鋼の山脈 五・川を打つ砂(下)
廃屋の位置は邪霊の勢力範囲からかなり遠ざかったところである。退却が早かったこともあり、ここまでは邪霊の災厄も及ばないようだった。
数日ぶりに激しい仕事に晒された肺が、かなりの熱を持って擦り切れるような痛みを発している。
脚の筋肉も急激な運動のせいで腫れるようであったが、多少の衰えはあってもすぐに元の体力を取り返せる範囲だとも思えた。
天幕の荷の大半は、置き去りのままだ。
楔の大部分と、皮を張られて鼓のようになった長柄槌を回収したが、香料や粉末などの細々した道具は持ってきていない。
「なんとか必要最低限は取ってきたな」
手元に残った道具を床に並べ、サルヴァは深々と溜息をついた。
「サル兄、どうすんのこの後」
「どうするもこうするも、また楔打っていかねーと。あんなモンに直接突っかかってくなんざ馬鹿のやることだ」
「サルヴァ、ゼリエはどれくらい持つと思う」
邪霊の知識が薄いレムには、何一つ見当がつかない。尋ねられたサルヴァは、表情を平静に保とうと苦労しているようだった。
「二日……持ってくれッといいけどな」
「それまでに楔を打って邪霊を鎮められるのか」
「さてな、何本打ちゃいいか……」
眉間に皺を寄せて考え込んでしまった。邪霊の規模を測りかねているのだろう。
「兄貴、こうなれば面倒だ。直接心臓部に打ち込みに行けばいいではないか」
「何を打ち込むんだよ。こんな細え楔じゃ、すぐ取り込まれンのがオチだぞ」
「何ならいいのだ」
「タル兄、もうちょっと考えてから喋ろうよ」
「お前はさっきから縮こまっているだけだろう。小さくなりすぎて消えてなくなるつもりか」
「そりゃとっとと消えるか逃げるかしたいけどさ、オイラたちそこまで便利じゃないっての」
「おめーら、この俺の冴えた思考が今邪霊の規模を予測してんだから邪魔すんな」
考えてどうにかなるものなのだろうか。サルヴァにとって、木の枝が動くほどの邪霊が未知なら、結論が出たとしても現実にどれだけ近づけているのかわからない。
「邪霊は楔打ちだけでも払えるのか」
サルヴァは、タルヴィの思いつきそのものは否定しなかった。つまり有効なのではないだろうか。尋ねると、サルヴァは肩をすくめた。
「まー、直打ちって手もなくはねーけど、魔剣級のマジナイがかかってねーとな……大体、心臓部なんざ作りゃしねーし、あったとしても霊地の位置だ。
つまり腹ン中の一番深いところだぞ。そこまで行く間に意識飛ばされてぶっ倒れら。つか刺したら余計暴れるだけじゃね」
「弱らせることはできるんだな」
「でも消えねーぞ。なんつーか栓の抜けた風呂桶みてーに、辺り構わず吸い込む迷惑野郎に成り下がってでも、奴らは意識にしがみ付く」
「どうしてそこまで」
「さーな。本能か何かか」
レムが心を通わせた精霊は、どれも氏族を大切に思っていた、誇り高い意識たちだった。アラバに至っては言うまでもない。
あの邪霊もかつてそうであったはずである。それなのに、存在の危機に瀕して、みっともなくとも生き延びようとする姿は、どうも結び付けがたい。
「サル兄、なんでアネさんだけ連れて行かれちゃったんだろうね」
ザリチュの薄桃色の鼻先が、宙に上がってきた。
「しょーがねーよ。流れ狼ってな、そーいうモンだ」
「流れてきたのはチビ黒の方だろう。姉さんは木の下に座っていたぞ」
「わざと言ってんのかおめーは。精霊の加護がねーと、こーいう時に手の打ちようがなくなンだよ。魔法にも楽にかかっちまうし、頭をやられる系統なら一発だ」
「オイラたちは大丈夫なのに」
「おめーらは元々他所者だからな。俺とつるんでるから、俺の精霊がついでに守護してくれる。でも流れ者のババアは精霊がいたのに、放り出してきた状態だ」
「だから手は貸さんと。兄貴の精霊も器量の小さい奴だな」
「『も』ってな何だコラ」
話がまとまる様子もない三人を置いて、レムは立ち上がった。疲労が体にのしかかってきているが、休んでもいられない気分である。
「チビ黒、どこへ行く」
「少し外を見てくる」
「あんまり遠出すんなよ。捕まっちまったら助けようがねーからな」
「わかってる」
建物から出て、廃村の小路をどこへ行くともなしに足を進めていく。
葉の生い茂った木の枝が素肌を揉むような、微妙な不快感は、まだ辺り一面に残っている。
邪霊の存在によるものだということは、おぼろげながら察しがついていた。
まだ感覚に障るようなものに触れると、神経は疼きだす。それはもうこれ以上良くならないだろうと、なんということもなしに悟っていた。
この痛む感覚器官を抱えながら、今までどおりにやっていくしかない。
非常に気分の滅入る予測であった。
ゼリエは、どうしているだろう。
思い出したくもないが、メドウズの時は枝に絡め取られて木の幹に埋め込まれていた。
もしゼリエも同じであるなら、たとえ間に合ったとしても発見は難しいのではないだろうか。
サルヴァがどれくらい精霊返しに慣れているのか、レムにはわからないが、二日で邪霊を鎮められるとも思えない。
ただ、別の手段もある。トヲリの風釘の力を借りたとはいえ、レムは一度あの邪霊から逃げ切っている。
一度できたことが二度できない道理はないはずだ。ゼリエだけを連れ出すことも、きっと可能だろう。
無茶な考えだとはわかっているが、このままサルヴァたちの後ろについたまま何もしないで「どうしようもなかった」などと当たり前の事をさも悲痛そうに言って
何もしなかったことを正当化してしまうような、無様な結末だけは御免だった。
時折ゼリエが見せる苦悩の表情を見ると、レムは素手で日が暮れるまでがらくた置き場を掘っていた祭司長の姿を思い出す。
祭司長の立場からは解放されても、ゼリエはまだ、あのがらくたの山から、捨ててしまった木彫りの腕輪を見つけられていないのだろう。
塵の山を掘る彼女の心に広がるものは、モノマの砦で、名を失った義兄が抱えたまま沈んだ感情と同じではないのだろうか。
すぐに建物に戻り、まだ何のかんのと言い合っている三人の元へ再び赴いた。
「サルヴァ、私はやはり行く」
「あん?」
何を言い出すんだと言いたげに、サルヴァが顔を上げた。
「ゼリエを連れ出してすぐに戻ってくる。何か武器になるようなものを貸して欲しい」
「おいおい、よせって言っただろ」
腰を浮かしかけたサルヴァの隣で、タルヴィがずいと立ち上がった。
「俺様も行ってやろう」
「オイコラ牛!」
「あの手の奴とは、いずれ決着をつけねばならん。大陸最強は我々闘牛士だということを証明してやる」
嘯く表情に、皮肉めいたところはない。本気で邪霊と殴り合うつもりなのだ。その挙措と同じように、素朴でストレートな言葉である。
「知るか! おめー闘牛士やめたんだろ! 焚きつけんなアホ!」
「一度闘牛士となった以上は、死ぬまで闘牛士だ。兄貴、引退した牛がトレーニングを怠って三下に敗れたとしても、それは闘牛士の敗北なのだ」
「そーいうことを言ってんじゃねー!」
「サル兄、なんかおいしいところみんな持っていかれちゃってるよ。アネさんにいいとこ見せるんじゃないの」
「ううううるせー! 俺は理性的でクレバーなの! 俺がそーいうノリに任せた動きしたら、おめーらとっくに道に迷ってんだろ!」
「兄貴、いい事を教えてやろう。目的地の大体の方角さえわかっていれば多少迷ったところでだな」
「もう喋んなおめーはハナシがズレるだろーが! おいザリチュ、どうだ。チビ助行かせたらマズそうってのはねーか」
「マズいかどうかって言ったら、もう全部マズいよ。オイラ小さくなって消えたい」
「できるのではないか」
「できないって。たとえじゃん。鼠をなんだと思ってるのさ」
「子供は普通に成長するが、年寄りは縮んでいって消えてなくなるのだろう」
「タル兄さあ、冗談なのか本気なのか区別つかないからやめてそういうの」
「遊んでねーでおめーらも作戦なんか考えろ!」
「作戦って言っても、ねえ」
ザリチュの言おうとしていることはわかる。邪霊の対処の仕方にはサルヴァが最も通じているのだから、牛と鼠が手を出せる範囲はほとんどない。
すぐにでも決断を下せるはずのサルヴァが悩んでいるのは、ひとえに取り込まれたゼリエをどうするかの一点に、決心がつかないだけだ。
「だから、俺様が行くと言っている」
そんな兄貴分の懸念をわかっているのかどうか知らないが、タルヴィはそれが最善手だと言わんばかりに自分の胸を親指で指し示す。
「しくじったらおめーらまで食われるんだぞ」
「でも、ゼリエをこのまま放っておくわけにもいかない。私も行く。だから武器を貸してくれ」
「つーけどよお」
サルヴァはあくまで煮え切らない。
「私は一通りの物は使える、楔を貸してくれればいい。サルヴァだってゼリエを助けたいんだろ」
「ほう、よく気付いたなチビ黒。兄貴とて仲間を大事にしたい気持ちは変わらん。ただ煮え切らん性格で、よくわからん見栄を張るからな」
「おめーコラ好き勝手言いやがって。俺は思慮深いっつの。おめーの場合煮え切らねーどころか直火で黒コゲじゃねーか」
「まあアレでサル兄がアネさんにホの字ってわかんないほうが珍しいよね」
と言って、自分のその言葉に何か感じるところがあったのか、ザリチュが少しだけ首をかしげた。
「なんかさ、サル兄って自分から惚れた相手みんな逃がすよね」
よくわからないが、ザリチュのその呟きがサルヴァの最後の一線を豪快に斬り飛ばしたようだった。
「あーもー持ってきゃいいだろチクショー! 一本でいいのか!」
自暴自棄の態でレムに鉄の棒を投げて寄越し、ついでにタルヴィにも皮を張った槌を投げつける。
「兄貴、なんだこれは。俺様は得物を使わんのは知っているだろう、手加減しろというのか」
「違えよ! おめーじゃなきゃ誰が太鼓叩くんだよ! なんかの備えだ、ガタガタ言わねーで持って行け!」
「気が進まんな」
不承不承に、牛が鼓槌を軽く振った。
「すまない、サルヴァ」
「俺は行かねーからな! 最初ッから楔打って精霊返しするって作戦だったろーが」
拗ねた様子で、サルヴァは顔を背けた。
「サル兄、オイラはどうしよう」
「やめとけ。いの一番に捕まんのがオチだぞ」
「そうだよねえ……」
受け取った鉄棒に、握りやすいよう布を巻いた。目の粗い木綿越しに、鉄のひやりとした感触が手のひらに伝わってくる。
同時に、神経の傷が僅かにざわめく。金属に活力があるというのもおかしい気がするが、楔の瑞々しさを感じ取ったように思えた。
斬ることはできないが、突き刺すならば蛮刀よりしっかり突き立てることができるだろう。両手剣の感覚で握るとやや短いが、蛮刀と同じように片手で扱うには少し長い。
ともあれ、必要なものは手に入った。
一刻も早くゼリエを助けに行きたい気持ちはあるが、逸れば死ぬのは何が敵でも変わらない。
サルヴァに指針を求めようと思った時に、タルヴィが動いた。
「うむ」
顔を上げるレムを見ながら、牛が頷く。
「では話もまとまったところで、早速行くぞ黒チビ」
「え」
「早えよボケ! せめて対策とか立てろよ!」
「相手がその通りに動くとは限らんではないか」
「うわあ、一見まともなように聞こえる反論だあ」
「こういう時だけ頭回りやがって、クソッ!」
こんな場面でも普段の勢いを失わないところは頼もしいと考えてもいいのかもしれない。
少なくとも、邪霊に意識を取られそうになっても多少は抵抗できそうではあった。下手に悲愴ぶっているよりもましだろう。
ただ、出発準備がまとまるまで、時間がかかりそうであった。
待っている、ということだけは覚えていた。
いつ頃から待っているかは、わからない。ただ、自分から時間の意味が失われたことだけは確かだった。
まだそうなる前にこの地で共に生活していた皆は、いつ頃かに自分を残してどこかへ出かけていった。
その時からずっと、何も変わらない。変わらないものの中で、時間の意味が消えた。
ただ、いつ皆が帰ってきてもいいように、皆の住む場所はしっかり維持している。
それだけが、今の自分のできることだった。
留守番仲間が増えた時は、少し遠出してみようかな、と思う。帰ってきていた皆が、近くまで来ているかもしれない。
期待を胸に足を伸ばして、結局空振りに終わり、疲れ果ててすごすごと元の場所に戻ってくるのが、お決まりの展開だった。
そして気がつけば、一緒に留守番をしていた者もいつの間にかいなくなっている。
また、待つ。
珍しく沢山の留守番が来たので、普段より遠くへ行こうと、普段いる場所から離れたところで、今までとは違うことがあった。
遠くへ出ようとしても立ち止まらなければならなくなるように、わざと邪魔物を置いていった者がいる。
普段なら触らずに避けただろうが、今日は留守番が多い。気を強く持って、その邪魔物を除けた。
それでも、一番肝心な、皆が戻って来ているかどうかは、結局いつもの通りだった。
気落ちして戻っていくと、沢山来ていた留守番仲間はまだかなり残ってくれていた。
そのことに安堵して、また待つ体勢に戻ろうとした時、ここでも今までとは違うことがあった。
がらくたの山だったと思う。その上に膝をつき、手で山を掘り続ける子がいた。
なぜそんなことをしているのか、よくわからなかった。留守番仲間が、何かしているのかどうかなんて、今まで気にも留めていなかった。
何をしているのかと聞いてみると、何かを探しているのだと言った。何を探しているのかは、教えてくれない。
そのやり取りをしている間も、その子は山を掘り続けていた。硬そうながらくたや尖った石がいくつも出てきて、その子の手は傷だらけになっていた。
心配になって止めるが、首を振って聞き入れない。どうしたらいいのか、わからなくなってしまった。
そもそも、あまり人と話をした覚えがない。どんな風に話しかければいいのか、昔は覚えていた気がするが、もう忘れてしまった。
考えた結果、あなたも留守番を手伝いに来てくれたのかと問うと、その子はあまり愛想のない表情に戸惑いの色を乗せて、わからない、と答えた。
――
邪霊の勢力下に入った瞬間、ただでさえ傷の残る神経系が、じわりと痛んだ。
それだけでなく、強力な何かが周囲を取り巻いているという焦燥が、重さを持った空気となって肌を押してきているようでもある。
先行する牛は、それを感じ取っているのだろうか。力強く重さのある歩調に、揺らぎや躊躇の類は一切ない。
「ふうむ」
枝や草木は、今はなりを潜めているようであった。だが、いつまた動き出すとも限らない上に、影響下にあるだけでも体力が減らされる感覚はある。
そんな空気もそ知らぬ顔で、タルヴィはそのあたりの茂みを覗き込んでいる。
「タルヴィ、何かあったか」
「武器やら何やらが散らばっているぞ。誰かいるな」
「邪霊がいるなら、邪霊に食われた者もいるだろ」
「そういうものか」
生返事をしながらタルヴィが茂みに無造作に手を突っ込む。
それだけで草に腕を取られてもおかしくないのに、なんということもなく誰かが纏っていたのであろう革の胸甲の切れ端を引きずり出してきた。
「ふうむ。これはまた、着ていた奴は随分痩せていたのだな」
地面に無造作に投げ捨て、次の茂みを覗き込んで折れた剣先をつまみ出してくる。
「さすがにこんなものを飾りでつける奴はおらんか」
「それどころじゃないだろ。ゼリエを探し出して、早く抜け出さないと」
「焦るなチビ黒。どこぞの鼠ではないのだぞ」
牛は呑気なもので、レムの指摘を意に介した様子もなく、先程から落ちているものを引き出しては放り出す作業を繰り返している。
これでは邪霊に見つけてくれと言っているようなものではないか。
とは言え牛には邪霊を挑発する意図があるわけでもなさそうである。
「タルヴィ、もしかしてゼリエの痕跡を探しているのか」
「言わなかったか」
「聞いていないぞ」
「そうか。お前も手伝え」
牛が鈍いと言われる所以を、なんとなく垣間見た気がした。
自分の行動がどれだけ危険を呼ぶ可能性があるか、考えが及ばないわけではないだろうが、ほとんど気にした様子もない。
「木や草に触れるのはやめたほうがいいんじゃないか。邪霊を起こすことにはならないのか」
「兄貴に聞いてくれ。俺様にはよくわからん」
そう言いながら、茂みから鉄板を貼り付けた布の切れ端らしきものを投げ捨てる。
「ぼさっとしている場合ではなかろう。日が暮れれば面倒なのではないのか」
言葉の調子に、働いていないのはどちらなのかと言わんばかりの批難調がかすかに滲む。
動けということなのだろうが、動くとなるとタルヴィの様子から見れば、やはり茂みに分け入って装身具の残骸を探すことになる。
あまり邪霊を刺激するようなことはしたくはないが、他にどうするという考えもあるわけではない。
「わかったよ」
「よし、それではそちら側を任せるぞ。毛の一筋も見逃すな」
適当に、当たり障りなく済ませようと思った傍から、タルヴィの指示が飛んできた。
こうなれば腹を括るしかない。神経のひりつきを大まかな目安にして、半ば投げ遣りに辺りをかき回す。
サルヴァの機嫌は悪い。
日が高いうちに早々に二人を送り出したが、それ自体も決して乗り気とは言い難かった。
「サル兄、良かったの? ついて行かなくて」
「全員で出張って一網打尽ではいサヨウナラ、なんざシャレにもなんねーだろ」
苛立ちを隠さないまま、楔をまとめて背負えるように紐で縛り、肩にかける。
こちらも、既に出発の準備は終えてある。
「大急ぎで楔打ち込んでいくぞ。地鎮め歌はキャンセルだ、とにかく体裁だけでも繕っとかねーと」
「でも鼓槌もタル兄も邪霊の中だよ。手で楔刺しても、たいして深く刺さらないじゃん」
「ッくそあの牛頭……いらねー時だけ突っ走りやがって」
出鼻を挫かれて、前向きに高めてあった気力がそのまま鬱憤に変換される。
眉間に皺を寄せて頭を振るが、それでも行かなければならない事実を真っ直ぐ見据えることにしたらしい。
大きく息を吸い、大きく息を吐く。
「ザリチュ、当てずっぽうで構わねー。ここだって場所に見当つけてくれ。楔の数が揃えば、タルヴィとチビ助もやりやすくなるだろ」
「そうだよね。任しといて」
さすがにザリチュもそれ以上は不安を口にしなかった。
木々の間から衣類や装身具の痕跡を探す作業は、始めこそ邪霊に感づかれないように密やかに行われていたが、
さほど時間を経ずして土木作業さながらの派手なものに変わっていた。
おおむねタルヴィの動きのせいだが、いつまた枝や草が伸びてくるか気が気ではない。
目の前でメドウズが絡め取られて大木の幹に取り込まれていったのは、あの時こそ助かったと思ったが、落ち着いてから思い返せば
レム自身も極めて危険な状態にあったのは疑いようもない。
大の男が体の自由を奪われるほどの力なら、掴まればどうしようもないだろう。
そんなことを考えている目の前で、タルヴィが枯れたような色をした生気のなくなった木の幹をひょいとへし折った。
周囲の枝も巻き込みながら、大きな音を立てて倒れていく幹を呆然と見送っていると、木の上から何かが地面に落ちた。
重い音がする。
「おい黒チビ、何かいるぞ」
「わかってる」
サルヴァから借りた楔は既に構えてある。着地と同時に飛び掛ってきたとしても、相打ち以上は確実に取れる反応速度は戻ってきている。
ただ、反射的に構えた瞬間よりも、何かが落ちてきた時の方に、神経の痛みがあった。
もう、神経の傷は肉体の動きに影響される段階から脱したと考えてよさそうである。
「タルヴィ、それは何だ」
「まあ慌てるな」
臨戦態勢のレムに比べて、ほぼ普段と変わりないタルヴィが太い腕で落ちてきたものを掴み上げる。
脂の抜け切った毛が、タルヴィの触れた部分からはらはらと散る。
腕から吊り下げられる形になったそれは、狼の形をしていながら、その体の組織は既に正常の狼とは言えないくらい衰えてしまっているのが、見てわかった。
断崖城の霊地で寝転がっている老狼を連想させるが、あちらの方がまだ活力がある。
この狼は、生きているかどうかすら怪しい。耳を澄まさなければ呼吸音もわからない。
「こいつは」
「見覚えがあるのか、タルヴィ」
「お前を寄越せと騒ぎ立てていた連中の一人だな。俺様の腹に一太刀入れた奴だ」
こともなげに言いながら、近くの木にその狼をもたれ掛けさせる。
確か、サルヴァが彼らを叩き出したのは一昨日あたりだったはずだ。目も口もだらしなく半開きのまま、意識があるかどうかもわからない。
「たった二日でこれか」
これでは連れて帰ったところで、元の通りに自力で生活できるようになるかどうか。
ゼリエを探すのも、急がなければならない。運よく命があったとしても、一人で身の回りの世話さえできないとなれば、ゼリエは生きてはいないだろう。
タルヴィを見ると、そんなレムの意図など目を向けようともせず、なにやらしきりに辺りを見回している。
いちいち立ち止まり、枝に絡まってぶら下がっている石を眺め、台座のように盛り上がった土を見下ろし、捻じ曲がった木が絡まりあって柵のようになったものを足で押し、
手近なところを一周して、レムの近くに戻ってくる。
「よもや、家か」
顎に手を当ててぼそりと呟いた。
どこがそう見えるのかは、さっぱりわからない。
「誰か住んでいるってことか」
「概ね間違いない。家だ」
「誰が住んでるんだ」
「さてな。こいつらではないか」
よく見ると、タルヴィの足元に、風化してぼろぼろになった骨がぼろ布に埋もれて落ちている。
まだ邪霊が精霊であった頃の氏族たちだろうか。そうであったとしても、住居の痕跡が何かあってもいいはずだ。
かまどは石で作られるものだから残っていてもおかしくないし、鉄製品は当然あるだろうから、ぼろぼろになっていたとしても探せば見つかるはずだ。
だが、石はあっても大きな塊がごろりと転がっているばかりで、生活用具に加工した跡は見受けられない。
「タルヴィ、ここのどこが家なんだ」
「家だろう。そこが裏口で、あちらが小窓だな。この狼は屋根に上っていたところを見ると、さしずめ雨漏りの修理でもしていたのか」
「だから、どこをどう見ればそうなるんだ」
「わからん奴だな。いいか、玄関はあれだ」
「そういうことを聞いているんじゃない」
タルヴィが眉間に皺を寄せるのを見ながら、レムはふと牛の言葉に引っかかるものを感じた。
「雨漏りの修理ってのはどういうことだ」
「子供のようにあれもわからんこれもわからんと。少しは自分で考えたらどうだ」
と突き放しておきながら、レムが反発を覚えるより早く、タルヴィは狼が落ちてきた位置まで大股に歩み寄っている。
「いいか、こいつがいたのはここだ」
腕を挙げて、枝を掴む。
見た目以上に脆くなっていたらしい木の枝が、絡まりあった部分ごと折れてタルヴィの上に降り注いだ。
「これが屋根だ。で、こいつはここの上にいた。屋根裏部屋があった様子がないのだ。ならば屋根に上るのは馬鹿と煙と子供ぐらいのものだ」
「雨漏りの修理は」
「おお、それもだ」
掴んだままの木の枝を脇に投げ捨て、盛り土を叩く。
「これは卓だな。使われている形跡がないということは、使われておらんのだろう。だが、家に卓は付き物だ」
タルヴィは、ひとつひとつ壁だ棚だと言いながら木や土や石を叩き、家主だなどと言いながら足元から骨やら服の切れ端やらを引っ張り上げて見せる。
レムにはこじつけのようにしか思えなかったが、タルヴィは自分の思いつきが当たっていると確信しているらしい。
特に否定する根拠も必要性もないので、ひとしきりの説明を黙って聞いた。
「それで、ここが家だったとして、どうなんだ」
「ふむ」
苛立ちが滲み出ている自分の声を聞いて、これだからサルヴァたちもああいう応対になるのだろうなと奇妙に納得しながら、タルヴィを見る。
そこから先は考えていなかったのがよくわかる面持ちで、牛は腕を組んだ。
「家があるということは、どういうことだ?」
邪霊に捕まる前に気力が潰えそうだった。
「せめて住人がいるとか、集落があるとか、そういうことを考えるものだろ」
「ほう、黒チビお前なかなか頭が回るな」
レムくらいの子供に知恵で追い抜かれて腹を立てるような小物よりはましだ、と無理矢理気分を落ち着ける。
「ではそれにするか。集落があるのだ」
「ああ、もうそれでいい。で」
「せっかく褒めたのだ、もう少し自分の頭を使え。賢くならんぞ」
「タルヴィ、そろそろゼリエを探す方に戻らないか」
そろそろ鬱憤を抑えるのも難しくなってきた。
できることならここで解散してしまいたいが、それでは邪霊が起きた時に逃げ切れる可能性が限りなく低くなる。
となれば、せめて何か作業をしていなければ気が静まらない。
「集落があると見当がついたなら、この近くにも家があるはずだろ。住人までいるなら、ゼリエもどこかの家にいるかもしれないじゃないか」
「お前、やればできるではないか」
適当にでまかせを並べてみただけだったが、タルヴィはそれで納得したらしい。
「ではそうするか。黒チビ、狼の集落のつくりがどうなってるか、大体思い浮かべられるか」
「ある程度、ここにこれがあるっていうのなら見当はつくけど、氏族によって違うからな。正確にはわからない」
「うむ。では行くか」
「どこへ」
裏口を踏み潰して歩いていく背中に一声投げかけると、筋肉の壁のような牛はまたしても腕組みをして止まった。
――
しばらく、その女の子にくっついて、色々な話をした。
なぜって、一緒に留守番をしてくれる人とこうやってお喋りをすることなんて、滅多にない。
ほとんど自分から話しかけて、彼女が二言三言答えるような、お喋りともいえないやり取りばかりだったけれど、それでも楽しかった。
今まで考えもしなかったことを、たくさん思い出せた。その子もわからないことは多かったけれど、知っているはずのことを思い出せないことも面白かった。
話をしている間もその子は山を掘り続けていた。
何かを我慢しているような顔で、傷だらけの手で苦しそうにがらくたを掘り返す姿を見て、心配になって、やめるように言ってみたが、彼女の返事はなかった。
どうしても気になって、なんで手で掘るのか聞いてみた。本当にがらくたに埋もれているのなら、道具を使えば早いじゃないか、と。
彼女は戸惑ったような顔で、一時だけがらくたを掘るのを止め、道具は使えない、と囁いた。
何故使えないのかは、やはり答えてくれない。答えられないのかもしれない。
別のところにあるかもしれないと言ってみたら、寂しげに首を横に振った。
探し物があるとすれば、ここくらいしか心当たりがないのだという。
でも、もう随分掘り進んでしまって、まだないのなら、本当に探し物がここにあるのかどうかわからないと言ってみた。
少し彼女ががらくたを掘るのを止めて、自分に構ってくれないかと思っての、何の気のない一言だった。
でも彼女は、また掘り始めてしまった。
泥まみれの手で痛そうに、泣きそうな顔をして、探し物がここにないのは知っているから、と答えた。
――
鉄の棒の尖った先端を地面に突き刺し、布を巻いた鉄笛で叩く。
こういう使い方をすると音色が歪むが、今はそんなことを言っている場合ではない。普段楔打ちを任せている牛も、道具に使っている鼓槌もどちらもないのだ。
とりあえず今は、うっかり狙いを外して鉄棒を支えている鼠の脳天を打たないように、気をつけなければならない。
まあ、鼠だからそれと察知したら自分で勝手に逃げるだろう、と余計なことを考えたと同時に、ザリチュが楔から手を離して距離をとった。
「ん、どーした」
「いや何か今嫌な予感が」
「邪霊か? そうだよな、こんだけでかい奴が大人しくしてるワケねーもんな」
「どっちかって言うとサル兄の手元がぞんざいになった感じっていうか」
「なんだよ」
「とにかく邪霊はまだ大丈夫そうだよ」
なんとなく落ち着かない様子で再び楔に手を添えて支えるザリチュを横目に、サルヴァは辺りを見回した。
邪霊の範囲は、最初に予想していたより広い。
今楔を打っている地点も、距離をとっているつもりだったが、周囲の植物から邪霊に追われた時に感じた廃屋の匂いがほのかに漂っている。
楔を打ち始めて気付くというのも間抜けな話だが、すぐ近くに邪霊の勢力圏の最外縁部がある。
風が梢を揺らす音がした。
「おい、チャンスじゃねえかザリチュ」
「サル兄もやっぱりそう思う?」
サルヴァの読みとザリチュの直感が重なった場合、大抵はその予測は正しい。
「邪霊がどっか行ってるっぽいな。珍しいこともあるもんだ」
「嫌な感じがかなり薄いよ。今なら多少入り込んでも、何とかなるかも」
「しっかし、タルヴィの野郎がいねえと話がこじれなくていいな」
「なんか物足りない気もするけどね」
「ヘッ、悪い兆候だな。お前も筋肉の精霊にでもなるか?」
「やめてよ、オイラがタル兄の特訓受けたら死んじゃうよ」
「生き延びれば鼠の英雄かもな。タルヴィぐれー筋肉つけてよ」
「ボールみたいになっちゃうよ! なんか気持ち悪いよイメージが!」
「へヘッ、ぞっとしねえな。ま、邪霊の気がこっちに向かねえうちに、とっとと楔を打っちまおう」
布越しに鉄がぶつかり合う振動が、手の骨を揺さぶる。
布を巻いて音と衝撃を殺しているが、それでも楔を打つ時の音はすべて消えたわけではない。
しかし、何度音を立てても、邪霊が反応する気配は感じられなかった。
「ねえサル兄、ひょっとしたらアネさんが踏ん張ってるのかもね」
「だといいけどなァ」
タルヴィに任せた時より格段に時間がかかった割に、楔の刺さった深さは牛が打った分にまだ及ばない。
だが、一本に時間をかけているわけにはいかない状態でもある。
「次行くぞ」
「もう?」
「日が暮れる前に囲んじまわないとマズいだろ」
「そっか。そうだね」
振動で痺れるのか、楔を支えていた手を揉みながらザリチュがついてくるのを見て、サルヴァも早足に次の予定地点へ向かう。
目の前を進むタルヴィは、一向に歩調が落ちない。
少しずつ距離が開いていくのを黙って追いつこうとしていたが、そろそろはぐれる危険も出てきそうな間隔になってきたので、
声をかけなければいけないかと思った辺りで、ちょうどタルヴィが後ろを振り向いた。
「どうしたチビ黒、もうバテたのか」
牛が足を止めると同時に、枯れた植物を破砕する騒々しい音も止む。
言葉の呆れたような調子に、少しだけ反発を覚えた。
確かに体がなまっているのもあるかもしれないが、レムの調子はかなり元に戻ってきている。
不安といえば剣の感覚が心許ないぐらいで、もう山道程度でそうそう疲れたりはしない。
「邪霊の影響だと思う」
邪霊の勢力下であれば、体力を奪われていくのが当然だ。
以前邪霊に追われた時にも感じた、まとわりつくような倦怠感は、薄くではあるが今も辺りを取り巻いている。積極的な行動には出ていないが、邪霊の災厄は健在なのだ。
なぜあの牛は、木をへし折ったり岩を蹴り転がしたりとレムより遥かに多い運動量をこなしていながら、疲れた様子を見せないのだろう。
「どうした」
「いや、ぜんぜん疲れていなさそうだなと思って」
「当然だ。鍛えているからな」
そういう意味ではないのだが、タルヴィは無駄に胸を張っている。
「むしろお前の方がひ弱なくらいだ。子供だからと少ないトレーニング量の輩も多いが、子供だからこそきちんと体を作っておくことが」
サルヴァもザリチュもいないとなると、牛の長広舌を遮る者が誰もいない。
おまけに喋り倒して満足してくれるのならまだしも、タルヴィは心からの善意らしく、時々きちんと聞いているか確認を取ってくる。
言い返せば話が噛み合わず、向こうは粘り強く言い聞かせようとしてくるかなりの強敵だ。
悪人ではない。
だからこそ性質が悪い。
「確かに闘牛士などやっておれば体の磨耗が早いが、闘牛士でなくとも鍛えるのは大切だ。歳を取って体が萎えて動けぬなどというザマを晒すのは」
問いかけられた時に答えられるよう、最低限の単語だけ拾いながら後をついて歩いていると、何かが爪先に当たった。
「聞いているか、チビ黒」
タルヴィには答えず、足元のそれを拾い上げる。
「何か手がかりがあったか」
「いや、そういうわけじゃない」
「ならば話を逸らすための方便か。ネズ蔵の真似は感心できんな」
「そうじゃない」
両手で持たなければならないくらいの棒状の塊を、持ち上げて構えてみた。
さすがのタルヴィも、その歪な塊に目を向ける。
「なんだこれは」
槍だ。
忘れるはずもない。
モノマの集落で、幾度となくレムを掠めたバルフィンの騎兵槍だ。
それが、傷だらけになり、黒く変色し、身をむしり取られてぼろぼろの有様で転がっていた。
円錐形だった槍は何とも言いがたい歪んだ細身のオブジェに成り果て、側面の装甲は槍の身に鋲の跡を残すのみとなっており、切先も欠けて捻じ曲がっていた。
「酷いな」
意図せず、呟いた。
「ふむ。で、何だこれは」
相槌を打ってから同じ言葉を繰り返すタルヴィにちらりと目を向ける。別に、演説を中断させられて気分を害した様子もない。
「モノマのバルフィンの槍だ」
その返答が、少なからず興味を引いたようだった。
「随分と珍妙な形だな。こんなものを使っている物好きもいるものだ」
「そうじゃない。元々はもっと円錐形で、こう、鉄の塊を磨いたような分厚さがあったんだ」
「それがどうしてこうなった」
「壊されたんだろ」
傷は、斧や槌によるものだろう。変色しているのは、火で焼かれたせいだ。
火で焼かれて鉄が弱くなったところをさらに打たれ、強度も形状ももう槍として使用に耐えないくらいになっていた。
「壊す意味などあるのか」
「知るもんか。バルフィンへの恨みでもぶつけたんじゃないのか」
いちいち聞いてくる牛に苛立ちすら覚えながら、槍をどうしたものかと眺め回す。
「何が酷いのだ」
「何がって」
「さっき、酷いなと言っていたな。だがバルフィンとやらは、お前の話によれば随分な外道だったと言っていたではないか」
正直なところ、自分でもすぐに言葉に表すのは難しい。確かにバルフィンなら、それくらいされても仕方がないところはあった。
「でも、武器は悪くないだろ」
「ふむ」
「斬って殺すのが武器だろ。他の種族じゃ、呪われてるとか祝福されてるとか言うらしいけど、どっちも武器だ。
善いか悪いかの区別なんか、誰を斬ったかって違いだけじゃないか。斬る斬らないを決めるのは武器じゃない、使う奴だろ。
それなら、バルフィンの手から離れたこの槍は、ただの槍だ。こんなにぼろぼろにする意味はない」
結局レムの手元に戻ってこなかった蛮刀も、バルフィンにどういう使われ方をしたかわからない。
だがレムが使っていた間は、無意味な命は奪わなかった。どちらが蛮刀の本当の姿かと聞けば、小賢しい奴が訳知り顔に「どちらも正しい」と言う程度に決まっている。
武器に善悪などない。ただ、使い手の意志を映すのみだ。
それでも、たとえ武器に心がなくとも、ひとときなりとも己の行く末を任せる物なのだ。
憎い相手の武器だから、こんな風に粗末に扱っても良い、などということがあろうはずはない。
「氏族の間でも、戦う者がいなくなれば、それ以上殺さないし、傷つけもしない。そんな事をする奴は、野盗と一緒だ。武器だって、使い手がいなけりゃ戦わないんだ」
「そうか」
タルヴィが自分の手の平に拳を打ち付けた。
寝ている野の獣でも飛び起きそうな乾いた音が、邪霊のいる山林に響き渡る。
「ならばその槍、お前が持て。チビでガキだが、心根のまっすぐなお前が持てば、邪霊相手に何かの役に立つかも知れん」
「え」
「武器もないのだろう。楔など、あれはただの鉄の棒だ。ちゃんとした武器の方がよかろう」
槍の状態などお構いなしに、タルヴィは何やら一人で得心した表情でしきりに頷いている。
「ちょっと待て、タルヴィ」
「心配するな。兄貴が言っていたぞ、精霊相手の魔術戦はこじつけが上手い方が勝つとな。であれば、お前の気性に打たれて心を入れ替えたこの槍は、お前を助ける」
「どういう意味だ。いや、そうじゃなくて」
「大丈夫だ。武器に善悪はない。俺様が保証しよう」
ここで大荷物を抱え込んでは、ゼリエを探すのになおの事手間がかかるだろうに、タルヴィはその辺りを聞く気はないようだった。
とは言え、今さら捨てていくと言うのもばつが悪い。何より槍を持って行くより、タルヴィを説得する方が手間がかかるに違いなかった。
愛想のない女の子はずっと、血で固まった泥が傷口に入り込んだ手で、がらくたの山を掘り返している。
彼女は探し物のために穴を掘っているのではない。直感だったが、疑う余地もない。
なぜそんなことをしなければならないのか、まったくわからない。
そもそも彼女には尋ねたいことが山ほどあった。
何を探しているのか。わからない、と答えが返ってきた。
なぜ、ないと知っていてそこを掘るのか。それもわからない、と言われた。
どうして、彼女だけ自分と話が――
不自然に言葉を切ったのに、女の子は何の反応も見せずに、山を掘り返し続けている。
しばらく混乱していたが、自分が何に戸惑ったのかなどは、思い出さなくていいということを思い出した。
今度ははっきりと、やめるように言った。
なぜそこまで、その子に構うのか、自分でも少し不思議に思う。でも、久々に誰かと話ができる機会なのだから、気にかけて当然だ。
話をするなら、もっといい場所があるはずだ。せめてこんな意味のないことはやめて欲しかった。
これではまるで、自分の墓を掘っているようではないか。
誰かが消えていくのを見ているだけは嫌だった。
言葉に出してそう伝えても、女の子は見向きもしなかった。
これ以上は、何も言うことが見つからない。落ち込んだ気分で作業を見守っていると、ふと集落に誰かが来たことに気がついた。
留守番の人がまた増えるのだろうかとも思ったが、さっき出掛けた時にあった嫌なものの感じもある。
今までとは、雰囲気が違う。迎えに出たほうがいい、と思った。
彼女の事といい、今回は普段と違うことが多すぎる。
一人残していくのも心配だが、と女の子を見ると、墓を掘る手が止まっていた。
目が、真っ直ぐ前を見つめている。新しく近づいてくる不思議な留守番の人の方向だ。
――
ざわざわと音を立てながら伸びてくる木の枝を、焼け朽ちた槍で打ち払う。
枯れたような外見の枝は、嫌な湿っぽさの残る音を立てて、生木の断面をあらわにしてへし曲がる。
槍の損傷部分に枝が引っかかって、引き戻す時に余計な力が必要だった。
それに、壊されて随分体積を減らしてはいるが、体格に合わない大型の槍を振るのは骨が折れる。
「来たか」
タルヴィはやる気である。
先程から、周囲をしきりに見回しながら、絡み付いてくる草木を無造作に引きちぎっている。
「おい、それで邪霊の本体はどこだ」
「私が知るはずないだろ」
「なんということだ」
そもそも邪霊を殴れるのかとサルヴァに言われていた気もしたが、レムとしてはそれどころではない。
新たな突破口が開けそうに思える場面であった。
邪霊の操る草木の動きが、傷口に触れる風や水の流れのように感じ取れる。
痛みと取ることもできたし、事実この間までは痛みだと思っていた。
だが、結局神経の痛みが治る気配を見せなかったことが、新たな考えを導き出しつつあった。
足の裏に踏みつけられた地面からも、動きを封じようと草がうごめいている感覚が、靴越しに感じられる。
遠方で、枯れた木が死に体の枝に活力をねじ込まれて、無理矢理に伸ばされていく様子が、なぜかわかった。
森のあちこちで、邪霊に取り込まれた者たちの気配が、芋虫の歩みより遅く、しかし確実に風化していく。
「ええい、これではけりがつかんではないか」
タルヴィがその辺の木を蹴りつけると、生の音を立てて倒れる。
今の木も、レムたちを捕らえるために邪霊が活力を注いでいたものなのだろう。
よくわからないが、神経の傷の疼きを慎重に読めば、そうした細かいところまで判断がつくらしいと気がついた。
「タルヴィ、ゼリエはどこに行っただろう」
「それを探しに来たのだろう。わかっていればさっさと連れてきているのではないか」
せめて当てずっぽうでも見当がつけばと思ったが、牛から返ってきたのは相変わらず絶妙に外した返答だった。いちいち言い返していてもきりがないのは既に経験済みである。
タルヴィからまともな考えを引き出すのは諦めて、神経の痛みに似た奇妙な感覚を、どうにか意味のあるものにできないかと意識を凝らす。
何故か今、ふと祭司の修練を思い出した。
息を吸い、吐き、精神を落ち着け意識をまとめ、探り出すべき何かを慎重に探る。
うごめく草、這い寄る木、うねる森、干からびていく狼、そのどれかがゼリエなのかもしれないが、判別はつけられない。
闇夜の中で明かりもなしに、耳や鼻に頼らず目だけで歩かなければならないような有様である。
闇と影の区別がかろうじてつくが、その影が一体何なのか、そもそも自分の見当が正しいかどうかを知る術はない。
少し足を止めて、もう一呼吸。邪霊のちょっかいはタルヴィに任せ、さらに深く息を練る。
せめて闇夜を照らす、星明り程度のものでもあれば――
"知る術は五つのみに非ず"
五感に、いつか感じた血の匂いと色と熱さと音とが戻ってくる。
あの時ほど激しくはない。古傷が開いたような微かな痛みと鈍い痒み。
「どうした、チビ黒」
神経で触れる闇と影の世界に、天に舞う仄かな光が、か細く鋭い輪郭を描き出す。
思い出した。
七本目の楔を打ち終えた辺りで、ザリチュが震えだした。
九本目を打つ位置に来た時、サルヴァにもわかるくらいの強大な悪寒が感じられた。
あまりの存在感に、鳥肌が立つ思いがする。実際に毛が逆立っているかもしれない。
「サル兄、来たよ」
「みてーだな。くっそ、まだ半周も包めてねえのに」
手に取った楔を地面に突き刺すが、先程までのような普通の手触りではなく、硬く弾力のある手応えが抵抗の感触を残した。
「タル兄たち、大丈夫かな」
「大丈夫も何も、どうなんだよ。おめーはなんかわかんねーのか」
「オイラたちの勘は自分最優先だから」
「鼠だけに自己チューってか」
「サル兄やめて邪霊に体力吸われる前に力尽きる」
布を巻いた鉄笛で、楔を打ち込む。やはり格段に作業効率が落ちている。
「なんだか毛穴がぞわぞわするよ。オイラたちを優先的に狙ってきてるみたい」
「そいつも勘か?」
「勘から読んだオイラの経験」
「そーかい。信用していいモンか」
「さあ。根拠って言っても元々鼠の勘が当たりやすいってだけじゃん」
楔を両手で支えているザリチュの顔は、よく見えない。
「つーかそれならアレだな。タルヴィとチビ助がうまくやってくれりゃ、俺たちにも活躍の目があるってことか」
「サル兄それ逆でしょ。タル兄と姉ちゃんの仕事楽にするために楔打ってるんでしょ」
「違えよ。元からこっちの予定だっただろーが。あいつらが行くって言うから」
「どっちでもいいよ。あと何本打つのさ」
「全部で十七あるから……」
「ちょっと待ってサル兄、今何本目?」
「九本だな」
「さっき半周も終わってないって言ってなかった?」
「言ったな」
「半分ないじゃん! どうすんのさ!」
「うるせーな、どうせ使い切れそうもねーんだからいいじゃねーか!」
「頭脳労働担当とか言っときながら計算もできないんじゃ駄目じゃん! 最後の最後で足りなくなって包囲完成できなかったらどうすんのさ!」
「そん時ゃそん時だろ! なんとかならあ」
「うわーまた適当な事言って、沼の氏族の人たちの時もそんなヌルい計算で怒らせてさ、タル兄が全員ボコボコにしちゃったんじゃないさ」
「俺ァ逃げるつもりだったんだよ、それをあの牛ァ……」
「言い訳すんのそっちじゃないでしょ、まったく」
打ち込んだ鉄笛が、やや斜めに入った。楔が傾いて土を跳ね上げる。
「うわ、ちょっとちゃんとやってよサル兄!」
「ンな事言ったってよ、邪霊が起きたみてーでやりにくいんだよ」
「急ぐんでしょ。楔で邪霊囲んだら、また演奏しなきゃいけないんだからさ」
「あーくっそー、タルヴィとチビ助、邪霊の内側でなんかやってきてくんねーかなあーッ」
「結局他人頼り!? 外から封じるのが一番確実だから中に行く奴はアホみたいな事言ってたの誰!?」
「アホとまでは言ってねえ!」
ただ、何か変だとは思った。
確かに優先的に狙われていると感じるものの、あれだけ強い邪霊の攻勢がいまひとつ十分とは思えない。
体力を奪う地相になっているが、枝葉を伸ばせるほどの邪霊が、優先目標のはずのサルヴァたちに、それをしてこないのだ。
「どしたのサル兄」
「いやー……ひょっとすっと、マジでタルヴィたちの方が付け入る隙あるんじゃねーかなーと思ってな」
ふとサルヴァの脳裏に閃くものがあった。
賭けになるが、どうせ不利な勝負を仕掛けているのだ。悪い目ばかりの中では、比較的ましなものだと思った。
「ザリチュ、ギロ出せ。予定変更だ」
「何すんのさ、まだ半分くらい残ってるんでしょ」
「ここで地鎮め歌かまして、打ち終わった楔にまとめて活入れるぞ」
「ええ、全然囲めてないよ」
「どうせこのままじゃババアとチビ助捕まえられてオシマイってのがせいぜいだ、しょうがねーからタルヴィとチビ助がなんかやってくれるのに賭ける」
「そんな無責任な!」
「他に何があんだよ、そもそもこのレベルの邪霊相手すんのに、ちゃんと修業したまともなのが俺だけじゃねーか!」
「今言わないでよ! 猫の国で最初に会った時に、別に何もできないでもいいからついて来いって言ったのサル兄じゃん!
だいたいそんなに無理なら、手出さないでさっさと引き上げればよかったのに!」
「ンな事できるか! やってみもしねーでのこのこ帰って助けてくれなんて言ってみろ、姉ちゃんたちに吊るされちまうだろーが!」
「知らないよオイラに言われても!」
「うるせー! どっちにしろバクチ張るしかねーんだ! やんのかやんねーのか!」
「うー、もう! オイラ知らないよ!」
悪態をつきながら、鼠が背負った荷物を地面に投げ落とす。
神経の疼きが導くままに、道を選び取って進む。
視覚にも聴覚にも何も変化はない。だが、その疼きを意識すると、他の感覚の捉え方も変わった。
邪霊が次に伸ばしてくる枝葉がどれか、その動きまで読める。
「おい待てチビ黒、あてはあるのか」
あまりに迷いなく進むレムに、タルヴィがいささか腹を立てている風である。
「大丈夫だ、間違いない」
一言きっぱりと返し、道のままに邪霊の森を進んでいく。
「わけがわからんぞ、きちんと話せ」
わかってきたことがある。
精霊二柱を乗せた神経は、最初こそ傷によって痛んでいただろうが、今この場においては別の意味を持っていた。
"今は別れとなりぬれど、我が祝福は汝の往く道に永久に輝くであろう"
誰も何も言わなかったが、レムの耳にははっきりと聞こえた。
かつてそれのいた痕跡が、かつてそれの発した意志を、ありのままに蘇らせる。
傷は、互いに心を繋いだ僅かなひとときに、精霊が残した己の存在の最後の証だった。
それは精霊の氏族もまた、かつて地に在った証でもあった。
あの時精霊が触れたものを、レムの神経も共に感じ取っていた。
痛みは、赤子の肌が柔らかく傷つきやすいように、開かれたばかりの感覚器官が僅かな負荷さえ敏感に捉えていた結果でもあった。
小さな戦士が、かつていたその存在を永久に記憶しておくように、その神経もまた本来感じえぬものを知覚した経験を忘れることはない。
"我は石。星の石"
得られた対価は、精霊の見た世界――アラバの星明り。
それは、傷の姿で内に宿り、精霊の目に映る世界を示し続ける。約束された通り、永久に。その行く道に、夜天舞う星々のある限り。
"細き光にて闇を切り裂き夜を導く天の灯火"
川に流されながら夢現の中に見た、魂の大河を思い出す。あの世界を見ることも聞くこともできなかったのは、目や耳が眠っていたからではない。
あの時と同じように、レムの前に、天と地の狭間に在るすべての霊が、雑多にひしめき合っている光景が広がっていた。
感覚器官が、とても痛い。初めての意識的な使用により、知覚界に入ったすべてを認識しようとして、他の部位にまで鈍い疼きが伝播している。
しかし、その痛みさえ気にならないくらい、形容できない感情のうねりが体いっぱいに広がっていた。
"征こう"
いつかレムが声をかけたそのままに、もういない誰かが囁いた。
手の中で、朽ちた槍が脈動を刻んでいる。この槍も、あの場にいた。今は手を貸してくれるというのだろう。
武器に意志があるかなどレムは知らないが、こじつけとはいえタルヴィが言っていたことも、あながち的外れではなさそうである。
行く先に、大きな存在感ひとつ。神経に直接触れられるような、強大な何かが濃くなっていく場所がある。
おそらく存在感は邪霊で、そこがかつて精霊であった頃の氏族の霊地だろう。
――
家が壊されていた。集落も、いくつか荒らされた箇所がある。
住んでいる人は無事だったけど、もっと壊されたらみんなが帰ってきた時に困る。
集落の周りに、邪魔物があった。今回のはたいして気になるものでもない。でもやっぱり、また出かける事を考えると、放っておくわけにもいかない。
今のうちにどけてしまいたかったけれど、もっと気になるものもあった。
今まで近づいてくる人は、自分が氏族のみんなの帰ってくるのを一緒に待ってくれる人たちだと思っていた。
でも、邪魔物を置いている人たちと、今集落の中にいて、もしかしたら家を壊したのかもしれない人たちは、どうやら一緒に留守番をしてくれるつもりはないらしい。
どんどん自分の邪魔になることをしてくる。
どうして、そんなに嫌がらせをするのか、ぜんぜんわからない。
ただ、みんなが帰ってくるこの集落を、これ以上荒らさせるわけにはいかない。
誰かが笛を吹いている。
なんとかしなければ。
そう思った時、女の子が初めて自分からこっちを見た。
「そこまでして守りたいものなの?」
当たり前だと、強い語調で言い返した。どうしてそう思うのか、自分には理解できない。
皆と共に暮らしていく場所を守ることに、一体何の疑問があるのか。
「みんなって、誰?」
みんなは、みんなだ。自分の氏族のみんなに決まっている。
「どこへ行ったの?」
知らない。いつの間にか、いなくなってしまった。
「いつ帰ってくるの?」
わからない。でも必ず帰ってきてくれるはずだ。
「帰ってくるって、誰が言ったの?」
誰も言っていない。
どうしてそんな事ばかり聞くのか、だんだん腹が立ってきた。
厳しい調子で問い詰めるが、女の子はぜんぜん気にした様子もなく、まだ質問を投げかけてくる。
「それじゃあ、仲間のあなたに便りのひとつも寄越さないで、ずっと置いてけぼりにしているのはどうして?」
知らない。わからない。さっきから、聞かれたくないことばかり聞かれて、気分が悪い。
本当にそうなのだろうか。
作り上げたものが、少しずつひびが入って壊れていく音が聞こえる。
気付いてはいけないことに気付こうとしている。
邪魔物のせいだ。あれは、自分が遠くへ出かけないようにするための物だけど、あれがどうして邪魔になるのか思い出したら、隠していたことが全部出てきてしまう。
誰かが、笛を吹いている。
「ひとりで守る世界なんて、外から見ると、酷く滑稽なものなのよ」
女の子の眼差しが、急速に大人びた鋭い視線になっていく。
発達途上の柔らかな肉体は次第に引き締まり、活力に満ち溢れた肌は落ち着きを得て、少しだけくすんだ印象を身に纏い始める。
「あなたに取り込まれなかったのも、今までの修練の賜物と思うことにするわ。もっとも、先程まで自分を残すのが精一杯だったけれど」
何を言っているのか、わからない。
誰かが、笛を吹いている。
「わからないのではないでしょ。何百年前か知りませんが、あなたは自分がこうあってほしいと思うこと以外を見るのをやめてしまった。よく思い返して御覧なさい」
胸が熱い。そう思ったが、もはや胸など自分にあったかどうかすらあやふやになってきている。
周囲の景色が、集落が、氏族が、粗悪な顔料を塗りたくったような悪趣味な作り物の雰囲気を放っている。
それが、笛の音に擦られて、朽ちて乾いてぼろぼろになっていく。触れれば、今にも崩れそうだ。
どうして、集落をぼろぼろにしようとするのだろう。ここがなくなったら、もう自分に居場所などないのに。
「笛の音が聞こえませんか。あれは、あなたを呼んでいるのですよ。ぼんやりしていないで目を覚ませと」
邪魔な人たちから呼ばれるような事は何もしていない。
出て行ったところで、どうせ嫌な事にしかならないに決まっている。大体、誰かが集落を壊している。
自分がここを留守にすれば、きっと皆が帰ってくる場所が壊されてしまう。
出て行け。消えろ。いなくなれ。
目の前の澄ました顔の女の人が、鼻から細く息をついて、少しだけ目線を下げた。
ちょうどその目が見ている部分が、熱を持ったように感じた。ほんの僅かな時間の後、自分の内側から、殻を破るように何かが突き出してきた。
焼け焦げて傷だらけの、ひしゃげた槍の尖端。
とても痛かった。
槍の先で開かれた空間が、ぎりぎりと広がっていく。
自分には、肉体などない。だから、痛覚もない。ただ、忘れたくて自分の奥底に押し込めていた真実を見るのが、とても痛いことだと思った。
外から突き込まれた槍の切先が、内側に欺瞞を塗りたくられた袋状の偽物の世界に穴を開けてしまった。
覆ったものが裂けていく。中身が外に広がっていく。
いやだ。
――
目の前の大岩に、朽ちた槍は飲み込まれるかのように根元まで突き刺さった。
先の曲がった槍でも突き立てられるかどうか心配だったが、さほどの手ごたえもなかった。タルヴィが、感心したように顎に手を当てている。
「チビ黒お前、随分力があったんだな」
「いや、私じゃない」
「ふむ。意味がわからんぞ」
「ええと、さっき槍が力を貸してくれるって言っただろ」
「おお、そうだな。なんだ、本当にそうなったのか」
「多分」
山林の中に広がる枯れた草地が霊地であることは、"星明り"を辿ることですぐにわかった。
その中央に立った岩が、霊地の力の流れの要になっていた。
"星明り"が読み取る流れに、槍を押し込んだだけである。何が起こるかの予測は、していなかった。ただ、状況が好転するにはこれしかないと思い定めただけだった。
効果は期待通りに現れたようだ。
「なんだ、別にきちんと鍛えてあったというわけではないのか。ならばなぜ岩を刺したのだ」
タルヴィは、何故か失望を滲ませている。問いかける口ぶりにも、どことなく義務的な雰囲気が漂っていた。
「アラバが、教えてくれたんだ。今の状況をどうにかしたいならここを衝けって」
「ん? おい、アラバとやらは消えたのではなかったのか」
タルヴィにきちんと説明しようとして、時間が余計かかるのは既に経験済みである。
「よくわからないけど、アラバと一緒にいた時の感覚が残ってる。それが見えたんだ」
「そうか」
思った以上にあっさりと、タルヴィは納得した。あるいは、別に考えるまでもないことだと思ったのかもしれない。
「それなら、この岩が邪霊なのか。こいつをぶち壊せば邪霊もブッ飛ぶわけだな」
「いや、それは多分邪霊が広がるだけだ。解決にはならない」
「何を弱気な。敵の急所を叩くのが戦いの基本ではないのか」
「邪霊は戦うものじゃなくて、鎮めるものだろ。それにゼリエを探しに来たんだから、やたらと仕掛けるのはよくない」
「ここまでしておいてよく言う。倒せるようなら倒してしまえば、後で面倒がなくていいぞ」
「倒れずに散らばるから言っているんだ」
「急所を叩いたぐらいで飛び散るなど聞いたこともない。そんなひ弱なものに今まで手間取っていたというのか」
「そうじゃなくて」
苛立ちがこめかみあたりに刺さった感じがして、レムは少し声を荒げた。
だが、通常の生物との違いをどう説明したものかと頭を悩ませている場合ではない。
槍が突き立った箇所から、濃密な空気が流れ出してきている。
「おい、黒チビ」
さすがのタルヴィも、辺りを見回していた。
草が枯れ朽ちながら急速に伸びていく音が聞こえている。
「タルヴィ、これは」
吹き出してきた空気が、暴風となって周囲を引きちぎり始めた。
飛ばされそうになるのを堪えようとして、槍の柄を握り締める。同時に、槍が岩から抜ける、ぬるっとした感触が手のひらに伝わった。
思い切ってそのまま引き抜く。先端が岩から抜けた瞬間、即座に手の中で柄を回転させて地面に突き刺した。
槍にしがみつけば、なんとか暴風は耐えられる。
タルヴィが何か言ったようだったが、よくわからない。
風はどうやら魔素を手当たり次第に叩きつけているもののようだった。
同時に、辺り一面から活力を急激に吸い上げていた。濃度を増し続けるあたりの空気が、時ごとにレムの体力を削り取っていく。
だが、吸い出した活力は、魔素変換以外に何の操作も為されないまま、凄まじい勢いで消費されるばかりである。
邪霊は、明らかに錯乱していた。
魔素の奔流が、暴風のように辺りを薙ぎ払いながら猛り狂っている。
ここは現実の世界ではないから、この風も現実の物ではない。
自分の肉体が今どんな状態にあるか知る由もないが、精神の強さで姿勢を支える分、体力に自信のないゼリエには悪くない状況なのかもしれない。
だが自分の存在が意識のみだとわかっていても、荒れ狂う気脈に吹き飛ばされないようにするために、手で顔を庇って腰を低く落とす。
肉体と同じように動作することも、意識を鋭くするためには必要なのだ。
力の嵐が、すでに破れた偽の集落を風化させ、かさかさに朽ちた端から引き剥がして吹き散らしていく。裏の見えた舞台はもういらないのだ。
全部押し流して、気分が落ち着いたところで、また作り物の現実を塗り固めて閉じこもるつもりだろう。
意図するしないに関わらず、このまま放っておけば必ずそうなる。
「よしなさい。そんなことでは何も変わりませんよ」
声を発しても、邪霊は聞く耳を持たないようであった。
まるで、耳を塞いで身をよじっているように思えた。
「もうわかったのでしょう、あなたの氏族は帰ってくることはないと」
ひときわ分厚い気流が叩きつけられ、危うく正体をなくすところだった。
かろうじて踏みとどまることができたのも、ひとえに今までの修練の積み重ねによるものだろう。
ゼリエの意識を吹き散らそうとする暴風に、駄々をこねて暴れる幼児の姿が見えた気がした。
そんな場面ではないのに、ゼリエはふと自嘲の笑みを漏らした。結局自分には子などなかったのに、駄々っ子をあやそうというのだ。
ヒステリックな風から、邪霊の心情が滲み出ている気がした。それにとって、自分の寄る辺がなくなったことは非常な恐怖であった。
目の前に現実が立ちはだかってなお、それを認めたくないのだ。認めてしまえば、消えなければならない。
だから、見たくないものを突きつけてくるゼリエを自分の意識から消すことで、心の安定を得ようとしている。
たとえ得た安定が、この崩れ落ちていく集落の幻想のようなものであっても、思い切って手放せる者は稀だろう。
親友の娘にすがりついて泣いた女に、この邪霊を厭う資格はない。
「私の自我を葬って他の者と同じようにするのなら、好きになさい。もう現実を見知ってしまったあなたなら、造作もないことでしょう」
ただ一人友と呼べた娘は、柔らかい黄金の髪と、それに負けない美しい心を持っていた。
彼女には、見習い祭司の頃と、祭司長となった時と、二度救われた。
どちらも、こう在らねばならないと自分で思い定めて、自分で決めたものによって追い詰められていった時だ。
二度目などは彼女の娘を巻き込んだというのに、友はゼリエを責める様子を見せなかった。
何度目かの暴風に耐えたとき、邪霊からの返答が読み取れる形で、ゼリエの意識に押し込まれてきた。
自我を保つのに精一杯であったあの時のあの姿は、潜在意識の最も深いところの発露と言っていい。
曰く、自分の墓を掘るような奴が、現実を見ろなどとえらそうなことを言うんじゃない、と。
「独り身で眠れぬ夜などは、我が身の不幸を嘆きもしましょう。ですが、いつまでも悩んでいるなど、馬鹿げています」
精霊返しの義務感以上に、ゼリエはこの邪霊の心のわだかまりを取ってやらねばならないという気になっていた。
形こそ違えど、修練に逃げ続けた自分と、災厄の内に作った思い出に逃げたこの邪霊と、どれほどの差があるだろう。
「私が墓を掘っているのならば、あなたが作った見てくれだけの集落など、墓の下以外の何です」
心の平穏を守るためにかき集めた地位や名誉、まやかしの安寧のすべてを捨てて、ゼリエはやっと、本物の平穏を得ることができた。
ならば、質の同じ迷いを抱えたこの邪霊も、同じようになれるはずだ。
だと言うのに、自分の口からは刺すような叱責しか出てこない。
残った楔を地面に置いて陣を組み、その中に避難する。地鎮め歌によって活性状態にあった楔は、邪霊が吹き付ける災厄の風を軽くする程度の力はある。
ただ、完全に防ぎ切ることまではできない。しかも、楔の囲いに追い込まれることによって、これ以上の活動を阻まれている状態ですらある。
「くっそォォォ……」
サルヴァは、笛の吹き口を前歯で噛み締めながら唸っていた。
「サル兄い、マズいよコレ」
ザリチュがぶるぶると震えている。鼠特有の勘が、これ以上留まる危険を警告しているのだろう。
邪霊は間違いなく、規模相応の災厄を振り撒き始めた。このまま留まり続ければ、生命力を吸い枯らされて、日が落ちる前に干物にされる。
とっとと逃げ出すのが最も安全な作戦だ。
唸り声に息が篭ったか、笛が間抜けな音を鳴らした。
今さら確認するまでもない。ここで命惜しさで逃げ出すのなら、一番最初にそうしていた。
疑念が、サルヴァの頭をよぎる。本当にそうだろうか。もしかしたら捕らえられた者と、死地に踏み入る者を見捨てる勇気がなかっただけかもしれない。
結局ずるずるとここまでついてきてしまったのであれば、方向を修正するなら今が最後の機会ではないだろうか。
北部山岳地帯では、仲間を見捨てて保身しなければ全滅する場面は、どこにでも転がっている。
だが、たとえばサルヴァより何倍も熟練した故郷の家族とて、仲間を助けられるのであればそうしたいのは変わりないだろう。
「チクショォォォォォ何なんだよ一体よォォォ!」
「うわちょっとサル兄どうしたのさ、手遅れ!? 元から!?」
急に頭を掻き毟り始めたサルヴァに、ザリチュが驚いて声を上げる。
結局、ここまで来たら博打を張るしかないのだ。
こうまで切羽詰った状況に来たのが初めてのサルヴァは、自分が決めた、薄氷のような可能性に賭け続ける気力を保つのが精一杯である。
「ザリチュ、精霊返しやるぞ!」
「大丈夫なの!? タル兄もアネさんもいないよ!? っていうかこの状態で精霊が歌聞く!?」
「やるしかねーだろ! それとも失敗フラグでも立ってんのか!?」
「なんなのフラグって! 準備何も揃ってないじゃん!」
「嫌な感じはしねーかって聞いてんだよ!」
鼠はしばらく目を瞑って、しきりに何か念じているようだった。
「ダメだ、わかんない!」
判断不能は、危険の可能性を含んでいる。
だが自分に及ぶ危険だけは的確に捉える鼠の判断不能は、すなわち訪れるであろう危険が軽いことを意味する。
「イチかバチかだ、腹ァ括れザリチュ!」
半ば無理矢理己自身に言い聞かせ、サルヴァは腹に気迫を捻じ込んだ。
「ああもう、なんでこんなことばっかり!」
言いながらも、ザリチュはすぐさま深呼吸に切り替える。
サルヴァも同じように呼吸を整えた。命の危機を感じて気を張り詰めている状態では、精霊を眠らせるような音を奏でることはできない。
風の流れや大地の息吹に耳を傾け、それに心を一体化させる。
本来、雄大にして悠久不変の存在と意識を同化させて力を借りるその動作は、今回に限っては
邪霊が辺りの活力を吸い枯らしてしまおうとしているため、集中するほどに精神が波立っていく。
「くそァ、うまく集中できねえ!」
吹き口に噛み付いたまま、息を吹き込む機が掴めず、サルヴァは唸った。
こうなっては邪霊の風を無視して、自分単独で意識と無意識の境界を探るしかない。元来、自然との一体化は術者の瞑想状態を引き出す一助なのだ。
もしかするとサルヴァの大叔母に自己暗示スイッチとして出まかせを吹き込まれただけなのかもしれないが、今の今まで役に立ってきていた。
それが使えないとなると、極めて苦しい状況である。
「せめてなんか代わりになるものがありゃあ……」
焦りでもたついているサルヴァをじっと見ていたザリチュが、荷物から布を取り出した。
それを、無造作にサルヴァに差し出してくる。
なぜ今布なのかと怒鳴りつけてやろうかと思った。いつもならそうしているし、そこからまたザリチュが何事か言い返してくる。
タルヴィがいれば、ピントのずれた反応をして、ザリチュなりサルヴァなりがさらに突っぱねて、と続いていくだろう。
ふと得体の知れない予感を覚えて、サルヴァは布を受け取った。
――瞑想状態に入る手段としては、性的興奮を得ることがよいとしている場所は多いが、ここで言う性的興奮とは直接的あるいは肉体的なものではない。
魔術行使に最も適した性的興奮状態は、その焦点は生殖器からはまだ遠い。初心な少年少女が異性を意識した段階の、視野が詰まり聴覚が塞がれ世界が圧縮された感覚、
すなわち自己内面への強烈な没入がその真髄である。
鼻腔から伝わる甘やかな心地は、よく熟れた果実を思わせる。時間が経っているためにやや土埃の匂いが混じっていたが、すぐに嗅ぎ分けられた。
ザリチュから渡された布は、ゼリエが汗を拭ったものであるようだった。
というわけで、サルヴァは完成した。
臍の下に力を集めて、吹き飛ばされないようにしっかりと地面を踏みしめ、レムは両手の中に収めた槍の柄を握り込む。
突き立てる槍のように、自分の手足を食い込ませるイメージを描く。体重の上回る敵の戦槌を受け止める時の要領である。
これで吹き飛ばされる心配はなさそうだが、まだ身動きが取れないことに変わりはない。
そればかりか、災厄の風はこちらの活力を確実に削っていっている。このままでは相変わらず、何もできないまま「住民」たちの仲間入りをすることになりかねない。
打開策は、思いつかなかった。突破口を求めて、強い風から目を庇いながらタルヴィを見ると、何かに掴まっているわけでもなく
四肢に力を込めてその場に踏みとどまっている。
さすがに感心すら覚えた。
「歌だ」
ふと、そのままの状態でタルヴィが呟いた。首から上だけ、別物のようにリラックスしている。
風の猛る音で聞き取りづらくはあったが、意識を向けてみると耳を澄ませるまでもなく、確かに音楽が聞こえてくる。
歌かどうかまではわからない。ただ、尖塔でのゼリエとの修練に似た、体の芯に響く音色だった。
「黒チビ、兄貴たちが歌っている。精霊返しが始まったようだ」
サルヴァは、準備が終わったのだろうか。まだ楔を打つと言っている段階だったはずだ。
自分より遥かにこうした儀式に慣れているとは言え、もう今から精霊返しを始められるとはとても思えない。
「できるのか」
「俺様は知らん。兄貴がやると決めたのなら、やれるのだろう」
タルヴィは風に姿勢を崩されないよう慎重に立膝をついて鼓槌を取り出し、腿の上にそっと柄を横たえる。
「どうする」
「鼓槌は俺様の担当よ。俺様が居らねば、兄貴たちもやりづらかろう」
その様子を見て、レムは槍にしがみつくようにして、タルヴィと同じく慎重に姿勢を低くする。
これで少し風は凌げる。ただ、次に立ち上がるまでに体力が吸い枯らされていない保証はない。ここで身動きできなくなってそのままということも十分あり得た。
「タルヴィ、私はどうすればいい」
牛は鼓槌に張られた革らしき膜の具合を指で確かめながら、目だけでレムを見た。
「何か楽器はできるか」
「いや」
「それなら歌え。ともかく人数は多い方がいい」
そう言って、すぐに鼓槌の調整に戻る。
歌はできなくもない。尖塔でさんざん練習した。最初はうまくいかなかったが、ゼリエと特訓した甲斐もあって、今ではそこそこ上手く歌えると自負している。
ただ、それでも問題はある。
「私はこの歌を知らないぞ」
「言葉を成さんでもいい。とにかく適当に気合を入れて声を合わせろ。ああそれと口笛は駄目だ。音が鋭すぎて寝る気が起きん。あまりでかい音を出すのもな」
鼓槌を何度か鳴らし、タルヴィはその場にあぐらをかいた。
打撃武器と一体化している楽器と、絵に描いたような闘牛士そのものの取り合わせにしては、別次元の産物かと思われるほどに優しい音が弾んでいる。
「いいか、精霊を眠らせるものだということを忘れるなよ。多少下手糞でも、染み入るように歌うのだ。子守唄はできるか」
「少しは」
「ではそのつもりでやるのだ」
言いながら、タルヴィは風の音に紛れた音楽に耳を澄ませているようだった。拍子を取りながら、鼓槌を撫でるかのように叩き、流れてくる音楽に少しずつ乗せていく。
見ているばかりでもいられない。レムも同じように音を探し、聞こえた通りに音程を取って喉を震わせてみた。
自分の声が音楽と噛み合った瞬間、かつて見た魂の大河に似た大きなうねりが"星明り"に照らされて、その輪郭を見せた。
暴れ狂う激しい大きなうねりを、細く穏やかな流れが取り巻いて、少しずつ収めようとしている。
タルヴィの穏やかな太鼓の拍子と一体化して、なめらかな笛の音と、密やかなギロの音がその中に見えた。
三つの音の流れは、まだ少しバランスが悪い。主旋律ひとつに、打楽器ふたつは音質の組み合わせが良いとは言えないのだ。
その隙間を、埋めようと思った。
泣いている。
それが邪霊だとしても、何も変わらない。目の前に泣いている者がいて、自分がそれを止める手段を持っていないことが、ゼリエには何より心苦しい。
ゼリエは、慰めの言葉など知らない。マダラである劣等感に付き纏われて生きてきた父のガルマリウドは、自分の子に与える寛容すら持てなかった。
だから、ゼリエはどうすれば他者に寛容であることができるのか、知らないままだった。
祭司団では、それでよかった。
氏族の祭儀を一手に引き受けるという重責の役である。能力のない者は、必要最低限の活動ができるように、鍛え上げなければならない。そこに寛容は必要なかった。
今は違う。
目の前で泣いている雄大な何者かを心安らかにしてやりたいと思っても、そのために取れる手段は何一つ持ち合わせていない。
厳しくあることばかりを積み上げてきて、最初に破綻したのは自分の身ではなかったのか。
目の前では、駄々をこねる子供のように、強大な力がでたらめに振り回されている。
あれを、鎮めなければならないのだ。
思いつく限りの言葉を、頭の中で組み上げてみた。あれの嘆きを和らげるためには、どうすればいいのか。
少し眠るように言い聞かせるべきか。目を覚ませば、待っていた者たちが帰ってきているとでも言えばいいのだろうか。
ふと、一番目の夫が、自分の機嫌を取ろうとしていた時の顔を思い出した。
下位の祭司たちが、どうにかして上の立場に引き上げてもらおうとしている時の表情も、それに似ていると思った。
自分も、今、同じ顔をしようとしている。
そんな触りの良い、中身の伴わない言葉など、何の意味があるだろう。
他の者ならもっとうまく言いくるめられたかもしれない。だが他者の虚ろな言葉を意識せずともそれとなく察せるゼリエには、その気休めは逆効果でしかないのではないか。
歌が聞こえてきた。
子守唄ぐらいしか知らないもの、と頬をふくれさせた娘の顔が蘇る。
自分が、他人には決して見せなかったありのままを出すことができた、たった一人の親友の姿だ。
天の精髄のような歌声と、祭儀の謡以外に発揮される絶妙な下手さ加減は、何度も聴かされているうちに耳について離れなくなって、随分困った。
それが、また、耳の中に蘇ってくる。
あの娘は、己を厳しく縛ってきたゼリエとは正反対に、何一つ縛めることはなかった。
彼女と語らうひと時だけは、自分がどうあるかを意識せずにいられた。
思えば、あれが自分が得られた寛容――
――なんだか、馬鹿馬鹿しくなってきた。
そんな小難しいことを、あの娘は一度だって考えたことがあるだろうか。
つまりは、リディはリディで、自分は自分で、もうなんと表現すれば適切かわからないが、とにかくそれが一番なのだ。
歌が聞こえている。上手には違いないが何か足りないサルヴァの笛と、奏者の割に地味で繊細なタルヴィの鼓と、少々主張の強すぎるザリチュのギロと、もうひとつ。
技量も感性もまだまだだが、精一杯声を張り、音を奏でるレムの歌。
彼女の娘も、やはり自分ほど思い悩んではいないだろう。自分の狭い器量で精一杯、できることをやろうとしている。
「聞きなさい」
目の前で暴れるそれに、刺すように呼びかける。しかし、この程度で聞く耳を持たないことは先程までの試みで証明されている。
ゼリエは、少し思案した。結局のところ、自分にできることで、自分が精霊の域に届きそうなものと言えば、何か。
祭司の頃に散々修練した成果が遺憾なく発揮されたお陰で、意識を集中させて感覚を周囲に一体化させるのに、邪霊の存在の圧力はさほど苦にならない。
吸気を肺に溜め、精気を臍下に溜め、気迫を全身に満ち溢れさせる。それを、一息に解き放つ。
邪霊すら動きを縛られ、辺りにあっけに取られた空気が広がっている。
大声を出すというのも、良いものだ。
自らの大喝が作り出した意識の空白の中で、ゼリエはひっそりとそう思った。
実際の音ではなかったからこそ、激しい揺らぎは瞑想状態にあったサルヴァのこめかみを右から左へと串刺しにした。
笛を構えたままの姿勢で真横に転倒する。殴られるようであるどころか、ヘマをした時の仕置きで姉たちに頭に杭を打ち込まれかけた時のそれに似ていて、
サルヴァはじっとりとした嫌な汗をかいた。
近くで、鼠が腰を抜かしている。
「な、なんか凄いの来なかった!?」
「凄いのっつーか……」
確かに他に形容しようがない。演奏が途切れてしまったが、あまりの迫力に邪霊の活動すら止まっている。
「タル兄たちかな?」
「これがタルヴィのせいなら耳が痛くなるはずだ。でもこいつは頭に直接来た、ッつー事は思念波だな」
「何それ、聞いたことない」
「精霊に呼びかける、目ヂカラとか雰囲気とかだと思っとけ。てかこんな、はっきりわかるようなのなんざ滅多にお目にかかれねーっつーのに誰だ」
「精霊に呼びかけるものなら、普段からオイラたちも楽器でやってるんじゃないの?」
「まともに声かけても呼びかけらんねーから、楽器とかなんとかでごまかしてんだろうが」
この発声の主は、間違いなく身一つで精霊に届くレベルの発話をこなした。
タルヴィができるはずもなく、レムなら万に一つくらいは可能性はなくもないが、思念の打ち方にも性格が出る。
精霊の動きを止めるほどの咆哮が出せるのは、他所から誰か来たのでもなければ一人しか思いつかない。
気を取り直して姿勢を正しながら、鼠をつついて元の状態に戻させる。
「どうするのさ」
「俺らができることなんざ、変わりゃしねーよ」
ふと思い立って、鼠にひとつ注文を付け加える。
「なるべく雰囲気出して弾けよ」
「やってるよ」
言いながらギロを構え直す鼠を見つつ、サルヴァも笛を口に当てる。
ともかく、邪霊の心臓部にいるのであれば、ゼリエの動向が精霊返しの成否を決めることになるだろう。
駆けつけることもできない身が、疎ましい。
気がつくと、レムは緑色の渦の中にいた。
相変わらず辺りの気流は暴れ狂っていて、吹き飛ばされてあらぬところに流されないように、槍にかじりついているのが精一杯だった。
タルヴィはどこに行ったのか、周囲の激流のせいで判別がつかない。
先程まで、山林の中で鼓槌を打つタルヴィの隣で、音楽に合わせて声を発していたはずだ。どうして今の状態になったのか、頭痛に似た感覚がして、よく思い出せない。
ただ、周囲の渦は、視覚で見ているものではないということだけわかった。
以前に見た魂の河に似たものだ。高山の空気ではない、何かの存在が満ちている。
「いいですか。そもそもあなた方は氏族を守護し共に暮らすものです。それがなんですか、共存すべき氏族もなしに、こんなところで」
満ちた何かの中に、それらとは別のものを見つけた。
緑の渦を見ているわけではないのと同じく、声を聞いているわけではない。
邪霊に向けて発した意思が、アラバの星明りによって読み取れたに過ぎないが、その涼やかな刃を思わせる印象は間違えるはずもない。
そちらの方向に、ゼリエがいる。
呼びかけようとしたが、おそらく邪霊の力の現れであろう緑の渦が猛っていて、朽ちた槍に掴まっていても気を抜けば吹き飛ばされてしまう。
レムが苦心している間にも、ゼリエは何事か邪霊とのやりとりを続けていた。
あれこれと思念を発する邪霊のそれを、レムはどういうわけか言い逃れようと必死になっているように感じた。
それに対するゼリエは、いつか尖塔でレムにもそうしたように、事実と評価のみを淡々と告げる姿勢だった。
以前の無機質な印象はなりを潜め、自身の情が言葉に混ぜ込まれている。
「それであれば、氏族についていけばよかったのではありませんか。彼らと共にいなければ、あなたなど朝靄のように散ってしまうのですから」
精霊は、氏族に憑く。霊地や、なんらかの祭具を主体として存在することもあるが、それはあくまで精霊との結びつきを確認するための手段でしかない。
精霊は氏族に憑く。氏族だけが精霊を置き捨ててどこかへ消えることは、氏族が絶えでもしなければ有り得ない。
この邪霊は氏族を待つと言っているが、両者がつながりを持つことすらできない距離に離れることは不可能である。
しかし、ゼリエは嘘を敢えて正さなかった。
「待っているのは結構ですが、それが周りの生き物の命を吸いながらだと知ったら、あなたの氏族たちはどう思うでしょうね」
大気の動揺を感じる。邪霊の心の表れそのものだろう。
吹き荒れる緑の渦も、それを反映するかのように、不規則に強くなったり弱まったりを繰り返し、全く安定していない。
意外だった。邪霊は、徳を引き合いに出した説得など最初から応じないものとばかり思っていた。
これは、災厄こそ振りまいてはいるものの、心のつくりは精霊であったころのそのままだ。
己の為してきていたことを冷静に振り返ったのか、邪霊はすっかり消沈しているようだった。
周囲を取り巻く緑色の災厄の気流が動きを止めて、重さのある空気となってずっしりとのしかかってくる。
今度は、押し潰されないよう耐えるために、槍を支えにしなければならなかった。
「眠っていなさい。彼らが帰ってくるまで」
音楽が聞こえる。先程までと同じように、しかし先程までの演奏より細くかすかで捉えづらくなっているが、サルヴァたちの合奏だ。
それに合わせて、レムもまた詞を結ばないまま歌を発した。
消沈の重さに耐えながら声を出すのは、なかなか難しい。
これで邪霊が落ち着いて、ゼリエとのやりとりがうまくいけばいいと思った。
ふと、思念が流れてきた。
怖いと、言っていた。
目が覚めたときに、本当に帰ってきているのかわからないのが怖い。もし眠って、そのまま無になってしまったらと思うと、それも怖い。
「心配することではないでしょう。目覚めた時には、必ず戻ってきています」
ゼリエが、言い切った。明らかな嘘だった。
少しの間、無言があった。
そして、歌が響いた。
尖塔でレムが疲れきって倒れた時、母の幻影が歌い聞かせてくれた、断崖城ではよく聞かれるごくありふれた子守唄である。
ゼリエの歌技によって深みと広がりを得た歌が、母の幻影が持っていた暖かみを持って、染みとおるように緑の空間に広がっていく。
レムは、そっと声を揃えた。音程を変え、主旋律を支えるような低音部を受け持つ。
それと気付いた楽器の音色も、ゼリエの歌を中心に演奏を変えていった。
空気の代わりに溢れていた緑色が、次第に蝕むような悪寒を薄らがせていく。
腐り苔むした色彩が、少しずつ乳白色の魂の色になっていく。
そこにあった高濃度の存在が、霊地の清廉な空気に似た冷たく鋭い風に、少しずつ崩れていく。
つくりものの世界が粉になって散っていく。理由もなく、アラバの石斧を思い出した。砂になって、消えていく。塵と砕けて、粒も残らない。
槍が突き立っていた場所が崩落に巻き込まれ、よりどころを失ったレムも気流に放り出される。
今は、嫌な感じはしなかった。目が覚めている状態と、眠っている状態のちょうど中間の感覚が全身を包んでいる。
このまま流される方向に、不安はない。
どこまでも続く眠りの深遠でも、無辺に広がる目覚めの地平でも、この先はきっと良くなるはずだ。
魂の色が消えていく。薄らぐ乳白色の霞の向こう側には、ごくありふれた集落と、そこで暮らす普通の狼たちの姿が見えた。
一軒、既視感を覚える家がある。あの屋根は多分、雨漏りに悩まされているはずだ。
そして、それらも次第にかすれていった。
何も見えなくなって、偽物の世界から放り出されるその僅かな一瞬、誰かの詫び言が聞こえた気がした。
漠然とした感触があった。
次第に、おぼろげながらそれが不快感であるとわかってきた。
殻に覆われた自分にも伝わってくるそれは、耳から取り込んだものだ。
意識が自分を把握し、神経が意識と感覚器官を繋ぐ。
体の各部に順番に熱が灯り、自分が風景から、意志を持って動く一個の存在に変わっていく実感がある。
感度の高い視覚を開いて、刺激の強い光を認識し、想定範囲の過負荷による微かな痛みを受けて、目を覚ます動作が終わった。
「あ、姉ちゃん起きた?」
「ああ」
夕闇の紫で陰影を浮かび上がらせた鼠の鼻先を見つめながら、レムは体を起こした。
「寝てしまってたのか」
「なんか途中ですっごい声聞こえてきたでしょ。それの時に槍に寄りかかって気失っちゃってたんだって、タル兄が」
「そっか。すまないな、面倒をかけて」
「気にしなくてもいいってばさ。姉ちゃんも手貸してくれたから、今回邪霊なんとかできたようなもんだし」
辺りに目をやると、鬱々とした山林の木々が、枯れ枝のように軽い影を投げかけている。
生気もあまり感じられなかったが、命を吸い上げられているような嫌な感触は、もうどこにもなかった。
「そうだったな。うまくいったんだな」
「サル兄が言ってたよ、オイラたちみたいな四、五人程度じゃ楔で縛りもできないレベルだったんだって」
今度ばかりはダメかと思ったよ、と尻を地面に落ち着けて毛繕いをしている鼠を横目に見やりながら、レムは当の牛の姿を探した。
ザリチュが落ち着いているからには無事なのだろうが、やはり自分で確認しない事にはどうも落ち着かない。
そう言えば何やら先程から騒がしいと思っていた。見回してみると、ほど近い地面をサルヴァが念入りに改めており、向こうの方の茂みを
タルヴィが破壊としか表現できないような勢いでかき分けている。
そう言えば、一人足りない。
「ゼリエは」
問うと、鼠は表情を陰らせた。
「まだ見つかってないんだ。嫌な感じはしないから、きっとどこかに元気でいるはずなんだけど」
「わかった。それじゃあ、私も手伝う」
「すぐに立ち上がって大丈夫なの?」
「大丈夫だ」
体についた土埃をはたき落としながら立ち上がり、近くに転がっていた朽ちた槍を拾う。
レムの思ったとおり、槍はやはり槍だった。扱う者の心がけ次第でどうにでもなる。
「サルヴァ、どうだ」
「おう、起きたか」
声をかけると、這うように手がかりを探っていたサルヴァがこちらを振り向く。
「さっぱりだ。ここらからババアの匂いがすんだけどよ、どこをどう探しても、これ以上匂いが強くなる場所がねえ。牛野郎はあのザマだしよ」
言いながら、枯れ木同然の木々を突き破りながら歩き回っているタルヴィを邪魔くさそうに見やる。
「探してんのか荒らしてんのか、わかりゃしねえ」
レムと二人の時も、ずっとあんな調子だった。
タルヴィにもタルヴィなりの考えがあるのかもしれないが、料理や掃除などの時の繊細さを知っていると、あの探し方はどうも手抜きのようにしか見えない。
ふと、"星明り"が何かを感じ取った。
レムのいる場所からは遠い。
そちらへ足を進めながら辺りの様子を窺うと、牛の雑な扱いで随分崩されてしまっていたが、この辺りは確かに集落の跡だったように思えてきた。
絡まった木々は家で、玄関と窓があって、藁束置き場や水場もあって、草の中に道が通っていた痕跡もおぼろげに判別できた。
タルヴィが家だと言っていたのは、あながち間違っていなかったのだ。
そして、道はあの岩に集まっていた。
岩の周りには広場のような平らな土地の形に、周囲とは別の草が生えていて、近くに丘とも言えない地面の盛り上がりがある。
先端の曲がった槍を突き立てた跡には、なぜか滑らかな空洞が開いていた。
"星明り"に照らされた辺りの姿は、すっかり干乾びていた。木々にも、土地にも、まともな活力は残っていない。
ただ、水が穴に流れ込むように、周囲の魔素が少しずつ集まってきている。眠りについた邪霊も、じきに魔素に戻って土地に満ちるだろう。
そして、邪霊の干渉を断ち切った草木が、早くも力を取り戻し始めていた。生命の流れが、再び渦巻き始めている。
すぐには難しいだろうが、何世代かを重ねるうちにまた霊地となり、精霊が宿ることもあるだろう。
「駄目だ兄貴、見つからん」
「そりゃおめーがあんだけぶっ壊しながら歩いてりゃ、見つかるモンも見つかんねーよ」
「色々と絡まりすぎなのだ。丁寧に外していては夜が明けてしまうぞ」
いつも通りのタルヴィにサルヴァの茶化しが入るが、当のサルヴァは言いながらもがっくりと肩を落としている有様である。
「サル兄、ちょっと一休みした方がいいんじゃない?」
「気楽に言ってくれるな、チョロ吉。とっとと姉さんを見つけて戻るのだろうが」
唸りながらタルヴィが目を向けた先で、肝心のサルヴァがしおれていた。
「もう、無理なのかもしんねー」
「ちょっとちょっと、サル兄がそんなんでどうすんのさ!」
「匂いが近いのではなかったのか。それとも何か、兄貴は鼻風邪でも引いているか」
「自信ねえわもう俺。ああ、今まで随分女から言い寄られてきたけど、結局本当に欲しい女は手に入らねえんだなあ……」
「うっわ、これ重症だよタル兄どうしよ」
「気合を入れてやれば元に戻るのではないか」
「なんかむしろ戻らなくても殴りたそうじゃない?」
「変な気分に浸っている奴を見るとむずむずしてくるのだ」
すっかりエピローグに入り始めているサルヴァから視線を外し、レムはなんとなく近くの盛り上がった地面を見た。
高さとしては、数人が乗って祭儀を行う時に使われる祭壇程度と言えないこともない。
以前までのレムなら見逃していただろう。"星明り"が見る生命の流れは、あの盛り土のところで不自然に経路をぶれさせている。
「どうしよっか、タル兄。あ、殴るの以外で」
「蹴りは手技の三倍の威力があるのだぞ。見かけによらず他者には攻撃的だなチビ蔵」
「そもそも衝撃を与える方向から離れてよ!」
「何を言う。考えが悪い方に行き詰った時は平手打ちに限ると闘牛士の親方も」
「だから牛基準にしたら他の種族はみんな病院送りだよ!」
盛り土の下に、何かがある。そのせいで、土地の気脈が経路がずれているのではないだろうか。
「ええい、ならば何をかけろと言うのだ! さっきからごちゃごちゃと!」
「タル兄が技かけたら死ぬじゃん! ねえちょっとサル兄も何か言ってよ!」
「忘れねえぜ、ババア……一緒に過ごした時間も、俺に優しくかけてくれた言葉も、その体の柔らかさも……」
「うわあ……」
朽ちた槍で、そっと気脈を突いてみた。
元より流れを破壊するつもりではなかったが、槍の先端に押しのけられ、気脈が少し不安定になる。
覆い被さっていた流れが散ったため、その下にあったものが目を覚ましたようだった。
今度は、槍で地面を軽く掘り返す。
ある程度で、止めた。"星明り"が、下のものを傷つけないで済む程度を教えてくれている。
「ババア……俺の思い出の中で、いつまでも生き続けているからな」
「お断りします」
いつも通りの騒ぎを続けていた三人が、ぎょっとして動きを止めた。
その視線の先で、レムは槍で掘った地面から突き出た腕を見ていた。土が掘り返されるかすかな音が、どういう訳かいやに大きく聞こえる。
「まさか本当に墓に埋められるとは、思いもよりませんでした。最後に嫌がらせとは、随分邪険にされたものですね」
涼しげな顔はそのままながら、かすかに不機嫌そうな色を滲ませて、ゼリエのすらりとした体が地面から這い出してくる。長い髪がすっかり土まみれになっていた。
「ば……」
なんだかよくわからないまま、とりあえずゼリエの手を取って、墓とやらから引き上げる。そうしているうちに、何やら感極まった調子の声が横合いから聞こえてくる。
「ババァー! よく無事でェェー!」
立ち上がって衣服の土を払っているところに、光の飛沫を舞わせながらサルヴァが駆け寄ってくる。
無駄にスローモーションがかかって見えるそれを横目で見たゼリエは、レムの肩をむずと掴んで自分との間に引っ張り込んだ。
これも、ゼリエが柔軟に対応できるようになった証と思うことにした。
不測の事態による動揺や焦りが出る前に、レムは朽ちた槍の石突をサルヴァに向けて突き出していた。
急に反応できるわけもなく、サルヴァが石突に突っ込んでくる。
「おぶっ」
そしてごく自然に、ゼリエに抱きつくはずの勢いで、石突で自らのみぞおちを強打した。
乾ききった木々の隙間に、日暮れが刺さって通り抜けていく。
退廃と禍が満ち溢れていた場所も、嵐が去ってしまえばそこは山の一部に変わりない。
木々が活力を取り戻し、どことも変わらない山林に戻ったところで、どこかの流れ者が集落を開けば、また氏族が新たに生まれ、精霊がひとつ現れる。
繰り返す営みを思えば、あの緑の渦もまた、名も知らぬ義兄と星の石が往った先へ、向かっていっただろうと信じられる気がした。
ふと傍らに目をやると、常に変わらず凛としているゼリエの歩みが、夕闇に圧されている気がした。
「どうしたんだ、ゼリエ」
レムが尋ねたことに意表を突かれたように見えた。否定しようとしたのか唇が動いたが、すぐに思い直したらしかった。
「あの霊に、嘘をついたのです。早く眠らせようと思って」
尖塔で共に修練していた頃も、ゼリエは虚言も詭弁も、過失で間違いを言うこともなかった。
祭司長としての責任感からかと思っていたが、本人の性格もあったのだろう。
「それで邪霊が安心して眠ったのなら、いい判断だったと思う」
「私は、あの霊がいつまでも醜態を晒さずに済むようにと考えて、説得するつもりでした。それを、意識を手放すか手放さないかの重大な判断で
あのように詐術を弄して思い通りにさせるなど、状況が許しても私自身が納得できません」
ゼリエは、目を細めて顔を路傍の草に向けた。
その方向に、視界の真正面に出ないようにちょろちょろとザリチュが小走りに回り込む。
「子供に現実を背負わせないのも子守の仕事だよ、アネさん」
向けるともなく横目を向けて、ザリチュは薄桃色の鼻先をひくつかせた。
「ふうむ。四六時中追い回されている鼠の言うことでは重みが違うな」
「ホントだよ、割と温厚だと思ってた牛は気付かずに踏んづけてくるしさ」
「それはお前がチマすぎるからいかんのだ」
「ちょっとは周り見てよ! オイラがいるのわかってて大股で歩いてるでしょ!」
「自分の安全くらい自分で確保しろ。まったく、普段は目に付かんぐらい細かいくせに、俺様が歩いているときだけ足にぶつかりおって」
「下見るくらいしてってば! そんなだから探し物壊しても気付かないんだよ!」
わいわい言い合っている横から、夕陽の色に溶け込んでいるサルヴァの赤毛がするりと近づいてくる。
「さすがババア、子守もバッチリできるんだな。ところで、俺の子を」
「お断りします」
「いーじゃねーか、大丈夫だよ、先っちょだけだから!」
「サル兄、言ったとおりに止める男、見たことないんだけど……」
「バカお前そりゃ既成事実を」
「嫌な響きだ」
「……あれ、タル兄もしかして結構モテた?」
「それ以上聞くな、ネズ八」
「ヘッ、有象無象にモテるなんざ羨ましくねーな。俺はババア一筋だかんな」
「そうそう、ちっちゃい子のスジにも興味津々で」
「そうだったのか、兄貴」
「蒸し返すんじゃねえ! タルヴィおめーも乗んな! こーいう時だけ頭回りやがって!」
相変わらずの三人などいないものとばかりに、ゼリエはレムに振り向く。
「そう言えば、あなたはどこかへ使いに出る途中でしたね」
「ああ」
「サルヴァ」
呼ばれて、赤毛狼が振り向く。
「次はどこへ行くのですか」
質問が予想外だったのか、サルヴァは瞬きをひとつした。
「一人旅は危険ですから、この子も連れて行きたいのです」
「あー……そっか。南から回って、犬んとことの国境カスめながら西へ行くんだ。大叔母さんの遠見だと、邪霊こそいねーがどうも西がクサいらしい」
「そうですか」
そう言って、ゼリエはレムに視線を向けた。
「私は北へ行くんだ。だから」
真っ直ぐにレムを見る涼しげな顔に、僅かに残念そうな気色が広がったように見える。
「そうですか」
「じゃあ、どうする? アネさん、姉ちゃんと一緒に行く?」
「ふむ。同郷出身のようだしな。連れ立って行くなら兄貴は俺様が何とかしてやるが」
「ちょっ、お前ら」
「いいえ」
自分は一人でも大丈夫だ、とレムが言う前に、ゼリエは首を横に振っていた。
「この子はもう一人でも立派にやっていけます。何もできないのは、むしろ私の方ですね」
「む、そうか」
牛が何を納得したのか、しきりに頷いている。
「? おいタルヴィ、どういうことだよ」
「サル兄、アネさんまだまだオイラたちに付き合ってくれるって」
「……マジ?」
レムはなぜか、納得していた。ゼリエなら、自分を一人で行かせるだろう。
「レム。私にはおそらくもう、あなたにしてあげられることはないのだと思います。今回の事で悟りました。何柱もの精霊に触れたあなたの方が、何倍もしっかりしていました」
「そんなことはないよ。ゼリエには色々なことを教えてもらった」
そう答えると、ゼリエの唇の端が少しだけ緩んだような気がした。
「邪霊に呑まれている時、あなたの母を思い出しました。リディなら、きっと私のように何重もの幸運に助けられずとも、あれを鎮めることができたのでしょうね。
あなたは、良い父母に恵まれました。そしてあなたも、その生まれに劣らぬ良い狼に育っています。星の石も、だからこそあなたを信じたのでしょう」
「そんなことは」
今度は、わかるくらいはっきりと微笑を浮かべていた。
「私はまだ未熟です。ですから、今しばらく、流れ続けます。あなたと、あなたの母の前を、また胸を張って歩けるように」
「マジかババア! んじゃ南行くのやめだ! 里に帰って姉ちゃんたちに紹介すッ」
「兄貴せめて場の空気くらい把握しろ」
「サル兄、今回ばかりはオイラもタル兄を止めないよ……」
チョークスリーパーが明らかに危険な食い込み方をしているサルヴァたちのほうへ、ゼリエは向き直った。
「そういう訳ですので、もうしばらく付き合って頂けますね」
「俺様は構わんぞ」
「断る理由ないよね」
サルヴァは手足をばたつかせているが、牛の丸太のような腕はびくともしない。
「ま、焦る必要ないと思うよ。途中までなら一緒に行ってもいいし」
「うむ。すぐ北と南に分かれるわけでもあるまい。チビ黒の当面の物資調達ぐらい、手を貸すぞ」
「感謝します」
「すまない、何から何まで」
「気にするな。もののついでだ」
「そうそう」
にこにこしている鼠と、鷹揚に頷く牛の真ん中で、サルヴァが次第に生気を失っていくのであった。
夕陽の赤光が、存在感を増した陰影の濃さに飲まれていく。
そろそろ夜に備えて、野営をする時間だ。
組み上げた天幕の下でタルヴィが鍋を煮て、外ではザリチュが複雑な罠を簡単そうに仕掛けてくる。
ゼリエがまだぎこちない手つきで縫い物をしている横で、サルヴァがぐったりと倒れている。
朝から、あれだけの大立ち回りを演じたのに、食事の準備と寝床の確保は欠かせない。
何も変わらない。世は全てこともなし。
「だからきっと」
隣のゼリエに、言うともなしに呟く。
「邪霊もちゃんと眠れたと思う」
そう言って見上げたゼリエの表情は、相変わらず澄まし顔だった。
川を打つ砂・了