鋼の山脈 四・星の石 下
嫌な予感が続いていた。
避難民の隠れ家を探し出すなどという役割自体、元々率先して取り組む気が起きるようなものではない。
それを強いられる不快感もあったが、それ以外にも、空気に滲むような悪寒が幽かに漂ってきている気がする。
「ったく、何で俺がこんなガキの使いに付き合わされなきゃなんねえんだ」
レムの後ろから付いてくるメドウズが、レムを威圧するように声を大きく唸った。
もうひとつの原因であるこの男は、先程からずっとこの調子である。
面倒なばかりで見返りのない偵察行の倦怠感を、自分より立場が弱い者を罵ることで紛らわせようとしている。
「よそ見してんじゃねえ、よく探せ。見落としなんざしやがったら、承知しねえぞ」
声の調子からして、メドウズ自身は辺りに注意を払っているわけではなさそうである。
何しろ最初に手をつける権利を禁じられているのだ。やる気のあろうはずもない。
辺りの木々は、誰かが悪意を持ってわざと植えたのでなければありえないくらい、鬱蒼と生い茂っている。
獣道さえも低木の茂みに蝕まれ、歩くのも一苦労だった。
「このわざとらしさだ。この辺りに隠れてやがるのは間違いねえ」
メドウズはそう唸っているが、レムは何か違うような気がしていた。
この密度の林は、もちろん自然のものではない。だが住民の手によるものとも違うのではないだろうか。
こんなに生い茂らせてしまっては、移動はおろか鳥や獣を捕るのも一苦労になる。
周辺の盗賊から集落を守るためだとしたら、今度は敵が潜む場所を与えることになり、今度は逆効果でしかない。
この深い木々の向こうに、微かに漂う嫌な感覚の根源がいる気がする。
しかし、今はそんなことを考えていても、答えは出ないだろう。それよりも、バルフィンから押し付けられた隠れ家の捜索である。
持たされている両手斧で低木の枝や背の高い草を薙ぎ倒しながら進んでいるものの、あくまで戦闘用の斧では、効率は知れたものである。
もし本当にこの中に隠れているのであれば、探し出すのは二人ではまず無理であった。
加えて、メドウズはまともに探す気がない。どうせ、見つからなければレムのせいにして逃れる腹積もりなのだろう。
「おい、まだ見つからねえのか。ちんたらしてんじゃねえよ」
機嫌の悪そうな気配の声が後ろからかかった。確かに、いつまでもこうしていられるわけではない。
レムの後をただ付いてきているだけのメドウズへの当てつけもあって、レムはかろうじて通りやすい獣道から、脇の茂みに踏み入った。
「おい!」
「通りやすいところに隠れ家なんかあるわけないだろ」
振り向きもせずに応えると、しばらくの沈黙の後、忌々しげな舌打ちが聞こえてきた。
その後も似たようなやり取りを繰り返しながら深い山林の中を進んだが、レムにとってはまったくの予想通りに、脇道をそれほども行けない間に日が暮れてきた。
メドウズは相変わらず苛立っているが、いちいち構っている暇もない。
罵声を適当にあしらっているレムのその態度も、またメドウズの神経を逆撫でする効果になっているようだった。
脇道に入って、密度の高い一帯を進むのに時間がかかったが、越えてしまえばその内側の木々は枯れかけていたり萎びていたりして、通るのはそれほど苦にならなかった。
メドウズはそれで多少気を静めたようだったが、レムは逆に嫌な予感が高まるのを感じていた。
こんなに広範囲から活力が失われているのも、不自然だ。
それに何やら、先程から同じ場所をずっと回っている気がする。
そのことに気付いてから、木に傷をつけてみたり、道を変えてみたりと様々にやってみたが、どれも効果がない。
傷をつけた木に行き当たることもなく、ただ似たような雰囲気の場所を何度も通り過ぎているばかりである。
「おい、まだか」
いい加減、こちらを罵る言葉も定型化してきている。
「もう暗い。これ以上は無理だろ」
「ちっ……使えねえ野郎だ」
さすがに、これ以上は無理だとメドウズも思ったようだった。
森の屋根の切れ間から、空が見える場所に位置を定めた。
その辺りの木や草を払い、木の枝を集めてきて火を起こす。
昼間に襲撃した集落から奪ってきた保存食を火で炙り、とりあえず空腹を満たした。
焚いた火の傍らに、切り払った内から柔らかそうな草を集めてきて寝床を作る。
レムが動いている間、メドウズは相変わらず何もしないで喚いているだけだった。
時折癪に障ることはあったが、レムはもうメドウズは相手にしていなかった。この男に何も期待する事はない。
一通りの支度が終わるのを見届けたところで、メドウズは妙なことを言い出した。
「赤月が見えたら、起こせ」
火の番の交代制は、普通なら当然の事だが、今まで罵るばかりですべてレムに押し付けていたメドウズである。
手伝ってくれる気になったかと、うかうかと信用するようなお人よしは、あっという間に食われて終わりだ。
「わかった」
レムが寝込んだところで、何かするつもりだろう。
心当たりは十分すぎるほどある。
おとなしく返事をしたレムを、舌なめずりの音が聞こえるような表情で見やりながら、メドウズは横になった。
メドウズと交代してから、一応は眠るふりをして横になった。
斧の柄をしっかりと抱きしめておく。何かあっても、すぐに対応できるはずだ。
案の定、メドウズの気配はレムの方へ向いている。
昼夜の行軍で体は眠りたがっているが、そういうわけにはいかない。
体を動かさずに起きているというのは、思ったよりつらい作業である。夜戦訓練も、じっとしているようなものではない。
ふと、ゼリエと地下で修練した時の事を思い出した。
あの修練も、じっと坐を組み続けて夜を明かすものだった。
なんとか、感覚を思い出してみる。
呼吸を深くし、体の隅々に新鮮な気息が行き渡るよう、頭に思い描く。
木々のざわめきや、風に草がなびく感触が、五感に伝わってきた。祭司団の修練は無茶なものばかりだったが、ゼリエとの修練は無意味ではなかったらしい。
そうしてみると、この山林に感じた奇妙な悪寒がより一層はっきりと伝わってくるようだった。
見た目ではきちんと木々が生い茂っているが、どことなく虚ろである。
屍臭が漂ってくれば、似つかわしかっただろう。長老議員たちの若い頃の武勇伝によく聞かれる「犬の化物」の話に抱いた印象も、こんな感じだ。
メドウズの気配が、動いた。
無造作な足取りで背を向けたレムの方へ近づいてくる。明らかに、こちらに行き先を定めていた。
脇に斧を手挟んだまま、起き上がる。
「何かあったのか」
言いかけたところで、メドウズが素早く飛びついてきた。
斧の柄を盾に食い止めようとするが、元々寝ていた姿勢と、体重を乗せた突進では勝負にならない。
逆に柄を押し付けられるように、地面に押さえ込まれた。
「何のつもりだ!」
柄を押し返そうとするが、体重をかけられる姿勢のメドウズは片腕でうまく調整するだけで、レムの腕力をいなしてしまう。
残った片腕が、何を狙っているのか、あまり考えたくなかった。
「何のつもりだってか」
メドウズが粘っこく笑う。レムの足の間に、自分の膝を割り込ませてきた。
膝を跳ね上げて、メドウズの股間を狙おうとした。メドウズの空いていた片手が、素早く足を押さえる。
「おお、アブねえアブねえ」
いやらしく笑って、手で足を押さえたまま体ごと足の間に入り込んだ。
「どけ」
「命令できる立場か? ん?」
足を押さえた手が、そのまま太腿をすり上がってくる。
「シェガルはマダラだったんだったか? 俺は前からマダラのイチモツがどんな風になってるのか気になっててよお」
太腿を撫でられる悪寒が、全身の毛を逆立てさせるようだった。
「いい機会じゃねえか。へへ、教えてくれよ」
いかつい節くれだった指が、股間に微かに触れた瞬間、反射的に両足を折りたたんで腰を持ち上げていた。
踵を揃え、メドウズの顎へ向けて跳ね上げる。
「うおっと」
かわされた。体を地面に押し付けていた斧の柄からメドウズの体重が離れ、僅かに自由を取り戻す。
メドウズの手から斧の柄を絡め取り、斧頭を突きつけた。
だが、伸ばした足は抱え込まれ、逆に尻を晒す格好になってしまう。
再び、メドウズがにたにたと笑い出した。
「なあシェガルよ、俺はマダラって聞いてたのに、手ごたえがなかったぜ? 話が違うんじゃあねえのかあ?」
自分の足が邪魔で、斧を振るえない。
「何とか言えよ」
膝下に肩を滑り込ませ、押さえ込んでくる。結局、斧も柄を体と足に挟みこまれて、ろくに動かせない。その柄に、メドウズがまた手をかけた。
自分の姿勢に思い当たって、レムの心の底に氷のように冷えたものが滲み出し始めていた。それが心を満たせば死ぬ。
メドウズの右手が空いている。が、右肩はレムの両足を押さえ込んでいるせいで、前に出していなければならない手は、無防備になった尻には届かない。
「もしかして、シェガルは女だったりしねえかなあ」
手持ち無沙汰の右手が、レムの胸に触れた。
同年代の少女でも、まだ膨らみかけのそこは、レムの場合は筋肉質でさえある。
手のひらが覆うように胸を撫で始める。
「触るな」
ただひたすらに、不快だった。
牙を剥いて威嚇しても、この姿勢では効果はないことはわかっていた。案の定、メドウズは侮るような表情をわざとらしく作って見せただけだった。
指が、ボリュームと柔らかみの少ない弾力のある胸を、弄ぶように揉みほぐし始める。
「おお、怖え怖え」
じわりと、胸の氷が存在感を増した。
「何がしたいんだ」
「さっきからそればっかりだなァ、オイ。ちっとは愛想良くしてみろよ。気持ちよくしてやろうってんだからよお」
メドウズが、こちらに顔を近づけて舌を出した。
指が、厚手の服の上から乳首を探し当てたらしい。くるくると円を描くように刺激される。
あと少し、あの舌がこちらの顔を舐めるくらい近づければ、鼻面に噛み付いてやれる距離である。
「ところでよお、うちの氏族で女拾ってきたらどうなるか、知ってるか」
指先が執拗に乳首を弄んでいる。痛みでしかない。
「大抵は拾ってきた奴のモノになるんだよ。朝晩子種注いでやってよ、ガキが生まれたら世話させてよ。中にゃあボテ腹が好きな奴とかもいるんだぜ。
そういや、生ませたガキ犯して自分の孫を自分で作っちまった奴がいたっけなあ」
下品に笑った拍子に、顔に唾が飛んだ。それすらも、わざとだろう。
「まあ拾ってきた女のうち、いい奴はバルフィンが持って行くんだよ。どうなるかはしらねえが、砦の中に十何人って囲っててよ、ひでえんだぜ、あの野郎。
抵抗する女を殴って無理矢理犯すのがたまらねえんだとよ。昼間のは見ただろ? たまにああやって、十何人に犯らせて見てることだってあるんだぜ」
胸を弄るのを止めて、手が襟首に入ってきた。硬い指が鎖骨をなぞる。
「もしシェガルが女だったら、どうなるんだろうなあ。見つけたのは俺だから、俺のモノになるかなあ。
バルフィンに気に入られてるんじゃ、取り上げられるかも知れねえなあ。それか、今まで俺たちを騙していた罰ってことで共有財産かもなあ。
ヘヘヘ、股開いて柱に括りつけられて、溜まった奴にモノ突っ込まれてヒイヒイよがる生活だぜ?
それともあっちかもなあ。裸で放り出されてよ、捕まえた奴が好きにしていいってな。苦しいよなあ、ヘヘヘヘヘへ。てめえの兄貴が使ってくれるだろ。
いや、てめえが共有財産になるなら、あのクソ洗いはぶち殺されるな。俺たちを騙しておいて、五体満足で済ますわけにはいかねえもんなあ」
「何が言いたい」
ようやく、言葉をそれだけ搾り出した。
メドウズのいやらしい笑いに、獲物を捕らえた時の喜悦が混じった。
「まあ、てめえら兄弟がマダラだって言い張るんなら、そういうことにしておいてやってもいいぜ。バルフィンが黙ってる限り、てめえはマダラだからなあ。
ッたくあの野郎もわかんねえよなあ。こんなバレバレの嘘をほったらかしにしておくんだからよお。
普段からそうだ。にやにやしてるかと思えば、いきなりぶち切れやがって。ぶちのめしてやりてえところだ」
メドウズの拘束が少し緩む。
引いた拍子に合わせて押し返そうと力を込めると、また元の通りに押さえ込まれた。
「おっと、おとなしくしろよ。俺が喋るか喋らねえかに、てめえの兄貴の命もかかってんだからな」
ゼダは人質も同然だ。見捨てて逃げるだけの冷酷さがあれば、そもそもこんなことにはならなかった。
押し返す力を緩めた。
抵抗をやめたレムの顔を、舐め回すように眺めて、メドウズは胸から手を離した。
「そんなに固くなんなよ。いい子にしてりゃあ、気持ちよくしてやるからよ」
斧をむしり取り、少し離れた場所に腰を下ろす。
「それじゃあ、てめえで服を脱いでもらおうか。愉しみやすいようになあ」
自分から屈服するように、仕向けるつもりなのだ。
言うまでもなく、レムは先程の続きをされるつもりはなかった。
だが、ここをどう切り抜けるか。
もはや口を封じるしかない状態だが、お目付け役のメドウズを殺れば、バルフィンがどう出るかまったく推測が付かない。
そもそも武器はメドウズの手の中にある。こちらから打ちかかっていっても、叩き殺されるだけだ。
「どうした? 怖がるなよ、優しくしてやるからよお」
心の氷が、また重さを増す。
逃げるか。
逃げれば、最初にレムを庇ったゼダの立場がなくなるのは変わらない。
だが、おとなしく言うことに従ってメドウズにいいように弄ばれるくらいなら、死んだほうがましだ。
盗賊風情の手篭めにされた汚れた体で、父どころか自分をあれこれ気にかけてくれた断崖城の戦士たちの前に立てるほど、強靭な神経はしていない。
誇りは、時として死を呼ぶ。矜持を捨てて、最初からモノマに溶け込んでしまえば、もっと気楽に脱出する機会を窺えただろう。
それもまた、死んだほうがましだと思えた。
断崖城の戦士たちが傭兵に出ると、盗賊と戦う場合に、こういった場面に何度か遭遇するという。
優位に立った相手とまだ戦うつもりがあるのなら、相手の要求は一切呑んではいけないと、熟練戦士は苦い顔で語っていた。
要求を呑んでいいのは、時間を稼ぐ時だけだ。時間を稼ぐのは、来るはずの応援を待つ時か、時間によって敵の優位が崩れるのが予測できている時だけだ。
敵の要求は呑まない。状況の劣勢は損害が広がる前に逃げる。ありもしない救いを待つ者は、守るべきものと己の誇りを自ら踏みにじった挙句、無様に死ぬ。
戦うつもりなら一切妥協せず、徹底的に抵抗する方が、無駄に生き恥を晒さなくて済む。
メドウズの目の前で従順に服を脱いで、嬲りものにされる光景を、頭の外に投げ捨てた。
心の氷が重さを増した。だが、レムの動きを悪くしていたその冷たさは、忘れることにした。
そもそも従ったところでメドウズが約束を守るとは思えない。守ったところで、集落に帰ってからも脅し続けられるだろう。相手がメドウズ一人か、多数かの違いだけだ。
ならば、考えるのは、いかに傷を少なく抜けるかではなく、どう攻めるかである。
腹を括った。
こいつは、ここで殺る。
後のことは、後で何とかする。今はバルフィンに疑われるリスクを飲み下すのが最善の選択だ。
ただ、武器がない状況を、どう覆すかである。
こういう場合は、辺りの物を武器や遮蔽物に使ってかく乱しながら仕掛ける場面である。だがメドウズは、レムが打って出てくるのを待ち受けるだけでいい。
木や草を切り払った野営場所は、そのまま長柄斧の威力が発揮される有効範囲になる。
待ちを固めた相手を素手で崩すのは不可能だ。先に攻めさせて、そのさらに先を取るか、返しを狙わなければ、どうしようもない。
なんとかして、レムを追ってこさせるように仕向けなければならない。
「メドウズ」
意識を受身から攻勢に転じた時、今まで見えなかったものが一気に広がった。
そのうちひとつを、選び出す。
「ここで私を逃がしたら、お前もただじゃすまないだろうな」
「何だ?」
思わぬ逆襲に、メドウズの表情が変わった。
「いいぜ、逃げてみろ。この辺は俺たちの縄張りだ、すぐとっ捕まえてやらあ」
「この辺りに来てから、私と一緒に随分迷っていたじゃないか。大勢がいるはずの隠れ家さえ見つからないのに、私が隠れたらどうするつもりだ。
それに私はこの辺の氏族の出じゃない。いつまでもここにいると思うか。それとも私を捕まえるのを諦めてバルフィンに泣きつくか。
一番私を捕まえやすい位置にいたお前が捕まえられずに戻ったら、追っ手が出る頃には私はこの山の外だな。バルフィンがお前の弱腰に気付かないといいな」
「てめえ、この」
メドウズが一歩前に踏み出した。
「兄貴がどうなってもいいってか」
既に頭に血が上っている様子が、精神的優位から陥落したことを表している。
「あんな奴、」
兄でも何でもないと言おうとした時、なぜかゼダの顔が思い出された。
どことなく頼りない雰囲気だが、大人しくて穏やかな微笑が、こちらを向いている。
「あんな何も出来ない奴、どうなろうと知ったことじゃないな」
言うだけである。実際にそう思っているわけではない。それなのに、声に出すのに気力を必要とした。
メドウズは目を剥いて絶句していた。
バルフィンへの恐れは、メドウズにも存在していた。そして、まさか自分が逆に追い込まれるとは、思ってもいなかったのだろう。
歯軋りの音が聞こえてくるようである。
「じゃあな。バルフィンによろしくな」
最後の駄目押しに、目の前で身を翻した。
追って来い、と念じた。メドウズが追って来なければ、ゼダの身が危ない。わざと、挑発するように悠々と歩いた。
「待ちやがれァ!」
かかった。
作戦が図に当たった高揚感と、圧倒的不利な状況に身を晒した緊迫感が全身の神経を駆け抜ける。
敵が追ってくるなら、遮蔽物が使える。遮蔽物が使えれば、斧は動きを制限される場面も出てくるだろう。素手でも勝機が生まれる。
勝ち目は限りなく薄いが、少なくとも戦闘の場になれば、立場は対等だ。
これなら、もし敗れて犯されながら切り刻まれたとしても、その理由は自分の未熟ですべて決着が付く。
腰の帯に手をやると、小さな鋼の投げ釘が、あれだけ揉み合ったというのに釘帯からすり抜けずに四本、出番を待って整列している。
トヲリの地からは遠い。トヲリの意志を疑うわけではないが、どれほど加護が届くか。
剣さえあれば、メドウズごときが斧を持とうと槍を持とうと、後れを取るつもりはないというのに。
手近な気に飛びつき、素早くよじ登る。
両手斧を持っているメドウズは、登って追いかけてくることは出来ない。
「この野郎!」
代わりに斧の柄を目一杯伸ばして叩きつけてくる。
間一髪、他の枝に乗り移った。足場の枝を砕かれればもちろん、うかうかしていれば足を叩き斬られる。
隣の木に飛び移ろうとして枝を物色するが、レムの体重を支えられそうなものはあっても、着地衝撃に耐えられるほどのものはない。
木の下では、メドウズが二撃目を振りかぶっている。
仕方なく上に飛び上がった直後に、足場の枝が叩き落された。
木の上のほうに、体重を支えられそうな枝はない。幹にしがみ付いている状態である。
下から、メドウズのぎらつく目が見上げている。
斧を横に構えて、幹に叩きつけた。
幹が砕ける衝撃が、木を伝わって体の芯を揺さぶる。
もう一撃。幹の中心部が割かれたのが感じられた。
もう持たないだろう、と判断した瞬間に、隣の木目掛けて幹を蹴っていた。
枝を掴んで衝撃を和らげ、木の幹にぶつかりながら足を巻き付ける。
背後では、しがみついていた木が音を立てて倒れていくところだった。
細い枝のうち、体重に耐えられそうな枝の付け根に足を乗せる。
「うろちょろするんじゃねえ!」
今度は、枝を払わずに直接幹を切り倒しにきた。
次の木に見当をつけ、すぐに飛ぶ。メドウズも、切り倒さないうちに追ってきた。
幹に斧を入れられる前に、さらに次の木に狙いをつける。幹は少し遠い。腕を伸ばし、枝を掴んだ。
枝振りの良い一本に足をかける寸前、衝撃に揺さぶられた。足が滑る。
メドウズが、舌なめずりしながら幹に斧を入れていた。予測されたのだろう。迂闊だった。
どうにか掴んだ枝にはしがみ付いたものの、体勢を立て直す間もなく、二撃目が幹を叩き折った。
落ちる。
体を心持ち丸めた。背中から、当たる面積をなるべく広く取るように落ちる。
生い茂った萎びた草のお陰で致命的な傷はないようだった。だが、辺りを確認しようとした瞬間、メドウズの黄色い目とぶつかった。
地面に突き倒され、先程と同じようにメドウズがのしかかってくる。
今度は、足の間に入り込んできたような温いやり方とは違う。こちらの骨盤の上に腰を下ろして、完璧に捕らえた姿勢だった。
「随分好き放題言ってくれたじゃねえか、おい」
血走った目が、じっと見下ろしてきている。
顔目掛けて、拳が振ってきた。両手を交差させるように盾にして、何とかまともに食らうのは避ける。
メドウズは、もう一撃振りかぶりながら、腕の交差した箇所を掴んだ。
拳が、腹に落ちた。
腕は掴まれている。防ぎようがない。
重い。息が固まって出た。
もう一発、落ちてくる。腹筋を締めて受け止めるが、男の体重と力みの乗った拳を受け止め切ることはできない。ずしりとした重さが腹に溜まっていく。
手首をずらして、メドウズの拘束をねじり切る。三発目に腕を滑り込ませたが、威力を軽くする程度でしかない。打たれた腕が疼くように重くなった。
振り下ろされた四発目が、顔を狙っていた。
次々に振り下ろされる拳を、どうにか腕をぶつけて弱めるが、それ以上は何も出来ない。
修練を続けてきた技術の数々も、このどうしようもない状態を避けるためのものでしかないのだ。
動きの鈍った腕を掴み上げられ、がら空きになった脇腹に拳が食い込む。
喉の奥に湧き上がった水っぽさを、残った気力でどうにか飲み下す。
腹を打たれ続けて、力が出せない。頭がぐらぐらして真っ白だ。目の前がよく見えない。
かろうじて、ぬめりと光る黄色い目だけが判別が付いた。それが不意に消える。直後、強烈なきな臭さを感じた。
衝撃が頭の中心を貫いて、後頭部を地面に叩きつける。鼻から自分の体温が顔中に広がって、息が吸えなくなる。
もう、体がどこに行ってしまったかわからなくなった。
上の奴が何か言っている気がするが、わからない。
どう力を入れれば体が動くか思い出せない。
何かが笑う気配を感じたが、目に映るものを理解するには、ダメージが大きすぎた。
腰の上に感じていた重さが消え、腰から下が外の空気に触れる感触がした。
死んだ森の死んだ空気に混じって、生暖かい嫌な風が下半身に吹き付ける。
もうだめだ、と、ぼんやりと理解した。
嫌だな。
まだかろうじて生きていた頭の片隅でそう思った時、小さく冷えたものを、指先に感じた。
それの触れた神経だけが、元の冴えを取り戻す。
使え。そう言われた。
このままでは嫌だ。そう思った分だけ、鉄片を掴んだ腕が鋭さを得て閃いた。
「うげっ!?」
敵の悲鳴で意識が平衡を取り戻した。
仰向けの姿勢から跳ね起きた瞬間、刺すような頭痛と疼くような腹の痛みが一気に襲ってきて、レムは小さくうめいた。
目の前では、今度はメドウズが仰向けにひっくり返り、顔を押さえてうずくまっていた。
慌てて、自分を蘇生させた小さな鉄片に目を向ける。木から落ちた時に外れたのか、釘帯に納まったトヲリの風釘が残り三本、風を捲いて並んでいる。
すぐに掴み上げて元のように腰の帯につけようとして、自分が何も穿いていないことにようやく気が付いた。
全身の血が凍りついたような気分になった。
恐る恐る、手をやる。
無事だ。
湿ってはいるが、粘っこい湿りではない。それに何より、閉じた自分の肉が、まだ何も通していないと主張している。
片膝に、さっきまで自分が穿いていたものが引っかかっている。
「てェめェェェェェ!」
メドウズが、凄まじい怒号を放ちながら起き上がる。
黄色い目が、ひとつ消えていた。
目を押さえた手と、もう片手が、両方とも出血している。
咄嗟に釘を受け止めたのだろう。ただの投げ釘なら、手のひら一枚を突き通したところで止まっていた。だがレムが放ったのは、トヲリの加護を受けた風を捲く釘である。
逆に、盾にした手のひら二枚のどちらかがなければ、釘は目を貫通して脳に達したはずだ。
立ち上がろうとするメドウズの下腹部の、脱ぎかけの下穿きから、いきり立ったものが覗いている。
風釘に触れるのが遅ければ、終わっていた。
そう考えながら、レムは自分の体が勝手に動いているのを自覚した。
反射的な行動だと理解した瞬間に、気迫を乗せる。
立ち上がり途中でろくな防御行動ができないメドウズの股間のそれ目掛けて、渾身の爪先蹴りを放った。
打撃軌道が美しい円月を描いたのが、わかった。
一瞬の余韻が永遠に感じられる。今まで蹴った中で最も完璧に近い蹴りであった。
永遠が尽きた直後、メドウズの黄色い目が血の色に弾けた。
意味のわからない雄叫びを上げながら、メドウズが再び地面を転がる。
その隙に服を直して釘帯をつけて帯を締めなおし、丸くなってうずくまるメドウズに背を向けて一目散に逃げ走った。
もはや殺す殺さないの話ではなくなった。
武器もないのにこれ以上戦おうとすれば、今度はもう寸前で助かるようなことはない。
股間の湿りは気絶した際に失禁した時のものらしい。服から、じっとりと湿っていた。情けなさがまともな思考を妨げる。
背後から、立ち直ったメドウズの地獄のような叫びが追ってくる。
平衡を取り戻したはずの頭の中が、また白さで満たされた。
木の根につまずきそうになり、草で滑りそうになり、枝で顔を払われながら、転がるように逃げる。
鼻血が出ているせいで、まともに呼吸が出来ない。肋骨が痛みで軋り、心臓が弾けそうな感覚が足を止めて休もうと主張する。
止まれば、死ぬ。いや、死んだほうがましだ。
足場の悪い場所を駆け抜けることに精一杯で、メドウズがどれくらい迫ってきているか、振り返る勇気はなかった。
草を踏んだ。
踏んだはずだった。
足首を掴まれた時の感触がして、足が前に出せなかった。
前につんのめる。宙でもがいたが、なす術もなく転んだ。
直後に、背中に覆いかぶさる気配がレムの心臓を押し潰す。
半ば恐慌状態で振り向こうとした。
振り向けた。何ものしかかってきてはいなかった。
少し離れたところで、メドウズも地面に倒れていた。
捕らえられた野の獣のように手足を振り回し、レムの方へ這いずろうと地面を掻いている。
相当力強く暴れているのだろう、一掻きごとに土くれや草が飛び散り、木の破片までもが散らばっている。
その体に、草が巻きついていた。自然に絡んだとは思えないくらい、メドウズをしっかりと縛めている。
はっとして足を見ると、転んだ時に掴まれたように感じた方の足首に、同じように草が巻きついている。
それどころか辺りの植物も、のろのろとレムを絡め取ろうと伸びてきている。
慌てて釘を一本引き抜き、先端で草を引きちぎる。足に巻きついていたそれは、想像以上に強靭だった。
何がなにやら、もうまったくわからない。このままでは草木に巻き取られて、身動きが取れなくなってしまう。
事実、草を振りほどけないメドウズの上に、木の枝が覆いかぶさり始めていた。
木々は、突き刺そうとも、絞め殺そうともしていない。押さえつける以上のことはしようとしていなかった。
立ち上がると、メドウズに迫っている分と同じくらいの草木が、周りからにじり寄ってくる気配を感じた。
どちらへ逃げようとしても、捕まる。メドウズの方向など論外だが、逆方向にも抜けられそうな道はない。
レムを呼ぶように、釘帯が風を捲いた。また、投げろと言うのだろう。
トヲリの地より遠く離れて、完全な加護こそ及ぼせないものの、トヲリはレムへの友誼を捨てていなかった。
それだけでも、今にもへたり込みそうな気持ちをしっかり保つための支えになった。三本残った釘のうち草を引きちぎるのに使った一本を、念じながら投げる。
どこへともつかない。ただ、投げること自体が状況の打破につながる。風釘はそう言っていた。
一直線に銀の尾を引いて飛ぶ釘に、木や草が反応した。存在を主張するように風を伴いながら飛んでいく釘へ、一斉に向かっていく。
それで、やっと閃いた。
何らかの理由で氏族の信仰を絶たれた精霊が、手に入れた自我を保つために、本来は氏族を守護する時に用いる力で、周囲の存在を奪い始めるようになったモノだ。
すなわち、レムが今目の当たりにしているのは、邪霊と呼ばれる現象だ。
この辺りに存在する邪霊がこの森の草木を蝕み、屍を思わせる半死半生の姿で生き続けさせているのだろう。
餌食となった植物は、精霊であった頃の自我を保つための餌であり、新たな餌を捕らえるための触腕である。
そして植物より強い活力を持つ獣や人間を、ああして糧にしているのだ。
釘が死んだ空気を切り裂いて飛ぶ。その軌跡から、断崖城の霊地を思い出させる、意識を研ぎ澄ませる冷たく鋭い風が吹き込んでくる。
枝や草に転ばされそうになりながらも、その風へ向かって走った。釘の風が、邪霊の影響下の外の風を導いてくれる。
突然浮き上がった木の根に躓きながらも、今度は無様に倒れることなく、足をもつれさせながらも速度を落とさず走り続けた。
釘が蔦に捕まっていた。その横を、追い抜く。
活力を奪おうとしている草木の意に反して、自分の役はもう終わったとばかりに、釘はただの釘に戻って、ぽとりと落ちた。
力を失った釘を打ち捨ててレムに矛先を転じた草木は、しかしレムの体に届く手前で止まり、未練がましく先端を宙に漂わせるばかりであった。
どうやら、草木を操れる、特に影響力の強い範囲からは逃れられたらしい。
帰り道は覚えていないが、釘が呼んだ、外の風の吹き込む方向へ進めばいい。
ふと、レムへ向かってゆらゆらと揺れる草木の向こうに目を凝らした。
あの場から身動きできないメドウズが、腕ほどの太さの枝と、細い木の幹に巻きつかれていた。
近くの大木の洞が見る間に広がっていき、大人一人を飲み込める大きさになった。
もがきながらわめき散らすメドウズが、持ち上げられた。その洞に押し込まれる。
暴れる度に折れ砕けた枯れ枝の破片が飛ぶが、砕いた以上の枝が集まって、その体を拘束していく。
そして、背までをすっぽりと包み込んだ洞が、獲物を丸呑みにするように閉じた。
邪霊の影響下から抜け出した後は、道など覚えていなかったが、ぼんやりとしたまま歩いているうちに、モノマ氏族が居座っている村に辿りついた。
今後に起こるであろうことにどう対処するか、事前に色々と考えていたはずなのに、頭の中は夢の中のようにふわふわと頼りないまま、何も思い出さない。
見張り番が先触れ行くのをぼうっと見送り、まったく気構えすらせずにバルフィンの出迎えを受けてしまった。
出迎えたのは、バルフィンを中心にレムを取り囲むようにぐるりと円を描いたモノマの狼たちである。
囲まれたと警戒するはずのところだというのに、心持はすっかり他人事のそれだった。
背後から、側面から、一斉に襲い掛かられたら、逃げ場がない。
地面に押さえ込まれて、殴られながら代わる代わる犯される自分の姿が、ぼんやりと夢想される。
今度はもうどうしようもないな、と思った。
バルフィンは、顔をしかめていた。
「なんだそのツラ」
言われて、顔を手で擦った。乾いて褐色になった血の滓が手に付く。そう言えば、鼻血を出していたのだった。
何度か擦っていると、手に付いた血の滓が、垢と汗に混ざって伸びて広がった。
「遊んでねえで報告をしろ、報告を」
「え」
バルフィンが言ったことを、捉えかねた。
「逃げた女どもの隠れ家だよ! 見つけてきたんじゃねえのか!」
周りを取り巻いた狼たちから野次が飛ぶ。戦利品、特に楽しめるようなものはほとんど手に入らなかったらしく、苛立っているのだろう。
バルフィンは特に何も言わずに、じっとレムの顔に目を注いでいる。
「ああ、それは、見つけてこられなかった」
「なんだとぉ!?」
「うるせえぞ。この俺に質問させねえつもりか」
バルフィンがぼそりと唸っただけで、空気がぎしりと緊張して野次が消える。
それきり取り巻きには目もくれず、バルフィンはレムに視線を戻した。
鹿爪らしい顔をしているが、なにやら興味津々の態である。
「よう、ところでメドウズはどうした」
何を聞かれたのか、とっさに思い当たらなかった。メドウズの名から記憶を手繰り寄せ、トヲリの風釘に救われたことと、邪霊に追われて死ぬところだったことと、その前のことを思い出す。
氷が胸の中一杯に詰め込まれる感触が蘇った。
顔中から汗が吹き出る。腕ずくで押さえ込まれて、気を失うほど殴られて、もう少し遅ければ取り返しが付かないところだった。
目の前にいるのは、そのメドウズより手に負えない男だ。下手を打てば、レムをこの場で組み敷くことなど何とも思っていない。
周りを取り囲んでいるのも、バルフィンの号令があれば一斉に襲い掛かってくるだろう。
自分がどんな表情をしているかわからないが、平静とは程遠いはずだ。こちらをじっと見ていたバルフィンの顔が、歪んだ。
「まさかメドウズにヤられかけて、ぶち殺してきたか?」
感覚を思い出した。幼い頃に、父の言いつけを守らずに怪我をして、父の迎えを待っていた時。
戦士の修練を始めたばかりの頃に、性別の事を言われないかと気が気でなかった時。
長老議員に真剣での組み手をつけてもらった時、どう足掻いても避けられない軌道の剣光が見えた時。
初めて斬った盗賊が、目の前でどんどん生気を失っていくのを見守っていた時。
男に覆い被さられて、殴り続けられた時。
「そのツラ、図星みてえだな」
心の中で、覚悟を決めろ、と何かが吼えた。メドウズの時は、それで戦えた。だが今回はバルフィンだ。メドウズ相手でさえ、幸運に味方されてどうにか助かった有様である。
それに、心の氷がもはや重すぎるまでに大きくなっていた。叫びの存在には気付けても、頭に届かないまま、氷に吸い込まれて消えていった。
後に残ったのは、出かける前に見た、男たちに弄ばれる娘の姿である。次は、自分だ。
そう言えば、あの時はゼダがいたはずだ。出会ったばかりの時からずっと、こういう場面で助けてくれた。
取り巻きたちの中に、あの気弱そうな顔を捜す。いるはずがない。ゼダがいるなら輪の外だ。
しかし、もしいるなら、たとえ輪の外であっても、大騒ぎしながら助けに来てくれるはずだ。
どうして来ないのだろう。
なぜか突然、周りから爆笑が湧き上がった。
「ヒャヒャヒャ、マジかアイツ!」
「見境ねえなァ!」
「マダラじゃねえか! どんだけ溜まってんだよ!」
そう言えば、メドウズの話だったと思い出すまでに、また少しかかった。
仲間が死んで真っ先に腹を立てると思っていたバルフィンも、にやつくばかりである。
誰もメドウズがいなくなったことを悼んでいない。
そして自分には、そんな下衆を憤る気持ちすら残っていない。自分から矛先が逸れた気がして、安心してしまったのだ。
「違う。私じゃない」
次に口をついて出たのも、言い訳だった。
「そうかよ。いい子ぶった奴らは皆そう言うなあ」
「本当だ。私じゃない。途中で、邪霊に捕まったんだ」
「邪霊、ねえ」
自分でも情けなくなるくらい、必死に言い立てていた。
「私はなんとか逃げられたけど、メドウズは木に食われた。多分もう」
「へえ」
バルフィンは、その不完全な説明で十分だったらしい。返事をする頃には、かえって鬱陶しそうな雰囲気すら現れ始めていた。
「ま、いい。今のバカ話で納得してやるぜ。おうおめえら、引き上げるぞ」
取り巻きに向かって腕を振ると、何人かが村中にぶらぶらと散り始める。
ばらばらと解散していく中で、一人がふと顔を上げた。
「いいのかよバルフィン、隠れ家探さねえで」
「代わりに面白え言い訳が聞けたからなあ。また今度にしておいてやる。次来る時は燻り出してやるがな」
なんだか、気付かないうちに切り抜けた。
荷造りの終わっていた麦や家畜や装飾品、調度品などを運び出す狼たちは、もうレムの事など気にしていないようである。
レムはまた、ぼうっとしていた。事の推移に、頭がついていけなかった。体は何かしなければならないと理解しているが、頭が命令を出すことを拒否してしまっている。
「よう、ゼダでも探してんのか」
まだ座っていたバルフィンが、声をかけてきた。
どういうわけか、今度は危機を感じることはなかった。
「昨日先に帰らせたぜ。奴がいねえと誰もクソ汲みしやがらねえ……ようシェガル、俺にだけこっそり教えろ。どうやってメドウズを殺った」
ぎくりとして振り返ると、にたりと笑ったバルフィンの顔があった。
引いていたと思った汗が、また噴き出してきた。
バルフィンは、自分に殺意があったことを直感で見抜いている。
「ひでえツラはしちゃいるが、血ばかりでハラワタの臭いはねえ。武器で殺ったんじゃねえんだろ、貸した斧もなくしやがって。それでよくもまああの野郎を殺れたもんだ」
「邪霊だって言ってるだろ」
「そうかよ」
むきになって抗弁するレムを、バルフィンは鼻で笑った。
「私がメドウズを見捨てたのが気に入らないのか」
焦りのあまり、噛み付くような言い方になった。その途端、バルフィンの表情が消えた。まっすぐ見られた瞬間、背筋が凍りついた。
やってしまった。そう思った。
「おめえ、馬鹿か。誰が誰を見殺しにしただのなんだのって、いちいち気にしていられるか」
レムの憔悴がまったく関係ないかのように、バルフィンは心の底から呆れたと言わんばかりの声を出す。
「おめえの顔面にぶち込める位置まで近づいといて殺られるなら、奴は死んで当然の奴だったってことだ」
そういい捨てると、バルフィンは背筋を伸ばしながら村のどこかへ消えていった。
レムは、一人取り残された。周りでは、モノマの盗賊たちが略奪品の輸送にかかり始めている。
その後は結局何事もなく、モノマの集落の川下にある、微かに排泄物の臭気の染み付いた小屋に戻ってきた。
相変わらずのふわふわした足取りのまま、木戸を開いて小屋の中へ入ろうとした。
ゼダが、囲炉裏の傍に座っていた。その姿を見て、頭の中に張り詰めていた薄紙が張られたような思考の留まりが消え、現実がつながってきた。
同時に、疲労と心労が一気に重さを得て体にのしかかってくる。
「おお、帰ってきたか。悪かったなあ、帰って肥取れってバルフィンがよ」
珍しく魚を焼いていたゼダが、レムを見るなり目を丸くして立ち上がった。
「おい、大丈夫か? 何かあったのか、なんかひどい顔だぞ」
ゼダの顔を見る。気弱そうで、どことなく間が抜けていて、それゆえにか優しさを知っている、そういう顔だ。
「どうしたんだ、どこか痛むのか? 酷い目に遭わされたのか? まあとりあえずこっち来て座れ、な」
ゼダが慌てている。
大丈夫だ、と言おうとしたが、声が詰まって言葉が出なかった。
自分で歩けると思っていたのに、力が抜けてその場にへたり込んでしまった。ゼダが急いで支えてくれる。
「ほら、もう大丈夫だぞ」
冷たい水と、湿らせた布の切れ端を持ってゼダが戻ってきた。水を飲まされ、顔に布を当てられる。
顔の汚れを拭き取っていく濡れた布の冷たさを、ぬるい流れが温めていく。
そこでようやく、自分が声もなく泣いていることに気がついた。
やっと、肺が息を泣き声に変えた。
「おお、よしよし。つらかったな、もう大丈夫だぞ。兄ちゃんがついてるからな、なんかあったら何でも話してみろ、な。落ち着いてからでいいからな」
座り込んだレムを、ゼダが優しく抱きしめてくれた。
背中をさする手のひらが暖かくて、ゼダの胸にしがみついた。
夜は、眠れなかった。
遠くから聞こえてくる、モノマの狼たちの立てる音にじっと耳を澄ませていた。
型稽古に使っていた手ごろな薪を寝藁に持ち込み、息を潜めて辺りの気配を窺い続けている。
時々、うとうとしてはすぐに目を覚まし、神経を張り詰めさせた。
またいつ寝込みを襲われるか、気が気ではない。
杞憂であることはわかっているのだが、どうしても、目が耳が鼻が、居もしない人影を探り出そうとするのである。
組み敷かれてまた殴られるようなことになれば、今度こそ終わる。その恐怖が、拭い去れない。
朝日が昇り、ゼダが唸りながら起き上がってきて、ようやくレムは眠れるのだった。
それでも何日かは今までどおり生活しようとして起き上がっていたが、次第にふらふらになっていくレムを見かねて、ゼダは寝ていていいと言ったのであった。
自然、ゼダ一人に仕事を任せてしまっていた。
申し訳ないと思っても、夜は眠れない。
寝不足のまま台車を押しても、逆に迷惑になりかねないのであった。
その日もそうして、昼の間に、藁の中に埋もれるようにして隠れて寝ていた。
いつもは、目を覚ます頃にはゼダが部屋の中で道具の修繕をしているはずである。
だが、その日に限っては、藁の中から耳をそばだててみても、誰かが居る気配はしなかった。
外から切り離されたような、閉じた部屋の固まった空気だけが感じられる。
「ゼダ」
声に出して呼んでみたが、返事はない。
不安がレムの体を床に押さえつけた。なんという気弱さだろうか、と情けなくなったが、どうしようもない。
せめて蛮刀があれば、こんなに心細い気持ちにもならなかっただろう。片手で扱える刃なら、あの時のように押し倒されたとしても、すぐに斬り返せた。
今は駄目だった。素手がこれほどまでに恐ろしいことだとは、思ってもみなかった。
部屋の中の空気が凝り固まっていくような気がした。いるはずのない誰かが、小屋の片隅で気配を殺しているかもしれない。
「ゼダ!」
呼んだところで帰ってくるはずもない。わかっていたが、呼ばずにはいられなかった。
そして当たり前のように空振りに終わり、今度は小屋の中に潜んでいるかもしれない誰かに聞かれたのではないかという恐ろしさが、じわじわと湧き上がってくる。
その誰かがそうしているように、レムも息を殺して藁の中で身を小さくした。
体を動かすたびに、藁がいやに大きな音を立てる。
ゼダが戻ってくるまで、じっとしているしかない。今誰かに見つかっても、前のような態度は取れない。
藁の外の様子が気になった。部屋の空気は動いていないが、実は既に誰かが、レムが潜っている寝藁の山を見下ろしているのかもしれない。
少し隙間を開けてみればわかる。しかし、もし本当にそうであるなら、藁が動いた時点でいることがばれてしまう。
小屋の戸が開く音がした。
足音が、無造作にこちらへ向かってくる。レムは藁の中で身を固くした。
ほぼ間違いなくゼダのはずだ。他の者なら、こんなに自然に入っては来ない。
だが、そうとわかっていても緊張が走った。
戸口から寝藁の山までさほど距離はないのに、随分と長く感じられる。
そっと気遣うように、藁が持ち上げられて、レムの視界に光が差した。
「お、起きてたか」
やはりゼダだった。それとわかって、ようやく体から力が抜けた。
バルフィンの狩りから何日か過ぎて、レムもどうにか気持ちが落ち着いてきた。
ゼダがいるなら、モノマの他の狼と向き合っても、動揺を表に出さずに今まで通りの応対ができるようになった。
とは言え、メドウズの一件以来、及び腰になってしまうのはどうしようもなかった。
蛮刀さえあれば、男の腕力に対抗することが出来るのだが、まともに武器を渡してもらえない現状である。
「ゼダ、モノマを離れる気はないのか」
藁から抜け出て、ゼダが持ってきた久々の小麦を粉に挽く。肉を切り分けているゼダに話しかけると、意外そうな顔を向けてきた。
「抜けてもいいんだぞ。というより、今までどうして抜けなかったんだ。お使いがあるんだろ?」
さっさといなくなるのが当然だと思っていたと言わんばかりの表情である。なぜかその態度を、少し不満に思った。
「私が勝手にいなくなったら、ゼダの立場が悪くなるじゃないか」
自分が拗ねた口ぶりになっているのがわかった。一体、何が心に刺さるのか、よくわからない。
ゼダは笑うばかりである。
「馬鹿だなあ。俺はなんとかやっていけるから大丈夫だって」
何がそんなに気に入ったのか、にこにこしながら切り肉を並べている。
「いつでもいいんだぞ。柵越えようとすると見張りが飛んでくるけど、ちゃんと出入り口から挨拶して出て行きゃ、そうそうバレないからな」
モノマ氏族の風潮を見れば、立場を悪くすればどういう扱いを受けるか、知れたものではない。
それを、ゼダもわかっているだろうに。
胸が締め付けられるように痛む。
「ゼダ」
「ん」
言おうと決めた。今まで、どうして言い出さなかったのだろう。
「一緒に行こう、こんなところから早く抜け出そう。それで、どこか遠いところへ行こう」
「遠いところっても」
ゼダが困ったように言う。確かに行き先も決めずに逃げても、すぐに追っ手がかかるだけかもしれない。
しかし、このまま身の危険に晒されながら、やりたくもない仕事を押し付けられる生活を、いつまでも続けているわけにはいかない。
「ゼダの元の氏族に戻るわけにはいかないのか」
ゼダの顔が、少し曇った。
「流れ者が戻ったら、後が大変じゃねえか」
「そういうことを言っている場合じゃないだろ」
「とにかく、駄目だ」
ゼダにしては、いやにはっきりと言い切った。何があるのかわからないが、これ以上無理に押しても、ゼダがへそを曲げるばかりだろう。
「わかったよ。それじゃあ、どこにしよう」
アトシャーマまでゼダを連れて行くか。
コーネリアス氏族の友邦あたりならいざ知らず、この土地は兎の国に近づいてきている。狼と兎は険悪な関係だという通説が事実なら、拒絶される可能性が高い。
小麦を挽く手も止めて考えた。以前ならなかったような必死さで知恵を絞った。
剣が手にない心細さばかりではない。
「アラバって氏族が頼りになるって、バノンが言ってた。親切にしてくれるって」
どこにあるかはわからないが、この辺りの集落に行き当たることが出来れば、場所くらいは教えてもらえるはずだ。
他の集落も盗賊が多いようなら、野宿を重ねながら獣道を伝っていってもいい。とにかく、やっと見つかった目標である。
だが、ゼダは先程までの表情をすっかり収めてしまっていた。
「アラバは、もうないんだ」
沈鬱ささえ漂わせて、聞こえるように呟いた。
「バルフィンの狩りで潰されちまったんだ。もう十年になるか」
せっかく見えていた希望が、消えた。重りを抱かされた気分である。
しかし目当てがひとつ消えた程度で、モノマ氏族から脱出する計画を諦めるつもりもない。
「なら、少し遠いけど、私の氏族へ行こう。偏屈ばかりだけど、ゼダならきっとうまくやっていけるから」
ほぼ最後の手段だったが、他にない。
わき目も振らずに歩いてほぼ五日ほどだったから、急いで行けば半分くらいには縮められるはずだ。
友邦の中に入ってしまえば、モノマもそうそう手出しは出来ないだろう。
アトシャーマに観光に行けるよう、わざわざ口を利いてくれた父には申し訳が立たないが、仕方がない。
強行軍の三日間、どうやって追っ手を凌ぐかが目下最大の問題だったが、こればかりはやってみなければわからない。
武器を持たないレムと、あまり頼りにならないゼダでは、追いつかれないようにするのが最善であるのは間違いない。
「いやあ」
ゼダは、言いづらそうに片手を上げた。
「俺はいいから、お前だけでも帰れって」
その返答に、なぜか腹が立った。
「なんでだ」
「なんでって」
そろそろ、聞いてもいい頃合だと思った。無論、原因のわからない苛立ちをぶつけようとしていることには変わりない。
「ゼダだって、好きでやっているわけじゃないだろ。汲み取りを押し付けられて、無抵抗の他の氏族を酷い殺し方させられて。それなのに、なんで何年もここにいるんだ」
困った顔をしているゼダに言い募るのは罪悪感があったが、ここで聞いておかなければいけないような気がした。
ゼダはしばらく黙って考えているようだったが、やっと口を開く。
「わかったよ。それじゃあ、抜ける準備は俺がやっとく」
「そういうことを言ってるんじゃ」
「悪いけど、頼むわ。全部片付いたら教えるから、それまでは、な」
両手を合わせるように言われては、否とは言えなかった。
ただ、レムにまで頭を下げるゼダを憎たらしく思った。
「私は、ゼダが残るなら出て行かないからな」
「ああ、わかったよ。こっちが全部片付いたら、一緒に出よう」
根負けした様子で、ゼダが頭を掻いた。
「その後は、お前の氏族でもどこでも連れて行ってくれ」
「もちろんだ。そうだ、まだ名乗っていなかったな。私は」
そろそろ本来の名を教えても良いと思った。今までの様子からも、ゼダは頼りないが信頼できる男だというのは間違いない。
レムの氏族が、音に聞こえたコーネリアス氏族であると知れば、ゼダも心強いだろう。そう思った。
だがゼダは、レムがその先を続けるのを制した。
「そいつも全部片付いた後にしよう。今の俺たちは、流れ者の兄貴ととっ捕まった弟、ゼダとシェガルの兄弟で、それ以上は何もなし。だろ?」
兄弟だと改めて確認されて、レムはどういうわけかうろたえた。
兄弟だから同じ小屋で寝るのは当然だが、モノマ氏族から無事に脱出できれば、元々嘘だった兄弟関係は解消されて、一個の狼同士になる。
つまり元々関係なかった狼同士でしかも男女が同じ小屋の中で生活しているわけであって、この現状はつまりどういうことになるのか。
今まで考えたこともなかったのに、急にそんな思い付きが頭の中に満ちた。
突然、ゼダの体つきが気になり始めた。断崖城の戦士たちに比べるべくもない細身の体は、必要最低限には鍛えられており、質素な生活のせいで余分な肉も付いていない。
顔つきは精悍というよりは温和で、優しく包み込んでくれる暖かさがある。
バルフィンの狩りから帰ってきた時に、緊張の糸が切れて涙が止まらなくなったレムを抱きしめてくれた時の感触が蘇るようである。
体温が顔に集まっている感覚があった。
「それでいいよな」
再び切り肉に向かいながら、軽い調子で念を押してくるゼダに、一も二もなく何度も頷く以外の反応を返せなかった。
その日から、ゼダについて台車を押す仕事を、再び手伝うようになった。
まだメドウズに植え付けられた恐れはしっかりと根付いていたが、ゼダと一緒なら、少しずつ元の通りに慣れていくこともできると思った。
いざ脱出の段になって、武器がないからと怯えてばかりでは、かえってゼダの足手まといになりかねない。
メドウズ相手になす術もなかったのは、木から落ちた直後を狙われたからであって、真っ当な立ち合いであれば格闘も多少は出来る。
熟練戦士たちに混じっても引けを取らないだけの技量はあるつもりだった。それが十二分に発揮できるくらいには、気力を取り戻しておきたい。
相変わらず、集落を行くレムたちに向けられる視線は刺々しかった。
メドウズに気付かれたのなら、他の者もレムがマダラなどではないと察しているものはいるだろう。
バルフィンなどは、妙な勘の鋭さがある。今にして思えば、初対面ですんなりゼダの苦しい言い訳が通ったことが不思議なくらいであった。
だが、そのことをまだ何も言ってこない。
メドウズが邪霊に食われたことを報告したときの反応を思い起こせば、バルフィンが黙っている限り、モノマの狼たちもレムをマダラとして扱うつもりなのかもしれない。
台車を押しながら、横手に差し掛かった住居の中をそっと窺う。
入り口の幕の向こうから、湿っぽい熱気と喘ぎ声が流れてくる。
嗅覚は、台車の中身のせいで使い物にならない状態であったが、中で何が行われているかは明白だった。
マダラに襲い掛かるほど餓えていると嘲笑されるリスクを犯そうとするような男は、いなさそうである。
女の吐息に涙が混じっているのが聞こえても、どうすることもできない。
集落のあちらこちらで、そういった熱気が漏れ出てきていた。体が冷えていくような気分だった。
「ゼダ」
「ああ、さっさと片付けて帰ろうな」
レムの胸中を察したらしいゼダが、肩越しに振り向いて言った。
それで、少し気分が楽になった。
しばらく進んだところで、なにやら女の声が聞こえてきた。モノマの集落では初めて聞いた、居丈高な調子である。
声を張り上げて、誰かを責めているようだった。
「ああ、あの姉ちゃんか」
レムが気にしている様子を見て、ゼダが独り言のように言う。
「さらわれてきた女はさ、しばらくここで暮らしてると、皆魂抜けたような暗あい感じになっていくんだけどさ。あの姉ちゃんは、なんつうか逞しいよな」
道を踏み外していく知人を見るような苦さが、言葉の端に滲んでいた。
女の声は何を言っているのか良く聞こえなかったが、何か粗相をしでかした別の女を、ひたすら罵っているようだった。
聞いていて、あまり道理の通った怒りではないと思った。
端々に、私の方が氏族に長くいただの、バルフィンの子を生んでいるだのと聞こえる。
位階付けに汲々としていた指導役の祭司たちを思い出して、胸の中でちりちりと火が熾る気がした。
環境に慣れていくのは必要なことなのかもしれない。無理に我を通そうとして命を落としては、何の意味もない。
だが、本当にそれでいいのかという気持ちもあった。エンペを殺し、あの集落で先陣を切って住民を殺していくというのは、どうしても許容できない。
もしそうしていれば、こんな人の影に怯えながら集落を行くようなことにはならなかっただろうし、モノマ氏族でももっと良い立場になれていたかもしれない。
しかし、無駄な殺生や、道理の通らない略奪はしてはならないことだ。
命惜しさを言い訳に非道な行いを避けようとしないのは、生きるために仕方なくとは違うと思った。
砦に続く坂を上り、また砦の裏手に台車を乗り入れた。
「そんじゃあ、行って来るぞ」
「あ、ゼダ」
いつものように空の桶二つを抱えて共同便所の汲み取り用入り口に入ろうとしているゼダを呼び止める。
「私も手伝う。手伝わせてくれ」
多少気持ちが落ち着いてきたとはいえ、やはりまだ恐怖が拭い去れていない。
一人で取り残されてしまっては、いつ死角を取られて物陰に引きずり込まれるか、気が気ではない。
それならば、ゼダの手伝いをしていれば一人になることもなく、ゼダの作業も軽くすることが出来る。
「いやあ、大丈夫だ。いいからここにいな」
ゼダはそれを察していないはずはないのに、返事はつれないものだった。
「どうしてなんだ」
「そりゃあ……ほら、狭いんだってよ。桶もでかいしな、二人で入ったら逆に動きづらいんだって」
桶の交換には、時間がかかりすぎる。
「なるべく、早く戻ってきてくれ」
ゼダが訝しげな顔でレムを見て、笑顔を浮かべた。
「そんな心細そうな顔すんなって。心配なら台車の陰に隠れてりゃいいじゃないか。な」
自分はそんなに頼りない顔をしていただろうか。
ゼダはレムの頭をわしわしと撫でて、入り口に消えていった。
また、少し、待たねばならない。
夜に眠れなかった分を昼に眠る生活も、ゼダの手伝いを再開したことで、少しずつ元に戻っていった。
眠気でぼんやりしていると、舟をこいだ拍子に変な台車の押し方をしてしまうせいで、桶の中身の滴が飛び散ることがあるのだ。
いくら気にしないと強がっても、さすがに臭いがこびりついてしまうのは避けたいことには変わりない。そうなると、戻さざるを得ないのである。
眠る頃には、ゼダがいる。何かと警戒したがる頭を中空になるように保つ。
防御を捨てている状況に、胸の中の氷がメドウズのことを思い出させようとするが、その恐れはゼダの存在で塗り潰した。
いくらゼダが寝起きが悪くても、何かあった時は必ず助けてくれる。そう信じた。
そうして、またゼダを朝に叩き起こせるようになった頃、レムはゼダが日が落ちきった頃にふらりと出かけていくことに疑問を持った。
以前までは、そんなこともなかった。川の水の湿った匂いを漂わせながら戻ってくるようになったのは、つい最近である。
夕方に乾した桶が朝になっても湿り気どころか濡れた感触であるところを見ると、どうやら桶を洗いなおしているようだが、わざわざそんなことをする必要もない。
そもそも、ゼダ自身からも漂ってくる川の匂いは、ゼダも川に潜ったとしか考えられない。
「ゼダ」
「ん」
その日もやはり川の風を振りまきながら帰ってきたゼダに、尋ねてみることにした。
ゼダが帰ってくるまで眠らずに隠れていた寝藁から頭を出して、ゼダを見る。
「ここのところ、よく日が落ちてから出かけるけど、どうしたんだ」
「んん、ああ、まあな」
少し迷った様子を見せた後、ゼダは小屋の扉から顔を出して辺りの気配を窺ってきた。
囲炉裏の傍に腰を下ろし、湿った体を火に当てながら、ゼダは声を潜めた。
「抜け出す時の道を作ってんだよ」
「そのまま出て行くわけにはいかないのか」
モノマ氏族の集落は、高い木造の塀が囲っているが、出入り口がないわけではない。交代制の門番がいるものの、出てはいけないということはないはずだ。
「普通に出るとよ、ばれるんだよ。俺たちが出て行ったってことがさ。こんな場所だからさ、性に合わなくて出て行こうとした奴は一杯いるんだよ。
そうでなくても、さらわれてきた女とかよ。でよ、勝手に出かけようとしても、まず一人では行かせない。逃げたってわかると、追われるんだ。
バルフィンが喜ぶんだよ。狩りのいい獲物が出来たってよ。手下連れ出して、褒美かけて不眠不休で追いかけるとよ、大体捕まるか、どっかで足滑らせてるってわけだ」
レムが連れて来られた経緯から、レム自身はそう簡単に抜けられないだろうと思ってはいた。やはり追っ手がかかることを覚悟しなければならないとなると
どうしても武器が手元にないことが気にかかる。
「それで、川ん中の柵を少しずつ切って、いざって時に川に潜ってバレるのを遅らせるんだ。濡れたまんまで走る羽目になるけど、我慢してくれよ」
「それはいいけど、何か武器が欲しい。刃物が一本でもあれば、一人くらいなら追いつかれても何とかできるから」
「刃物なあ」
ゼダが、頼りなげな表情で荷物の方を見る。
最悪の場合は、昨日肉を切り分けていた小刀も持ち出さなければならなくなるだろう。
斬り合いはできなくとも、メドウズの時のように覆い被さられても、腱なり血管なりを裂ければ十分太刀打ちは出来る。
逆にそこまで近づけなければ、剣の先で刻まれて終わりという場面がほとんどだろう。
「ゼダ、あの石斧」
以前断られていたが、もう一度水を向けてみた。ゼダは渋い顔で唸るばかりである。
「あれなあ」
言いにくそうにしている、というよりは、考えながら喋っている印象である。
「ほら、石じゃないか。そこらの石を削りだした物だから、ちゃんとした武器が相手だと砕かれるかもしんねえんだ」
「ないよりはいいだろ」
それ以上は言い返してこなかったが、ゼダはまだ何か渋っている様子である。
「わかったよ。そんじゃあ、途中で危なくなったら任せるからな」
「今から貸してくれてもいいだろ。少し感覚に慣れておきたいんだ」
「それは駄目だ」
いやにはっきりと断る。
ゼダは、何か怪しい。やはりモノマに来たのも、一攫千金や一旗上げて名を売るなどではない、しっかりした目的があるのだろう。
「俺は武器を持ってないってことになってるのに、外に持ち出して見つかったら面倒だからな。ほら、いるだろ。ちょっと違う事やったら、すぐに難癖つけてくる奴」
もっともらしい、言い訳のような理由付けは、耳に入れなかった。
いざとなれば貸してくれると言うのだから、それを信じることにした。ゼダは、こういう大切なことに嘘はつかない。
「ここから出られるのは、いつぐらいになりそうかな」
聞くともなく呟くと、ゼダは頼りない顔に元気のよさそうな表情を浮かべて振り向いた。
「もうちょいだ。川の柵はもう一歩だけど、まだ別の準備があるからな。全部用意が出来たら言う」
「わかった」
「それよりも、行き先は大丈夫なんだろうな」
不意にそんなことを聞かれて、内心どきりとした。
「え」
「色々と考えてくれてるんだろ? 俺の落ち着き先」
「あ、それは」
漠然としか考えていない。とりあえず断崖城に連れて行けばいいだろう、程度にしかまとまっていなかった。
バルフィン主動の追撃部隊が出るとなれば、三日の行程も無事に進むことは出来ないかもしれない。
近隣氏族の助けを借りて、という手も考えられるが、物のついでで火を放たれたり、行きがけの駄賃で略奪されたりする可能性は十分に考えられる。
この辺りの氏族が手を貸してくれるようなところばかりとは限らないが、手を貸してくれるような氏族が側杖を食うのも、なるべくなら避けたくもあった。
「いいっていいって。言ってみただけだって。俺は自分の事ぐらい自分で何とかできるからよ」
大慌てで考えをまとめていたというのに、こちらを見てにやにやしているゼダが、なんとなく腹立たしくなった。
自分の命がかかっているというのに、なぜここまで軽い雰囲気でいられるのだろう。
「と言うよりよ、モノマから抜け出たら別れてもいいんだぞ。お前にはお前の用事があったんだろ。いつまでも俺に付き合う必要はないんだからな」
「いい加減にしろ、ゼダ」
なぜ言い返す気になったかは、わからない。普段なら、そういうものなのか、と大人しくしている場面である。
当の本人のゼダが納得しているのなら、レムがどうこう言う必要もないはずなのだ。
「私が弟だって言ったのはお前だろう。こういう時に助け合うのが兄弟なんじゃないのか」
「いや、そうは言うけどよう」
突然怒り出すとは予想していなかったらしく、ゼダも面食らった様子である。
自分自身、なぜそこに噛み付いたかわからないのだ。ゼダが予測できないのは仕方がない。
しかし、いなくても大丈夫だと言われたような気がして、どうにも収まりが付かないのである。
「ゼダは私が無事に断……私の氏族まで連れて行くからな。もう別れるなんて言うな」
「お、おう」
何が何やらわからないまま、ゼダが頷く。
その姿を見て、満足した。満足して、直後に猛烈に恥ずかしくなってきた。
おそらく赤面しているであろう自分の顔を隠すために、再び寝藁に頭から埋もれる。
「私はもう寝るからな」
「ああ、おやすみな」
明かりが囲炉裏の焚き火しかなかったせいか、ゼダには顔の熱さは気付かれていないようだった。
ゼダが気付いていて知らぬふりをしている可能性もあったが、それは考えないようにした。
――
今まで出したこともない速度で、走った。
腰に括りつけた、手に収まるくらいの小さな袋には、わざわざ一人で出て行った労力に見合うだけの収穫がある。
自分がこの袋を持ち帰れば、村に漂う重苦しさがすぐに解決する。少しでも早く届けて、皆を安心させてやりたかった。
だから、未だかつてないくらいの速さで走る自分のこの足は、それでもまだ遅すぎるのだ。
いつも山林に入るたびに引っかかっていた木の根も、まったく苦にならない。
不安定な足場を飛ぶように駆け抜け、見知った木々の間を風のようにすり抜け、数日振りに自分の住む村の家並が見えてきた。
「おっさん、帰ったぜ!」
いつもと変わらない様子で家畜を放牧している男の横を返事も待たずにすり抜け、真っ直ぐに目的の家へ向かう。
目指す少し干からびた色の丸木小屋は、材木のひとつを葉をつけたまま使ったところ、その葉が未だに枯れもせずにくっついたままである。
精霊の祝福が顕れたのだ、と言われていた。ならば、その家の者は精霊の加護を特に強く受けているはずだ。きっと間に合っている、と思った。
走り抜けてきた勢いをそのままに、出入り口の扉をぶつかるように開いた。
「今戻ったぜ! カランベの万能薬だ! これで……ん」
中にいる皆に示すべく腰の袋に手をかけて、予想していた光景と違うことに気付いた。
敷布の上で毛布に包まって横たわっているべき若者の姿がない。
「あ……」
家の者の表情は、村を飛び出す前の沈鬱なもののままだった。嫌な予感がした。
いつも自分を叱り飛ばす彼女も、湿った顔つきでこちらを見るばかりだった。何か言いたげな様子だったが、口から飛び出しそうな様々なものを抑えているのがわかる。
「お、おい。シェガルはどうしたんだよ。動かしちゃまずいんじゃなかったのか?」
家の者は何か言おうとしてはくれていたようだが、誰もが言葉に出せずに重い空気の中でつらそうな顔をしているだけである。
「ああ、そうだよな、わかったぞ。俺がカランベまで行かなくても治ったんだろ、あいつ。いやあ、前から俺より丈夫だったしな、ハハハ……」
笑い声が空ろに響くようになったのが、自分でもよくわかった。きっと今の自分は、目の前のシェガルの家族たちと同じような顔になっているだろう。
「あんた。その……言いにくいんだけどさ」
シェガルの母親が、自分もつらいであろうに、精一杯の気遣いを浮かべている。
言いにくいのなら、言わなくていいと思った。声に出してしまえば予想は現実になってしまう。
「シェガルは、昨日……」
「すまなかったな、帰ってくるまで待ってやれなくて」
先を続けられなくなった母親に代わって、シェガルの父が言葉を引き継ぐ。
「兄代わりのお前に、せめて最後に一目……」
「そ、そうか」
腹の力を振り絞って上ずった声を出し、シェガルの父の言葉を遮る。それ以上聞きたくなかった。
「そうだよな。やっぱ、俺の脚じゃ間に合わなかったよな。期待持たせるようなことして、ごめんよ。本当、悪かった、ごめん」
引きとめようとする気配を振り切るように、その家から逃げ出した。
いつもと変わらない様子で放牧している男の横を、一瞥もくれずに駆け抜け、ただ真っ直ぐにもつれるように走った。
腰で、小さな袋が揺れている。
薬草の扱いに長けているカランベ氏族まで行って、地に額をこすりつけるほど拝み倒して、やっと分けてもらった傷薬であった。
先ほどまではあれだけ期待をかけた薬も、今は思い出すだけで何とも言えない苦しさが、怒りに隠れて胸に満ちた。袋をむしり取り、林の中へ投げ捨てた。
もっと早く戻ってきていれば、シェガルは助かった。自分が遅かったのだ。だが、カランベから薬を分けてもらえたこと自体も珍しければ、帰りは自分の出しうる以上の速さで帰ってきたのだ。
これ以上はどうしようもなかった。でも、そうとは考えたくなかった。どこかで、誰も傷つかずに丸く収まるやり方があったはずだ。
そう思えば思うほど、その道を見つけることすら出来なかった自分への失望が、色濃く陰を差してくる。
とりとめのない考えに囚われたまま、足の向くほうへ歩いているうちに、村はずれの木々の深いところへ出た。
葉がよく茂った高い木の中に、一際大きな木がある。幼い頃は、危ないから行くなとの言いつけを守らず、三人でよくここまで繰り出しては、木に登ったりして遊んだものだった。
考えがあるわけでもなく、大木に登った。登り方は、体が覚えている。一見、すべすべしていて登れそうもないように見えるが、こつを掴めばたいしたことはない。
腕ほどのしっかりした枝に腰を下ろすと、山林の中の村の様子がよく見えた。
農夫は畑を作り、狩人は弓を張り、母親と娘は織物を編み、子供は元気よく村の辻を駆け回っている。
若者が一人いなくなっても、村は何も変わらない。最初から、そんな者などいなかったかのように、日々の営みを繰り返している。
突然、腰掛けている大木が揺れた。枝から落ちそうになって、慌てて幹に手をついた。
風が吹いたわけでもない。地震も、そうそう起こるものでもない。下を見ると、家からわざわざ追ってきたのだろう、彼女の姿があった。
いつも自分を叱りつける時の、きりりとした表情は、今日ばかりは泣きそうに見えた。
「なんだよ」
あまり見られたくない姿だった。言葉も刺々しくなる。しかし、彼女はそれに構わず、自分と同じように要領を心得た動きで大木を登ってくる。
結局、腰掛けている枝に手をかけてくる。
「ん」
どけ、と仕草で促され、つい梢に彼女の座る場所を空けた。
バランスを崩せば真っ逆さまなだけに、幹からあまり離れるわけにはいかない。自然、彼女と肩が触れ合うほどの距離になっていた。
彼女は、何か話をしにきたのだろうが、下を向いたまま足を揺らしているだけである。
自分からも、何を話していいか見当も付かなかった。
シェガルの話はできない。
木の枝が風に揺られて擦れ合う音に野鳥の声が混じって、静かな音を響かせている。
「ねえ」
先に口を開いたのは、彼女の方だった。
「これ」
無愛想に突き出した手に、先ほど自分が投げ捨てた小さな袋があった。
「あんたが手に入れてきたんだから、あんたが持ってなさいよ」
「もう、いらねえよ」
本当に使わなければならない機は、逸した。
「このバカ」
頭を小突かれた。
「あんたいつから使える物を捨てるような贅沢な奴になったのよ。似たようなことになった時に、今度は走っていかなくて良くなるでしょ。いいから持ってなさい」
服の襟元から袋を押し込みながら、彼女はいつもと調子が変わらないように声を張っていた。
この袋を見れば、今日の悔しさが蘇るだろう。
自分は、大なり小なり失策を繰り返して、しかし別のところでその失点を補いながら生きてきた。情けない話ではあるが、並大抵のミスならすぐにどう取り返せばいいか判断できる。
だからこそ、この不手際は取り返しが付かないのは、考えるまでもなくわかる。
何をどうしようと、彼女の弟はいなくなってしまったのだ。
「シェガルね、あんたがどっかに行っちゃったって聞いてから、ずっとあんたの心配してたのよ。弱っちいくせに無茶してるんじゃないかって。死にそうなのはどっちなのよ、ねえ」
彼女の声が、いやに虚ろに響く。
「そうだよな。無茶やった割に結局俺は何もできねえまんまでよ。シェガルにも親父さんにも小母さんにも、気を持たせるような事して、結局こんなんだ」
自分の声は、虚ろではない。自嘲が満ちている。
彼女が、少しだけこちらの顔を窺った。
自分の自嘲には取り合わず、彼女は声を励まして話を続ける。
「シェガルがさ、最期にあんたに礼を言っておいてくれって。あんたは何やらせてもイマイチだけど、あんたがいるから自分が頑張る気になれたんだって」
「まともに村の戦士の仕事できてたのはあいつだろ。俺なんか、せいぜい石投げて獣を追い払うのがやっとだ。それだってケイギアのおっちゃんの方がうまいしよ」
「ねえ」
今度はちらちらと窺うことはせず、彼女は真っ直ぐに見つめてきた。
「村の誰も、カランベまで行こうなんて思いもしなかった。あんただけよ。カランベまでの険しい道を、二日で行って帰ってきたのは。
ねえ、だからウソでもいいから元気を出して。あんたが自信持ってるの、その空元気だけでしょ。いつもみたいに強がってみせてよ。
できもしないことをできるって言い切ってさ、本当にカランベまで行って戻ってきてさ。向こう見ずでも無鉄砲でもない、あんたは村で一番勇敢な男なんだから」
彼女の言うとおり、無理な目標を決めて、脇目も振らずに集中して、そうして予想を覆して目標を達成したことは、今まで何度かあった。
今回も、それを期待した。自分はやれば出来ると言い聞かせた。今までに何度か無茶を押し通してきたのだから、今回もうまく行くはずだと。
うまく行った。
そして、本当にやりたかったことは、時間切れで終わってしまった。
そんな自嘲を、彼女は読み取ったらしい。
「シェガルのために一番一生懸命になってくれたの、あんたじゃない。やれるだけのことはやったじゃない。胸を張っていいはずでしょ。
ねえ、お願いだから、やるだけのことはやったんだって、これ以上はどうしようもなかったんだって、そう言ってよ。
本当に何もしてないのは家族のはずの私たちの方じゃない。私たちがやるべきだった事を肩代わりしてくれたあんたが、苦しさまで全部背負い込む必要はないでしょ」
「ああ、そうだよな」
でもよう、と続けようとした言葉を、飲み込んだ。
「あんたまでそんなんじゃ……」
彼女が、すすり泣いている。気の強い娘だから、そんな姿を見せることは、今まで数えるほどしかない。
彼女を見ないで済むように、そっと腕の中に抱き寄せた。
言いたいことは、わかる。弟の死も悲しくないわけがなかろうが、仕方ないと割り切ったのだろう。心の強い彼女なら、人前でいつも通りに振る舞うこともできる。
彼女の強さを崩してしまったのは、自分の腑抜けた態度だ。シェガルの死と、何も出来なかった自責で自分がめそめそしているから、彼女はそれが心配で、
決めた通りの割り切った自制ができないで、こんなところで泣くようなことになってしまったのだ。
だから彼女を見習って、心を強く保てばそれでいいのである。彼女の言う通り、自分はやれることをすべてやった。気に病むことはないのだ。
だが、本当にそうだろうか。実は全力など尽くさなくても、過程の何かが違えば、結末も違ったかもしれない。
無駄に頑張ったせいで、掴めるものも掴めなくなった可能性は、ないとは言えない。
自分では、ついに望むものに届かない。
無念、だ。
――
そして、眼下で、燃えていく。
ケイギアの猟師小屋も、ネネルの水車小屋も、体の小さなキリも、祖父の穴倉も。
なにもかも、燃えていく。
それを、あの大木の上から見下ろすしかなかった。
襲撃者たちには太刀打ちできないことは、すぐにわかった。村には、戦いを専門とする者はいないのだ。
かろうじて自分だけが、名ばかりの戦士をやっている。だから、敵わなくとも戦うつもりだった。
落とさないようにしっかり抱えた物を見る。今年の精霊番だった祖父が、自分に託した物だ。
捨て鉢で戦おうとする自分を呼び止め、祖父は精霊番が守っている氏族の宝、精霊の祭具を渡してきた。
そして、逃げろ、と言った。
名ばかりとはいえ、戦士は戦士であり、そのための訓練も積んできたつもりであった。ここで自分が戦わずにどうするのかと抗弁する自分を、祖父は真摯な眼差しで見た。
戦士であれば、戦える。なら、他の者より生き残れる可能性があるのだ、と。
一人でも生き延びることが出来れば、氏族は絶えない。その一人になれ、というのだ。
そうして、この大木の上にいる。
幼い頃からの付き合いである大木の、どこに座れば下から見えなくなるか、という位置取りは熟知していた。
自分だけ安全な場所で、家族のようにして育ってきた村の氏族の皆が踏みにじられていくのを、見ていることしか出来ない。
この時のために戦士になろうとしたのではなかったのか。
たとえ歯が立たなくとも、皆と一緒にいるべきではなかったのだろうか。
彼女の家から、よく見知った姿が引きずり出されてくる。
半数はその場で殺され、もう半数は執拗に殴られて抵抗しなくなったところで、引きずられて連れて行かれる。
その姿をじっと見ていた。
村の燃える熱気に灼かれて、涙も出なかった。
お前に精霊の加護のあらんことを、と祖父は言った。
だが、もうそんなものを信じる気にはなれない。
親しい家族が殺され、幼い頃から親しんだ人々が連れて行かれる姿を見せられて、何の加護を感じるのか。
精霊がいるのなら、理不尽に死ななければならなかった氏族の者たちには加護がなかったとでも言うのか。
祖父の言いつけでなければ、こんなかさばるだけの祭具は、すぐにでも投げ捨ててやりたいところだった。
燃えていく村の中で、飛び散る火の粉がなんでもないかのように闊歩する狼の姿があった。
その男の右腕には、体の半分を覆うほどの盾のついた巨大な円錐形の――
――
珍しく、ゼダに起こされた。
日が昇る頃に起きるレムより早いのは、普段から日が高くなるまで寝ているゼダにしては珍しいことである。
「どうしたんだ」
ゼダは、そわそわしながら声を潜めた。
「いつでも抜けられるように、荷物まとめておけ」
言葉を理解するのに、時間がかかった。それが何を意味しているのか頭の中でつながった瞬間、心臓が大きく跳ねた。
「いよいよか」
「まだやることはあるけど、今日で全部やっちまう。決行は今日の夜中だ。川を抜けていくから、水に濡れるのは覚悟しといてくれ」
「私にも手伝えるか」
「いや、お前はいつも通りしていてくれりゃあ、いい」
そう言ったゼダが、何かを思い当たったらしい顔つきになった。
「何かあるのか」
「ああ、今思いついた。実はよ、今日の分の塀の見張りを押し付けられちまってるんだ」
「それを私が代わればいいのか」
少し躊躇した。見張りの交代となれば、ゼダとは離れて一人で行動することになる。
何人かで一組だろうから、その間はモノマの男たちと一緒にいることにもなるだろう。まだ、武器がないことへの恐れは残っている。
「いや、俺がやる。ってのもな、塀の外には敵が近づいてきてもわかるような仕掛けがしてあるからよ、逃げる時にこれにかかると面倒だからな。見張りやってる間に、外して来ようと思ってんだ」
「ああ」
「だから悪いけど、今日の肥汲みはお前一人で行ってくれ」
やや拍子抜けした。それであれば、ゼダの手伝いでかなり元の通りに動けるようになっている。もし危惧したようなことがあっても、台車と肥桶があれば逃げるのもさほど難しくはないだろう。
「砦のも、桶入れ替えるだけでいいからな。桶の場所は見りゃすぐわかる。片付いたらさっさと引き上げろよ」
「大丈夫だ、ちゃんとできる」
なぜかゼダは不安そうである。確かに遠征から帰ってきてしばらくは酷い有様だったが、ゼダも少々心配性が過ぎるのではないだろうか。
思い返してみると、レム一人で肥汲みに出るのは初めてだった。
改めてやってみればなかなか力の要る作業で、しっかり抱えるとなると立ち上ってくる中身の臭いがまともに顔に当たる。
ゼダは、いつもこんなことをしていたのだ。
今になって、もう少ししっかり手伝えばよかったと、後悔に似た感情が湧き上がってくる。
ともあれ、そんな状態であるからレム一人でも、ゼダと一緒の時のように邪険に扱われるくらいであった。
「おい、ゼダの野郎はどうした」
砦の入り口の坂を見張っている狼が、じろりとレムを見る。
「周りの塀の見張りだって言ってたぞ。お前たちが押し付けたんじゃないのか」
「ちっ」
聞こえよがしに舌打ちをする。
「通っていいだろ。どいてくれ、台車が引けない」
半ば強引に、中身の詰まった桶を載せた台車を坂に押し込む。不快げに道を空けた見張り番の横を通り過ぎ、坂を登っていく。
「おい、お前本当にゼダの弟か」
「どういう意味だ」
「お前、メスの匂いがするんだよ」
台車の重さが、突然倍増した感じがした。体が固まってしまったようで、力が不自然な入り方をする。
「な、何を言ってる」
「図星かよ」
当たった事で逆に苛立ったように、見張り番は頭を振る。
「くそ、バルフィンの奴、何考えてやがる」
どうやら、メドウズのようなことを考えているわけではないようであった。少しだけ安堵したが、もし見張り番がこうなら、他の者にもばれている可能性がある。
「いつ気付いた」
「馬鹿にしてんのか。クソ臭えのが取れりゃすぐわかる」
ならば、この間バルフィンの狩りについていった時か。
「別に、いいだろ。女でも」
「小便くせえガキがほざきやがって。最初に捕まえた時にマダラなんて与太話聞かなきゃ、今頃クソガキどもの玩具になってるところだろうが。
バルフィンの腹がわかってりゃ、すぐにでもぶちのめして獣に食わせてやるところだ」
皮肉なもので、レムをこんな状況に押し込んだバルフィンの存在が、レムの身に手出しさせない唯一の要素になっているのだ。
だがそれも、気まぐれでいつ転ぶかもわからない、頼りない保障である。
「メドウズがどうなったか忘れるなよ」
「ケッ、あんな悪趣味と一緒にするんじゃねえ」
それ以上いても互いに気分が悪くなるばかりである。さっさと台車を引いて、砦の肥桶を集めた小屋に向かった。
小屋は相変わらず茂みに半ば隠れるように建っており、桶を交換して出てくる時は枝に引っ掛けて中身が跳ねないように気を使わなければならない。
ついでに、外でゼダを待っていると、交換には随分時間がかかるようなのである。
台車から空の桶を二つ抱え下ろして入り口に並べてから、小屋の中の様子を窺った。
まだ昼だというのに、中は奥が見えないくらい薄暗い。風通しがあるらしく、肥の臭いが篭っているかと覚悟していたが、むしろ他の便所よりましな程度である。
高台の部分を掘り下げてあるらしく、入り口からすぐに降りるような造りになっている。その分天井は低く、ゼダの言う通り狭いと思った。
しかし二人は入れないかというと、そうでもないような気もする。
とはいえ桶の入れ替えを手伝おうとすると、桶が壁につっかえそうな気配もあったので、一人でやったほうが手っ取り早いと思ったのかもしれない。
桶をひとつ取り出し、外の台車の傍に置く。肥桶の置いてある場所は、奥が石壁になっているらしく、つなぎ目の漆喰が薄ぼんやりと見える。
桶をもうひとつ取り出し、同じように外に置いて、空の桶を代わりに置こうとした。
足を踏み外した。
まさか、段差があるとは思いもよらなかった。咄嗟にバランスを取り直そうとしたが、嫌にぬかるんだ足元に踏みとどまれず、奥の石壁に肩から突っ込んだ。
体重を預けるつもりだった壁は、拍子抜けするくらいあっさりと崩れて抜けた。
体の側面を、散らばった石材にしたたかに打ち付ける。何個かの角があばらを叩く。棍で打たれるよりも、こういう不意打ちの方が余程痛い。
痛みと己の迂闊さにうんざりしつつ、もそもそと起き上がると、石壁の向こう側に空間があることに気がついた。
一人が通っても少し余裕があるくらいの、土を掘った抜け穴だった。
これは一体何なのだろうか。緊急時の出入り口にしては、モノマの者たちが嫌っている便所の肥置き場に通じているというのは不自然な気がした。
少し様子を見てみることにした。抜け穴に、息を潜めてそっと滑り込む。
抜け穴はきちんと施工された訳ではないようであった。
通路としての空間を支えるための樋も通っておらず、手作業らしい粗雑さが随所に見て取れたが、素人は素人なりに細心の注意を払いながら念入りに掘ったものらしいということが、なんとなく感じ取れた。
足音が立たないように、ゆっくりと進む。
幅の一定しない窮屈な通路がずっと続いており、外からの光が届かなくなったせいで暗闇の中を手探りで進まなければならないため、数歩の距離も随分遠く感じる。
距離感が狂い始めた頃に、壁に這わせた指先が固い感触にぶつかった。
爪をしたたかに打ち付けて、思わずうめきそうになるのを、どうにか飲み込む。
手のひらでその感触をなぞってみると、モノマで建物に使われている石材の手触りのようだった。どうやらここで行き止まりらしい。
少々残念な気持ちを持て余しながらまだ少し疼く指先で漆喰の線をなぞっていると、違和感に触れた。
壁の一部分が、押されてへこんだような気がする。石材のひとつを慎重に押してみると、小さく擦れる音を立てて石が押し込まれていった。
ごとりと、向こう側に落ちる。
まずいと思った時には、壁の向こうで誰かの気配が動いたところだった。
「誰?」
疲労の滲む女の声が、こもった臭気と共に流れてきた。
壁に開いた石材一個分の穴から、小さな照明の光が刺すように入り込んできている。
レムは、壁の他の部分が崩れないように、通路の土の壁に背中を押し付けて光を避けた。
ほんの僅かな光でも目に痛い。顔を見られる前に、素早く穴を抜けてしまわなければならない。
モノマの男たちに伝われば、何があるかわからない。今日ようやく脱出できるという時に、なんという不運だろうか。
通路が狭く、姿を見られないようにしているために、少しずつしか逃げられない。穴に明かりを差し込まれれば丸見えになる。
「待って、誰にも言わないから」
しかし、レムの危惧に関わらず、女は穴に向かってそう囁いただけだった。
「少しだけでいいから、話を聞かせて」
罠ということも十分有り得る。むしろこういう場合では、たとえ罠でなくともこのような危険な状況に長居するのは避けるべきであった。
だが、レムはその言葉に足を止めた。
モノマの集落で会った、ゼダ以外のまともそうな相手だったからかもしれないし、女の口調が今のレムの心情とよく似ていたように感じたからかもしれない。
暗がりから現れた、どんな者かもわからない相手にこうやって声をかけること自体、普通ならまずない。
彼女の声には、得体の知れない侵入者に対して、期待めいたものが滲んでいた。
レムは、足を止めた。
じっと様子を窺う。
「ね、あなたはどこから来たの? ずっとここにいたわけじゃないんでしょう? ここに来たのはたまたま?」
罠にかけようという気配は感じられなかった。レムが応えないのを見て、向こうの女は気まずい空気を破ろうと、声を励まして話しかけ続けてくる。
「あ、ごめんね、質問ばかりしちゃって。私は知っている? ……わけないよね。もう随分長いこと、外に出ていないから。これでも最初の方は外に出してもらえたりしていたんだけどね。
いつの頃からか、ここから出してもらえなくて。もうすっかり痩せちゃった。見てよ、あばらもこんなに浮いちゃって。腕だって骨ばかりでしょ? って、見えるわけないか。
バルフィンも、にやにや見てるだけでもう抱こうとしないしね。ちょっと傷つくかな……。子供たちもどうしているか、全然教えてくれないし。私の子なんだから、私が育てなきゃ駄目よね。ねえ?」
言葉が続くにつれて、レムはなんだか恐ろしくなってきた。この女はどうして、誰かもわからず、そしておそらく姿も見えていないであろうレムにここまで話ができるのだろう。
彼女の語っていることと、部屋からもれ出てくる半ば腐敗臭に近い臭気は、どう考えても悲惨であるにもかかわらず、彼女の口調は友人との語らいに興奮しているかのようである。
避けるのが一番いい。女が喋るのに一生懸命でこちらが見えていない隙に、このまま立ち去ってしまうのが一番いい。
その考えが頭をちらりと掠めた瞬間、女が刺すように言った。
「誰か呼ぶわよ」
厄介な相手に、捕まってしまった。
「ねえ、そろそろあなたの話も聞きたいな。そうね、まずは名前からかしら。どこかで会っているかもね? 名前って大事よね。誰だかわかるもの。
かなり前に、バルフィンの手下によってたかって犯されたけど、誰も名前を教えてくれなかったな。私が知ってるのは、バルフィンだけ。
だからあなたの名前も教えてくれれば、とても嬉しいのよ」
話を振られたが、レムは応えずにじっとしていた。この女は、危険だ。外にいた、モノマに馴染んでしまった居丈高な女の方が、次の手が読める分、まだなんとかなる。
女は、レムの胸中をよそに、一人で喋り続けている。
「名前といえば、私も子供の名前は結構考えたのよ。最初の何人かは、頭の中がいっぱいで考えてあげられなかったけど、すぐ連れて行かれちゃったし。
いい名前をつけてもらっているといいのだけどね。男の子なら、ザとかダとか強そうな音の入った名前がいいって言うしね」
ふと、女の興奮が落ち着いたのを感じた。
「あなた、名前はなんていうの?」
再び、刺すような声が飛んでくる。もう一人で喋り続けるのは飽きたのだろうか。反応がなさ過ぎて苛立ってきたのかもしれない。
「言いなさいよ、話をしてよ。誰か呼ぶわよ」
メドウズに脅された時を思い出した。
あの時はレムもぎりぎりの状況だった。だが、今回は違う。
うまく切り抜ければ、レムたちがモノマの集落から脱出するまではばれない可能性すらある。
それに、この程度のことで殺してしまうのは、いくらなんでも乱暴すぎるし、そのためには武器が要る。そして、壁を崩して女に迫らなければならない。。
レムの打てる手段は自動的に、ここで逃げて人を呼ばれるか、大人しく女の話に付き合うかのどちらかになる。
仕方なく話に乗ることにした。
「シェガル」
喋ることはなるべく最小限にしようと思いながら、ゼダにもらった偽名を口にした瞬間、時間が凍りついた。
不気味なほどの沈黙が流れてきた。部屋から漂う臭気が、死臭に感じられた。
壁の向こうで女が、何とも表現しがたい、引きつった悲鳴をあげた。
「……で」
声が震えていた。
「なんで!? どうして!? なんで今なの!? 私を……!? だって仕方ないじゃない、他にどうすればよかったのよ!」
追い詰められた者が、死に物狂いで抵抗する様に似ていた。身悶えするような物音が壁の向こうから聞こえてきて、あちらに落とした石材が動く音がする。
「だって……どうしようもなかったじゃない……私が、最後の一人なのかもしれないのに……」
絞るような声の奥で、涙が滲んでいた。
レムは、胸の氷を思い出していた。今もまだ欠片が心の中に残っている。自分がどうすることもできないという恐怖が、冷たく重い何かになって心にのしかかるのである。
彼女は、それに押し潰されたのだ。押し潰されて、死ぬこともできず、こうして死体置き場のような地下に押し込められたまま、飾られている。
彼女はさっき、バルフィンと言っていた。この部屋も、バルフィンの部屋にかかっている首のように、あの男の勲章なのだ。
はっと彼女が息を呑むのが聞こえた。先程まで女の言葉に感じていた危うさが、消えていた。
「逃げなさい、誰か来た!」
弱々しく、低く抑えられているが、元は張りのある声だったのだろうと想像させる、意志ある声だった。
彼女が言うか言わないかのうちに、誰かが近づいてくる気配が部屋を通した向こう側から、レムの方にもおぼろげに伝わってきた。
こうしてはいられない。許可もなく砦の中を見られる場所にいれば、どんな言いがかりを付けられるかわかったものではない。
それに、状況からしてここはバルフィンの領域だ。言い訳は通用しない。
すぐに通路を戻ろうとした時、壁の向こうの女が小さく尋ねてきた。
「ねえ、あなたにその名前をつけた人は、まだ生きている?」
「ああ」
「そう」
安堵の声に、もはや届かない過去の思い出を遠く望むような、諦念が混じっていた。
「もし、その名前をつけたのがあなたの親じゃなかったら、その人に……」
言って、押し黙った。誰かが駆けつけてくる気配は、少しずつ大きくなってきている。
「何も、伝えないで」
喉をかきむしるかのように、聞き取り損ねそうなくらい小さく、女が唸った。
「ゼダだ、ゼダって言うんだ。私にシェガルと名づけたのは」
早口で投げつけるように言った。その瞬間、穴を通して女と目が合った。
何色かもわからない瞳に落胆と絶望を宿して、死体置き場の女は目を伏せた。
「知らない……人違いだった」
目の前で、穴に石材が嵌め込まれた。
小屋でゼダを待つ間、ずっとあの女のことを考えていた。
シェガルという名前に過敏に反応したが、ゼダと何か関係があるのだろうか。
ゼダがでまかせで適当に名前をつけたのが、たまたま彼女の親しい誰か、それも心の平衡を一時なりとも取り戻させるくらい深い関係の誰かと同じだった可能性もある。
ゼダは、何か目的があってモノマに来たと言っていた。
もし彼女がゼダを知っている者で、ゼダが彼女を助けに来たとすれば、話が一本につながる。
人違いというのも「ゼダ」が偽名だとすれば、説明がつく。こんなところに忍び込んでくるなら、名前くらいは変えていてもおかしくない。
ならば、レムも手伝いに行くべきではないだろうか。人数が多ければ、いざという時に対処しやすい。
しかし、本当にそうだろうか。武器がなければ何もできないレムがついていったところで、いざモノマの狼にばれれば、ゼダは助けた彼女とレムと、両方を救おうとする。
そこでゼダが犠牲になってしまったら、自分はどうすればいいのだろうか。
それにしても、当のゼダの帰りが遅かった。とっくに日が落ちてしまっているというのに、まだ戻ってくる気配がない。
肥汲みはとっくに終わって、桶も洗い終えている。荷造りは肥汲みに出る前に、済ませてあった。レムの荷物が、小屋の薪山に隠れるように置いてある。
ゼダは、荷造りをした様子がない。そろそろ帰ってきたとしても、これから荷物の選別を始めると、夜中の間に女を助けて逃げ出すことはできるのだろうか。
集落から抜け出すだけでなく、日が昇る前に、できるだけ集落から離れなければならないのだ。
それからかなり後、もう空に星が輝く時間になってから、やっとゼダが帰ってきた。
「持ち場離れてたのがバレてよ、ボコボコにされちった」
苦笑しながら、そう言った。
「大丈夫なのか」
「いやまあ、何故かわからんがバルフィンが止めに来たから、そんなに酷くはないさ。んでその後よ、どういうわけか砦の掃除させられてな。それで時間食っちまった」
「そうか。無事ならよかった」
言って、ゼダを見る。
断崖城に連れて行くのが一番だが、昼夜兼行で進んでも最低三日はかかるだろう。友邦の輪の中に入れば多少は安全になるだろうが、逆にレムたちを庇った友邦がモノマに襲われる危険性すらある。
何か他の安全な手段があれば、断崖城から離れることになっても、そっちを取るべきだろう。
とりあえず、ゼダが彼女を助け出してくるのであれば、まるきり動けない者を一人抱えることになる。
「そうだ、ゼダ」
「うん?」
女のことを確認しておくべきだと思ったが、言い出したところで何をどう話すべきか、まったく手がかりがないことに気がついた。
女の顔も姿も、名前も知らないのだ。そもそも、その可能性があるというだけで、ゼダと関わりがあるかどうかの確証もない。
今朝方から浮き足立っているゼダは、声をかけたきり何とも言い出さないレムを、怪訝そうに眺めている。
それに、あの時の何も伝えないでと言った女の声が、耳にはっきりと残っている。
「いや、すまない。無事に逃げられたら、話す」
そうは言ったが、ゼダがうまくやってくれば話す必要もないだろう。
それよりも、ただでさえ緊張しているゼダに余計な質問を投げかけて、動揺させてしまうほうが危険な気もした。
「なんだかよくわからないが、わかったよ。それじゃあ、いよいよだけど、準備はいいか」
「ああ。でも、ゼダの準備はいいのか」
「俺は」
そう言って、部屋の片隅に固めてある雑貨に向かった。
膨れ上がったポーチやポケットがいくつもついたベルトを肩にかけ、体中に巻いていく。
「これでいい。大荷物背負ってたら、動きづらいからな」
ゼダは、抜け出す前にやることがあるのだ。あの狭い通路を抜けるのであれば、確かにベルトでさえ邪魔なくらいだ。
石斧は特に荷から出されるわけでもなく、袋から柄を突き出させている。せっかくの武器なのに、持って行かないのだろうか。
「石斧はどうするんだ」
「あ、ああ。あれは……持って行くさ。一度ここに取りに戻って来る」
何か歯切れの悪さを感じたが、ゼダがレムにすまなそうな目を向けたのを見て、大体察した。
レムが持てば、少なくともレムは多少の追っ手なら追い払えるようになる。それをわかっていて渡さないことに、後ろめたさを覚えているのだろう。
「それじゃ、確認するぞ。俺が出かけたら、お前は周りの様子を見ながら先に脱出する。経路は川底の柵の切れ目だ。無事に抜けられたら川に沿って進め。
俺を待つ必要はないぞ、安全なところまで一気に行け。俺も俺のペースで追いつけるように努力する」
「私は待つぞ。ばらばらに行ったら、捕まった時にどうしようもない」
嘘をついた。戦力にならない者ばかりであれば、固まって行動すれば一網打尽にされる恐れがある。
となるとむしろ別行動を取った方が生き延びられる可能性は上がる。それを承知で、レムはそう主張した。
ゼダと離れているのが不安だった。
「わがままを言うなって」
不満そうな顔を見せたが、ゼダはそれ以上強いて何か言うわけでもなかった。
「じゃあ、そろそろだな。いいか、まず自分の身の安全を第一に考えろよ」
「ゼダ」
「まだ何かあるのか」
再三呼び止められて、かすかに苛立ちを漂わせたゼダが振り向く。
申し訳ない気持ちもあったが、思いついたことを言っておきたかった。
「外に出たら、船を作って川を下ろう。バルフィンも思いつかないような遠くへ、ずっと流れていこう」
「……それじゃあ、海に出ちまうな」
「見たことがないんだ。一度、行ってみるのもいいかもしれない」
ふっ、とゼダが表情を緩めた。
「行ってくるぜ。先に抜けておくんだぞ」
「ここで待ってるからな。うまくやれよ」
笑い交わして、ゼダは星空の下へ出て行った。
残されたレムは、体に心地よい緊張が走るのを感じていた。
これからが勝負だ。この脱出がうまく行ったら、ゼダが今までレムに骨を折ってきた分、今度はこちらから色々手伝ってやろうと思った。
※
夜の闇に紛れるのは慣れたものだった。
モノマ氏族たちは、辺り構わず煌々と明かりを焚いているが、その明かりが作り出す色濃い陰影については無頓着である。
集落の中で注意を払わなければならない相手に出会うかもしれないとは、誰も思っていないのだろう。彼らが警戒するのは、財産を横取りに来たこそ泥だけである。
だから、誰かの住居に侵入しづらい箇所を選んで、気配を殺しながら進めば、拍子抜けするほど簡単に砦にたどり着ける。
ベルトから肉の切り分けに使っていた小さなナイフを取り出し、高台の壁面に足をかけられるほどの切れ目を掘りこんでいく。
切れ目に足をかけ、素早く登った。見張りにも気付かれている気配はない。
これくらいの時間であればモノマの狼たちが馬鹿騒ぎしている音が聞こえてくるようなものなのだが、感覚が鋭敏になっているのか、どう動いても物音が響くようである。
見知った低木の陰を抜け、共用便所の肥置き場に辿りついた。
中に入り、肥桶の向こうの石壁を、音を立てないように慎重に崩して、中の通路に身を滑らせる。
相手がモノマ氏族だと知るまでに、四年かかった。
一度は、すべて忘れて別天地で再起を図ろうと、本気で考えていた。
そのために、他の氏族に入れてもらい、彼らから信用も得て、そろそろ氏族再興のために娘を一人くれないかと切り出そうと思っていた。
モノマ氏族に入るまでに、一年かけた。
まるきりの野盗の群れに入って、無事に過ごすためにどうすればいいかを、必死になって考えた。
自分を受け入れてくれた氏族には、何人か引き止めてくれる者もいた。マヌケでイマイチダメな奴だが、もうお前も仲間の一員だと。
彼らの言うとおり、そのままの生活を続けていれば、何も苦しむことはなかった。
でも、もしかしたら氏族の生き残りが捕らわれているかもしれないと知って、自分だけ何もせず幸福でいるなど、我慢できなかった。
氏族の者がどこにいるか探り出すまでに、二年かかった。
いなければさっさと脱走してしまおう、と何度も思った。
優柔不断な態度からモノマの中では虐げられ、しかもどうやら脱走も難しそうだと気付きながら、それでも未練がましく駆け回った。
連れて行かれた者はもうほとんど残っていなかった。かろうじて一人生き延びていると知った時は、叫び出しそうになった。
手探りで、真っ暗な土の中を進む。
この通路を掘るまでに、一年かかった。
作業自体は難しくはなかった。他の者がやろうとしない仕事は、逆に言えば担当する者の独壇場である。
掘る事自体は金属片でも陶片でも何とかなった。土は肥桶に入れれば、誰も改める者はいない。
小屋に誰も長居をしようとしていないと気付いた時から、作業は大胆になり、その分だけ早く進んだ。
奥の壁に、手が触れた。
石のひとつを選んでその両側の石を落ちない程度に押し、浮き上がった石をそっと引き抜く。
この壁を切る作業に、最も時間がかかった。
中の者に気付かれないように、苦心した。知っているのが自分だけなら、情報が漏れる心配もない。
それに、途中で自分が失敗すれば、中の者に与えた希望の分だけ、失望を味わわせることになる。
音を立てないように慎重に、気が遠くなるくらいの遅い動きで、ゆっくりと漆喰を切り続け、どうにか自分が通れるくらいの大きさを開いたのが、この間だった。
氏族再興の悲願を賭けた、一世一代の大博打である。
モノマの狼たちの話をかき集めて、自分の幼馴染が幽閉されているのはここだと、ほぼ確信していた。自分のこうした判断は、非常によく当たる。
氏族の皆もそうだったが、自分は特に優れていると、一度だけ言われたことがある。
音もなく壁を開く。その向こうは、暗闇だった。
死体置き場のような臭気がした。排泄物の臭いに慣れた鼻にも、不快感を催させた。
中に、誰かいるはずだ。だが、気配が読めない。誰もいないような気もするが、大勢がいるような気もした。あるいは、中には既に大量の屍しかないのかもしれない。
声に出して呼ぶわけにはいかなかった。外には見張りがいてもおかしくない。見つかれば、すべて終わりだ。
暗闇の中を手探りで、捕らわれていた者を探そうとして、勘が「これ以上進むな」と警告した。
このまま引き返して、さっさと逃げるべきだ。
シェガルと名づけた女の子は、どうせ小屋で待っているだろう。石斧も、一緒に置いてある。それらをすべて捨てて、身一つでこのまま逃げなければいけない。
自分の命が惜しければ。
だが、ここで命を惜しんで逃げるようであれば、そもそもこんなところに来はしなかった。
ここまで来たのであれば、もう進む以外の選択肢は有り得なかった。
一歩、死臭のする部屋に踏み出す。
垢じみた石壁に手を触れながら、慎重に足を進める。床に擦るように、しかし足音を立てないように進むのは非常に骨が折れた。
爪先が何かを蹴倒した。
何かが倒れる乾いた音が、散らばるように部屋に響き渡る。それさえ、澱んだ空気のせいで湿った印象であった。
不意に明かりが灯された。
暗闇に慣れていた眼を明かりに突き刺され、咄嗟に体を丸める。すぐには、何が起こったのかわからなかった。
「よう、随分待たせたじゃねえか」
バルフィンだ。体の中身を全部くり抜かれたような感覚が、まともな思考をすべて覆いつくしてしまった。
反射的に、来た道を戻って逃げ出そうとしていた。何もかも、失敗だ。
「よう、ちょっと待てよ。俺を探していたんじゃねえのか」
侮るようなバルフィンの声に、女のうめき声がまとわりついている。
穴に戻るのに一瞬手間取ったところを、掴まれて部屋の真中へ投げ出された。
バルフィン以外にも、何人かいる。部屋中を囲むように、バルフィンの手下たちが立っている。
やっと目が光に慣れてきた。
「ば、バルフィン」
手下の中に、バンミーとエデックがいる。厳しい顔つきでこちらを睨みつけている者と、これからの制裁を考えてにやついている者と、半々である。
「その、俺は」
「ようやく、尻尾を出したな」
バルフィンが、心底嬉しそうに言った。
「よう、まあ聞けよ。前からずゥッと変だと思ってたんだよ。おめえみてえな日和った奴が、俺たちの仲間に入りてえなんて言うのがよ。
だから何かあんじゃねえかなって、待ってたわけだ。おめえが言い訳のできねえ状況まで動いてくるのをよ」
バルフィンは、言い訳が筋が通るかどうかなどを気にする男ではない。
こちらの十年越しの賭けが、あと一歩で成功するというところまで来る瞬間を待っていたのだ。
ならば、この努力は、最初から失敗することが決まっていた。
こちらの顔を見て、バルフィンが笑っている。嘲笑でも憫笑でもない、心の底からの喜悦である。
「おめえの狙いは、このバルフィンの首だな」
何も持っていない方の親指で、ぐいと自分の喉元を指さした。
「どこの奴だか知らねえが、ブッ潰した氏族の生き残りだろ。そんで、女と組んで俺の寝首を掻きに来た。大方、そんなところだな。
弟とか言ってたか? 男だか女だか、そもそも血がつながってるかどうかもどうでもいいか。あいつを助太刀に呼んだのが失敗だったな。お陰で、おめえがこんな道作ってたのがわかったぜ」
手柄を自慢するように、バルフィンは独りで語り続けている。
「よう、女が心配か? いい女だぜ、長く遊べたよ」
下げていた腕を、ぐいと持ち上げる。
最初に聞こえてきていた女のうめき声が、また聞こえた。
「まあ、もう半分腐ってるようなモンだがな。小汚くなって抱く気にならなくなった後も、見世物としちゃ退屈しなかったぜ」
耳がなかった。鼻は執拗に拳を打ちつけられたかのように曲がり、顎は砕けてだらしなく開いて涎を垂れ流している。空洞の両目から流れる血が、赤い涙のようだった。
言葉にならない声を垂れ流し続けている。
痩せ衰えて、肌ががさがさになった体は骨と皮ばかりになって、かすかに死臭を放っていた。
「おっと、勘違いすんなよ。これはおめえと一緒になって俺を嵌めようとした罰だからな……そうそう、こいつガキが五人いるんだぜ。
俺のガキが三人で、あとの二人はわからねえ。生まれてすぐ死んだのも、何人いたかな。女が生まれたら絞め殺してるんだぜ、こいつ。罪深えよなあ。なあ?」
バルフィンが何か言っているが、もうあまり聞いていなかった。
見る影もなく変わり果てていたとしても、彼女は生きていた。
自分の読みは、当たっていた。
彼女が何か言っている。顎が砕けているだけではなく、舌も切られているようだった。
目も潰されているのに、こちらに向かって何かを語りかけようとしている。
それで十分だ、と思った。
「ごめんよ、遅くなったけど、迎えに来た」
「あ?」
「やっぱりよ、俺は一人じゃ駄目なんだ。いつもお前に尻叩いてもらってさ。だから一人で放り出されて、大変なことも沢山あったけど、なんとかここまで来られたよ」
「何言ってんだ、テメエ」
「よう、黙ってろ」
凄んだ手下の鼻面を、バルフィンの腕が叩き潰す。
その光景にも心は動かなかった。彼女に会えたことで、感情の津波が胸をいっぱいにしてしまっている。
本当の勝負は、まだ、ここからなのに。わかっていても、もう心が抑えきれなかった。
「あのよ、一人手伝ってくれた子がいるんだ。名前は知らない。捕まりそうだったからさ、弟だっつって、助けたんだ。
とっさのことだったから、シェガルの名前を使わせてるけど……後で会わせるよ。ちょっと生意気だけど、まっすぐで、いい子なんだ」
今言うべきことではないのはわかっているが、言葉が止まらなかった。こちらを取り巻く手下たちが、薄気味悪そうな顔で見ているのを感じる。
先程まで楽しそうだったバルフィンの表情が、興醒めに変わっていた。
「もういいか。おめえ、もう死ね」
バルフィンが、腰の剣を抜いた。シェガルから奪い取った蛮刀だった。
これで終わりだな、と思った。むしろ、これで終わりで良いと思った。自分が推測したとおり彼女がいて、生きている間に間に合った。それだけで良かった。
バルフィンの太い腕が、ゆっくりと蛮刀を振り下ろすのを、真っ白い気持ちで見ていた。
そして、刃は自分には届かなかった。
どこにそんな力があったのか、バルフィンの腕を振りほどいて、彼女が自分にしがみついてきていた。刃は、その背にめり込んだ。
背骨が折れる音と、鉄剣が折れる音は、あまり違いはなかった。
「ちっ、なんだこの剣は」
無理な力のかけ方のせいで根元からへし折れた剣を、バルフィンは忌々しそうに投げ捨てる。
こちらに寄りかかるように崩れ落ちていく彼女に、そっと腕を回した。耳のちぎれた後も痛々しい頭を、胸に抱く。
最後の最後で、活を入れられた。
こんなところで一人だけ幸せに死ぬな、と、そう叱られた気分だった。
頭の中で、いつもの自分が恐慌状態になっている裏で、もう一人の自分が悪魔のように冷静に計算していた。
生きている限り、氏族の再興の希望は諦めてはいけない。そして、今自分がここで死ねば、小屋で待っているかもしれないシェガルの行く末はどうなるのか。
そう、彼女が好きだと言ってくれたのは、どんなに無理な状況でもがむしゃらに突っ走る、弱虫ながらも村で一番勇敢な男ではなかったか。
「ッたく、最後まで白けさせてくれるじゃねえか」
すっかり不機嫌になったバルフィンが、憎らしげに睨み付けてくる。逃げ出そうにも、周囲はもうバルフィンの手下が固めていた。
「おい、シェガルをとっ捕まえてこい。先に集落の囲いと川を固めろ。もう小屋になんざいねえだろ、袋の口を締めるように行け。手足の二、三本はぶち折って構わねえぞ」
バルフィンに命じられて、何人かが部屋から出て行く。シェガルが言われたとおりさっさと逃げていれば、あの追っ手は空振りに終わる。
だがシェガルは逃げていないだろう。一緒に逃げると約束をしたのだ。川を下って海へ出ようと、夢のようなことまで話をした。
死ぬわけには行かない。
「年貢の納め時だな、ゼダァ!」
エデックが喚きながら打ちかかってくる。
※
小屋の中で、じっと待っていた。
荷造りは万全で、あとはゼダが帰ってくるのを待つばかりである。
やはり武器がないのは不安であった。ゼダには悪いと思ったが、持って行かないと行っていた荷をほどいて、石斧を取り出した。
「なんだ、これ」
思わず声に出た。
さほどの厚さもない細長い板状の石が、渦を描くように巻き込まれており、それを柄が一直線に貫いているだけの、とても斧とは言えない代物だった。
精錬された鉄に対抗できる素材とはとても思えない。どころかこの造りでは、全力で叩きつけると斧頭部分が自壊してしまいかねない。
そればかりか、斧の威力に必要な重量も、たいしたことはなかった。
これは武器ではない。むしろ、祭具だ。
人を助けに来るのに、わざわざ祭具を持ち出す必要はないはずだ。
考えられるのは二つの場合である。ひとつは、氏族の宝を差し出して仲間入りを認めてもらう場合である。
何かが小屋の扉にぶつかる音がした。
全身の肌があわ立つ。ゼダが帰ってきたか。もしそうであれば、何か一言あってもいいはずである。
モノマの狼なら、こんな荷造りしている言い訳はどうしたらいいだろう。
石斧を握る手に力が篭った。いざとなれば、また殺らねばならない。
扉が大きく軋みながら開いた。
星明りに照らされて光る姿を見た時は、死人が動いているのかと思った。
「ゼダ!」
「ああ……やっぱり、まだ、いたのか……」
「いるさ、一緒に行こうって言ったじゃないか」
体を引きずるように中に入ってくるゼダを抱き止めて、その体が水浸しであることに気がついた。
すっかり冷え切っている。
「川を泳いできたのか」
「悪い、ヘマした……追っ手が、もう、塀も川も囲んでる……」
苦しげに言って、ゼダは床に崩れ落ちた。倒れこもうとするのを、支えて座る姿勢にさせる。
「それなら一緒に逃げよう。二人なら、なんとかなるはずだ。武器があれば私も戦える」
「いや、お前だけで、逃げろ」
「何を」
「俺は、もう駄目だ」
そう言ったゼダは、少し首を傾けてレムに目を向けた。その動作さえつらそうだった。
「俺の氏族は、バルフィンに潰されてな……俺だけ、逃げたんだ……それがずっと心につかえてて、助けに来てさ……。
あと一歩で、助けられるところだったのに、ドジ踏んでよ、バレちまって……なんとか逃げたけど、もう駄目だ……ハハ、腹やられてんのに、泳ぐもんじゃねえな……」
「おい、ゼダ」
「なあ、ひとつだけ、頼みがあるんだ。俺のその石斧……俺の氏族の、精霊様の止まり木なんだ……俺が死んだら、もう、祭る奴が、誰もいなくなる。
でも、俺とちょっとの間だけ義理で兄弟やっててくれたお前なら、精霊様も、勘弁してくれると思うんだ……だから」
「言うな、自分でやればいいだろう!」
「だから、その止まり木をよ、天と地に、返してやってくれ……精霊様が、我を失って迷っちまわないように」
「やらないからな、絶対にやらないからな! 自分でやれ、私はそこまで面倒を見ないぞ!」
ゼダは、弱々しく笑った。
胸が抉られる気分だった。
「そう、だな。お前は、元々、関係ない、もんな。悪いな、巻き込んじまって。すまねえ、な。無事に逃げられ、たら、ここのことは、全部、忘れちまえ」
「いい加減にしろ、誰が忘れるか! 一緒に逃げるんだろ!」
「へへ……残念だけど、俺は、ゼダ、なんて、名前じゃ、ねえ。お前は、もう、無関係だ。兄弟でも、何でも、ねえ、から、な」
「この、何でだ」
なぜ、そんなに悪戯がうまくいったような顔をするのだろうか。
目の前がぼやけて、よく見えない。
「ああ……」
目を閉じたようだった。腹の底からの息をひとつ、大きく吐き出す。
「あと、一歩だったのになあ……すまねえな、みんな……俺の、わがままで、よ……氏族……」
「おい、ゼダ! 目を開けろ、寝るなよ! 起こすの大変なんだからな!」
「すまねえ、な、シェガル……姉ちゃん、助けられなかった……」
もう、ゼダはこちらを見ていなかった。
いくら激しく揺さぶっても、ろくな反応を見せない。
「やっぱり、駄目だな、俺は……何やっても、一番大事なものが、すり抜けて行っちまう……ま、やるだけ、やった、よな……でもよ……」
元々、ここに辿りついた時点で、既に限界だったのだろう。この名も知らぬ狼は、最後にレムと話をするためだけに戻って来たのだ。
そして、もはや尽き果てた命の最後の一滴を絞るように、呟いた。
「ああ……無念だ……」
腕の中から、ゼダが消えたのを感じた。
しばらく何が起こったのかわからなかった。反応のなくなった男の体を抱いて、しきりに揺さぶって起こそうとしているばかりだった。
やがてその動作にも疲れ、それがまったく無意味だということに考えが及んだ瞬間、レムの中にあった何かが消えた。
「しっかりしろよ、おい」
頬を張り付ける。最近は、これで起きるようになってきたから、起こすのも楽になっていた。
「いい加減にしろ。怒るぞ」
普段は蹴り飛ばしていたが、今は膝の上に乗せている。腿を拳で叩く。足が痛いとぼやくので、しばらく使っていたやり方だ。
「起きろよ、おい! 私を置いていくのか!」
両手をそろえて、腕を動かさずに脇腹に掌打を打ち込む。
どれも、効き目はなかった。
残ったのは、圧倒的な喪失感ばかりだった。
最後に彼が呼んだシェガルという名は、レムではないだろう。レムにつける名の元となった、彼の知る誰かだ。
もう、この天と地のどこにも、ゼダという存在はいなくなってしまった。
ただ、寒かった。
これからどうするかも、何も考え付かなかった。
ゼダが消えた後の心の隙間は、大きく膨れ上がったいつかの氷が埋めていた。
"無念"
誰かが、呟いた。
レムは反射的に腕の中を見た。だが、そこには名も知らぬ狼が眠るばかりで、何もない。
"無念……嗚呼、無念……"
別の何かである。何かが、哭いている。
狼の発する声ではない。そもそも、声ですらなかった。魂に直接訴えかける、底知れぬ深みを感じさせる意志の揺らぎが、己の存在を打ち震わせながら哭いている。
音ではなく、どちらから聞こえるか見当をつけることはできなかったが、ひとつだけ心当たりを見つけた。
「お前か、石斧」
精霊の力は、氏族の力だ。氏族最後の一人が死んだ今、ただひとつ残った祭具にすべての力が集まるということもあり得なくはない。
少しだけ嬉しくなった。同じ者の死を悼む者が、ここにもいる。
レムに認識されたことで、石斧が脈動を始めたような気がした。
「聞いたよ、精霊なんだろ。お前を精霊返しするように、頼まれてる」
そう自分で言ったのを聞いて、レムは自分の役割を思い出した。感傷に浸るよりもまず、やるべきことがある。
"否や"
だが、石斧は即座に拒絶した。
"いかな霊地に祭らるるとも、いかな聖者に慰めらるとも、我が恨み癒えることなし"
既に、邪霊化の兆候があるのだろうか。だが、この精霊の訥々とした語り口ながら、全身で感情を示すような存在の感覚に、邪なものは感じられない。
"モノマへの怒りのみにあらず。モノマの者の暴虐よりも、終に我が氏族を守れなんだ、我が無力を恨むなり。
異族の戦士よ、汝を心美しき者と信じ、恥を忍びて冀(こいねが)う。我が恨み、晴らさせ給え。我が氏族が無為に滅びたるにあらざる証、打ちたてさせ給え"
トヲリもタワウレも、精霊は皆、人間的な感情を持っていた。この名も知らぬ義兄の名も知らぬ精霊も、やはりそうなのだろう。
石斧と話している間に、自分の頭の整理がついてきた。今は、絶体絶命の状況なのだ。
モノマの狼たちに、塀と川に張り込まれたなら、素手のレムにはどう頑張っても逃げられる可能性はない。
"汝の命危うきに至りて、汝我を打ち捨て逃げ走ろうと、我は汝を恨みに思わず。異族の戦士よ、重ねて願う。我が望み、叶え給え"
「でも、私は何もできないぞ。ここから生きて出られるかもわからないんだ」
"なれば我が依り代を振るえ。我が依り代は止まり木なれど、斧を模したるなり。我が力注がば、人の手によりたるなど物の数に非ず"
レムは、躊躇った。この精霊の心はわかったが、何をすればいいのかがわからない。自分にできることでなければ、断って石斧を運び出す方がいいはずだ。
ただ、それさえもできるかどうか、確証がなかった。
"我が挙に義無きは悉皆承知。なれど我、暴に走れりと謗らるるより、何もせぬまま亡ぶるを恐るるなり。異族の戦士よ。どうか我が願い、聞き届け給え"
その間にも、精霊は切々と哀調を滲ませながら、レムに頼み続けている。
どうしようもなくなって、尋ねた。
「どうすればいい」
"アラバの地を滅ぼし、アラバの民を戮したる首魁を討つ。我が氏族の滅びたるに報い得るは、もはやただそれのみ"
バノンが言っていた。アラバ氏族は信用できる連中だと。
もう死んでしまった義兄が言っていた。アラバ氏族は、十年前に滅んだと。
それならば、自分はあの時、どこへ行こうと言ったのか。最後の生き残りに向かって、既に滅んだ彼の故郷へ行こうと言ったのか。
胸が痛い。あの時、義兄はどんな顔をしていたか。
「わかった。引き受けよう」
もはや、断るなど考え付かなかった。
言い訳を考えるなら、包囲されている状態で、荷物を抱えて突破するよりも、精霊の加護を受けて敵の首領を討ち、混乱に乗じる方が可能性がある。
精霊の助けを借りれば、バルフィンが討てるか。
やるしかない。
覚悟を決めた瞬間、石斧から力が溢れ出す感触が、手のひらを伝わってくる。
力が光の粉のように飛び散る光景さえ見えた。
歓喜と、感謝だ。この精霊は、まだ堕ちていない。悲しいくらい不器用な、一個の魂だ。
"なれば告げよ、汝が血を、真の名を! 我が力の及ぶ限り、汝が何処にあろうとも我が祝福を持って援けん!"
呼び声に応じるように、石斧を掲げた。腹に力を込め、ふとゼリエと修練した謡を思い出した。
「私はコーネリアスの"岩に咲く白"。お前の頼み、私が引き受ける」
自然とあの時修練した発声になった。言葉が、精霊アラバの呼び声と同じように、存在を震わせ、魂に訴えかける。
それは精霊に届いた。
意識ががっちりと噛み合うのを感じる。同時に、精霊からの応答が来る。
"我は石……星の石! 細き光にて闇を切り裂き夜を導く天の灯! 精霊アラバが最期の道行き、汝が腕に託したり!"
瞬間、世界が開けた。
火などなくても、暗がりの様子がわかる。それどころか、小屋の外がどうなっているかまで、五感以外の何かがはっきりと把握するようになっていた。
神経が焼け付くように熱い。だが、苦しくはなかった。何が起こったのか不思議にも思わなかった。これが星の石のアラバの祝福であると、直感的に悟っていた。
"目は見るのみに非ず、耳は聞くのみに非ず、鼻は嗅ぐのみに非ず、舌は味わうのみに非ず、肌は触れるのみに非ず。岩に咲く白よ、知る術は五つのみに非ず。
汝が行く道に、我が力を持って光明を掲げん"
そっと、膝の上の男を横たえた。今までで一番寝相がいい。
もう、いくら起こしても起きない。
アラバによって過剰拡張された感覚系が、それがもうただのモノになったことを確信している。
「礼なら、こいつに言ってやってくれ」
"然り"
アラバが、そちらに意識を向けているのを感じる。レムが、何か言って欲しがっているのを感じたのか、アラバの意識が頭に流れ込んでくる。
"無為に非ず。この者微力不運なれど、為し得ぬを幾度も為し得たり。智と勇にて生を全うせる者、我が氏族の誇りとすべきなり"
それで、満足した。
レムはまだ火の消えきっていなかった囲炉裏に手を突っ込み、赤く燃える薪を掴み出した。
石斧と火のついた薪を持って、裏口に積み上げてある薪の前に立つ。
「じゃあな、ゼダ」
薪を、放り投げた。
「もう起こさないからな」
川辺の風でやや湿ってはいるが、火は見る間に燃え広がっていく。
ゼダがいなくなって胸に開いた空虚に、氷が詰まっていた。それが、炎に飲まれていく。
"征くぞ、岩に咲く白"
「ああ」
火が薪の山から、小屋の壁に移っていく。
炎の作り出した濃い影を渡るように、レムは動き出した。
バルフィンは、機嫌を損ねたり腹を立てたりすることはあっても、決して爆発することはなかった。
普段とさほど変わらない落ち着いた調子に不快さを滲ませながら、不快感の原因となったものを丁寧に揉み潰していくのだ。
子供が虫の手足をもぎとるような残虐さを発揮するのに何の躊躇いも持っていないのが、バルフィンが恐れられている一因である。
彼がいくら気分を損ねても決して激発しないのは、自分が最も強いと知っていたからである。
何かあっても、周りの取るに足らない塵芥どもは、自分に従うしかない。従わないとしても、最後には必ず自分の前に屈服する。それを知っていた。
だから、不必要に大声で怒鳴ることもなければ、塵芥どもが失策を犯しても気分次第では大目に見ることもあった。
そのバルフィンが、激怒していた。
初めて見る、全身に殺意をみなぎらせた首領の姿に、立っている二、三人の手下が震え上がっている。
その姿を忌々しげに睨みつけ、バルフィンは視線を床に落とした。
倒れているのは、四人。
いずれも大した怪我ではない。素手では、余程練達しなければ、一打で重傷を負わせることなど出来はしない。
だが、気絶もやはり、一打では難しい。そのはずだった。
唸りながら起き上がった一人の前に立った。
「う、あ、ば、バル」
バルフィンの形相を見て、座った手下の顔に恐怖が浮かぶ前に、その顎を蹴り上げた。
再び仰向けに倒れた手下の顎を下から押し上げるように踏みつけ、上を向かせる。
床に頭蓋がついても、ぎりぎりと体重をかけていく。
何かうめきながら手足をばたつかせているが、そのまま踏み続けた。
顎関節が壊れた。
顎骨が折れた。
割れた骨が頭部上半分に突き刺さり始める。
手下の両手がバルフィンの足を掴み、凄まじい力で爪を立ててくる。
構わず力を入れ続けた。
後頭部の骨が割れ、中身が潰れ、頭が半分くらいになった手下の腕が力を失って床にへたり込んだところで、ようやくバルフィンは足を上げた。
「な、なあバルフィン」
声をかけてきた手下は、一睨みで震え上がって黙ってしまった。
ゼダは、弱いはずだった。
どこへ連れて行ってもまともに戦果を上げられず、喧嘩があっても叩きのめされているのは大抵ゼダだった。
襲った集落の女を強姦できるようお膳立てしてやったのに取り逃がすなど、わざとしか思えない行動もいくつかあった。
そのことを問い詰めた時の大層焦った様子が面白くて、程々に締め上げながら生かしておいてやったのだ。
誰もやりたがらない肥汲みを押し付けることで、女から排泄物の臭いが漂ってくることも、他の手下から不満が出ることも少なくなった。
弟とやらを連れてきた時も、もしかしたらマダラは匂いも女に似ているのかとも思ったが、そそる体ではなかったし、ゼダが言い訳するままに捨て置いた。
何か企んでいるのは察していたが、助っ人を一人二人連れてきたところで状況は動かない。そう高を括っていた。
それが失敗だった。
追い詰められて実力以上の力が可能性もある。だがそれでも、弱いはずのゼダが瞬く間に四人を殴り倒し、深手を負ってなおこの場から逃げおおせたのだ。
武器があれば、死人さえ出ただろう。しかし、いくらゼダに有利な状況を作ったとしても最後に勝つのはバルフィンだ。
弟がいれば、どうなったか。
エンペとの戦闘を見ていて、相当に戦い慣れていると感じた。あの時の表情から読み取れた腹の据わり具合は、モノマのガキ共など比較にもならない。
メドウズに襲われて、無事どころか逆にメドウズを殺してきた辺りで、確信はさらに深まった。
最初に片手剣を取り上げたのは純粋に良い武器だったからだが、結果的に正解だったと思っていた。
その二人が、自分の首を狙っていた。
武器を持った二人が揃っていたら、果たしてどうなっただろう。
今のゼダを見て、考え方を改めなければならない。
そして脳裏をよぎったかすかな可能性が、バルフィンに我を失わせた。
「おめえら、ゼダとシェガルをとっ捕まえて連れて来い! 殺すなよ、生かしたままだ!」
命じるべき手下はすぐ近くにいる。不要な大声だった。
「寝てる奴らも叩き起こせ! あの野郎、てめえのハラワタ食わせて、腹に糞桶の中身詰め込んでやる!」
手下たちを追い立てると、バルフィンは自分も地下から上がり、部屋に向かう。
塵芥どもに任せているつもりはなかった。
生きようが死のうがどうでもいい者たちばかりだったが、まがりなりにもバルフィンの配下である。一人殺られれば、それだけバルフィンの優位が揺らぐ。
それに、バルフィンは、あの兄弟を直接引き裂かなければ気が済まなくなっていた。
光の一片も届かない暗闇でも、視える。
誰がどこにいるか、次にどう動こうとしているかまで、聴こえる。
その場の様子のみならず、何がどういう位置関係かまで、嗅ぎとれる。
舌を出せば気配が様々に味覚を刺激し、それが誰かまでわかった。
肌に触れる空気の流れと気温の変化で、周囲の状況がおおよそ読み取れた。
石斧と一体になったかのように鋭敏になった手のひらから、様々な感覚が流れ込んできていた。
前方十数歩の間合いを、レムを探しているのであろう一団が駆け抜けていく。
こちらには、気付いていない。後の方をのろのろと歩いている一人が、集団から離れた。
石斧から意識がつながる。周囲の知覚情報と、最適な動作が、頭の中に浮かび上がった。
過剰な情報を通され神経が燃え上がるが、苦しくはない。頭に思い描かれた通りの動きで、その一人に近づいた。
足音も立たなければ、気配も動かない。まったく気付かれないまま横に近づく。
「ん」
直前、何かを感じ取ったのか、レムの方へ振り向いたその顔面に、石斧を打ち下ろした。
刃というには粗すぎる石斧が、狼の皮膚を破り僅かに肉にめり込んだ瞬間、狼が切断箇所から砂に変じた。
湿り気を帯びたざらざらした風が、砂の塊を吹き散らしていく。
前方の一団は、気付いていない。
そのまま音も立てずに草原を駆け抜け、数度同じような小集団の真横をすり抜けながら、レムは砦を目指した。
"我は灯。行く先を照らす光輝なれば、照らし得ぬを知るもまた必然"
アラバが視ているものが、レムにも視える。そしてそれは、精霊に依らなければ、どれほど修練しようと決して到達できないであろう地平にあることも知れた。
石造りの建物が乱立する一帯に踏み込み、アラバの導きに従って細い道を何度も曲がりながら、少しずつ砦へ向かって進んでいく。
集落では、眠っているはずの者たちが皆起き出していたが、どうにも覇気がない様子だった。
「ッたく、バルフィンも何考えてやがんだ」
「やめとけよ。珍しくえらい勢いで怒ってるらしいじゃねえか。聞かれたら殴られるぞ」
「知るかよ。てめえが生かしておいたガキ捕まえるのに、俺たちまで起こすんじゃねえっての」
武器を取って出て行く者たちは、一様に不平をこぼしている。
バルフィンが強大な求心力になっているだけで、やはりモノマの狼たちも、盗賊には変わりない。
殺すことに躊躇はないが、単独行動で孤立している者でなければ、レムがどこにいるか察知される。
見張りを避けるために砦から離れる方向の道に入った時、腰を下ろしている者を見つけた。積んである薪に隠れて、明らかに怠けている様子だった。
辺りに誰か近づいてきていないか注意を払っている様子はあったが、そんなことに神経を研ぎ澄ませているような者は、怠けずに働くほうを選ぶだろう。
レムがアラバの導きに従って近づいても、気付く様子はなかった。
音もなく正面に立ち、視覚に映った違和感に顔を上げたところを、砂にした。
直後、レムの後方から甲高い悲鳴が聞こえた。
聞いた覚えのある女の叫びである。
振り向くと、きつい人当たりを窺わせる顔つきの女がいた。
察知される位置関係ではなかったはずである。
"才智長けたる者ならんや。我が在りし揺らぎを読み取りたるか"
瞬時に、アラバの意識が流れ込んできた。
"致し方なし。この者も砂に帰せ、岩に咲く白"
レムは、躊躇った。聞き覚えのあるのも当然である。これは、ゼダと一緒に肥桶を積んだ台車を引いていた時に聞こえてきた、居丈高な女の声だ。
それならば、彼女も外からモノマに連れて来られた、言わば被害者である。
「待ってくれ、私は」
「誰か! 誰か来て! ここに人殺しがいるわ!」
「私は、バルフィンを倒しに来たんだ。バルフィンを倒せば、ここは混乱する。そうなれば騒ぎに乗じて逃げられるぞ」
小声で鋭く囁くが、女はむしろ目を剥いた。
「バルフィンを狙っているのね!? そうはさせないわよ!」
"岩に咲く白よ"
アラバが囁く。レムの意識に、叫びを聞いて駆けつけてくる男たちが知覚される。
それでも納得がいかなかった。
「どうしてだ、あんたも外から無理矢理連れてこられたんだろ!」
「ハン、私がここで必死に築いてきた地位がわかって!? あんたみたいな薄汚いガキに、私の居場所を奪われてなるものですか!」
彼女が、かつてどんな暮らしを送ってきたのか、レムには知る術はない。
今の方がましなのかもしれないし、悲惨な環境に順応した結果なのかもしれない。
ただ事実はひとつだけだった。
"この者既にモノマ氏族と成り果てぬ。討て、岩に咲く白"
それを認めるのが、無性に悲しかった。
さらに何事か罵ろうとした口の形のまま、女は砂と散った。
感傷に浸っている暇はない。たった今のやり取りのせいで、多数の追っ手の意識がこちらを向いている。
石斧を握り直し、再び影を渡りながら、レムはふと心許なさを覚えた。
「アラバ、大丈夫か」
"言うにや及ぶ。たとえこの身が砕け散るとも"
レムの不安を受け取ったアラバが、力強く答える。
その応答の、思った以上の細さが、気がかりだった。
アラバの知覚に馴染んできた今、アラバが相当精神を張り詰めて知覚を広げているのがわかる。
その集中たるや、並大抵ではない。断崖城の者たちでも、大抵の戦士は数分と持つまい。それを、ずっと続けているのだ。
そして、一人砂に帰すごとに、石斧から感じられる力が明確に減っていくのであった。
精霊の力の源は、氏族の信仰である。信仰が精霊を定義し、その規模によって魔素を集める。
星の石のアラバの氏族は、つい先程最後の一人が死んだ。もう、アラバに力を集める術はないのだ。
"我この地にて滅びなば、我は我が意を失えど、大いなる禍を残さん。魂は潰えど妄念は消えず、我が恨みは長く民を苦しめよう。
なれど我、恥を知れり。度を失いての暴にあらず、我が力の続き得る限り、我が意の元に我が敵を討たん。
なれど我、誇りを知れり。我が氏族の勇者は十年を戦いたれば、かの者と心を繋ぎし汝のここに在る限り、我が意潰えることなし"
言う間もアラバの意識は周囲に広がり、たった今砂にした女の声で、次々とモノマの狼が集まってきていることをレムに伝えている。
かなり広範囲から、追っ手がこちらを目指して進んできている。避けようと思えば避ける道もあるが、砦から大きく離れなければならない。
どの程度の人数かわからないが、一撃必殺のアラバの止まり木がある。影を渡りながら戦えば、何人相手でも捌き切れる。
だが、レムは戦闘を避け、砦から遠ざかっても追っ手の目を逃れる方を選んだ。
アラバには、時間が残されていないのだ。何人砂にすればいいかわからないが、バルフィンを討つために、アラバの力は可能な限り温存しなければならない。
レムがそう決めたことは意識を通して伝わっただろうが、石斧は何も返してこなかった。
自分は大丈夫だから戦え、と言いたがっている事は察した。アラバにも、その強がりが許されない程度に、己の力が残り少ないことがわかっているのだ。
集落を抜け、草原と集落の接する線をひたすら迂回する。
バルフィンはどこにいるだろう。これだけの手下を動員したとなれば、首領は動かず、本営でどっしり構えるのが仕事である。
だがそれは、集団戦の初歩をわきまえているコーネリアス傭兵団の常識だ。
バルフィンならどうするだろう。
レムの意を汲んで、アラバがさらに知覚半径を広げたのを感じる。
部屋に備えてある、騎兵槍を手に取った。
凄まじい量の鉄塊を円錐形に鍛え上げ、側面に分厚い鉄板を取り付けて体を覆うようにしてある。本来の用途である騎兵戦にはとても使えないような、奇形の槍だった。
槍の長さと鈍器の重さを持ったこの騎兵槍は、バルフィンの象徴のようなものだった。
壁に掛けてある首を見る。いずれも打ち負かし、生きたまま首を切り落としてやった者ばかりだ。
首が胴から離れて、死に落ちる直前の、恨みを湛えた表情をしていた。
弱者が無様に足掻いて、結局何もできずに死んでいく姿を見るのは、とても気分がいい。
無駄なことを必死に続ける姿が滑稽でたまらない。だから、いつも壁にかかった首を見上げては、死してなおバルフィンへの恨みの消えない表情を愉しんでいた。
今、六つの首はバルフィンを嘲笑しているようだった。
無駄な足掻きを無様に繰り返して死ぬしかないはずの弱者に、身辺を脅かされる首領を、笑っているのだ。
罵声と共に騎兵槍を繰り出し、真ん中のひとつを叩き落した。
保存処理の施された首が損壊し、何とも形容しがたい赤黒い塊を飛び散らせながら、床に落ちて空の袋のようになった。
その毛皮に騎兵槍を突き込んでまだ中に残っているものを潰し、足を上げて執拗に踏みにじった。
壁にかかっている戦利品を引きちぎって投げ捨て、バルフィンは部屋の外へ出た。
砦は、文字通りの我が城である。堂々と廊下の中央を進んでいると、他の者は壁に張り付いてバルフィンに道を譲る。
そうして歩いているうちに、武装はしているものの、だらだらと歩いている二人組を見つけた。
「おめえら!」
怒鳴りつけられて、二人組が小さく跳ね上がる。
「ば、バルフィン」
「誰が砦を探せっつった!」
「あ、これは、その」
口篭った一人の顔面を、槍で吹っ飛ばした。
隣の男の血飛沫を浴びながら、目を剥いた残りの一人が震え始める。
「とっとと行け! ガキが見つからねえならおめえらをぶち殺してやる!」
返事が失敗して恐怖の叫びを上げながら、生き残りは逃げるように駆け出していった。
塵芥風情が自分の命令をないがしろにしようとするのをいちいち処罰していては、それだけで日が暮れる。
そもそも命令を聞かないから塵芥なのであって、見つけた時に力を誇示しながらなじるのもまた楽しみだった。
今は、その余裕すらない。
見つけ次第、思い知らせてやらなければ気が済まないだろう。
バルフィンは砦の外へ向かった。
ゼダはあの負傷ならまず捕らえられるだろうが、問題はシェガルの方である。
ゼダから計画の失敗を知らされれば、すぐに逃げ出すに違いない。どこかで武器を調達していれば、いくら囲いの塀を固めさせたとは言え、見張りを殺して突破するかもしれない。
考えれば考えるほど、苛立ちが募っていく。
アラバの知覚を通して、何かが動いたのを感じた。
砦から出てくる異様な憤怒は、モノマ氏族にたむろしているような三下の盗賊ではありえない。
殺意や敵意に分類するのは難しい、純粋な破壊衝動だった。
「アラバ」
"承知"
そっと促し、目標を砦からその存在感へ向ける。他の者にぶつからないように気を配りながら、遠巻きにした。
一直線に仕掛けるのは愚策である。
接近どころか、むしろ砦から遠ざかるように移動しながら、機を窺った。
一秒先延ばしにすることが、アラバにとってどれだけ負担になるかまでは伝わってこないが、極度に集中した状態をいつまでも続けていられるものではない。
だが、返り討ちになってしまっては意味がないのである。
「少し休んでいていいぞ」
"無用なれば"
張りつめた緊張を解けば、もう再起はできない。そういう意味だった。
アラバにしてやれることが、何もない。
せめて、自分に求められている役割を果たせるように、標的に意識を集中した。
感覚のすべてを最大限に広げる。熱く灼ける神経が、体中に網目のように根を張って、触れた空気からでさえ情報を読み取ろうとしている。
肉体が溶けて空気に流れていくような感触すら覚えた時、標的の破壊衝動が無造作にモノマの狼を潰した。
瞬時に、感覚が肉体に戻ってくる。広がり切っていた知覚が一気に神経に引き戻され、熱を持っていた神経系が燃え上がるようだった。かすなな痛みすら伴った。
「アラバ」
問いかけるが、アラバも判断しかねているようだった。
攻撃を受けた狼の存在は次第に希薄になっていき、すでに物体のそれと大差なくなっている。
続いて、普通の聴覚でも十分に捉えられるレベルの大声が飛んできた。
「舐めたマネしてんじゃねえ! さっさとあのガキを探し出せ! だらだらしてやがったら、ぶち殺してやる!」
声が届いた範囲の狼たちの気が張り詰めた。恐怖感と緊迫感が空気に走り、レムを探す者たちの動きが格段に機敏になっていく。
「まずいな」
"一度退かねばなるまい"
アラバは殊勝に言う。そうした方がいい事はわかっているが、アラバの残り時間を思うと、そうも言っていられない。
少し考えた。こういう場面をかき乱すには、どうすればいいか。
思い当たる手段は、ひとつある。集落にいる、無理矢理連れて来られた者たちが巻き込まれる事を思うと心が痛むが、そうも言っていられない。
「アラバ、火だ」
すぐにアラバの意識が流れ込んでくる。レムの感覚が、布や薪山、油壺などの位置を捉えた。
同時に、モノマの狼たちの感覚がぼやける。先程まで出来ていたように動作や感情までを読み取るには、相当よく知覚しなければいけない。
そこまで意識を割いていると、今度は行動がおろそかになるだろう。
これが、アラバが背負っているものなのだ。
自分が物陰をすり抜ける動作も、心なしか繊細さを欠き始めたような気がした。その分、速度を上げる。
放つべき火は、辻のあちこちに明々と燃えている。
「いたぞ!」
もはや隠れながらというわけには行かなくなった。一度見つかれば、アラバの加護はそれほど効果を発揮できない。
ただ相手の知覚に捉えづらくはなっているので、また物陰などに駆け込めれば振り切りやすいという程度に過ぎない。
見つかりながら火を放ってはすぐ追っ手を撒き、撒いた先でまた別の一団にぶつかる。
大振りの剣をかいくぐって石斧ごと体当たりをかけ、瞬時に砂化した一人を突き破ってそのまま駆け抜ける。
目の前で仲間が砂になった光景に唖然とする残りは、放っておくしかない。
同じ場所に長居すれば、それだけ囲まれる危険が高くなる。それに、一人葬るごとに、アラバは力を失っていく。
それでも殺らねばならない場面では、躊躇なく砂にした。
火の手が広がるにつれ、周囲の状況が感知できなくなっていく。精神を張り詰めても、その感覚の網には炎の激しさが真っ先に捉えられるのである。
何とか追っ手から逃れ、乱雑に建てられている住居の間の小さな窪みに身を寄せた。
「くそ、あのガキ!」
レムのすぐ傍を、モノマの狼が慌てて走っていく。この期に及んでレムを探すより、集落の消火を選んだのだろう。
考えてみれば、ここは彼らの集落なのだ。別にいなくなってもどうということもない子供一人より、自分の財産を優先するのはいかにも小物の盗賊らしい考え方である。
その狼の気配の行く先に、破壊衝動があった。
「おいおめえ、どこへ行く気だ!」
案の定捕まって問われたその狼は、何事か言い返したようだった。
「この役立たずが!」
直後、濡れた嫌な音がした。思わず物陰から顔を出しそうになるのを、こらえた。
憤激を湛えたまま、破壊衝動がレムの方へ向かってくる。
周囲には、今のやりとりをそっと窺っていたらしい狼たちの気配がいくつもある。皆、同じように地面に転がりたくはないのだ。
そのすべてが、首領がこちらへ来ないよう祈っているようでさえあった。
堂々とした広い歩幅が、真っ直ぐにレムのいる方向を目指して歩いてきている。
気付いているはずはない。アラバの加護があれば、五感のいくつかから身を隠せれば騙しおおせる事が出来るはずだ。
"気を引き締めろ、岩に咲く白"
アラバの活が飛んだ。
バルフィンの勘の良さは、並大抵ではない。
建物の壁に石斧でそっと傷をつけ、気付かれないように屋根に上る。この辺りにはまだ火は放っていない。屋根に伏せていれば、篝火の照り返しも防げる。
腹這いになって、建物の下の様子を窺った。
右腕で、鉄板の盾をつけた巨大な円錐形の騎兵槍を支えているバルフィンの姿が、目に入る。
視線を感じたのか、バルフィンが何気なくレムの方を見上げた。
目が合った瞬間、バルフィンの表情が様々な感情を混ぜたような不気味な歪み方をした。
「シェガルァァァ!」
怒号と共に、一瞬前までレムの頭があった場所を騎兵槍が粉砕する。
間一髪、跳ね起きると同時に跳び下がっていたお陰で、槍は届かない。
レムは迷った。
奇襲の一撃で、戦闘に持ち込むことなく勝負をつけたかった。その作戦が、あっさりと崩れ去ったのだ。
屋根の上なら、位置的な優位がある。追ってくるにも時間がかかるだろう。逃げるという選択肢もある。
正面から戦って、勝てるか。
周囲には遠巻きに手下たちもいるのだ。
アラバは、何も言わない。戦うのはレムなのだから、差し出た口を利くまいとしているのだろう。
「アラバ」
"何かあるか"
「征こう」
"言うに及ばず"
自暴自棄ではない。
このまま機を窺うと言いながら逃げ続ければ、追い詰められて死ぬのを待つだけだ。
「聞け!」
石斧を構えて、屋根の上からバルフィンを見下ろした。
「私はコーネリアス氏族"岩に咲く白"のレム! 私の戦士の誇りのため、そして義兄にしてアラバ氏族最後の勇者の仇を雪ぐため! バルフィン! その首貰い受ける!」
諱を用いた、精霊に捧ぐ意を持たせる正式な決闘の口上である。本来ならば、誇りも何もかかっていない私闘の延長のようなこの場面では、必要のないものでもある。
それを聞いたバルフィンの顔で、怒りが爆発した。
「言うに事欠いてコーネリアスだと!?」
バルフィンが、跳んだ。
巨大な得物を担いでいるとは思えない身軽な動きで、屋根の上に立った。
「このクソガキが!」
正面から、騎兵槍が振り下ろされた。
石斧を構えて、幾度かモノマの狼たちに繰り返したように、体ごとぶつかっていく。
騎兵槍を砂にして、そのままバルフィンも倒すつもりだった。
だが、激しい衝突音と共に、まともに吹っ飛ばされたのはレムの方だった。
「口上なんぞ! 舐めてやがんのか!」
崩れた体勢を立て直す間もなく、騎兵槍が繰り出される。
「おめえと、俺とで!」
踏み込み突き、変化して薙ぎ払い。
「勝負になるとォ!」
切っ先を返してさらに薙ぎ、引く。
「思ってんのかァ!」
凄まじい気迫を放ちながら、騎兵槍が振り落とされた。
何とかすべて弾き切り、落とされる前に自分から屋根を飛び降りる。
「アラバ、どうした」
応答は、あった。だが、砂を撫でるようなざらついた音が混じって、明瞭には聞こえない。
"我が止まり木は石より造られたり。なれば黒がねを打ちて砕くことかなわず、ただ折らるるのみなれば、我が力は我が止まり木を支えるに費やすべし"
バルフィンの腕力と、鉄製の騎兵槍では、石斧を砕かれないようにするのが精一杯なのだ。
せめて斧が、もっとしっかりした石で造られていれば、話は違っただろう。
バルフィンが雄叫びを上げながら、屋根の上から飛びかかってくる。
長い踏み込みで、軌道は読みやすい。だが、切っ先を逸らして滑らせるように放った石斧は、突進力に負けて押しのけられ、バルフィンに届かない。
衝撃を受け止め切れず、地面に転がった。すぐに跳ね起きる。バルフィンも、着地で体勢を立て直しているところだった。
即座に騎兵槍の外側に回り込み、バルフィンの頭を狙い打つ。しかし槍に取り付けられた鉄板で阻まれ、アラバに負担をかける結果にしかならない。
槍で振り払われ、また大きく離れざるを得なかった。
そして距離ができれば、槍の間合いである。
狭い路地では、突きや薙ぎを避け切るのはほぼ不可能であった。そして、防御するごとにアラバが弱っていく。
一撃ごとに存在が希薄になっていくのがレムにも伝わってくるというのに、アラバは絶えず周囲の狼たちの位置と状況を、頭の片隅に放り込み続けているのである。
アラバがようやく語るべき言葉を得た時、最初に無念と言った。
ゼダの今わの際の言葉も、やはり無念を嘆くものだった。
どうにかしてやりたいとは、思う。
強烈な斬り上げを受け流し切れず、石斧が跳ね上げられ、隙を晒してしまう。
だがバルフィンも自らの得物の重さと動作の力みで、その隙を突けない。そのまま振り下ろした槍は、跳ね上がった石斧がそのまま受け止める。
嫌な手ごたえがして、ごく細かい石の欠片が一粒、落ちたのが見えた。
"心配り無用なれば"
そんな事を言っている場合ではない。既に、止まり木の強度を保つことすら難しくなってきているのだ。
「死ね、シェガル!」
バルフィンの武器には、隙がない。隙を作ろうにも、誘い出した攻撃が重すぎて逆にこちらの体勢を崩されてしまう。アラバが削られるばかりだ。
「一旦、退くしかない」
小さく呟いて、レムは素早く近くの路地に駆け込んだ。一度視界から逃れて、再び奇襲の機会を待つつもりである。
アラバからは、未練そうではあったが承諾の意思が伝わってきた。頭に流れた声は砂の音でしかなくなっていた。
「逃がすかァ!」
曲がった角が、騎兵槍によって粉砕される。
石の家屋さえ破壊するのであれば、少々の遮蔽物などないに等しい。そもそも勘の鋭いバルフィンに警戒状態を取らせて、二度目の先手が許されるかどうか。
アラバの加護を得てさえ、レムの方が先にバルフィンに発見される危険性すら考えなければならない。
だが、まともに打ち合うわけにもいかない。
仕方なくバルフィンの方向へ振り向き、再び武器を激しく打ち合わせる削り合いに調子を合わせる。
攻撃の後の先を取るのが一番いい。だが、バルフィンの騎兵槍に付けられた鉄板の防御範囲が、無造作な太刀筋を許さない。
槍を避けるには、攻撃が速過ぎる。受けや払いでごまかすには、攻撃が重過ぎる。
精霊をないがしろにするだけは、ある。
このままでは、体格差と武器差でいずれバルフィンに追い詰められる。
それがわかっていながら、逃げて振り切る事もできず、賭けに出るわけにもいかず、じりじりと斧を削られていくばかりだった。
こういう場面で力を発揮してくれるはずのトヲリの風釘は、レムに何も伝えては来ない。
間合いを離しながら投げてみたが、その一本は普通の釘と変わらない軌道を描いて、バルフィンの肩先を掠めただけだった。
"危うかれば、為すことなかれ"
砂で壁をこするような、ざらざらした音に混じって、アラバの静止が入る。
アラバと同時に意識を繋ぐのはできないようである。
釘は、最後の一本を残すのみになってしまった。
その時、バンミーもまた、怒りではらわたを煮え滾らせていた。
モノマ氏族で一財産を築くためには、並大抵の努力では追いつかなかった。
肩を並べようとする新参は力をつける前に叩き落し、大きな顔をする古参は自滅するように仕向け、
天災のように振って湧くバルフィンの気まぐれにかからないように注意を払いながら、どうにかそこそこの立場に食いついた。
その末路が、目の前で燃えている。
立場の弱い者からむしり取った武器の蒐集も、隊商を襲った時に剥がしてきた豪勢な壁掛けも、今まで目をつけていてバルフィンが捨てたのを機にやっと手に入れた女も、すべて炎の中に消えた。
女は、バンミーが無理矢理引きずっていこうとしても、炎が迫ってくる家屋の中に留まり続けていた。
どうしてそんなことをしたのかは、ついにわからずじまいだった。
今まで散々バンミーを押さえつけてきたバルフィンは、この状況でバンミーの財産を守りもせず、ガキを殺せとがなりたてている。
幾度も頭に浮かびながら、その度に忘れようと努めた考えが、再び蘇ってきた。
死ぬような目に遭ってきたのも、自分で稼いだ戦利品を自分の物にできなかったのも、村を襲う味方の背後の守りなどという旨みのない仕事を押し付けられるのも、すべてバルフィンから命じられたことだ。
つまりバルフィンさえ消えれば、自分の腕前なら、もっといい目にありつける。
今度はもう、その考えを忘れようとは思わなかった。
バルフィンの怒号に恐れをなして、遠巻きに眺めている者たちにそっと近寄った。
すでに辺りは、篝火など必要ないくらいに煌々と燃え盛っている。
元々石材が多いため家屋も倒壊には至らないが、木や布を用いた部分や生活必需品は容赦なく炎に包まれていく。
屋内にいた女や子供が、ばらばらと外に逃げ出してきていた。そのせいもあって、バルフィン以外にレムに攻撃してくる者はいない。
だが、そのバルフィンが一番の曲者でもある。
「ちょこまかしやがって!」
斬りかかった十数度とも防がれ、バルフィンは完全に頭に血が上っているようだった。
そもそも、逃げようとしたのがばれても笑いながら追撃命令を出しそうなバルフィンが、ここまで躍起になっているのも不思議であった。
何があったのかレムが知る由もない。ただ、何とかしてバルフィンから身を隠す術を考えている。
逃げるのを止めて、逆にレムから仕掛けようとしてみた。
騎兵槍が瞬時に反応し、石斧を肩口から吹っ飛ばそうと凄まじい横薙ぎが空を切る。
無論、誘いである。重量のある騎兵槍を振り抜いた後の姿勢なら、隙がある。
だが槍の間合いのぎりぎり外を保っていたせいで、レムの踏み込みはバルフィンの切り返しに間に合わない。跳ね飛ばされるだけである。
そう思って今まで見送ってきたが、今度は敢えてその隙へ飛び込んだ。
反撃の踏み込みがバルフィンの意識から抜けていれば、そこで勝負はつけられた。しかし、そう甘くはない。
初撃に劣らぬ強烈な切り返しが、レムの脇を守った石斧を打ち据える。
レムの意識に、激しい砂嵐の音が走った。
勢いに負けて、横の住居の入り口に突っ込んだ。転がりながら起き上がり、辺りの様子を窺う。
「もう逃げられねえな、クソガキが」
入り口を塞ぐように、バルフィンが立った。
住居の中には誰もいないが、生活の痕跡は残っている。火が回ってきたので逃げたのだろう。まだ屋内に火の手は回っていないが、戦闘に使えそうなものはない。
出入り口にはバルフィンがいる。明り取りの窓はあるが、位置が高い。よじ登っている間に槍で串刺しだ。
アラバからの意識の流れはかなり雑音が混じるようになってしまっていた。それでも、どうにか周囲の知覚が流れ込んでくる。
バルフィンの後ろから、数人が近づいている。
「小便くせえガキの分際で、このバルフィンの命を狙おうなんざ、思い上がったことを考えやがって。股に槍突っ込んで、腹の中身掻き混ぜ」
バルフィンが瞬時に反転し、騎兵槍の装甲で背後の何かを受け止めた。
「どういうつもりだ!」
叫びざまにその一人を薙ぎ払った。倒れたのかもしれない。バルフィンは、倒れた相手に止めを刺すように、槍を地面に突き立てる動作をした。
すぐに槍を引き抜いて、建物の外に踏み出した。
レムには完全に背を向けているが、今仕掛ければ、たった今倒された者と同じ運命になるだろう。
「もうてめえのツラには飽き飽きしてるんだよ!」
向こうに誰がいるか、バルフィンが邪魔になって見えない。ただ、どうやら向こう側の数人は、バルフィンの手助けに来た様子はなかった。
「そのガキがどこでくたばろうと、俺たちにゃ関係ねえ。バルフィン、てめえ一人でやりゃいいことだ。それをてめえは俺たちにも押し付けやがって、やらねえなら殺すだ? ふざけんじゃねえぞ!」
「なんだと?」
バルフィンが絞め殺さんばかりの唸り声を上げる。向こう側がやや怯んだ空気があった。
「てめえを殺っててめえが今まで俺たちから取り上げたモンを、返してもらおうってことよ!」
「吠えやがれ、塵芥の分際で!」
バルフィンが、槍を二度三度と振り回す。また何人か倒されたようであった。バルフィンの囲みが怯む様子が、ありありと感じられる。
そこからは動きらしい動きはなかった。
レムを建物から出さないために、バルフィンは住居の入り口から離れられないのを理解しているのか、相手は遠巻きに長柄や投げ物で攻撃しているに留まっている。
反撃される心配はないが、決定的なダメージも与えられない。
その、反旗を翻しながらも腰の引けた態度がまた、バルフィンの苛立ちを募らせているようだった。
バルフィンの意識がレムから逸れる。その隙を突いて、レムはこそこそと屋内の明り取りの窓によじ登った。
どう動けば気付かれないかは、アラバが意識に流し続けてきてくれている。
無事に、すり抜けた。
集落は、すっかり火の手が回っていた。レムを探すために駆り出された狼たちも、バルフィンの姿が見えないのをいいことに、自分の財産を守るために奔走している。
石造りの住居から逃げ出す女たちの一団もあり、それを見つけて叫びながら追いかけていく狼もいる。
女たちは集落から出て、草原にまで足を踏み入れている。この混乱に乗じて、脱走しようというのだろう。
逃げるなら、今かもしれないと思った。
正面からでは、バルフィンの力に押し負けて、一撃通すこともできない。
運良くバルフィンの視界から逃れたが、あの男が奇襲を許すとは考えづらい。長引けば騒ぎも沈静化するだろう。時間が経つにつれて、不利になっていく。
それに、アラバももう限界だった。
バルフィンの猛攻を支え切ったものの、もう何を言おうとしているのかが、雑音ばかりでかなり聞き取りづらくなっていた。
言葉によらない意識のつながりがあるとはいえ、細かい意思の疎通は難しい。
もう、そう長い時間持たないだろう。斧を用いた打撃もせいぜい一、二度が限度だ。
斧の柄を掴む指の間から、汗を吸って固まった砂がこぼれ落ちていく。
今逃げれば、きっと集落を抜けられるだろう。石斧を祭って、精霊を眠らせてやって欲しいというゼダの願いもかなえられる。
ゼダが準備してくれた川底の抜け道だって、この火の手を見ていつまでも見張っているような者がモノマにいるとは思えない。
"行け"
頭に伝わってくるざらざらした波長の中から、澄んだ意識がかろうじて感じられる。
"我、置、て、行、岩、く、白。今、れまで、汝窮、て、を、置き、てて、げ走、うと、我、みに、思、ず。が為に、更なる、の、増、るを望ま、。
行け、に、く白。我、遂、朽、果、せめ、モ、の者、もに、千、衰、も、さん"
レムの思考が止まった。
倒れこむように小屋に戻ってきたゼダの姿が、まぶたの裏に蘇った。
アラバの申し出が、駆け引きでもなんでもない本心だということは、意識を繋いでいるレムが一番良くわかっている。
無念だ、と言っていた。
仇を討てないことがではない。親しい者たちが本当に苦しい時に、何もしてやれなかったことが、無念なのだ。
逃げていいと言ったことも、同じである。アラバは、あの時のゼダと同じように、負け戦の責任をすべて一人で被って滅んでいこうとしている。
いや、滅びるならまだいい。ただ生き延びることにのみ汲々として、矜持もなく無様な姿を晒し続けるものへと変じようとしている。
表面に土埃を付け始めている石斧を、改めて握り直した。
ゼダがいなければ、三人に囲まれたあの場で戦士としてのレムは終わっていた。アラバがいなければ、ゼダを失ってなす術もないままバルフィンの玩具にでもされていた。
崇敬を集めた精霊の立場すら捨て去ろうという者を前にして、命惜しさに自分だけ逃げるなどということができるはずがない。
レムの意識は伝わっただろうが、アラバは何も言わなかった。
最大の問題は、たとえレムが捨て身であっても、勝算がないことである。アラバが気になっているのもそこなのだろう。
だからこそ、これ以上犠牲が出ないように逃がそうとしているのだ。
しかし、たとえ見込みがなくとも仕掛けるしかない。命の恩人を二度見捨てて、おめおめと帰れようか。
そう覚悟を決めたとき、火の手の上がる集落の中で、涼しげな風を感じて、意識せずレムは釘帯に手をやった。
最後の一本が、風を巻いている。
どういうわけかアラバによって増強されているはずの知覚には、まったくかかっていない。レムが元々知覚できた範囲で、トヲリの風釘が力を増したことを感じている。
釘を引き抜いた。この釘は狙った所を貫くのではなく、レムが最も欲した結末へ向かって飛ぶ。奇襲の初手に放つには、これ以上に適したものはない。
だが、釘から感じられるのは、いつもの青空を吹き抜けるような爽快な活力ではなく、どこか躊躇いを残したものである。
"謝、言、い"
「別にいいって」
レムが最後まで付き合う覚悟を決めたのを感じ取って、アラバの悲愴ささえ漂う感謝の念が伝わってきた。
"人、器、て二、霊、を繋、る、の、いかほ、返り、有、や知、ず。か、風、霊、そ、を、気、懸、たり。心、て臨、岩、く白"
「そういうことだったのか」
釘を指先で撫でた。
アラバと感覚を繋いだ今でこそ、神経系が燃え上がるようである。精霊二つ分の感覚が乗れば、レムの知覚はぼろぼろになるかもしれない。
そう懸念していたのだろう。
だが実際は、釘を投げる時にはトヲリと感覚を共有するわけではない。
「大丈夫だ」
自分自身に言い聞かせるように呟いて、レムは釘を帯に戻す。
再び、バルフィンの存在感が漂う方向へ向かっていく。
とはいえもうアラバに負担をかけるわけにはいかない。見つからないことよりも、いち早くバルフィンに接近する方を選ぶ。
途中で、わけもわからず駆け回っている狼たちにぶつかる。
「おい、お前……あ!?」
間抜けな顔で驚いたところへ、出鼻を押さえる。
「何やってるんだ、バルフィンは見つかったのか」
「あ!? え!? 何なんだ、オイ!」
「騒ぎで腹立てたバルフィンが、今まで気に障る事をした奴を殺して回ってるんだよ! 心当たりがあるなら、さっさと逃げるか何とかしろ!」
一気にまくし立てて、ちょうど横合いに口を開いていた路地に駆け込む。
「待てよ、コラてめえ!」
「血の臭いがしてるだろ!」
声にありありと動揺が感じられるが、無視して振り切った。
後はバルフィンが、どれだけ味方に信用されているか、だ。案の定、手下たちはレムを追ってこない。
走る勢いで手近な家の窓に飛びつき、そのまま屋根へ駆け上がる。頭上からでも、先程バルフィンに見つかっているが、狭い場所よりも広い場所の方が知覚が働きやすい。
屋根にはもう火が回っていたが、むしろ火の中だからこそ、誰かが登るとは思われないだろう。
アラバからの干渉はかなり小さくなってしまっていたが、レムの神経に残った熱が、何をどう捉えればいいかをかすかに覚えている。
ただ、今度は神経が実際に焼けているかのように痛む。自分の知覚で世界を捉えることが、どれほど苦しいことか、今更思い知る気分だった。
繊細な判断は元から期待していなかった。知覚することで頭が痛む度合いから、方向と存在を読み切る。
一段と大きな頭痛を呼ぶ方向に、バルフィンがいるのは間違いない。
屋根で踊り狂う火のすぐ傍を通り、肌を焼きながら、バルフィンのいると思しき方角へ進む。
血と鉄の臭いが濃度を増している。
「やめてくれ! 助けてくれ! 頼む、俺は!」
騎兵槍が空気を叩く気配がした。焦げ臭い空気に、みずみずしい生臭さが弾ける。
集落を取り巻く炎よりも焼け付くような殺意と憤りが、屋根の下で暴れ狂っている。
「調子くれやがって、ゴミの分際で!」
「う、うあ、くそっ!」
また一つ飛び散った。
野盗の首領を張るだけあって、バルフィンの戦力は飛びぬけていた。
だが、断続的に襲い掛かってくる元手下の数に押されたか、負傷は隠せない。
向こうの路地から何人か姿を現し、バルフィンの姿を認めて自暴自棄のような叫びを上げながら襲い掛かっていく。
バルフィンが、さらに怒りを募らせながら裏切り者を殺していくのを、レムは火の手に炙られながらじっと待っていた。
最後の一人の口に騎兵槍が突っ込まれ、喉の奥を突き破った瞬間に、レムは跳ね起きて風釘を抜いた。
周囲に戦闘態勢の者はいない。
釘が風を巻き、トヲリの力が満ちるのを感じた瞬間、レムの感覚すべてが一斉に血に染まった。
同時に走る痛みで、危うく叫び声を上げるところだった。
裂けた。そう感じた。
視界は赤く、鼻いっぱいに血錆びた匂いが充満し、耳は激しい血流の音で潰されてしまっている。焼けるように熱かった神経が、ついに破裂したかのようだった。
何もわからなくなったまま、手に持った風釘を放った。
きちんと投げられたかどうかもわからないまま、石斧を持っているのと同じ動作で飛び降り、バルフィンがいたはずの場所へ石斧を振り上げ、一気に踏み込む。
振り下ろす瞬間、血に塗り潰されてしまった五感と別の感覚が、血まみれであろうレムの傍らに同じように血染めの誰かが立っているのを感じた。
体中の皮膚が破れて、今にも倒れそうなぼろぼろの姿だった。その足で、どうやってこの石斧を止まり木に使うのだろう。そう思った。
振り下ろした石斧が肉を潰し骨に噛み付いた衝撃が、血で濁った五感を叩き起こす。
まったく霞んでしまっている視界に、バルフィンが両手首を交差させて石斧を受け止めている光景が移った。
騎兵槍は傍らに落ち、それを持っていたはずの手は、大半が吹き飛んでいた。
「こ、の……」
額の前でそれ以上石斧が落ちてこないよう支えながら、唯一まともに動ける眼球で、バルフィンはレムを見下ろした。
「この、ガキが……おめえなんぞに、この、俺が……」
アラバが最後の力を振り絞ったのを感じた。砂をぶつけるようなざらざらした音が頭の中に響き渡る。
「これで終わりだ、バルフィン」
石斧が、すさまじい唸りを上げて砂を噴射しながら、少しずつバルフィンの手首に沈んでいく。
バルフィンがうめいて、押し返そうとする。一息押し返すごとに、石斧を止めている手首の骨も、一息ずつ砂になっていく。
「おめえらみてえなゴミどもが……! あの場で俺が気を変えてりゃ、おめえなんぞ……!」
石斧がひときわ大きく唸った。さらに一歩、石斧が沈む。レムは全身の力を振り絞って、斧をバルフィンに押しつけた。
折れそうなほど歯を食い縛り、バルフィンがレムを睨みつける。
「そうか……コーネリアスの……碧目の……黒狼……ッ、エンペめ、何が凶相だ……最初ッからッ……!」
骨が切断された手ごたえを感じた。直後の刹那は、時間が止まったように感じた。
"感謝を"
バルフィンを感覚に捉えるのが精いっぱいの世界で、レムの隣にいた血まみれの誰かが、石斧に手を添えた。
"我が氏族に成り代わり、汝の義と誠に感謝を捧ぐ。岩に咲く白よ、夜天舞う星々よりもなお眩き魂よ。汝が示せし標にて、我と我が氏族は安んずる処を得たり。
今は別れとなりぬれど、我が祝福は汝の往く道に永久に輝くであろう。我は石、星の石。細き光にて――"
その手が石斧を押したのを見た瞬間、そこにはもう何もなかった。
噛み付いていた手首を砂に変えた石斧が、バルフィンの額を捉え、一気に腰元まで引きちぎった。
正中線を砂に変えて地面にぶちまけながら、首と胸のなくなったバルフィンの両手両足が仰向けに倒れた。
これで、終わった。
石斧は、石斧の形に砂を固めた何かに変わっていた。
アラバの意識を示すものは、何も伝わってこなかった。
血にまみれてぼろぼろになった神経の隙間から、世界が入り込んでくる。
視界は赤く潰れ、嗅覚は脂じみた錆の匂いに溢れ、耳は脈動の激しい音に突き破られて、体中が裂けたように痛む。
破裂した感覚の中を、レムは泳ぐようにふらふらと走っていた。今攻撃されたら、気付くことすらできずに死んでいるだろう。
もしかしたらもう体は死んでいて、それと気付かない意識がひたすら走ろうとしているのかもしれない。
どちらでも良かった。大切に抱えている石斧の形の砂の塊を、誰かに祭ってもらう約束をしている。それを、果たすつもりだった。
その後は、川を下っていこうという話になっていたはずだ。海へ出てみよう、とまで言っていたかもしれない。
約束をした相手は、誰だっただろう。父や長老議員の年寄りたち、戦士団の仲間たちに抱いた感情とは、別の思いが芽生えていた気がした。
でも今はただ頭の中が真っ赤で思い出せない。
五感とは別のものが、周囲のすべてをレムの意識に取り込んで、自分の血にまみれて走り続けるレム自身をじっと見つめている。
だから、自分がまだ生きていられることを知っていた。
その意識は、火が砦に移っていることも見ていた。恨めしげに壁にかかっていた首と、やせ衰えた女を思い出す。
これで帰れるだろうと、我が事の様に嬉しく思った。
肯定してくれる者は何もいない。否定する者もいない。
レムは走った。多分、走っていた。
自分でもよくわからないまま、川に飛び込んだようだった。
血で詰まった器官に、川の水の冷たさが流れ込んできて、ちぎれかかった神経の傷口を突き刺すようだった。
抱えていた砂の塊が、水の流れに崩されて姿をなくしていく。もうとっくに中身は何もないと知っていたが、レムはそれを残念に思った。
流れに足を取られて、体が回転した。どちらが水面か、わからなくなった。息が苦しくなった。いや、水に入る前から苦しかった。
川の水が全身に突き刺さるようだった。その感覚がある事が、なんだか嬉しかった。
そんなちぐはぐな感情を顔に浮かべながら、川を流れていく自分を見て、なんとも間が抜けていると思った。
そろそろ、痛みもわからなくなってきた。
あるのはただ、自分が川に溶けて、風景の一つになったような感覚だった。
一人ではどれほど修練しても到達できない境地に、いるらしかった。
ああそうか、と呟いたつもりだったが、唇も動かなければ、息のひとつも吐き出されなかった。
意識が川の水に流れていく。
いつの間にか、レムは伏せていた。
水の流れのような感触が胸から下を撫で続けており、どうやらどこかの川原に流れ着いたらしいと思った。
五感は眠ってしまっていて、顔も上げられず、目も開かない。指一本動かない。
不思議な場所だった。
胸から下が浸っているらしい水のような感触は、冷たくも熱くもなく、溶けて混ざってしまいそうな心地良さがあった。
空気も、どこの場所の物とも違う。幼い頃に外で眠ってしまった時、父が毛布に包んで部屋に連れ帰ってくれたことを思い出した。
眠ってしまいそうな気持ちのまま、実際眠りに落ちることもなく、五感以外の別の何かが感じ取ってくる世界をじっと反芻していた。
川だと思っていたものは、よくわからない。ただ乳を思わせる流れが、どこかからどこかへと向かって大きな流れを作っている。
川岸には、森だろうか。しんとした静かな存在感が、ただそこに広がって在る。
空には、天気というものがないようだった。一面に広がっている灰色がかった靄は、雲のものではない。
目や鼻で感じ取れればまた違うのだろうが、いつも使っている五感は、今は眠っている。
小船が川を下ってくるのがわかった。
その気配に、懐かしい匂いが鼻に蘇る。その姿が、目に浮かぶ。声も、抱きしめられたときの暖かさも、何もかも覚えている。
名だけが、消えていた。
小船には、その狼が櫂を漕ぐ他に、もう一人乗っているようだった。意識を凝らすまでもなく、二人の心が通じ合っているのはわかった。
本当ならばあの船に自分も乗っているはずだったと思うと、少しだけ心が痛い。
川下へ向かい、船は流れに乗りながら静かに進んでいく。
傍を通り過ぎる時に、視線がレムに向けられた。
笑ったようだった。記憶にあるとおりの、穏やかな人のいい笑みだった。
レムを乗せることもなく、岸に上げてくれるわけでもなく、小船はどんどん流れていく。
長く続く川の果てに、見渡す限りに水を湛えた世界があった。
湖よりも広く、終わりの見えない広大な乳色の流れは、世界の果てへ続いているかのようだった。
そこへ、小船が流れていく。
先に川から漕ぎ出している船が、いくつもあった。
広い水の上を、数え切れないほどの小船が、さらに先を目指して進んでいる。
水平線は話に聞いて知っていたが、そこの水平線は、空と交じり合ってどこからが境目なのか、わからなくなっていた。
レムの上を、何かが飛び去っていく。
結局、どんな姿をしているのか、よくわからないままだった。ただ、止まり木はあると便利らしいということだけ、わかった。
石斧の螺旋の形は、地上をあまねく照らすために、方々を見るその目の動きだと、失敗を告白するかのように、羞恥を含んだ雰囲気で伝えられた気がした。
皆が空を目指している。交じり合った水平線から空へ登り、その後はどこへ行くのだろう。
目的もなく旅に出て、敵から逃げるために川に潜った。あの時あの狼と、海へも出ようかと冗談めかして言っていた。
今はもう敵もその狼もいない。でも、約束は生きている。
だから目が覚めたら、海へ行こう。そう思った。
四・星の石 了