猫耳少女と召使の物語@wiki保管庫(戎)

四・星の石

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鋼の山脈 四・星の石

 

 


 尖塔にいる時、霊地の環状列石の上から、地上を見下ろす夢を見た。
 あの時は、尖塔に留まろうとしていた自分を諌めるためのものだと思っていたが、再び戦士に戻った今、それだけではなかったように思えた。
 母は、二日に一晩通ってくる父に、外の話をせがんだという。戦士であれば、断崖城の外へ出ることが出来るのか、と、何度か尋ねたとも聞いた。
 もはや他人から伝え聞くしか母を知る術はなかったが、それでも母が尖塔に閉じ込められている自分の環境を不満に思って、子供には広く外を見聞きしてもらいたいと
 考えていたことは、十分に想像できた。
 あの日の夢に映し出された幽玄な山脈の姿は、尖塔から解き放たれて見ることが出来た、世界の美しさを伝えようとしていたのではないだろうか。
 そう思うと、胸中に少しずつ、何をすべきかが見えてくるような気がしてきた。

 父の部屋に入ると、父は相変わらず机で書見をしていた。
 これも母のために始めたことだと思うと、長老議員たちが堅物の父を何かと気にかけている理由も、なんとなく理解できる気がする。
「父様」
 声をかけると、父はどっしりと鎮座した状態で首だけをレムに向けた。
「どうした」
「他国へ行ってみたいです」
 父娘の間は、一言で足りた。母の望みは、父も知っている。
 間があった。
「定期の派兵は既に終えている。直接の要請もない。あったとしても、お前はまだ年限に遠い」
「はい」
 つまり、コーネリアス氏族としての派遣傭兵にはなれない。あと何年か、経験と実績を積まなければならないのだろう。
 失望が胸に広がりかけたが、父はまだ何か考えているようだった。
「他国のことは、どれほど知っている」
「いえ、ほとんど」
「希望はあるか」
「いえ」
 漠然とした望みであることを指摘された状態だった。自分がどれほどいい加減な希望を述べていたか、目に見える形で示されて、汗が額に滲む。
 父は相変わらず、巌のような表情で、じっとレムに視線を注ぎながら何やら考え事を続けていた。
「レム」
「はい」
「アトシャーマは知っているか」
 狼の住む北部山岳地帯の北、一面が白銀に埋まった不毛の土地に、魔道で組み上げた兎の楽園だと聞いている。
 兎の噂は聞かない。行商人の話を聞けば、戦闘には弱い割に仲良くすると気持ち悪くなるくらい擦り寄ってくる、扱いに困る種族だというが、実際のところはわからない。
 断崖城ほどに離れてしまうと、かつて狼が兎を猛撃して北に追いやった程険悪な関係だったなどという伝承は、事実かどうか確かめようもない。
「あまり詳しくは」
「ならば、アトシャーマへ行け。着いたら、誰でも構わん。入国審査の者に伝言を頼め。『絨毯屋より三月兎へ、委細任せる』と。議会への通知は、私の旧友への使いということにしておく」
 隠す気のまったくないカムフラージュではあったが、こうやって理由をつけることで、父が公認したものと周囲が認識する。
 家長権限の範囲であれば、口を出してくるのは一部の気の強い者くらいで、それがあったとしても議会にかけられるほどではなくなる。
 つまり、タワウレ氏族に行った時と同じである。
「経路と荷は自分で決めろ」
「はい」
 事実上の一人旅であった。北部山岳地帯には慣れているとは言え、断崖城からある程度離れればレムにって未知の領域になる。
 途上に何があるかわからない以上、派遣傭兵団より危険な旅になるかもしれない。
 だが、父はそれを承知の上で、こう言っているのだろう。
 気持ちが引き締まる思いだった。やや冷たい緊張があった。
「父様、その旧友は兎ですか」
「そうだ」
「どんな兎ですか」
 あまり良い噂を聞かない兎という種族に対して、少しなりともイメージを持っておきたかった。
 父の碧い眸が、レムを見る。
「私は、兎が大嫌いだ」
 表情を変えず、父はそう言った。


 断崖城の霊地は北へ向かった斜面に位置しており、遠望すればこれから自分が行く方角を見渡すことが出来る。
 霧の立ち込める谷底や、木々の生い茂る山道は、さほどの難所ではないだろう。
 とは言え、これから行く場所は、氏族の威の効かない未知の領域になる。
 今まで、自分の剣腕で十分山岳地帯を渡っていけると思っていたが、いざ後押しがなくなるとなると、妙に心細い気分に襲われた。
「まあ、可愛い子には旅をさせよっちゅうが、また思い切ったのう」
 台座ほどの大きさの石柱に、例によって老狼が寝そべっている。
「おじじ、兎ってどんな種族なんだ」
 目下最大の疑問は、それである。
「なんじゃ、あやつは何も言わなんだか」
「そうなんだ。多分、自分で理解しろってことなんだと思う。聞いたけど、大嫌いだって、ただそれだけ」
「ふうむ、大嫌いとのう。子ウサギとは随分仲良くやっておったから、兎ともそれなりにうまくやっておると思ったんじゃが」
 骨と皮ばかりの手を顎に当て、ごろごろと空を仰ぎ見る。
「なあ、おじじ。狼と兎は、仲が悪いんだったよな」
「と、言うな。わしは若い頃は狐やら猫やらを相手にしておったから、わしらと兎の険悪ぶりについてはそんなに詳しくはないんじゃが、そうじゃな。
戦場に出てきたときは奴らの魔法が厳しかったのう。何しろ、犬猫のようなわかりやすいものではなくてな。
兎めの拠点に突撃したら、雪原がいきなり光りだして滑って立てなくなってな。その隙に、矢や石が雨と注ぐわけよ。なんちゅうか、罠向きなんじゃな。
しかもそれだけじゃなくてのう。兎の十八番は、神経に来るんじゃ。野営中に夢の中で兎の大群に奇襲を受けて、損害は出ておらんのに、退却してしもうた部隊もあったわ」
「なんだ、それ」
「まあそう言うな。当時はまだ、わしらと精霊は何の縁もなかったでな。兎の魔法が覿面に効いたんじゃよ。まあ、ちゅうてもこっちの間合いに捉えてしまえば
たいした相手ではなかったわい。将官級ともなれば魔剣の類を持っておったが、それ以外は畑の草刈のほうが手間がかかる程度でしかなかったな。
普通の立ち話をしたこともあるが、まあ善良な民という印象じゃったかの。じゃが、兎と主に戦をしておった北方軍の連中はそうでもなくてな」
「北方軍?」
 うかうかと聞き返した瞬間、老狼の目がきらりと光った。年寄りが、かつての栄光を語る時の輝きである。
「おお。指揮官は誰じゃッたかのう。何しろ八狼十狗なんぞ八だの十だのおるからのう。大体顔見知りじゃったが、さすがに二千年も昔となると」
「おじじ、それはいい」
 長くなること必至の老狼の法螺話を、始まる前に一言で断ち切る。
 思い出話など、いちいち聞いていたら日が暮れてしまう。それに、ビスクラレッドが並の狼の寿命を越えていることは認めるが、千歳を越えて健在など猫であってもありはしない。
 大方、開祖と同じ名前なのをいいことに、あれこれ言を弄してにやついているだけ、というのが実際のところだろう。
 出鼻を挫かれた老狼は、つまらなそうに口を尖らせながらも、おとなしく話を元に戻した。
「北方軍は制圧した兎の統治もやったからのう、兎に関わる奴も多かったわけじゃ。まあ最初は兎を絞る奴らと、ほどほどに好意的な奴らが半々ぐらいじゃった。
じゃが、なんでも気味が悪いだの、反りが合わんだの、そういう理由らしいが、だんだんきつく当たる奴が増えてな。融和の話は出ておったが、結局銀氷平原に追い出したのは知っておる通りじゃよ」
 そこで、老狼は一端息を継いだ。
「ともかく、わしらと兎とはそんな関係じゃ。行くなら気をつけえよ。もし駄目だと思うたら、血を見る前にとっとと引き上げてくるんじゃぞ。
タワウレの時は友邦で近かったから良かったが、兎の懐ともなれば、危地に陥ってもわしらのところまで知らせは来んし、よしんばわかったとしても助けには行かれんぞ」
 うっかり忘れようとしていた不安を改めて突きつけられ、少し胸のうちが冷えた気がした。
 今までの隊商護衛なり盗賊征伐なりでは、一人で多数に囲まれても、最終的に断崖城に逃げ込めば安心だったのだが、これからはそうもいかなくなる。
「お、そうそう」
 締め括りに入った老狼の顔が、にたりと歪んだ。
「兎どもの間では、交尾は挨拶代わりらしいからのう。嫁入りの箔付けのためにも、処女は守れよ」
「何を」
 顔が引きつるのを感じた。一拍間をおいて、熱さと汗が顔から噴出してくる。
「今は色々遊び方も増えとるそうじゃの。試してみるのも若さじゃが、あんまり遊びすぎるなよ。気に当てられてケバくなって帰ってきたら、わしは悲しいからのう」
「誰がやるか!」
 思わず手に持っていた蛮刀を投げつけた。
「ひゃひゃひゃ、相変わらず当たらんのう」
 掠めるどころか、剣の反りによってまったく関係のないほうへ飛んでいく始末である。
 歯噛みしたところで、当たらないものは当たらない。釘帯に手が伸びたが、どうせ当たるまい。こんなことでトヲリの風釘を打つのも、あの黄衣の子供に呆れられそうであった。
「くそっ」
 掛け声で忌々しさを吐き捨てて、環状列石のあさってのほうに落ちた蛮刀を拾いに行く。
「兎は種族見境なしらしいからのう、寝入った後にも気をつけえよ」
 何がそんなに楽しいのか、じじいの声が弾んでいるのがまた癪に障った。


 その日の献立は珍しく、家畜の腿肉を香草でソテーしたものという、手の込んだ料理が出てきた。
 普段の通りにぞんざいに香辛料をかけられたものならともかく、こういう香りも味わうものが出されると、いつもの通りにがつがつと食らいついていいものかどうか、少々戸惑ってしまう。
「いいんだよ、細けえ事は」
 近くに席を取っていた錆び銅色の片耳の狼が、一口で半分をかじりながら言う。
「腹に入りゃ変わらねえって」
「大雑把だあなあ。せっかく調理頭が手の込んだ物作ってくれたんだあ、よく味わって食わなきゃよう」
「香草つけて焼いただけだろうが。気にするこたねえ」
 何やらやりあっているドオリルとバノンを放っておいて、脂が滴る肉にかじりついた。
 脂のこくのある味わいが、肉の焦げと香草の風味と合わさって、また一段と味に深みを増している。
 口の中に肉の香りを溜めたまま、鼻から息を吐いてみると、舌と鼻で二度味わう状態になった。
 バノンが、こちらをまじまじと見ていた。
「面白え顔してんな」
「いいだろ、別に」
 肉を飲み下して、次に手を伸ばす。今度は、無様な表情を見せないように、普通に噛んで飲み込む。
 ドオリルは、相変わらずにこにこしている。
「そうそうレムよう、今日はテッドが随分懐いてたなあ」
「ん、ああ」
 修練場での組み打ちの時に、レムよりやや歳の若い戦士が随分と食い下がってきたのだった。
 一本取られてもすぐに向かってくる割に、どうも身が入っていないのである。
「ありゃお前に惚れてるぞ」
「やっぱりそうなのか」
「お、気付いてたかあ」
「まあ、あれだけあからさまなら、さすがに」
 やけに体が密着する技が多かったり、のしかかるばかりの技とも言えない技があったり、組む相手もレムと多く当たるように交代していたりすれば、十分察しはつく。
 それ以前に、向き合って目つきでわからないようでは、実戦にも出られない。
「んで、どうなんだ。好みか?」
「いや、別に」
 というより、ああまでの押し付けがましい男臭さに、どことなく気持ち悪ささえ感じている。
 組み打ちをやるたびにあの調子なら、しばらくやりたくない気分でもあった。
「聞いたかドオリル、年下は眼中にねえとよ」
「いやあ、あんな親父がいちゃあ、年下どこの騒ぎじゃねえんじゃねえかなあ」
「ああいうのをもう一人見つけてくるのは骨が折れるな。こりゃ嫁入り遠いな」
「今のうちに、どいつか目星をつけておいた方がいいかもなあ」
「俺たち総出で鍛えりゃジグムントに勝てそうな奴か? へへっ、リュカオンでも連れてきやがれ」
「そんなことは別にいいだろ」
 さすがに我慢しきれなくなって、抗議した。男女のことなどまだあまり考えたくもないのに、こうも下世話に盛り上がられては気分が悪い。
「しっかし、どうして急にそんながっつき始めたんだろうな?」
「おおかた、レムが北に行くって聞いて、焦ったんじゃないかねえ」
「ははっ、いいねえいいねえ、初々しいじゃねえかオイ。相手がつれねえのがまたいいねえ」
 心臓にまで分厚い筋肉を纏ったのか、壮年二人は気付かぬ様子である。
「おい、いい加減にしてくれ」
 ちらりとレムの様子を見たドオリルが、こりゃまずいと言いたげな表情を目じりに浮かべた。顔は、相変わらずにこにこしたままである。
「修練の組み打ちに次第に熱が入り、いつしかくんずほぐれつ……って何だよドオリル」
「イジメんのも、ほどほどにしとかねえとなあ。それよりよう、レムになんか言ってやれ。北は慣れてるんだろお」
 ドオリルは、こういう時の執り成しはうまい。人のいい性格もあろうが、常ににこにこしているので、相手は自然と構えを崩されるのだ。悪い印象ではない。
「お、そうだな。そんじゃあ北に詳しいこの"滴り落ちる霧雨"が、とっくり解説してやるか」
 片方だけ残った耳を威勢よく立てて、得意げに腕を組むバノンは、転戦経験の多い傭兵である。これで軽薄さがなければ、年齢相応に敬意を払われるだろうに。
「そうだな。北は友邦の輪の外に出たら、大体盗賊ばっかりだと思っとけ。何しろ兎の国への経路が近いからな、隊商を襲えば一財産ってのが多いんだよ」
「そんなにひどいのか」
「おお、ひでえひでえ。親切な集落に泊めてもらったと思ったら、夜中に囲まれてたりなんてのはザラだぜ」
 ということは、氏族まるごと盗賊という場合も多いのだろう。
「女でガキで一人歩き、なんてバレたら行きがけの駄賃でとっ捕まえられるぜ」
「ということは、野宿で我慢しなけりゃ駄目ってことか」
「だろうなあ。うっかり止めてもらった日にゃあ、売り飛ばされるかあ」
「売られりゃまだいい方だろうよ。ああいうところは女が足りてねえからな」
 その後はあまり考えたくもない。さすがに氏族ひとつに包囲された状態を斬り破れる自信はなかった。
「それじゃあ、どこかの集落に近寄るのも避けた方がいいのか」
 そうなると、厳しい旅路になる。途中で労働や作業を手伝いながら、食事を確保するわけにはいかなくなるのである。
 隊商に出くわして、護衛に加えてもらうという手もあるが、大抵は既に護衛がついているだろう。そもそもレムを見て、護衛に雇う気が起きる者も、そうはいない。
「ついでによう、コーネリアス氏族だってのも、黙っておいたほうがいいんじゃねえかなあ」
「んーまあ、そうだな」
 バノンは、レムの何の気なしの独り言を受けて、何か考えていた。
「アラバ氏族がまだ残ってたら、絶対寄ってけ。あそこの連中は信用していい」
「アラバ?」
「おう。妙に勘が鋭い奴ばっかだから、弱ってりゃ向こうが勝手に察して、拾ってくれるはずだ」
 困った旅人に親切にするのは、この辺りの友邦ではよくある光景だが、聞く限りでは北方氏族は、そうした仏心を出すと付け入られそうな環境のようである。
「なあバノンよう、最後にアラバ氏族に会ったのはいつだあ?」
 感心すると同時に不安になったのは、レムだけではなかったらしく、妙に得意満面のバノンに、ドオリルがにこにこと横槍を入れる。
「二十年ぐらい前だ」
「はー。大丈夫かよ」
 情報が古い。同じことを考えていたのか、ドオリルがレムに顔を向けた。
「ま、ご覧の通りだあな」
「おい、どういう意味だ」
「いや、参考になった。すまないな、バノン」
「おう。いつでも聞きに来いや」
 レムの礼を聞いて、すぐに機嫌を直してふんぞり返っているバノンを、ドオリルがいつものにこにこした顔に苦笑いを含ませている。
 このバカささえなければなあ、と言いたいのが、目に見えるようだった。

――

 知った道を進むのは、早かった。
 北へ行くのは初めてではないが、友邦の輪の外へ出るような長旅ともなると、東西も南へも行ったことはない。
 脇の獣道を進んで峡谷を降りればパラカ氏族の集落、というところも通ったが、少し道を逸れて挨拶回りをする気にはなれなかった。
 父の使いなのだからまっすぐ目的地へ行くべきだ、と自分に言い聞かせたが、あくまで合理化した建前に過ぎないことを知っている。
 パラカ氏族は、気の重くなる記憶が多い。
 長老やアマリエと、どんな顔をして会えばいいのか、見当もつかなかった。
 だが、パラカを逃げるように通り過ごしたことに引け目も覚えていた。釣り合いを取るように、他の友邦にも宿を求めず通り過ぎ、結局四日ほど野宿で通した。
 当初の予定では、友邦を渡り次いで寝床と食事を補充してもらいながら進むはずだった。
 友邦の輪もそろそろ途切れてくる頃である。先が思いやられる展開だった。
 途中で喉の渇きを覚えた。
 携行している食事も乏しくなってきている。水もそれほど持ち歩けるわけではなく、友邦に頼らないのであれば、日に一度は川を探さなくてはならないのである。
 水筒に手をつけず、山林の中に漂う水の匂いを探すことに意識を集中した。
 断崖城からここまで離れれば、もう地理の覚えもおぼろげである。地形の記憶も曖昧なら、友邦が以前と変わらない友好関係にあるかどうかもわからない。
 勘と聴覚に従い、元々道もないも同然の山林を、木々が深い方へ進んでいく。
 沢があれば、水辺に生える植物が見つかるはずだ。そうしたものがありそうな方角へ、見当をつけて歩く。
 歩きながら、少し後悔した。
 レムより遥かに経験のある年上の戦士たちなら、たかだか友邦ひとつ素通りした程度で、他の集落まで避けるようなことはないだろう。
 人によっては、しこりのある友邦を避けることもないかもしれない。少なくとも心境の如何で、生命線たる水や食糧の補給をしないなどということはないだろう。
 自分の神経が繊細すぎるのは、最近特に感じるところだった。長老議員に、お前たちは揃って気にしすぎなのだ、と言われたことも思い出される。
 パラカ氏族を通り過ぎた今となっては、むしろアマリエが自分をどんな風に思っているか、確かめておけばよかったとさえ思えてくる。
 それと同時に、もし彼女が大きなおなかをしていたら、やはり行かなければよかったと思うだろう。
 遠くからそっと様子を窺うくらいは、してもよかったかもしれない。
 別に非難されることではないが、パラカに抱いた後ろめたさが、彼らから隠れて自分ばかり情報を得ようとしている心根を、卑怯だと感じた。
 帰りは寄ろう。集落が近づけば、また揺らぐであろう程度の決意だったが、とりあえずそう決めた。
 そして、ぼんやり歩いていたせいで、どうも山林の奥深いところに入り込んでしまったらしいことにやっと気づいた。
 相変わらず、水の匂いはしない。冷えて澄んだ水晶のような高山の空気に混じりこむ草の匂いと、山の獣のざわめきばかりである。
 その時レムの耳が、何かの喧騒を捉えた。
 ちょうど進んでいる方向からである。続いて山林の匂いの中に、空気に乗ってふわりと、鉄や火の匂いが鋭く差し込んできた。
 戦闘だ。
 気付いた瞬間に、背負った荷の外側に括りつけてある蛮刀の片方を手に取っていた。左手は釘帯に触れている。
 巻き込まれる前に離れるのが一番いいのは、言うまでもない。
 だが、この辺りにはそろそろ盗賊や、他氏族の略奪を事とする氏族も増えてくる。
 無抵抗な者が襲撃を受けているとしたら、せめて彼らが逃げられるまで手を貸すべきではないだろうか。
 傭兵団程度の人数がいれば、間違いなくそうしたが、今はレム一人である。のこのこと出て行って、かえって状況を悪くしてしまう可能性さえある。
 しばらく悩んでいたが、その場に留まっていることの危険性をようやく思い出した。差し迫った場面では、迅速さはそれだけで強力なアドバンテージになる。
 すぐにその場を離れるべきだと思い至った時には、山林の周囲に移動の音が流れ始めている頃だった。
 逃げているのか、はたまた追っ手か区別する術はない。ただ、この流れを横切るほうが目立つだろうとは容易に予測できた。
 仕方なく、同じ方向へ走る。数歩も行かないうちに、後方から足音が追ってきた。間違いなく山林を走り慣れている。
 やはり相手のほうが足が速い。次第に、距離が縮まっていくのを感じる。
 走りやすそうな、少し木の間隔の広い箇所に踏み込んで、ふと懸念が脳裏をよぎった。
 その懸念の正体が何なのか理解する前に、踏み出したレムの脛に何かが当たる重い感触が走り、足が払われた。
 前に滑るように仰向けざまに倒れる瞬間、脛に巻きついた布と、枝分かれした布の端に取り付けられたいくつかの石が見えた。
「へっへ、そうそう逃げられると思うなよ」
 起き上がろうとする間に、追っ手がレムを取り囲んでいた。
 いずれも、こうした山狩りに慣れていそうな様子の、狼が三人。山刀や手斧を手に、踏み込み一回の間合いでにやにやとこちらを眺め回している。
 一人の目が、レムの握った蛮刀に止まった。
「お? 一丁前に武器なんぞ持ってやがるぜ」
「へえ、そりゃすげえや。さぞや強えんだろうなあ、よう?」
「おい、その剣が飾りじゃねえなら、俺たちを斬り倒していったらどうだ?」
 三人揃って下品に笑う。
 レムがその場に立ち上がり、荷に掛けてあるもう一本を手に取ると、その表情が一様に殺気を帯びた。
「へえ、本当にやる気か」
「面白え。バルフィンに上納なんざしねえで、ここでやっちまうか」
「おい、つまみ食いがバレたら俺たちが危ねえだろ」
「へっ。こんな男とも女ともつかねえガキなんぞ、バルフィンも眼中にねえだろうよ」
「こんなの連れて行った方がアブねえんだよ。だからここで食っちまうのが一番だ」
 一人が制止する様子を見せたが、あとの二人は気にも留めずに武器を構える。
「おとなしくしてりゃあ、いい目見せてやるからよ」
 構えた斧刃が、ぬらりと光る。
 正体は知れないが、挙措から見てなかなかの強敵らしいと察しがついた。盗賊も傭兵も、狼は小集団でこそ真価を発揮する。
 きちんと組織立った盗賊だとしたら、パラカに攻め寄せてきたような、そこそこの腕の一人に雑魚が寄り集まった泡沫集団とは訳が違う。
 一対一ならわからないが、囲まれればどうしようもない。
 片手を開けたままにしておけば、トヲリの風釘が打てた。一人を、倒せないまでも足止めくらいはしてくれたかもしれない。
 体を外側から押しつぶすような圧迫感を、両足で踏ん張りながら、相手の出方を窺う。
「おおお!」
 後方から雄叫びが上がった。同時に、山林の草を荒々しく踏み締める騒がしい音が広がる。反射的に剣で牽制しながら振り向くと、新たに現れた一人が木の枝を掻き分けながら出てくるところだった。
 レムを取り囲んでいる盗賊たちも、その男に向けて構えをずらしている。
 新たな狼は、レムを見ながら何やらわざとらしいくらいに驚きと親しみを表情に湛えながら、無防備に近づいてきた。
「シェガルじゃないか!」
「あ?」
 囲みの一人が、訝しげな声を上げる。
 罠かと身構えたレムが何か言う前に、その狼は大きく腕を振って、レムの横につける。
「バンミー、エデック、メドウズ! 武器を下ろせ、こいつは俺の弟だ!」
 近づく動作もあまりに自然で無防備だったために、レムは肩を抱かれるまでぼんやりと行動を見守ってしまった。
「おいゼダ」
 最初の三人の一人が、現れたばかりの狼に不愉快そうに顔をしかめながら唸りかかる。
「ボケんのも大概にしろ。そいつのどこが弟だ?」
「それは……マダラなんだよ、マダラ!」
「そうかよ。その割にゃあ、似てねえな」
「お、おう。父親が違うんだ」
 ゼダと呼ばれた狼の腕の力は痛いぐらいだったが、彼の注意はむしろ三人に向けられているのがレムにはわかった。
 やろうと思えば、ゼダを刺して三人が驚いているうちに逃げることも、不可能ではないかもしれない。
「へえ。そんで、その弟くんが、こんなところまで何しに来てんだ」
 狩りを邪魔された三人が、苛立ちを滲ませながら吐き捨てる。
 状況はよくわからないが、このゼダという狼はレムを助けようとしているらしかった。
 確かに、三対一で無事に切り抜けられる公算は、ないに等しかった。ゼダが割って入らなければ、どうなったかわからない。
「俺を探しに来たんだよな! いやー、昔ッからべったりだったもんなあ!」
「おめえにゃ聞いてねえよ、黙ってろ!」
 いち早く応じたゼダが怒鳴りつけられる。盗賊の仲間なのだろうが、あまり立場は高くないようだった。
 芝居なのか勘違いなのか、ともかくゼダの口車に乗っておいたほうがよさそうである。
「用事で通りかかっただけだ。別に、ゼダを探しにきたわけじゃない」
「お、おいおい」
「あん?」
 突き放したのが、かえって良かったらしい。胡散臭そうな表情だった三人が、少し態度を軟化させたのが見えた。
「へっ、弟にもその扱いかよ。ざまあねえな」
「そりゃ流れ者にもなるってもんだな」
 一人が馬鹿笑いを始めると、後の二人の気も緩んだようだった。
 ゼダの腕の力は、まだ強いままである。
「おい、いつまで兄弟で抱き合ってやがる。さっさと来い」
 一人が言う間に、二人がにやにやしながら山林の元来たほうへ歩いていく。
「私はもう行っていいだろ」
 ようやく解かれたゼダの腕から抜けながら、とりあえず応じる。ゼダの真意はわからないが、この場から離れられるなら離れてしまったほうがいい。
 だが、やはり思った通りには行かなかった。レムの返事を聞くなり、表情を再び威圧の形に歪めた。
「てめえはゼダがいなけりゃ戦利品だったんだよ。わきまえろや、ガキが」
「てめえの兄貴は、今は俺たちの仲間なんだよ。下っ端が所有物増やす時は、バルフィンに伺いを立てるのが決まりなんだよ」
 囲まれて勝算が見えなかった時点で、抗弁の余地はなかった。
 ゼダを仰ぎ見ると、何とも言い表しがたい表情をしていた。
 ついと鼻先を落として、レムを真っ直ぐに見た。
「悪いなあ、シェガル」
 少なくとも、このゼダという狼は信用してもよさそうだとわかっただけでも、良しとしなければならないだろう。

 自分の名はシェガルで、腹違いの兄がゼダ。
 兄が流れ狼だから、氏族の名誉を守るために、自分も氏族名は出さない。諱も言わない。
 自分は、マダラの男。
 大雑把に、立場を反芻する。
 それ以外の細かいところは、うまくごまかすか、口裏を合わさねばならない。盗賊の手合いは、例え自分たちに損のない嘘でも、騙されることを非常に嫌う。
 執念深い者がいれば、ゼダと別々に込み入った質問をしてくるだろう。尾を掴まれないようにしなければならない。
 盗賊三人は、一人が先導して、あとの二人はレムとゼダの後ろに回っている。仲間の身内に対する態度としては、少々異常だった。
 誘導されるままに歩いていくうちに、仲間らしい狼の数が増えてきた。
 レムたちを囲んでいる三人と何事か言い交わしながら、レムを値踏みするように眺め回していく。
 皆、一様に戦利品を抱えている。ある者は貴金属の装飾品を服のポケットからはみ出させており、袋を引きずっているものもいる。遠くから、家畜の移動する気配もした。
 肩に、ぐったりした女を担いでいる者もいる。売られればまだいい方だと、バノンが言っていた。
 女の足には、レムの脚を滑らせた例の石と布が巻きつけられ、目を覚ましても歩けないようにしてある。
 確かボーラと言ったか。布が当たれば巻きつき、石が当たれば打撃になる、捕獲用の投擲武器だったと記憶している。
 弓以外の投げ物は、パルネラが詳しい。彼に聞けば対処法まで教えてくれるだろうが、コーネリアス氏族はこの辺りにはいない。
 妙に体の芯まで届く寒さであった。
 周りに比べて下草のまばらな、通りやすい道をかき分けながら進んでいくうちに、何か生臭い感覚を捉えた。
 匂いでもあったが、どちらかというと雰囲気が生臭いと表したほうが近い。
 周りの盗賊たちを油断なく見張りながら、生臭さの漂ってくる方向を遠くに見やった。
 生い茂った木々が、開けていくのが見えた。
「おい、見えてきたぞ」
 レムのほうを顧みて、先導の一人がにたにたと牙を剥く。
 林の木々の尽きた先には、下草が刈り込まれ、見通しが利くようになっていた。その先に、丸木で作った塀と、出入り口には長柄斧を持った門番が二人見える。
 生臭さは、あの塀の向こうから立ち上ってくるのは間違いない。
 門番がこちらを認めて、肩にもたれかけさせていた長柄斧を握りなおした。
「来たな。どうだ、首尾は」
「上々だ。後から家畜も追い立ててくるぜ。道空けておけよ」
「で、なんだそいつは」
 門番が首を伸ばしてレムを見た。
「ガキかよ。ま、奴隷はいくらいてもいいけどよ」
「へへへ。聞いて驚け、こいつはゼダの弟なんだとよ」
 門番の顔が歪む。理解の及ばない物事に遭遇した時、特定の人種が見せる攻撃的な顔である。
「おいゼダ、どういうことだ」
「お、おう。それがよ」
「てめえは後だ。まずはバルフィンだろうが。早く知らせてこいよ」
 言われて、門番の一人は舌打ちするともう一人のほうを睨みつけた。
「ボサッとしてんじゃねえ、さっさと行け」
 言われた門番の方が格下なのだろう。不満そうな顔だったが、文句は言わずに塀の中へ入っていった。
 相方を見送った門番は、不機嫌さを隠そうともせずに、長柄斧を振って乱暴に差し招く。
「早く入れ。暇じゃねえんだぞ」
「へっ」
 先導の一人の後について、塀の中へ足を進める。逃げるという選択肢は、最初に逃げそびれた時点でなくなっている。
 家畜も奪っているのなら、集落なり遊牧民なりの手元から追い散らして、山林の中で迷っている家畜も山狩りで集めてくるだろう。この場から逃れられても、山狩りから逃げ切れる保証はない。
「なあ、ゼダ」
 ひとつ忘れていた。傍らのゼダに、小さく囁きかける。
「なんだよ、シェガルよ」
 レムと同じくらいの声の調子で、ゼダが返事する。レムが名前を忘れないようにとの配慮か、不必要に名前を呼ばれた。
「ここは、盗賊団か何かか?」
「似たようなもんだが、流れ者が集まった盗賊団じゃねえ」
「じゃあ、何だ」
「モノマだよ、モノマ氏族。食む宿木のモノマ」
 そこまで言って、口を噤んだ。少なくとも、ここでそれ以上話を続ける気はないようだった。


 塀の中には、石と材木で作られた大きな砦が鎮座している。その周囲に木の柵が巡らせてあり、同じように石や木で作られた建物が並んでいる。
 山地に珍しく、傾斜や起伏の少ない平地である。入り組んだ道を先導されるままに進む。やはり砦に向かっているようだった。
 通る途中で建物の中を窺うと、がやがやと響いてくる割れ金のような声に混ざって、ゼダ以外の連中のような柄の悪い狼たちが、何事か言い争っている。
 他の一軒では、生気のない女たちが疲労を滲ませた様子で、武器の手入れや衣服の繕いなどをしている。
「ゼダ、あれは」
「炊事とか道具の手入れとか、細かいことは全部女に任せてるんだよ」
「で、まともに働けねえてめえは女の一人も持ってねえんだよな」
 聞きつけていたらしい後ろの一人がせせら笑っていた。
「持ってない、って」
「んん、まあ、それも後だな」
 言いづらそうにゼダが言葉を濁す。前の一人が振り返って、にやついた顔を向けてきた。
「おうゼダ、女がいなくてもてめえの弟にやらせられるなァ。ついでに下の世話もよ」
「マダラでよかったじゃねえか。ヘヘヘヘヘ」
 前後の三人が、一斉に馬鹿笑いする。
 友邦では、考えられない下品さだった。しばらくこんな環境の中にいなければならないと思うと、気が重くなってくる。

 砦に近づいて見てみると、遠目からではよくわからなかったことがいくつか見えてきた。
 石材を組み合わせた外壁には、襲った相手から奪ってきたらしい細工物が、木製も石製も貴金属も構わず固定されている。
 装飾というより、トロフィーのつもりなのかもしれない。中には、武器での一撃を受けたらしい深い傷のついたレリーフもある。
 それは砦の中にも続いていた。
 ところどころにある敷き布は、上質なものばかりだったが意匠に統一感がなく、いずれも奪ってきたものだということが窺えた。
 複雑な通路を進んでいくうちに、次第に装飾が貴金属ばかりになっていく。レムは、そろそろか、と思った。ゼダを見ると、緊張で張り詰めた顔をしている。
 どうやら、目的の場所に着いたらしく、先導が重厚な扉の前で止まった。
 モノマ氏族の集落の近くから感じていた生臭さが、特に濃くなっている気がする。異様な熱気と、何かが動いている空気があった。
「バルフィン、メドウズですぜ」
 空気の流れが、一瞬止まった。すぐに不機嫌そうな気配が膨れ上がっていく。
「入れよ」
 メドウズと名乗った先導の一人が、失敗したと言いたげな顔をした。やや、恐れが滲んでいる。
 中の声は、続いてまだ何か言ったようだが、外に向けられたものではないようだった。また、空気の動きが再開される。ただ、先ほどまでの熱気は少し冷まされていた。
 メドウズが扉を開く。
 壁には、ずらりと首が掛けてあった。
 不意打ちだった。危うく、うめき声を出すところだった。
 首はいずれもそれなりの歳の行った狼のもので、一様に深い陰を湛えている。中には、重い武器を受けたのか、顔面の半分が砕けているものもあった。
 何か処理がしてあるらしく、断面の見た目は肉のまま、蝋のようなぬめりとした光沢を放っている。
 ざっと、片手に余るくらいあった。
 そしてその下で、金銀に縁取られた漆塗りの豪勢な椅子に座った狼が、肘掛に頬杖をついてこちらに射るような目を向けていた。
「おめえもいちいち、間が悪いよなあ」
 レムを先導してきたチンピラとは違うらしい。心中の苛立ちを短絡的に爆発させることはなく、ただ表情を歪めているだけである。
 その股間に、背中がむき出しの衣装を着た小柄な女が顔を埋めて、一心に頭を前後させていた。
「あれ、いつもの女じゃねえですね」
「ああ、あいつか。飽きたから捨てた」
 女の頭がびくりと止まる。すぐに再び前後運動が始まるが、先程より動きが小さくなっていた。
 椅子の男の目が、不快げに下に向いたが、またこちらに戻った。
「かあっ、惜しい。まだ生きてますかねえ」
「知らねえな。欲しけりゃ自分で拾いに行け。で、それより俺に言うことがあるんじゃねえのか」
 枯れかけの草の色をした瞳が、レムを捉えている。強弓の矢を向けられているに等しい圧迫感に、動揺せず耐えるのに苦労した。
「おお、そうだった。おいゼダ。てめえが説明しろや」
 メドウズが、矢の射線から身をそらした。ゼダの肩口を掴んで、前に押しやる。
「ようゼダ。久しぶりだなあ。おめえのいい噂ァさっぱり聞かねえもんだから、逃げ出そうとして始末されたかと思ってたぜ」
「あ、ああ。あのよバルフィン」
 ゼダは、初めから圧倒されていた。
「弟がよ、いたんだよ。んで、近くに用事で来たってのを、こいつらが捕まえてよ、そんで、ああと、俺が引き取ってよ」
「おう」
 バルフィンが、股の間で動いていた女の髪を掴んだ。女の顔はわからないが、硬直しているのは後ろからでも十分にわかった。
「乗れ」
 バルフィンが囁くと、女は強張った動きでバルフィンの膝の上に跨った。何も纏っていない下半身に、自分が今まで一心に頬張っていたものを宛がう。
 バルフィンはその動きを、気のない様子で眺めている。女が腰を下ろして小さくうめいた時でも、表情は動かなかった。
「あ、あのよ、バルフィン」
「続けろよ」
「う、ああ、わかった。ええと」
 低い促しに、跨った女もバルフィンの首に腕を巻いて、必死で腰を上下させ始める。
 状況は、ゼダも似たようなものだ。
「で、俺の弟だ。シェガルってんだ。マダラでな」
「へえ」
 バルフィンの目が、レムをじっと観察している。うっかり攻撃の気配でも放とうものなら、即座に先の先を取りに来そうであった。
 そして、間違いなく強い。
「よう小僧、氏族はどこだ」
「私は言わないぞ。ゼダがこんなのなんだ。家に迷惑がかかる」
 たった三言吐き出すのに、渾身の剣を振るくらいの気力を要した。じっとレムを見ていたバルフィンが、口の端を吊り上げた。
「よく出来た弟じゃねえか」
 自分に寄りかかって、けなげに腰を上下させていた女の腕を振りほどき、首を掴んで床に突き倒した。
 頭を打つ鈍い音と共に、女のうめき声が聞こえる。バルフィンは、構わず女を四つんばいにすると、後ろから腰を突きたてた。
「あぐっ」
 女の上体を引き起こし、両腿を大きく広げて仰向けに寄りかからせた姿勢で、再び椅子に腰を下ろした。
 前面を引き裂かれた衣装から覗く、ふたつの膨らみの谷間から臍にかけてのラインが、そのすぐ下の淫猥な結合と奇妙な対比を描いている。
「バルフィン、丸見えだぜ」
「好きに見てろよ」
「い、いや……」
 蚊の鳴くほどの細い声が聞こえてきたと思った瞬間、バルフィンの拳が女の脇腹を抉っていた。
 女が体を折り曲げて身悶えし始める。あまりの痛みにうずくまろうとしたが、バルフィンの腕がまた髪を掴んで仰け反らせた。
「よう、なんつった?」
 涙に潤んだ瞳と、苦しそうに息を吸う口に顔を近づけて、バルフィンが変わらない調子で問いかける。
 返事するしない以前に、痛みと衝撃で言葉が出なくなっているらしい女の腹に、二発目が突き刺さった。
 バルフィンの顔が、明らかに喜悦に歪んでいる。
「やっぱこうじゃねえとなァ」
 女を床に伏せさせて尻を持ち上げ、自身を突き刺したまま女の両腕を片手で掴み、固定する。
 残ったもう一本の腕の用途は、決まっていた。
 床に伏した女の後頭部に、まず振り下ろされる。
 悲鳴と一緒に何か湿っぽいものが潰れる音がした。
 その間にも、内臓を突き破る勢いで、女の腰にいきり立った己を突き続けている。
 三度、脇腹。潰された蛙の断末魔のような声が上がった。
 腰骨と背骨の継ぎ目。雷に打たれた時のような声。
 バルフィンは、嬉しそうに拳を握り固めている。
 指が女の耳をつまんだ。そのまま、力任せに引っ張り始める。
「ああっ、ああああ! やめて、もうやめて、嫌!」
 女の顔が上がった。鼻が潰れて顔の下半分が鼻血で汚れ、涙の跡に床の土埃がついて、酷い有様になっていた。
 頚椎と背骨の反りが限界に達しても、バルフィンは耳を引っ張るのをやめない。
「いいいいいいいいぃい!?」
 びりっ、と音が聞こえた気がした。
 引きちぎる方向に振りぬいたバルフィンの指には、何もつままれていない。
 床に顔を伏せた姿で、白目を剥いて気絶した女から腰を離し、バルフィンは女を部屋の隅に蹴飛ばした。耳がどうなったかは、ここからでは見えない。
「相変わらず、勿体ねえ使い方しますねえ」
 汗と体液と土ぼこりでどろどろの女を見ながら、メドウズが呟いた。
 行為自体は珍しいものでもない。断崖城を夜中に出歩けば、大体どこかで誰かが睦みあっている。自分が当事者になるとなれば慌てはするが、他人同士の行為であればいちいち気にかけるようなものでもない。
 だが、これは一体どういうことなのか。今、ごみのように蹴飛ばされた女は、何なのか。
「よう、シェガルっつったか」
 レムの前には、それ以上の問題が立ちはだかっている。
「ここで働いていけ。兄貴を助けてやんな」
「待ってくれ。私は用事が」
「このバルフィンが置いてやるつってんだ。不服かよ」
「大体てめえ、どこに何の用事だよ」
 立場をかさに着て、メドウズまで口を挟んできたが、レムはまだもっともらしい嘘を考えつけていなかった。まさか、馬鹿正直に兎の国に行くなどとは言えないだろう。
 答えられず黙っていると、メドウズは勝ち誇ったように鼻を鳴らして引き下がった。
 気がつくと、バルフィンの視線がレムの背に移っている。
「いい剣持ってるじゃねえか。寄越せ」
 こんな場所で身を守る手段を減らすなど、できない相談である。
「嫌だ」
「おいてめえ、まだ自分の立場がわかってねえみてえだな!?」
 叫ぶメドウズを止めるわけでもなく、バルフィンはじっとこちらを見ている。
「これから仲良くやっていこうって態度じゃねえな。別に奪いとってもいいんだぜ。こっちとしても、ガキ一匹いつ血祭りに上げようと、大差ねえしな。ただよ、おめえの兄貴の立場も考えてやれよ」
 そう言って、バルフィンは牙を剥いて笑って見せた。メドウズなどより、こちらの方が恐ろしい。
 そして、ここまで来てしまった以上、取りうる選択肢など極めて少ないのだ。
 左に持つ蛮刀を引き抜いた。
 メドウズが奪い取るようにして、バルフィンの元へ持っていく。
 蛮刀自体よりも、こちらの様子を見ていたバルフィンは、刀身を見るなり雰囲気を変えた。
 枯れ草色の目に、鋼の刃筋が濡れたように光っている。
「いい剣だな。俺がもらっておいてやるぜ」
「待ってくれバルフィン、そいつは形見なんだ」
 さすがに抗議しようとした時、どういうわけかゼダが前に出ていた。
「シェガルが可愛がってもらってた近所のおっちゃんが、狩人引退する時に……」
「ようゼダよ」
 よく咄嗟にここまででまかせが出てくるな、と感心するくらいだったが、バルフィンの一言で、ゼダは矢で岩盤に縫いこまれたかのように動きを止めてしまった。
「いつからおめえ、この俺に意見できるくれえ偉くなったんだ、おい。流れ者のおめえが仲間に入れてくれっつって、もう五年か? おめえ、ひとつでもまともな仕事したかよ?
この俺が、広い心でおめえの弟ォ仲間に入れてやるっつってんだ。ありがたがるならまだしもよ」
 ゼダはもうそれ以上何も言えなくなってしまっていた。
「で、シェガルよ。もう一本も寄越しな。そいつは俺が持つのにふさわしい出来だ」
 盗賊の親玉の賞賛など、工廠の匠連中が聞いたら、なんと言うだろう。ふと、そんなどうでもいいことが頭をよぎった。
 ともあれ、先ほど理解したとおり、今のこの状況では取れる選択肢など極めて少ないのである。
「代わりの武器を用意してもらえるのか」
「ハッ、吠えやがる」
「てめえにゃ木の枝で十分だろ」
 メドウズが甲高い笑い声を立てた。バルフィンの目が、そちらに向く。
「よう、メドウズ」
 ぎくりと動きを止める。
「おめえ、さっきからうるせえぞ」
「す、すまねえバルフィン」
 縮こまるメドウズにそれきり一瞥もくれず、バルフィンはレムに向かって手を出した。
「さっさと持って来い」
 仕方なく、バルフィンの座る椅子に近づいていく。
 生臭さが、強くなってきた。先程の行為のせいもあるだろうが、それ以上の何かがこの男から放たれている。
 ふと、踏み込んで斬るのにちょうどいい間合いに来たことに気付いた。
 今バルフィンを斬れば、逃げられるだろうか。少なくとも返す刃でメドウズも仕留めねばならない。外で待っているであろうあと二人も、気付かれる前に始末する必要がある。
 無理だ。
「ようシェガル、今、余計なことを考えなかったか」
 目の前でバルフィンが、蛮刀をもてあそびながらにやにやと笑っていた。
 まず、この男が、斬れない。

――

 モノマ氏族の集落は、砦を中心として、無計画に入り組んだ石組みの家屋が立ち並んでいる。
 敵襲に際しては、不規則な石壁がそのまま敵を遮る防塁になり、また細かく入り組んだ路地によって大人数の攻撃をかけづらくする効果も生むのだろう。
 だがむしろ、狙ってそうしたというより、力のあるものが自分の好きなように土地を取っていった結果、たまたまそうなったような印象があった。
 石の集落からは、かなりの距離を置いて平原が広がり、木製の柵がぐるりと取り囲んでいた。敵が柵を破ったとしても、長い平原で発見が早まり、迎撃の時間が取れるのである。
 その平原の端、集落から外れてむしろ柵に近い場所の、ごみ溜めのようなところに、木材のみで組み上げた古びた小屋が建っていた。
 そこへ向かって、レムは重い桶を積んだ荷車を運んでいた。桶の中には、排泄物がなみなみと入っている。
 断崖城でも、誰かがやっている仕事だ。時折感じていた、乾いた堆肥の臭いが、生々しく湿ったものとなって鼻を押す。
 前側で荷車を引いているゼダはずっと背中を向けている。聞かなければならないことは多いのだが、何から切り出したらいいものか、見当もつかない。
「なあゼダ」
「ん」
「これは、どこへ持っていくんだ」
 結局、一番聞きたいことから大きく外れた質問が出た。
「小屋が川下だからな、そこまで持っていって、洗って来るんだよ」
「肥料にして、畑に撒いたりとかはしないのか?」
「そういうことをする奴がいなくてな。みんな、自分や仲間の食う分が足りなくなったら、つるんで奪いに行ってる。
家畜だってそうだ、そこらへんに離しておいて勝手に草を食わせて、入り用になったら殺すんだ。増やすとか長く使うとかは、全然考えてない」
「じゃあ、これは川に流すのか」
「いや、穴掘って流し込むんだ。でもまあ、川上で桶洗うのも、なんだろ」
 断崖城なら、耕作する者が担当していた、きちんとした仕事だったが、ゼダの立場と今の有様を見る限りでは、どうやらまともな仕事とは見なされていないらしい。
「なあ、ゼダ」
「ちゃんと手伝えよ。お前も、当分ここで暮らさなきゃなんねえんだからな」
「なんで私を助けたんだ」
 荷車を牽く力が弱まって、レムの両手にずしっとした重みが伝わってきた。
 助けたのはゼダなのに、それを問われて戸惑っている。しばらく考えている風情だったのは、どうごまかそうかではなく、自分自身の考えを理解しようとしていたようだった。
「いやまあだってお前、あのままだったらあそこでバラされてたぞ」
 結局返ってきたのは、愚にもつかない常識的観念だった。
 だからこそ、わからない。
「なんで、ゼダはモノマにいるんだ」
 まともな神経で、こんなところにいるからこそ、堆肥を扱うような端役にされているのだ。
 ゼダの気が一瞬怯んだのを、はっきりと感じ取った。
 メドウズやバルフィンとのやり取りを見ていれば、ゼダが何かしらすぐに気圧されるのはわかっている。しかし、子供のレムに戸惑うほど、ひ弱ではないはずだ。
「いいじゃないか、そんなことは。こうでもしなけりゃ、流れ者は食っていけないのはわかるだろ。つまんねえこと言ってないで、さっさと仕事片付けちまうぞ」
 ゼダはそう言い捨てると、レムに背を向けてさっきより足早に荷車を牽き始めた。


 砦の傍を通って流れる川の下流の小屋の外周に、洗い終えた桶を並べて干すと、ゼダに続いてそのまま小屋に収まった。
 堆肥の臭いが、薄く体に纏わりついている。近くの川で水浴びでもしたいところだが、マダラでないことがばれるような軽はずみな行動はとれない。
 小屋に入るなり、ゼダはそれほど寒くもないのに、火を焚き始めた。
「いや、ちっとは臭いが紛れるからよ」
 レムの怪訝な顔を見て、ゼダはぴりぴりした香りのする草を火に投げ込みながら、言い訳のように言った。
 とりあえず、臭いはそれで我慢するしかない。それよりも、今の状況を何とかする方が先である。
 旅装はほとんど取り上げられてしまい、頼みの蛮刀すらバルフィンに奪われてしまっている。
 断崖城の鉄ということもあってか、投げ釘まで取られてしまった。もちろん、代わりの武器など与えられるはずもない。
 手も足も出ない。
「そう暗い顔すんなって。モノマにとっ捕まって、こうして普通の暮らしが出来るだけでもいい方だぞ」
「悪かったな。この顔は元々だ」
 我ながら刺々しい反応だと思いながらも、気まずそうに顔を背けるゼダを見て、いい気味だと思った。言うまでもなく八つ当たりである。
 すぐに、的のずれた敵意に自責の念が湧いてきた。
「なあ、ゼダ。私はこれからどうなると思う」
 気まずい空白を取り繕うように、問いを投げかけてみた。先程よりすらすらと、言葉が出てくる。
「さあなあ。とりあえずバルフィンの面通しは無事に済んだから、俺たちの仲間として扱われると思うけどよ」
「どんなことをするんだ」
「普段はここでたむろして、欲しい物ができたら外へ奪いに行くんだ。食い物が足りなくなりそうになったら頭数そろえて出るが、そうじゃない時は何人かでつるんで勝手に出て行くんだ」
「そうじゃない時っていうのは」
「砦に行く時に見ただろ、壁にじゃらじゃらと飾ってあってよ」
 バルフィンに会いに行く際に、砦の外壁からバルフィンの部屋までずっと、様々な細工物が無秩序に飾られていたのを思い出す。
 部屋の中の首まで考え合わせれば、あれが盗賊としての実績であることは容易に想像が付く。
「あれを奪いに行くのか」
 腹の底から、ふつふつと何かが煮立つのを感じる。
 無意味だ。
 戦士の強さは、ああして飾るものではない。
「奪い取ってきて、バルフィンに上納するんだ。そうやって機嫌取っとけば、バルフィンが直々に出て行った時に、おこぼれに預かれる」
 そんなことで生活を破壊される者たちは、浮かばれない。
「なんでそんなことが通用してるんだ。誰もなんとかしようとしないのか」
「できりゃあしてるだろうけどよ。モノマはこの辺じゃ、特に強いんだ。逃げられりゃいい方で、ぶっ潰されて邪霊化しちまった氏族も沢山ある。
それに奴らは、戦士団持ってる強い氏族とはぶつからないように、うまいこと立ち回ってるんだ」
 レムは、頭の中でモノマの砦の規模と断崖城の様子を比べてみた。もしモノマ氏族が相手になったとしても、楽な戦ではないだろうが、万に一つも負けることはない。
 だが友邦の要請がなければ、氏族同士の抗争に戦士団を動かさないというのが、コーネリアス氏族の方針である。
 個々の信条でばらばらに訪れる戦士では、モノマ氏族を再起不能にするほどの大勝は得られないだろう。
 悪くすれば返り討ちも出てくる。
「なんにしろ、今はゆっくり休んどけ。正体ばらさないうちは、お前は俺の弟のシェガルだからよ」
 そんな中で、ゼダは場違いなほどに普通の男である。
 わざわざモノマでなくとも、どこかの小氏族にでも潜り込んでいれば、ゼダの気性であればそれほど長くかからず受け入れてもらえるだろうに。

――

 レムは目を覚ました。
 窓から見える空の白さで、大体の時間の見当をつける。朝に霊地で剣を振る時には、大体これくらいの時間に起きている。
 一歩踏み違えれば、即死した方がましの目に遭わされる環境である。熟睡できるはずもなく、取りきれなかった疲労で響くような頭痛の残る頭を持ち上げた。
 数を重ねて寝床の形に整えた藁の蓆から起き上がり、身震いした。
 毛布ほどに暖かさを保たないが、雑魚寝ではないため体が体温を保つ努力を払わなくなってしまう。不十分な保温性で気を抜いてしまったため、体が少し冷えていた。
 よく寝付けなかったためにぼんやりしている頭を振りながら、地響きのような音を奏でている、小屋の反対側の藁床を見やった。
 よくもまあ、眠っている間にあれほどまで動けるものだ、と感心するくらい、藁床からはみ出したゼダが、高いびきで腹を出していた。
 寝付けなかった理由は、盗賊の集落で眠らねばならない緊張感の他にもうひとつあるのは、もはや言わずもがなだ。
 何にせよ、とりあえずゼダを叩き起こさないと、どうしようもない。
「おい、ゼダ」
 揺すっても目を覚ますどころか、いびきが小さくなる程度の反応すらない。
「おい、ゼダ」
 先程より強めに揺さぶる。背骨が動くくらいの揺さぶりなら、大体の者が目を覚ます。
 しかし、ゼダの反応は先程と同じであった。どころか、夢でも見たのか寝返りを打つついでに、レムを払うように腕を伸ばしてきた。
 手の甲が鎖骨の下に当たる。
 自分もあまりすっきり眠れなかったこともあり、こめかみの辺りがちりちりと熱くなってきた。
 ゼダの手を取り、肩に足を絡めて抜け出せないように固めてから、少し捻りを加えながら腕を引く。
「ぉあっ!?」

 川に向かって釣り糸を垂れながら、同じように釣竿を構えているゼダを横目で見る。
 ああいう起こされ方をしたのは初めてだとこぼしていたが、言うまでもなくレムもああいう起こし方をしたことはない。
「いつも、ああなのか」
「今朝は割と早起きのほうだぞ」
「どこがだ」
 釣り糸の浮きはぴくりともしない。
 早朝に起きられたというのに、こうして保存用の魚を取りにきたのは、釣りの時間帯を外している、日の高く上った頃合である。
 これでは、今日の食事の分を取るまででも日が暮れてしまう。
「なんで釣竿なんだ。仕掛けじゃ駄目なのか」
 せめて仕掛けを置いておいて、日暮れ辺りに魚の様子を見に来れば時間が取れる。不満半分でそう口にすると、ゼダはいたずらが見つかったかのように頭を掻いた。
「いやあ、何もしてないよりは馬鹿にされるのが少なくて済むんだよ」
 その態度に、レムは少し腹が立った。まるきり、最初から何もしたくない者のような言い草ではないか。
「きちんと戦えるように修練するとか、あるだろ。他の連中の仕事を手伝うとか」
「修練? 戦士団があるところみたいな言い方するんだな」
 ゼダに限ってなら、別に隠すようなことでもないとは思ったが、彼の語調の中にある諌めるような雰囲気に気付いた。
 他でこういう言い方をしないように気をつけろ、ということなのだろう。
 モノマ氏族が戦士団のある氏族を避けているのなら、それと察せられればスパイかと疑われる、ということか。
 含ませた意味を理解した、とゼダに目顔で返答した。
「それで、どうなんだ」
 それはそれとして、話を元に戻す。
 義務でなくとも自分にできる仕事をやらずに過ごすのは、コーネリアス氏族では怠け者とされていい顔はされない。
 友邦でも、自分たちの力で立っている氏族ならそれは同じである。
「まあ、なんつうかな」
「なんだよ」
「家畜は持ち物だし、畑なんぞ作ってたら馬鹿にされるしよ」
 言い訳でもするかのようである。
 レムは、断崖城の戦士団に守られながら耕作する友邦など、いくらでも知っている。
 畑を笑うような風潮には、反発する気持ちがあったが、それ以上ゼダを追及しても仕方がない。諦めて、釣竿を持ち直す。
「それじゃあ、ここの奴らは修……いや、訓練はどうしてるんだ」
「やる奴は勝手にやってるみたいだな。一応子供らにも訓練つけてやってる奴も時々いるが、喧嘩以外はあまり見ない」
「訓練しないんじゃ、戦い慣れてない奴はどうしてるんだ」
 ふと、我ながら随分間の抜けた疑問を発していると思った。辺りを荒らし回っている盗賊なら、数が減ったほうがいいに決まっている。
 それでも、もしきちんと鍛えられていればどうとでもなるような障害で命を落とす者がいる可能性は、心が痛む。憐憫ではなく、戦士として無念を抱くしかない状況を慮ってである。
 ゼダは皮肉な笑みを浮かべようとしたらしい。
「そういう奴はみんな死んだよ。そうやって、強い奴だけが残ってるんだ」
 その表情に、むしろ寂寥が漂っているのを見ながら、レムは自分も似たような顔をしているのだろうと思った。
 突然、ゼダがぴくりと反応した。
「どうした」
「誰か来たみたいだ」
 そう言って、ゼダが釣竿を置くか置かないかのうちに、小屋のほうから、割れた声が呼ぶのが聞こえてきた。
「おい、ゼダ。いるんだろ? さっさと来い」
「てめえの弟も連れて来いよ」
 結構な人数がいるらしい。川のせせらぎに混じって、来客のざわめきがレムの耳にも届いてきた。
 ゼダの様子を窺うと、緊張した様子だった。昨日のことを思い出せば、なんでもない用事でもすぐに無理を押し付けられる可能性も十分にある。
「早くしろォ! バルフィンが来てるんだぞォ!」
「い、今行く!」
 バルフィンの名前が出た途端に、ゼダが上ずった声を張り上げた。
 無事に声が届いたらしい小屋の向こう側から、大声で話しているのが聞こえてくる。
「なんだ、川か?」
「クソでも洗ってるんだろうよォ!」
 言った当人に釣られて、周りの何人かも馬鹿笑いしている。
「行くしかないぞ、シェガル。あの様子なら、そんなに酷いことにはならないはずだ」
 冷や汗でもかいていそうな固まった表情で、こちらを元気付けるようにゼダはささやいた。
「うん」
 ゼダの緊張をほぐそうと、その希望的観測に相槌を打つ。とは言え、緊張の度合いならレムもゼダとさほど差はない。
 咄嗟に抜ける剣がない。
 相手がやる気なら、ろくな抵抗が出来ないのだ。タワウレの時に毒で倒れたのとは違う。戦う力があるのに、武器がないせいで戦えない、力を尽くせない無力感がある。


 小屋の玄関側には、かなりの人数が揃っていた。
 さすがに集落内でまでは、大きな得物までは携帯していないらしい。めいめいが山刀や手斧を腰から下げている。
 あの、神経に障るようなにやにやした笑いは、相変わらずだった。
 集団の中心に、さほど変わらない体格ながら一際強い存在感を放つ、バルフィンの姿がある。帯に、レムから巻き上げた蛮刀があった。
 その傍らに、バルフィンの取り巻きに囲まれて落ち着かない風情の老けた狼がいる。
「よう、シェガル。今日はお前に用があってよ」
 ゼダが何か言う前に、バルフィンの気さくなようで威圧感を与えてくる声が、降ってきた。
「ば、バルフィン、わざわざ来るようなことなのか?」
「よう、ゼダ。それじゃあまるで俺がおめえの小屋に来ちゃあいけねえような言い草だな」
 何気なく振り向くような場面でも、その視線に相手を締め上げるような圧迫感が篭っている。
 うかうかと声をかけたゼダが、目を向けられて案の定息が詰まったような顔をした。
「いや、そういうわけじゃあ」
「おい」
「へい」
 ゼダの言い訳を聞く素振りもなく、バルフィンは取り巻きたちに声をかけた。
 合図を受けた取り巻きは、心得た表情で傍らにいた狼を集団の前に押し出した。
「エンペだ」
 ゼダが掠れた声で呟くのが聞こえた。ゼダも、一体バルフィンが何を企んでいるのか量りかねているらしい。
「ようシェガル。俺はな、まあちっと礼儀を知らねえところもあったが、そこは大目に見ることにしてよ、昨日のあれでおめえを俺たちの仲間に入れることに決めたんだけどよ。
それじゃあ駄目だってえ、言う奴がいるんだよ。そうなるとよ、長年の仲間だろ? 俺だって無下に出来なくてよ」
 心を痛めている様子など欠片も見せず、バルフィンは薄ら笑いを浮かべたまま、集団とレムたちの間でどちらからも離れたまま寒そうに立っている老けた狼を見た。
 その狼は、先ほどからレムとバルフィンを交互に見ている。表情に、恐れが滲んでいる。
 バルフィンに対してならまだわかるが、レムを見る目にも恐れがある。
 バルフィンは、大袈裟な動きで話を続けている。
「こいつはエンペってえ名前でな。このバルフィンがせっかく仲良くやっていこうじゃねえか、と決めた奴を、仲間に入れるなって言いやがる。
俺としちゃあ、親父ぐれえの歳の仲間だ。大事にしてえ気持ちもあるがよ、新しい仲間を歓迎してえ気持ちもある。俺にはとても決められねえ」
「バルフィン!」
 それまで身を縮こまらせるばかりであったエンペが、声を張り上げた。
「だから言ってるじゃねえか、考え直せ! 黒い狼は不吉なんだ、碌な事にならねえぞ!」
 そんな言い伝えは聞いたこともない。取り巻きたちも、馬鹿にしたように笑いさざめくばかりである。
「おいおい、流れ者が元の氏族の話持ち出しちゃあいけねえなあ」
「おいエンペ、黒けりゃガキでも怖えってか」
「てめえがガキが怖いのを、縁起のせいにしちゃいけねえなあ。へっへへへ」
 また、ゼダが小さく口を動かした。
「エンペのおっさんはホラ吹きでな、自分に都合いいようにするために、精霊の言葉だの、言い伝えだののせいにするんだ」
 観衆の誰も真に受けていないのが、ゼダの言葉を裏付けている。
 黙ってエンペを見ていたバルフィンは、その一切を無視してレムに向き直った。
「ようシェガル、この通りの有様なんだよ。そこでだ」
 集団の輪が、少し広がった。
 輪の中の広さに心当たりがあった。
「おめえらに決めてもらおうと思ってよ」
 バルフィンの表情に、嗜虐的な陰が差す。
「どういうことだ」
「おめえら、戦え。相手をぶち殺して生き残った方が、これからも仲間でいられるってえ訳だ」
「何……!」
 エンペとゼダが、ほぼ同時に叫んだ。
「バルフィン、ちょっと待ってくれ! シェガルはまだガキだぞ! 戦い慣れしているエンペと闘らせるなんて」
「ようゼダ」
 泡を食って突っかかるものの、やはりバルフィンの一言で止められた。
「ここでエンペに殺られるようなら、どうせ長生きしねえよ。俺たちだってクソ洗いを二人も抱えてるほど暇じゃねえしな」
 確かに、背格好を見るだけで十分に勝てると踏むのが普通だろう。
 エンペはレムの様子を見て、覚悟を決めたらしい。レムも相手の技量を測るついでに、気迫負けしないように下腹部に力を込めてエンペを見返す。
 目が合った瞬間、エンペの表情に滲むほどであった恐れが、内側から燃え広がったように感じた。
「くそ、わかったよ、やってやる……! やりゃあいいんだろ、バルフィン!」
「おーおー、さすがエンペだ。長生きしてるだけあるぜ、物分りがいいじゃねえか」
 満足げに頷くと、バルフィンの目がレムを見る。
 結局、この男と無責任な見物衆どもは、戦わなければ引き下がらないだろう。
「武器がないぞ。まさか素手でやれっていうのか」
「お、おいシェガル」
 バルフィンの顔色を窺いながらも、ゼダが制止しようと頼りない声を出す。そんな事で、バルフィンの気が変わるとも思えないが。
 レムの口の利き方で機嫌を損ねるかと思われたバルフィンは、あまり気にしていないようだった。
「へっ、言うじゃねえか。つくづくおめえにゃ勿体ねえ弟だな、ゼダよ」
「あ、ああ」
 生返事のゼダを一瞥もせず、ゼダは取り巻きの一人に向かって顎をしゃくる。
 その動作に呼ばれて、長柄の片刃斧を二振り抱えた狼が出てきた。
「おらジジイ、てめえの斧だぞ。ガキも同じ物でいいよな」
 エンペに斧を渡しながら、その取り巻きはにやにやとレムを見る。
 斧の柄が、既にレムの身長に近い。扱いづらいだろうということをわかっていて、笑ったのだろう。それならば、他に用意されていないと見て間違いない。
 レムの小柄な体格ゆえの持ち味でもある細かい動きが、得物の重さでかなり減殺されてしまう。
 だが、それはエンペも同じようだった。おそらく若い頃はちょうどよかったのだろうが、年齢で衰えたのか、斧の重さをやや持て余している感がある。
 慣れた武器であの様子なら、全盛期と同じように振り回そうとして、取り回しに微細な綻びが出来るはずだ。付け入る隙はある。
「ゼダ、手え出すなよ。たとえ兄貴でも、他人の手を借りねえと敵も殺せねえ奴は、仲間じゃなくて所有物で十分だからな」
「バルフィン。あの斧は重い。私の剣を返してくれ」
 楽しそうにゼダを脅しつけているバルフィンに、物は試しと声をかけた。
「おめえの剣なんざ、ねえよ」
 こいつはもう俺のもんだからな、と腰の蛮刀を叩いた。
「ガタガタ言ってねえで腹括れや。逃げようたってそうはいかねえんだぞ」
 にやつく取り巻きに、長柄斧を押し付けられる。
 案の定、斧頭が重い。大振りの動作ならわけはないだろうが、体格差を捌くための細かい動きはとてもできそうにない。
 石突は、一応使えるように金属の覆いが被せてあった。
「シェガルよ、その、なんだ」
「大丈夫だ」
 心配そうなゼダに一声かけて、斧を肩に担いだ。
 斧頭が頭の後ろに、石突が前に出る形になる。柄が肩に食い込んだ。
「ハッ、ガタイ差でエンペだな」
「へへへ、俺もエンペだ」
「それじゃあ俺はガキに賭けるか」
「そうかよ。そんじゃあ、外したらてめえのお気に入りとヤらせろ」
「面白そうな事やってんじゃねえか。俺も乗せろ」
 取り巻きたちは、こちらが命を賭けていることなど何とも思っていないようだった。
「ほら、おめえらさっさと始めろ」
 バルフィンの一言で、エンペの空気が変わった。
 合図も何もあったものではない。レムは息を小さく吐き出して、頭に緊張感を走らせた。
 斧を手にして、エンペの表情には鋭さが表れていた。
 柄を体の横に、斧頭を相手に突きつけるような基本の形である。斧頭で細かく打ち込む事ができる。
 対するレムの構えでは、斧頭を使おうとすれば、全力で振るしかない。
 大振りは威力があるが、読みやすい。エンペは、こちらの攻撃を釣り出して、空振らせて打つつもりだろう。
 逆に先制で強撃を仕掛けてくるようなら、今度はレムが空振り狙いをすればいいだけである。そちらの方が楽な勝負だ。
 だからこそ、長柄斧の扱いに慣れたエンペは、大振りをしてこない。
「早く始めろよ!」
「動け!」
「ボサッとしてんじゃねえぞ!」
 観衆は無責任に野次を飛ばしてくる。他人の声に類するものを意識から外して、他の五感を研ぎ澄ませる。
 背後に、ゼダが野次に動揺している気配がある。これも意識から遮断する。
 眼前のエンペも、野次で浮き足立った様子だった。
 斧が、レムの腕を狙って動く。動作が小さいため、叩き斬ると言うよりは、斧をぶつけると言ったほうがいい打ち方である。その程度でも、斧刃が当たれば十分肉は裂ける。
 ただ、振りが小さすぎて、少し下がっただけで斧は空を切った。
 レムは、どこまで実力を発揮するべきか、悩み始めていた。
 父との修練に比べれば、エンペの攻撃など比較にならないくらい遅い。おそらく全力の振り下ろしであっても避けることは難しくないだろう。
 ただ、レムはゼダの弟という触れ込みで、所有物の扱いから逃れたのである。
 ゼダの実力がどれほどかは、今までの話と今の様子を見れば、おおよその察しはつく。いまひとつぱっとしない男の弟は、どの程度の苦戦でエンペを倒せば、自然なのだろう。
 考え事に気を取られて、二撃目への対処が遅れた。
 柄を握る拳に伸びてきた斧刃を、反射的に石突で横に叩いて払う。
 相手の後の先を取るのは、言うほど楽ではない。それを腑抜けのゼダの弟が、あっさりとやってのけたのだ。観衆の意表をついたのは間違いない。
 空気がざわついている。
 偶然で済ませて白を切るという手も閃いたが、レムでは必ずどこかでぼろを出すに決まっている。
 諦めて、隙を晒したエンペに向かって踏み込んだ。斧頭を担いだまま、石突で腕を打つ。
 斧頭が重くて細かく動かせなくとも、石突ならば問題なく技量を発揮できる。そのための、担ぎ構えであった。
 腕を打たれて、エンペの斧が流れた。姿勢が崩れる。そこへ、レムは斧の持ち方を変えて、背筋で跳ね上げるように斧を振り下ろした。
 受け止めようとしたエンペの斧の柄をへし折り、勢い余って墜落した斧刃は、エンペの右足の甲を叩き潰して地面に埋め込んだ。
「ぎゃあああああああ!」
 老けた狼の喉から、身の毛がよだつような悲鳴が迸った。
 慌てて斧を引きながら、飛び下がる。
 反撃は来なかった。尻餅をついて、泥まみれで形の変わった右足首から先を押さえて、エンペが悲痛な叫びを上げている。
「足が! 俺の足が!」
 戦士の務めで、盗賊は何人も斬った。こういう反応を見せるのも、珍しくない。このように転げまわる盗賊を、いちいち気にする事もなかった。
 だが何故か、片足と戦士生命を失ったエンペを見るのは、心が痛む。
「ヒュウ、勝ちやがった!」
「ゲハハハハ、やるじゃねえかガキ!」
「おいエンペ、てめえ何してやがる! ガキに負けてんじゃねえクソが!」
 観衆の声の中に、何一つとしてエンペを気遣うものはない。
 エンペは、足を抱えてうずくまっていた。
「たいしたもんじゃねえか。ようゼダ、こいつ本当におめえの弟なんだろうな?」
 バルフィンの声が、嚆矢のようにざわめきを突き抜けて飛んできた。
「あ? あ……」
「そうだ」
 口ごもったゼダを救うのは、こちらの番だと思った。バルフィンの目がレムを見る。
「そうかそうか、兄貴よりも随分強えじゃねえか」
「特訓すれば、これくらいにはなる」
 嘘ではない。状況説明は大幅に省いてあるが、嘘ではないから、レムがぼろを出す事もないだろう。
「へえ、特訓ねえ」
 バルフィンもそれ以上追及しようとはしなかった。
 背を丸めているエンペを見下ろす。体の陰になった辺りの草地が、黒ずんだ色に変色していた。
「何ボサッとしてんだ。早くやれよ」
 声をかけられて、バルフィンを見る。
 初めて会った時の、獰猛さすら漂った圧迫感が、再び表れていた。
「俺は最初に言ったな? 相手をぶっ殺せってよ」
「待て、勝負はついてる」
「誰が勝ち負けつけろっつった。おめえを仲間に入れるのに、こいつが黒毛が不吉だっつうからこうなったんだろうが。どっちかが消えりゃ、丸く収まるからなあ」
 バルフィンの足がエンペを蹴り飛ばす。
 うめくような唸るような悲鳴を上げて、エンペが転がった。
 出血は、まだ止まっていない。
 やはり、討伐に行った盗賊と同じ気分では、見られなかった。
 殺すまでではない。手当てをすれば、助かるかもしれない。だが、それを言い出せば、今度はこちらの身が危うくなるだろう。
 思わず、斧を握る手に力が入る。
 バルフィンの技量はわからないが、昨日の時点では素手のバルフィンと対面しても、勝てる気がしなかったのだ。
 不向きの武器で、蛮刀を持ったバルフィンを倒せるかと言えば、結論は明白だ。
 仮に倒せたとしても、その後に何十人という取り巻きから逃げなければならない。絶望的である。
 と、何かが動いて、エンペの捨てた斧の片割れを取り上げた。
 慌てて振り向くと、ゼダが拾った斧頭でエンペの頭を叩き割ったところだった。
 あぐ、と小さく唸って、エンペが動かなくなった。
「ゼダ!」
「よう、ゼダ」
 ばつが悪そうにレムの方を向きかけたゼダが、バルフィンの機嫌の悪そうな声に打たれて身を硬くする。
「手え出すな、っつってあったはずだよな。どういうつもりだ」
「ど、どうせ放っておいてもくたばっただろ。俺は、ホラ、ちょっとな、その、片がつくまでの時間を短くしただけだからよ」
 バルフィンは、必死に言い募るゼダを不興げに見下ろす。
 鼻を鳴らして、背を向けた。
「最後の最後で白けたぜ。そいつはおめえらが片付けとけ」
 バルフィンが動いてから、野次がすっかり影を潜めていた取り巻きたちも、口々にぶつぶつと呟きながら、三々五々バルフィンの後に続いて集落へ戻っていく。
 後には、ひどく消耗した二人と、無残な死体が残っているばかりだった。
「なんでこんなことになったんだろうな」
 まだ死にたくない、と叫びだしそうな屍を見ながら、レムはぽつりと呟いた。
「エンペ爺さん、ここに来る前から盗賊やってて、随分あちこち暴れ回ったらしいからな。ま、そういうことだ」
 草に付いて黒く変色しつつある血の色を見ていると、胸の辺りに重りを埋め込まれたような感覚に襲われた。

――

 台車は、中身の入った桶を載せるとなかなかの重さになる。中身が跳ねるからついてくるだけでいい、とゼダは言うが、一人で集落を回りきるのは重労働だろう。
 たまに滴がかかることがあったが、ゼダの引く台車を後ろから押すことにしていた。
 無計画に建てられたせいで、石の住居の並ぶ集落は、全面が路地のように入り組んでいる。
 共同の肥桶を取替えるごとに、台車の重量が増して細い道を通りにくくなっていった。
「くせえな、さっさとどっか行けよ」
 他の狼と出会えば、罵声が飛んでくる。誰の始末をつけているというのか、とレムは不満に思ったが、ゼダはへこへこと謝ってやり過ごしている。
 そうすれば、長々と絡まれることもないのだろう。愛想のない顔に苛立ちが浮かんでいるのがばれないように、レムは下を向いていることにした。
 わざわざ出入り口に面していない道を通っているのか、住居の中の様子は窺い知ることは出来ないが、男たちの柄の悪いざらついた声に混ざって、女や子供の声も聞こえてくるのが、モノマ氏族の営み感じさせた。
 こういう姿だけであれば、少し荒んではいるが、普通の氏族と変わらない。
「シェガル、ちょっと止まれ」
 台車の向こう側からゼダの声がかかった。
 わざわざ呼びかけたということは、これから集落中央部の高台につながる登り坂だろう。
 案の定、住居の並びが尽き、地肌がむき出しの崖が目に付いた。崖の上に大人の姿を覆うくらいの植え込みがあり、その向こうが砦だ。
 崖は、大人の男なら両腕を伸ばせばなんとか飛びつけそうな程度の高さしかないものの、密に植えられた低木がよじ登るのを邪魔している。
 出入りが出来るのは高台上の砦の正面の坂ぐらいのものである。
 坂の麓に台車を横付けし、空の桶を抱えて砦の出入り口番に挨拶する。
「さっさと行けよ」
 露骨に嫌そうな顔をして、門番が払うように手を振る。
 こちらとて、好きでやっているわけではない。しばらく鼻が利かなくなる上に、体に汚れがまとわり付くような感覚が離れなくなる。
「これを一人でやってたのか」
「まあ、俺の腕前じゃ仕事があるだけマシさ」
 思わずゼダにぼやくと、宥めるような愛想笑いが戻って来る。
「シェガル、お前は結構斬り合いもいけるみたいだからな、バルフィンにそれなりに上納すりゃ、悪い扱いは受けねえんじゃねえかな」
「私に盗賊をやれって言うのか」
「いや、まあ」
 何の気なしの発言だったのだろう、ゼダが慌てている。
 純粋にレムの立場が良くなることを考えてなのだろうが、モノマでの女たちの扱いや、エンペの末路を思えば、むしろ不快ですらある。
 それに、モノマ氏族に長居をする気はない。
 だが逃げ出すにしても、見通しの利く平原と高い塀に囲われ、出入り口には門番がいる。川にはご丁寧にも柵が嵌め込まれており、潜って抜けるわけにもいかない。
 捕らえた女が逃げ出さないようにしてあるのだろう。
 もし出られたとしても、ゼダのその後を考えると、どうしても思い切れなかった。
 窮地を救ってもらった相手の立場が悪くなるようなことはできない。悪くすれば殺される可能性まであるのだ。
 それも普通に死ねればましな方法を取られるだろう。
 とは言え、いつまでもここにいるわけにもいかないのである。
 何とかゼダを説得して、二人で逃げられる方法を考えなければならない。
「おいシェガル、どうした?」
「ん」
 呼ばれて、共同便所の裏手に来たのに気が付いた。
「すまない、色々考えていた」
「後にしとけ。気抜いてられる仕事でもねえし、場所も場所だ」
 言いながら、ゼダは空の桶ふたつを携えて、共同便所のあるあたりを隠している茂みに入っていった。
 しばらく、待つ。
 交換には結構時間がかかるのだろうか。ただ桶を換えて出てくるだけにしては、随分と時間がかかっている。
「ゼダ、手伝おうか?」
「いや、大丈夫だあ」
 奥から声が返ってくる。
 それからさらに少しして、ゼダが桶をひとつ持って戻ってきた。
「いやあ、狭いから、こぼさねえように取り替えるのが骨でよ」
「そうなのか。手伝おうか」
「いや、一人の方が早えと思う」
 言いながら、もうひとつの桶を取りに戻っていく。さすがに中身入りを二つまとめて持ってくる気にはなれなかったのだろう。
 ゼダの置いていった桶を台車に上げながら、ふとレムは砦を見上げた。
 同じ氏族だというのに、崖と石壁は、集落からすら離れているような感触を覚えさせる。
 実際そのつもりなのだろう。バルフィンは、自分以外のすべてを見下している。
 バルフィンの部屋に架かっていた首の、無念を湛えた虚ろな目を思い出す。あの首たちは、葬られていない。
 剥製にされて形を保ったまま、バルフィンの暴虐の証として残されている。己の氏族の精霊の庇護を受けた地に、戻れていないのだ。
 並べられていたのは、いずれもおそらく族長級の者たちであろう。彼らの氏族は、どうなっただろう。
「待たせたな」
 二つ目を持って、ゼダが戻ってきた。


 草地の一角に穴を掘り、桶の中身を流し込んで埋める。
 基本的には汚物だが、きちんとこなれさせれば肥料になる。草地にはそれなりの広さがあるのだから、耕地でも牧草地でも、十分な収穫が得られるはずである。
 中身を捨てた桶を洗い、日光に晒して干す。
 体に臭いがまとわりつくのも、もういちいち気にしなくなっていた。親しんだ顔に会わずに済む分、気は楽である。
「悪いなあ、任せきりにしちまって」
 川の上流で釣竿を握っていたゼダが、頭を掻きつつ歩いてくる。
「あんまり釣れないわ。そろそろ、倉庫番から食い物分けてもらってこないとダメかもな」
「そんなのがあるのか。個人の物ばかりじゃないんだな」
 あまり気乗りのしない雰囲気のゼダの後に続いて、小屋に入った。
 埃っぽい小屋の中は、飾り気と縁遠いどころか、必要な調度品も足りていない。
 薪だけは、やたらと積みあがっている。桶が壊れた時に、この中から使えそうな木を選んで作り直せ、ということらしい。
 桶用の材木と、燃料用の薪が融通できるかどうかなど、考えなくともわかる。
 寝台すら寝藁で代用している有様では、机や椅子の類は言うまでもなく、小屋の片隅に膨らんだ麻袋がいくつか転がっている程度だった。
 一番奥に押し込められている袋から、長柄が飛び出ている。
 戦士である以上、こうした武器の配置には常に目を光らせる習慣が出来上がっている。おそらく槌か斧か、と見当をつけていた。
「なあゼダ」
「ん?」
「ゼダの得物は何だ」
「獲物? 川魚だよ。さすがに虫は食わないだろ」
「いや、そっちじゃなくて、武器の方だよ。戦いには出るんだろ」
「うん、あー、まあ、それはな」
 歯切れ悪く唸り始めるのに構わず、気になっていた長柄に目を向ける。
「あれなんか、そうだろ。モノマに入る前から使ってたものじゃないのか」
「うお、おう、うん。まあ、そうだな」
 レムとしては何の気なしに放った問いだったのだが、何が後ろ暗いのか、ゼダは随分と挙動が怪しくなっていた。
「なんでそんなに慌ててるんだ」
「いや、まあ……」
 視線を逸らして、ちらちらとこちらの様子を窺ってくる。
 何も疑っていなくても、こういう態度を取られると、次第に疑念がわきあがってくるのは仕方がないことであった。
 とは言え、ここで問い詰めても何の収穫もなさそうである。
「まあ、いいよ。一応、何かあった時のために、武器の用意はあった方がいいって思っただけだ」
「ああ、そういうことか」
 エンペとの決闘に使った長柄斧は、結局後で取り上げられてしまった。いざとなれば、ゼダの武器を借りなければならないことになるだろう。
 寝藁に勢いよく体重を預けるレムを見ながら、ゼダは落ち着きを取り戻したようだった。
「ありゃ石斧でよ……まあ斧っつうか、杖に斧みたいな石をくっつけたようなもんなんだけどな、とにかく武器に使うには、ちょっと頼りない代物でな。
そんなんでもないよりはましかと思って持ってきたんだけどよ……ま、実際に使う武器は、倉庫番のところに借りに行くな」
「また借り物か」
「そうそう。喧嘩の弱い奴には何も分けてくれねえのさ、参った参った」
 大げさにため息をついて見せながら、ゼダは火に、また例のぴりぴりする香りの草を放り込んだ。
 しばらく、会話もなくぼんやりと時が流れていった。
 桶を日に干してしまえば、何も持たず何も期待されていないゼダには、するべき仕事もない。
 せいぜいが、川の流れが落ち着いたところで着替えを洗いにまた川へ行く程度である。
「そうだ」
 疑問を思い出して、ゼダに呼びかけた。
「モノマは、祭儀はあるのか」
 ゼダが、またぎくりと表情を変えた。
 しばらく考え込んだ後、ゼダは顔をしかめた。
「お前それ、外で言うなよ」
「どうして」
「他の奴らは笑うに決まってるし、バルフィンに聞かれでもしたらまたどんな因縁をつけられるかわかったもんじゃない」
 ゼダの返事が直接質問に答えたものでなかったため、少し理解に手間取った。
「ということは、ないのか」
「ああ。俺が来たころから、全然やってる様子がない」
 おそらく、ゼダも祭儀の有無を尋ねたのだろう。ぎくりとしたのは、そのせいか。
「精霊はどうしたんだ」
「さあなあ」
 ゼダは早くこの話題を終わらせたがっているようだった。
「いたとしても、蚊が鳴くほどの力もねえだろうな」
 氏族はいるものの、祭儀がなければ結びつきは弱くなる。
 祭儀がないから弱くなるのではなく、祭儀をしようという心持にすらならないことが精霊を弱くする。
 祭儀の話を笑う連中では、精霊が力を振るえるはずもない。
「もしかすると、とっくに邪霊になってるかもな」
 精霊は魔素の塊に過ぎない。自然霊信仰の形を取って、魔素を氏族がなんらかの属性になぞらえて認識することで、魔素は精霊となる。
 氏族からの敬意が薄れ、その認識が揺らいだ時、精霊は守護を捨て、ただ存在するためだけに生き物の意識を奪い始める。
 共に生きる者たちへの敬意と善意を忘れ、生きる事に汲々とする魔素を、邪霊と呼ぶ。
 自分たちを守ってくれる存在を見捨て、そのような誇りや尊厳の欠片もないものに貶めるなど、レムには考えも付かなかった。
「そんなのって、あっていいのか」
「さあなあ。よく知らねえってばさ」
 火に小枝を二、三本放り込むと、ゼダは寝藁に横になってしまった。


 体を鈍らせてはいけないと、棒を振ることにした。
 ゼダも誘ってみたが、寝藁から起き上がってくる様子はない。
 弟の方が強いなんてのが誰かに見つかったら疑われる、と言い訳がましく言っていたが、モノマ氏族の他の者たちの態度を見ていても、その心配はないだろう。
 ゼダが強いなど、既に誰も思っていない。
 それより、ゼダに多少修練してもらいたかったが、無理やり起こすというわけにもいかない。
 石斧も、なんだかんだと言い訳をされて、結局貸してもらえなかった。
 それで、持っているのは手ごろな大きさの薪二本である。
 断崖城にいたときのように、敵に囲まれているイメージを作る。
 片手牽制から溜めを作っての逆剣の振り下ろし、踏み込んだ足を軸に即座に背から回転しての横薙ぎ、敵の突きを交差して受けながら捻りを加えて逸らし、反撃の諸手突きから門を開くように両手払い。
 側面の敵への蹴りで敵の武器の握りを弾き飛ばし、足をそのまま下ろしながら片手で斬り捨てて反転、逆の敵の懐に飛び込みながら剣ごと相手の胴に体当たりし、両手を添えて背筋を用い一気に斬り上げる。
 鋭く息を吐いて呼吸を整える。断崖城の霊地には比べるべくもないが、気分が落ち着いていった。一振りごとに意識が無駄な悩みを剥がして捨てていく。
 何かある時は、体を動かすのがいい。命のやり取りは、命に関わらないものすべてを、一度意識の外へ押し流す。
 ざわりと、草を踏む音が聞こえた気がして、型稽古の流れのまま、そちらへ剣先が向かった。
 レムの気迫を真正面から受けて、驚いた様子のモノマ氏族の狼が立っていた。
 少し焦って、気を外した。戦う相手でもないのに剣を向けてはいけない。型稽古とは言うが、敵を斬るための動作なのだ。
「なんでえ、俺を殺ろうってのか」
 自分が瞬間的にでも怯んだのが気に入らなかったのだろう、不愉快そうに顔を歪めて、狼が唸った。
 手に握っていた剣の感触は、ごつごつした握りにくい薪のものに戻っている。
「何か用か。ゼダなら、中だぞ」
「けっ。じゃあ呼んで来い。てめえら二人に用だ」
 面白くなさそうに唾を吐きながら、狼は言う。確か最初の日にレムを囲んだ三人のうち、一人だったと記憶している。
 メドウズほど嘲笑的ではないので、つい気を許しそうになるが、この狼もモノマ氏族であることは変わりない。
 先程の修練が何か疑念を呼んだのか、不信感の混ざった視線を背に受けながら、小屋のゼダに呼びかけた。
 ゼダは、だらしなく寝藁に伸びていた。眠っていれば起こすのに手間のかかるところだったが、まだ起きていた。
「なんだよ、エデック。薪ならやんねえぞ」
「抜かしてろ、クソ洗いの分際で」
 レムに向けていた不審の視線は、そのままゼダにも向いている。とは言え、幾分か疑わしさは和らいでおり、苛立ちの色が表れていた。
「明日ァバルフィンが狩りに出る。そいつに、てめえらも付いて来いって、そんだけだ」
「何だ、それ」
 バルフィンに野の獣を狩って生活の足しにするような、まともな思考があるとはとても思えない。意味を掴みかねて問いかけると、エデックがじろりと睨んできた。
 隣のゼダには話が通じているらしく、やや落ち着かない色を滲ませている。
「ちょっと待ってくれ、俺たちにゃ武器がないぞ」
「はン。俺はそんな奴はずっとクソ桶洗ってりゃいいと思うんだがな。バルフィンがてめえの弟を気に入ったらしいからな。面白くねえ話だ」
 気に入ったといっても、新しい玩具に喜ぶようなものだろう。ぼろぼろになるまで振り回されるのがせいぜいで、もし取り立ててもらえたとしても、バルフィンの下では逆に危険である。
 エデックは、そうは思っていないらしい。
「バルフィンも何考えてやがるんだ。てめえみてえな胡散くせえガキに目ェかけてよ」
 この口ぶりからすれば、少なくともバルフィンはいたぶり殺そうとしているわけではないらしい。だが、好意的だとしても、結果は同じになるだろう。
 それでも、エデックの言葉からは嫉妬が漂っていた気がした。
「いや、エデックよ、そうは言うけどな」
「どう思われても、私がゼダの兄弟だというのは変わらない。やっかみをこっちに持ってくるな」
「何だとォ?」
 エデックの形相が変わった。
 少し、モノマ氏族の雰囲気に慣れすぎたかもしれない。レムの立場では、無能者を装ってひたすらへりくだっているのが、一番危険がないというのに、つい思ったことをそのまま口に出してしまった。
 今のレムは、エデックのような小物でも、機嫌を損ねれば窮地に陥るような状況なのだ。
 手に、薪がある。エデックの腰には、小さな手斧が下がっている。やりようによっては勝てるだろう。だが、その後はどうなる。
 空気に殺気が混じりそうになった刹那、後頭部を捉えられた。
「すまねえエデック、こいつちょいと跳ねッ返りでな、よく言い聞かせておくから、ここは勘弁してくれ」
 手に押さえ込まれるように、頭を下げさせられる。後ろから慌てた様子で響いているのは、ゼダの声だった。
「てめえが出てくるところじゃねえ、すっこんでろ! このガキ調子くれやがって、ここで身の程を教えてやる!」
「本当にこの通りだ、俺に免じてここは頼む、勘弁してくれ、なあ」
 頭を下げたままの視界に、ゼダの背中が入った。地面に膝を突いてまで、この男は何をしているのか。
 体の内側が、かっと熱くなった。
 ゼダを引き起こして、そんなことまでする必要はない、と言いたい衝動をぐっと噛み殺した。元はと言えば自分が招いた厄介事なのだ。
「ケッ、何とかしておけよ」
 エデックも、あまり面倒を起こしたくはないのだろう。唾を吐いてさっさと背を向けてしまった。
 勝手にレムに手を出せば、バルフィンの不興を買うとでも思ったのかもしれない。
 エデックが離れていったのを確認してから、ゼダがのろのろと立ち上がった。
「ゼダ、なんでそこまで」
「ああでもしねえと引き下がらないんだよ、あいつら」
 ゼダの手足に、細かい草がくっついている。何も知らなければ、よくもそんな誇りのない行動を、と嫌悪しているところだろう。
 先ほどまでの熱さは、一体何に対するものだったのだろう。その場限りの考えなしの激情は、もうすっかりしぼんでいた。
「すまない。私が軽率だった」
 ゼダの顔を真っ直ぐ見られず、素直に頭が下がった。
「いいって。俺は頭下げ慣れてるからな」
 思いやりの感じられる、柔らかい口調だった。きっと優しく微笑んでいることだろう。
「それによ、お前は俺の弟なんだからな。兄貴が弟の面倒見るのは当然だろ?」
 ぽんと軽く触れるかのように、頭を叩かれる。はっとして顔を上げると、思ったとおりの表情を浮かべたゼダの顔があった。
「魚でも焼くか」
 導くように小屋に入っていくゼダを見ながら、自分に兄がいれば、やはりこうして気にかけてくれたのだろうか、と思った。


――

 手首を打たれて、持っていた木剣が回りながら飛んでいく。
 もう、しっかり握っている力もなくなってきた。くたくたになって、その場に座り込んだ。
「なんだよ兄貴、もう音ぇ上げたのかよ」
 木剣を担ぐように肩に当てている狼は、小柄である。
 小柄でありながら、自分よりも戦いの才能があるらしい。初めは痛くないように打つのに苦心したのは自分のほうだったが、最近では当てることすら難しくなってきた。
 打たれた箇所が、今更になって痛み始めてきていた。
「お前もうちょっと加減してくれてもいいだろ」
「それじゃあ訓練になんねえだろ。誰だよ、村に戦士が必要だっつった奴は」
「こら! 何やってんの!」
 軽い体重が草を踏みしめる威勢のいい足音が近づいてきて、小柄な狼が飛び上がった。
「ひゃあ、ねーちゃん俺が悪いんじゃねえよ!」
「このバカ、もうちょっと手加減してやってもいいじゃない!」
「揃ってそれか、チクショウ!」
 悪戯が見つかった悪童のように、一目散に逃げていく狼を追い散らし、現れた彼女は鼻から息を噴き出しながら腰に手を当てた。
 振り向く。気の強そうな顔が、じっと見下ろしてきた。
「ごめんね、あのバカ。自分に取り柄が見つかったから、調子に乗ってんのよ」
「いや、しょうがねえさ。俺が弱いのは本当だからよ」
 彼女は肩を貸そうとしていたが、まだ疲れが残っており、立つ気も起きない。
「ちょっとちょっと」
 萎びた野菜のように座ったままでいると、彼女は横にしゃがみこんでこちらの顔を覗き込んできた。
「しゃんとしなって、村初めての戦士になるんだろ?」
「そりゃシェガルに任せとくよ。俺より、あいつの方が強え」
「バカ言ってんじゃないよ!」
 やや拗ね気味にぼやいた途端、ぐっと肩を掴まれた。彼女を見上げると、どうやら怒っているらしい。
 声が少し掠れていた。
「シェガルはね、あんたが戦士になるからって、村にも戦士が必要だからって言うから、俺も兄貴を手伝うって訓練始めたんだよ!?」
 怒りを抑えて説得しようとしている彼女の態度が、自分のプライドを傷つけた。安いプライドだという自嘲の気持ちが、若さの後押しを得た怒りに上塗りされていく。
「うるせえな! ダメなモンはダメなんだよ! 俺よりチビに叩きのめされて、何が戦士だよ! もういいだろ、俺のことは!」
 腕が勝手に、肩にかかっていた彼女の手を振り払っていた。
 彼女に手を出したのは、もう随分昔の、互いに幼い頃以来だっただろうか。
 驚いて目を丸くしている彼女の顔を見ているうちに、白く熱されていた怒りは急速に熱を失って、苦くざらざらした罪悪感ばかりが残った。
 その感覚に耐えられず、彼女から顔を逸らした。
「ねえ」
 彼女の声が名前を呼ぶ。自分の名は、嫌いだった。激しい発音はなく平坦で、いかにも穏やかな名前だった。名を聞いて、強そうだという印象を抱くものはいないだろう。
 せめてシェガルのように、名の中にガとかザとか入っていれば、少しは強そうに聞こえたかもしれない。
「私ね、あんたが何か考え付いて、一生懸命やってるのが一番好き。そりゃうまく行くことばっかりじゃないけどさ、それでもいつもなんだかんだ言いながらめげないでがんばってるじゃない。
いいじゃない、ダメでも。ケイギアさんが狩人できなくなった時も、あんた弓もまともに使えないくせに、なんだかんだ言ってキリくんが一人前になるまで、一緒に狩りに出てたでしょ。
あんたはよく気の付く男だよ。そんで、必要なことはなんでも頑張る、村で一番勇敢な男なんだから」
 面と向かって言いたい事をはっきりと言えるのが、彼女の美徳だ。それは、普段は自分の不甲斐なさを叱る場面に用いられている。
「だからさ、腐ってないでいつものようにカラ元気で強がってよ。あんたがそんなんじゃ、こっちまで湿っぽくなるじゃない」
 その美徳で褒められると、体中がこそばゆい感触になった。


 寝藁にも、気を抜けない環境にも慣れたと思っていた。
 実際その通りだったが、バルフィンの「狩り」への同行命令は、慣れが気の緩みに通じるということを改めて理解するのに、十分な衝撃だった。
 またあまりよく寝付けない夜を過ごして、頭の中に妙にとげとげしい靄がかかったまま、寝藁から起き上がった。
 空は白んでいるが、まだ山の稜線から太陽は姿を見せていない。
 とは言えこれ以上眠れる気もせず、少し体を動かすことにした。
 薪の山から程よい木切れを見繕い、まずは川で顔を洗う。水の冷たさが、多少は頭をすっきりさせたような気がした。
 狩りとは言われたが、バルフィンのことである。狩り出す対象は山の獣などではないだろう。
 ゼダが今までどうやってきたのかは尋ねていないが、レムがエンペ相手にあれだけの立ち回りを見せてしまった以上、戦果を上げなければ疑われる。
 相手方に戦士がいれば、彼らと戦っていればごまかしは効くかも知れない。しかし戦士を一人倒すということは、戦えない者が守りを失うことになるのだ。
 自分が開けた防御の穴に、モノマ氏族の男たちが滑り込めば、結果はさほど変わらない。
 相手が似たような盗賊であることを祈るばかりだった。
 意識の中に、初めにレムを捕まえた三人を呼び起こす。
 薪を両手に持った状態で、こちらを囲むように立たせる。この位置では、打ち合った相手を一撃で倒さなければ、組み合っている間に背後を取られる。
 彼らの立ち回りを実際に見たわけではないが、三人のいずれも、こちらから仕掛けて一刀の下に斬り捨てるわけにはいかなそうである。
 返し技ならわからないが、相手に先手を許せば三人の連携攻撃に晒されることになるだろう。
 あの時のようにボーラを投げ込まれれば、そこまでだ。
 しばらく、考える。両手の蛮刀ではそうなるが、もし長柄の武器が、たとえばエンペとの勝負の時に持たされた長柄斧ならどうだろう。
 威力とリーチのある武器なら、仕掛け方によっては一撃で倒せるかもしれない。が、十のうち九までは、同じ結果だろう。
 一対一なら、倒せる。
 相手の武器にもよるが、父の剛剣を上回る攻め手はないだろう。
 パルネラの鎖鉄球やディエルの針射ち弓のような搦め手の武器なら、てこずるかもしれない。とは言え、比較対象が長老議員の時点で適当でない。
 少し体が冷えてきたので、川原から小屋の中に戻った。蛮刀の代わりに持ち出していた薪は別のところに取り分けておき、新しく山から取り出した薪を囲炉裏にくべて火を起こす。
 香草と一緒に漬け込んである魚を取り出しながら、そろそろゼダを起こしておかなければいけないと思い立った。
 相変わらず、ひどい寝相である。
 放っておきたいところだが、ゼダがいなければモノマの者たちに疑惑の目を向けられかねない。ただでさえ目立っているのである。これ以上注目を浴びるのは避けなければならない。
 それに、レムはゼダをあてにしていた。
 戦いこそいまひとつらしいが、無理矢理モノマの仲間に入れられてからも、ゼダに随分助けられていた。
 剣術一辺倒で、人付き合いの柔軟性のないレムだけでは、どこで致命的な失策をしでかすかわからない。
 ゼダは、レムの失敗を未然に防ぎ、あるいはひとつひとつ拾って大事にならないようにしてくれているのだ。
 一歩立ち回りを間違えれば奈落が見えるモノマ氏族で、この得体の知れない義兄だけが頼りになった。
 串に刺した魚を火にかけて、ゼダを起こすべく歩み寄った。
 頭蓋骨の裏に響いてくるような、大きくも小さくもない微妙ないびきが、時々詰まりながら聞こえてくる。なんとなく聞く者を苛立たせる、不思議な音である。
 寝藁は広がっており、床の上に手足が投げ出されているような状態だった。
「ゼダ、起きろ」
 顔を近づけて大きめに声をかける。
 これで目覚めてくれるようなら、毎朝面倒な手間がかかることもない。
「ゼダ!」
 あまり大声を出すと集落の門番に聞こえそうなので、音を絞りながら腹に通る声を出す。
 要は剣を振る時の気合と同じ要領なのだが、敵に踏み込む場合と同じ気魄を込めても、ゼダは鬱陶しげに唸るだけである。
 あまつさえ、寝返りを打ってレムの足元にぶつかりそうになった。
 一歩下がってぶつからないように避けてから、ゼダの体の芯が動くくらい揺さぶるが、これでも起きないのは証明済みだ。
 肩を平手で張り飛ばす。これで、ようやくうなされる程度に唸り始める。
 言葉を成していないのでよくわからないが、どうやら起こされていることに抗議しているらしい。わかってるよ、という言葉がかろうじて聞き取れた。
 ゼダが夢うつつのまま上げた腕が、のろのろと宙を掻く。追い払いでもしようとしたのかもしれない。どちらにせよ、目覚める気配は遠い。
 これ以上の衝撃となると、もう穏やかな手段では済まない。
 ゼダの脇腹に手のひらを当て、当てた手の甲にもう片方の手のひらを当てる。
 ゼダの体に密着した方の手で衝撃を抑制しながら、腕を動かすことなく胴体のひねりのみで掌底を叩き込む。
「おっぶ!?」
 結局、こうなるのだ。


 レムの予想は当たった。
 獣を狩るのではなく、集落を襲うのだ。
 バルフィンが声をかけた者を中核に、おこぼれに預かろうとする者が勝手についてきて、一団を成している。集団としての統制はほとんどないようなものである。
 レムはバルフィンの近くに置かれた。直々に、働きぶりをよく見せてみろ、と命じられている。
 できれば標的の集落に、先に襲撃を知らせたいくらいの気分である。
 渡されたのは、また長柄斧だった。石突で相手を圧倒できれば、勝手に逃げてくれるだろう。
 しかしどこでバルフィンの目が光っているかわからない。仕留められる状況で斧頭を打ち込まなければ、また面倒なことになるだろう。
 バルフィンの武器は、円錐形の鉄の塊をくり抜いて抱え込むための柄を取り付け、側面に体の大部分を覆う盾を取り付けた大型の騎兵槍である。
 それを、徒歩のまま操るらしい。
 あれを振り回されるだけで、敵は接近すら難しいだろう。無論レムがバルフィンを相手取るときも、同じである。
 なるべくバルフィンから離れるように歩いていると、先行していた者の一人が戻ってきた。
「バルフィン、奴らの見張りに引っかかったぞ」
「そうかよ」
 伝令を一瞥し、バルフィンは不敵に笑った。
「よおしおめえら、全員走れ! 獲物が逃げる前にぶちかますぞ!」
 バルフィンの一喝に、周囲が雄叫びで呼応する。びりびりと空気が震え、木の葉が落ちてくるようにさえ思えた。
「おめえらは見張りに追いつけ。獲物に知らせが行く前に捕まえて八つ裂きにしろ」
「おお!」
 命令を受けて、高揚した表情の伝令が再び最前衛に駆けていく。
 鉄塊を抱えたまま駆け始めるバルフィンに足並みを揃えるように、皆が足を速めていく。
「どうしよう、ゼダ」
「どうしようって、やるしかないだろ」
 ゼダは、どこにでもありそうな質の悪い両手剣を持っている。振り回せばなんとかなる物ということなのだろうか。
「いつもは、どうしてたんだ」
「一緒にやってたさ」
「でも、成果が出せないって言われてただろ。あれは、出せないんじゃなくて本当は」
「何ゴチャゴチャやってやがんだ、てめえら! 走れよ!」
 後ろから怒声が追い越していく。
 走りながら振り向いた、苛立ちの滲む狼を見送り、ゼダはレムに顔を向けた。
「そんな腕はないよ」
 言ってから、駆け出した。


 めいめいに躁的な叫びを上げながら、盗賊たちは集落に殺到した。
 畑の手入れをしていた壮年の狼に殺到し、その場に叩き伏せる。青い麦の下に沈んだ不幸な男に数人がかりで追い打ちし、とどめに蹴りを入れると嘲笑を残して次の標的へ同じように向かっていく。
 木造の小屋の住居がいくつか破られ、女や子供の叫びが聞こえてくる。それに混ざるように、男の怒声と暴漢のいやらしい笑い声。
 奥の建物から、集落の男たちが散発的に応戦に出てくる。
 自分の立場さえしっかりしていれば、取るべき行動など悩みもしないはずだ。
 弓を持って出てきた住民が建物の隙間に展開し、急ごしらえの横隊が一斉に矢を放つ。
 防具や遮蔽物のなかった者が、矢を受けて物陰まで退いた。
「女子供を避難させろ!」
 遠くの方で指示が飛んでいるのが聞こえる。
 やはりそれを聞きつけたらしい者がこっそり迂回しようとしたところに、矢の第二射が集中する。
「ちっ……」
「てめえら、ビビッてんじゃねえ! 木こりと百姓に負けるわけがねえだろうが!」
 忌々しげに怒声を飛ばす者もいるが、うっかり前に出れば即座に矢が放たれる。
 住民たちは弓の他に、大振りの長刀も持っている。斬り込めば終わりというわけでもない。
 こちらも数を揃えて押し出していくべきなのだが、矢に身を晒して突破口を開こうという者はいない。
 何本かボーラが飛ぶが、隙を突けなければ飛礫と何も変わらない。決定的どころか、一人を打ち倒すこともなかった。
「よう、何やってんだ、おめえら」
 脂っぽい悪臭を含んだ風が吹いた気がした。
 弓の横隊と、物陰で機を窺う盗賊の間に漂っていた緊張感が、異質な空気に取って代わられる。
 住居の一軒から、悠々とバルフィンが姿を現した。騎兵槍には、既に何人か分がこびりついているようだった。
 弓に矢をつがえる住民たちを眺め、バルフィンは物陰に隠れている手下たちを見下ろした。
「おうおう、おめえら随分腑抜けたざまじゃねえか。なんだシェガル、おめえまで」
「弓の怖さはよく知ってる」
「そうかよ。弱気なこったな」
 防御策も講じずに突撃命令が下されるかと警戒したが、バルフィンは何かを思いついたらしい。
 陰惨な笑みを浮かべて、今しがた出てきた建物に戻っていく。
「いやあ、生かしておいて良かったぜ。おら、来い」
 次に出てきた時には、騎兵槍を肩にかけ、空いた片手に少年を掴んでいた。
 レムより少し幼いくらいだろうか。毛並みは黒く汚れ、片目は殴られたのか閉じられたままで、手足どころか舌までだらりと垂らして、もはや虫の息だった。
 バルフィンは体格はいい方であるが、突出して大柄というわけではない。それでも、少年を軽々と片腕で吊り下げていた。
「ベリ!」
 住民から小さな叫びが上がる。全体に動揺が広がっていた。
「おめえらの知り合いか? ッハッハッハッハ、良い事はするもんだなあ」
「何だと! お前がやったのか!」
 一人、明らかに激昂している。
「たまに慈悲を出して、ガキを生かしておいたら、早速役に立つ場面が来やがった」
「貴様……!」
「おっと」
 弓が引き絞られるのを見て、バルフィンがふざけた調子で少年を横隊の前に突き出した。
 弓の弦が軋む。
「ベリを降ろせ!」
「好きにしろよ。俺を殺るんだろ?」
 そのまま、バルフィンは無造作に横隊に足を進め始めた。
 弓隊が、じりじりと下がっていく。
 バルフィンが前に出たことで、少年の横から狙えるようになったのだろう。端の一人が、矢を放った。
「馬鹿、よせ!」
「おっと?」
 弦が鳴ると同時に、少年を掴んでいる腕を前に出したまま、バルフィンはそちらに向き直った。
 騎兵槍の盾と少年の体で、バルフィンの体がほぼ覆われる。
 腰の辺りに矢が突き立ち、少年がびくりと身を震わせた。
「よう、危ねえじゃねえか。当たったら死んじまうだろうが」
 にやにやと笑いながら、バルフィンがまた足を進め始めた。
 弓隊が次第に下がり、バルフィンを包囲するように弧を描き始める。
 真横に回りそうな端の弓を見てバルフィンは足を止め、鼻を鳴らした。少年を見て激昂した若者に目を向ける。
「よう、おめえ」
「ベリを離せ!」
「そうしてやらあ」
「何……」
 若者が言葉の意味を掴む前に、少年の体が若者の視界を覆うように宙を舞っていた。
 そして、ほとんど遮られた視界と、少年を受け止めるために崩れた戦闘態勢を目掛けて、騎兵槍が跳ね上がる。
 体の真ん中から頭へ血を噴き上げて、若者は仰向けに倒れる。
 受け止める者がいなくなった少年は、頭から地面に落ちた。
 湿った音がした。元々虫の息だった少年は、体を地面に投げ出したまま、ぴくりとも動かない。
「ヘッ、こりゃ死んだかもな。おお、悲しいじゃねえか。なあ?」
「ッこの野郎!」
 気を取り直した一人の矢に続いて、呆然としていた弓隊が次々と矢を引き絞って放ち始める。
 その頃には、横隊の中央部が騎兵槍の間合いに捉えられていた。
 横一文字に薙がれた槍先が、数人をまとめて血煙に巻き込む。
 弓隊の応戦の判断が、刹那遅れた。
「さあ殺せ殺せ! 刃向かった奴は全員殺せ! 逃げる奴も全部殺せ!」
 バルフィンの一喝に弾かれたように、物陰にいたモノマ氏族が次々と飛び出していく。
 住民の防衛は崩れた。
 ある者は矢を放つ前に叩き伏せられ、他の場所では長刀を抜いて斬り合っている間に背後から後頭部を割られていく。
 横合いから斬りかかってきた長刀は、バルフィンが少し腕を上げただけで騎兵槍の側面盾が受け止めた。
 そのまま鉄の質量で相手を押しのけ、姿勢が泳いだところへ無造作に槍先を突き入れる。そのまま横に払って傷を広げ、槍を脳天に打ち下ろした。
 致命傷を負って倒れた者を体重をかけて踏みにじりながら、バルフィンは心地よさそうに笑っている。

 モノマの盗賊たちは、家を壊し、住民を殺しながら、集落から避難していく女子供を追っていった。
 避難民の中には、氏族の祭具もあるだろう。そうしたものには、行商人が高値を出すような細工物も多い。
 だが、彼らがそうしたものを狙う理由はただ単純に、己の力を示すためでしかない。
 脇目も振らずに、無策に突撃していく略奪者の集団の後ろを、ゼダはこそこそとついていくだけだった。
「ゼダ、後ろにいるだけじゃ、何もできないぞ」
「そうだけどよ」
 ゼダが情けない顔でレムを見る。一応発破をかけてみたものの、レムとてゼダの後ろをついていくだけである。
 斧は、申し訳程度に柵や扉を破壊した程度で、レムが身に付けている戦闘技術はまったく発揮されていない。
 他の者に見つかれば、まともに働いていないのは一目でわかるだろう。
 エンペを倒してみせた以上、その腕を発揮しておかなければ、またバルフィンから念入りに弄られることになる。
 目立つように行動すれば、住民の誰かが襲い掛かってくるだろう。そうすれば、仕方なく倒さなければならない。
 誰か倒せば、他の者にも言い訳が立つ。
 そんなことを考えている自分が、嫌になる。
「まあ、勝手がわからねえってことでなんとかなるだろ。ここは引き上げが早くて、追いきれねえってのもあるしな」
 もう慣れたものなのか、ゼダはいつものペースである。
 結局手詰まりで、がっかりした気分のままとりとめもなく足を動かしていると、気を抜いたせいでゼダの背にぶつかった。
「ゼダ、どうした」
 建物の陰になるように立って、向こうを窺うようにしている。
 ゼダの陰になるように立って、同じように様子を窺ってみる。
 騎兵槍を地面に突き立て、それに寄りかかって立っているバルフィンが視界に入った瞬間、肝が冷えた。
 バルフィンを中心に立っている取り巻きたちの視線の中央で、逃げ遅れたらしい娘が一人、押さえつけられている。
 これから起こるであろう出来事に、取り巻きたちはいやらしい笑いを浮かべているが、バルフィンはあまり面白くもなさそうだった。
「まったく、逃げ足の速えこったな。全然食い足りねえ」
 取り巻きに数人がかりで両手両足を押さえつけられ、声を出すこともできない娘を、笑いもせずに見ている。
 その顔が、一人遊びでどう時間を潰そうかと考える子供に似ていた。
 考えが決まったのか、地面に突き立てていた騎兵槍を引き抜いた。
「待ってくれ!」
 聞こえてきた誰かの叫びに、心臓が跳ね上がった。
 よりにもよって他者を何とも思っていないバルフィンに制止をかけるなど、自殺行為ですらある。
 その場に駆け出してきたのは、やや老いが目に付くようになってきた狼だった。
 ぶらぶらと立っていただけの取り巻きたちが、素早く武器を構えて老狼を取り囲む。
「なんだジジイ」
「その子は私の娘だ! 頼む、私はどうなってもいい、その子は見逃してく」
 最後まで言う前に、老狼の顔を靴底が蹴り上げた。
 まともに顎を捉えられ、老狼が尻餅をつく。立ち上がる前に、次々と武器が突きつけられた。
「何だこいつ。馬鹿じゃねえか」
「へっ。お望みどおり、刻んでやろうぜ」
「どうするよ、バルフィン」
 圧倒的優位に水を差され、興醒めや苛立ちを浮かべている取り巻きと違い、バルフィンは何か考えている様子だった。
 むしろ、予想外の玩具が転がり込んできたとでも言わんばかりである。
 笑った。
「よし、おめえの健気さに免じて、この女は助けてやろうか」
 取り巻きたちは勿論、言い分が通った老狼までもが唖然として振り向いた。
「お、おいバルフィン、何言い出すんだよ」
「ほん、本当ですか」
「礼には及ばねえよ。俺様は心が広いんだ」
 短い付き合いだが、レムはバルフィンがどんな時に笑うか、もう察していた。
 バルフィンは、他者を踏みにじる時に、噛み付きそうな笑みを浮かべる。
「そうだ、勇気あるジジイに、ついでに孫も贈ってやろうじゃねえか」
 言葉の意味を理解して、老狼が表情を狂乱で塗り潰していく有様を、バルフィンは嬉しそうに眺めていた。
「やめてくれ! それだけは」
「黙ってろよジジイ」
 立ち上がろうとした老狼の鼻面に靴がめり込む。
 バルフィンの趣向をすっかり理解した取り巻きが、武器を肩にかけて、老狼を取り囲んでいた。
「いいじゃねえか、孫が出来たら嬉しいだろ? ああ?」
「オジイチャンっつってよォ、ヘヘヘ」
 バルフィンに取りすがろうと、老狼が腰を浮かせるたびに、老狼に足が叩きつけられる。
 突き転がされている老狼を心の底から楽しそうに眺めながら、バルフィンは押さえつけられている娘に歩み寄った。
 娘は叫び声ひとつ上げなかった。ただ、かすかに息の引きつる音が聞こえていた。
「た、たのむ、それだけは……」
 随分弱弱しく掠れてしまった声が、また靴底で遮られた。
 バルフィンがにやにやとそちらを見ながら、娘を押さえつけている手下に声をかけて、拘束を離させる。
 彼女の襟首を掴んで無理矢理に立たせ、半ば引きずるようにして、蹴り転がされて息も絶え絶えの老狼の傍まで寄っていった。
 顔が見えるように、しかし触れられる距離には遥かに遠く、互いに見せ付けるように引き起こされる。
「よう、何か言ってやれ」
 丸顔の純朴そうな娘だった。
「何もねえのか。薄情な親子じゃねえか」
 吐き捨てるような口調で嘲弄すると、バルフィンは娘の乳房を背後から鷲掴みにした。
「いっ!」
「ああ、カミル!」
 痛みに顔を歪める娘の目の前で、老狼が蹴り倒される。
 父親の元に駆け寄ろうとする娘を腕の力だけで引き戻し、掴んだ乳房を乱暴に揉みしだきながら、後ろから首筋に舌を這わせる。
「いや、やめて、お父さん!」
「親父も助けに来ねえなあ。本当は孫が楽しみでしょうがねえとよ」
 助けを求める娘をあざ笑うように、片手で乳房を握り締めながら、スカートの裾を手繰り寄せて股間に空いた手を差し入れた。
「へへっ、口では随分言いつつも、しっかり濡れてるじゃねえか」
「ち……違う」
「急に元気が良くなったじゃねえか。お待ちかねだったかよ?」
 娘を言葉で嬲る間も、バルフィンの目は老狼に向いている。
 踏みしだかれて抵抗する力もなくなったのか、色を失った様子のまま、幽鬼のような面持ちで娘とバルフィンを見つめていた。
 その様子を見て満足そうに笑うと、逃げようと体を前に倒している娘の腰を捕らえて素早く持ち上げ、引き抜く要領で腰が曲がったままのけ反らせる。
 足が下りる前に、膝の下に手を差し入れた。
 スカートがまくれ上がり、広げられた両足の中央が父親の目の前に露わになる。
「や……」
「オトウサン、成長したワタシを見てえ、ってなあ」
 バルフィンの軽口に、老狼を囲んでいる手下たちが品のない笑い声を上げる。
「おーおー、いい眺めじゃねえか、なあオジイチャンよお」
「あそこからオジイチャンの孫の種を仕込むからなァ」
「下着つけてねえって事は、待ってたんだよな? 力のある男に犯されるのをよ。ヘッヘッヘッ」
「可愛い娘じゃねえか。なあ?」
 誰かの言葉に弾かれたように老狼が飛び出した。
 見た目の年齢に比べて、遥かに俊敏な動作は、軌道に乗る前に取り囲んだ狼の足で止められる。
「お父さん!」
「よう、理解のねえ親父は困るよなあ」
 言いながら片膝から腕を放し、代わりに反対側の足を高々と上げさせてよく見えるようにしながら、娘の秘所に指を突き入れた。
 娘が激しく暴れ始めた。
 バルフィンから逃れると同時に、父親を助けようというのだろう。先ほどまでの怯えきった様子からは考えられないほど、激しく身をよじる。
「いいじゃねえか、そう来なくちゃあやりがいがねえってモンだ」
 バルフィンの表情が輝いた。
 

 そこそこ気が晴れた様子で、バルフィンは建物に寄りかかり、一休みしている。
 少し離れたところでは、既に弱々しく抵抗を続ける娘に、手下たちが笑いながら覆いかぶさっている。
 娘の父親は、尾と片耳を切り離されて、うつ伏せに倒れていた。もう指一本も動かせないようだった。
「やっぱり食い足りねえなあ」
 呟きながら、バルフィンがレムとゼダの隠れている方を見た。レムの心臓が縮むのとほぼ同時に、ゼダが小さくのけ反る。
 明らかに前から気付いていた様子で、バルフィンが無造作な足取りで近づいてくる。
 隠れていた建物の角に、バルフィンが手を突いた。
「よう、おめえら。せっかく得物を貸してやってんのに、兄弟揃って血の匂いが全然しねえじゃねえか」
 少しは気が晴れているのか、表情にそれほど険はない。とは言え、押し潰すような圧迫感は、相変わらずである。
「いや、これはよ」
「おめえはいいんだよ。黙ってろ」
 面倒くさそうにゼダの言い訳を切って捨てる。
「よう、シェガルよ。俺はおめえに期待してたんだぜ。おめえと同じ歳の奴に、そこまで使える奴はいねえ。どころか、あそこのマヌケどもと闘らせても、わかんねえだろ。
こりゃあよく働いてくれるだろうと思ってたのによ、このざまはどうしたことだよ。見つけたモンを俺に黙って独り占めしたならまだしも、一人も殺ってねえな」
 何か言い訳をしろ、と顔に書いてある。面白ければ大目に見てやろう、というのがこの男のやり方だ。
 こういう場合、むしろありがちなことを言えば、逆に不興を買う。となれば、どんな窮地に立たされるかわかったものではない。
「いや、あのな、バルフィン」
「うるせえぞ」
 再び助け舟を出そうとしたゼダが、一言で押さえ込まれる。これ以上言い募れば、かえってバルフィンの機嫌を損ねる結果にしかならない。
 ゼダには、レム以上にそれをわかっている。
 顔に汗が滲むのを感じながら必死に言い訳を考えていると、バルフィンが痺れを切らす前に、バルフィンの背の方からかすかなうめき声が聞こえてきた。
「貴様の……」
「あ?」
 倒れ伏している老狼だった。
 どこを見ているかもわからない目は、屍のものと似ていた。
「貴様の、里にも、精霊が……おろう……」
 バルフィンは鼻で笑った。
「精霊がいるかいねえか、何の関係があるんだ。それよりおめえの娘の晴れ姿、もっとよく見てやれよ、おら」
 足取りも荒く老狼に歩み寄り、片耳のなくなった頭を掴んで持ち上げる。
 体液で汚れた結合部がよく見えるように持ち上げられた娘の方へ首を捻じ曲げるが、老狼はほとんど反応を見せなかった。
「精霊が、このような無法を、許すか……」
「へっ。許すさ」
 無理に捻じ曲げた首を、さらに力づくで自分の方へ向ける。
 螺旋を描くように捻られ、老狼はのけ反るような格好になっていた。脊椎に損傷が出ていてもおかしくない。
 その屍のように濁った目に顔を近づけてじっと見つめ、バルフィンは獰猛に笑う。
「今の精霊は、この俺様だからな」
 指一本動かさなかった老狼が、僅かに身動きする。バルフィンは、その反応で少し気を良くしたらしい。
「おめえらの言う精霊ってのが氏族を繁栄に導く強い存在なら、モノマで一番強くて、モノマが栄えるように率先して動いてる俺こそがそれだろ?」
「精霊は……貴様の、ような、俗物では……」
「ハッ。あんないるかどうかもわからねえモンを有難がってるなんざ、おめえらも暇だな。おめえらの精霊は、別に助けにも来てねえじゃねえか」
 バルフィンが顔を向けると、娘をかわるがわる犯している手下の一人が、高揚した表情で応じる。
「十五人目だぜ」
「だとよ。くたばった分の埋め合わせになるといいなあ?」
 住民の屍はあちこちに転がっている。ほとんどが応戦に出てきた男であり、まともな形が残っているものは少なかった。
「全員女だといいなァ」
「そうなったら、また来てやるか」
「人数分揃ってりゃ、言うことなしだな。ヘッヘッへ」
 下品に笑う取り巻きたちの方に、老狼の濁った瞳が少しだけ動く。
「精霊は……女たちは、お守りくださった」
「そうかよ」
 老狼のかすれた声を聞いて、バルフィンは突然白けた顔になった。
「そんじゃあ、おめえの娘は見捨てられたんだな」
「運が、なかったのだ……たまたま、娘の」
「そうかよ」
 掴み上げていた老狼の頭を、顔面から地面に叩きつけた。
「ったく、せっかくいい気分だったのによお。ちいと冷めたぜ」
 とどめに、老狼の後ろ首を踵で踏みつける。今度こそ、老狼は動かなくなった。
「ようシェガル、こいつらの隠れ家、探ってこい。まともに働かなかった分は、それで勘弁してやる」
 老狼へのあてつけなのだろう。逃げた者たちも蹂躙しようというのだ。
 レムに選択肢などあろうはずがない。ただ、このままおとなしく首を縦に振るのも癪だった。
「見つからないかもしれないぞ」
「おめえは、いちいち突っかかるじゃねえか。よう、メドウズ」
 面白くなさそうにバルフィンが取り巻きたちに声をかける。
「おう」
 娘を囲んで笑っているうちの一人が、一瞬面倒そうな表情を浮かべて、バルフィンに応じる。
「おめえも隠れ家探りに行ってこい。シェガルがまたサボりそうになったら、ケツ蹴っ飛ばして働かせろ」
「ガキのお守りかよ」
「それだけじゃねえ。隠れ家見つけても襲わねえで戻ってこい」
「何でえ、そりゃあ」
「見つからねえでも、明日の日没までには戻ってこい。俺たちは、今日はここで野営だ」
「わかったよ」
 不服そうながら、メドウズが取り巻きの輪から外れた。
「てえワケだ、シェガルよ。心置きなく探してこい」
 お目付け役まで付いてしまった。しかも、バルフィンほどではないにしろ、同じ方向性で厄介なメドウズである。
「バルフィン、シェガルが行くなら俺も」
「おめえは砦に帰って仕事だ、クソ洗いが!」
 一喝に打たれてゼダはまた黙ってしまった。
 その様子を見て鼻を鳴らし、バルフィンは取り巻きたちに向かう。
「おめえら、そこらへんにしとけ。今日の宿の見繕いと、運び出すモンの準備だ。いつまでも遊んでんじゃねえぞ」
 追われるように、のろのろと娘を置いて手下たちが散っていく。後には、どろどろの娘がぼろきれを体にまとわり付かせたまま、裸身を剥き出しにして倒れている。
 バルフィンは何か思いついたらしく、娘に歩み寄る。
 近づいてくる姿を見て、ほとんど気を失っている娘が、僅かに這いずって逃げようとした。
 バルフィンは、構わず掴み上げた。全身にまとわり付いた男の唾液や精液と泥の混合物を汚らしそうに見ながら、老狼の傍に引きずっていく。
「ほらよ」
 娘の膝を立てて足を広げさせ、べたべたの股間に老狼の顔を突っ込ませた。
 無様な光景だった。憤りも湧いてこない。レムは、ただ理不尽だと思った。
 一方、レムの方には面倒そうに帯を締めなおしながら、メドウズが歩み寄ってくる。
「俺の方が偉いんだからな。俺の言うことは何でも聞けよ、シェガル」
 こちらはこちらで、何か企んでいるような顔だった。

 

 

 

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