歌い上げる、母の細い声。
焼けた梁に半身を押しつぶされた父の呻き声。
その全てを炎から守ろうと、覆いかぶさる白い鱗。
飛竜の羽の隙間から吹き込んだ熱風が、息継ぎの為に母が声を途切れさせた刹那にまと
もに吹き付ける。
炎とまるっきり変わらない温度の風が、高く飛ぶには脆弱な咽喉と肺を、ちりちりと炙る。
激しく咳き込みながら、私の青い差し色の混じった灰白の翼ごと、強く強く抱きしめる母
の腕。
炎が放たれてから、どのくらい時間が経ったのだろうか。
母の願った通り、炎の中で、まだ生きている私。
炎に炙られ、ぶすぶすと煙を上げ始めた床に、体の下敷きになった翼が強く押し付けられ
る痛み。
がさり、と音がして、恐る恐る開いた目に映った光景。
私の視界の中で、ごとりと音を立てて落ちたのは、墨になった母の頭。
見るな、とでも言いたげに、私の頭を抱きこむ父の腕。
……まだ、生きているのか。私も、父も。もう、母は居ないのに。
炎に焙られ熔けた右眼が、どろり、と頬を流れ落ちる感触。
私は強く、力を込めて目を閉じる。その光景を否定するように。
質が変わる。からりと乾いた炎の熱気が、肌に粘りつくような湿り気と質感を伴った物
に。
ゆったりと全てを揺り動かしていた波が、私の体のみを揺さぶる律動に変わる。
上半身の所々を、何か柔らかい感触の物が撫でる。
くすぐったさから逃れようと仰け反らせた首筋を、何かがぬたりと這い回った。
背の下に敷いた翼が、一人分よりも明らかに重い体重を受けて柔らかい何かに沈み込ん
でいるのを感じた。
下が柔らかいお陰で、痛みは殆ど、ない。……翼に関しては。
私の両手は一まとめに、頭上に押さえつけられていた。
胎内に打ち込まれた楔によって、僅かな身じろぎすら許されない。
ずるり、ずるりと体の中で楔が蠢く。体を揺さぶる、リズムを生み出す楔が。
無防備な胎内を手酷く掻き回され、その苦痛に体が強張る。
楔に引き裂かれ、傷つけられた胎内から流れる血が、僅かに香る。
耳元に囁く声に、私は固く塞いでいた瞳を開いた。視界のすみに入るのは、淡い綿毛の生
えた両腕。
視界に飛び込んで来るのは、黒々と影に染まった翼。私の母の物に良く似た、だけど確
かに異質な存在。
頬や首筋を、私の白く色あせた髪とは違う、良く手入れされた黒い髪がくすぐる。
胸に、肩に、滴り落ちる夥しい汗の雫。
包帯に覆い隠された右目は乾いたまま、生理的な涙に濡れた、私の左頬。
長く伸ばされた髪が頬を撫で、寄せられて来る唇。
拒絶の叫びを上げたはずが、私の耳には届かない。
相手にはそれが聞こえたのか、したたかに頬を張り飛ばされる。
嗅ぎ取った血の臭いが急に濃くなり、口の中に鉄錆の味わいの何かが溢れた。
私を引き裂き続けながら、何が可笑しいのか笑い続ける。
私の鼻先をぺろりと舐め、血に染まった舌を、私に見せ付けるように伸ばしてみせる。
私の母に良く似た、だけど確かに別人の顔。
嘆息を一つ。私は全てを否定する為に、再び目を閉じる。
握り拳を二つ合わせたよりももう少し大きな塊に、狭い産道を無理矢理押し広げられる
激痛。
目を閉じ、再び開くまでの間、私を苛んでいた熱気は跡形も無く。
丸一日と少しを掛けて産み落としたそれは、瑕一つ、染み一つ無い、淡い空色のまぁる
いふたつの。
その色と模様……、いや、模様の無さは、私を絶望のふちに叩き落したのだけれど、そ
れでも。
私のたまご、私の赤ちゃん。
掴み上げ、床に叩き付け踏み拉いたその姿は。
ワタシトオナジ、顔ヲシテイタ。