玄成_3話
夏も終わりに近づくとだいぶ日が短くなってくる。
狐耳の国の都は街全体が計画的に建造された観光地だけあって、季節を楽しめるよう随所に気配りが成されている。
例えば、東西に立てられている塔もその一つであり、通は季節ごとに太陽や月と塔の位置関係が変わるのを楽しむらしい。
それを見るために年に四度も観光に来る猫も居るらしい。酔狂なことだとは思う。
山育ちの玄成にしてみれば、わざわざ塔など建てなくても、山と背の高い木があれば十分に思えるのだが。
まあ、玄成が都の近くに住んでいるのは仕事のためであって物見遊山が目的ではないので、感性が異なるのかも知れないが。
何れにせよ、日没は狐にとって注意すべき事項の一つである。
観光客の多い表通りは巫女の結界と役人達の警備があるためそう危険ではないが、一つ裏通りに入ればそこは正に別世界になる。
物盗りや博徒、夜鷹などが徘徊しているのはまだ可愛い方で、下手な道を通れば魑魅魍魎に出くわすことも珍しくない。
山と違い極端に化け物じみた妖は居ないが、人の怨念などが寄せ集められているだけに質の悪い物が多い。
玄成は何故かそう言った連中に極端に好かれるので、出来れば避けて通りたかった。
少しだけ歩調を早める。見れば周りにも足早に動いている者が多い。思ったより日没が近いのかもしれない。
と、少し行ったところで通りに見知った顔を見かけた。
人混みの中を起用にかいくぐって歩いている鼠の少女は、間違いなくミネルヴァである。
向こうもこちらに気付いたのか、一直線に駆け寄ってきた。
「玄成さん、お帰りなさいです!」
「ああ、ただいま。で、どうしてこんな時間に街をうろついてるんだ?」
夕暮れの街は狐にとっても注意が必要な場所で、それが鼠となれば尚更である。
ミネルヴァにも買い物は昼間に済ませるように言いつけてあった筈だ。
「お豆腐屋さんに続く通りが、みんな怖いことになっちゃってるです。で、遠回りしてたんですけど……」
「駄目だった、と」
彼女の持っている手桶が空であるから、豆腐屋に続く道は何処も通れなかったのだろう。
昼間であれば、彼女が察知した危険は物盗りか何かだろうから、玄成が代わりに行けば良い話だが、今は時間帯が悪い。
大抵の妖であれば後れを取ることはないが、豆腐を守りながら戦うとなると一気に難しくなる。
そもそも、そこまでして豆腐を買い求める必要もあるまい。残念だが、豆腐は諦めることにしよう。
「お揚げも切らしちゃってるです」
「俺が代わりに豆腐屋へ行こう。何、大抵の妖が相手であれば、後れを取ることもない」
辛子と葱を混ぜた納豆を油揚の袋に入れて焼くと、飯にも酒にも合うおかずになる。
ミネルヴァがどこからか仕入れてきた料理法だが、最近の玄成のお気に入りだった。
いざとなれば毒でも石でも食える身だが、だからと言って毒や石を好むわけでもない。
飯を美味く食う為には、多少の辛苦は乗り越えた方が良かろう。油揚なら多少無茶をしても崩れることもない。
意を決して路地に向けて一歩を踏み出すと、横合いから声を掛けられた。
「待て。そこの路地には質の悪い人食い鬼が棲み着いておる。悪いことは言わん、やめておけ」
上質の着物に腰の大小、柄尻の飾りと、見るからに位の高い役人である。表の大通りならともかく、このような所で見かけるのは珍しい。
手甲と具足を付けているところを見ると、恐らくは討伐の任の途中なのだろう。
「……はて、ここの通りに妖がでると言う噂は初めて耳に致しますが。鬼ってのは、もう少し奥に進んだ所に棲んでるもんじゃありませんかね?」
「詳細は私も知らぬ。ただ、昨日より少なくとも四名の被害が報告されておる。現在我々が討伐の任に当っている故、今日の所は諦めた方が良かろう」
奇妙な話である。
普通、妖怪は物や死体等に周囲の魔素と人の怨念などが宿って生まれる。当然、強力な妖怪ほど多くの念と魔素を必要とし、生まれるにも時間が掛かる。
人を食うほどの妖がここ二、三日の間に生まれるというのは、いくら何でも不自然だ。しかも、この路地はまだ大通りに近く、巫女の威光もそう薄れてはいないというのに。
色々と気になる点はあるが、わざわざ役人に逆らって路地に入るのもあまり宜しくない。玄成は、表向きは只の薬師なのだ。
もし外法師の放った式鬼等であれば、後ほど逢難狐衆にも討伐の任が降りるかも知れないが、今の所は役人に任せておけばよいだろう。
「では、私共は別の路地を通って帰る事に致します。お役人様も、お役目頑張って下さいまし」
「うむ。お主らも、気をつけて帰れよ」
役人が鷹揚に頷くいて路地に入っていくのを確認し、ミネルヴァに向き直る。
「と、言う訳だ。今日の所は豆腐は諦めて代わりに……」
「玄成さん!」
献立の催促は、ミネルヴァの金切り声に破られた。と、同時に左手側から凄まじい鬼気が迫ってくる。
何も考えずに、ミネルヴァを抱えて右方に跳躍。左肩を浅く抉られたが、無視。路地の端まで一気に飛ぶ。
振り返ってみると、奇妙な妖が蹲っていた。全身の肉が異常なまでに膨れ上がっているが、身体の一つ一つの部位を注意深く見れば狐の童子のそれである。
身長は玄成の腹の辺りまでしかないのに、二の腕一つとっても玄成の腰より太い。只の黄泉帰りではない。
しかも、縮地か隠行かは知らないが、玄成にもミネルヴァにも察知されることなく、急に現れたのである。昨日今日に生まれた妖が使える術とも思えない。
「オオオォガアアァァァ!」
恐らくは声変わり前と思われるかん高い咆吼が、夕闇の中に不気味に響く。
事態が飲み込めずに呆然としていた周りの連中も、化け物の咆吼を聞いて一目散に逃げ出した。
幸い、人通りが少なかったから押しあって総崩れになる事もなかったが、ちょっとした恐慌状態である。
一瞬、玄成もこのままミネルヴァを抱えて逃げる事を考えたが……
「オガァ!」
化け物がまっすぐにこちらに向かってくるのを見て、覚悟を決めた。逃げても、先程のような察知できない奇襲を受けるより可能性がある。迎え撃った方がやりやすいだろう。
腰の符帳からありったけの結界符を出して、ミネルヴァの防御に充てる。気休めだが、無いよりはましだ。
気を練り、それを会陰から天突に至る柱と成す。本来は魔力を込めた墨で描く刻印を、緊急事態につき魔力で直接刻みつける。
全身を巡る気と、尾に貯めた魔力、刻まれた刻印が玄成の奥底に眠る力を引き出してゆく。感覚が鋭敏になり、尾は中から分かれて三本に。これぞ『化粧術・気狐の粧』
後ろにミネルヴァが居るから、避けたり逃げたりは出来ない。正直、妖と正面からぶつかるには三尾の状態でも不安が残るが…… 贅沢は言っていられまい。
牽制の前蹴りを放つ。足なら、最悪千切られても再生可能だ。
あわよくば相手の勢いを削いて術につなげようとした一撃は、しかし予想に反して相手の肉を打ち骨を砕き、鞠のような身体を吹っ飛ばした。
「オォガァ! オオオォガアアァァァ!!」
蹴られた部位を押さえ、化け物がのたうち回る。
おかしい。
鼠の危機察知をかいくぐる程の術を使う妖であればそれなりの知能を有しているはずだが、一連の行動を見る限りその様子はない。
かと言って、縮地の類であれば、先程の蹴りを避けるのは容易いはずだ。
そもそも最初に感じた鬼気に対して、目の前の化け物は弱すぎる。かといって、新手が現れる様子もない。
とにかく、悩んでも仕方がない。何れにせよ、目の前の化け物は始末する必要がある。
『木符・風錘』
圧縮した空気の塊で、相手を押さえつける。相手の抵抗は弱く、いとも簡単に身動きを封じられた。やはり良く分からない妖である。
周りにミネルヴァ以外の人間が居ない事を確認し、手印を切って尾で地面を叩く。ぱしん、といい音がして、尾の先に火が付いた。
『狐火・浄炎』
火の付いた尾の先を化け物に押しつけてやると、途端に火が回り始める。あっという間に勢いが強くなり、炎の高さが玄成の頭を越えた。
相手の魔素に反応して燃える術で、延焼の危険はないのだが目立って仕方がない。火の勢いを見るに、やはりこの化け物はかなりの魔素を有していたらしい。
釈然としないまましばらく炎を眺めていたが、それも十分程で鎮火した。後に残ったのはもう動かない肉の塊と……
「おっ母、おっかぁ」
泣きじゃくる童子の霊である。恐らく、あの肉塊は本来は子供の死体だったのだろう。
不気味な咆吼は、単に母親を呼んでいただけ。……まあ、どこにでも転がっている話である。
「おい坊主、俺の声が聞こえるか?」
「おじ…… お兄ちゃん、誰?」
声を掛けると、はっきりとした答えが返ってくる。それだけこの世との繋がりが強いという事で、良くない兆候である。
あと、微妙な気遣いが心に痛い。
「俺の名は玄成という。母親を捜しているのか?」
「うん、おっ母は病で死んじゃったけど、でも、法師のお姉ちゃんがおっ母に会わせてくれるって……」
「そうか。俺はそのお姉ちゃんの知り合いでな。お前さんの道案内を頼まれたんだ。あそこに、光が見えるだろう?」
適当に近くの四つ辻を指し示す。ミネルヴァが結界の中で「何を言っているんだ?」という顔をしていたが、目配せして黙らせた。
霊魂を浄化するには、この世への未練を無くすのが一番手っ取り早い。
それには、理詰めで説明するより舌先三寸で丸め込んだ方が効果が高い。後味は良くないが、それは些末事として無視する。
「……うん。見える」
「じゃあ、あの光の中へ行ってみな。死んだ人間は皆あそこへ行くから、お前さんの母親も多分居るはずだ」
「わかった。おじちゃん、ありがとう!」
手を振りながら駆けていく霊の後ろ姿を見送る。小さな背中は、四つ辻にさしかかった当たりで不意に消えた。恐らく、あの世とやらに行ったのだろう。
いつの間にかすっかり日は落ちて、月明かりが当たりを照らしている。
周りに妖の気配が無い事を確認し、ミネルヴァの結界を解いた。
「……あの子、お母さんに会えたです?」
「さあな、生憎とあの世に行った事はない。それより、すっかり暗くなった。大急ぎで帰るぞ」
「はーいです」
そうしてひとまず、家路についた。
家に帰り着いたのは、それから半刻も後の事であった。
あの時に逃げた野次馬の一人が役人を呼んだらしく、辺りに官憲の数が増えたのため、かなりの遠回りを強いられる結果となったからである。
尾の分かれた狐というのは、大抵は山の奥深くか宮中に居るもので、街中をうろついていればそれだけで不審者扱いは免れない。
また、玄狐のマダラという目立つ風貌のため、誰かがあの場に玄成が居合わせた事を思い出したりすれば、事情聴取などで拘束される恐れもある。
それらの厄介事を避けるため隠行と遁術を駆使してきたのだが、思いの外しんどい作業であった。
魔力で直接印を刻んだため、身体の紋様が消えるまでに今しばらく時間が必要である。
本当は、戦闘による魔力の消耗で化粧している時間を短縮する筈だったのだが、敵の実力を読み違えた為に思わぬ苦労をする羽目になった。
やはり、最近は机仕事ばかりで実戦から遠ざかっているため、勘が鈍っているのだろう。
「たっだいま~です。あ、あと玄成さんはおかえりなさ~いです」
「……ただいま」
対照的に、ミネルヴァは元気が有り余っているようだ。
まあ、帰りの道中を殆ど玄成に抱えられて過ごしたのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが。
童子の幽霊を見た直後こそ意気消沈していたものの、すっかり元の調子を取り戻している。あの切り替えの早さはありがたい。
「玄成さん、何食べたいです? あ、豆腐と油揚は無しです」
「あー…… 素麺」
昼間から豆腐を求めて街中を彷徨っていたと言う事は、まだ米も洗っていないのだろうから、手の込んだ物を頼めば飯が遅くなる。
化粧術の効果で身体の調子はむしろ普段よりもずっと良いのだが、術が切れた時の反動を考えると早く休んだ方が良い。食事に時間は掛けたくなかった。
ひとまずミネルヴァに飯の準備を言いつけ、自分は汗を流すために井戸へ向かう。
桶に汲んだ冷たい水を頭から引っ被る。身体の芯に熱が残っている気がしたので、もう一回。
頭を振って余計な水を飛ばし、気分がさっぱりしたところで、ようやく傍らに控えた人物に注意を向けた。
「で、お前はこんな所で何をやっている?」
「気付いてたんなら、もう少し早く声かけるのが人情じゃないんさ?」
「寝言は布団でほざけ」
「酷っ」
誰何の声に軽口で応えたのは橙咲だった。
いつも通りの巫女装束だが、袖にたすきを掛け頭に鉢金を巻き、手には刻印入りの木刀を携えている。どう見ても完全武装である。
実は、水を被っている間に殴りかかってくるんじゃないかと期待していたのだが、残念ながらそのような事はなかった。
立ち振る舞いにも殺気だった物はなく、かといってこそこそする訳でもない。何をしに来たのかは想像が付かない。
「今日は、天狐衆としてお願いがあって来たんさ」
「断る」
「せめて、話を聞いてからに……」
「阿呆が。『逢難狐衆の筆頭』が『天狐衆の三下』の『お願いを聞いた』時点でウチの評判は阿鼻の下まで墜ちるわ。
天狐として俺と話をしたけりゃ、勅の一つも持ってこい」
「まあ、そう言うと思ったさ」
やけにあっさりと引き下がる。前から思っていた事だが、この女にはどうも『逢難狐らしさ』が無い。
目的の為には躊躇無く手にした木刀を振るうような強引さがあれば、玄成とてもう少し話を聞く気になるだろうに。
逢難狐衆の手札は常に『暴力』であり、損得や道義、忠誠心などを以て交渉にあたる事自体が間違っているのだが。
まあ、ここで暴れられると面倒なので、黙っていた。
「後日、お上から正式な命令が届くと思うんで、ざっと概要だけ説明しとくっさ。
親分も先刻出会ったらしいけど、今都で何体かの式鬼が確認されてるさ。厄介なのが多くて役人だけでまかないきれないんで、私ら戦巫女まで駆り出されてるっさ。
んで、ぶっちゃけ手が足りないのと役人も戦巫女も隠密行動が苦手なんで、表立って動けないところには逢難狐衆の手を借りたいって訳さ」
「術士の目星は?」
「付いてたら、式鬼じゃなくてそっちの始末を依頼するっさ」
つまりは、まだ犯人の目星は付いていないらしい。しばらくは雑兵退治に駆り出される事になるだろう。
また残業三昧の日々が来るのかと思うと、うんざりする。
疲労もさることながら、そろそろ朝帰りの言い訳のネタが尽きかけているため、ミネルヴァになんと言って誤魔化すかを考える必要があるのだ。
いっそ遊郭にでも通うかとも考えたが、ああいった雅な遊びは玄成の趣味ではない。小間使いへの言い訳の為に定期的に無駄金を使うのも馬鹿らしいし、どうした物やら。
「……まあいい。明日、華南に話を通してウチの花吹(はなぶき)を貸し出す。手勢も何名か付けるから、それまで持たせとけ」
「花吹様って、三位じゃないっすか。随分と太っ腹さ。ちなみに、万が一花吹様が貸し出しを拒否したら?」
「腕のもげた花吹を貸し出す。指揮するだけなら、頭があれば十分だろ」
「……五体満足の花吹様が来るよう、祈ってるさ。じゃあ、私はこれで」
走り去る橙咲の背中を見送る。
結局、話だけでなく協力の約束までしてしまった。逢難狐衆も裏とは言え公儀の組織であるため、事が起こっていれば面子よりもそちらを優先せざるを得ない。
三位を貸し出すのはやり過ぎのような気もするが、手勢だけを貸し出して指揮系統が天狐に移るのも困る。位階持ちを少なくすると、こういう時は不便だ。
まあ、今から思い煩っていても仕方がない。
そろそろ素麺も茹だっているだろう。桶を戻し、家に入った。
食事が終わり、夜も更けて。
食後の湯を啜っていると、先程からミネルヴァがちらちらとこちらを見ている。視線の先は、確認するまでもなく三本に増えた玄成の尾である。
「俺の尾が気になるのか?」
「あー…… うー…… はいです」
遠慮がちな肯定が返ってくる。まあ、無理もない。
それこそ修行を積んだ巫女や法師であれば三尾は珍しくもないが、市井の者で尾が分かれているのはかなり特異である。
特に外国育ち(と思われる)ミネルヴァにとっては、恐らく見るのも初めてだろう。
「まあ、丁度良い機会だから説明しとくと、化粧術ってのは元々は巫(かんなぎ)の使う術でな。大雑把に言うと、修行の課程で己の霊格を高めるんで、尻尾が増える」
「えーと…… 全然分かんないです」
玄成も、あの説明で理解できるとは期待していなかったので、少し詳細な説明を加えた。
そもそも、姫巫女の使う『神降し』は様々な神をその身に降ろす事で力を顕現させるのだが、その神々は全部が全部巫女連が奉っていた訳ではない。
狐は元々小規模の豪族が乱立しており、一族毎に独自の神を奉っていた。何度かの争いの後に豪族達を平定し、それぞれの祭事をまとめ上げたのが今の皇族であり、巫女連である。
その際、敗れた一族の宮司や巫女達は殆どが巫女連に組み込まれたのだが、中にはそれを良しとせず野に下った者もいる。その一人が、化粧術の祖である。
奉っていた神は巫女連に取り上げられたため神降しは出来ないのだが、儀式としての化粧の術は残ったため、化粧術の修行の大半は霊格を上げる行為を含む。
「えーと、まだ分かんないですけど…… なんで、お化粧すると尻尾が増えるです?」
「説明が難しいんだが、化粧術ってのは元々巫女に神様が降りやすいように『神様の姿形を真似る』所から始まってるらしい。
で、どうもウチの神様は身体に紋様があって、尾が沢山生えてたらしい。だから、化粧術士は術を使う時に身体に刻印刻んで尻尾を増やすんだと」
「……はぁ」
如何せん皇族による大平定が二千年以上昔の話のため、玄成自身はその神様を見た事も無く、知識も師匠から聞いた受け売りである。
師匠も実際に神様を見た事は無いらしいので、自然と説明にもあやふやな部分が多くなるのは仕方がない。
元々が儀式用の術式のため、化粧術にはかなり制限が多い。
例えば、普通は霊格の高い狐は自然と尾が分かれ、大半の者は普段から尾の分かれた状態で過ごすか、若しくは術でそれを隠すらしいが、化粧術士はそれとは異なる。
『不用意に神の姿を真似れば、神格を損なう』との理由から、普段は尾が分かれないし、神通力に関しても一切使えないように枷が設けられている。
呆れた事に昔は季節によっても厳重な枷が設けられており、暦ごとに使える術が分かれていたらしいが、最近では流石にそれは無い。
流派が廃れると共に失伝した術も多く、特に正統でない玄成には使える術が少ない。
代わりと言ってはなんだが歴代の化粧術士が様々な所から技術を取り入れており、今の化粧術は本来の物とはかけ離れているらしい。
「と、言う訳で。化粧術士てのは術を使っている間は一時的に尾が増える。と言うよりは、『本来に近くなる』ってのが妥当だな」
「つまり、魔法の力で枕フィーバーでカーニバルです?」
「……予想以上の答えをありがとう。概ねあってる」
狐にとってはそれこそ一族の未来さえ左右する尾の数も、彼女にとっては枕が増えた程度の認識でしかないらしい。
尾を枕扱いというのはどうにも主人に対する敬意が足りてないようにも思えるが、鼠に狐の価値観を理解するのも難しいだろうし、変に畏まられるよりは余程良い。
どうせ明日の朝には術も解けて、尾も一本に戻っているのだ。変に拘るのも馬鹿らしい。
「とりあえず、風呂に入るから背中を流せ。尾が三本に増えてるから、洗うの面倒臭いぞ」
「ヒャハー! おまかせです」
明日からはまた血生臭い日々が続く事になる。今はしばし、平和を楽しむのも良いだろう。
翌日。
早速、位階持ちを集めて(と言っても四名しか居ないのだが)会議を開いた玄成に浴びせられたのは、部下の非難であった。
「逢難狐衆の筆頭ともあろうお方が、天狐衆の非正規の要請を二つ返事で受けたとあれば、軍門に下ったように見られてもおかしくはありません。
お上より正規の任が降りるのを待つなり、天狐から歴とした地位の人間を呼び寄せるなり、他に遣り様はあったのでは?」
華南の言葉は激しくはないが、こちらの痛いところを的確に突いてくる。天狐にきちんとした使者を立てさせると言うのは、思いつかなかった。
とは言え、巫女だの役人だのが家に押しかけても鬱陶しいだけなので、実行に移したかは微妙だが。
何にせよ、一度引き受けてしまったものを今更撤回することも出来ないのだ。
「文句は後で聞く。とりあえず花吹、行ってくれるか?」
「ま、受けちまったもんをどうこう言ってもしゃーないわな。役人だけなら断ったけど、民草に被害が出ている以上、私に否やはないわ」
「華南に藤黄(ふじき)も、それで良いか?」
「私としましては、花吹様が納得しているのであれば」
「花吹の派遣に関しては、他に適任も居りませんので文句はありません。ですが、今からでも天狐衆に正式な使者を立てさせるべきかと」
しばし考える。
花吹を天狐に遣るのであれば、その担当には天狐でもそれなりの地位にある者が充たるだろう。三下を充てて逢難狐の機嫌を損ねれば、それこそ天狐にとっては大損害である。
正式の使者を立てると聞くと仰々しいが、現場での顔見せを前倒しにすると思えばそう手間も掛かるまい。
組織としての面子に拘る華南の気持ちも分からないではなし、ここは陳言を聞き入れた方が良いだろう。
傍で会議の行方を見守っていた橙咲に声を掛ける。
「と、言う訳だ。お前の所から適当な人間を引っ張ってこい」
「では不肖、天狐衆第六位を務めまするこの橙咲めが逢難狐衆が筆頭殿に……」
「じゃあ花吹、済まんが行ってきてくれ。人選については任せる。二番と四番以外は自由に使え」
「期限がはっきりしないんで、出来れば何組かの交代制にしたいんだがね? あと、『二番と四番』って、一番は?」
「任せると言った。好きにしろ。一番も必要なら使え」
「了解。何かあったら泣きつきますわ」
「……いや、せめて最後まで口上を述べさせて欲しいさ……」
意外にもあっさりと事が運ぶ。まあ、天狐衆もこちらの要求を見越して人を寄越したのだろう。
若しくは、あちらも余程の人材不足なのか。
「ほら余所者、さっさと行くよ」
「ああ、分かったから鯉口を切るのは止めて欲しいさ」
ぶつぶつと文句を言う橙咲を引きずる様にして花吹が出て行く。彼女であれば、余程の事がない限りは上手くやるだろう。
それにしても、他の機関から大規模な要請があった場合に派遣できるのが三位しか居ないというのは問題である。
やはり、もう少し位階持ちを増やすべきかも知れない。問題となるのは人選であるが……
「何というか、意外でしたわね」
「あ? 橙咲の事か?」
考え事をしている最中に藤黄に話しかけられ、少々頓珍漢な答えを返す。
「いえ、そちらもですが、花吹様があっさりと任を受けた事が。あの方も面子には拘る方だと思っておりましたので」
「あいつは元々が庶民の出だからな。街中で人死にが出ているのに政治をしたりはせんよ」
魔法の研究が盛んな狐耳の国にあっても、高度な魔法教育を受けるには金が掛かる。
特に、兵士の絶対数の少なさを補うための戦闘用魔法は学ぶ機会が限られており、軍の上層部が貴族や一部の金持ちで占められているのはここに由来する。
逢難狐衆も事情は似たようなもので、軍と違うのは外法師を積極的に受け入れている事くらいである。
花吹は、そんな逢難狐衆の中にあって珍しい庶民の出身で、だからこそ今回の騒動も他人事ではないのだろう。事実、彼女の実家は裏通りにほど近い場所にあった筈だ。
「……まあ、それだけが理由とも思えませんが。さて、では私はこれで失礼させていただきます。筆頭殿は、副長のありがたいお説教を拝聴なさいまし」
「なんだ、もう少し文句があるかと思ったんだが?」
「どうせ私の言いたい事は副長が代弁して下さいますし、馬に蹴られる趣味も御座いませんので。
……では、ごゆるりと」
意味ありげな笑みを扇子に隠したまま、藤黄は出て行ってしまった。一体何だというのだ。
そして、部屋には玄成と華南だけが残る。
「で、お前は何か言いたい事はあるのか?」
無言での駆け引き面倒なので、こちらから会話を振ってみる。
玄成の仕事は多くあり、いつまでもこの件だけに構ってはいられない。
「聞く気があるのですか?」
「無い。俺に説教垂れたきゃ、俺より出世しろ」
「また、その話ですか……」
ため息と共に、呆れと諦めの混じった返事が返ってきた。
玄成としてはこれまでに幾度も華南を筆頭に推薦しており、それをはね除けているのは他ならぬ華南自身である。
そもそも今回の件でも、最初から華南が応対していれば応対に揉める事も無かった訳で、説教をされる筋合いはあまりないと思う。
「私に逢難狐衆筆頭の大任が務まるとは思えません」
「んなもん、誰がやったって変わらん。逢難狐衆に入った時点でそれなりの実力は保証されてるし、そもそも書類に花押を入れるのにどんな能力が必要になるんだ」
逢難狐衆の最高実力者が四位に就くのは、三位以上に求められる能力が暗殺能力では無いからだ。
特に筆頭の場合は役割が限られており、本来の筆頭の役割は上から指令が下った際に「抹殺対象は無事始末しました」と報告するのみである。
実際にその為の策を立てたり人員を割り振ったりというのは副長と三位の仕事で、筆頭は単に命令を下せば良いだけだ。
平時には雑多な事務仕事などもあるが、真に筆頭が処理しなければ行けない書類は多くない。玄成の仕事が多いのは、単に玄成が仕事を割り振るのが下手なだけである。
他の機関から放たれる刺客にしても、本来なら適当にやり返したり逆に取り入って安全を確保したりと、必ずしも馬鹿正直に相手をする必要はない。
政治の機微を知る華南なら、玄成よりも余程上手く対応できるはずなのだが。
「誰もお前に俺以上の戦闘力なぞ期待しとらん。それこそ、そう言うのは四位の仕事だしな。お前に期待しているのは、もっと『狐らしい』働きだ」
「『狐らしい』ですか……」
「先代の筆頭は、そう言うのがとりわけ上手かったんだが。お前は性根の部分が先代に似てるから、きっと俺よりはマシな筆頭になれると思うぞ」
「…………」
華南がなにやら思案顔になったので、それ以上言葉を続けるのは止めておく。
こればかりは、無理強いしてどうにかなるものでもない。やる気のない狐に責任を押しつけても、有能なら逃げるし無能なら潰れるだけだ。
ひとまず小言が来なかった事に満足し、机の上の書類に取りかかる事にした。
天狐衆の役目とは、あくまで政治である。
他の六機関とは異なり、自国の王族や巫女をも調査対象とする役目上、一番に求められるのは戦力でも諜報能力でもなく政治力となる。
その為、天狐衆の構成員は巫女機関や宮内の高官が務める事が多い。内情を探るにも、まず情報に接触できないようでは話にならないのである。
中でも天狐衆の幹部というのは雲上人の集まりであるため、天狐衆は裏の機関でありながら一種独特の雅な雰囲気を持っているのが特徴だった。
橙咲は憂鬱だった。憂鬱の原因を挙げれば、枚挙にいとまがない。
天狐衆六位といえば戦巫女の中でも特に高位の者が就く役職で、本来は他機関への間諜などさせられる地位ではない。
それがわざわざ逢難狐衆に出向いているのは、半年前に玄成によって先の天狐衆幹部が皆殺しにされた事に端を発する。
天狐衆は元々、玄成からの報復など無いと高を括っていた部分がある。
幾ら逢難狐衆に他の機関に対する限定的な殺生与奪の権利があるとは言え、巫女機関や宮内の高官に手を出したとあれば大逆の罪に問われてもおかしくない。
そもそも、そう言った政治の中枢部に侵入して天狐衆の構成員を暗殺するというのが現実的でなかった事もあって、天狐衆としては十分に安全な位置から事を運んでいるつもりだった。
それが、よりにもよって幹部の暗殺という最悪の形で破られたのである。天狐衆全体が騒然となったのは言うまでもない。
逢難狐衆は、その性質から国家への忠誠心を度外視して実力者を集めており、その頂点が玄成である。
もし玄成を表立って罪に問えば、逢難狐衆の内何名かは玄成に味方し、今度こそ本格的に国家に弓引くであろう事は想像に難くない。
かといって、天狐衆として逢難狐衆と対立すれば、明らかに分が悪い。
結局、逢難狐衆への対応は繊細な対応を要する案件となり、その担当者として橙咲に白羽の矢が立ったのである。
逢難狐衆に入れる程の戦闘能力があり、かつ天狐と逢難狐の仲を取り持てる政治力を発揮する人選として、当人以外は諸手を挙げて賛同していた。
とは言え、表向きの理由がどうあろうと実際の役目は炭坑の小鳥と変わりない。何かがあれば、断末魔を上げて他人に危機を知らせるのである。
橙咲も、自分以外の人間が選ばれたのならそれが誰であろうと賛同しただろう。
お陰で、胃の痛い日々が続いている。
「はぁ…… なんでこんな事になったんさ……」
「なんだい、鬱陶しいねぇ。元はと言えば、あんたが玄成を騙くらかしてウチらの仕事を増やしたんだろうに」
思わず漏れたつぶやきは、隣の花吹に咎められた。
逢難狐衆の三位を務める花吹は、逢難狐衆としての橙咲にとっては上司に当るし、天狐衆としても今回の妖怪討伐の責任者であるから二重に頭が上がらない。
上半身裸で胸にさらしを巻き、桜の柄の羽織を肩に掛けるだけというくだけた格好と、携えた全長七尺を超える朱塗りの長尺刀がまるで破落戸の様な印象を与えるが、立ち振る舞いには一切の隙がない。
戦闘用の術が使えないという逢難狐衆にあっては変わり種であるが、獅子に習ったという特殊な体術と刃渡り五尺近い刀を自在に振るう腕前、そして部下の能力を把握して的確に人員を割る振る能力から、三位の地位に異を唱える者も無かった。
何故か玄成とは気が合うらしく、個人的な親交も交わしているらしい。件の刀も、一式を玄成自らが拵えて贈った物であるというから、余程気に入られているのだろう。
時たま、機微の読めない新入りが花吹の地位を『玄成に鼻薬を嗅がせた結果』と邪推し、自らも玄成に擦寄っては唐竹割にされるというのが、逢難狐衆の心冷える風物詩であった。
「姐さん、西の七条付近で一匹撃破。損害はありやせん」
「西の三条通は敵影無しです」
「西の十一条で二匹撃破。間抜けが腕を折った以外は問題なし」
「あいよ、ご苦労さん。無事な者は三十分の休憩の後、次の見回りに行っとくれ。怪我人はそのまま詰め所に戻って治療。ただし、筆頭に見つかると腕増やされるから注意しな」
「あの人なら本当にやりかねねぇ……」
流石は戦闘集団と言うべきか、次々と景気の良い報告が上がってくる。
最近出没する妖怪はとにかく数が多く、強さも能力もばらばらであるため、低位の役人には荷が重い。
高位の者であれば問題は無いのだが、役人が何人も裏通りをうろついているというのはそれだけで人心に影響が出るので、軽々しく出す訳にも行かない。
その点、逢難狐衆は隠密行動に長けた者も多く、そもそも表向きの職業も後ろ暗い者が多いため裏通りを歩いていても何の問題もない。こういった役目にはうってつけである。
矛先が自分たち以外に向いているのであれば、これほど頼もしい者達もそうは居ない。……あくまで、矛先が自分たち以外に向いているのであれば、だが。
「で? この落とし前はどう付ける心算なんだい?」
「そうさね。この一件が終われば、事後報告の形で上に上げて、逢難狐衆には何らかの形で褒美が行くように……」
「惚けんじゃないよ、女狐」
逢難狐衆の三位は、喉元に刃を突きつけるような真似はしない。鯉口を切り剣気を放つだけで、十二分に効果がある。
が、橙咲とて戦巫女である。背骨に氷柱を刺されたような感覚を味わうのは、これが初めてではない。とは言え、前回味わったのは玄成に踵を落とされた時であったが……
何れにせよ、術と業と舌先三寸で森羅万象を御するのが狐の神髄である。死を前にしたくらいで舌を止めるようでは、文字通り話にならない。
「さて、私の権限ではそれ以上の事は確約しかねるさ。これ以上の便宜が必要となると、幹部会との相談を……」
「確かに都の妖怪退治は役人の仕事だ。けどね、あくまで『役人の仕事』であって、そこに『天狐衆』が出てくる謂れはないのさ。ましてや、逢難狐に応援を要請する必要もない。
唯の妖怪の異常発生なら、まずは調査のための術士が派遣されるのが筋だし、黒幕が居るってんなら正式に戦巫女を投入するなり、それこそ逢難狐衆を使うなりすればいい。
そのどちらでもなく天狐が動いてるって事は、この一件にはどこぞのお偉いさんが関わってるってこった。違うかい?」
喉元まで出かかった否定の返事は、相手が柄に手を掛けたのを見て止まった。
花吹の言葉は質問ではなく、唯の確認なのだ。素直に喋ればそれで良し、喋らないなら斬って捨てる。それだけの事である。
最後まで隠し通せるとも思っていなかったが、ここまで早く露呈するとも想像していなかった。玄成をやり込めてそこで満足してしまったのが、橙咲の敗因である。
「……私の権限じゃ、ちょいと話せないんさ」
「成る程。それなりの大物って事かい。で、物は相談なんだが、その獲物をこっちに回す気は無いかい?」
相談と言いつつも、柄に伸ばした手は離れていない。事実上の確認である。
元はと言えば逢難狐衆が妖怪退治をしている間に、天狐衆が証拠を掴んで対象者をそれとなく閑職に回す。その後、折を見て謀殺というのが、天狐衆の筋書きだ。
大物がいきなり暗殺されれば、混乱は免れない。回りくどいやり方ではあるが、結局はそれが一番効率的である。
相手も閑職に回された時点で気付くので、その時に行動を起こしたなら即座に対処するというのが、お決まりの流れであった。
工作はだいぶ進んでおり、逢難狐衆の出る幕は無いはずである。が、相手がそれを聞き入れるとも思えない。
「何度も申し訳ないけど、私の権限じゃ返答できないんで、幹部会議を開いて……」
「別に構わないよ。明日までたっぷりと時間はあるから、好きなだけ話し合いな。ウチの筆頭も最近退屈してるんで、なんならお邪魔させて貰っても良いかも知れないねぇ」
「……わかりました。用があるので、失礼させていただきます」
駄目だ。全く話し合いにならない。
今日もまた、徹夜で会議をする羽目になりそうだ。
きりきりと痛む胃に気付かないふりをして、幹部を招集するために巫女連へと向かった。
逢難狐衆の筆頭執務室は、重苦しい雰囲気に包まれていた。
部屋の右と左にそれぞれ華南と藤黄が陣取って向かい合い、入り口近くには花吹が正座させられている。
女三人が異様な緊張を伴って向かい合っているというのは、それだけで逃げ出したくなる。
玄成は、早くも今日出勤した事を後悔した。
「一体何があった?」
残念ながら、逃げ出す訳にも行かない。
筆頭である玄成の席は上座にあるから、自然と華南と藤黄に挟まれる位置にある。
状況を打開するには、まず事態を把握せねばならない。
最も、玄成が口を出して事態が好転した例など殆ど無いのだが。
「例の妖怪の異常発生の件ですが、本日未明、下手人が逐電しました」
華南が短く報告する。
妖怪の異常発生というのが自然に起きるとも思えないから下手人が居るだろうとは思ったが、既に特定されていると言うのは意外だった。
ただ、それが何故この部屋の雰囲気と繋がるのかが分からない。まさか、花吹が下手人と繋がっていた言う事もないだろう。
「下手人は巫女連の重鎮だそうですが、逐電する際に巫女を数名殺害しており、事態を重く見たお上はこれを正式な『案件』として扱う事になりました」
「……また仕事が増える訳か。で、それが花吹とどう関係する?」
「どうも、花吹が下手人の処置を逢難狐に任せるよう天狐に圧力を掛けたらしく、天狐はこれが原因で下手人の逐電を許す事になったとして、抗議をしてきております」
「成程。花吹のお手柄だな」
下手人が逐電をしたなら、逢難狐衆にとっては好都合だ。巫女連に籠もられるより余程手出しがしやすい。
天狐の抗議に関しては、あちらも情報を出さずに一方的にこき使おうとしてきたのだから、お互い様だ。無視すれば済む話で、鬱陶しい以上の害は無い。
総じて、逢難狐衆にとっては損は無い。
「それが、天狐が先にお上に手を回したようでして。此度の件について正式に報告書を提出するようお達しが出ております」
ようやく、部屋の空気に合点が行く。つまり、今回の件については『逢難狐の失態』として扱われる訳である。
確かに仕事を押しつけられた上に天狐衆の失態まで肩代わりさせられるのでは、割には合わない。とは言え、花吹を責めるのも筋違いではある。
そもそもの仕事を持ってきたのは玄成なのだ。
「花吹、面倒だろうが報告書の作成を頼む。事実のみを記載し、天狐への文句等は入れない事。あと、『筆頭の命令に従った』って事を明確にしとけ」
「良いのかい?」
「良いも悪いも、『好きにしろ』と言ったのは俺だ。責任は俺にある。
それに、お前に責任を押しつけると、何らかの罰則を適用せにゃならん。降格できる程ウチに余裕はないし、減俸してやる気を無くされても困るしな」
消耗率の高い逢難狐衆で一定の人数が確保できているのは、なんと言っても待遇が良いからである。
待遇と言っても、裏の仕事に従事するような者に地位を与える訳には行かないから、その分を含めて馬鹿高い給金を払っているのだが。
花吹を減俸していきなり辞めるとも思わないが、人材を確保するのに金をけちるのは阿呆のする事だ。
なにより、筆頭が失態を犯した際の罰則は大抵が降格処分なので、玄成としては賭けてみる価値はある。
「早速ですが玄成様。今回の『案件』について緊急会議の招集がかかっております。全機関の筆頭および副長は参集するように、との事。
それと、逢難狐衆には下手人の始末も言い渡されるでしょうから、別途人員の手配も必要かと」
「それについちゃ、出来ればあたしが出て少しでも汚名を雪いでおきたいんだがね」
花吹の申し出に、少し考える。
心情は分からなくもないし、花吹の実力に不安がある訳でもない。自分や藤黄には一歩譲るとは言え、彼女とて決して弱い訳ではないのだ。
むしろ、問題は別のところにある。
「いや、今回は駄目だ。お前には引き続き市中の見回りをやって貰わんといかんし、『案件』に関しては四番を出して本気の態度をお上に示しときたい」
「今日明日は見たい舞台がありますので、仕事なら明後日以降にして戴けますかしら?」
「……分かった。俺が出る」
自分の筆頭の肩書きに疑問を覚える瞬間である。
華南を伴って会議室に入ると、既に他の参加者は揃っていた。
相も変わらず薄暗い板張りの部屋である。
中央の御簾を囲むように畳二枚分の席が円形に並べられ、それぞれ中が見えないよう簾が掛けられている。
互いの視覚情報を遮断して参加者の秘密と安全を守る為の物だと聞いているが、鬱陶しいのでいつも通りに払いのけた。
そもそも、逢難狐衆に守るべき秘密も安全も有りはしない。
「来たか、逢難狐。相変わらず剛毅なことだの」
「は。遅れて申し訳御座いませぬ」
中央の御簾から聞こえてくる声は、女性の物である。
帝直属とされている七狐機関だが、実際には帝と各機関筆頭の間には何人かの中継役がおり、直接に接触する事はない。
中央に座する彼女も、そんな中継役の一人である。最も、その中継役ですら声しか聞いた事はないのだが。
「さて、何名かは伝え聞いておろうが、今朝早くに巫女連の幹部一名が出奔し、その際に巫女三名を殺害した。
巫女連よりの出奔、および巫女殺害はどちらも重罪であるが、それ以上に巫女連の内部に居た者が外に出れば、何処にどの様な機密が漏れるか分からぬ。
よって、我らはこの出奔した幹部が国外逃亡ないし諸外国の密偵と接触する前に対策を講じる必要がある。皆の知恵を貸して欲しい」
「では、まずは我ら天狐衆より事のあらましを説明させて戴きます」
天狐衆の報告は、来る途中で華南から聞いていたのと内容に大差はなかった。
どうにも、天狐は最初から下手人が分かっていて泳がせていたらしい。そのまま生け簀に囲い込もうとした際に花吹からの横槍が入って失敗した、と言うのが天狐の主張である。
茶番に付き合わされた挙げ句、天狐の無能の言い訳に使われるのだから花吹も良い迷惑だろう。少し申し訳ない気分になる。
「逢難狐よ、何か付け加える事はあるか?」
「いえ、御座いませぬ。巫女連に下手人が居ると判明した時点で大逆の汚名も顧みず討ち入るべきであったのを、天狐への脅しなどと温い手段を取ったが為にこの有様。
責任は全て、この玄成に御座います」
天狐衆の筆頭が歯噛みするのが、簾越しにもはっきりと伝わる。
幾ら玄成でも四十余名の逢難狐衆で巫女連に討ち入る程馬鹿ではないが、天狐衆は過去に幹部を暗殺されている以上、笑い飛ばせる事でもない。
「出来るものならやってみろ」とでも口にしてその通りになったなら、天狐衆はまた幹部が総入れ替えになる。迂闊な反論は出来ないだろう。
いくらかの意趣返しを済ませたところで、口上を続ける。
「つきましては、此度は某自らが出陣し敵を討ち滅ぼす所存なれば。他機関にもご協力を賜りたく存じまする」
「成程、筆頭自らの手で汚名を雪ぎたいと言う訳か。誰か、意見のある者は?」
しん、と場が静まりかえる。
事ここに至っては、情報の漏洩を防ぐには一刻も早く敵を始末する以外に方法がない。そして、適任は逢難狐意外には無いのだから、自ずと結論は決まってくる。
逃げたのが巫女連の幹部である事を考えれば悠長に会議など開いている場合ではないのだが、何事も仕来りに従って事を進めないと後でこじれるのが狐の悪しき性である。
「特に意見が無いのであれば、逢難狐の意見を採用する。口上に見合う働きを見せよ」
「承知致しました」
「他の機関は引き続き網を張り、標的の動向を監視せよ。情報の取り纏めは魂珀狐が行い、必要であれば各所へ伝達するように。
では、解散」
合図が終わるか終わらないかの内に席を立ち、さっさと部屋を出る。
ようやく鬱陶しい会議は終わった。
これよりは、狩りの時間。『左脇にいて、物を破壊することを好む』逢難狐の本領発揮である。
急拵えの本陣には、それなりの人数が集まっていた。
現在、各機関が連携して標的の位置を捕捉しているはずである。
情報収集能力を持たない逢難狐衆では、単独で敵を追う事が出来ない。
普段の任務であれば事前情報を元に標的を追うのだが、今回のように突発的な任務の場合、まずは他機関の報告を待つ必要がある。
特に、今回は天狐衆の事後対応の拙さもあって後手後手に回ったため、各機関とも情報収集に苦労しているようであった。
日はそろそろ山間に姿を隠そうとしており、件の巫女の出奔が昨夜であった事を考えれば、国内で姿を捉えるのは難しいかも知れない。
国全体が観光地である狐耳の国は、国内を移動するだけならそう難しくないように出来ている。
全国に張り巡らされ整備された街道は言うに及ばず、観光客が通らない山道なども視野に入れれば、移動経路は腐る程あるのだ。
もし相手が国外への逃亡を企てたなら、国境を越えての任務遂行も視野に入れねばならないだろう。面倒な事になったものだ。
「筆頭、お疲れ様です…… って、何さ、その格好は?」
する事もなくただ座っていると、橙咲に声を掛けられた。
『そんな格好』呼ばわりされた玄成の出で立ちは、上半身は裸で下半身も腿までしかない短袴である。
化粧術はあくまで自分の肉体を媒介に術を行使するので、鎧甲は言うに及ばず衣服でさえも術の邪魔にしかならない。
普段持ち歩いている符帳も化粧術を使うのであれば役には立たないし、家に帰る間もなくこちらに来たので武器も持っていない。
一応、医療用の鍼と薬は持ち歩いているが、それを使うくらいなら最初から術を使った方が早い。
と言う訳で、半裸に手ぶらというのが最も理に適った格好なのだが、流石に他人の目に奇異に映るのは玄成も自覚していた。
「これが化粧術士の正装だ。皮膚に刻印を刻む都合上、露出が多い方が便利なんでな」
「……はあ、まあ、それなら良いんですが……」
恐らく信じては居ないのだろうが、橙咲もそれ以上は追求してこない。
本来が女性用の術である化粧術の正装はもっとこっ恥ずかしい格好なのだが、正統でない玄成には許されていない。許されていたとしても着る気はないが。
「ひとまず、標的についての基本的な情報を共有しときたいんですが、良いですかね?」
「もったいぶらずに、さっさと言え」
橙咲の話によると、下手人は名を典染(てんぜん)といい、元は外法師の血筋であったのを貴族の養子に入り、そこから巫女機関へと召し抱えられた。
巫女機関に入った後も実家との遣り取りで外法の術を秘密裏に学んでいたらしい。
本来はもう少し長期に渡って式鬼を増やし、それを使って巫女連に討ち入る計画であったのが、式鬼を増やすのを急ぎすぎたため露見したらしい。
ここ最近の討伐で式鬼の数は減ってはいるが、目撃情報や各方面の情報を統合すると十数体の式鬼が彼女に従っており、そちらも脅威になると思われるとの事。
何とも厄介な話である。
「で、そいつの実家は洗ったのか?」
「真っ先に。ですが、案の定もぬけの殻でした。一応養い親も当りましたが、利用されてただけで詳細は何ら知らなかったようです」
「典染の習得した外法に付いての詳細は?」
「そちらも資料の大部分が処分されていたため詳しい事は分かりかねますが、推察するに死んだ人間に許容以上の魔素を注入し続け、無理矢理に妖怪化を促すようで。
技術班の話では、『確かに方法としては手っ取り早いが、自然発生した妖怪や、術士が一から作り上げた式に比べれば様々な面で劣る』との事らしいさ。
そこら辺は、実際に妖怪化してる筆頭の方が詳しいかと」
確かに、人間を無理に妖怪化しても即戦力にはならない。
無理に妖怪化された人間は単に動くだけの死体に過ぎず、知能も低ければ術なども殆ど扱えない。
希に、才能があって生前強い思念を残していた者が妖怪化した際、特異な能力を持つ例もあるがあくまで希有な例に過ぎない。
確かに生前よりは強力なので一般人が相手であれば危険だが、妖怪退治になれている役人や術士の脅威にはならないだろう。
化粧術士が長い修行期間を必要とするのは、本来の人格を残したまま妖怪としての能力を得るのが難しい事に起因する。
都の妖魔異常発生の時期を考えると、相手が式鬼を増やし始めてそんなに時間は経っていない。
十数体の妖魔の内、脅威となり得るのは一部だろう。
それよりも、気になるのは典染に術を教えていたという実家の方である。
対応の早さを鑑みるに、恐らく典染は実家とそれなりの頻度で連絡を取り合っていたのだろう。
と言う事は実家側でも状況はそれなりに把握していたはずで、今後合流を図る可能性が高い。
優れた外法師なら、丸一日あれば何らかの手段を用いて狐耳の国を都から国境まで移動する事も不可能ではないから、合流を果たした前提で対策を考える必要がある。
とは言え、玄成の得手は隠行からの不意打ちによる一撃離脱であり、今回のように相手の位置がつかめていない場合は策など立てられないのだが。
行き当たりばったりは得意だが、好きではない。難しい事を考えずに目に見える敵を倒すのは狐らしくないといつも言われる。
考えても無駄なのは分かっているが、さてどうした物かと思わずには居られない。自分の事ながら面倒な性格である。
無駄に頭を捻っていると、橙咲から下手人を見つけたとの報告が入った。
「場所は?」
「ここから西北西へ二十里程の山中に反応があったらしいさ。他国への逃亡より、国内潜伏を選んだみたいさね」
「と言う事は、恐らくはまた式鬼を増やすつもりだろうな。その付近に村はあるのか?」
「人口百人程度の集落が一つ」
「……不愉快な仕事になりそうだな」
二十里というと、化粧した玄成が全速力で走っても1時間以上かかる。
小さな村落程度であれば、皆殺しするには十分な時間だ。
始末する式鬼が百増えただけ、と考えるのは少々難しそうだった。
夕染(ゆうぜん)は考えていた。
娘の典染を巫女機関へ潜入させ、内外の双方から巫女機関を壊滅させる計画は水泡に帰した。
そもそも今回の計画は短くとも数十年がかりで行うはずであったのを、典染が急いて短期間に式鬼を増やそうとしたのが原因だが、これについては夕染に責任がある。
術の継承に注力するあまり、肝心の狐としての心構えを教える事が出来なかったのは片手落ちもいいところで、まずは策を巡らし機を待つ所から教えるべきであった。
巫女連に居るのは、見た目は狐であっても性根は朝廷に尻尾を振る狗畜生に過ぎないというのに、それを忘れていた自分が腹立たしい。
とは言え、反省だけをしている訳にも行かない。
二千二百年前の『大朝征』の恨みを晴らし、簒奪された産土神を取り戻すには、何としても巫女姫並びに巫女連で神事に関わる者を皆殺しにする必要がある。
名も知らぬ村落で百足らずの手駒を補充した所で、計画を遂行するための戦力としては心許ないため、早急に次の手を考えねばならないのだった。
「母様、全員の式鬼化が完了致しました」
「おお、ご苦労様。早速ですが移動します。疲れているとは思いますが、頑張っておくれ」
「はい、母様」
式鬼化したばかりの妖魔では、効率的な集団戦闘は行えない。
であれば、村落のような開けた場所よりも山中に身を隠した方が、個々人での戦闘が行える分有利である。
今夜は月が明るいため平原を移動するのは危険が伴うが、山中を行くのであればそう心配する事もあるまい。
まずは同じような事を繰り返して手駒を増やし、その上で娘の教育と式鬼達の強化、集団としての練度の向上を行う。
少なくとも十年はかかるであろう。娘に全てを任せられるようになるまでは、自分が何とかせねばならないのだ。
重圧をはね除けるように、一歩を踏み出した。
と、急に月が翳った。
これで移動がしやすくなる、もしや天の助けか―― と考えたが、すぐにその間違いに気付く。
目の前に漆黒が広がっている。
夜目の利く狐の眼を以てしても、只の黒としか認識できない何かが目の前に迫っていた。
見極めるか逃げるかを逡巡する間もなく、あっという間に漆黒の中に飲み込まれる。
どうやら、術で作った黒い霧に包まれたらしく、あれよという間に服や髪がずぶ濡れになった。
霧は一切光が届かぬらしく、術で火をつけても周囲は真っ暗である。その火も、数秒もしない内に霧に濡れて消えてしまった。
霧全体に術者の魔力が充満しているため魔力関知は役に立たず、匂いも洗い流されてしまって無理だろう。六識の内半分までもが封じられた形になる。
まずはこの霧から脱出する事を最優先に考えねばならない。まずは式鬼達を集め、陣形を整えて突破を―― しようとした所で、はたと気付く。
式鬼が二体減っている。
一朝一夕で作り上げた娘の式鬼とは違い、自分が従えているのは少なくとも数十年鍛え上げた妖魔である。
ある程度の知能は有しているし、不慮の事態にも取り乱さない程度の練度はある。なにより、術者が命令を下したのに従わない筈が無い。
それが居ないとなれば、可能性は一つ。この漆黒に紛れて襲撃されたのだ。
事態を甘く見た事を強く後悔する。この霧は単なる目くらましでなく、飲み込んだ者を皆殺しにするための消化器に他ならないのだ。
刹那、思い浮かんだのは娘の事だった。自分の式鬼を屠るような相手に、彼女の式鬼が敵うはずがない。
「典染、こちらへ! 早く!!」
「母様、母さ――」
返答が途絶えた。娘の名を呼びそうになるのを寸前で堪え、その場を飛び退る。
声なき言葉で式鬼達に殿を命じ、そのまま駆け出す。娘は心配だが、ここで自分が殺されれば全滅の恐れがある。それだけは避けねばならない。
何も考えずにひたすら全力で疾走する。が、目が見えない状況ではそれも上手くいかず、いくらも行かない内に段差に足を取られて転倒した。
いけない。こんな所で躓いている暇はない。
自分は生きねばならない。生きて、我等が産土神を奪還し、偽りの巫女共に鉄槌を下し、娘と――
――後頭部を貫かれる感触が、この世で知覚した最期だった。
死体を積み上げるというのは、いつやっても空しい作業である。
結局、村には生き残りは居なかった。
百以上に及ぶ妖魔の死体を一カ所に集める。今更浄化してどうなる訳でもないのだが、捨て置いて変な怨念が溜っても困る。
術士二人については迷ったが、首だけを切り落として胴体は同じ所に積み上げた。
恐らく若い方が典染だと思うのだが、確証がないため首実検をする必要があるのだ。
尾の先に狐火を灯し、それを死体の山に押しつけると、魔素に反応してたちまちの内に燃え広がる。
流石に数百体分の魔素は多かったらしく、近くの家の屋根よりも高い火柱が上がった。
月の陰は、幽世への入り口だという。今夜は月が明るいが、入り口は開いているのだろうか。そもそも、月は二つあるがどちらが入り口なのだろう。
火柱を見ながら愚にも付かない事を考えていたが、すぐに飽きた。
この間と違い、この世に未練を残した魂が世迷い出てくる様子も無い。延焼の心配も無いので、さっさと帰る事にする。
髪を引っ掴んで術士の首を持ち上げると、玄成はその場を立ち去った。
玄成さんがまた朝帰りをした。
今月に入って3回目だ。
しかも今回は事前連絡無し、私が朝ご飯を食べた後に帰ってくると言うぶっちぎりっぷりである。
こっちは玄成さんが遅くなる度、夕ご飯を夜食に食べ易いように用意し直し、戸締まりをして風の音に怯えながら、玄成さんの心配もしながら眠りについているのだ。
だというのに、あちらはと言えば帰って来るなり悪びれもせずに「ただいま。午前中は寝てるから、お前も適当に休んでて良いぞ」などと抜かしやがった。
と言う訳で、怒鳴りつけて風呂に入らせ(汗だくのまんまで布団に入られたらシーツが汚れる)、その間に特製スープを用意した。
流しの隅の生ゴミ入れにあった物を水と一緒に適当にぶち込み、玄成さんが植木鉢で育てている薬草をぶっこ抜いて土ごと投げ入れ、味噌と竈の灰で味付けする。
腹に溜るよう、米と麦も入れといた。モチロン、生で。
「はい、どうぞ」
腹の底から、どうにか爽やっぽい声を絞り出せた。実際、良く分からない達成感のような物はある。
出来た料理は予想以上に破壊力のある代物で、鍋の前に座っているだけでネズミの危機関知能力がニゲロニゲロと叫んでいる。
臆病な自分を怒りの炎で焼き尽くし、全身が震えそうになるのを下腹に力を入れて押さえつける。
およそ真っ当な人間であれば出された瞬間に相手に殴りかかるであろう料理を、玄成さんは「いただきます」と行儀正しく挨拶して食べ始めた。
うわぁ…… なんかボリボリいってるのがここまで聞こえてくる……
玄成さんは出された食べ物を残さない。本人曰く「食えるのに勿体ない」だそうだ。
ここで働くまで、キツネというのは美味いものを好きなだけ食べて好きなだけ残す鼻持ちならない種族だと思っていたのだが、例外もあるらしい。
もっとも、今玄成さんが口に入れているアレが『食える』かどうかは、玄成さんとその他で意見が分かれる所だと思うけど。
「で、今日はなんで遅くなったんです?」
「あー、言い訳考えるの面倒だから、そっちで適当に埋めといてくれ」
かつて無い斬新なアイデアである。思わず畳を叩いて睨み付けてしまった。
流石にアレでごまかせるとは思ってなかったらしく、困った顔をしながら汚物を口に流し込んでいる。
これまで散々「宴席に呼ばれた」だの「食事に誘われた」だのと言われてきたが、酒の臭いもしなければ出された料理を聞いても答えられないのに信じるほどバカじゃない。
かと言って、女遊びや遊郭通いをしている様子も見られない。
今までおかしいと思いつつも我慢してきたが、今回の一件は流石に頭に来ている。
「で、何をしてたんです?」
「…………妖怪退治」
「はぁ?!」
また嘘かと思い、きっと睨み付ける。
玄成さんは食べるのをやめて、訥々と語り始めた。
「この間お前も見たから知っていると思うが、近頃都で妖怪の異常発生があったんだ。その退治の仕事を花吹に紹介したんだが、依頼主の言う事が二転三転してな。
で、話すのも面倒なイザコザがあった後、仲介した俺が依頼主の尻拭いをする事になったと言う訳だ。妖怪の溜まり場が都の外にあったんで、往復に時間がかかって遅くなった」
嘘をついている風ではない。もっとも、キツネの玄成さんが本気で嘘をつけば、ネズミのあたしには多分見破れないんだけど。
しかし、嘘をつくならもう少しマシなのがあると思う。
確かに喧嘩は強いし魔法も使えるが、玄成さんはお医者さんである。あたしも治療して貰った事があるし、時々家に患者さんも来るので、多分嘘ではない。
だとすると、玄成さんは医者なのに妖怪退治をしてたのか? 妖怪退治をする医者がどこにいるってんだ? 魔界都市? 魔界都市ってどこ? ここか。
やっぱ胡散くせー。
「その依頼主と言うのは?」
「言えん」
「なんで?」
「言っても良いが、お前が死ぬ」
はい、脅し来たよ。
ネズミだからちょっと脅かせばブルって黙ると思われてる。ナメられてる。
玄成さんは、そいう差別じみた事はしない人だと思ってたけど、あたしの勘違いだったんだ。
忘れてた。キツネなんざ、所詮は見た目が金ピカなだけのメッキ野郎共だ。黒いのはメッキすらない屑鉄の色だ。
「ふざ――!」
「妖怪退治ってのは本来は役人の仕事だ。何故か分かるか?」
爆発しようとした所に言葉を被せられて、押し黙った。
別に声が大きかった訳でもなければ強い口調で言われた訳でもないのに、不思議な迫力に押されて怒りが萎む。
玄成さんはじっとこちらを見ている。素直に答えるかもう一度怒るかを決めかねて黙っていると、こちらの答えを待たずに続きを話し始めた。
「妖怪退治には魔法技術が数多く必要となる。戦闘用の術を使うなら勿論だが、他にも武器にする為の神鉄や妖気を祓うための霊木の加工。
防具に霊装を用いるならそちらもだし、妖怪の爪や牙は魔素を帯びているから、傷を負った際の治療も通常と同じ訳にはいかん」
「別に魔法使いなんて、そこら辺にいるじゃないです?」
少なくとも、あたしが前居たネコの国はそこら辺に魔法使いが居た。あそこも成金趣味の嫌な国だったけど。
キツネだって魔法を使える奴なんてたくさんいる。むしろ、使えない方がおかしいくらいだ。
玄成さんだって色々な術を使える。それどころか、玄成さんの作った符を使えば、あたしにだって真似みたいな事は出来る。
この世界じゃ魔法なんてありふれていて、だからこそ魔法が使えなくて力も弱いネズミは、どこに行ったって弱いまんまだ。
「その『そこら辺』が難しい所でな。分かりやすい所でいくと、例えば兎は殆どが都市の中にいるから、魔法使いも殆どが都市の中だ。
狗は、教育なんかの基盤を軍部でがっちりと握って、魔法関連の情報が全て軍に集約するようにさせている。
猫はわかりにくいが、企業や様々な研究機関なんかの受け皿を作って、その受け皿に対して直接/間接的に国家が関与する事で魔法技術の取り纏めをしている。
『そこら辺に居る魔法使い』は、程度の差はあれど大抵が国家に帰順しているんだ。本人が意識していようとなかろうとな」
「……」
言ってる事は何となく分かる。そんな事が本当にできるのかは知らないけど。
そして、これから言う事も何となく想像がつく。ウサギ、イヌ、ネコ。どれも魔法が得意とされる種族だけど、まだ語られていない種族があるからだ。
「大体分かったようだな。その通り、狐も国家による魔法の管理を行っている。
巫女機関は、全国から一定以上の魔法の素養がある女性を身分を問わずに集めている。
また、魔法に関わる職業に関しては様々な法で登録を義務付け、無資格の営業を禁止している。建前上は技術水準の維持と事故防止だがな。
例えば俺なんかも、単なる薬師ならお目こぼしが効くが、治療に術を使うとなると『魔法医師』扱いで途端に資格が必要になる。面倒だから取ってないけど。
後はまあ、言わなくても察せられるだろう」
ここまで言われれば、流石のあたしだって仕組みは見えてくる。
妖怪退治には魔法が必要で、その魔法は国が握っている。では、玄成さんに『妖怪退治』の仕事を持って来たのは誰か。言うまでもない。
玄成さんの表情は真剣だし、ネズミを騙すのにこんな回りくどい事をするとも思えない。考えてみれば、ネズミを黙らせるだけなら殴れば良いのだから、騙す必要すらないのだ。
身体の中に残っていた怒りの火が、完全に消えるのを感じる。
結局、あたしが勝手に勘違いして勝手に怒っていただけだ。それでも、無断で朝帰りは許せんけど。
目の前の鍋には、冷めて汚くて嫌な臭いのする物が入っている。これを玄成さんに食わせていたのかと思うと、急に申し訳ない気持ちになった。
「……あの、ご飯作り直すです」
「? 何故?」
まさか、「貴様の口にしているのは、嫌がらせの為に作ったゴミです」と言う訳にもいかない。
どう言ったものか迷って内に、玄成さんは鍋ごとひっ掴んで中身をかき込み始めた。気落ちしている時に見ると、吐き気がする光景だ。
「何を気落ちしてるかは知らんが、まあ気にするな。そう言った情報は今まであえて触れないようにしてきたからな。お前が知らなくても無理はない」
そう言って玄成さんは、食後のお湯を啜り始めた。
慰めのポイントがずれているんだけど、玄成さんにそう言った部分を期待する方が間違っているので、指摘はしない。
せめて、昼ご飯は美味しいものを食べさせてあげたいと思う。
……そのまえに汚物の入っていた鍋を洗わなきゃいけないんだけど。