「はい、コーヒー」
「あ、ありがとう」
商社が入っているオフィスビルの最上階。
常務執務席の部屋に虎の国から来たコーヒーの豊かで甘い香りが漂った。
軌道に乗った商社の取り扱い件数は飛躍的に増え、もはや戦後がどうのと言う状態ではなくなっていた。
「なぁ、カナ」
「ん?」
「そろそろ戻ろうと思うんだが、どう思う?」
コーヒーカップの中から漂う香りに酔いそうな程のマサミは、やや上気した表情でカナを見た。
ロッソムの街で見る妻はいつもメイドの格好なのだが、ここでは緩やかなワンピースにサンダルで過ごしている。
心穏やかな毎日を過ごせるこの街から離れるのは如何なものか・・・・
マサミの心配事はその一点に集約されていた。
「そろそろ帰らないとアリスもポールも大変よ」
「・・・・そうだな」
妻の口から出るアリスとポールの名に『様付け』が無い。
妻の気も緩みきっている証拠だろうか?
様々な事が頭の中を駆け巡る。
だが・・・・
「この子の首も座ってきたし、そろそろ長旅も平気かもね」
胸に抱える我が子、義人の表情を確かめるカナ。
その表情は穏やかだった。
だからこそ
「あの街へ戻れば大変だぞ?色々と」
「それは当然よ。むしろ早く帰らないとね」
「なんで?」
「だって、アリスもポールも私達が居ないとまだまだよ。リコ先生に手玉に取られてるよ。きっとね」
マサミに向けられた眼差しが少しだけ狂気の色を帯びていた。
ニヤッと笑うその表情には、どこか侮蔑のそれが混じってるようにも見える。
「カナ・・・・」
「この街にいる限り、私達はもう奴隷じゃない。けど、身分の問題じゃなくて果たさなければならない義務は同じよ」
「ここに居れば自由だし、それにある程度安全だ。もう誰かのケツを舐めて生きていく必要も無い」
「だけど、あなたはあの街の人々にとって必要な人材。私はあの二人にとって必要な存在。この子はあの二人の子の幼馴染よ」
「強くなったのか。それとも・・・・」
「この世界で一番強い生き物は母親よ? 相手がなんであれ、必要ならば何でもするわ。この子の為にね」
あぁそうか。
マサミはこの時に初めて気が付いた。
カナの笑みのその強さと言うか、なんとも言えない力強さの理由。
それは母親としての本能だ、と。
「さぁ、帰りましょう。明日にでも荷物をまとめて。馬車を仕立てて帰るならお土産を買わないとね。何が良いかしら?」
フンフンと鼻歌交じりに街を見るカナ。
スヤスヤと眠る我が子と交互に眼差しを送って、マサミは改めて気の引き締まる思いがしていた。
「なんかはじめて、この世界に根を下ろしたんだって気になってきたよ」
自分に言い聞かせるような口ぶり。
マサミの漏らした弱音にも似た一言。
「まだ諦めていなかったの?」
「諦めるなんて無いさ。いつか必ず戻ってやるって思ってるよ。今も、もちろんこれからも」
「早く諦めちゃえば楽になるよ」
「もう諦めたのか?」
「・・・・うん」
我が子を抱きしめて笑みを浮かべるカナは、どこか悲しそうでもあり。そして、どこか悔しそうでもあり。
表情からうかがい知る感情の発露は乏しいのだが。
「ふと気が付いたらね。馬車の中だったの。干し藁の積み上げられた荷台の上で両膝を折って紐で縛られてた」
「・・・・・・そういえば、初めて聞くな」
「逃げられないって状況でね。そのままあの街へ連れ込まれて。その後大変だったんだから」
遠いところへ目をやって小さく溜息をついたカナ。
記憶の糸を辿るようにして思い出しているそれはつまり、辛い記憶であり痛い記憶であり・・・・
「一つ一つ、全部聞かれて。子供のこととか、住んでいたところとか。あと、歳とか血液型とか」
「基本データだものな」
「で、その後で全部剥かれちゃってさ。中に入ってるってのに酷いものよ。朝まで散々」
自分の腹部に指をさして何が起きたのかをカナは滔々と語った。
「明るくなってから酷く気持ち悪くなってね。もう吐いて吐いて。血が出るまで吐いて。そしたら急に陣痛が来て。でも、結局その時は生まれなくて。そのまま二日間苦しくて。あの街のお医者さんが庇ってくれたんだけど、でもね。許してくれなかった。これを飲んだら楽になるって聞いて薬を渡されたんだけどね。それは時間を早める魔法の薬だったの。おかげで2週間早く生まれてさ。」
「・・・・それ、ほんとか?じゃぁ・・・・」
カナの告白にマサミの顔が一気に変わった。
あの戦いを経た後のマサミは、怒りの表情に殺気が混じるようになっている。
「・・・・あの時に悟ったわよ。もう帰れないって。帰れないって安心しきってるから、ここまで出来るんだって。だから」
「だから?」
「生まれてくる子供が死産になったらこのまま死ぬって言い切って、男たちが何人もいる所で見世物になって産んだの。10人くらい居たかな。まぁ、実際は無事に生まれたんだけどね。結局は・・・・やっぱり駄目だった」
悲しそうな言葉だけど、でもどこか他人事のようで。
自分に起きたことを、さも誰か他の人のことのように言うのは、つまり、そうしないとやりきれなかったって事なんだろうか。
男には出来ない事をたった一人でやり遂げて、でも、それは結果を伴わなくて。
だからそれをたった一人で受け止めて、一人孤独に耐えていたんだろうか。
マサミはカナの隣へそっと腰を下ろして肩を抱いた。
細くて華奢なこの肩に、新しい命を守ると言う重責が圧し掛かったのだろう。
それがなんとも哀れで可哀想で。
思わず力いっぱい抱きしめそうになって、ふと、静かに眠る義人の存在に気が付き思いとどまった。
そんなマサミの顔をカナは見上げて微笑んで。そしてマサミの肩に体を預ける。
「いつもあなたを思ってた。きっとまた出会えるって思ってた。必ず探してくれるって。でも、1年経って2年経って、その願いはかなわなくて少しずつ諦めて。何人もの獣臭い男たちに抱かれて幾つも朝を迎えて。本当に生きるのが辛くなると人って死ねるんだなってあの時に実感したの。でも、目が見えなくなっただけで死ねなかった。きっとね、この子の為に私は生かされたのよ。あなたともう一度出会ってこの子を産むまで私は死ねなかったの。だから、今はもう何にも怖くないの。あなたが居れば怖くない」
・・・・強くなったな。
あの泣き虫だった妻の面影は何処にも無い。
女は弱し。されど母は強し。
感情の発露にあわせ涙を浮かべていたのは、もう遠い昔のようにも思えた。
「・・・・帰ろう。カナ。俺達の家に。俺達を待っててくれる家族がいるところに」
カナはふと頭を上げてマサミを見た。
「ねぇ・・・・」
「ん?」
「・・・・私達のマンション。どうなったかな」
弱々しく呟いたその言葉にマサミは驚く。
「・・・・そうだな」
搾り出すようにマサミも言った。
元の世界へ帰る事をまだ諦めていなかったから。
だからこそ、無意識に忘れていようとしていたのかもしれない。
「次の日に宅配が届く筈だったんだけど・・・・ どうなったかな」
「俺も車を車検に入れる予約してた・・・・」
慌てて声色を変えて、出来る限り明るい声で言ったつもりのカナ。
マサミもまた同じように相槌を打ったつもりなのだが・・・・
「あの車でアチコチ行ったね」
「行ったね。本当に良く走った」
「ローンの保証人になってくれた人に迷惑掛けちゃったね 大丈夫かな」
「失踪手続きとかしてくれてると良いんだけど。でも警察とか捜査してんだろうな」
「多分、アチコチに迷惑掛けちゃってるね」
「あぁ・・・・」
気まずい空気。
重い空気。
カナは我が子を抱き寄せて頬を寄せた。
「お母さんに見せたかったなぁ・・・・」
「・・・・・・・・・・・・おふくろさん。初孫を楽しみにしてたからな」
「お義母さんも楽しみにしてたじゃない」
「うん。でも、やっぱりさ。娘の子供と嫁の子供は違うよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・元気かな」
何も言わずにマサミはカナをグッと抱き寄せた。
その腕の中で、カナは精一杯に涙を溜めていた。
「故郷は遠くに有りて思うもの・・・・ でも、遠すぎるな」
何も言わずにカナは頷いた。
「電話とかは無理だから・・・・ せめて・・・・ 手紙だけでも・・・・ 出したい。無事に生きてるよって。こっちで強く生きてるよって。そう伝えたい。それだけですら出来ないのかな」
「これは何の試練なんだろうな・・・・・」
僅かに震えるカナを抱きしめて、マサミもまた深い溜息を吐いた。
「自分が生きることに精一杯で、お世話になった人たちのことを忘れてたよ」
「そうね」
「血を分けた家族ってのは本当にありがたいものなんだな」
「ここにいると、そう言うもののありがたみが凄く良く分かるね」
「ほんとだ」
目を落とすと、そこには自分の血肉を分けた息子がいる。
スヤスヤと眠るその姿を見ていると、自然に笑みを浮かべたくなる。
この子を見せたかったと言う思いが自然にわきあがってくる。
「スキャッパーの面々は待っててくれてるかな」
「きっと待ってるわよ。楽しみにして待ってるわよ。アリスはあなたが好きだし、ポールは私に気があるのよ」
「だろうな。だってポールにも抱かれたんだろ?」
際どい言葉に一瞬カナは身を硬くした。
だが、それは咎を問う言葉ではないと、マサミの表情がそう答えていた。
「・・・・あんまり覚えてない。なんか夢でも見たんじゃ無いかって気がしてるの」
「じゃぁ正面からポールが口説いてきたらどうする?」
「口説かれたら嫌って言うわよ。でも、脱げって言われたら素直に脱ぐよ。だって、所詮は持ち物だから」
ドキッとする様なその言葉の真意に、マサミはすぐに気が付いた。
あの実直で不器用で朴訥な男がそんな事を言う筈は無い。
そんな勇気無いだろうし、趣味も無い。
カナが上目遣いで『お願い』なんて言われるのをジッと純朴に待ってるような男だ。
主だから・・・・なんて権限で強引に事に及ぶなど出来はしまい。
「だからね。それはそれで楽しみに待ってるわ。出来れば若いうちに来て欲しいものね。私達はイヌより早く年老いるから」
フフフ・・・・
謎めいた笑みを浮かべて子供のように屈託無く笑うカナ。
なんとも複雑な表情を浮かべたマサミも、仕方なく笑った。
「妬いちゃだめよ?あなたが妬いたらアリスも妬くから」
今度は盛大にアハハとカナが笑った。
何か重い空気を振り払うように、大げさまでの高笑い。
その姿があまりに健気で愛しくて、マサミも肩をグッと抱いて笑った。
その不用意な揺れに驚いて義人が目を覚ました。
僅かにグズッて、そして再び眠りに落ちる。
「いつか帰れる日の為に日記を付けようね」
「そうだな。帰れなかったら帰れなかったで、この子たちの指針にもなるように」
「この街はもう大丈夫ね」
「さぁな。それはどうか知らないよ」
「え?なんで?」
「だってあいつ等は俺達よりよほど寿命が長い。今は良くても誰かが何かしらの意図を持ってやってきたら」
「悪意を持って?」
「いや、それならいくらでも対処できる。問題は善意のおせっかいで来る連中だよ」
「性質(たち)悪いね」
「あぁ」
ふと立ち上がってコーヒーカップに手を伸ばしたマサミ。
カナの分も持って再びベットに腰を下ろした。
「俺達が経験した闘争の記録は全部包み隠さず記録に書いて残した。誰かがそれを読んで、何が起きたのかを十分に理解してくれると思う。それを読んだ上で、これからこの街をああしたい、こうしたいと介入してくるなら、それはそれで良し。良くしようと介入してくるならそれは拒まないよ。この街の住人が、この世界の人間がそれを受け入れるなら、自然とそう言う流れに変わるだろうから。俺はその最初の数ページの記録に足跡をつけただけさ。この街の公式な歴史はまだ始まったばかりだから。だからきっと・・・・」
冷えてしまったコーヒーを手鍋で温めてから一口飲んで、そしてまた手鍋で暖めるマサミ。
その眼差しは窓の外の遠くを見ている。
「誰かがきっとこの街のことを書くだろう。ただ、俺が、俺達がやった戦闘の記録は絶対消えないし、消させ無いつもりだ。その上でこれから先どうしようと、俺はそれを関知しないし、出来ないと思う。だって、俺が死んだ後まで責任取れないもの」
どこか達観したような眼差しがカナへと降りてきた。
その眼差しには無常観・無力感とでも言うようなものがあった。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水に非ず。澱みに浮かぶ泡沫は、かつ消えかつ結びて、久しく留まりたる例なし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし・・・・」
「方丈記か。そうだな、その通りだよ。水は器の形に合わせるんだ。この世界と言う器の形に合わせて水のように俺達も生きるしかないんだよなぁ・・・・」
「でも、昔から言うじゃない。苔の一念岩をも通すって。夢を描いたんでしょ?未来図の絵を描いたなら責任取らなきゃ」
諦めかけた亭主を奮い立たせるように、カナはどこか冷たい言葉を吐いた。
ただそれは、その夢の中身を知っているからこその、温かみも併せ持っていた。
「スキャッパーへ帰ろう。今すぐにでも帰ろう。この街が危機に陥った時、いつでも手を差し出せるようにスキャッパーを変えてしまおう。この街の独立の担保をスキャッパーにしてしまおう」
「この子だけじゃなくて、生まれてくるヒトの子がこの街の市民権を無条件に付与されるようになって欲しいわね」
フッとマサミが笑った。
「いつかそうなるよ。その為の種を撒いて行くから」
「え?どうするの?」
「中央大学の入学許可に一言書き加えるのさ。この街で生まれたヒトは入学試験のうち言語分野を免除するって」
「あ、そうか。つまり、ヒトの知識を得ようと大学にヒトの子を送り込みたい場合は」
「うん。この街で生まれた方が有利ってね。そして、この街生まれは自動的に市民権を得る。だから」
「人権の担保ね」
「あぁ」
コーヒーカップを床へと下ろしてマサミはカナを抱き寄せた。
カナの腕の中で義人がスヤスヤと眠っている。
その姿を見つめるカナに頬を寄せてマサミは呟いた。
「さぁ、帰ろう。色々、大変だけど
「うん」
ルカパヤン戦役伝 終
「あ、ありがとう」
商社が入っているオフィスビルの最上階。
常務執務席の部屋に虎の国から来たコーヒーの豊かで甘い香りが漂った。
軌道に乗った商社の取り扱い件数は飛躍的に増え、もはや戦後がどうのと言う状態ではなくなっていた。
「なぁ、カナ」
「ん?」
「そろそろ戻ろうと思うんだが、どう思う?」
コーヒーカップの中から漂う香りに酔いそうな程のマサミは、やや上気した表情でカナを見た。
ロッソムの街で見る妻はいつもメイドの格好なのだが、ここでは緩やかなワンピースにサンダルで過ごしている。
心穏やかな毎日を過ごせるこの街から離れるのは如何なものか・・・・
マサミの心配事はその一点に集約されていた。
「そろそろ帰らないとアリスもポールも大変よ」
「・・・・そうだな」
妻の口から出るアリスとポールの名に『様付け』が無い。
妻の気も緩みきっている証拠だろうか?
様々な事が頭の中を駆け巡る。
だが・・・・
「この子の首も座ってきたし、そろそろ長旅も平気かもね」
胸に抱える我が子、義人の表情を確かめるカナ。
その表情は穏やかだった。
だからこそ
「あの街へ戻れば大変だぞ?色々と」
「それは当然よ。むしろ早く帰らないとね」
「なんで?」
「だって、アリスもポールも私達が居ないとまだまだよ。リコ先生に手玉に取られてるよ。きっとね」
マサミに向けられた眼差しが少しだけ狂気の色を帯びていた。
ニヤッと笑うその表情には、どこか侮蔑のそれが混じってるようにも見える。
「カナ・・・・」
「この街にいる限り、私達はもう奴隷じゃない。けど、身分の問題じゃなくて果たさなければならない義務は同じよ」
「ここに居れば自由だし、それにある程度安全だ。もう誰かのケツを舐めて生きていく必要も無い」
「だけど、あなたはあの街の人々にとって必要な人材。私はあの二人にとって必要な存在。この子はあの二人の子の幼馴染よ」
「強くなったのか。それとも・・・・」
「この世界で一番強い生き物は母親よ? 相手がなんであれ、必要ならば何でもするわ。この子の為にね」
あぁそうか。
マサミはこの時に初めて気が付いた。
カナの笑みのその強さと言うか、なんとも言えない力強さの理由。
それは母親としての本能だ、と。
「さぁ、帰りましょう。明日にでも荷物をまとめて。馬車を仕立てて帰るならお土産を買わないとね。何が良いかしら?」
フンフンと鼻歌交じりに街を見るカナ。
スヤスヤと眠る我が子と交互に眼差しを送って、マサミは改めて気の引き締まる思いがしていた。
「なんかはじめて、この世界に根を下ろしたんだって気になってきたよ」
自分に言い聞かせるような口ぶり。
マサミの漏らした弱音にも似た一言。
「まだ諦めていなかったの?」
「諦めるなんて無いさ。いつか必ず戻ってやるって思ってるよ。今も、もちろんこれからも」
「早く諦めちゃえば楽になるよ」
「もう諦めたのか?」
「・・・・うん」
我が子を抱きしめて笑みを浮かべるカナは、どこか悲しそうでもあり。そして、どこか悔しそうでもあり。
表情からうかがい知る感情の発露は乏しいのだが。
「ふと気が付いたらね。馬車の中だったの。干し藁の積み上げられた荷台の上で両膝を折って紐で縛られてた」
「・・・・・・そういえば、初めて聞くな」
「逃げられないって状況でね。そのままあの街へ連れ込まれて。その後大変だったんだから」
遠いところへ目をやって小さく溜息をついたカナ。
記憶の糸を辿るようにして思い出しているそれはつまり、辛い記憶であり痛い記憶であり・・・・
「一つ一つ、全部聞かれて。子供のこととか、住んでいたところとか。あと、歳とか血液型とか」
「基本データだものな」
「で、その後で全部剥かれちゃってさ。中に入ってるってのに酷いものよ。朝まで散々」
自分の腹部に指をさして何が起きたのかをカナは滔々と語った。
「明るくなってから酷く気持ち悪くなってね。もう吐いて吐いて。血が出るまで吐いて。そしたら急に陣痛が来て。でも、結局その時は生まれなくて。そのまま二日間苦しくて。あの街のお医者さんが庇ってくれたんだけど、でもね。許してくれなかった。これを飲んだら楽になるって聞いて薬を渡されたんだけどね。それは時間を早める魔法の薬だったの。おかげで2週間早く生まれてさ。」
「・・・・それ、ほんとか?じゃぁ・・・・」
カナの告白にマサミの顔が一気に変わった。
あの戦いを経た後のマサミは、怒りの表情に殺気が混じるようになっている。
「・・・・あの時に悟ったわよ。もう帰れないって。帰れないって安心しきってるから、ここまで出来るんだって。だから」
「だから?」
「生まれてくる子供が死産になったらこのまま死ぬって言い切って、男たちが何人もいる所で見世物になって産んだの。10人くらい居たかな。まぁ、実際は無事に生まれたんだけどね。結局は・・・・やっぱり駄目だった」
悲しそうな言葉だけど、でもどこか他人事のようで。
自分に起きたことを、さも誰か他の人のことのように言うのは、つまり、そうしないとやりきれなかったって事なんだろうか。
男には出来ない事をたった一人でやり遂げて、でも、それは結果を伴わなくて。
だからそれをたった一人で受け止めて、一人孤独に耐えていたんだろうか。
マサミはカナの隣へそっと腰を下ろして肩を抱いた。
細くて華奢なこの肩に、新しい命を守ると言う重責が圧し掛かったのだろう。
それがなんとも哀れで可哀想で。
思わず力いっぱい抱きしめそうになって、ふと、静かに眠る義人の存在に気が付き思いとどまった。
そんなマサミの顔をカナは見上げて微笑んで。そしてマサミの肩に体を預ける。
「いつもあなたを思ってた。きっとまた出会えるって思ってた。必ず探してくれるって。でも、1年経って2年経って、その願いはかなわなくて少しずつ諦めて。何人もの獣臭い男たちに抱かれて幾つも朝を迎えて。本当に生きるのが辛くなると人って死ねるんだなってあの時に実感したの。でも、目が見えなくなっただけで死ねなかった。きっとね、この子の為に私は生かされたのよ。あなたともう一度出会ってこの子を産むまで私は死ねなかったの。だから、今はもう何にも怖くないの。あなたが居れば怖くない」
・・・・強くなったな。
あの泣き虫だった妻の面影は何処にも無い。
女は弱し。されど母は強し。
感情の発露にあわせ涙を浮かべていたのは、もう遠い昔のようにも思えた。
「・・・・帰ろう。カナ。俺達の家に。俺達を待っててくれる家族がいるところに」
カナはふと頭を上げてマサミを見た。
「ねぇ・・・・」
「ん?」
「・・・・私達のマンション。どうなったかな」
弱々しく呟いたその言葉にマサミは驚く。
「・・・・そうだな」
搾り出すようにマサミも言った。
元の世界へ帰る事をまだ諦めていなかったから。
だからこそ、無意識に忘れていようとしていたのかもしれない。
「次の日に宅配が届く筈だったんだけど・・・・ どうなったかな」
「俺も車を車検に入れる予約してた・・・・」
慌てて声色を変えて、出来る限り明るい声で言ったつもりのカナ。
マサミもまた同じように相槌を打ったつもりなのだが・・・・
「あの車でアチコチ行ったね」
「行ったね。本当に良く走った」
「ローンの保証人になってくれた人に迷惑掛けちゃったね 大丈夫かな」
「失踪手続きとかしてくれてると良いんだけど。でも警察とか捜査してんだろうな」
「多分、アチコチに迷惑掛けちゃってるね」
「あぁ・・・・」
気まずい空気。
重い空気。
カナは我が子を抱き寄せて頬を寄せた。
「お母さんに見せたかったなぁ・・・・」
「・・・・・・・・・・・・おふくろさん。初孫を楽しみにしてたからな」
「お義母さんも楽しみにしてたじゃない」
「うん。でも、やっぱりさ。娘の子供と嫁の子供は違うよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・元気かな」
何も言わずにマサミはカナをグッと抱き寄せた。
その腕の中で、カナは精一杯に涙を溜めていた。
「故郷は遠くに有りて思うもの・・・・ でも、遠すぎるな」
何も言わずにカナは頷いた。
「電話とかは無理だから・・・・ せめて・・・・ 手紙だけでも・・・・ 出したい。無事に生きてるよって。こっちで強く生きてるよって。そう伝えたい。それだけですら出来ないのかな」
「これは何の試練なんだろうな・・・・・」
僅かに震えるカナを抱きしめて、マサミもまた深い溜息を吐いた。
「自分が生きることに精一杯で、お世話になった人たちのことを忘れてたよ」
「そうね」
「血を分けた家族ってのは本当にありがたいものなんだな」
「ここにいると、そう言うもののありがたみが凄く良く分かるね」
「ほんとだ」
目を落とすと、そこには自分の血肉を分けた息子がいる。
スヤスヤと眠るその姿を見ていると、自然に笑みを浮かべたくなる。
この子を見せたかったと言う思いが自然にわきあがってくる。
「スキャッパーの面々は待っててくれてるかな」
「きっと待ってるわよ。楽しみにして待ってるわよ。アリスはあなたが好きだし、ポールは私に気があるのよ」
「だろうな。だってポールにも抱かれたんだろ?」
際どい言葉に一瞬カナは身を硬くした。
だが、それは咎を問う言葉ではないと、マサミの表情がそう答えていた。
「・・・・あんまり覚えてない。なんか夢でも見たんじゃ無いかって気がしてるの」
「じゃぁ正面からポールが口説いてきたらどうする?」
「口説かれたら嫌って言うわよ。でも、脱げって言われたら素直に脱ぐよ。だって、所詮は持ち物だから」
ドキッとする様なその言葉の真意に、マサミはすぐに気が付いた。
あの実直で不器用で朴訥な男がそんな事を言う筈は無い。
そんな勇気無いだろうし、趣味も無い。
カナが上目遣いで『お願い』なんて言われるのをジッと純朴に待ってるような男だ。
主だから・・・・なんて権限で強引に事に及ぶなど出来はしまい。
「だからね。それはそれで楽しみに待ってるわ。出来れば若いうちに来て欲しいものね。私達はイヌより早く年老いるから」
フフフ・・・・
謎めいた笑みを浮かべて子供のように屈託無く笑うカナ。
なんとも複雑な表情を浮かべたマサミも、仕方なく笑った。
「妬いちゃだめよ?あなたが妬いたらアリスも妬くから」
今度は盛大にアハハとカナが笑った。
何か重い空気を振り払うように、大げさまでの高笑い。
その姿があまりに健気で愛しくて、マサミも肩をグッと抱いて笑った。
その不用意な揺れに驚いて義人が目を覚ました。
僅かにグズッて、そして再び眠りに落ちる。
「いつか帰れる日の為に日記を付けようね」
「そうだな。帰れなかったら帰れなかったで、この子たちの指針にもなるように」
「この街はもう大丈夫ね」
「さぁな。それはどうか知らないよ」
「え?なんで?」
「だってあいつ等は俺達よりよほど寿命が長い。今は良くても誰かが何かしらの意図を持ってやってきたら」
「悪意を持って?」
「いや、それならいくらでも対処できる。問題は善意のおせっかいで来る連中だよ」
「性質(たち)悪いね」
「あぁ」
ふと立ち上がってコーヒーカップに手を伸ばしたマサミ。
カナの分も持って再びベットに腰を下ろした。
「俺達が経験した闘争の記録は全部包み隠さず記録に書いて残した。誰かがそれを読んで、何が起きたのかを十分に理解してくれると思う。それを読んだ上で、これからこの街をああしたい、こうしたいと介入してくるなら、それはそれで良し。良くしようと介入してくるならそれは拒まないよ。この街の住人が、この世界の人間がそれを受け入れるなら、自然とそう言う流れに変わるだろうから。俺はその最初の数ページの記録に足跡をつけただけさ。この街の公式な歴史はまだ始まったばかりだから。だからきっと・・・・」
冷えてしまったコーヒーを手鍋で温めてから一口飲んで、そしてまた手鍋で暖めるマサミ。
その眼差しは窓の外の遠くを見ている。
「誰かがきっとこの街のことを書くだろう。ただ、俺が、俺達がやった戦闘の記録は絶対消えないし、消させ無いつもりだ。その上でこれから先どうしようと、俺はそれを関知しないし、出来ないと思う。だって、俺が死んだ後まで責任取れないもの」
どこか達観したような眼差しがカナへと降りてきた。
その眼差しには無常観・無力感とでも言うようなものがあった。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水に非ず。澱みに浮かぶ泡沫は、かつ消えかつ結びて、久しく留まりたる例なし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし・・・・」
「方丈記か。そうだな、その通りだよ。水は器の形に合わせるんだ。この世界と言う器の形に合わせて水のように俺達も生きるしかないんだよなぁ・・・・」
「でも、昔から言うじゃない。苔の一念岩をも通すって。夢を描いたんでしょ?未来図の絵を描いたなら責任取らなきゃ」
諦めかけた亭主を奮い立たせるように、カナはどこか冷たい言葉を吐いた。
ただそれは、その夢の中身を知っているからこその、温かみも併せ持っていた。
「スキャッパーへ帰ろう。今すぐにでも帰ろう。この街が危機に陥った時、いつでも手を差し出せるようにスキャッパーを変えてしまおう。この街の独立の担保をスキャッパーにしてしまおう」
「この子だけじゃなくて、生まれてくるヒトの子がこの街の市民権を無条件に付与されるようになって欲しいわね」
フッとマサミが笑った。
「いつかそうなるよ。その為の種を撒いて行くから」
「え?どうするの?」
「中央大学の入学許可に一言書き加えるのさ。この街で生まれたヒトは入学試験のうち言語分野を免除するって」
「あ、そうか。つまり、ヒトの知識を得ようと大学にヒトの子を送り込みたい場合は」
「うん。この街で生まれた方が有利ってね。そして、この街生まれは自動的に市民権を得る。だから」
「人権の担保ね」
「あぁ」
コーヒーカップを床へと下ろしてマサミはカナを抱き寄せた。
カナの腕の中で義人がスヤスヤと眠っている。
その姿を見つめるカナに頬を寄せてマサミは呟いた。
「さぁ、帰ろう。色々、大変だけど
「うん」
ルカパヤン戦役伝 終