鋼の山脈 三・黄金の海
終日、部屋から出ることはなかった。
元々個室であるため別室へ送られるということもなかったが、レムを含む他の者の出入りも禁じられ、修練に出ることも、工廠に行くことも許されない。
食事さえも味気ない保存食が部屋に運ばれるだけで、運ぶ係は口を聞いてはいけない決まりになっている。
レムはあまり多弁な方ではない。とは言え、喋らないことと、喋ってはいけないこととは大きく違った。
謹慎がどういうものか、知識として知っていたものの、これほどまでに気持ちを落ち着かなくさせるとは考えもしなかった。
剣を振ろうにも、若い戦士の個室の広さなどたかが知れている。自主的に運動して、筋力が衰えないようにするのがせいぜいだった。
寝台に腰かけて、沈む太陽によって輝く赤色に染め上げられていく空を眺める。
タワウレ氏族を訪ねた成果は、十分にあった。気付かない内にではあったが、精霊に会い、言葉を交わすことができたのだ。
そして精霊の加護を得られる精霊刻印。使い方は十分には把握していないが、贈られた意味はよくわかっている。
それらを、ビスクラレッドに報告に行くこともできない。
結局のところ、自分と精霊との感応はどうだったのか、結論は出ないままだった。タワウレ氏族では、あちらから語りかけてきたからこそ、うまくいった。
自分から語りかけた時、精霊は応えてくれるだろうか。
エリエザとガウロは、うまくやるだろう。タワウレに戻るのかどうかまではわからないが、ダバウもいる。
レムとしては、犠牲はあったものの、なんとかうまくまとまって良かったと思っていた。
謹慎処分は、その結末に安堵していたレムに痛棒を食わせた。
自分がうまくやれたと思い上がっていた、その足元を掬われた。何よりも大切にすべき、出身の氏族が、レムの行動に疑問を呈したのだ。
溜息が出そうになって、腹筋に力を入れた。臍下に意識を集中し、溜息を深呼吸に変化させて、吐き出す。
いっそのこと、尾を切られていた方がましだったのではないか、という気分さえ浮かんできたが、すぐに打ち消した。
何日目かの朝、乾燥した固形物を水差しで胃に流し込んでいると、部屋の外壁を叩く音がした。
来客は禁止されているはずである。
声を出せば際限なく喋りそうな気がして、応えずにじっと待っていると、扉代わりのカーテンが開かれ、歳長けた祭司の姿が現れた。
鼻筋の通った、きつい眼差し。どこか見下すような感じが、そうした刺々しい印象を与えるのだと、なんとなく思った。
「謹慎中だそうですね、レム」
ゼリエが、言った。
カーテンの向こうには、お供の祭司が何人か、きちんと整列している。
レムはやはり答えない。寝台の上で向き直りはしたものの、やや俯き気味の姿勢のまま、目だけゼリエに向ける。
下から睨み上げるような視線を受け止めながらも、動じた様子もなく、壁のようにゼリエは言葉を続ける。
「謹慎処分の期間を祭司としての修練に当てます。ここを引き払いますよ」
「待ってくれ」
寝耳に水だった。謹慎というのは、そういう扱いでいいのか。
「いったい、いつそんな風に決まったんだ」
「戦士として務めを任せられない状態ということなら、祭司としてであれば問題ありません。あなたの身柄は、こちらで預かります」
「そんな。父様は、なんて」
父と聞いた時に、能面のような無表情を決めていたゼリエの顔が、微かに動いた気がした。
「そもそも最初から、女は祭司になるのが当然なのです。希代の祭司の娘であるあなたが、精霊の祭りを何一つできないままなどということが見過ごせますか。
早くなさい。こちらの準備はすでに整っているのですよ。時を無駄にするつもりですか」
ゼリエは以前から、何かというと強引に物事を推し進めようとする。今回も、そんな空気を感じたが、彼女の言うことにも、元々一理あった。
謹慎も氏族の決まりなら、女が祭司だというのも、氏族の決まりだ。誰かが気を回して、この期間に、本来あるべき役柄にレムを就けてみようと考えることも有り得た。
そして、精霊と話ができたと言っても、精霊から実体を伴っての干渉があった結果である。
ああした騒乱がなければ、向こうから干渉が来るということもなかっただろう。こちらからの働きかけのみだったら、どうなっていたか。
自信なら、ちょうどがたがただ。
「必要な物は、すべて揃えてあります。あなたが持っていく必要のあるものは、何もありません」
ゼリエの細く吊り上がった目が、レムを見る。
「剣は置いて行きなさい」
本当は、捨てろ、と言いたかったのは、よくわかった。
ゼリエと祭司団に囲われるようにして進んだ先は、断崖城城塞部分の、祭司で使っている区画だった。
香と女の匂いの立ちこめる一角を、まるで連行されるように進む。奥まった一角の扉を、ゼリエが鍵を使って開いた。
祭司たちが、レムとゼリエを扉の中へ送り出す。
「彼女たちは、ここまでです」
レムが振り向くと、ゼリエの声が来た。
「この先は尖塔だな」
「そうです」
尖塔の噂は、戦士団にも伝わってきている。
ただし、お偉いさんの気に入らない者を押し込めておく所だとか、他者より厳しい修練を課すところだとか、真実かどうかもわからない、無責任なものばかりである。
一貫しているのは、皆良い印象は持っていないということだった。
だが、厳しい修練は、えてしてそういう先入観を持たれがちである。
レムが父に課せられた修練も、初めのうちは見かねた熟練の戦士が何人か止めに来るほどだった。
口さがのない女たちは、父がレムを虐め殺そうとしているとさえ言っていたらしい。
「ここは断崖城で二番目に世俗より遠い場所で、特に才のある者を住まわせて修練させています。あなたはこれから、ここで寝起きをします」
つまり、祭司団、少なくともゼリエは自分をそれくらい高く買ってくれているのだろう。
ただ、祭司としてのレムの評価点と言えば、母が優れた祭司であったということだけである。
これさえも、ゼリエの口から出たものだった。
「私にそんな才能はないかもしれない」
不安を不満に変えて投げつけると、扉の先に続いている螺旋階段に足をかけていたゼリエが、振り向いた。
射抜くような視線がレムを捉える。
「行きますよ」
それ以上取り合うこともなく、朝だと言うのに光もささない陰気な螺旋階段を上っていく。
しばらく上がっているうちに、なんとなく明かりが差し込んでくるような気配を感じた。
案の定、上り切った先に、小さな明かり窓があった。厚い扉の嵌った壁の前に、鉢植えの植物がある。
やけに冷えた空間だった。
「ここです」
ゼリエが扉の鍵を開く。
尖塔の頂上は、若い戦士に与えられる部屋より少し広い程度の、石材が剥き出しになっている一室だった。
大きな採光窓の傍に寝台が置かれ、衣装棚が壁に立ててある。
毛織の絨毯が敷かれている他は、卓すら置かれていなかった。
「精霊との感応を鋭く保つため、ここでは俗世との関わりを断ちます。無断で外出したり、許可なく外の者と言葉を交わしたりすることは許されません」
厳しいな、と思ったが、要は謹慎中と変わらない。
窓は、身を乗り出さなければ露地の様子もよく見えなかった。
周りを見回しているうちに、ゼリエが衣装棚から長衣を取り出してきた。
「今日は、今後についての話と、祭司としての立ち居振る舞いを教えます。扉の前にいますので、着替えを終えたらすぐに出てきなさい」
そう言って、ゼリエは部屋を出ていった。
窓を見る。
空が近い。確かに、霊地に似た肌を張り詰めさせるような気配が漂っている。
だが、それ以上ではない。
何か例えようもない違和感が、靴に入り込んだ砂利のように気になっている。
きっとタワウレに行く前、二人の精霊と話をしていなければ、その違和感に気づくこともなかっただろう。
「まだですか」
扉が叩かれる。レムが身動きしていない気配を察したのだろう。
慌てて長衣を手に取る。
そう言えば、ゼリエのことも、ひとつだけ引っ掛かっていた。
レムが自分に才能がないかもしれないと呟いた時の、あの視線には、ゼリエが普段他人に向けるような見下した雰囲気と、もうひとつ。
戦士として幾度となく馴染んできた感情が含まれていた。
ゼリエとは、祭司になるならないの押し問答ぐらいしか関わりがない。
だから、なぜ自分が敵意を向けられなければならないのか、レムにはまったくわからない。
長衣を帯で締め、その上に袖のない飾り着をかける。股下に布がないのが、妙に落ち着かない。
手首まで袖のある衣を着るのも、何年ぶりだろうか。
柔らかい布質ながら、女性的なラインをくっきりと描き出すような作りになっており、まだまだ成長途中かつ筋肉質のレムの体型では、不格好なのが自分でもわかった。
下ろしたての服の、やや肌に硬い質感も、そうした不似合いな雰囲気に一役買っている気がした。
レムの姿を見たゼリエの顔にも、まるでままごとのようだと、はっきり書いてあった。
ゼリエに連れられ、螺旋階段を降りる。祭具置場を抜けた先が、修練場だった。
戦士団の修練場は、自分から来る者の他に、世話焼きの先輩戦士に引きずられて来るなどして、取り立てて時間などは決められていない。
ここの修練場の中には、若年の祭司がおそらく全員、集められているのだろう。
声を揃えて謡いながら、ゆるやかに舞っている。
短鞭を手にした年長の祭司が間を巡り、舞の型を崩したらしい一人の腕を打った。
外に立っているレムにも聞こえるくらい、音が響いた。
「外の修練は、舞と謡と祈りです。今行われているのは、氏族の隆盛を精霊に示す舞です」
ゼリエの話声で気を逸らされた幼い祭司が、首筋を打たれた。
祭司に上がって、まだ何年も経っていないだろう。
外の修練という言い方について尋ねたかったが、動きがあれば中の祭司たちの修練を乱してしまう。レムは質問を呑みこんだ。
そのレムの横顔を見て、ゼリエは言葉を続ける。
「あなたにもあの中に入ってもらいます。型の基本は、身につけてもらわなければなりませんからね」
鞭のおかげで視線こそ向けられないものの、祭司たちがレムを気にしているのは見なくともわかった。
その場を離れて、未婚の祭司の私室が集まっている一角を横目に、上階へ上がった先に、少し階級の上がった部屋が連なっていた。
坑道を改修している戦士団の部屋は、出入り口は厚いカーテンだったが、こちらではきちんと木製の扉が使われている。
ゼリエは、そのうちの一室を指し示した。
「私は、普段はここにいます。ここと修練場にいなければ、家に帰っていますからね。同じ城塞内ですが、あなたは居住区画に来てはなりませんよ」
「ゼリエ、さっき、外の修練と言っていたのは?」
レムを見下ろして、ゼリエは鼻から息を吐いた。
「今は許します。口のきき方を知らないのであれば、そう言いなさい」
ゼリエのその態度では、元から抱いていた反発を再確認することにしかならない。
レムは、丁寧な物言いができないわけではないのだ。
「外の修練というのは、体の外に身につける、動作や技術などを鍛えるものです。対となる内の修練は、体の内にある魔力の引き金を起こす方法、
精霊と感応し語らう力を鍛えるものです。精霊と意識を繋ぐことは極めて負担がかかります。そのため、戦士とはまた違った厳しい修練を課すことになります。
やり方は、次の場所で教えましょう」
そう言って、ゼリエは階を下りていく。
先ほどの修練場とは別の方角へ進んでいった先に、さらに下る階段があった。
傍の棚にあるランプを手に取り、真っ直ぐな石段を下りると、広い石室が広がっていた。
壁に燭台と香炉がしつらえてある以外は、ひたすらに冷えた剥き出しの石材があるばかりの、広い部屋だった。
手燭の明かりでは、向こう側の壁がおぼろげにしか見えない。先程の修練場よりあるのではないだろうか。
微かに風の通る気配がする。ふわりと、鉄の匂いがした。
「ここは……」
「断崖城の地下、鋼の山脈たる精霊コーネリアスの、腹の内です。言わば二つ目の霊地――特別な修練や、外の環状列石で行えない祭儀を、ここで扱います」
外の霊地とは似ても似つかなかった。風が肌の感覚を鋭敏にすることもなく、ただ締め切った部屋の空気のよどみが漂っているばかりだった。
ここは、昏い。
「ここで昼夜を過ごす修練も、いずれ行います。心得ておきなさい」
こんな重苦しい場所で何を鍛えるのか、レムには見当もつかない。
タワウレでは、あの二人の精霊は、いともあっさりと声をかけてきたというのに。
夜が更け、外にいるのが夜戦修練中や不寝番の戦士ぐらいになったところで、レムはゼリエに伴われて外へ出た。
「祭儀は基本的に、夜に行います。余人の目があっては、祭儀が俗なものになってしまいますからね」
レムにとっては慣れた坂を上りながら、ゼリエは振り向きもせずに語り続けている。
「逆に、死者を葬るなり、家族の縁組なりの俗な儀は昼に行います。とは言え、こちらも縁のない者を受け入れることはありませんがね。ここまでは、知っての通りです」
祭司が祭儀を一手に引き受けているからこそ、戦士も工廠も食事係も下働きも、己の仕事に専念できる。
だがどことなく、祭司以外を祭儀に関わらせないやり方は、そうした分業の考え方とは違う場所に根があるような気がしていた。
霊地は相変わらず、鋭い冷たさを孕んだ風が吹いている。剣を振る時と同じ空気が、気持ちを落ち着かせた。
ぼろ袋のような老狼は、やはりいるはずもなかった。
「何を探しているのですか」
「なんでもない」
あまり大したことでもないと思ったのか、ゼリエはそれ以上聞き出そうとせず、環状列石の内側に歩を進めていった。
「こちらへ」
呼ばれて、同じように環状列石の内側に歩み入る。
環状列石とは言うが、腰掛けられる程度の盤状の岩や、レムの頭より少し高いくらいの岩の塊だったり、大きさはまちまちで、石柱が規則正しく並んでいるわけではない。
周囲の岩から、何か空気が集まってくるような感覚があった。
「空気が肌を緊張させるような感覚がわかりますか?」
「うん」
受け答えひとつにも、ゼリエの表情が動くのがわかった。
「では、坐の組み方を教えます。内の修練の根幹となる、最初の一歩となりますので、今日の内に身につけなさい」
ゼリエは、草地に腰を下ろして、胡坐のような足の組み方をすると、その上に両手を組んでそっと浮かせる。
「同じようにしなさい」
ゼリエの正面に回って、レムも同じようにしてみる。
それと感じさせない程度に、冷たい風が吹き抜けていく。
「体を風に溶かしなさい。胸の内、体の芯まで、外の空気に晒すように」
背骨が剥き出しになるイメージを、体中に満たす。体温が下がっていく。周りに何かいれば、すぐに知覚できるように、ひたすらに己を殺す。
右手を上げて風にそよぐように回転し、他の祭司と動きを合わせて振り向き、同じように今度は左。
舞踊中にも関わらず、指導役の祭司がつかつかと近寄ってきて、レムの二人隣に鞭を振るった。
革の鳴る音がする。
「腕が下がってきています」
「す、すみません」
歌がやむと同時に、円を描いていた舞踊も止まる。
レムより年上であるが、少しおっとりした印象の祭司である。怯えた顔で、鞭から遠ざかるように身を引く。打たれた部分を押さえることはしない。
みみず腫れになっているだろうが、叱責の際に痛む部分を押さえていると、真面目に聞いていないとされて、さらに打たれるのだ。
「新入りもいると言うのに、なんと無様なことでしょう。あなた一人の不出来のせいで、あなたの家族は精霊から加護を薄くされるでしょうね」
「すみません、すみません……」
「謝るだけなら幼子でもできるでしょう。まったく進歩のない……」
すっかり委縮しているにもかかわらず、指導役は、まだ小言を続けている。
さすがに見かねた。
「ちょっと待て」
指導役がレムに険しい目つきを向ける。だけでなく、修練をしていた他の祭司たちも、ぎょっとしたようにこちらに注目してきた。
「ゼリエから聞いています。あなたね。口のきき方のなっていない、礼儀も作法も知らない乱暴な出遅れは」
修練が始まってから、地位の高い祭司からずっと向けられていた、蔑むような目。
そして、抗弁したレムに他の祭司から向けられるのは、どういうわけか非難がましい気配を孕んでいた。
何かが歪んでいる。
「違うところを違うと言えば、それで終わるだろ。そんなに責める必要はあるのか」
「私たちはコーネリアス氏族の祭儀を一手に引き受けているのです。精霊の加護が得られるかどうかは、私たちの働き如何にかかっているのであれば、
些細な手落ちでも厳しく直すのは当然のことでしょう。その程度の責任感さえ、わからないのですか」
答えると言うより、不快感を理屈に包んで、そのまま投げつけてきたような印象さえあった。
「まったく、躾のなっていない。外で男どもに甘やかされていのでしょうけど、ここでは違いますからね」
さっさと戻れ、と追い払う仕草をされる。
「そうじゃない。直すのは当然だ。それを」
「早く戻りなさい。歌の一つも覚えていない未熟者が。こんなようでは、戦士団から追い出されるのも頷ける話ね」
一瞬、肝が冷える感じがした。僅かに動揺した表情を見た指導役が、かさにかかったのが見えた気がする。
「違う。追い出されてはいない。謹慎期間が過ぎれば……」
「謹慎をさせられている時点で、戦士団にも迷惑をかけているとは考えないの。聞けばあなた、私用で出掛けて行った先で面倒を起こして
わざわざ父親が出向く羽目になったそうね。自分の始末も自分でつけられない半人前が、結構なことね」
それを言われると、何も言い返せなかった。
よかれと思っての行動が、氏族の不利益に働きかねなかったのは、初めてのことだったのだ。
判断が甘かったという思いが、謹慎を言い渡されてからずっと胸の奥に重りのように居座っている。
気が付けば、周囲の視線もいつの間にかレムに対しての苛立ちを明確にしていた。
「早く下がりなさい。あなた一人が、修練の邪魔をしているのがわかりませんか」
元の位置に戻るしかない。
苦さを噛みしめる。
集団での修練が終わってから、祭司たちは話をすることもなく、さっさと修練場から引き揚げていった。
私語をしないようにあらかじめ言い付かっていたとは言え、異様な雰囲気だった。
そのまま待っていると、ゼリエが入ってきた。
「進歩がありませんね」
冷えた視線で言われるのも、もう何度目だろうか。
事実そうなのだから仕方がない。
舞踊も謡いも、修練の様子を見せられて、すぐに輪の中に放り込まれたのである。なんとかして動作は覚えたが、まだ全体からワンテンポ遅れているところはあった。
今日も初めの内から既に二度、抗弁してからは特に集中的に打たれた。
鞭より強い打撃に慣れているせいで、肉体的にはさほどつらくはない。他の祭司が疲れ切ってしまうような長い時間の修練でも、体力に余裕はある。
集団についていけない自分と、他の祭司から向けられる迷惑そうな視線が、心のどこかに入っているひびを、揺さぶって広げようとしている。
謹慎にされるまで、そんなひびなどなかったのに、今は一度の揺さぶりごとに、うかうかすれば自分がばらばらになりそうになっているのがよくわかる。
「戦士団では年長者への抗弁は認められたのでしょうが、その習いは棄てなさい。私たちには、私たちの律があるのです」
修練中のいざこざのことを言っているのは、間違いない。どこかで聞いていたのだろう。
「戦士団は、律を乱す愚か者は、刃の下で勝手に消えていきますが、私たちはそうはなりません。私たちの不手際は、精霊の加護を薄める結果になります。
技術の拙い者は、今の内に正してしまわねばなりません」
それでも、先程の指導役は狭量だと思えた。本当に注意だけが目的なら、ああまで責める必要があるとも思えない。
「ゼリエ」
「話を聞いていましたか」
みなまで言わせず、鉄扉を閉じるかのような、冷やかな言葉が返された。
「さあ、行きますよ」
次は、内の修練だった。
先導に付き従って、地下に降りる。
まだ日の浅い祭司には、それぞれに応じて精神を強く鍛える修練が組まれる。先程の集団も、何人かは霊地や他の修練場で坐を組んでいるだろう。
広さがあるにもかかわらず、圧迫感を覚えさせる石の部屋の中央で坐を組むと、ゼリエが香炉に香を入れた。
微かに酸味を感じさせるほのかな香りが立ち込めていく。不寝番の時に、眠気覚ましに使う香りと良く似ていた。
「今日は、一夜眠らず坐を組み続けなさい」
そう言い残して、ゼリエは出ていった。
燭台に火をつけていかなかったために、香が燃えるわずかな橙色が真っ黒い空間に浮いているばかりになった。
見張らないのかと思ったが、周りを見回せばその必要がないことがわかる。身を押し潰そうと迫ってくるような、どこまであるかもわからない膨大な黒い闇は、
そこにいるだけで気力を削り取っていくようだった。
坐を組み、背筋を伸ばす。目を開いていると、香の小さな明かりが目に入り、辺りの闇の重苦しさがはっきりと感じられてしまう。
目を閉じ、体の芯に意識を集める。肌に押し付けてくるような空気を受け入れ、体を闇に溶かすイメージをする。
微かに空気の流れが感じられた。もう少し意識を広げ、今度は石壁がどこにあるかを皮膚で探る。
尾が動く時に掻いた空気の重さまで、感覚が捉える。
ここまでは、五感の範囲でできる。
この状態になれれば、背後から斬りかかられても、踏み足が擦れる音と、纏った服が捩れ張られる音、筋肉の軋む音、微かな吐息が空を切る音が、それを知らせる。
精霊は、五感では捉えられない。
どうすれば、精霊を捉えることができるようになるのだろうか。いくら神経を研ぎ澄ませてみても、感覚に触れるものは何もない。
香の火が消えた。辺りが闇で満たされる。
精霊を感知する糸口も掴めないまま坐を組んでいるうちに、次第に集中が途切れてきた。
気分を紛らわそうにも、目を開いているのか閉じているのかもわからない。鋭敏になった感覚が、新しい環境に入ることで溜まっていた疲労を明確に把握してしまった。
耐え切れずに坐を崩した。その場に大の字に寝転ぶ。
解放しすぎた五感が、すっかり鈍くなっていた。石の床に触れている部分も、暗闇の圧迫感も、区別がつかなくなってきていた。
石床が体温と同じになったところで、どちらが上かもわからなくなった。
溢れだした疲労で鉛のようになった手足を振り回しても、感覚がほとんどない。
香のせいで、眠ることもできない。脳が破裂しそうになっている。
石室が、突然切り裂かれた。
細く切り込んできた激しい何かが、レムの頭にも刃を食い込ませる。喉を叩き潰したような悲鳴が出て、斬られた部分を押さえて転がる。
刃の方へ背を向けても、まだ鋭い痛みが頭を苛んでいる。
「何をしているのですか」
ゼリエの声がして、ようやく自分の置かれた状況を思い出せるようになってきた。
散らばった記憶の断片をまとめる作業は、ぶちまけられた自分の脳をかき集める作業に似ていると思った。
ぐっと閉じた目を、恐る恐る開く。細く開いた目蓋から差し込んでくる灯の明りが、剣のようだった。
「どうやら、坐を組み続けることはできなかったようですね」
少しずつ目を慣らしていく。斬られたと思った部分には、傷も出血もなかった。
一睡もできなかったせいで、全身に疲労が重苦しくのしかかっている。頭も体も別物のように重い。
まるで力の入らない腕をどうにか突っ張り、体を起こした。
戦士の頃にも夜戦はあった。二晩眠らない修練も、一度だけしたことがある。それに比べて今日のものは、あまりに疲労が激しすぎる。
「早く起きなさい。朝の修練が始まりますよ」
ゼリエは、手燭を持ったまま、レムが立ち上がるのを待っている。
何が得られたのか、などは一言も尋ねない。
「ゼリエ」
「何ですか」
「何も言わないのか」
呆れたような視線が、レムを冷やかに射抜いた。
「まずは一夜を坐で過ごせるようになりなさい」
つまり、初歩以下ということだった。この疲労感は何なのかを問いたかったが、自分の未熟を言い訳するように思えて、呑みこんでしまった。
立ち上がって足を動かすと、筋肉から冷たい汗が体力ごと滲み出ていくようだった。
外に出ると、地平線が白みつつある時間帯だった。不寝番が早起きしてきた朝番に交代している頃だろう。
高山地帯の冷涼な空気が、体温を削り取っていく。
ゼリエの後について、奥の扉を通って尖塔の螺旋階段を上る。
「今日の日程は通常どおりです。夕刻からの修練も行いますので、気を弛めぬように」
声を背で受けながら、尖塔頂上の部屋に倒れ込んだ。
食事は、いつも決まった時間に運ばれてくる。
このまま寝台に倒れてしまいたい気分だったが、そうなれば今日の修練に間に合うか、わからない。
腕に爪を立てたり、唇を噛みついたりしながら、どうにか気を持たせる。
その日の修練は、散々だった。
議場の満座に、白々しい空気が広がっていた。
議長からして、議事に熱が入っていない。皆が、当面の問題を先送りにして、事態が勝手に収束するのを待つつもりであった。
くじ引きで今日の議長に決まった議員が、咳払いの後、声を張る。
「本日の議題は、謹慎期間中に宿舎から姿を消したレムについてだが」
公的な催事に出ず、私的な交流も断ち、ひたすら部屋に篭って行いを反省する。それが謹慎である。
部屋を出るだけでも咎められるに十分だ。
「謹慎期間中に出歩いた例は、過去にあったか」
「ほれ、ヴァウリがそうだったろう」
「お、そうだな」
「どうだったんだ、その時は」
「戦士格剥奪の上、禁固刑になったな。外に出てきてから、ふいとどこかへいなくなったぞ」
「流れ者になったか。どこぞで野垂れ死んだろうな」
普段通り、めいめい勝手に話を始めている。なにはともあれ、周りと雑談することで、ある程度話をまとめるのである。
「ならばレムも、とっ捕まえて部屋に鍵が妥当か?」
「レムは今どこにいるんじゃ」
あまり大きくない声だったが、その声の孕む意味は喧騒を静まりかえらせるのに十分な重さを持っていた。
誰もが、続きを口にするのにためらいを感じている。
断崖城は、それほど広い所ではない。氏族の中では各々が、大きな家族集団ほどに親しい関係にあるのだから、他者の居場所など、さほど時をかけずわかる。
ここに集まっている長老議員たちなら、妻や娘から聞いているだろう。
「糾弾するのはレムか、祭司団か」
眉間に皺の後を刻みつけたマダラの老人が、歯の隙間から押し出すように言った。
マダラではあるが体格はしっかりしており、その実力も長老議会の議席が証明している。
短く刈り込んだ髪に乗った耳は、狼に珍しく、伏せるかのようだった。しかし、その印象は垂れ耳の犬によく見る柔和さではなく、低く構えた剣客のそれである。
マダラの上に、短い髭を生やしているために年齢がわかりづらいが、最年長の一人だった。
「レムはどうなのだろうな。自分から祭司に働きかけたのであれば、追加処罰もやむを得んが」
彼の辛辣な舌鋒を知っている議長が、素早く口を挟んだ。議論の流れを作りつつ、彼の刺々しい言動が空気を悪くしないようにとの気配りである。
それと察した議員たちも、再び討論を始めた。
「日頃から祭司になりたくないと言っておったぞ。連れて行かれたのではあるまいか」
「だが精霊がどうとかとも、なあ。餌に釣られた可能性もなくはなかろう」
「有り得るな。レムもまだ子供だ」
ふと、議席の片隅に視線が向く。腕を組んだ鎧姿の黒狼が、いつもの通り無言のままじっと座っている。
表情から何を考えているか、相変わらず窺い知れない。
「あやつの子だ。謹慎を破ろうなど、余程の理由がなければ考えるまい」
「だが破ったのは事実だな」
「丸め込まれたか」
「レムはともかく、手引きした者はどうするべきかの」
また、議論が中断した。
誰がレムを連れて行ったのかは、明白である。
それ故に、この問題の解決が極めて難しいことも、誰もがわかっていた。
「女どもをやたらと刺激するのは避けた方が良かろう」
「若い娘ならあれこれ刺激したいんだがのう」
「おい、妻帯者」
「真面目にやれ」
「助平め。嫌われるぞ」
「むしろ嫌われろ」
「品性を疑うわ」
「貴様の妻に告げ口してくれよう」
「貴様の娘にあることないこと吹き込んでくれよう」
「貴様の孫を菓子で釣ってくれよう」
「お、おのれら……」
「なんにせよ」
マダラの長老議員が、再び唸る。
気難しさゆえの苛立ちもあるが、一向に正面から取り組もうとしない一同を威嚇する意を含んでいる。
「我らが取り決めた謹慎を破ったのは、女どもの働きかけが発端だ。この一件、処罰を追加するのであれば、女どもを捨て置く道理はないぞ」
辺りを、じろりと見渡した。
「まあ待て、ガルマリウド」
手をあげて制したのはパルネラである。
「誰もが先を言いたがらない理由はわかっておろう。突き詰めすぎれば、わしらと祭司団が険悪になる」
「なるならぬは問題ではない。我らの規範を無視したこと、正さぬままにおけるか」
「最悪の場合、氏族を二つに割る騒ぎになるぞ。友邦にも示しがつかん」
「だから野放しにすると? 氏族の内での無法を捨て置くことの何が、友邦に示しがつくのだ」
「のうガルマリウド、女たちを敵に回して、どうやって収拾するつもりだ? いくら貴様でも、同じ氏族のろくに戦えぬ者相手に剣を抜くなどとは言うまい」
「そうやって耳目を塞いで知らぬ顔をするから、女どもがつけあがるのだ。今までとて、剣を抜いてでも、行いを正すべきであったのではないか。
それが為されなかった結果がこれよ。それとも、嫁に金玉を握られている身では武器も取れぬか」
「何と言った」
「まあまあ二人とも。座れパルネラ」
椅子から立ち上がったパルネラの鼻先を、ディエルが抑える。二人の席の間に他の議員が多いこともあって、にらみ合って終わった。
パルネラが穏健派の代表格なら、ガルマリウドは武闘派の首領格である。事あるごとに、こういう光景がよく見られた。
この二人がよく罵り合いになるのは、思考の違いと言うよりも二人とも偏屈だからという理由の方が大きい。
余計な気を回すのがうまいと評判のディエルは、それをよく分かっている。
「二人の言い分もよくわかる。だが、決定には現実を見て下すことが大切だ。謹慎こそ議会決定だが、元々はレムの私事から始まった件だしな。
ここまでも家長裁量でうまくまとまっていたのだ、ここはひとつ今回も家長裁量に任せるというところでどうだな」
集会場の議員の何人かが、溜息をつきながら頭を振った。処罰決定をよりにもよって当事者の家族に振るなどと、なんとも酷な話ではないか。
気が効く割に、もうひとつ痒い所に手が届かないのがディエルである。
同情を含んだ視線が、集会場の端に集まった。
黒狼が、音もなく立ち上がった。
「そもそも謹慎になったのは、その振舞いがコーネリアスの戦士として不適当であったとされたためだ。だから、戦士としての行動を制限し、身を慎むことが求められた。
娘が祭司団でどのような扱いを受けているかは知らないが、姿を見ないことから察するに、戦士としての公務・私事双方を断った状態には、変わりがない」
祭司として活動しているが、戦士としての謹慎と同様だから、現状は問題はないという論法である。
パルネラは腑に落ちない顔だが、何も言わなかった。
「謹慎期間中は現状に任せる。謹慎が終わり次第連れ戻し、戦士格に復する」
反対意見を述べる者はいない。謹慎破りの事実関係はレムに確認する必要があるものの、祭司に連れ出された事実がある以上、
そちらを放置してレムを罰するのは片手落ちである。あまり強硬な対処を主張しても、火中の栗を拾う羽目になりかねない。
発言なしと見て、議長が口を開く。
「特に異存がないようであれば、それで決定としよう。謹慎期間の残りは四十一日。連れ戻す役は……」
「それではパルネラの弱腰と大差ないではないか」
「お前の血の気が多すぎるのだろうが、マダラ野郎め」
声を張り上げたガルマリウドに、パルネラが猛然と抗議する。
「強く出りゃ綺麗に片付くってわけでもねえじゃねえか。氏族を二つに割るわけにはいかねえんだよ」
「四、五人斬り捨てりゃ終わるような楽な話じゃないだろ、落ち着けガル爺」
パルネラに同調するような野次も飛ぶ。顔の皺をますます深めたガルマリウドが、吼えるように叫んだ。
「娘が嫁の後を追うぞ、ジグムント」
瞬間、今度こそ死の静寂に似た静けさが集会場を包んだ。
発言したガルマリウド自身、はっとした表情で勢いを失った。何者かへの恨みのこもった表情で、歯を噛みしめる。
「何を言いやがる。もう座っとけ」
立ったまま死んだ戦士が倒れるように、眼前の虚空を睨みつけたまま、ガルマリウドは席に座った。
「……ああっと。謹慎期間終了後にレムを連れ戻すのは」
間に耐え切れないとばかりに、議長が言葉を押し出す。
周囲の視線が、集会場の片隅に集まる。
「私が行く」
黒狼は、短く答えた。
鞭の数は、日増しに多くなっていた。
指導役たちが明らかにレムを目の敵にしているのは、なんとなく察せられた。
人より多い修練に毎日疲れ果て、体が次第に鈍っていき、鞭の一打ちが芯に響くようになりつつある。
じっと指導役からの圧力に耐えている周囲の祭司たちに、自分の挙動がだんだん似てきているのを感じていた。
同じ境遇の、年若い祭司たちは、指導役の目を盗んで宿舎のあたりで少々は言葉を交わしているようだが、尖塔に隔離されたレムはその余裕すらなかった。
「聞いていますか」
「はい」
おぼろげになった意識で鞭を受け続けているうちに、反射的に返事をして、姿勢を正す習慣がついてしまった。
レムに教育の成果が実ったのを見た瞬間、指導役が満足げに口の端を歪めたのが見えたが、反抗心を外に出す気力は振るえなかった。
「姿勢の崩れは、気の緩みがもたらすものです。私たちは特に、氏族の安寧を保つという重役を担っています。常に襟を正しなさい」
言われて、襟元を引きしめた。他の祭司に混じっての修練であれば、首筋に鞭を受けているところだ。
レムは、例の地下で数本の灯に照らされながら、ゼリエと向かい合って座っていた。
二日に一度、修練の代わりに講義が行われる。職集団に上がる前の家族内で行われるものや、職集団でも引退した者が請け負う語り聞かせなどがあり、
語り聞かせには歴史や文化、他氏族他種族の話などの普遍的なものの他に、その職集団専門の講義がある。
戦士団での講義では、祭司団の講義を代替し切ることはできないのである。
相変わらず重さを感じさせる地の底の闇は、明かりと慣れた人間という支柱を得るだけで、かなり空気が変わっている。
ゼリエが鞭を持って現れることは、ない。
それどころか、ゼリエが修練場に姿を現すと、指導役たちさえ緊張感を漂わせ、ゼリエの一瞥を受けていた。
彼女だけ、雰囲気も一線を画していた。
「他種族で魔法と呼ばれる技術は、この地においては大きく力を減じます。これはなぜですか」
短いながらも、考える時間が与えられる。精神的にも肉体的にも疲労の溜まった状態で知恵を絞るのは、一苦労だ。
「精霊がいるから……?」
「精霊が、魔法を減じるにおいて、どのような干渉をするのですか」
答えられず黙っていると、口調を変えずゼリエが言葉を続ける。
「魔法使用の際の魔素への干渉は、精霊への干渉と同じことです。意志持つ魔素たる精霊が、不心得者の手出しを嫌うのは当然のこと。
それが氏族を傷つけるためのものであれば、なおのことです」
「それなら、氏族が成立する前は」
「二千年前の国境線策定前からも、自然精霊信仰は存在しました。氏族と精霊の関係は、その延長に過ぎません。
そして、内なる魔素を呼び起こすことに不向きである私たちにとって、外なる精霊の力を借りて神秘を起こすことはとても相性がよいのです」
「へえ」
「精霊とは、土地と、空と、祖先を知り、またそれらとのつながりを体現しています。ですが、精霊を祭り加護を得ることは、私たちが拠って立つべき礎を
得るためだけではありません。コーネリアス氏族とその友邦の持つ実りを狙う、他の氏族たちも、そうした加護を得て、私たちに立ち向かってきます。
さらには、力を増し続ける猫や狡猾な狐、私たちが抑えねばならない忌むべき兄弟たる犬に抗するためにも、精霊を祭り加護を得ることは大切なのです」
己の内側から働きかけて強大な魔法を行使するより、超常能力を持つ何者かの力を活用することが向いているということか。
思い起こせば、先輩の戦士たちから犬国の魔剣の話も聞いたことがある。あれも、他の力を借りる点で、精霊と同様に扱えるのかもしれない。
となると、戦士として、気になることがあった。
「じゃあ、国境から出たら、魔法相手には対策がない、ってことか」
呟くともなく質問を発したレムを、ゼリエは呆れた様子で見下ろす。
「そうであるならば、狼が他国でも傭兵として重宝されることはないでしょうね――その前に、あなたは祭司になるのですから、あなたが気にすることではありません」
釘を刺すような言葉を、なんともなしに聞き流した。
「なあ、ゼリエ」
向けられる視線は、相変わらず冷たい。言葉遣いが男社会のままなのが原因だとわかっていたが、丁寧な口調に直ったところで
ゼリエの視線が温かい物になるかどうかは、正直なところほぼないだろうと見当がついていた。
「精霊が祭儀を喜んでるかどうかってのは、どうやってわかるんだ」
「どういう意味ですか」
「もしかしたら、それ以外のやり方でも十分なのかもしれないじゃないか」
タワウレの祭儀は、ここほど修練を積んでいるという印象はなかった。
精霊の違いはあるかもしれないが、それほど厳格である必要はないのではないだろうか。
「二千年をかけて、先達たちが積み重ねた技法です。それが無為だったと?」
それ以上の追及は、できない。どちらに転んでもいい結果にはならない、口に出すべきでない意見である。
ゼリエの表情に、微かな怒気が浮かんでいる。
「ひとえに氏族のため、精霊のためを考えて手を加えられてきた祭儀の作法です。すべての祭司が修練し、身につけるもの。
疑念があるのならば、すべてを習得してからになさい」
怒りはすぐに、潮が引くように消えていった。
目の前には、元通りのゼリエの冷やかな貌があるばかりになった。
「私たちは、精霊と語らう役を一手に引き受けています。すなわち私たちの働き如何が氏族の動向を左右する、重責を負っているのです。
そのことを弁えて、十分に修練に励みなさい。今なすべき事柄を、見誤ることのないように」
続けますよ、と告げて、ゼリエは精霊と氏族の結びつきが断たれた場合についての講義に入る。
ゼリエが言っていることは、指導役たちと同じである。
が、ゼリエは鞭を持たない。
現役を引退して後進の指導にあたるくらいの年齢になると、わざわざ職集団の食堂で食事をする必要はなく、
若い家族たちに囲まれながら、割り当てられた住居で生活する者が多い。
そうした年寄りたちが集団の場に現れるのは、知人に会うためか、引退者の義務として若者の指導に当たる時か、ぐらいのものである。
その日は、既に議会最年長であるにも関わらず、食堂の片隅に座る歳老いたマダラの姿があった。対面に座しているのは、群青色の鎧の黒狼。
普段にも増して、その一角に近づく者はいない。無言の脅威であるジグムントと、言葉が的確に急所を突くガルマリウドの組み合わせは、もはや現実的な脅威である。
「謹慎明けまで待つこともない。今すぐに詰めかけて、連れ戻して来い」
二人の間には、食器はない。
椅子に深く腰掛けたジグムントに向って、眉間の皺を深くしたガルマリウドが、身を乗り出すように唸っている。
「おれとて、レムは惜しい。気に食わんが、さすが貴様の子だ。おれの塵芥のような息子どもとは、出来が違う。
あんなところにレムを長く置いておけば、腑抜けにされるかもしれんのだぞ」
聞き耳を立てていた周りの狼たちが、微かにざわめいた。ガルマリウドから褒める意味での「さすが」という単語が飛び出すとは、誰も思っていなかったのだ。
「貴様も知っておろう。祭司団の、あの犬の腐ったような従順さを。部屋に押し込められて、覇気を失い、牙を抜かれて、
命じられるがままを繰り返すだけの、狼たる矜持を忘れた無様な生きざまを」
元々良く通る低い声のガルマリウドに正面から凄まれて、たじろがない者はそうそういない。
ジグムントは、身動きもせずじっと老マダラの熱弁に目を向けている。
「女どもは何も変わっておらん。頭を使っておるのは、我らと張り合うことしか考えておらん腐れ婆どもばかりだ。
愚物に鞭で追われる犬畜生の集まりのままで、氏族の誇りが何たるかなど考えもせん。このままでは貴様はまた蚊帳の外だ。レムに何かあっても知らされんぞ」
切り札でもあるかのように言い切り、ガルマリウドはジグムントの様子を窺う。
一向に火のつかない黒狼の姿に、老マダラは音が響くほどに歯噛みした。
「あの時なぜアルバレラを斬り捨てておかなかった。あの婆あが天寿を全うしたせいで、腐った組織が十全のまま継がれてしまったではないか」
言う本人も、ただの繰り言であることは承知していた。だから、ジグムントは応えないのだろう。
そして対処を決めてあるなら、軽々しく動くべきではないと、ガルマリウドとてよく分かっている。
ジグムントが娘を可愛がっているということは、皆が知っている。だから、この状況になって一番苦しいのはジグムントなのだと、誰もが理解している。
だからこそ、謹慎が解けるまで何もしないと決めた、この剛剣以外まともな取り柄のない不器用者が、歯痒くて仕方がないのだ。
「もう良いわ、木偶の坊め」
マダラ故に小さめの体格が、椅子を蹴って立ち上がる。
頭一つは大きい狼たちが慌てて道を開ける中を、目に見えるほどの憤りを放ちながら、ガルマリウドは肩を怒らせて食堂を出ていった。
間もなく、昼食の時間帯も終わりに差し掛かる。ジグムントは、じっと座っている。
中堅戦士としてそこそこの年齢になり、それなりの戦績も上げており、結婚して子供も出来、住居をもらった。
とは言え自分が今まで暮らしてきた家族の住居を分けてもらう場合が大抵であり、ドオリルの住居も、石壁一枚隣が父母の住居である。
断崖城も、そろそろ手狭になってきている。何代も前から、遣わされた戦士が友邦の娘を気に入った場合、そこの氏族に入ってもよいとされていたが、
山林を切り開いてもうひとつ集落を作り、いくつかの職集団を移すべきではないかという話が、そろそろ本格的に検討されつつあった。
とりあえずドオリルは、折角同居できるようになった家族と離れるのは嫌だなあ、という程度にしか考えていない。
「ウルミは元気でやってるかなあ」
ふと、賄い方についた娘を思い出して、誰にともなく呟いた。
戦士や祭司ほど厳しく義務付けされているわけではないものの、他の職集団も家族を離れて集団生活を行う。
夫の独り言を耳聡く聞きつけた、恰幅のいいケダマの妻が、鷹揚に答える。
「そんなに気になんなら、見に行ったらどうだい」
「馬鹿言え、そんなんできるかい」
月に一度は行われるやりとりであった。
竹で編まれた寝椅子に、仰向けに転がっていたドオリルが、その場で寝返りを打って妻を見る。
「そんで、どうなんだレムは」
「あたしが面倒みてるわけじゃないけど、結構叩かれてるね。あんたの話聞く限り、グズじゃないんだろうけど、最近見る度に幽霊のような顔をしてるよ」
「そっかあ」
腑に落ちない顔で、ドオリルが唸る。並の戦士と比べても技量が頭一つ分抜けているレムが、そんな様子になるのが信じられないのだ。
「祭司の仕事って、そんなにきついのか?」
「当り前さあ。夜通し喉使って体動かしてね。途中で休むわけにもいかないんだよ」
妻は、衣装棚の中を改めている。普段着に破れ目やほつれ目があったら、織物工場に持っていくのである。
「ほれ、あんたも掃除ぐらいやっておくれ」
「おう。レムな、あんまりきつくやらんでやってくれよ。戦士は体が資本なんだからなあ」
「あら、あたしらだって体が資本よ。それにダメなところはきちんと直さなきゃあ」
押し付けられる掃除道具をぼんやりと受け取って、ドオリルは寝椅子から立ち上がった。
「そういや、そっちのお年寄り方はえらい騒ぎなんだって?」
「騒ぎっつうわけでもないけどなあ。議会で決めた謹慎を破らせたって、結構ピリピリしてたぞ」
「話聞いた限りじゃ、その子そんなに悪いことしたわけじゃないじゃないさ。そんな謹慎、やらなくてもいいでしょ」
「うーん」
抜け毛と砂と綿埃を掃き集めながら、唸った。
「いやなあ、議員方が気にしてるのは、どうも祭司団が議会決定無視したってとこらしいんだあ。ほれ、昔ッから頭の方は仲悪いだろ?」
「面子の問題ってことかね。馬鹿馬鹿しい話だねえ」
「いやまったく。でもまあ、ジグムントの嫁さんのこともあるしなあ。上の方が絡むとろくなことにならねえっつってよ」
「ああ、あれねえ。アルバレラさまが決めたことだから、誰も反対しなかったけどねえ。さすがにかわいそうよねえ」
「お前はどうよ。指導役やってるんだろ? トシ的に」
「トシは余計だよ」
「悪い悪い。愛してるよ母ちゃん」
「まあ白々しい」
ふん、と鼻息をふき出して見せるものの、まんざらでもなさそうである。
「でも色々あるのよ。やることやってりゃそれでいいって真面目にやってる人もいるし、若い子いじめてるのもいるしねえ。戦士に張り合ってる人も結構いるわよ。
祭司仕事に熱入れる人って、大抵旦那さんとうまくいかない人みたいなのよねえ。ゼリエさんなんか、旦那さん離縁しちゃったじゃない」
「あら。ゼリエの旦那は怪我で死んだんじゃなかったっけか」
「やあねえ、そりゃお兄さんの方よお。すぐ弟さんとこに嫁入りしたじゃない」
「んだったか」
「結局子供ができないままでねえ」
心配そうでもあり、あくまで無関係という冷たさもある、噂話そのものの口ぶりで妻は衣を改める作業に専念し始める。
ふと、ドオリルは思い立って口に出してみた。
「よう、仕事熱心だからギクシャクすんじゃなくて、ギクシャクすっから仕事に逃げるんじゃねえかね」
「ふふん、どっちでもいいわよ」
「そらそうだ」
ちりとりを探していると、通路を元気よく走る足音が聞こえてくる。
顔を上げると、出入口の分厚い幕が跳ね退けられると同時に、小さな塊が飛び込んできた。
「ただいまー!」
「おうおうおう、おかえりおかえり。元気いいなあ」
「うん! あのねあのね」
「ほらまたすぐお父さんに飛びつく。今掃除してる途中なんだから、ばたばたしないでよね」
「はーい」
「まあまあ、いいじゃねえか。そんなにしっかりやってたわけじゃねえしなあ」
「あんた、手抜いてたってことかい」
「おおっと」
飛び込んできた、まだ腰丈くらいしかない娘を抱えて左右に振りながら、ドオリルは妻から目をそらす。
「で、どうだったいエデナ。きちんとお話聞けたか?」
「ええっとねえ。ビスケットさんが山で精霊さんとねえ、うんと、お話してね、それでー」
「はっはっは、ビスケットじゃなくてビスクラレッドだな。くいしん坊め」
「えへー」
二人でにこにこしていると、妻が呆れ顔で寄ってきた。
「ほらほら、あんたたち。邪魔だからどいてな。エデナ、遊びに行くかい?」
「あ、行くー」
「行ってきな。今晩はじいちゃんが数のかぞえ方教えてくれるからね、間に合うように帰ってくるんだよ」
「はーい」
飲み水と軽食の入ったポシェットを渡すと、娘は入ってきた時と同じように、後も見ずに元気よく走り出ていく。
揺れの残る幕を眺めながら、ドオリルはぼそりと呟く。
「祭司のえらいさん方も、自分らに子供ができりゃあ仲良くやるようにしてくれっかねえ」
「どうだかね。子供がいても張り合う人は張り合うよ」
同じように、ドオリルの方を見るわけでもなく妻が答えた。
「どうだい。お前も、男ばっかりいい立場にいて、お前たちは俺の陰に隠れちまってるって思うかい」
「そんなこた知らないよ。あんたが外で喧嘩してくるから、あたしらがきっちり支えてやるんだろ。陰とか日向とか、そういうのってのは気にする方が変なのさ」
「そう言ってくれっと気が楽だあ、なあ。母ちゃん愛してるよ」
「何言ってんだい」
妻は口を尖らせた。ケダマなので、顔色までは判別ができない。
ドオリルは、相変わらずにこにこしている。
数日置きに行われる、地下での夜通しの精神統一は、どうにか坐を組み続けることができるようになったが、翌日の修練がつらいことには変わりがなかった。
既に七度打たれた。戦士の鍛練から久しく離れているせいで、鞭の痛みが体の芯に届くようになってしまっている。
「お待ち」
指導役から声がかかり、円陣がぎくりと動きを止めた。
鞭を手につかつかと歩み寄ってくる。レムの反対側にいた、まだ祭司仕事に慣れていなさそうな娘だった。
「まだ覚えていないのね。何度言えばわかるのかしら」
「効果が上がっていませんね」
すっかり縮こまっている娘に向けて、鞭を振るべく手に取り直した指導役の後ろから、冷ややかな声がかかった。
今度は指導役たちにも、緊張が走った。
森の木々のように立ちつくした指導役たちの中を、ゼリエは変わらない歩調で指導役に歩み寄り、手のひらを差し出した。
逡巡した後、ゼリエの表情が変わらないのを見て、指導役が恐る恐るその手に鞭を渡す。
「あなたたちはもう下がりなさい。あとは私が見ます」
目をまっすぐに見つめたまま、ゼリエは冷徹に宣告した。
不意の事態に立ち竦んだままの祭司たちに向き直る。鞭は、帯に挟んでいた。
若い祭司たちが緊張感を向ける相手を見出した時、所在無げにしている指導役たちの一人が声を上げた。
「祭司長、お言葉ですが鞭を以て修練をするのは、先々代祭司長よりの伝統で、それを使わないとなると若い祭司たちを甘やかすことになるのでは……」
ゼリエは、振り向いて一瞥しただけだった。
「今、叱責を受けていたのは誰ですか」
ゼリエの視線が焦点を定めず、祭司たちを一巡りする。
「あ、あの……」
「何ですか」
「あ、わ、私、です……」
「そうですか。では初めから、ひとさし舞ってみなさい。周りの者は下がっているように」
おそるおそる出てきた娘ににこりともせず、ゼリエは他の祭司に場所をあけさせる。
そのせいで、全員の注目を浴びる状態になった。ゼリエの肩越しに、彼女に指導役たちの視線が集まって来ている。
可哀想な娘は、緊張で見るに堪えない動作になりながらも、なんとか動きをこなしていく。
「肩に力が入っています。もう一度」
ゼリエの澄んだ声が、その流れを断ち割った。
舞を止め、周囲が悪い評価をしていないか窺うように目を走らせ、娘は再び最初の位置に戻った。
空気の圧迫感に汗すら流しながら、大きく息を吐き出し、脱力の形に力を込めながら再び舞い始める。
「腕が下がり過ぎています。もう一度」
腕を上げながら、肩を落として、三度舞う。
「腰が浮いています。最初から」
上半身に意識が集中しすぎて、上に重心が行ってしまっているのがレムにもわかった。
娘は、すっかり目が泳いでしまっている。隅に追いやられた指導役の視線が、突き刺さるようである。
「腰が落ち過ぎましたね。そのせいで背筋も曲がり、肩に力が入り過ぎています。重心は腰に落として、上体は柔らかく。やり直しなさい」
ゼリエは淡々としていた。
「今の歩法、反転するところから」
数を重ねるにつれて、むしろ動きが悪くなってきたような雰囲気すらあるにも関わらず、その表情は動かない。
ゼリエの心情がうかがい知れないせいで、娘の気力がすり減っているのが見えるようだった。
やっと、舞の動作が一区切りつくところまで、止められずに終わった。
ゼリエの視線はあくまで冷やかなままである。
もしかしたら及第点だったのかもしれない、と娘が期待をかけたような表情を浮かべようとした直後に、ゼリエは口を開いた。
「何のためを考えて舞いましたか」
その考えは甘いのだということを、レムは今までの十数日の修練で理解していた。
ゼリエは、満足することはない。
「常に精霊への敬慕と感謝を念じながら舞いなさい。そうでなければ、それはただの見世物でしかありません」
唖然として言葉を失う祭司に向けて、鋭く突き刺すようだった。
「日が暮れます。あなたばかりに時間を割くつもりはありません。下がりなさい」
後は、その娘はもはや風景の一部だと言わんばかりに、目も向けようとしなくなった。
そう言えば先ほどから、指導役たちを顧みもしない。
「次」
娘の隣に並んでいた、修練生の中では年長の部類にはいる祭司に、ゼリエの目が向いた。
祭司たちにとっては、鞭の方がましだったかもしれない。
すっかり冷え切った体を引きずるように螺旋階段を上り、尖塔の頂きにある自室に入る。
壁に開けられた窓から、地平線が白み始める明け方の空を見ながら、薄い寝台に倒れ込んだ。
地下で夜を徹する修練も慣れたと思っていたが、今日は香が違っていた。
一息吸うごとに、体温と共に体力を奪っていく、澄んだ痛みのような匂いのする香だった。
白磁の器に注がれた水から、目の下に隈を作った自分のやつれ顔が茫洋とした表情で見下ろしてくる。
顔を洗っても、気分が晴れるわけでもないが、やらないよりはましだった。
洗顔を済ませて口をすすぎ、長衣を替える頃には、朝食が運ばれてくる音が聞こえてきた。
足音が階段を下りて行ったのを確認してから、扉を開くと、脇の小さな棚に食事が載っている。
献立は、蒸した芋と、山椒で香りを調えた生肉の切り身、血の腸詰だった。
好みからすれば喜んで手をつけるものだが、疲れた胃には、体力がつくはずの献立がただひたすら重い。
味も風味もよくわからない。粘土の塊を噛んで飲み込むような感じで、どうにか喉の奥に呑み下していく。
今日の修練を終えた後は、眠らせてもらえる。そして、明晩は奉納祭であった。
その季節が平穏であった感謝を示すため、夜を徹して、修練してきた謡と舞を捧げ続ける。
うまくやれる自信はなかった。
指導役たちも、祭司になってからまだ十数日程度のひよっこを祭儀に参加させることを渋っていた。
誰の後押しかは、考えなくともわかることだった。でも、ゼリエから与えられる修練は、祭儀があるからと突然厳しくなったりはしない。
そんなことで、祭儀をこなすのに十分な技量が身に付くのか、心配であった。
とは言っても、厳しくもなっていない今の修練でも、完全にものにしたとは言い難い。修練のレベルを上げたところで、ついて行けるのかどうか。
思考に霞がかかったのに気がついて、はっと頭を上げた。案の定、眠りかかっていた。
自分一人だけ、他の祭司より修練期間が短いのだ。足を引っ張るわけにはいかない。
その場をしのぎ切ることだけしか考えられなくなった状態では、満足な動きができるはずもなく、失点を恐れるがあまり、さらに鞭を受ける悪循環に陥りつつあった。
長衣から露出した手先や首筋を打たれることも少なくはない。その部分は、二日ほど赤く残る。
これで祭儀などできるのかと聞えよがしに罵られても、反発する気力も残っていない。
周りの祭司たちの目は、叱られるのが自分でなくてよかったという、傍観者のそれである。
痛む手をさする気も起きず、ゼリエに連れられて地下に場所を移した。
燭台に火を入れて、先に座っていたレムを見るなり、ゼリエは冷やかに言う。
「背筋をまっすぐになさい」
しているつもりだった。
背骨を意識しながら、改めて姿勢を正してみる。
ゼリエは、呆れたような目を向けてきた。
「やはり、進歩がありませんね」
「私は、祭儀をきちんとできるのだろうか」
なんだか弱気になって、つい声に出していた。
ゼリエの表情に、いつか見た刺すような敵意が滲んだ気がした。
「そうなるように、修練を重ねさせました。求められる通りに果たしなさい。責を全うするとはそういうことです。今更改めて言われることでもないでしょう」
あまり言葉の意味がつかめない。
ただ、単純にレムに向けたものだと決めるには、色々な感情があまりに絡まり合いすぎていたことが、おぼろげにわかった。
ぼんやりとゼリエを見ていると、ほんの僅かに、眉間にしわが寄った。どういうわけか、普段ゼリエが見せることのないそのしわを、見慣れているような気がした。
「仕方ありませんね。では、今までのおさらいをしましょう。立ちなさい」
すっとゼリエが体の軸を真っ直ぐにしたまま立ち上がる。
立ち上がるだけでも、体から血のように体力がしみ出していくように感じる。ゼリエに比べて明らかにのろのろとしていたレムを見下ろしながら、ゼリエは待っていた。
「『地の芽吹き』を最初から最後まで。祭儀でやるように、舞いなさい」
「はい」
もはや無意識に返事をして、胸の前で両手のひらを向かい合わせる。
少し座っていただけで、疲れていた体が休息の姿勢に入っていた。無理やり引き起こし、柔らかな袖が風をたっぷり受けるように腕を回す。
もう、軸がずれたのを感じた。
止めの合図はかからない。
夜が更け、真円を描く銀月が高く上がる頃、レムは列をなして進む祭司の一団の最後尾について進んでいた。
午後の修練は、ゼリエの付ききりで精神を練っていた。坐を組み息を整え、ひたすら内に力を溜める修練は、謡や舞よりは、体が休まる。
十分な休息とは言えなかったが、元から厚着でもしているかのように体中に疲れがのしかかって来ている状態である。
少しくらいの休みでも、貴重だった。
列の後方には若い祭司たちが集まっている。探せば知った顔を見つけることは出来るだろうが、列を乱すことはできない。
夜も更けてきた時間帯では、毛色もよく見えず、それで区別をつけるわけにもいかないのである。
半ばから前方にかけて、馴染みのない熟練の祭司が並んでいる。
さすがに、皆が気持ちを張り詰めている。レムのいる後方では、それに加えて動きの硬さが蔓延していた。
レムも同じだった。
定期的に行われる、重要度で言えば低い祭儀であるとはいえ、祭儀自体は氏族と精霊とのつながりに関わる。
万全とまでは行けずとも、不足なく儀を成し遂げなければならない。
できるだろうか。修練が足りているとは、とても思えない。
霊地につくと、先頭の祭司にそれぞれの位置を指示される。
普段は感じられる霊地の鋭い涼しさは、肌が疲れで鈍感になってしまっているせいで、はっきりとそれとは感じられなかった。
熟練した祭司に許される、楽器の役割も兼ねた祭具が、位置に付いていく。
配置に付き終わって、中央に立った主役の祭司が動き出すのを待つばかりになった。
調子が万全であれば、ここで主役を中心に、集中が高まっていくのを感じられるのだろう。ぼやけた意識では、皆が動き出しをじっと待っているようにしか見えなかった。
なんとなく、薄汚れた袋のように座っている老狼を探していた。
居るはずもない。
夜気を、高い歌声が優しく通る。
動き出した祭司団に、レムはほんの一拍遅れた。
慌てて間に合わせようとするが、そういう時に限って次の動作が浮かんでこない。遅れた一拍をそのままに、周りの動作を見て真似するのが精一杯である。
不完全な動きで、自信を持って舞うことができないまま、嫌な汗をかいた。
ふと、自分の前にいる祭司に目が行った。
背格好はレムより少し小さいくらいだろうか。子供かと思うほどに、ほっそりとした体つきをしている。
レムの近くの位置なら、若い祭司だろう。顔を見ようにもレムに背を向けているため誰かわからないが、内から輝きを放っているかのような黄金の髪が目を引いた。
舞う最中に、ほんの僅かにレムを顧みる素振りを見せると、動作を大きくして舞い始めた。
導かれている。そんな気がした。
事実、柔らかな金色の舞う姿を見ているうちに、自然と体が覚えてきた動作を思い出してきていた。
先程までと打って変わって、考える前に体が動く。差し伸べる手の意味、緩やかな歩法の表すもの、そのすべてが体を通して霊地の気を澄み渡らせていく。
意識が風に溶け、断崖城のある鉄鉱山すべてを取り巻く雄大な何かと一体になるような感覚があった。
ちらりと、金色の祭司を見る。
相変わらず顔を窺うことはできないが、背を向けていてもレムが十分に祭儀を果たせるかどうか、気づかっているのが感じられた。
中央の祭司の歌声と、それを取り巻く楽器の調べが、頭の中に流れ込んでくる。自分が溶けていく。一糸纏わぬ姿よりも、裸だった。
疲れを忘れて、音と風と地の息吹が導くままに、腕を振るい、歩を進める。
金色の毛並みが、見守るように静かに舞っている。
祭儀が、つつがなく終わっていく。
まず中央で舞っていた祭司が祭具に囲まれながら、ゆっくりと退場する。
その姿が霊地から消えてから、役の重い者たちから順に、同じように立ち去っていくのである。
やっと最下位であるレムたちの番になって、動作を続けながら霊地を後にする。霊地から離れてようやく普通の歩みに戻り、あとは来た時と同じように静かに戻っていく。
行列を乱すのは禁じられていたが、レムは辺りを見回した。
先程の金色の祭司が気にかかっていた。とりあえず姿を確認して、そのうち声をかけよう、と思ったのだが、どこに紛れてしまったのか、見つけることは出来なかった。
周りがレムの様子を気にし始めたのを感じて、仕方なく諦めた。
顔を見ることができなかったし、そろそろ夜が明けるとは言え、まだ空は濃紺が降りていて、毛色の判別は付かないのだ。
いずれ話をする機会もあるだろう、と自分を納得させて、列に戻る。
体に溜まっていた、かさぶたのような重苦しい疲労は、祭儀を全うしたことへの心地よい疲労に上書きされ、少し軽くなっている。
この疲労の質なら、十分に休めばさっぱりとした気持ちで目覚めることができるだろう。
尖塔に戻った頃には、すでに朝日が山並みの上に端をのぞかせていた。
篝や香炉はそのままにしてきたが、準備や後片付けを行う者と、夜を徹して舞う者は、持ち回りになっている。舞わなかった祭司たちが、片づけているところだろう。
もし次があれば、レムは今度は準備役になるという。
部屋に入るなり汗ばんだ衣を脱ぎ棄て、肌着のまま寝台に倒れ込む。
夜を徹した者は、その日の修練は休みになるのだった。
久々にしっかり眠れる。
目を閉じてすぐに、意識が沈んだ。
昼の日が傾き始めた頃に目が覚めた。
尖塔に居を構えてから、これくらいの時間に起きたのは初めてだった。今まで早朝に起きて決まった通りに動く生活を続けてきていたため、どうしていいかわからない。
とりあえず扉を開くと、いつもの位置に、冷めてもいいような献立の食事と水差しが用意されていた。
蒸し上げた麦芽パンと、数種類の野菜のピクルス、燻製肉の塊。かじりつくと、素材の汁気が口に広がって、触れた部分が活力を取り戻すようだった。
身支度を済ませ、食器を元の通りに戻して、もう一度寝台に横になった。
祭司の疲れは、戦士の時にあったような、休んで回復することで今までより強靭になる、活力のある疲れではない。
長い時間気持ちを張り詰めていた疲れと、休むべき時に休まなかった、鉄の武器の寿命を短くさせるような疲れである。
お陰で今まで鍛練も何もできず、ここ二十日ばかりですっかりひ弱になった気がする。戦士として復帰した後、元のように動けるまで時間がかかるだろう。
祭儀は、うまく行ったと言えるだろうか。
あの金色の祭司に導かれて、なんとか体裁は繕えたと思う。修練したことは、ほとんど出せなかった。
ゼリエが見ていたとしたら、何と言われるだろう。横目を使っていることなど、彼女ならすぐに見抜くはずだ。
目を閉じる。
いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。扉の向こうの食器を下げる気配で目が覚めた。
顔を合わせることはないため、当番制なのか、毎回同じ者が来ているのかさえ知らない。
あまり気にせず、目を開けるのをやめた。体を動かすのに、随分力がいるようになってしまっている。
なんとなく、あの金色の祭司であるといいな、と思った。
うとうとしていると、また扉の向こう側に誰かが来た気配があった。
今度は、食器を下げに来たわけではない。レムが修練に出ている間の室内清掃でもない。
相手の意識が、明確にこちらを向いている。
寝台から跳ね起きた。この凍るほどの水で冷やした刃のような雰囲気は、ゼリエのもので間違いない。
居住まいを正したのを待っていたかのように、扉が叩かれた。
「起きていますか」
「はい」
返事を聞き届けてから、扉の鍵が開く音がする。
やはりゼリエが、冷やかな顔のまま静かに部屋に入ってきた。
レムを見るなり、顔をわずかに歪めたような雰囲気が見えた。
「気を抜いていましたね」
視線が寝台に向いている。今しがた寝ていた皺が残っていた。
「高位の者が訪れたのに、腰を下ろしたままというのも無作法です。それに、部屋も少し汗が匂います。どこであろうと、身を整えなさい」
言いながら、卓の傍に二つ並んだ椅子をひとつ引きよせて座った。
膝の上に両手を行儀よく揃え、じっとレムを見ている。
すぐに用件を切り出すゼリエにしては、珍しいことだった。なんだか居心地が悪い。
「ゼリエ、何か用なのか」
声をかけられて、ようやくレムの様子を窺うのを諦めたように、溜息をついた。
「昨夜の祭儀の件です」
来た。
身が固まるのが自分でもわかった。
何か役を果たしたなら、こうした反省は当然のこととは言え、どうしても緊張は免れない。
汗が噴き出る感覚をこらえながら言葉を待っていると、しばらく無言だったゼリエがようやく言葉を継いだ。
「戦士団などに行かず、初めから祭司として修練を積んでいれば、もっと上の段階まで進めていたでしょうに」
叱責がなかった。万全だと思った動作でさえ、何らかの欠点を指摘してくるゼリエである。今日に限って珍しいことばかりで、レムは少々面食らっていた。
しかし修練が実って、文句のつけようのない舞を演じた割には、ゼリエは不満そうだった。
実は横目を使っていたことがばれていて、無言の叱責をしているのだろうか。
だが、目の前の祭司長は、その冷やかな面貌の裏に、レムのが十分に役を果たしたことが理解しがたいといった表情を滲ませているばかりである。
そして、あの色々な物が混ざった敵意に似た感覚が、また顔を撫でる。
「今後はもう一段階進んだ修練を行います。心づもりをしておきなさい」
これ以上は特に言うことはないとばかりに立ち上がろうとしたので、逆にレムが慌てた。
「ゼリエ」
「何ですか」
「何か、ないのか」
「何かとは?」
「その、ここが足りないとか、目についたとか」
「最初からずっと見ていたわけではないのです。少なくとも、私が見ている間では、取り立てて直さねばならない箇所は見当たりませんでした」
どうやら、最初のうちの足元がおぼつかない姿は見られていなかったらしい。
少し気が楽になった反面、疑問は残る。ゼリエともあろう者が、レムが他者を見ながら舞っていたことに気付かないはずがない。
疑念が、好奇心に混ざって口から飛び出た。
「ゼリエ、私の前にいた祭司は誰か知らないか」
声に出してから、まずいことを言ったような気がした。ゼリエが気づいていなかったのなら、藪蛇になりかねない。
だが、そろそろ帰る雰囲気を見せていたゼリエは、聞く姿勢に移ってしまっていた。
「どの祭司ですか」
なるようになれ、と思った。
「私よりちょっと背が低くて、髪が綺麗な金色で、すごくほっそりしてるんだ。私の前にいたから、多分そんなに年長じゃないと思うけど」
顔を上げて、ゼリエの視線に負けるものかと、食い付くように目を合わせる。
横目を使っていたことを気づかれた、次の瞬間に浴びせかけられるであろう叱責を凌ぐために、眼力でしっかりと踏ん張った。
「舞も謡も、私なんか目じゃないくらい完璧だった。誰なのか、教えてくれないか」
あれほどの美しい舞を執りながら、レムにも真似させる余裕のあるほどの優れた祭司なら、ゼリエが知らないはずがない。
彼女は、なぜレムと同じ階級の舞をしていたのか、疑問なくらいであった。
しばらく考えていたらしいゼリエの目に、ほんの僅かに動揺の色が走った気がした。
「あなたと同じくらいの年齢なら、知りませんね」
「それ以外なら心当たりはあるのか」
さらに食いつく。
少し、間があった。
「いいえ。知りません」
彼女にしては珍しく、話を打ち切るために立ち上がったように感じた。
普通の街なら路地に当たる、坑道部分の通路廊下で、ドオリルの弟の子たちに混ざってエデナがはしゃぐ声が聞こえてくる。
子供たちは元気がいい。何もなくても、遊びを考え出して、大はしゃぎし始める。
あと何年もしないうちに、エデナをどこにやるか決めなければならない。
長女のウルミが調理場に職を持ったため、妻はエデナこそ祭司に、と気負い込んでいる。
最終的には議会にかかるとはいえ、家族の希望は進路についても重視されている。
だが、ここしばらくの祭司団での噂を聞いていると、ドオリルはどうも心配になってくるのだった。
妻は、元々そちらの環境で育ってきたから、権威ある祭司団に娘が加わることを栄誉だと思っているようだが、外で話を聞くばかりのドオリルには、そうは思えなかった。
寝椅子の背もたれを伸ばして、うつ伏せになっている妻の背を指圧しながら、ドオリルはなんとなく口を開く。
「そういやあ、レムも奉納祭やったんだって?」
「そうなのよ。ま、私は今回裏方だったんだけどねえ。だから、直接は見てないわよ」
まず手のひらを使って、筋肉をほぐすつもりで強めに撫でる。これがあるとないとでは、指で押した時の筋の硬さが違う。
筋肉が硬いままだと、指圧が逆に筋を痛める結果になることもある。
妻はくつろいだ顔で目をつぶって、満足げに鼻から長々と息を吐き出している。
「んで、どうだったんだあ」
「それがうまくいったみたいでねえ。まあそりゃいいんだけど、お局方が目つけちゃったみたいでさ」
「へ、そりゃまたなんでだや」
少し、手を跳ね返すような箇所があったので、念入りに押しほぐしておく。
「そりゃねえ。今まで戦士団で男どもにちやほやされてさ、こっちに来たと思ったら、たかだか二十日そこそこで、何年も修練してきた祭司よりしっかり祭儀果たしたのよ?
若い時に祭儀でしくじって、キツいお仕置き受けた身としちゃ、そりゃ気に入らないわよ」
「ちやほやってほどでもねえぞお。若い奴の面倒見んのは当たり前だろお。役に立たねえなら、他の奴みたいに別の仕事に就かせる準備できてたしよう」
「どうせジグムントのごり押しで戦士団に残ったでしょうよ」
「どうだかなあ。実力ねえまま残っても、どこぞでぶち殺されるのが関の山だからなあ」
背中を一通り撫で終えた後は、ようやく指でつぼを押しながら、疲れのたまった体をよく揉みほぐすのである。
ちょっと悪戯心が起きて、背の横側から、手を下へ這わせてみた。
「おお、腹あ柔らかいなあ」
「ちょっ、ちょっとおよしよ、くすぐったい」
「ちィと緩んだんじゃねえか? へっへへ」
「うるさいよッ」
払うように飛んできた平手をひょいとかわす。
「いいじゃあねえか、知らねえ仲でもねえだろ」
「馬鹿言ってんじゃないよ。まったく昼間っから」
指圧が途中で物足りない表情だったが、これ以上任せておけないと言わんばかりに、寝椅子の背もたれを持ち上げて座り直してしまった。
「レムが才能なくても、戦士団に居残れるぐらいの修練ぁ、結局やったと思うぞ。あいつ、やることァきっちりやる奴だからなあ」
「私らからしたら、戦士団はユルいのよ。しくじっても鞭で叩かれたりしないでしょ」
「俺、鞭じゃなくて金槌で殴られたけどなあ」
「そりゃあんたが防御し損ねたからでしょうが」
「へへっ、そらそうだ」
途中で話がずれているのを感じた。
今まで遊んでいたのだろうと思っていた新参が、過不足なく役目を果たしたとあれば、これまでを真面目に務めあげてきた者たちが面白かろうはずはない。
妻は、口うるさいながらも度量の広い女である。その彼女でも、戦士団から来たレムがうまく祭司の務めを果たすことに、あまりいい印象を持っていないのだ。
話のずれは、妻がやはり気にしていることの表れだろう。
気持はわからないでもないが、両者がうまくいって欲しいという気持ちも本当のところだ。
「難しいよなあ」
「そうよ。あんたみたいに、トンカチ尖らせて仕事の準備だーなんて言ってらんないんだからね」
うっかり呟いた言葉は、違った受け取り方をされた。
でも、まあ別に、これはこれで良い。
「お前、ありゃ大事なんだぞ。武器の手入れ一つで骨を砕けるか砕けないかで、随分違うんだぞ」
「あらそう。そんじゃあ、綺麗な彫り物入れた盾をうれしそうに磨いてるのも、大事なのかい」
「あっ、そりゃお前」
「どこぞの芸術家に入れてもらったとかって、見せびらかしてたそうじゃないさ。あれ私聞いてないけどねえ」
どうやら話題が逸れたようで、残念に思った反面、なんとなく安堵しているのも感じた。あの話を突き詰めても、いいことはなさそうだった。
ただ、移った話題がいけない。
「どこでいくらかかったのか、いつ説明してくれるんだい」
「そりゃ、お前。そりゃあ、なあ」
うまい言い訳は、浮かばない。
妻の言い分は言われずともわかる。戦士の務めの報酬を、セパタではなく家具なりなんなりでもらっていれば、住居の中はもう少し豪勢になっていたはずである。
それをせずに溜めこんだカネが、戦場に持っていくには不似合いな武具に化けたとあっては、納得しろというわけにもいかないだろう。
「エデナ、助けてくれえ」
「あっ! お待ち! 使いもしない盾にセパタかけて、このボンクラ!」
どうしようもないので、逃げた。
もちろん、妻は追って来ている。
祭儀に使われる謡は、大抵は普段使われている会話語だが、中にはそうでないものもある。
特別な祭儀で高位の祭司が歌うものは、節回しこそ会話語に似ているものの、単語や発音は馴染みのないもので、普通のものを謡う時に比べて疲労が早いらしい。
聞いただけでは、歌い方なのか発声方法なのか、どういう違いがあるのかわからないが、節の流れのひとつひとつに、身の内を震わせるような響きがあるように感じる。
「かつて私たちと犬がまだひとつの国を成していた時、魔法の力を高めるために開発された特別な言語と、
私たちがこの山脈に来る前に精霊を祭って暮らしていた人々が操っていた精霊の歌とを合わせた物です」
舌のもつれそうな複雑な発声を、淀みなくすらすらと一節諳んじて見せた後、ゼリエはそう言った。
犬と狼が袂を分かつ前は、北部山岳地帯には様々な種族が共存していたらしい。
当時は、今に比べて圧倒的に野盗が多く、そのほとんどが王国支配に服さない山犬たちであったという。
その名残を、今も色濃く残している氏族も多く、近隣一帯を荒らし回る精強な野盗が、出自を糺せば有力氏族だったということも時折あるらしい。
その傍ら、他種族たちと共に自然霊を崇めて生きていた、大人しい山犬もおり、彼らの伝承を吸収したのが今の諸々の氏族たちだという。
「最初からそれを教えるわけにはいかないのか?」
「精霊の歌は、精霊へ直接語りかけるもの。未熟者や才のない者がいたずらに口にしたところで、何か起こるとも思いませんが、私たちに害為す者に知られれば
精霊の存在を脅かすことになりましょう。それ故、この者はと確信を得た者にしか伝えておりません」
冷やかな目が刃の鋭さを帯びる。
「あなたも、口外はなりませんよ。みだりに歌うことも禁じます」
「はい」
レムの口調にまだ不満はあるようだったが、少なくとも返事はまともになった、と納得しているらしい。
応える度にいちいち軽い圧迫感が迫ってくることもなくなった。
「まず、聞きなさい。これは声を出せばいいというものではありません。坐と内の修練で得た感覚をすべて開き、声を手段として魂で謡いかけるのです。
言葉の意を掴み、心から語り、あなたの存在を、精霊に示しなさい」
そっと目を伏せると、静かに息を吸いこんでから、ゼリエはもう一度歌い始めた。
空気が変わる。水にインクを落としたかのように、歌声が空気を染めていき、その空間からは霊地で感じるような、肌を張り詰めされるような鋭い涼しさが感じられた。
体のゼリエに向いている面を大きな見えない手のひらで押されるような感覚で、ただ座っているのも大変な気力が必要だった。
ゼリエは、何かが憑いたような様子で、ただ歌っている。レムにあれほどの修練を課すだけあって、その集中は類を見ないものだった。
これくらいの気迫を放てる者は、戦士団でも長老議員クラスでなければ見つからないだろう。
地の底から響くような、などというものでは足りない。胸を内側から撫でられるような、直接的な歌声だった。
全身の肌が粟立つ。
息をかけられているわけでもないのに、燭台の火が暴れ狂っている。
空気中に、謡に乗せた意思の力が、波紋を描いて広がっていくのが、目に見えるようだった。
祭儀の翌日に一日休息があったあとは、今までと変わらない、朝に集団で修練し、午後からはゼリエの付ききりでの指導が繰り返される日々に戻った。
既に二日が過ぎ、レムはいつもの通りに修練場に並んでいた。
失敗に怯えていた数日前とは異なり、今では意識を舞と謡に切り替える毎に、心の端に金色の毛並みがひらりと舞う。
その姿を捉えながら体を動かせば、覚えた動作が十分に行えるようになっていた。
祭儀の後、ゼリエが修練内容の段階を上げたので、レムはてっきりこちらも次の段階に進むかと思っていたが、そんな素振りは見られない。
確かに実際のところ、舞も謡も、金色の祭司のおかげでなんとかなったのである。
もし次の段階へ進むことになったら、もうしばらく後にしてもらうつもりだったが、そういった働きかけが何もないとなると、それはそれで心配だった。
ゼリエがいない時は、指導役の態度も鞭が飛ぶのもいつも通りだったが、慣れがあると随分違う。
祭儀で真似ただけの動作だったが、一度大舞台で成功させてから落ち着いて再びやってみると、最初に言われていたことがよくわかる。
腕を上げる動作の際に、袖が風を含むように。風に満ちた精霊と、可能な限り触れるために、ということなのだろう。
動きに慣れた身体から力みが取れ、そうなると自然と腰が落ち着いてくる。
初めて武器を握って、疲れ果てるまで素振りを続けた時のことを思い出した。
無意識無造作の、物を取るような何気ない一振りが、最も鋭く敵に斬り込むのだ。それと、同じように感じた。
鞭を受けることが、ほとんどなくなった。あったとしても、祭儀でうまく行った自信が、打撃を受け止める際の気の張り方を思い出させてくれている。
筋肉に力を込め、意識を集中して受け止めるのである。そうすれば、肉体の軸に響くようなダメージを受けることはない。
そして、指導役たちの態度も、目に見えて硬化していた。
思うようにならない者への苛立ちの中に、身が腐るような嫉妬の重みを覚えた時、ふとゼリエの様々な感情が混ざった敵意を思い出した。
違う、と思った。
ゼリエのあの、シチューを煮崩して溶かしたかのような感情の波動は、レムではなく、レムの向こうにいる何かに向けられている。
それは、今指導役から浴びているような、異物に対してすぐに投げかけられた短絡的なものではない。
耐えた果ての、高密度のうねりである。おそらく敵意は、ゼリエ自身も突き刺しているだろう。
「どこを見てるのですか」
指導役の一人がレムの前に立っていた。
「修練に身が入ってないですね。祭儀でうまくやれたからって、調子に乗っているの?」
「いや、私は」
応えた瞬間、口調が戦士団の頃に戻っているのを自覚した。目の前の指導役の顔に、コマ送りのように怒りが満ちていく。
しまった、と思ったが、もう遅かった。なお悪いことに、黙って下を向いて、指導役の怒りが収まるのを待つのが定石だとわかっていながら、
腹を立てた指導役の肩が動くのが見えたせいで、続いて頬に飛んできた鞭を無意識に掴んで止めてしまっていたのだ。
他の祭司たちの唖然とした表情が痛い。
手の中の鞭伝いに、鞭をむしり取ろうという動きが伝わってきたので、手を離す。
鬼のような形相の指導役が、鞭と逆の手を振り上げた。その平手は、仕方がないので大人しく受けた。
「ど、どうやら」
指導役の声が震えている。呼吸は乱れていない。ただ、こういう場面で体が引きつけを起こしたようになってしまうのだろう。
下の祭司から、反抗されたことがないのかもしれない。
「どうやら、随分と思いあがってるようね。少しくらいうまく行ったからって、急に気が大きくなって。躾け直しが必要のようね」
躾け直しの一言に、修練場全体が浮足立った気がした。
指導役の中でも、さすがにそこまでは、と咎めるような視線を向けるものが何人かいる。
かと思えば逆に、それくらいしてやれと言わんばかりの者もいた。
当の指導役は、完全に冷静な判断を見失っているらしく、周りの空気に気づかない。
「来なさい!」
レムの肩を掴んで乱暴に引き寄せ、修練場の外へ引っ張っていく。何人かの指導役が、準備のためか、先に外へ出ていった。
まさか拷問にはならないだろうが、不安になる光景である。
そう言えば霊地の老狼も、精霊が感じられないせいで随分吊るされた、と言っていた。
関節や筋が壊れないように、体重が分散するよう縄を全身に巻き付けられているとは言え、やはり体に食い込めば気分のいいものではない。
さすがに衆目に晒すようなことはないらしく、使われていない狭い部屋に、ひっそりと吊るされることになった。
埃っぽい部屋が、高い位置にある小さな窓から差し込む光のおかげで、逆に陰鬱な空気をはっきり描き出している。
少し縄の位置をずらそうと、身を揺すった。縄が捩れ、レムの体がゆっくりと回転する。
このままでは駄目だと思った。
戦士団と比べても、不要な縛めが多すぎる。それどころか、指導役の質の低さも気になった。
祭司としての技量と言うことではない。ゼリエは別だが、並の指導役たちの祭儀の技については、レムはまだ未熟であるため特に感想は持っていない。
ただ、レムに鞭を掴み止められて、鞭を取り返そうとむきになっていた姿は、上に立つ者として相応しいとは思えない。
口と動きが違うのだ。指導役は隙を見せないから指導役足りうるのであり、技量があっても誇りのない者は敬意を受けない。
今まで浴びせかけられた否定の言葉を思い出す。修練の一環としての欠点指摘であるなら、端的に言えばいいだけの話だ。
誇りを知る者は、弱者の誇りを踏みつけにしない。
この有様で、祭司団は本当に精霊の祭儀を担っていけるのか。
懲罰自体が、すでに疑問である。鞭は必要はないと思っていたが、戦士団ではそうした打ち据える罰はなかったために、反発を覚えているだけだと自分を納得させた。
だが、今はどうか。吊り下げられる場所が霊地なら修練にもなるだろうが、こんな独房のような空き部屋では、坐を組んで精神を練るなどとは程遠い。
部屋の扉が開いた。
青みがかった灰銀色の、すらりとした冷たい女が姿を現す。
蓑虫のように吊り下げられたレムを見て、呆れたように口を開いた。
「何をしているのですか」
「いや、大したことじゃない」
何に対しての質問なのかわからなかったので、そう答えた。
吊り下げられている状態では大したことはできないし、ここに吊られることになった原因のことを聞かれているのであっても、もう大事に取る気さえ起きない。
修練とは無縁そうな姿を見て、ゼリエは目の端にかすかに、何やら哀愁のようなものを浮かべた。
誰に向けるともなく、語る声が響く。
「狼が尊ぶのは、魂の強さじゃ。とはいえ、ぱっと見てもわかりゃせん。それのとりあえずの目安は、己の務めが最良の結果を得られるよう果たすことなのよ。
被服廠も武器廠も、農耕も炊事もあるが、やはり一番務めが重いのは戦士よな。命を懸けて氏族を守る。ああ、上下関係が制度にはなっとらんのは知っておるわい。
氏族の心持ちの問題じゃ。やることやったもん同士、相手を立てていくとしたらやはり責の重い者を上に置くのが落としどころよな。
長老議会を見てみい、家族の長者とは言っておるが、みんな名うての戦士に議席譲っとるじゃろう」
少し言葉を切った。
話の道筋を考えているのだろう。
「ま、そんで戦士は男に向いた仕事じゃから、女にゃ立場がないわけじゃのう。そりゃあ、男が家で嫁を大事にしてやりゃあええが、そういう家ばかりでもなくてのう。
独り身になってしまう女も、やはりいくらかは出てくる。んでまあ、間が悪ィことに、そういうのに限って祭司だったりするんじゃな。
責の重さの第一が敵と戦う戦士だとしたら、第二はなんじゃ。氏族と精霊のために祭儀をするもんじゃろ。
自然と男所帯になった戦士団に対抗しようと、女たちは祭司に集まったわけじゃな」
短い草の海が、鋭く張り詰めた冷たい風に吹かれて、さざ波を立てていた。
「そんで、所帯を持てなかった奴は男も女も仕事一筋になるわな。男はまだええ。技を究めりゃ、敬意を払われる。議会入りもできる。じゃが、祭司はどうかのう。
わしの頃は、皆で祭儀をやっておった。祭儀なんぞという誰でも出来ることを、他の仕事の者が仕事に打ち込めるように、代わりにやっておるだけ。
いくら重役だ重責だと重宝されておっても、そう思ってしもうたら、たまらんわなあ。じゃから、ああなってしまったんじゃよ。女たちは」
ふと目を遣り、にたりと笑う。
「真っ当に務めを果たしとる者にはわからんことじゃよ。自分が、実はいらない者なんじゃないかという焦りはのう。
なんのかんのと言う奴はおるが、結局人間なぞというものは、働かずに生きちゃおられんのよ。なんちゅうかのう、ホレ。さっき言うたじゃろ。魂の強さよ。
自分が何も作り出せないと悟ってしまった奴の魂は、弱るんじゃ」
視線の先に、城塞部の尖塔がある。
「自分たちの魂の強さを守るために、他が仕事に打ち込むために祭儀を引き受けていたのを、祭司でなけりゃできんから祭儀を引き受けていると言い換えてきたんじゃ。
そんで、本当にそうなるように、面倒な技や儀式を次々と考え出してな。才覚がなくば精霊と語れん、などと触れまわる。
それだけではまだ不安だったんじゃろうのう。そうして強い存在である祭司を作りだしたのに、その上にさらに、自分たちの中で強い弱いをわけてしもうた」
ふん、と鼻から溜息を吐きだす。
「予測なんぞ、できんよ。先に手を打っておくなんぞできるわけがなかろう。リュカオンさえ、己の子の反逆も読めなんだぞ。
それに、こうなるのはある意味仕方のないところがある。いい武器も長く使えば、手入れだけではどうしようもないくらいボロになっていくじゃろうが。
氏族ちゅうのも、それと変わらんということよ。長く続けば、がたが来る。しかし必要だったから長く続いたわけでな」
座っていた盤石に、片肘をついてごろりと横になった。
「わしやお前がどうこうしたところで、そうそう変わりゃせん。これから新たに祭司となる女たちの心映えが変わることがあれば、自然と祭司団も変わろう。
そういう娘たちが現れて、祭司の地位を守ることばかりに頭の固まった……そうじゃな。ゼリエあたりが死ぬ頃になれば、あるいは、な」
風が、冷たく匂っている。
「ま、わしが何を言おうが、どうせやることは決めてあるんじゃろうと思っちゃおったが、なんじゃい久々に顔を見せたと思うたら一言も喋らんで。
その尾に兎の子を乗っけておった時は、もう少しは可愛げがあったぞ」
一瞥を受けたが、たじろぐ様子もなく、間の抜けた風情で肘をついたまま横になっている。
「さっさとレムを取り返してこい。あんまり長く置いておいたら、祭司団を何とかしようと躍起になるやもしれん。
一人がいくら飛び跳ねたところで、祭司団はどうにもならん。あんな尖塔の中で腐らせておくよりは、もっとええ場があるじゃろ」
無言で立ち去っていく背を見ながら、またひとつ溜息をつく。
「ったく、わしとは喋りたくないっちゅうことかいのう」
先程までの達観者の口ぶりとは打って変わった様子でぼやくと、寝返りを打った。
朝ごとに立ち込める濃い霧も晴れ、その日も朝日は憎いほどに輝いている。
不寝番の交代や朝食の準備をする調理方などの、朝の早い者たちは既に仕事を始めている。
それ以外の者たちがばらばらと外に出てくるのと時を同じくして、長老議員たちもぞろぞろと坑道部分最上部の集会場へ向かっていた。
それぞれに挨拶を交わし、多くの者が、集会場では席の遠い顔馴染みと肩を並べて喋りながら歩いていく。
大柄な狼の群れの中で、さらに頭一つ分抜けた黒狼も、議場に向かっていた。
一番乗りの議員が、間もなく集会場に辿り着くというところまで来て、足を止める。
くり抜きの採光窓から眩しい光が差し込んでくる岩盤の廊下で、マダラの小柄な姿が待っていた。
ゆったりとした長衣の帯に、緻密な細工の入った黄金をあしらった、細身の鞘があった。
中身は、レイピアである。力任せが多い狼の戦士には極めて珍しい武器だった。
マダラであるからこその武器選択であり、易々と防具を貫くことでコーネリアスの戦士と鋼の質を知らしめた、工廠の熟練鍛冶の手による名剣である。
その柄尻に手のひらを乗せて、ガルマリウドはじっと立っている。
何事かと足を止めて様子を窺う議員と通りがかりの野次馬の中から、ガルマリウドの目がよく目立つ黒狼の碧い眼を見つけ出した。
「ジエリオを使って馬鹿どもを煽っているのは、貴様か」
それと察した野次馬たちが、道を開ける。具足の音を響かせて、黒狼が進み出て、腕を伸ばせば届く位置で立ち止まった。
様子を見ていた人だかりがどよめいた。
「云え」
ガルマリウドが、低く唸った。
レイピアの間合いである。ジグムントはそれと知って、敢えて間合いに深く入り込んでいた。
籠手に包まれた両の手は、体の脇で静かに下がっている。
「私のところにも来たが、断った」
ガルマリウドの威嚇するかのような唸りに劣らない、低い声が応じた。
耳鳴りがするほどの緊張感が、その場を満たす。ジグムントは、腕を伸ばせばガルマリウドに手が届く場所にいるのだ。
鋼の籠手と具足は、十分な技量で振るわれれば、鈍器と変わらない。
ジグムントもガルマリウドも、相手の手の内を窺うような構えだった。読んでいるのは、言葉の真意か、抜き打ちの機か、区別はつかない。
「ふん」
ガルマリウドが、緊張を解いた。レイピアの柄から、手のひらが離れる。
「ならば奴の独断か。姑息な手を見て、ちらとでも貴様を疑うとは、おれも老いたな」
忌々しげに吐き捨てると、ガルマリウドはジグムントの横を通り過ぎて、坑道の廊下通路を下っていく。
「ジエリオは、おれが始末をつける。貴様はふらふらするなよ。平時の如く、座っていろ」
「お、おいガル爺、議会は!? ジエリオの件も扱うぞ!」
慌てて声をかけた中堅の議員に、レイピアの切先のような眼光が投げつけられる。
「ジエリオにつられた馬鹿どもを引き戻す算段なら、勝手につけていろ。ジエリオの奴め、どうせゼリエに離縁されたのを恨んで、こんなことを言いだしたのであろう。
ならば、おれがやることだ。議会決定なぞ、待っていられるか」
そのまま振り向きもせずに立ち去っていくマダラの小さな背を見ながら、議員たちは呆然としていた。
「よくかわしたな。ガル爺がああなったら、何言っても聞かねえと思ってたが」
「ま、弟子みてえなもんだしな」
「クードバムに話通さなきゃなんねえな」
そこかしこで誰かが、小さく囁き合っている。
家長権限を言うのであれば、ジエリオの家族なら、長老議員クードバムである。
「喧嘩になるか」
「なるだろうな。ガル爺がやる気だ。いきなり剣持って問い詰めに来るなんぞ、相当腹立ててるぞ。クードバムが喧嘩に混ざるかどうかは知らねえけどよ」
今日の議会は、ジエリオに煽動される若者たちの他に、ジエリオに私的制裁を加えようとしているガルマリウドをどうするか、も取り上げなければならないだろう。
ぞろぞろと動き出した野次馬たちの列が、やや足取り重く集会場に入っていく。
祭司団が謹慎中の戦士を連れ出したことが、長老議会で問題になっているという話が断崖城に広まった頃、戦士団の中でも動きがあった。
議会で上がる問題については、もちろん議席を持たない者たちも井戸端評定を行う。
もちろん、議論に熱が入ることもある。この辺りは、老いも若きも変わらない。我が意を通す気の強さは、戦士として当然に持っているべき資質でもある。
「年寄り連中は何をやってるんだ。議会決定覆されて、黙ってるつもりなのかよ」
「おい、お前のとこの爺さん、議員だろ。何か言ってなかったのか」
「いいや、特に何も聞いてねえ」
「まったく、お前は。帰ったら聞いてみてくれよ、何もしねえのかって」
「ええ、勘弁してくれよ。爺さんの話長えんだよ」
まばらな木陰の下で、年若い戦士が車座になっていた。一人は肘を突いて寝そべり、あとの二人も木に背中を預けていたり、あぐらをかいて頬杖をついていたりと、
今は特にすることもないのか、すっかり力の抜けた様子である。
「てかよお、何かしねえとまずい状況なのか? 他の氏族にさらわれたわけじゃねえし、祭司団で面倒見てるならいいんじゃねえの」
「馬鹿お前、俺たちの決めたこと無視されて何も言わねえなんぞ、男の沽券に関わるぞ」
「そうそう。ここで手を出さねえのは、弱い奴か腑抜けかのどっちかだ。俺たちが祭司より弱えなんてことは、ねえだろ。じゃあ、やることはひとつじゃねえか」
「そうかあ?」
「その通りだ」
若者たちの後ろから、太い声がかかった。
あわてて振り返る彼らの前に、体格のしっかりした戦士が立っている。
誇示するように牙を剥いた表情が、狼らしい獰猛な雰囲気を滴らせていた。
「誰だ?」
「ジエリオか。こんなとこに何の用だよ」
「いい目の付け所をしている奴らの話が聞こえたんでな、ちょっと寄らせてもらった」
だらだらとしていた三人は、雰囲気に押されて居住まいを正し始める。
ジエリオは構わず歩み寄ると、車座の空いているところにどっかりと腰を下ろした。座る位置の間隔を取る三人の顔を見渡し、たっぷりと溜めを作って話し出す。
「お前たちの言ったとおり、年寄りは女どもにビビッて文句すらつけねえ。だから、誰かが代わりに女どもに教えてやらなきゃならねえ。
議会で決めたことを力づくで曲げようったって、そうはいかねえってことをよ。そうだろ?」
「まあ、そりゃそうだけどよ」
ジエリオの出方を図りかねて、先程までそう主張していた者の返事も、歯切れが悪い
「元を正しゃ、常日頃から祭儀には他の奴が立ち入っちゃいけねえだの、祭司団の区画にゃ入っちゃいけねえだの、女どもは何か勘違いしてやがる。
だから、ここらでひとつ、その考えを直してやらなきゃならねえ。そこで、俺に考えがある」
「ああ」
生返事である。それを同意と見て取って、ジエリオはやや身を乗り出しながら拳を握った。
「女どもが勝手に連れて行ったジグムントの娘を取り返す。そうすりゃ、女どもも身の程を知るだろうし、年寄り連中も目が覚めるはずだ。
俺たちだって、戦士の分を守ったってことでよ、悪いようにゃならねえだろうよ」
若者たちは、顔を見合わせた。彼らの生まれたときから、祭司団の分掌は祭司団に任せるというのが常識である。
ジエリオだってそうであるはずだ。
「なあ、ジエリオ」
長老議員を祖父に持つという、ぼんやりした一人が手を挙げる。
「そんなことしてよ、祭司長の面子はどうなんだ?」
彼の顔に、肉食獣の攻撃的な眼差しが叩き付けられる。
「そんなざまだから、年寄りは舐められているのだ。先に仕掛けてきたのは、女どもの方だぞ。恥をかくのなら、身から出た錆だろうが」
怒鳴りつけられて、腑に落ちない表情ながらも若者は黙った。
傍らの二人は、それぞれ違った表情を浮かべている。
「ジエリオ、いつやるんだ?」
完全に乗り気になっているのが、一人。若さからの血気に逸っているのがよくわかる。
「まだ決まっちゃいないが、そう遠くはねえ。今も何人か、一緒に行く奴を集めてある。ある程度頭数がそろったら呼ぶぞ」
もう一人は、義務感に突き動かされているようだった。
「まあ、あんまりいいとは思えねえけど、締めるところは締めねえとなあ」
「おお、そう来なくてはな」
二人の賛同者を得て、ジエリオは鷹揚に頷いた。
その顔が、ぼんやりした若者に向く。
「お前はどうするよ」
「ううん、俺は」
「じゃあ、お前も呼んでやる」
やるともやらないとも返事をする前に、ジエリオは若者の背を平手で豪快に張り飛ばした。
ジグムントが書籍を集めて目を通すようになったのは、上の取り決めで結婚させられてしばらくしてからだった。
行商が在庫に持っている雑多な数冊を、系統問わず引き取って読み漁る姿を見て、彼を知る者たちは、嫁の機嫌をとるために話の種を用意しているのだなどと
冗談めかして囁きあったものだが、本当のところジグムントが何を考えているのか、推し量りようはない。
少なくともその習慣は、その妻との間にできた娘が一人前の戦士として外に出るようになった今もまだ、続いている。
明かり窓から差し込む昼下がりの光で、両手で抱えるほどの分厚い博物図鑑を眺めていたジグムントの私室を、訪ねる者がいた。
「いるかい」
扉代わりの分厚いカーテンの端が、少し持ち上げられる。隙間から覗いた顔は、ジエリオのものだった。
「話があるんだが、いいか?」
ジエリオの様子を見て、博物図鑑に栞を挟んで閉じると、ジグムントは椅子に腰を下ろしたまま、来訪者へ向き直った。
「何だ」
「何だ、じゃねえよ。あんた、こんな所で何をしてるんだ」
カーテンを跳ね除けると、ずかずかと大股に歩み寄ってくる。
「自分の娘が連れ去られて、よくもまあ呑気に本なんか見てられるな。なんとも思ってねえのか」
ジグムントは答えず、じっとジエリオの顔を見ている。
「お前が祭司連中を追い返してまで鍛えた娘が、女どもにいいようにされてるんだぞ。家長としても、何かするべきじゃねえのか」
「何をしろと言うつもりだ」
ジグムントの表情は、相変わらず読みようがない。
「奴らがそのつもりなら、こっちも奪い返しにいくまでだろうが。聞いているぞ、生まれたばかりのレムを取り返しに、祭司団へ斬り込んだそうだな。
あの時のことを、もう一度やるだけだ。何を躊躇うことがあるんだ」
ジエリオが口を閉じる。間が、あった。
「話は、終わりか」
「なんだと!?」
「連れ戻しに行けとは、既にガルマリウドから言われた。私のすることは、変わらん」
ジエリオを見つめる碧い眼が、押し迫ってくるような気配をはらんだ。
「話は、終わりか」
ジエリオは、今の短いやり取りのどこかで虎の尾を踏んだらしいと、ようやく理解した。
ならばなぜ行かない、などとは聞ける雰囲気ではなかった。
ドオリルが、にこにこしながら戦槌をいじっている。
槌頭がきちんと嵌っているかどうかを確かめるのは、武器工廠に持っていく時期でなくても定期的にやっておくべきことである。
ただドオリルの場合は、ふと思い出した時以外にも、気がかりなことがあれば、何かと槌をいじり回す。
昨日も武器の調整をしている夫を見ているからこそ、妻はドオリルに声をかけた。
「あんた、なんか心配事あるんじゃないの?」
顔を上げたドオリルは、意外そうな気色だったが、相変わらずにこにこしたまま槌に目を落とす。
「いやあ、なあ。前にレムがなんとかって話したろ」
「したわね」
「どうも今頃、戦士団の若いのが騒ぎ出してなあ。議会決定を無視すんのは何事だ、っつってよう」
「随分悠長ね」
「そうなんだよなあ。そっちには、何か伝わってねえかあ?」
「何かって、何よ」
「んん。なんか中心になってる奴がいるとかいねえとか」
ひょいと頭を上げた夫の顔を見ているうちに、妻は少し苛立ってきた。状況的に、ドオリルが自分より情報を持っているのは、疑いようがない。
「何もないわよ。何かあるならさっさと言いなさいよ」
言葉に険があったか、ドオリルがしょぼくれた感じでまた槌に目を落とす。
こういうときでもにこにこしたままである。噂では、戦場でもこの表情のまま敵を叩き伏せるらしい。
「どうもなあ、ジエリオが若いのを煽ってるらしいんでよう」
ようやく腹を決めたのか、また顔を上げてぼつぼつと語り始めた。
「ジエリオ?」
「ほれ、ゼリエの二番目の旦那だよ」
「弟の方?」
「おお、弟の方だあ。というか、兄貴の方は死んでるって言ってるだろうがよう」
「えっと、クードバムのとこの似てない兄弟ね。どっちだったかしら、冴えないお人好しは」
「兄貴の方だなあ。ジエリオはホレ、山賊の頭でもやってりゃあサマになりそうな方だあ」
「ああ。あの」
あまりはっきりとは思い出せないまま、相槌を打つ。職業柄、あまり男と顔を合わせる機会がないのである。
家族や近所や古馴染みならともかく、噂を聞く程度の相手では、こういうことはよくある。
「なんでまた、そんな。別れた奥さんに嫌がらせかい?」
「かもしんねえなあ」
膝に乗せていた整備道具を放り出し、ドオリルは背伸びをした。
「実は俺も今日、声かけられてよう」
「乗ったんじゃないだろうね」
「馬っ鹿、誰が乗るかよ。そんなに考え足らずじゃねえぞお」
「若くもないしね」
「うるせえやい」
売り言葉に買い言葉だが、ドオリルは妻になんとかわかりやすいように説明するべく、頭を回転させているところである。
「なんつうかなあ、戦士団の面子が立たねえみたいなことをずっと言っててなあ。恨みがましいことは欠片も言ってなかったけどよう」
「じゃあ違うんじゃないのかい」
「いや、なんか、どうも祭司団の詰所に押しかけるつもりみてえでな」
「あんた、それを早く言いなさいよ!」
夫のいじっていた戦槌を取り上げ、それで頭を張り飛ばす。
祭司をやっている妻には大問題だというのに、このいつもにこにこしている間抜けは呑気に武器を磨いているのだ。
「いってえ、勘弁してくれよう。変に気にしちまってもよくねえだろお」
「何がだい。あんたまさかついてくつもりじゃないだろうね」
「行かねえってば」
「本当だろうね」
「ほんとだって」
戦士らしくもなく、両腕で頭をかばって降参のポーズをとる夫に、なんだかため息が出てきた。
寝椅子を引き寄せて、腰を下ろす。
「にしても、元の奥さんに嫌がらせするのに、わざわざそんなことまでするのかねえ」
「まあ、普通はやらねえわな。でもジエリオだかんな。盗賊の親玉が向いてるっつったろ? やりすぎるくらいやり返すんだよなあ、あいつ」
「あらそうなの。別れられたのがそんなに気に食わないのかねえ」
「ゼリエの方から縁切ったのが気にいらねえんじゃねえのかねえ。あれでケチがついたみてえなところあるしよう」
「ふうん」
外を見ると、朱色の太陽が地平線に向かっているところだった。
「ちょっと、祭司団に話してくるわ。早いうちがいいでしょ」
「んだなあ」
頭を張りつけられた後はそのまま放り出されていた戦槌を取り、ドオリルはまた武器の手入れに意識を傾けた。
ゼリエも、当時の祭司長アルバレラから嫁ぎ先を決められて結婚した。
祭司という仕事上、男と顔を合わせる機会はほとんどなかったが、それでもゼリエを見初めた男が二人いた。
クードバムの二人の息子、ファルケとジエリオである。
気弱で心優しいファルケは、才能がなかった。後進の戦士にも遅れをとるくらいで、どうして他の職集団に行かなかったのか、誰もが疑問に思っていた。
弟のジエリオは、まさに荒くれ者といった表現が似つかわしかった。もっぱら腕力で己の意を通し、少しでも自分の立場を悪くするような行動をした者があれば
意図したしないに関わらず、長々と根に持ち、時には短絡的な手段で遺恨を晴らしもした。
その代わり、強かった。
当時の祭司団は、強い戦士に力のある祭司を娶らせて、秀でた狼を生ませようということをしており、そんな中で夫婦の選別に男の想い人を考慮した点については
周囲の者たちは快哉を叫んでいたが、そんなつまらない気の利かせ方で結局方針が不徹底に終わったことを、苛立った気持ちで聞いていたことを覚えている。
さらに、ゼリエがファルケに嫁ぐことが決まったと聞いたときは、アルバレラがいったい何を考えているのか、わからなくなった。
普通の野盗征伐でも戦死しかねない男である。
当然、気位の高いゼリエは、ファルケの存在を徹底的に無視したという。
子が生まれる話も聞かれるはずもなく、ファルケも少ない貯えからあの手この手で気を引こうとするが、すべて鼻にもかけられなかった。
つれない想い人に平身低頭しながら尽くす、冴えない戦士の姿は、もはや侮蔑の対象ですらあった。
そんな中、ファルケが死んだ。
盗賊を全滅させて気を抜いているところを、死んだふりをしていた敵に刺されたのだという。冴えない男に似つかわしい、冴えない最期だった。
妻の務めとして自ら葬儀を行った以外は、ゼリエは心を動かした様子もなかった。
ゼリエの次の夫は、ファルケの家族からの要望で、ジエリオに決まっていた。
その間、何があったかは知らない。
だが、友邦の守りに出向いて、女が出てこなければ怒り始める男である。噂では、宿舎に給仕に来た娘をそのまま組み伏せ、三日三晩監禁したこともあるという。
あの時のゼリエの破れた衣と乱れた髪と、いつからかすっかり見せなくなっていたはずの憔悴しきった表情を見れば、想像もつくというものである。
離縁したと氏族は言うが、それは双方の家族が必死に取り繕った結果である。ゼリエは、逃げ出したのだ。
今から思えば、最初にゼリエの夫にファルケが選ばれたのは、祭司団がジエリオの蛮性を嫌ったからかもしれない。
「ガルマリウドじゃねえか」
目抜き通りの向こうから、数十人の若い戦士を引き連れたジエリオが歩み寄ってくる。
まっすぐ行けば城塞がある。武器こそ持っていないが、皆一様に高揚した顔つきをしている。
ジエリオだけが、幅広剣を佩いている。
「俺の義挙に乗ってくれる気になったか。助かるぜ、議会の石頭どもも年寄りの戦士どもも、何にビビッてんのか動きもしねえ」
少なくとも、家長も長老議会も沈黙を決めた案件を引き合いに徒党を集め、逆恨みを晴らそうという無法者である。
ジエリオがいくら強くとも、夫や父としてはファルケの方が相応しい、と思った者が多かったのかもしれない。
「ジエリオ、貴様はここから先に行かせぬ」
手ごろな岩に腰を下ろしたまま宣告する。
クードバムには、ジエリオの行動とその結果には感知せぬと言質をとってある。
一人前の男のすることに口を挟むなどという浅ましい真似はせぬ、とまで言っていた。
ガルマリウドは、レイピアを持ってきている。柄に精緻な金細工の入った、現役当時から目方も寸法も変わらない、細い刺突剣である。
「おい、なんつったガルマリウド」
「ここで馬鹿どもを解散させて家へ帰れ。二度とつまらぬ気を起こすな」
「なんだとジジイ」
ガルマリウドの威に圧されて烏合の衆がたじろぐ中で、ジエリオだけは怒りを露わにした。
「家長も長老議会も静観を決めた以上、貴様ががたがた言う筋合いではないわ」
「言いやがるな。てめえらが腑抜けてっから、俺たちが代わりに是非を正してやろうってんだろうが」
ジエリオのひと睨みが来る。格下なら、目をつけられたと肝を冷やすところである。事実、この睨みを受けてから、何かにつけて絡まれる者は少なくない。
「ほざきよるわ、ゼリエに離縁された恨みを晴らす、体のいい口実を見つけただけであろう」
後ろの衆の目が、ジエリオに集まる。一人剣を携えているのは何のためなのか、疑念が視線に浮き上がり始めている。追随者は動揺していた。
「俺が逆恨みだと!? 言うに事欠いて下種の勘繰りを」
「その勘繰りを許すほど、貴様の行状は乱れきっておろうが。おれの目が節穴と思うか」
互いに、間合いを測り始めたのを感じて、ガルマリウドは岩から降りた。主張は平行線で終わるだろう。
ジエリオもガルマリウドも引く気がないのであれば、結局は己が名に懸けて、剣で勝負をつけるしかない。
そこまで意見を押し通そうとする者も少なくなってきたが、コーネリアス氏族では伝統の決着方法である。
ガルマリウドも、若い頃から今まで、何人も倒したし、何度も倒された。
「ゼリエに離縁されたのは、おのれが家人としては最悪の部類であると衆目に晒したようなものだからな。
あれから風当たりが強かろう。とっとと帰れ。ろくに戦えもせん女どもの居所に剣なぞ持ち込もうとしおって、馬鹿を上塗りするつもりか」
ジエリオの目が血走り始めた。野盗にでも生まれついたほうが、性分に合っていただろう。
ガルマリウドが長老議会に在籍できるくらいの実力者とはいえ、マダラの上に年老いて衰えただろうと踏んでいるのか。
「剣を言うなら柱担いで斬り込んだジグムントの野郎はどうなる! 適当なこと言ってやがると」
「抜け」
さらりと音を立てながら、レイピアを鞘から引き抜いた。
白銀と見紛うほどの、針のような美しい刀身が、高地の冷涼な空気に触れて細かく震えた。
「この、マダラじじいが」
ジエリオが、応じるように幅広剣を引き抜く。ガルマリウドの呼吸を窺いながら、低く構えた。
攻撃の動作を見せれば、攻め手ごと叩き斬ろうというのだろう。寸止めも峰打ちも、する気はあるまい。
その構えた姿勢に、ガルマリウドはひょいと切っ先を通した。
喉の肉の柔らかい手ごたえが、レイピアのしなりを通じて手に伝わってくる。
「あ?」
返し技狙いで、むしろガルマリウドの攻撃を待っていたはずだった。待っていた通りの攻撃が来て、まったく反応できなかった事実に、ジエリオが間抜けた声を上げる。
喉から生えた銀の輝きを見下ろすその目を覗き込み、ガルマリウドは切っ先を奥に押し込むかのように小さく囁いた。
「貴様があの朴念仁と同じと言うつもりか。身の程知らずにも程があろう」
引き抜くと同時に身をかわすと、ガルマリウドがいた場所に、噴水のような血が飛び散った。
既に、野次馬も多くいる。中にはちらほらと長老議員の姿もあった。
仲裁に入ってこなかった。この件も、静観と決まったのだろう。氏族の内は、家族単位の折衝に任せる傾向が強い。
「散れ」
血のついた剣を手に持ったまま唸ると、旗頭を失った烏合の衆は、ばらばらと散っていった。
その日の夕暮れ、レムがゼリエの講義を受けていると、ゼリエ宛だという伝令の娘が来た。
ゼリエは、講義を邪魔された不快感を一切顔に出していないにも関わらず、すっかり萎縮している娘は、レムには聞こえないように小さく何事かを告げた。
レムには、少しゼリエの表情の雰囲気が変わったように見えた。
伝令の娘に向き直り、たった一言「そうですか」と告げたゼリエは、空恐ろしくなるくらい無表情だった。